朝鮮半島西南部に位置する海南郡は1597年丁酉再の乱(정유재란、慶長の役)での激戦地であった。海南郡玉泉面城山里一帯もそのひとつ。だが、野史に記されるだけで、あまり知られていない様子である。毎年10月10日になると、義兵1万人の犠牲者墓とされたとされてきた萬義塚(만의총)で特別行事(祭祀)が行われている。
萬義塚は封墳3基からなり、東南から西南にかけて、3,1,2号墳と名付けられた。
2007年3月に国立光州博物館が3号墳を発掘調査し、三国時代の痕跡が現れた。しかし、丁酉再の乱の犠牲者墓の痕跡は探せなかった。そこで、今回の1号墳の発掘をしようということになったそうだ。
今回の発掘調査では、三国時代の石槨が現れ、貴重な副葬品がたくさん出土したが、石槨の上の封墳の土を採取し分析した結果、多量の人の成分が確認された。多数の人が埋められたこと確認されたのだ。村の人は今までの信仰に間違いがないことがわかり安堵したそうだ。
さて、1号墳の出土状況に戻るとする。
現れた石槨は墳頂を基準として約2m下で発見された。古い地表面を基準とすると、地上から80cmほど土段を積んでその上に用意した。石槨の長さは238cm、幅78cmで、長軸は東西方向にある。東側壁隣の場所の底から歯2個を収集したので、頭部は東側に向かって置いたとみられる。石槨の中には木棺があったものと推定されるが、棺材は皆腐ってしまっていて、また釘が見つからないことから、板を組み合わせて作ったものとみられる。
出土した遺物は1100点余。
石槨内部では土偶装飾瑞獣形土器(토우 장식 서수형토기、新羅系)、布で覆った青銅鏡、青銅腕輪、貝腕輪(倭系)各々1点と金装飾を重ねて被せた青銅勾玉(금장식 청동곡옥)、他にも無数の大・小型玉など、武器類では鉄刀1点と鏃が多量に出土した。
石槨外部でも丸くて扁平な底をそろえた壷型土器の円底壷、首が長い壷型の軟質長頚壷(연질장경호)、有蓋台付鉢(유개대부호)、瓶と同じ土器類9点が出土した。
今回の発掘成果から考古学界がとくに驚くのは、遺物の「多国籍性」だ。 百済系、新羅系、伽耶系、そして倭系が等しく混ざった様相を見せる。
墓築造時期が5世紀後半~6世紀初期には異見がそれほどない。さらに、外来系遺物が圧倒的に多くの様相を見せるが、その遺物ら大部分はこの地域で、このような外からの部影響の下で、自らが製作したものであるというのにも研究者らは概して同意する。
この墓に埋められた人は、現代の基準から見れば、すごい国際感覚を持ち、恐らく国際貿易をしていただろうとする。
墓様式にも特徴がみえる
▲木棺と石槨間の側壁に板石をはめている
▲石槨の蓋石と木棺の間の空間まで粘土で密封した
▲石槨底に板石を敷いた点
などは百済も伽耶、新羅、日本などの基本的な墓祭形式とは違った独特の構造をしている。
これは海南萬義塚3号墳で現れる前開式石室墳の横口式や栄山江一帯で発見される土器棺、甕棺などの既存百済式墓、新羅の石積木槨墓とは全く異なる。
その上に石槨を作って使ったという点で伽耶の石棺墓とある部分似ているが、木棺の間の空間まで粘土で密封した点や石槨底に板石をはめた点は、伽耶墓と違いがある。
[参考:2009.2.23~3.9聯合ニュース]
備考:
萬義塚は、1597年丁酉災乱(慶長の役)の際に、小西行長が率いる3万の日本軍により亡くなった韓国1万の殉節義兵の合葬墓だと伝えられてきた。
「海南ユン(伊)氏の家系図でだけ知らされた野史」が史実である可能性を暗示するという。
萬義塚は封墳3基からなり、東南から西南にかけて、3,1,2号墳と名付けられた。
2007年3月に国立光州博物館が3号墳を発掘調査し、三国時代の痕跡が現れた。しかし、丁酉再の乱の犠牲者墓の痕跡は探せなかった。そこで、今回の1号墳の発掘をしようということになったそうだ。
今回の発掘調査では、三国時代の石槨が現れ、貴重な副葬品がたくさん出土したが、石槨の上の封墳の土を採取し分析した結果、多量の人の成分が確認された。多数の人が埋められたこと確認されたのだ。村の人は今までの信仰に間違いがないことがわかり安堵したそうだ。
さて、1号墳の出土状況に戻るとする。
現れた石槨は墳頂を基準として約2m下で発見された。古い地表面を基準とすると、地上から80cmほど土段を積んでその上に用意した。石槨の長さは238cm、幅78cmで、長軸は東西方向にある。東側壁隣の場所の底から歯2個を収集したので、頭部は東側に向かって置いたとみられる。石槨の中には木棺があったものと推定されるが、棺材は皆腐ってしまっていて、また釘が見つからないことから、板を組み合わせて作ったものとみられる。
出土した遺物は1100点余。
石槨内部では土偶装飾瑞獣形土器(토우 장식 서수형토기、新羅系)、布で覆った青銅鏡、青銅腕輪、貝腕輪(倭系)各々1点と金装飾を重ねて被せた青銅勾玉(금장식 청동곡옥)、他にも無数の大・小型玉など、武器類では鉄刀1点と鏃が多量に出土した。
石槨外部でも丸くて扁平な底をそろえた壷型土器の円底壷、首が長い壷型の軟質長頚壷(연질장경호)、有蓋台付鉢(유개대부호)、瓶と同じ土器類9点が出土した。
今回の発掘成果から考古学界がとくに驚くのは、遺物の「多国籍性」だ。 百済系、新羅系、伽耶系、そして倭系が等しく混ざった様相を見せる。
墓築造時期が5世紀後半~6世紀初期には異見がそれほどない。さらに、外来系遺物が圧倒的に多くの様相を見せるが、その遺物ら大部分はこの地域で、このような外からの部影響の下で、自らが製作したものであるというのにも研究者らは概して同意する。
この墓に埋められた人は、現代の基準から見れば、すごい国際感覚を持ち、恐らく国際貿易をしていただろうとする。
墓様式にも特徴がみえる
▲木棺と石槨間の側壁に板石をはめている
▲石槨の蓋石と木棺の間の空間まで粘土で密封した
▲石槨底に板石を敷いた点
などは百済も伽耶、新羅、日本などの基本的な墓祭形式とは違った独特の構造をしている。
これは海南萬義塚3号墳で現れる前開式石室墳の横口式や栄山江一帯で発見される土器棺、甕棺などの既存百済式墓、新羅の石積木槨墓とは全く異なる。
その上に石槨を作って使ったという点で伽耶の石棺墓とある部分似ているが、木棺の間の空間まで粘土で密封した点や石槨底に板石をはめた点は、伽耶墓と違いがある。
[参考:2009.2.23~3.9聯合ニュース]
備考:
萬義塚は、1597年丁酉災乱(慶長の役)の際に、小西行長が率いる3万の日本軍により亡くなった韓国1万の殉節義兵の合葬墓だと伝えられてきた。
「海南ユン(伊)氏の家系図でだけ知らされた野史」が史実である可能性を暗示するという。