歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

世界遺産推薦候補 5件追加  文化庁

2008年09月26日 | Weblog
 文化庁は26日、新たな世界文化遺産候補として、地方自治体から公募した32件のうち「金と銀の島、佐渡」(新潟県)など5件を選んだ。これにより日本の遺産候補は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の暫定リストに既に掲載されている「平泉の文化遺産」(岩手県)など8件を含め計13件となる。文化庁はこれで自治体公募を打ち切る。
 選ばれた5件は次の通り。
【北海道・北東北の縄文遺跡群】(北海道、青森、岩手、秋田)
 三内丸山遺跡(青森)、大湯環状列石(秋田)
【金と銀の島、佐渡】(新潟)
 西三川砂金山、相川金銀山など16-20世紀の鉱山跡
【百舌鳥・古市古墳群】(大阪)
 大山古墳(伝仁徳天皇陵)など4-6世紀に造られた87の古墳で構成する。
【九州・山口の近代化産業遺産群】(山口、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島)
 非西洋地域で初の近代工業化の過程を示す19世紀中ごろから20世紀初めまでの遺産。三池炭鉱旧万田坑施設(熊本)、旧集成館機械工場(鹿児島)など
【宗像・沖ノ島と関連遺産群】(福岡)
 沖ノ島を中心に、日本固有の神道の崇拝形態の変遷をうかがわせる祭祀遺跡。沖ノ島、宗像神社などで構成
[参考:共同通信、朝日新聞、時事通信]

沖ノ島など5件追加=世界文化遺産候補-文化庁(時事通信) - goo ニュース
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対馬市・厳原八幡宮 江戸時代前半の新「太宰府天満宮縁起」

2008年09月26日 | Weblog
 「天神さま」として知られる菅原道真(845‐903)の九州にまつわる逸話が数多く描かれた江戸時代の珍しい絵巻が、長崎県対馬市厳原町の八幡宮神社に保管されていることが分かった。道真関連の絵巻は「北野天神縁起絵巻」が有名だが、対馬の絵巻は道真の九州到着、梅ケ枝餅の起こりなど九州での道真の姿を中心にした「太宰府天満宮縁起」ともいえる内容。こうした絵巻の存在が確認されたのは初めてで、研究者たちは「天神縁起研究に一石を投じる貴重な資料」と強い関心を寄せている。
 この絵巻は23日から福岡県太宰府市の九州国立博物館で始まる特別展「国宝 天神さま」で展示される。
 保管されていた絵巻は、上巻(縦28cm、長さ15.5m)、下巻(縦28cm、長さ19.1m)の2巻。特別展準備中に情報が寄せられ、九州国博が調査した。
 全25段からなり、内容は中世以来の「天神縁起」に基づいている。しかし、北野天満宮の霊験譚(たん)や対馬に関する記述などは見られず、道真が博多に上陸した時、住民たちが綱で敷物を作り出迎えたとする「綱敷(つなしき)天神」、清流に顔を映したことにちなむ「水鏡天神」、梅ケ枝餅の起源ともいえる「麹(こうじ)飯のもてなし」などの場面が、的確な構図や品のよい色づかいで描かれている。制作年代などを記した奥書はなく、誰がどこで何のために作成したのか、なぜ対馬の八幡宮に保管されていたのかなどは分かっていない。九州国博は、構図や様式、彩色などから「江戸時代前半(17世紀末‐18世紀前半)のもので、狩野派系絵師による近世絵巻の優れた一例」(金井裕子研究員)としている。
 「天神縁起絵巻」は、中世(鎌倉‐室町時代)に描かれた約30巻のほか、江戸時代のものとしては現在、数巻が知られているにすぎず、近世の天神縁起絵巻自体が珍しい。また、この絵巻は他の天神縁起絵巻には見られない場面や図柄が多いこと、さらに九州という地域色が濃厚な点も特色で、九州国博の松川博一研究員は「九州に特化した現存唯一の天神縁起絵巻として第一級の資料」と話している。[参考:西日本新聞9/14]
備考
厳原八幡宮神社(いづはらはちまんぐうじんじゃ)
 社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行幸し、山頂に磐境を設け神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀ったといい、白鳳6年、天武天皇の命により清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝える。
 上県郡のものを上津八幡宮(現 海神神社)、下県郡の当社を下津八幡宮と並び称した。
 戦国時代ごろから府中八幡宮と称されるようになった。
 明治4年(1871年)、和多都美神社に改称し、また対馬国一宮であるとしたが、明治23年(1890年)に元の八幡宮に戻して地名から「厳原八幡宮神社」とした。

 厳原八幡宮神社宝物殿には、「高蒔絵三十六歌仙額」(対馬市指定文化財)が奉納されている。
 対馬藩2代藩主、宗義成(1604~1657)が正保2年(1645)に奉納したという。
 制作者は、「柴垣蔦蒔絵硯箱(しばがきつたまきえすずりばこ)」(重文)と同じ幕府お抱え蒔絵師古満休意(こまきゅうい、?-1663))との説がある。
 今回見つかった絵巻は、これより約50~70年後位のもの。

 大宰府から10kmしか離れていないところに、対馬藩領田代(飛び領、現在の鳥栖市東部、高尾、基山)1万3千石があった。何か関係があるかも。

写真は「梅ヶ枝餅」(かさの家)
 大宰府天満宮の門前で、この「梅ヶ枝餅」を販売している店は、かさの家、寺田屋、きくち、三宅商店、やす武、中村屋などあるそうですが、起源を遡ると平安時代になるそうです。ですから、本家はとっくに無くなっていて、どの店でも扱える物なのですね。餅に入れる梅の刻印を、それぞれの店ごとに変えています。
さて、かさの家さんの「梅ヶ枝餅」由来より、
 菅原の道真の太宰府配流にあたり、太政官は「食・馬を給することなかれ」の命令を発したため、役人たちは、道真に食物を与えることはおろか、口をきくことも禁じたという。道真は罪人同様の生活を強いられ、謫居の太宰府南館は老巧化して雨漏りもひどく、床は朽ち緑も落ちている廃屋状態。食事にも事欠くという悲惨な暮らしぶりを見かねた近くの老婆(浄妙尼)が、お好きだった餅を梅の枝にさして差し上げた。道真の死後、この老婆が道真臨終の地に浄妙尼寺を建立(榎寺、明治の廃仏棄釈後は榎社)し道真の菩提を弔ったという。天神様人気の高まりで、道真の墓所のある太宰府天満宮の参道には門前町が形成され、さいふ参りの土産としてこの伝説を基にした梅ヶ枝餅が名物になった。生地はもち米とうるちで中に小豆あんを入れて焼き上げたもの。
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明日香村・檜前遺跡群 7世紀後半~8世紀前半の大規模な建物群跡が見つかる

2008年09月26日 | Weblog
 村教委は25日、飛鳥時代(7世紀)の渡来系氏族、東漢氏(やまとのあやうじ)の拠点とされる檜前(ひのくま)遺跡群(奈良県明日香村)で、7世紀後半~8世紀前半の大規模な建物群跡が見つかったことを発表した。
 東漢氏の氏寺される檜隈(ひのくま)寺跡に近く、同氏の居宅跡の可能性が高いという。東漢氏は、当時権力をふるった蘇我氏と密接な関係があったとされるが、日本書紀などでの記載は乏しく、今回の発見は一族の実態を知る上で貴重な資料となりそうだ。
 建物跡は、檜隈寺跡の南約200mの見晴らしのよい尾根上に、5棟がほぼ1列に並んだ状態で見つかった。最大の建物は南北3・6m、東西10・5mの床張り構造で、すぐ南側には北側に庇の付いた建物跡(南北3・6m以上、東西5・4m)、中央部で間仕切り用の柱のある建物跡(東西7・5m、南北3m)などが見つかった。
東漢氏は、大陸の最先端技術を日本にもたらし、外交や軍事面で権力を築いたが、大化の改新(645年)による蘇我氏滅亡とともに衰退。677年には天武天皇に「七つの大罪を犯した」と指弾されたが、存続を許されて再び力をつけた。今回の建物群跡は、東漢氏の再興期に建てられた可能性が高く、一族の復興のシンボルとなる寺の造営や維持管理に携わった人が住んだのではないかとみている。約100年の間に3時期に分けられ、数回建て替えられたとみられる。東漢氏が飛鳥の都近くを拠点に暮らしていたことを裏付けた。
 現地見学会が27日午前10時~午後3時から開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞、毎日新聞、前出]

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奥州市 長者ヶ原廃寺に北門跡確認

2008年09月26日 | Weblog
 世界遺産登録を目指す「平泉の文化遺産」の構成資産の一つ、「長者ヶ原廃寺跡」(奥州市衣川区)の第11次発掘調査が終わり、24日、報道関係者らを対象に現地説明会が行われた。
 今回の調査で、未確認となっていた北門跡が確認できた。
 同廃寺跡は、奥州藤原氏が平泉一帯を統治する100年前に建てられたとされる寺院の跡。同市世界遺産登録推進室によると、1972年の第2次調査で見つかった土塁外側の堀跡が約4・7mにわたって途切れていることが確認された。さらに、その近くにある敷地区画用の築地塀跡もほぼ真ん中あたりが途切れていたことがわかり、この途切れた部分を人々が往来していたと推測される。
 また、堀の途切れた部分には、柱を立てたとみられる大きな穴の跡が2か所見つかり、北門の柱を据えたものと思われる。かなりの格式の寺だったことが推測されるという。
 同推進室は「北門跡の発見により、格式の高い寺だったことがわかった。世界遺産登録に向けての弾みになることを期待している」と話している。
 一般向けの説明会は28日に行われる。

長者ヶ原廃寺跡第11次発掘調査の現地説明会を下記の要領で開催します。
期 日: 平成20年9月28日(日) 13時30分より
会 場: 史跡長者ヶ原廃寺跡(奥州市衣川区田中西)
      ※国道4号から長者ヶ原廃寺跡への案内看板が出ています。
内 容: 北門跡の調査、東辺築地跡の検出

長者ケ原廃寺跡
 平安時代中期、AD1000年頃に建てられた寺院の跡で、1辺100mの築地塀で囲まれている。
 中には3棟の礎石建物、すなわち本堂(5間×5間)、西建物(3間×3間)、南中央に南門(3間×2間)があったとみられている。
 本堂(金堂)跡と南門跡の中軸線は南北方向であり、さらに南に延長すると中尊寺が鎮座する関山(かんざん)に到達する。
この寺院を建立したのは奥州藤原氏の祖先である安倍氏ではないかと考えられている。
 中尊寺も嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁が関山弘台寿院として開山したといわれているが、確かな史料や発掘調査の結果はみられていない。
[参考:読売新聞、奥州市商工観光部商業観光課HP/おうしゅう旅浪漫]
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