歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

トルコ・カマン・カレホユック遺跡 世界最古の鉄器を発見

2009年03月26日 | Weblog
 中近東文化センター(東京都三鷹市)が調査しているトルコにあるカマン・カレホユック遺跡で、紀元前2100~同1950年の地層から小刀の一部とみられる鉄器が発見され、岩手県立博物館の分析の結果「世界最古の鋼」であることが26日、分かった。
 鉄器は、中近東の歴史的文化を研究する中近東文化センター(東京都三鷹市)の調査隊が2000年にトルコ・アナトリア半島の同遺跡で発見した。折れた状態で、合わせると長さは5cm程度。錆がひどかったが、切断して断面を調べたところ、小刀の一部とみられることが分かった。
 同センターが1994年に同遺跡で発見し、これまで最古とみられていた鋼(紀元前20-18世紀)を約200年さかのぼることになる。同じ地層から鉄滓(直径約2cm)1個や鉄分を含む石も2個見つかり、同遺跡周辺で製造された可能性が高まった。
 ヒッタイト帝国も同半島にあったとされる。 
 鉄の使用は、ヒッタイト帝国(紀元前14-12世紀)で始まったとされており、通説を覆す結果だとする。
[参考:時事通信、共同通信、朝日新聞]

世界最古の鉄器、トルコで発見 ヒッタイト起源説覆す(朝日新聞) - goo ニュース
世界最古の鉄器か=日本調査隊、トルコで発見-通説覆す可能性(時事通信) - goo ニュース
世界最古の鋼と判明 4千年前、トルコ遺跡の鉄器(共同通信) - goo ニュース

2010.4.3最古の鋼生産か [2010.4.3読売新聞]
 紀元前「2100前~1950前頃の地層から出土した遺物に、鉄器の原料となる鉄鉱石や、製鉄やs精錬の際に出る鉄滓が含まれていることが分かったと報道された。
 1年前の当記事との関連が分からないので調査中。
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鳥取市・本高弓ノ木遺跡 古墳時代の穂摘具が出土

2009年03月26日 | Weblog
 取県埋蔵文化財センターが26日、古墳時代(4~7世紀ごろ)の水田・集落跡とみられる本高弓ノ木遺跡(もとだかゆみのきいせき、同市本高)から、稲など穀物の穂を摘み取るために使われた「穂摘具」が出土したと発表した。
 木製の台に鉄製の刃が差し込まれた、ほぼ完全な形で見つかったのは国内で初めて。
 出土した穂摘具は2点で、ほぼ完全なものが古墳時代中期(5世紀ごろ)の地層から出土。残りの鉄刃が一部しか残っていないものが古墳時代前期(4世紀ごろ)の地層に埋まっていた。鉄器が農具として普及する過程を知るうえで貴重な資料という。
 完全に近い方は、手元側の端に突起のある長さ10・4cm、幅4・1cm、厚さ0・8cmの長方形のカシ、長さ7・2cm、幅1・7cm、厚さ0・1cmの鉄刃が差し込まれていた。もう一方は、長さ8・15cm、幅4・1cm、厚さ0・9cmの平行四辺形のヤマグワの台に、鉄刃の一部が残っていた。2点の形状が異なっていることから、この時代に穂摘具が進化していたことがうかがえるという。
 どちらも手元側に2カ所の穴があり、紐を通して使ったとみられる。
 穂摘み具は九州や近畿地方で100以上出土しているが、いずれも欠落や破損があり、大半は古墳の副葬品だった。今回は、木材が残りやすい多湿の土壌に埋まり、鉄の酸化も進まなかったことから、刃がついたまま出土したという。
 この穂摘み具は30日から4月17日まで、鳥取市国府町宮下の同センターで公開される。
[参考:朝日新聞、産経新聞,、中国新聞]


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高松市・高松城 生駒家の紋瓦が初出土

2009年03月26日 | Weblog
 高松市文化課は19日、高松城跡(同市玉藻町)の天守跡から讃岐国の領主だった生駒家の家紋が入った瓦が出土したと発表した。
 生駒氏が築城した高松城、丸亀城、引田城跡から家紋が入った瓦が出土するのは初めて。
 生駒家は1587(天正15)年、生駒親正が豊臣秀吉に讃岐一国を与えられてから、お家騒動で出羽国(秋田県)の矢島(やしま)に転封になる1640(寛永17)年まで4代54年間にわたり讃岐国の領主を務めた。
 瓦は、天守台南西隅の堀底から出土した瓦類の中から見つかった。左側が一部欠けているが状態はよく、源氏車の上半分を切った「波引車(はびきぐるま)」という生駒家の家紋を簡略化してデザインしている。生駒家の歴史を記した『讃羽綴遺録(さんうてついろく)』によると、生駒氏が豊臣秀吉の朝鮮出兵に加わった際、海を渡る時に陣幕が波をかぶり、当時使用していた家紋「丸車」が半分水につかった。だが戦功を挙げたため、それ以後、半分の形を示す「波引車」が家紋に使用されるようになったという。
 生駒期の天守に装飾用として使用していた可能性が高く、貴重な発見という。
 これまで城内を細かく調査してきたが、松平家の家紋瓦は数多く見つかるものの、生駒家の家紋瓦は全く出土していなかった。松平氏が入城する際、生駒家の家紋の入ったものを徹底的に処分していたのではとみている。
 出土した瓦は21日から4月30日まで市歴史資料館常設展示室、5月1日から来年3月31日まで玉藻公園陳列館で一般公開される。
[参考:四国新聞、朝日新聞]

 生駒氏は、大和国平群郡生駒の出身で、始祖は藤原不比等の次男房前(681-7377)。後裔良房(804-872)のときに大和国生駒庄に住み、以降、家広(?-1501)が尾張国へ移り住む際に、住んでいた地の名を取り生駒姓を名乗るようになる。
 親正(1526-1603)の時、織田信長の臣下となる。信長の死後は秀吉の家臣となり、度々の戦さに参加し武功を上げ、讃岐国17万石を与えられた。関が原の戦いでは、西軍に参加するが、息子の一正が東軍に参加したことから生駒氏の所領は安堵された。当初、丸亀城にいたが、その後居城を高松城に移した。
 高松城は、生駒親正が1588年に築造を開始し、1590年に完成されたとされる。
 1639年、生駒高俊(1611-1659)の時、生駒騒動により出羽国矢島藩1万石に転封となる。
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木津川市・鹿背山城跡 多聞櫓の遺構

2009年03月26日 | Weblog
 同市教委は25日、戦国武将・松永久秀(1510~77)が16世紀後半に山城とした鹿背山(かせやま)城跡で、土塁の上に建てられていた櫓跡や掘立柱建物跡の一部が見つかったと発表した。
安土城など近世城郭では石垣の上に長屋を築く「多聞櫓」が採用されたが、鹿背山城が最古の確認例になる可能性が高いという。
 同城跡は標高136mの山の山頂部分に主郭があり、櫓跡は、城跡のほぼ中央部、南北方向の土塁(長さ約20m、幅4~8m、高さ約1・6m)の南端上で出土した。補強のため、基底部の斜面には石が積まれていた。直径約1mの柱穴跡が3カ所確認され、櫓の規模は、東西4・15m、南北3・75mと推定されている。
 今回の調査では土塁全体の発掘は行われなかったが、柱穴の形状などから、多聞櫓が立っていたとみられる。
 一方、掘立柱建物跡は土塁のすぐ西から6つの柱穴跡が見つかり、東西6m、南北3m以上とみられる。土塁とは緩やかな斜面(長さ約2m)で結ばれており、羽釜や土師器なども出土したことから、鉄砲隊など兵士の宿営場所があったとみられている。
 鹿背山城は南山城地域最大の山城で、木津川に面した標高約136mの山頂に築かれ、3つの主郭を持つ。15世紀後半に興福寺(奈良市)の出城にもなり、16世紀後期に大和を支配した戦国武将、松永久秀が再整備した。
 土塁上に櫓と長屋状の建物を築いた「多聞櫓」は、松永久秀が1560(永禄3)年に整備した多聞山城(奈良市)で取り入れた。
 現地説明会は28日午前10時と午後1時から行われる。問合せは木津川市教委。
[参考:京都新聞、産経新聞、共同通信、朝日新聞]


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