歴歩

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桜井市・大福遺跡 弥生時代の木製よろいが出土

2009年03月05日 | Weblog
2009.3.5
 大福遺跡では、さらに溝跡から新たな出土がみられた。
①多量の炭化米や、木製のはしごの一部が出土した。米を保管していた高床式倉庫があったとみられ、火事で焼けたと考えられる。
 炭化米は脱穀をしておらず穂つきの籾の状態。脱穀に使った竪杵、農耕に用いた鍬、鋤、稲を刈り取った木包丁などの農具や、容器などの生活用品も大量に確認された。
②青銅の塊や炉への送風管など青銅器の鋳造関連遺物も見つかった。居住地域や工房地域があったとみられる。
 溝は、首長の居館や祭祀の場があった集落の中心部分を囲っていたのだろうとしている。また、集落の中でも人口密度の高い地域とみている。
[参考:読売新聞、毎日新聞]

<関連記事・2008年04月29日>
奈良県桜井市・大福遺跡 銅鐸リサイクル工房跡
 4月29日桜井市教委は、纒向遺跡の南2kmにある大福遺跡で弥生時代末から古墳時代初め(2世紀後半~3世紀初め)の土坑から、銅鐸片1点、銅鐸とは異なる鋳型外枠1点、送風管の一部(長さ19cm)などが見つかったことを発表した。
 銅鐸片は、土坑が造られた時期よりも数十年古い弥生時代後期の全長1m前後の銅鐸の一部とみられる。銅鐸を破壊し、高温で溶かして鋳型に流し込み、鏃など別の製品にリサイクルしたと推定している。
 銅鐸は紀元前3世紀ごろ出現し、3世紀ごろに忽然と姿を消した。
 昨年12月、東に約4km離れた脇本遺跡で銅鐸の破片や、銅鐸と別の鋳型などが出土。全国でも確認例がない同様の工房跡とみられていた。今回で2例目の発見は、この時代に弥生の神々を祭った銅鐸を壊すという、大きな思想の転換があったのではないかとの見方ができる。
 銅鐸の破片が見つかった大福遺跡では、さらに銅鐸よりさらに200年以上さかのぼる弥生時代中期(紀元前1世紀後半)の方形周溝墓が6基以上見つかった。被葬者に供えた土器も多数出土し、この地域一帯が集団墓地だったことが分かった。約200m西には直径約400mの大規模な環濠集落があり、環濠に囲まれた住居ゾーンと環濠外の墓地ゾーンが明確に別れていたことが判明し、当時の集落構造を知る貴重な資料。
 弥生時代前期末(紀元前2世紀)から後期にかけて約400年間にわたって営まれた、奈良盆地内でも有数の集落とみられている。
 一方、銅鐸片との関係について市教委は「大福遺跡は銅鐸を使った祭祀を行った伝統的集落だったが、それでも時代の変化とともに銅鐸を破壊した。昭和60年に見つかった銅鐸が破壊されず丁寧に埋められたのは、長い間集落内で祭祀用に大切に扱われたからではないか《としている。
[参考:朝日新聞、産経新聞、読売新聞、毎日新聞、共同通信]

2009.3.4掲載分
 市教育委員会が4日、大福遺跡の溝跡から弥生時代後期後半(2世紀後半)の木製よろい「無飾刳抜式木甲」の一部が見つかったと発表した。
 文様や彩色がない質素で実用的な造り。これまで国内で弥生時代の木製よろいは約15例、木甲の出土は約30例確認されているが、残存状態は最良といい、当時の武具の様子を知る貴重な資料。
 よろいはトチノキ製で、前側の左右2枚、背中側の1枚を革紐などで結んで装着する構造。右前胴の大半(縦27cm、横21cm、厚さ4-7mm)、左前は脇下の一部(縦14cm、横10cm)、背中側は左半分分(縦36.5cm、横19cm)が見つかった。
 出土した部分は全体の約6割に当たり、本来は縦36・5cm、横約40cmだったとみられる。
 全面に多数の小穴があり、水平方向にひもを通して補強したか、色の付いた糸で飾っていたようだが表面に模様がなく、顔料を塗布した痕跡もない素朴なつくり。実際の戦闘で付いた傷はなかった。
 「魏志倭人伝」では当時の日本の状況を「倭国乱」と記している。しかし、実際には防衛機能を持つ高地性集落などが衰退。市教委は「戦乱は終息に向かうが政治的な緊張は続いたようで、よろいは戦への備えだったかもしれない」としている。
[参考:時事通信、共同通信]

最近の発掘・出土状況
 大福遺跡は大福小学校から出土した銅鐸によって弥生時代の遺跡として著名であるが、古墳時代前期(4世紀)や藤原京(8世紀)の時代の遺構・遺物なども大変多い遺跡である。ここ数年は、弥生時代後期末から古墳時代にかけての出土が多い。
 2007.3月、川跡から古墳時代前期(4世紀前半)の表面に直弧文と呼ばれる文様が刻んである幅5cm程度の板状の木製品が出土した。(7月に」刀のさや片であることがわかった。)
 2008.4月、弥生時代後期末-古墳時代初頭(2世紀後半-3世紀初め)の銅鐸の破片や別の青銅器をつくる土製鋳型の一部などが見つかった。弥生時代の祭祀で使われ、役目を終えた銅鐸を壊して再利用したらしい。

弥生時代のよろい出土=6割残存、戦備用か儀式用-奈良・大福遺跡(時事通信) - goo ニュース
大福遺跡から弥生の木製よろい 質素だが、残存状態は最良(共同通信) - goo ニュース
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紫香楽宮(宮町遺跡) 朝堂北に建物跡・天皇の役所か

2009年03月05日 | Weblog
 甲賀市教委は4日、同市信楽町の紫香楽宮跡(宮町遺跡)の朝堂跡の北側から建物2棟や塀の遺構が見つかったと発表した。
 天皇が住んだ内裏があったと考えられているところから、内裏関連の天皇のための役所か、中央省庁の役所だったのではとみている。建物跡は同じ東西方向に7・5mの間隔並んで柱跡の一部が見つかった。南側が東西15m、南北6mの大きさ、北側は東西12m以上、南北6mと推定される。2棟は東の辺をそろえるなどし、セットで配置され同じ規模であるが、柱が太いことなどから南側の建物が上位施設とみている。
 塀は2棟の2・5m東に南北に延びる35m分を確認。柱間は3mの等間隔だが、2カ所で間隔が4・5mと広がり、建物方向への出入り口とみられる。
 南側の建物は南北が3間あり、真ん中に扉があったと想定。建物に近接して人の出入りを制約する塀があるのは考えにくく、建物と塀は同時に存在した可能性は低いとみる。同じ配置計画で建設されながら、途中で建物が造り替えられた可能性があるという。
 紫香楽宮は当初の聖武天皇の「離宮」から、天平17年(745)に本格的な都になる過程で、役所の再編を含む大規模な計画変更があったことがうかがえるとする。
 8日午前10時と正午に現地説明会が開かれる。
[参考:京都新聞、中日新聞]
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