すっかり手に入れることを諦めていた文藝春秋社発行の雑誌「諸君!」最終号を購入することができた。
GW中や明けてばかりの頃はどこの書店を探しても見つからなかった。
先日、大阪難波のジュンク堂書店で別の本を探していた時、駄目元で文芸誌のコーナーを覗いてみたら普通に並んでいたのだ。
雑誌でも増刷することがあるのだろうか。
ということで、定価の800円出購入。
アマゾンドットコムで一冊2000円のプレミア金額で売ろうとしていた古書店の方。
残念でした。
ということで、過去半世紀近くの間、日本の保守的オピニオンマガジンのリーダー的役割を担ってきた文藝春秋社の「諸君!」。
その最終号はいつもの1.5倍くらいもページ数のある特別編集なのであった。
表紙にはメッセージを込めて「日本への遺書」と大きく書かれ、諸君!の休刊がどのような意味を持っているのか。
グレー色した「紅い空気」を暗示しているような雰囲気を湛えていた。
内容は現在読んでいるところなので、感想は後日書くことになると思うのだが、編集後記にはライバル誌「正論(産経新聞社)」への事後を託したメッセージが記されていて諸君!編集部の無念さが滲み出ているような気がしたのであった。
それにしても雑誌というメディアの役目とは何だろうか。
昨今の新聞やテレビの無味乾燥な報道や、事実を曲げて報道しようとする偏向した姿勢は、すでに第三の権力としての信頼性を著しく損なっている。
肝心のマスコミがそういう市井の感覚にまったく気付いていないということろにあると思う。
現にテレビはもちろんのこと、新聞も「議論する」という言論機関としての機能はすでに喪失していると言わざるを得ない状態で、例えばマスコミどうしの闘いといば、3年前のNHK対朝日新聞のような低次元で見苦しい罵り合い程度のことしかできないのだ。
そいういう意味で、雑誌は人々の意見を戦わす絶好の場所であった。
いや、今もそういう場であると思う。
だからこそ、先日の「週刊新潮」によるガセネタつかまされ事件も発生する。
それだけ雑誌には他のメディアではできない、主張する場所としての機能が期待されているわけだ。
現に、雑誌は他のメディアに比べて主義主張がはっきりしているという傾向が強い。
例えば岩波書店の「世界」や「週刊金曜日」が左派の代表であるのなら、文藝春秋社の「諸君!」や産経の「正論」は保守右派の代表
雑誌であった。
とりわけ「諸君!」は、その内容の硬派なことに加えて、かつ、歯に衣着せぬ正論は大いに魅力的なのであった。
「諸君!」が休刊することにより前者の雑誌を支持する人々の中には快哉を叫んでいるかも分からない。
しかしだからといって、前者の人々の意見が中核を占めるような国に日本がなってしまったとはいえないわけで、現に、保守派オピニオンマガジンの流れは「諸君!」がエールを送った「正論」以外にも数多くが創刊し、刊行され続けている。
むしろ「諸君!」なかりせば、という感慨がなくもないくらいだ。
ともかく、学生時代からの愛読誌がひとつ無くなった寂しさは「正論」で代用できるものでもないことは確かだ。
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