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司馬遼太郎がベトナムのサイゴン、現ホーチミン市を訪れたのは1972年9月。
世論に敗れた米軍がベトナムからの完全撤退を完了した直後だった。
南ベトナムというイデオロギーに後押しされた外国から止めどなく流れてくる資金で維持された国家は、その膨大な外貨で続け戦争を続けていたことが本書でも記されていた。
もちろん北ベトナムとて中国、ソ連の後押しで南の併合を目指していつ終わるかわからない戦争を続けていた。
驚くことに、ベトナム戦争はアメリカ軍の撤退で終わることはなく、このまま1975年4月30日まで続くことになる。

問題は、司馬遼太郎の未来のベトナムの予想が、ある面では的を射ているのだが、かなりの部分でやはり目算を誤っていたというところが、ある意味、本書の面白さかもわからない。

例えば、チェロンを訪れた筆者はベトナムの経済を牛耳っている華僑がこの国から出ていくことは永遠に無いであろうと語っているのだが、実際は1980年台に華僑の多くが国外に出ていかざるを得ない状態に追いやられた。
いわゆるボートピープルがそれだ。
統一ベトナム政府は故意に自由経済を圧迫し、長年ベトナム経済の支配者であった華僑を追い出したのだ。
当時の一般の日本人はそんな事情など全く知らない脳天気さで、
「ボートピープルを受け入れない日本政府に断固抗議する」
という人々が少なからずいたものだ。
しかし当時の日本政府はボートピープルの素性が華僑、つまり中国人で構成されていることを熟知していて彼らを受け入れることはなかった。

余談だが、同様の華僑追放は、今注目のミャンマーでも行われた。
ミャンマー経済を牛耳っていたのは華僑と印僑だった。
英国植民地時代に大量流入してきてミャンマー人を支配下に置いた彼らを戦後のビルマ政府は突然の通貨の無効、鎖国政策などで経済力を奪い、国外に出ていかざるを得ない状況をつくりだした。
中国人はどこの国に於いても問題を引き起こす存在なのかも知れない。

また本書では、司馬遼太郎はベトナムは日本史で言うところの江戸期の終わりで、そこに外国勢力をたくさん招き入れ資金に頼ったために自立ができない、というようなことが書かれていた。
日本は江戸期から経済活動が発達し、明治を迎えた時、アジアのどこの国もできなかった、既存の社会システムを切り捨て西欧式のものを取り入れたと。
ベトナムはそうではないという。
が、やはりこれも後のベトナムの歴史とは大いに異なる部分であった。
ベトナムは1980年代終盤から、経済開放政策に入り、一旦失敗をしたものの、やがて持ち直し、今や東南アジアでは最も成長著しい国家の1つになっている。

司馬史観という言葉あるように、日本史における幕末の歴史について大きな影響力のある筆者だが、こと未来の歴史のことになると、かなり内容が疑わしいものになってしまう。
いや、疑わしいというよりも、それだけ歴史の先を予見するということは難しいことなのだ。

なお、本書のあとがきの部分に近藤紘一の名前がでてきたのも、当時の著者の周辺の人々を想像する上で興味を誘う部分なのであった。

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