歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

たつの市・龍子三ツ塚古墳群 2号墳 3世紀後半に築造 国内最古級か

2008年09月13日 | Weblog
 たつの市揖西町と揖保川町にまたがる龍子(りゅうこ)三ツ塚古墳群を発掘調査している大手前大学史学研究所は、2号墳が古墳時代前期(3世紀後半)に築造された円墳で、古墳時代で最古級の首長墓と発表した。同時代の古墳は揖保川流域では四例目。
 龍子三ツ塚古墳群は山の頂上付近の約2000㎡に前方後円墳の1号墳と円墳の2号墳がある。1931年に三角縁神獣鏡や浮彫式獣帯鏡などの副葬品が出土したが、古墳の構造など不明な点も多かった。07年度から大手前大が発掘調査しており、今年度の調査結果を発表した。
 2号墳は直径約17mの円墳で、墳丘の周囲にテラス状の段差を設けた「2段築成」だったと分かった。石垣のような列石(高さ60~70cm)が並んでいた。長さ約3・9m、幅約70cmの竪穴式石室も確認され、木棺を石で覆って埋葬したらしい。石槨の角が丸いなど1号墳より古い様式で、床面はU字型にくぼみ、壁面には自然石が積まれていた。くりぬき式の木棺を安置してから周囲に自然石を積んで埋葬した、古墳時代前期の埋葬方法がうかがえるという。
 2世紀後半~3世紀初めの作とみられる銅鏡の破片3点や約1cmの水色のガラス勾玉(長さ約1cm)1点も石室付近から出土。副葬品や古墳の様式から年代を推測した。鏡片3点をつなげると長さ約4cmの破片となり、過去に2号墳から出土した浮彫式獣帯鏡の欠損部と一致した。
 4世紀前半に造られたとみられる1号墳は全長36mの前方後円墳と確認された。
 近くを流れる揖保川の流域には、2号墳と同じ3世紀後半につくられたとされる国史跡の吉島(よしま)古墳(たつの市新宮町)などもあることから、各地域の古墳に葬られた首長は、比較的小さな地域を治めていたと考えられるという。
 現地説明会は14日午後1時30分から(少雨決行) 問合せは、同研究所(0798・32・5007)へ。
[参考: 読売新聞、毎日新聞、神戸新聞、朝日新聞]
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バーミヤン遺跡 玄奘三蔵記述の「先王伽藍」発掘?

2008年09月13日 | Weblog
 アフガニスタン中部の世界遺産バーミヤン遺跡で13日までに、玄奘三蔵が、著書「大唐西域記」に記述した「先王(先代の王)の建てた伽藍」とみられる仏教寺院跡が出土した。東大仏跡と西大仏跡のほぼ中間で見つかり、近くの石窟の年代などから5-6世紀ごろの伽藍と推定される。
 大唐西域記に記載された建立物のうち、先王伽藍、大きさ約300mとされる涅槃仏、王城の3つが未確認だった。「幻の涅槃仏」発見に向け貴重な成果で、謎が多いバーミヤン遺跡の全容解明に大きく前進したといえそうだ。
 アフガン考古学保護協会のゼマリアライ・タルジ氏(フランスのマルク・ブロック大教授)が率いるチームが発掘した。
 伽藍の規模は推定東西300m、南北200m。タルジ氏は「規模から考えて先王の伽藍に間違いない。今後、土砂を取り除き幻の涅槃仏発見を目指したい」と話している。
 7世紀にバーミヤンを訪れた玄奘三蔵は大唐西域記で、東西大仏建立前から先代の王が建設した伽藍があったと指摘し「王城の東2、3里の伽藍に仏の涅槃像があり、長さは1000余尺」と記述。涅槃仏は、今回出土した伽藍跡の近くに埋まっているとみられる。
[参考:共同通信、前出]
バーミヤンで仏教寺院跡出土 玄奘記述の「先王伽藍」か(共同通信) - goo ニュース
大唐西域記
國大都城據崖跨谷,長六七里,北背高巖,有宿麥,少花果,宜畜牧,多羊馬。氣序寒烈,風俗剛,多衣皮褐,亦其所宜。
文字、風教,貨幣之用,同都貨邏國。語言少異,儀貌大同。淳信之心,特甚鄰國。
上自三寶,下至百神,莫不輸誠,竭心宗敬。商估往來者,天神現徵祥,示祟變,求福。伽藍數十所,僧徒數千人,宗學小乘說出世部。
王城東北山阿有立佛石像,高百四五十尺,金色晃曜,寶飾煥爛。(注:西大仏のこと)
東有伽藍,此國『先王之所』建也。伽藍東有鋀石釋迦佛立像,高百餘尺,分身別鑄,總合成立。(注:東大仏のこと)
城東二三里伽藍中有佛入涅槃臥像,長千餘尺。(略)
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中津市・長者屋敷遺跡 北側に礎石使用の高床式倉庫跡

2008年09月13日 | Weblog
 中津市教委は12日、同市永添の古代の役所「下毛郡衙(しもげぐんが)」の正倉(米蔵)跡とみられる長者屋敷遺跡から、新たに礎石を使った高床式倉庫跡が見つかったと発表した。正倉で礎石建物跡が見つかったのは九州では2例目という。
 95~00年度の調査では、8世紀中旬~10世紀前半の墨書土器、掘っ立て柱の高床式など倉庫11棟の跡や、多量の炭化した米も出土し、大分県内初の郡衙正倉の遺構発見とされた。同時に南方に90m、東西90mの溝が発見された。
 07、08年度に遺跡北側の約5600㎡を調査した結果、縦11・5m、横7・3mの長方形の線上で、高床式倉庫の礎石14個(直径75cm~1・5m)が出土し、掘っ立て柱の高床式倉庫2棟の跡、また北限の溝と柵列が見つかり、正倉の区域が南北120m、東西90mの1.08ヘクタールと判明した。
 市教委によると、正倉の礎石は、九州では「玉名郡衙」(熊本県玉名市)で出土しているが、建物の一部で、全体が見つかったのは今回が初めてという。建物が掘っ立て柱式から礎石式へ質的に高まっていく様子が分かり興味深とする。
 市教委は、20日午前11時から現地説明会を開く。 問合せは市教委文化財係0979・23・8615。
[参考:毎日新聞、西日本新聞]
礎石建て正倉跡発見 長者屋敷遺跡で中津市教委(西日本新聞) - goo ニュース
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鳥取市・松原古墳群 横穴式石室見つかる

2008年09月13日 | Weblog
先に、現地説明会開催(9/14)の予定が発表されていたが、その概要が報道された。

有力豪族を埋葬か
 鳥取市松原の「松原古墳群」(6世紀ごろ)から、同市の湖山池南側の古墳群で最大の横穴式石室が見つかり、県埋蔵文化財センターが12日発表した。同センターは「被葬者は、地域の豪族の中でも有力者だったみられる。石室の構造や古墳の変化を考えるうえで貴重な資料」としている。
 国道9号鳥取西道路の建設に伴い、4月から約4000㎡を調査。石室は直径12mの円墳で見つかり、全長は7・3m、幅は最大1・5m、高さは1・7m。これまでに湖山池南側で見つかっている三つの横穴式石室より大きかった。盗掘されており、副葬品はなかった。
 松原古墳群では1970年代以降、これまでに28基の古墳が見つかっていた。今回はうち8基を調査し、新たに2基が出土。同センターの久保穣二朗所長は「築造時期や構造を分析し、当時の豪族の勢力図などを浮かび上がらせたい」と話している。
[参考:読売新聞、、前出]
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田辺市海蔵寺通り 砂丘広がり弥生時代の集団墓地 

2008年09月13日 | Weblog
 約2000年前の弥生時代中期、田辺市の中心市街地に砂丘が広がり、砂丘の尾根周辺に、集団墓地が作られていたことが、県文化財センターの発掘調査で分かった。昨年から続いている海蔵寺通りの発掘調査で、供え物の壷を伴う墓が3基、壷を伴わない墓穴が4カ所で確認された。その後の開発で失われた部分も多く、広範囲に墓地が広がっていた可能性があるとする。
今年は6月から約1300㎡で発掘調査を開始。8月下旬、死者とともに埋められたとみられる弥生時代中期の取っ手付きの壷(最大径約19cm、高さ約25cm)と高坏(直径24cm、高さ約25cm)の弥生土器が出土した。
 昨年6、7月の調査(約330㎡)では、壷を伴う墓が2基、墓穴とみられる土坑が4カ所確認されている。1カ所からは土器の破片が出ている。この辺りの土質では人骨は残らないという。
 田辺市の中心市街地では、今福町や南新町、下屋敷町、湊神田町などからも供献の壷やその破片などが出土している。このことから、会津川付近から弓形に砂丘の尾根が続いていて、集落ごとに集団墓地が作られていたとみられている。住居地は離れた場所で、秋津町辺りの平野にあったと推測されている。
[参考:紀伊日報]
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