歴歩

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松山市・樽味四反地遺跡 大型袋状鉄斧など出土

2008年09月25日 | Weblog
 松山市教育委員会と市埋蔵文化財センターは25日、同市樽味4丁目の樽味四反地遺跡20次調査で、古墳時代中期以前のものとしては西日本有数の大きさを誇る同時期の袋状鉄斧(てっぷ)や、弥生時代末の竪穴建物跡1棟などが見つかったと発表した。
 同遺跡では弥生時代末―古墳時代前期の権力者のものとみられる大型建物跡3棟が発見され、全国的に注目されている。7月1日に始まった20次調査は大型建物跡の東約90mのエリア約418㎡で、10月31日まで続く予定。
 袋状鉄斧は長さ約18・5cm、最大幅約8cm、重さ約1キロで完全に近い状態。当時、鉄は貴重で、副葬品以外として建物跡などから出土する例は少ない。 
[参考:愛媛新聞社]

「樽味四反地遺跡20次調査」現地説明会について
下記の要領で、発掘調査現地説明会を開催します。事前申し込み等は不要。
[日時]:平成20年9月27日(土)午前10時~(雨天決行)
[場所]:松山市樽味四丁目2番地
松山市教育委員会事務局 文化財課 埋蔵文化財担当
TEL:089-948-6605 FAX:089-931-6248

  2006年3月に3世紀後半(古墳時代初め)の高床式大型建物跡が確認された愛媛県松山市の遺跡。南北10.6m、東西9.6mの総柱建物で館や祭殿などとの見方もある。付近からはこれまでに、100㎡以上の同じ様な大型建物跡2棟が見つかっている。
 昨年度に確認調査をおこなった西側(19次調査)では、弥生時代前期の溝や弥生時代後期後半の竪穴式住居址、弥生時代終末の土坑、古墳時代後期(6世紀)および飛鳥時代(7世紀後半ころ)の竪穴式住居址、古墳時代終末から奈良時代にかけての掘立柱建物跡などがみつかっています。また、平安時代と室町時代の地鎮に関連すると考えられる遺構などもみつかっています。
[参考:財団法人松山市生涯学習振興財団 埋蔵文化財センター]
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伊賀市・上野城趾 筒井定次時代の土塁発見

2008年09月25日 | Weblog
 三重県伊賀市上野丸之内の上野城跡(国史跡)の第16次発掘調査を進めている同市教委は24日、藤堂高虎以前の伊賀藩主・筒井定次が16世紀後半に築いたとみられる土塁を発掘したことを発表した。筒井氏時代の遺構が見つかったのは初めてで、土塁の工法は同時代のものでは全国でも珍しいという。
 筒井時代の土塁は、昭和初期に天守閣が再建された伊賀上野城の東側で、上野城跡の南西部にある高虎時代の石垣から、2・7m~1・5m内側で発掘された。大きさは幅7・3m、高さ2・4mで、三段に積んだ「腰巻(こしまき)石垣」の上に、粘土と砂を交互に叩き固めた「版築」と呼ばれる工法で壁状に土を積み上げ、外壁にあたる部分には泥炭と呼ばれる装飾を厚さ60cmにわたって重ねた跡があった。その表面には、漆喰で「化粧」が施されたと推察されるという。
 腰巻石垣は南北に築かれ、長さ7・3m、幅1・6m、高さ90cm。藤堂藩時代の17世紀前半に再構築された石垣の1・5~2・7m東側で見つかり、壊されず、土で埋められていた。使用されている石は藤堂時代のものと比べて小さく、技術も未熟さがうかがえる。しかし、南端の石は角に置くことを意識したことが分かり、すき間に小石を詰めて強度を保つ工夫もみられる。
 筒井氏は天正13(1585)年に大和郡山(奈良県)から伊賀に移封した武将。この時代の築城は、土塁を積み上げた上に塀を立てる工法が一般的とされ、同市教委によると、今回のように石垣から丁寧に塀部分を工作したのは全国でも珍しいという。
 上野城跡の発掘調査は平成12年度から着手。城代家老屋敷跡の調査などに取り組んでおり、昨年度から屋敷北西部にある今回の石垣を発掘調査している。
現地説明会は9月28日、午前10~11時に現地で実施される。問合せは市教委生涯学習課(0595・22・9681)。
[参考:産経新聞、毎日新聞、朝日新聞]

上野城
 平山城跡で、別名白鳳城、伊賀上野城。武庫と永倉が現存する。
 天正13年(1585年)、大和郡山から移ってきて伊賀を拝領した筒井定次により、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺の跡に築城された。天守は三層であったといわれるが、史料は残っていない。
 慶長13年(1608年)、徳川家康の命により改易されられた。その後伊予・宇和島から藤堂高虎の持ち城(本拠地は伊勢国・津城)となり、城の大改修が行われた。
 改修は豊臣討伐に備えて濠を深く、石垣も高くした(約30m)。南には二ノ丸も構築し、天守の位置は西側に移動し、層塔型の五層天守を建設したが、竣工をひかえた慶長17年(1612年)に嵐のため天守は倒壊。その後再建されることはなかった。
 文政8年(1825)藤堂高猷が最後の城主となり、1871年に廃城となる。

筒井定次(1562~1615)
 慈明寺順国の嫡男として生まれる。筒井順慶に子が無かったため養嗣子となる。
 筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われている。
 織田信長の死後(1582)は羽柴秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584)、順慶の死により家督を相続。そして同年の小牧・長久手の戦いをはじめ、四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵など秀吉が行なった戦いに従った。しかしながら、減封され伊賀上野に移封された。このことは秀吉から信用されなかったためにとられた左遷ではないかと考えられるようになった。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された。しかし慶長13年(1608年)、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡した。
 改易の理由については、領国における悪政、酒色に耽溺した、キリシタンであったあるいは便宜を加えたなど、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣氏恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたために危険視した幕府による陰謀ではないかとされている。
 定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなるが、慶長20年(1615年)大坂の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、自害を命じられた。定次の子・筒井順定も自害した。
 その後、順慶の養子になっていた定慶が跡を継ぎ、大和郡山1万石を与えられたが、大坂夏の陣で城を攻められ切腹したため、大名としての筒井氏は滅亡した。
 定次流以外の他の筒井氏一族は東大寺住職や奉行や旗本などとして存続した。
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高知県いの町・天神溝田遺跡 律令制から荘園制への変換がたどれる遺跡

2008年09月25日 | Weblog
 高知県埋蔵文化財センターは24日、いの町天神の天神溝田遺跡で、県内では例が少ない古代末から中世(8世紀末~12世紀)にかけての遺構や遺物が連続して出土したと発表した。
 8世紀後半~9世紀の律令制から、12~13世紀になると開墾農地の私有を認める荘園制への土地の変遷をたどれる、県内では数少ない貴重な資料」としている。
 遺跡周辺は、律令期は奈良・東大寺が管理して「大野郷」と呼ばれ、土地の区画は北から西へ16度振った区割りがされていた。しかし、荘園制が始まり、「吾川庄」と呼ばれるようなる12世紀には、さらに西側に11度傾いた区割りへと変化し、大幅な再区画整備がなされていたことがわかった。
 約3000点の出土品からは、9世紀後半から10世紀前半に作られた京都産の内側を黒く着色した黒色土器や陶器に上薬を塗った緑釉(りょくゆう)皿が見つかり、東大寺とのつながりがうかがえるものもあった。
周辺には弥生時代の遺跡も多く、今後も歴史的解明につながる新たな発見が期待される。
 現地説明会は、27日午前10時30分から。

天神溝田遺跡     
 天神溝田遺跡(高知県吾川郡いの町天神地区)は、仁淀川に合流する宇治川河口付近に位置する。昭和41年に土取り工事中に弥生時代の中広銅戈1本・中細銅剣1本(いの町の有形文化財)が発見された。
 今回は平成20年7月15日より調査を開始した。バーガ森トンネル北側登り口の沖田橋付近の調査区は音竹城跡の山裾部分であり、南北朝期の遺構・遺物が試掘調査からも確認され、土師器、須恵器、黒色土器等が出土した。また、1点だけ弥生時代中期頃のものと思われる石包丁が山からの流れ込みと考えられる堆積層から出土しており、現調査区の位置から音竹城跡の北側斜面部に弥生時代に関する遺構の存在が考えられる。周辺には、「バーガ森北斜面遺跡」があり、弥生時代中期の高地性集落跡の広がりが考えられる。
 8月28日にバーガ森トンネル北側登り口の沖田橋付近のⅠ区の調査が終了した。
 I区は古代(奈良時代~平安時代)が中心となっており、検出された主な遺構はピット316基、溝3条、土坑15基(内、炉跡2基)。遺物では、土師器、須恵器、緑釉陶器、黒色土器、鉄滓等が出土した。中でも、8世紀末~9世紀初頭にかけての須恵器杯蓋が完形で確認された。これまで、いの町の古代の遺構・遺物の出土例は少なく,古代律令期のいの町の「郡郷」の配置~荘園制の広がり(高知県では12世紀末頃の鎌倉時代からが始まり)の様相を知る上で、貴重な資料を得ることが出来た。
 現在は,I区から西側に位置するII区の遺構検出を行っている。検出された主な遺構にはピット、土坑、畝状遺構等がある。
 東側では,土師器・東播系須恵器(片口鉢)、常滑焼、瓦質土器(鍋・すり鉢)などが出土している。音竹城が機能していた頃の広がりの様相を知る手掛かりとなりそう。
[参考:読売新聞、高知県文化財団埋蔵文化財センターHP]
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益田市・堂ノ上遺跡 焼失建物跡に弥生土器 鎮火にまつわる祭祀か

2008年09月25日 | Weblog
 島根県埋蔵文化財調査センターは24日、益田市久城町の堂ノ上(どうのうえ)遺跡で、弥生時代後期(約1900年前)の焼失した竪穴住居跡に、鎮火後に置かれたと見られる弥生土器などが見つかったことを発表した。
 竪穴住居跡は2か所見つかり、いずれも円形で敷地内の土が焼けこげており、焼失したものとみられる。一つは直径約7.2~7.8m、もう一つは直径約6.6~6.9m。大きい方の焼失住居跡の中央の穴から、直径約30cm、高さ約60cmの甕形土器4個分の破片が出土。うち一つは完全な形に近かった。
 土器は焼けた土のすぐ上にあり、住居の焼失後に意図的に置かれたものと見られる。こうした形で土器が出土するのは県内では初。「鎮火にまつわる祭祀を行ったのでは。当時の生活を知る手がかりになる」と宮本正保同センター企画員。
 現地説明会は27日午前10時から。同町の旧益田工業高前庭に集合。(汚れてもよい履物を用意、小雨決行)。問合せは同センター現地事務所(0856・31・1453)へ。

 堂ノ上遺跡は日本海にほど近い益田川右岸に位置し、益田平野を望む標高30m前後の台地上にある。昨年度は、弥生時代後期(約1,900年前)の竪穴住居跡1、加工段5などを確認した。
 今年度は、焼失住居跡(何らかの原因で焼け落ちた住居跡)2棟のほか、掘立柱建物跡2棟、加工段2を発見した。焼失住居跡はいずれも弥生時代後期(約1,900年前)の竪穴住居跡で、当該期としては大形のものである。
 同遺跡は、弥生時代後期の集落構造を考える上での好例である。住居跡の規模が大きく、隣接する専光寺脇墳墓群で弥生時代の首長墓が確認されたことも考えあわせると、堂ノ上遺跡はこの地域の中核的な集落であった可能性が高い。
[参考:読売新聞、島根県HP→行事・催し一覧]
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