全英連参加者のブログ

全英連参加者の、言葉やその他諸々についての雑感... 不定期更新です。

The MEXT Minister Bunmei Ibuki said...

2006-09-27 20:05:11 | 気になる 政治・政治家

 「まったく必要がないと思う。美しい日本語を話せないのに外国語をやっても仕方がない」
 「政治家として、今の小学校では必修で教えるべきことが教えられていないと思う」
 「(小学校英語は)やりたければ個人的にやればいい。外国のことに興味を持つくらいを限度にとどめるべきだ」

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 伊吹文科相が小学校の英語教育について、報道各社のインタビューで話したそうだ。。。
 う~ん。。。


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Tradition

2006-09-27 05:20:08 | 教師の仕事 2006

 先週木曜日、天候に恵まれ勤務校は体育祭。僕はクラス担任として、カメラを持って応援である。
 クラス担任の年も、そうでない年も毎年繰り感じるある印象、見たような光景がある。それが今年もまた現れた。まさにDeja vuのようだった。

***** *****

 火曜日に聞いたところでは、3年生のあるクラスがほぼ全員、18日の月曜日(敬老の日だよ)に自主的に登校して、体育祭団体種目の練習をしていた。
 火曜日、水曜日は朝HR前に、生徒が体育ジャージに着替えて、リレーのバトン練習をしていた。
 …いろいろ不穏(笑)な動きがあった。

 勤務校の体育祭はクラスごとの得点合計で順位をつける。学年をまたいだブロック競技もあるが、基本的には自分のクラスの得点の多い少ないの勝負である。ブロック対抗はそのブロックが勝てば参加クラス(各学年1ずつ)に平等に点数が入る。だから、3年生はブロック対抗に関しては、最上級生として下級生に範を垂れなければならない。マジに勝利をめざすのだ。
 応援もスゴイものである。担任の知らない間に、上級生から練習の指示とか、応援の準備とかの指令が飛んでいることがある。毎年行われる体育祭で、先輩たちの行動が後輩たちに脈々と引き継がれていく。クラス以外でも、体育祭を運営する委員会、場内放送をする委員会、競技の審判や準備担当の各運動部。それぞれが仕事を引き継いで、ちゃんと仕事をしている。
 …ちょっと褒めすぎかな?

 学校が5日制になり、授業確保の問題からどの行事を削ろうかいろいろ頭を悩ませる。文化祭、体育祭、球技大会。世間から見ると遊んでいるようにも見えるだろう。実際文化祭は2日間、準備を入れれば4日間は授業がないわけだし、体育祭だって1日は丸々授業がない。これで1週間分である。だからその分夏休みを削って早めに授業を行う学校も増えている。でも、これらの行事を削ることになっていない。なぜだろう。

 『学校は社会の多様な文化から固有の教育目標に適切なものを選別・編成し、系統的に配列して生徒に伝達する。教科書、教材、時間割、コース編成、特別活動、学校行事などがそれである。しかし、その文化の内容は非常に恣意的なものである。
 『学校的時間・空間の中で学校組織、カリキュラム、教育課程は固有の文化を構築する。そして文化は生徒及び教師に共有され、独自の枠組みで解釈・身体化していく。このように身体化する学校文化は、彼らに意識される部分もあれば、意識されない部分もある。卒業してから自ら特定の学校文化を身体化していることに気づく場合もある。
 引用部分:放送大学大学院教科書、『学校システム論 第6章』 以下同じ。

 体育祭における3年生のはたらき。それを可能にしている何か。それは何だろう。
 3年生は、3年生としてリーダーシップとでも呼ぶべき何かを発揮しようとしている。体育祭において誰かから何かを決めてやらされるのではなく、主体的にかつ当然に何かを為そうとしている。
 2年生、1年生は上級生依存ではなく、上級生である3年生の振る舞いを見て、自分たちの為すべきことを学んでいる。1年後、2年後を何とはなく予見、学習(吸収)している。
 僕たち教師はそれを可能な限り見守り援助する。
 …カッコよすぎるかもしれないし、上手く言えないけどそんな感じである。

 これって、やっぱり継承される伝統・学校文化なんだと思う。
 体育祭における3年生のはたらき。これは体育祭という学校行事を通してのみ育むことができる。そこには隠れたカリキュラムとでも呼ぶべきものがある。残念ながらこれを削ることの損失は、授業を少し増やす程度では補いきれないのである。夏休みを短縮して、授業を確保してでも、学校行事が削れない理由である。
 どうだろうか。

***** *****

 いつごろから上級生がリーダーシップをとることが当たり前のようになったのかはよくわからない。かなり昔からのことだとは思うが、定かではない。ただ、いつのことかはわからないが、それがはじまり、引き継がれ、伝統になっている。生徒も、教師も、時代も変わったにもかかわらず、それが残っている。これはまさに、『現在によって再生、変容、再生産された伝統のみが、学校的時間・空間の中で価値あるものとして存在し続けるのである。』だと思う。その学校文化の善し悪しはひとまずここでは書かないことにする。真善美についてえらそうに述べるほど、僕は無責任でも、自惚れ屋さんでない自覚はある。ただ、これは言えると思うことが一つある。

 こういう学校文化のある勤務校で過ごす生徒、それを目の当たりにできる僕たち教師は、ちょっと幸せかもしれないということだ。


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