歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

富岡市・下高田上原遺跡 奈良時代の大溝跡と住宅跡が見つかる 

2008年09月19日 | Weblog
 富岡市教育委員会は、同市妙義町下高田の下高田上原遺跡から、奈良時代のものとみられる総延長約1.2kmの大溝跡と、同時代を中心にした約40軒の住宅跡が見つかったと発表した。
 県営畑地帯整備に伴う発掘調査で、同遺跡は約7000㎡を調査した。大溝跡は幅4~5m、深さ1・5~1・8mで、富岡と安中の両市境に沿っており、当時の行政区画を示す可能性があるとみられる。住居跡は30軒が大溝跡とほぼ同時期のものとみられ、関連について調査している。
 説明会は20日午前9時~午後3時。(小雨決行)問合せは同市教委文化財保護課(0274・62・1511)へ。
 同じ発掘調査で古代の道路状遺構などが見つかった同遺跡に隣接する安中市の人見枝谷津遺跡と人見東向原遺跡でも、同日午前10時と午後1時半、同市教委の現地説明会がある。
[参考:毎日新聞、前出]
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宝塚市・長尾山古墳 摂津地域最古の埴輪列が出土  

2008年09月19日 | Weblog
 宝塚市山手台東にあり、猪名川流域最古となる前方後円墳の長尾山古墳(4世紀初頭)で、県南東部から大阪府北部にかけた摂津地域で最古となる埴輪列が出土したことが分かり、宝塚市教委と大阪大学考古学研究室が18日、発表した。
 見つかったのは、朝顔形埴輪計8基で、1基の直径が約30~35cm、高さは約60cm。このうち5基は前方部と後円部の接続部分から約1m間隔で列になって発見。形状などから、摂津地域で最古の埴輪列という。
 また古墳は全長39mで、構造が前方部2段、後円部3段であることも判明。後円部には埋葬後に土を埋め戻した跡があり、地下に埋葬施設が残っている可能性もある。
 阪大大学院文学研究科の福永伸哉教授は「階段状の構造は、豪族が大和政権の主流派の立場にいたことを示している。猪名川流域の古墳時代史を解明するうえで貴重な資料だ」としている。当時の大和政権初期の古墳と共通の特徴が多く見つかり、「猪名川流域を治めた豪族と政権との密接な関係の証拠」としている。
 現地説明会は23日午前10時半~午後0時半(小雨決行)。問い合わせは、宝塚市・阪大学長尾山古墳調査団((電)0797・87・3576)。
[参考:産経新聞]

備考: 昨年夏期に第一次調査が行われ、その説明会資料が大阪大学考古学研究室のHPで公開されています。
 第一次調査では、全長38mの前方後円墳で、2段以上の築成、4世紀初めの築造であることが発表されました。
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福知山市・戸田遺跡 松尾大社の荘園「富田」裏付け

2008年09月19日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは17日、福知山市戸田の戸田遺跡で平安末期から鎌倉初期にかけての村落跡が見つかり、中世の文書に出てくる戸田地区の存在を初めて確認したことを発表した。
 発掘は由良川堤防築造に伴い集団移転が進む福知山市戸田集落で、これまでも土師器や須恵器が出土し、遺跡があることが分かっていたため、堤防の土盛りがされる前にと、今年4月から計2300㎡にわたり発掘調査が行われてきた。
 東側で、12世紀後半から13世紀の掘立柱建物の柱跡(東西5・4m、南北3m、柱直径約60cm)など3棟の建物跡のほか、畑、池の跡とみられる円形の石組み(直径2・5m、高さ55cm)が見つかった。すぐ近くには浦島伝説にまつわる水神神社(浦島神社)の池「お沼(ぬう)」があり、関連が気にかかるところだが、いまのところ関連は不明だという。
 西側では、集落を南北に区画する溝(幅1-3m、長さ22m、深さ約30cm)や耕作跡のほか、鍋や中国製の青磁などが見つかった。
 一帯は、鎌倉~室町時代の松尾大社(京都市西京区)の社領で、13世紀の松尾大社文書にも荘園として「富田」「とた」の記載があり、集落の中心部は調査地の南東に広がっていると見られる。古文書によると、戸田は当時雀部庄(ささべのしょう)に属していた。
 当時日常的に使われていた黒い瓦器の椀、土師器の皿などが出土し、中世の12世紀後半に集落が誕生したことが分かった。
 出土品には初期の伊万里焼や中国製青磁や青白磁なども数多くあり、鎌倉以降江戸時代にかけて日本海と由良川の水運などで繁栄した豊かな集落と考えられるとしている。
 現地説明会は23日午前10時半から。現地事務所携帯電話090(9718)3588。
[参考:両丹日日新聞、京都新聞、 読売新聞]

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長岡京跡、伊賀寺遺跡 現地説明会開催予定

2008年09月19日 | Weblog
長岡京・伊賀寺遺跡 縄文期に多人数火葬 一つの墓にまとめる
20日に現地説明会を計画している伊賀寺遺跡で新しい発掘ニュースです。
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは18日、長岡京市下海印寺の伊賀寺(いがじ)遺跡で縄文後期(約3500年前)の火葬墓と見られる遺構が見つかったと発表した。
縄文時代の火葬の遺物は全国で約80例が確認されているが、府内初。多数がまとめて葬られており、多人数が火葬にされ一つの墓に葬られるのは全国的に珍しい。
 遺構は京都第二外環状線の建設計画に関連する調査で2基確認された。1基は直径1m20の楕円形、他の1基は縦2・85m、横4・05mの長方形。穴の深さは0・4-0・5m。多数の人骨と焼土が見つかり、近くに火葬跡とみられる炭や焼土があった。楕円形の墓には副葬品とみられる注口(ちゅうこう)土器がほぼ完形で残っていた。
 埋葬した骨を掘り出して火葬にする再葬は縄文時代にもあるが、遺体を火葬したとみられる。楕円形の墓には少なくとも9人が葬られていた。一体は10代後半、別の一体は25-40歳代。長方形の墓にも複数が葬られ、一体は成人だった。
周辺には同時期の竪穴式住居跡2棟が見つかり、集落があったとみられる。
[参考:京都新聞、読売新聞]


長岡京跡右京(第927・941・943・947次)および伊賀寺遺跡
 長岡京市内で調査を実施している長岡京跡他の発掘調査について現地説明会予定。
 調査地は、近接した位置にあり、縄文時代中・後期の竪穴式住居跡、土坑、弥生時代の竪穴式住居跡、土坑、古墳時代の竪穴式住居跡、長岡京期の溝、ピットを確認した。
日 時 平成20年9月20日(土)午後2時から
場 所 京都府長岡京市下海印寺下内田発掘調査地
連絡先 現地事務所 075-953-1544 当センター075-933-3877(代表)
[参考:財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センターHP]

 調査地は長岡京の南西部にあたる。過去の発掘調査の状況は下記のようなもの。
 平成18年度の調査では、古墳時代後期の堅穴式住居跡や掘立柱建物跡、古墳時代の川などを検出。鉄滓が出土。
 平成19年度の調査では、古墳時代の遺物を含む川跡、弥生時代後期の遺物を含む川跡などを検出。6世紀頃に大きな洪水か。遺物としては、弥生時代後期の土器が完全な状態でたくさん出土。古墳時代や弥生時代の遺構面の上には平安時代末とみられる広範囲な整地層が見られた。
[参考:財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター現地説明会資料]
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