素顔、見つめて
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第35話 曙空act.4―another,side story「陽はまた昇る」
シャワーと着替えを済ませた周太は、浴室の鏡で自分の瞳と目があった。
ひとつ幸せな自信が灯された、そんな黒目がちの瞳がきれいに微笑んでいる。
きれいな明るい輝きが顕れた顔は昨夜の自分とまた違う貌になっていた。
この顔を英二はなんて言ってくれるだろう?
光一と美代はなんて言うだろう?
…なんだか、気恥ずかしくなってきちゃう、な?
自分がまた変化した理由は、きっと昨夜の所為。
昨夜に今朝に、英二に見つめられ愛された肌と心の記憶が、自分を明るませている。
それがわかるから気恥ずかしい、心から抱かれ愛された喜びがこそばゆい。
なによりも美代にどんな顔して会えば、いいのだろう?
…美代さんは英二に憧れている、でも、きっと…
昨夜と今朝で思い知らされた。
英二の心に憧れたなら、きっと恋しないではいられない。
昨夜一夜を過ごして朝を迎えた今、もう自分が英二から目を逸らせないように。
…美代さんは、英二を、きっと、恋するようになる
これから美代は会うたび英二に想いを深めていくだろう。
たぶん今日もまた美代の憧れは恋へと近づいていく。
そんな美代にとって自分の存在は、どう映るのだろう?
…でも、ね、俺にとっては美代さん、大好きな友達だから…離れたくない
昨夜は新宿駅の青梅線ホームでひととき会えた。
あのとき美代は周太に会えて心から喜んで、安堵の涙を流してくれた。
あの涙を、信じられなかったら、きっと友達とは言えない。
「ん。今日は、会いに行こう。わがままでも、会いたい」
ひとり言に決意と勇気をひとつ、心に言い聞かせる。
昨夜と今朝と英二にわがまま言ったように、正直に友達にも接したい。
わがままでも、ずるくても、これが今の自分だから仕方ない。受けとめ正直になるしかない。
自分は正直に生きてみたい、泣き虫な自分だけれど、すこしでも強くなりたい。
そんな決意で見た自分の瞳はどこか愉しげで明るい。
微笑んで周太は扉を開けて部屋に降りた。
「英二、お先にごめんね?ありがとう…」
きれいに笑いかけて周太は英二を見あげた。
いまパン屋から帰ってきたばかり、そんな雰囲気の英二はミリタリージャケットを脱ぎながら振り向いた。
「ちょうど良かったよ?俺も今、帰ってきたから…ね…」
言いかけた英二の目が周太の瞳を見つめて、ふっと言葉が消えた。
急にどうしたのだろう?見つめてくれる切長い目を周太は見上げて微笑んだ。
微笑んだ周太にすこし困ったように笑って、綺麗な低い声が言ってくれた。
「周太、なんだか、きれいになったね?…朝起きた時も想ったけど…困るよ、周太、」
昨夜も英二は「困る」と言っていた。
何がそんなに困ってしまうの?見上げながら周太は英二に抱きついた。
「どうして、困るの?…俺、そんなに英二を困らせてるの?」
「うん、そんなに困らせてるよ?…離れたくなくなって…閉じ込めて、ずっと抱きしめていたくなるから…」
すこしかがみこんで頬寄せて、そっとキスで唇ふれてくれる。
やさしい穏やかな温もりを贈って、すぐに離れると英二は微笑んで浴室へと入っていった。
ぱたんと閉じられた扉を見つめて周太は佇んだ。
…閉じ込めたい、のは…どっちだろう?
周太は指先でそっと唇にふれた。
まだ唇にはどこか感触と残り香を感じてしまう。
こんなの気恥ずかしい、けれど幸せに微笑んで周太はコーヒーを淹れ始めた。
簡単な朝食を済ませると英二は青梅署へと戻っていった。
やさしいキスをくちびるに残すと「また御岳山で」と、きれいな笑顔を見せて部屋から出て行った。
見送った背中は昨日よりも頼もしく広やかだった。
…自分の顔が、昨夜と今朝で変わったように、英二の背中も変わった、ね?
昨夜一夜のこと。
けれど英二と自分にとって一夜の意味は深い。
一夜の意味を静かに示してくれる背中が愛しくて、見惚れるよう周太は見つめて見送った。
見送ると、クライマーウォッチは7:00だった。
いつもなら、こういう時間に青梅署診察室で吉村医師の手伝いをして、コーヒーを淹れる。
でも今日は日曜日だから診察室は原則休診で、吉村医師は自宅にいる。
だから今回は吉村医師には会えない、けれど火曜日から3日間滞在する時にきっと会える。
昨夜一夜で自分の心は変化した、この今の想いを吉村医師なら何と言ってくれるのだろう?
…また聴いてほしいな、コーヒーも淹れてさしあげたい
後で連絡しておこう、今度は川崎の菓子をご馳走したいな?
考えながらマグカップを洗って片付けると周太は荷物をまとめた。
それから光一の迎えが来る8時までを、青い表装が美しい樹医の本に楽しんだ。
誕生から巨樹へと育っていくプロセス、樹木の終焉の姿。
植物と動物の生態系と森の創生。
樹木が抱いた水が、湧水になって地表へ顕れる様々な事例。
古木の保存と若木の関係性と樹木を枯死から守る事例たち。
千年を超えて山に佇み続けている、ある巨樹と水の物語。
こんなふうな、樹木に廻る生命こめられた項目たちが目次にたくさん列記されている。
どの項目すべてに惹きつけられてしまう、うれしいため息を周太は吐いた。
どれから先に読んでも良いように、上手に文章構成がされているらしい。
昨夜はいちばん最初の樹木が芽吹いたところ、ブナの木の成長記録から読んだ。
その続きのページを丁寧に開くと、樹齢10年に成ったブナの木が文字からすっくり現れる。
そうして読んでいく文章に、瑞々しくブナは風雪のなか佇んで齢を重ね始めた。
…人の一生よりも長い時のながれに、木はずっと同じ場所に佇んで…
畏敬の想いに周太は、ほっとため息を吐いた。
植物は人間と違って動き回らない、けれどずっと長く生きることが多い。
そうして1カ所を長い時間を見つめ続けることは「静謐」だろうか?
この長い時のながれに唯佇んで、木はなにを想っているのだろう?
「はい、周太?もう、時間だよ。本はしまいな?」
とつぜん透明なテノールの声に笑いかけられて、驚いで周太は顔をあげた。
見ると、農業青年スタイルの光一が可笑しそうに笑ってすぐ隣に立っている。
急いで立ち上がると周太は見上げて首を傾げた。
「光一?…どうやって、部屋に入ってきたの?」
「うん?まあね、これくらいならさ、ちょっと工夫すれば開けられるよ?おはよう、周太」
光一は細工した針金で英二の部屋を開錠してしまう。
そのことを周太は英二に聴いたことがある、けれどビジネスホテルの扉まで開けてしまうなんて?
本を鞄にしまって、あわい水色の登山ジャケットを着ながら周太は訊いてみた。
「おはよう、光一。あの、…針金で、ここも開けたってこと?」
「そうだよ?ほら、早く行こうよ。宮田を待たせたら悪いだろ?あ、チェックアウトの手続きはね、宮田がやったってさ」
話しながら光一は周太のダッフルコートと鞄を持ってくれる。
そして周太の左掌をとると、愉しげに笑って外へと連れ出してくれた。
すぐ近くに停めてあった四駆の助手席に乗せてくれると運転席で光一は笑った。
「今日はさ、俺、ばあちゃんのレストランの仕込みが朝だけあるんだ。でも御岳山の巡回が終わる頃にはね、迎えに行けるよ」
話しながらアクセルとクラッチを登山靴の足は捌いていく。
きっと「仕込み」は山の畑にも行くのだろうな?そのことを光一の登山靴に周太は気がついた。
きっと朝の忙しい時間を光一は周太の為に割いてくれた、申し訳なくて周太は唇を開いた。
「忙しそうだね、光一?あの、無理に付きあってくれなくても、いいよ?…急に来たんだし、俺は一人でも大丈夫だよ?」
遠慮がちに周太は予定変更の提案をした。
けれど底抜けに明るい目は運転席から温かく笑ってくれた。
「なに言ってんのさ?せっかくのチャンスなんだよ、俺には。
君とデートできるっていうさ、大切なチャンスだ。君を独り占めできる時間を、俺は過ごしたいよ。君は嫌なの?」
「あの、そう言われると、恥ずかしいんだけど、嫌じゃないよ?…なんか、気を遣わせて、ごめんね?」
相変わらずのストレートな言葉は嬉しい、けれど気恥ずかしい。
しかも昨夜と今朝に深くこめられた英二の残り香が、肌に温められて服のはざま昇ってきてしまう。
大好きな深い森のような穏やかな香が愛しい面影を見せて、つい惹きこまれそうで気恥ずかしい。
こんなの面映ゆくて困ってしまう。つい俯き加減になる周太に光一は可笑しそうに微笑んだ。
「ふうん、俺には遠慮しちゃうわけ?そんな出し惜しみしないでさ『ツンデレ女王さま周太』を、俺にも見せてよ?」
「…っ、」
驚いて周太は思わず運転席の横顔を見あげた。
雪白の秀麗な横顔は愉しげで「ほら、遠慮しないで?」と横目で笑っている。
もう英二は光一に昨夜のことを話してしまったの?恥ずかしくて首筋がとっくに熱い。
どうしようと困っていると、愉しげに光一は教えてくれた。
「宮田が戻ってきたからさ、あいつの部屋に今日の打ち合わせに行ったんだよ。
で、いつも通りに俺は、制服生着替えを堪能していたらさ?あいつの左肩に、そりゃ綺麗なキスマークを発見したってワケ」
いつも通り、って言った?
いま聴いた光一の言葉に思わず周太は反復してしまった。
「せいふくなまきがえ、って…」
こんなえっちないいかたされたらびっくりする。
っていうかこういちは、まいあさえいじにそんなことしているの?
途惑って赤くなる周太に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑って言った。
「そ、制服に着替える宮田を鑑賞するんだよ。これがマジ眼福でね、スッカリ癖になってんの俺。
あんな極上の別嬪をアンザイレンパートナーにしてるんだ、その権利は最大限利用しないと勿体無いだろ?
で、遠慮なく堪能してるよ。ストイックな制服ってトコがまた、そそられるんだよね?あ、お触りは無しだから。安心しなね、」
いつもなにやってるんだろうこのひと?
すっかり気を抜かれて、周太は気の抜けた相槌を打った。
「…そう、…」
「うん、そうだよ?で、左肩のキスマークがまたね、艶っぽくて最高だったよ。今朝はイイ朝だね、」
満足げに細い目が笑っている、心底楽しくて仕方ない顔で。
そのキスマークを付けたのが誰か?この事実に周太は恥ずかしくて額まで熱を昇せた。
そんな真赤な周太を観ながら光一は殊更な満足に笑うと言葉を続けた。
「で、あいつの綺麗な背中がさ、また艶っぽいんだよね?
ただでさえ美肌なのに眩く艶めいちゃってさ、もう幸せ充実してますってカンジの、最高に眼福な背中。
で、こりゃさぞイイ夜だったろうなって思ってね、『おまえ押し倒しちゃったのかよ?』って、カマかけたらさ?
あいつ『違う、ツンデレ女王さまに命令されたんだ』って、つい自白しちゃったんだよね。で、事情聴取させて頂いたってワケ」
どうしていつもこうなのこのひとたち?
ほんとうにえっちなことばっかりすきなんだから?
こんなこと自分には付いていけない、どうしたらいいのか困ってしまう。
それでも周太はなんとか声をのどから押し出した。
「…ん、そう…」
「そうだよ?で、ドリアード、君も俺に聴かせてくれるかな?」
光一の言葉に周太は運転席を見あげた。
信号で停まると運転席の横顔がふり向いて、底抜けに明るい目が温かに笑いかけてくれる。
そして透明なテノールの声が愉しげに問いかけた。
「ドリアード、君は、愛する婚約者の腕のなかで、幸せな夜と朝を過ごせた?」
愉しげな声、けれど奥に微かな哀しみがある事を自分は知っている。
でもこの声には、それ以上に自分の幸せと笑顔を願う祈りが込められている。
素直に頷いて周太は、きれいに笑った。
「ん。幸せな夜と朝だったよ?…今までで、いちばん幸せだよ?」
きっと今、自分の顔は最高の幸せに輝いている。
だってほら、自分の顔を見る光一が、心から嬉しそうに微笑んでくれる。
そんな光一の笑顔がきれいで、けれど自分の心がほんとうは軋んで痛い。
ほんとうは光一の願いを知っている。
けれど、どうしていいのかまだ解らない。ただ今は正直にいるしか出来ない。
それでも心が痛いのも本当で、けれど周太は笑顔を崩さず底抜けに明るい目へと笑いかけた。
底抜けに明るい目は瞳を見つめ返して、透明なテノールの声が周太に笑ってくれた。
「うん、幸せな笑顔だね?この笑顔を俺は見たかったんだ。そりゃ、妬けるけどさ?」
きれいに笑う光一の目は底抜けに明るく大らかさが温かい。
こんな大らかな人が初恋を自分に与えてくれた、その感謝を抱いて周太は微笑んだ。
「ん。ありがとう、…妬かせて、ごめんね?でも、正直な気持ちだから…仕方ないでしょ?」
光一の気持ちを知っている、それなのに自分はわがままに正直に言っている。
こんな自分はずるいだろう、それでも嘘つくよりはずっといい。
わがままでしょ?そう微笑んだ先で光一は愉しそうに笑った。
「正直な気持ちは大歓迎だよ、ツンデレ女王さま?さ、着いた」
御岳山麓の滝本駅に四駆は着いた。
駅の近くには御岳駐在所の白い自転車が停まっている、英二はもう登山口に着いたのだろう。
急いで助手席から降りて運転席の窓近くに立つと、光一が笑ってくれた。
「登山口に10時位には迎えに行くよ、そしたら俺とデートしてね?ツンデレ女王さま周太を見せてほしいな、」
「ん、ありがとう…きっと、わがままで、大変だよ?」
「イイね、ちょっと俺を困らせてみてよ?あとさ、雪道は絶対に走っちゃダメだからね?」
「ん。走らない、気をつけるね、」
笑って別れると周太は御岳山の登山口へと向かった。
山道には雪が残って登山靴の底をざくりと締雪の感触が響いていく。
足元に気をつけながら登ってすぐに、スカイブルー鮮やかな救助隊アウターシェル姿の背中が見えた。
たった1時間ほど前に見送ったばかりの背中、けれどもう懐かしくて周太は無意識に雪を蹴りこんだ。
…英二、
すこしでも早く隣に行きたい、すこしでも長く傍にいたい。
正直な想いのまま雪の山道を駆けだす周太の登山靴から固い雪が散っていく。
締雪を蹴りこむ靴音にスカイブルーの背中が振り返ってくれた。
「…周太!ダメだ、走るな!凍った雪道はダメだ、」
綺麗な低い声が叫んだ。
叫ぶと同時に英二は、アイゼンで雪道を踏んで足早に歩み寄ってくる。
声に我に返って周太は、ここが雪の山道だったことを思い出した。
…あ、そうだ、凍った雪道は、ダメ
足を止めかけた時、不意に登山靴の底が凍れる雪にとられた。
凍れる雪のなめらかさが足の動きから自由を奪って靴底が滑りだす。
ぐらり、体のバランスが崩されていく、体が斜めに傾いて横へと倒れていく。
崩れかけた体が傾いていく先に、白い斜面が待つのを周太の瞳は見た。
落ちる、
「周太!」
スカイブルーの長い腕が伸びて、あわい水色の小柄な体を抱え込んだ。
がくん、斜面へと崩れかけ逸れた体がひきとめられ、強い腕が抱きよせる。
素早く周太の体を抱きこんで英二は山側へと倒れ込んだ。
「…っ、」
どさり、雪道にスカイブルーの救助隊服姿が横倒しになる。
それでも強い腕は周太を抱え込んだまま解けなかった。
抱え込んで、そのまま山際まで這い寄って英二は崖から離れていく。
そうして山際の安全な場所まで着いて、初めて英二は笑った。
「…周太、よかった…!」
抱きしめたまま起きあがって、きれいな笑顔が華やいだ。
登山グローブをはめた長い指が周太の髪から、そっと雪を払ってくれる。
うれしそうに切長い目が微笑んで、こつんと額に額をぶつけてくれた。
「ダメじゃないか、周太?ほんとうにね、雪道は危ないんだ。走っちゃダメだ、たぶん国村にも言われただろ?」
「…はい、…」
また自分は浅はかなことをしてしまった。
我を忘れて走ってしまった、そんな子供じみた自分が恥ずかしい。
なにより自分の所為で英二を今、危険な状況に晒してしまった。
申し訳なさ、羞恥、哀しみ、それから安堵。
いっぺんに押し寄せる感情の波に揺らされ迫り上げられて、つい涙がこぼれ落ちた。
「…ごめ、なさい…」
ほら、また泣いてしまった。
こんな泣き虫な自分はずるい、すぐ泣いてわがままに甘えてしまう。
もう23歳で男なのに、こんな自分は恥ずかしい。けれど涙が止まってくれない。
こぼれる涙が恥ずかしくて俯きかけた顔を、片手で器用に登山グローブを外した掌がくるみこんだ。
「大丈夫だ、周太。もう2度とやらなければそれでいい。約束、出来るな?周太、」
「ん、やくそくする…ごめんなさい、英二…俺、また、…警察学校の時も、そうだったのに…」
警察学校の山岳訓練でも周太は英二を危険に巻きこんだ。
同期の松岡が崖から落ちかけて助けたくて、冷静な判断を欠いた無理な救助を周太はしてしまった。
それでも松岡は助けられた、けれど周太は自分が滑落してしまった。
そして谷底まで滑落した周太を救けてくれたのは英二だった。
あのとき英二が周太を救助することは、危険なことだった。
それでも英二は谷底まで周太を救けに来てくれた、その後の怪我の看護もずっとしてくれた。
…あのとき、いっぱい後悔して、反省したはず、だったのに
どうして自分はいつも、つい、冷静さを落っことすのだろう?
そうして英二をまた危険に巻きこんでしまった、そんな自分が悔しくて哀しくて涙が止まってくれない。
けれど切長い目は楽しそうに笑って、やさしい笑顔は言ってくれた。
「あの時か、懐かしいな?ね、周太?あの時があったから、俺は今、山岳救助隊になれてるよ?だからいいんだ、」
やさしい長い指が涙を拭ってくれる。
こんな子供みたいに泣いている自分が恥ずかしい、周太は軽く唇をかんだ。
そんな周太にきれいに笑って、英二はオレンジ色のパッケージから飴を出してくれた。
「泣顔も可愛いね、周太は。ほら、あーん、して?」
「…ん、はい」
素直にくちびる解くと、きれいな長い指が飴を含ませてくれる。
なじんだオレンジと蜂蜜の甘さと香がやさしい、好きな味に周太は微笑んだ。
ひとつぶ自分も口に入れると、英二はザックからアイゼンを取出して周太に履かせてくれた。
「周太、きつくない?大丈夫」
「ん、へいき、」
「良かった。…うん、これでいいかな?」
きちんとアイゼンが装着されたのを英二が確認してくれる。
それから英二は周太を立たせてくれた。
「さ、行こうか?周太の『雪山』が待ってるよ?」
周太の誕生花『雪山』という名の山茶花は川崎の家の庭に咲いている。
これと同じ花木が御岳山上にも佇んでいる。
自分を木が待っている、その言葉がうれしくて周太は笑った。
「ん、会いたい、『雪山』に…あの、英二?」
「うん?どうした、周太」
呼びかけに英二が笑って名前を呼んでくれる。
向けてくれる笑顔をうれしく見上げると、背伸びして周太は英二にキスをした。
「救けてくれて、ありがとう、英二…ほんとうに、ごめんなさい、」
「キスのお礼、うれしいよ?こっちこそ、ありがとう、周太、」
きれいな幸せな笑顔が咲いて、雪道を歩き始めた。
並んで歩く道を英二は山側へと周太を歩かせてくれる。
すこし歩いてすぐに、ふと英二は立ち止まった。
「うん、やっぱり周太?念のためにショートロープしよう、」
「え、…あの、ザイルで繋ぐやつ?」
「そうだよ。ちょっと雪が凍ってるし、ロックガーデンは滑りやすいから」
話しながら英二はザイルをだすと、手早く支度を始めた。
手際よく周太のウエストにザイルを巻いて、きれいにショートロープのセッティングをしてくれる。
「これで安心だよ、さ、行こうか?」
「ん、…あの、お世話かけて、ごめんね?」
ザイルで繋がれながら周太は英二を見あげた。
長い指はザイルの長さ調整を器用にしながら、きれいな笑顔が周太に笑ってくれる。
「謝ることないよ、周太?ほら、ザイルで繋がれてさ、なんか赤い糸みたいだ。ね、周太?」
幸せそうに端正な顔が笑ってれる。
ちょうど周太は「赤いザイルを肩掛けした英二の姿が格好良いな」と見ていた。
だから図星刺されたようで周太はまた赤くなってしまった。
「ん、そう、だね?…きょうりょくなあかいいとだね?」
「だな?糸よりもさ、しっかり繋いでくれてて良いな?」
きれいな笑顔が素直に笑ってくれた。
この笑顔が自分はやっぱり大好き、笑顔を見れている今が幸せで周太は笑った。
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御岳山の登山口に戻ると光一が待っていてくれた。
クライマーウォッチを見ると10時を少し過ぎている。
すこし待たせたかもしれない?申し訳ないと思いながら周太は素直に謝った。
「ごめんなさい、ちょっと待たせたよね?」
「それは気にしなくていいよ、でも…宮田、ちょっと来い、」
光一は英二を呼ぶと右側に回り込む。
英二の右側体を眺めまわすと、底抜けに明るい目が真直ぐに切長い目を見た。
「宮田、ちょっと俺の車に寄れ。巡廻はその後だ、」
テノールの声が妥協は無しだと真直ぐ告げている。
そんな光一に英二は困ったなという顔で微笑んだ。
「やっぱり、解かるんだ?」
「そりゃね。たしかに救急法はさ、おまえの方が上だよ?でも俺だって救助隊だからね。ほら、行くよ」
救急法。
その言葉に周太は気がついて英二を見あげた。
「英二、さっきので怪我したの?俺の所為で、怪我した?」
「大丈夫だ、周太のせいじゃないよ?」
きれいに笑って英二は周太を連れて歩いてくれる。
ずっと御岳山を歩く間も英二は何のそぶりも見せなかった。
どんな怪我をしたの?不安なまま周太は思わず黙り込んだ。
「周太、そんな俯かないで?大丈夫だから、ね?」
「…でも…だって、クライマー任官したばかりだし…もうじき、北岳だって行くでしょ?なのに…ごめんなさい、」
山は基本、人間がいない。
それはアクシデントが起きたときに援けが無いということ、だから助かるには「自助」しかない。
それをよく知っているからクライマーは、特に職人気質の山ヤは「相互扶助」を暗黙の了解で行っていく。
けれどもし自助も相互扶助も不可能なら、唯一度のアクシデントでも即、死に繋がっていく。
吉村医師の次男である雅樹が、初めて救急用具を忘れた日に亡くなったように。
こんなふうに山では、唯一度のミスが自身の死と仲間を危険な救助へ巻きこむことに繋がっていく。
だから光一や英二のような職人気質に誇り高い山ヤたちは、自身のミスは誇りに懸けて許さない。
ミスをしない知識と技術、体への自信。これらを揃えて山ヤは山を登る自由を自分に許す。
だから山ヤは自身の体を大切にする、それなのに周太は大切な英二の体に怪我を負わせてしまった。
警察学校の時も英二は周太の為に酷い擦過傷を負ってしまった。その傷痕が今も本当は残っている。
また自分は今日も英二の体に傷を残してしまう?しかもクライマーとして任官したばかりの大切な時の今に?
我を忘れた時間は数秒だった、けれど、どんなに短い瞬間でも「ミス」であればこんな結果になっていく。
ほんとうに自分は愚かで、英二に相応しくない、このままの自分ではお荷物になってしまう。
哀しくて俯いて足元を見つめて歩く周太にテノールの声が笑った。
「ふうん、周太が原因なんだね?じゃ、宮田にとっては、名誉の負傷か。ま、事情聴取は処置しながらね?ほら、乗って?」
四駆の後部座席に光一は英二と並んで乗り込んだ。
自分のザックから救急用具を出しながら光一は英二に指示を出した。
「さて、宮田?ちょっと脱いでくれるかな、おまえの美しい右肩と右上腕をね、さ・わ・ら・せ・て?」
「やっぱり解るんだ、国村?でも、その言い方はちょっと嫌だな?」
笑いながら英二はスカイブルーのアウターシェルを脱いで、オレンジ色の隊服を脱いだ。
次はTシャツも脱ぐんだよね?そう思った途端、助手席から見守っていた周太はつい目を逸らした。
こんなの応急処置なら当然の事なのに恥ずかしい、ひとり困っている視界の端に白皙の肌が映った。
…やっぱり、思い出しちゃう、な
艶やかな白皙の肌まばゆい英二の上半身に、今朝と昨夜の記憶が気恥ずかしくなる。
いまそれどころじゃない時なのに、自分は何を呑気に気恥ずかしがっているの?
そう思っても気恥ずかしいのは嘘つけない、こんな自分に困ってしまう。
それでも怪我の様子が気懸りで、周太は視線を戻した。
「うん、大したことは無さそうだね?肩は何とも無い。上腕部に皮下出血、骨も筋も損傷なしだな。痛みはどうだ?」
「大丈夫だよ?この痣のとこがちょっと痛い程度かな?ま、明日明後日で治るだろ?」
英二の右上腕に痣が出来ている。蒼黒い痣が白皙の肌に痛々しい。
さっき周太を庇って抱きこんだまま英二は転倒した、その時にぶつけてしまったのだろう。
心配で見つめていると光一が笑いかけてくれた。
「怪我は大丈夫だよ。で、宮田が怪我をした原因は何かな?」
「俺が、雪道を走って…それで滑って、俺が崖に落ちそうになって、英二が守ってくれて…ごめんなさい、」
正直に話しながら周太は涙を2度ほど飲みこんだ。
つい俯きそうになる周太を英二は微笑んで見てくれている。
その優しい笑顔がうれしくて、けれど尚更に申し訳なくて周太は自分の迂闊さが恥ずかしかった。
「うん、もう言わなくても解ってると思うけどね。山では一瞬の不注意が文字通り命取りになる。だから、2度とダメだよ?」
周太の目を見ながら光一はきちんと「ダメだ」と言ってくれた。
光一の言葉に素直に頷くと周太は、反省と心配を口にした。
「…はい。本当に、ごめんなさい…あの、英二の怪我、今日は大丈夫?…北岳は平気?」
「うん、大丈夫だよ。今から、ちゃんと処置するからね」
英二の無事に、ほっとして周太は微笑んだ。
そんな周太を見て微笑むと、愉しげに光一は英二の腕にふれて悪戯っ子な目で言った。
「さて、み・や・た?ちょっと、お触り解禁してもらうよ?」
おさわりかいきん、ってなに?
よく解らなくて首傾げた周太の視界で、英二が可笑しそうに笑った。
「処置はお願いしたいけどさ、お触りはダメ」
「うん?お触り出来ないと処置出来ないだろ?これは不可抗力だね、ほら、さ・わ・ら・せ・て?」
「そうだけどさ、言い回し変えてよ?なんか嫌だよ、」
ふたり笑いあいながら愉しげに応急処置は進んでいく。
やっぱり光一も手際が良いな?感心して周太はプロの手元を見ていた。
そうして見ていた白い手が、不意に右上腕から胸元へと回されたのが周太の視界に飛び込んだ。
「ちょ、国村、そこ触る必要ないだろ?」
「必要あるね、俺の心も癒さないと困るだろ?大切なアンザイレンパートナーの負傷で、俺の心も負傷しちゃったんだからさ」
「それは他で癒してよ?やめろって、くすぐったいって。ほら、周太も困ってるだろ?」
ほんとにこまるんだけど。
いまちょっとあたまがまっしろなんだけど、でもこれは応急処置だよね?
そんな独り言がぐるぐる廻っている周太に、底抜けに明るい目が愉しげに笑った。
「御免ね、周太。こういうのがさ、大好きでたまんないんだよね、俺。聖人君子じゃない俺を許してね?」
「…あ、…はい…」
思わず気が抜けた返事を周太はしてしまった。
けれど光一はいよいよ愉しげに笑って英二に宣言した。
「ほら、宮田?可愛い婚約者からもお許し戴いたよ、これで安心だね。さ、ツンデレ女王さまご観覧のもと遠慮なく、し・よ・う?」
「俺、いま巡廻の途中だよ?そんなのダメ。って、やめろって、業務中なんだってば俺、」
「そっか、業務時間外ならOKなんだね。じゃ、遠慮なく今夜、夜這いさせて頂くよ?待っててね、み・や・た、」
「ちがうって。ほら、忙しいんだから俺、早く終わらせてよ?…あ、周太、違うってば、そんな顔しないで?」
本当に困った顔で英二が周太を見つめてくれる。
きっと英二の目が見つめているのは困り果てた周太の顔だろう。
その顔の通りに自分は困っている、けれどちょっと所在無くて拗ねてもいる。
だって嫌がってるふうでも英二は楽しそうじゃない?拗ねたそのまま素直に周太は口を開いた。
「…なにが違うの?しらない、すきにすれば?」
素っ気なく周太は言い放った。
けれど自分の顔は真赤になっているだろうな?思いながらも見ている先で英二が哀しそうに困った顔になった。
「周太…そんなこと言わないで?これ応急処置だよ…って、国村なにやってんの、やめてってば」
「そんな恥ずかしがっちゃって。可愛いね、俺のパートナーはさ?
ほら動くなよ、テーピングできないだろ?それとも、み・や・た?動けないようにして、って、緊縛プレイのおねだり?」
「違うよ、なに言ってんの?ちょ、ばか、ザイル出すなよ、周太もう怒ってるんだってば!早く処置終わらせてよ、」
これは山岳レスキュー現場の応急処置。
それなのに光一に掛ると随分と色合いが変わってしまうらしい。
気恥ずかしい光一の言い回しと必死で嫌がっていても艶やかな英二の姿を、周太は困りながら見ていた。
(to be continued)
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第35話 曙空act.4―another,side story「陽はまた昇る」
シャワーと着替えを済ませた周太は、浴室の鏡で自分の瞳と目があった。
ひとつ幸せな自信が灯された、そんな黒目がちの瞳がきれいに微笑んでいる。
きれいな明るい輝きが顕れた顔は昨夜の自分とまた違う貌になっていた。
この顔を英二はなんて言ってくれるだろう?
光一と美代はなんて言うだろう?
…なんだか、気恥ずかしくなってきちゃう、な?
自分がまた変化した理由は、きっと昨夜の所為。
昨夜に今朝に、英二に見つめられ愛された肌と心の記憶が、自分を明るませている。
それがわかるから気恥ずかしい、心から抱かれ愛された喜びがこそばゆい。
なによりも美代にどんな顔して会えば、いいのだろう?
…美代さんは英二に憧れている、でも、きっと…
昨夜と今朝で思い知らされた。
英二の心に憧れたなら、きっと恋しないではいられない。
昨夜一夜を過ごして朝を迎えた今、もう自分が英二から目を逸らせないように。
…美代さんは、英二を、きっと、恋するようになる
これから美代は会うたび英二に想いを深めていくだろう。
たぶん今日もまた美代の憧れは恋へと近づいていく。
そんな美代にとって自分の存在は、どう映るのだろう?
…でも、ね、俺にとっては美代さん、大好きな友達だから…離れたくない
昨夜は新宿駅の青梅線ホームでひととき会えた。
あのとき美代は周太に会えて心から喜んで、安堵の涙を流してくれた。
あの涙を、信じられなかったら、きっと友達とは言えない。
「ん。今日は、会いに行こう。わがままでも、会いたい」
ひとり言に決意と勇気をひとつ、心に言い聞かせる。
昨夜と今朝と英二にわがまま言ったように、正直に友達にも接したい。
わがままでも、ずるくても、これが今の自分だから仕方ない。受けとめ正直になるしかない。
自分は正直に生きてみたい、泣き虫な自分だけれど、すこしでも強くなりたい。
そんな決意で見た自分の瞳はどこか愉しげで明るい。
微笑んで周太は扉を開けて部屋に降りた。
「英二、お先にごめんね?ありがとう…」
きれいに笑いかけて周太は英二を見あげた。
いまパン屋から帰ってきたばかり、そんな雰囲気の英二はミリタリージャケットを脱ぎながら振り向いた。
「ちょうど良かったよ?俺も今、帰ってきたから…ね…」
言いかけた英二の目が周太の瞳を見つめて、ふっと言葉が消えた。
急にどうしたのだろう?見つめてくれる切長い目を周太は見上げて微笑んだ。
微笑んだ周太にすこし困ったように笑って、綺麗な低い声が言ってくれた。
「周太、なんだか、きれいになったね?…朝起きた時も想ったけど…困るよ、周太、」
昨夜も英二は「困る」と言っていた。
何がそんなに困ってしまうの?見上げながら周太は英二に抱きついた。
「どうして、困るの?…俺、そんなに英二を困らせてるの?」
「うん、そんなに困らせてるよ?…離れたくなくなって…閉じ込めて、ずっと抱きしめていたくなるから…」
すこしかがみこんで頬寄せて、そっとキスで唇ふれてくれる。
やさしい穏やかな温もりを贈って、すぐに離れると英二は微笑んで浴室へと入っていった。
ぱたんと閉じられた扉を見つめて周太は佇んだ。
…閉じ込めたい、のは…どっちだろう?
周太は指先でそっと唇にふれた。
まだ唇にはどこか感触と残り香を感じてしまう。
こんなの気恥ずかしい、けれど幸せに微笑んで周太はコーヒーを淹れ始めた。
簡単な朝食を済ませると英二は青梅署へと戻っていった。
やさしいキスをくちびるに残すと「また御岳山で」と、きれいな笑顔を見せて部屋から出て行った。
見送った背中は昨日よりも頼もしく広やかだった。
…自分の顔が、昨夜と今朝で変わったように、英二の背中も変わった、ね?
昨夜一夜のこと。
けれど英二と自分にとって一夜の意味は深い。
一夜の意味を静かに示してくれる背中が愛しくて、見惚れるよう周太は見つめて見送った。
見送ると、クライマーウォッチは7:00だった。
いつもなら、こういう時間に青梅署診察室で吉村医師の手伝いをして、コーヒーを淹れる。
でも今日は日曜日だから診察室は原則休診で、吉村医師は自宅にいる。
だから今回は吉村医師には会えない、けれど火曜日から3日間滞在する時にきっと会える。
昨夜一夜で自分の心は変化した、この今の想いを吉村医師なら何と言ってくれるのだろう?
…また聴いてほしいな、コーヒーも淹れてさしあげたい
後で連絡しておこう、今度は川崎の菓子をご馳走したいな?
考えながらマグカップを洗って片付けると周太は荷物をまとめた。
それから光一の迎えが来る8時までを、青い表装が美しい樹医の本に楽しんだ。
誕生から巨樹へと育っていくプロセス、樹木の終焉の姿。
植物と動物の生態系と森の創生。
樹木が抱いた水が、湧水になって地表へ顕れる様々な事例。
古木の保存と若木の関係性と樹木を枯死から守る事例たち。
千年を超えて山に佇み続けている、ある巨樹と水の物語。
こんなふうな、樹木に廻る生命こめられた項目たちが目次にたくさん列記されている。
どの項目すべてに惹きつけられてしまう、うれしいため息を周太は吐いた。
どれから先に読んでも良いように、上手に文章構成がされているらしい。
昨夜はいちばん最初の樹木が芽吹いたところ、ブナの木の成長記録から読んだ。
その続きのページを丁寧に開くと、樹齢10年に成ったブナの木が文字からすっくり現れる。
そうして読んでいく文章に、瑞々しくブナは風雪のなか佇んで齢を重ね始めた。
…人の一生よりも長い時のながれに、木はずっと同じ場所に佇んで…
畏敬の想いに周太は、ほっとため息を吐いた。
植物は人間と違って動き回らない、けれどずっと長く生きることが多い。
そうして1カ所を長い時間を見つめ続けることは「静謐」だろうか?
この長い時のながれに唯佇んで、木はなにを想っているのだろう?
「はい、周太?もう、時間だよ。本はしまいな?」
とつぜん透明なテノールの声に笑いかけられて、驚いで周太は顔をあげた。
見ると、農業青年スタイルの光一が可笑しそうに笑ってすぐ隣に立っている。
急いで立ち上がると周太は見上げて首を傾げた。
「光一?…どうやって、部屋に入ってきたの?」
「うん?まあね、これくらいならさ、ちょっと工夫すれば開けられるよ?おはよう、周太」
光一は細工した針金で英二の部屋を開錠してしまう。
そのことを周太は英二に聴いたことがある、けれどビジネスホテルの扉まで開けてしまうなんて?
本を鞄にしまって、あわい水色の登山ジャケットを着ながら周太は訊いてみた。
「おはよう、光一。あの、…針金で、ここも開けたってこと?」
「そうだよ?ほら、早く行こうよ。宮田を待たせたら悪いだろ?あ、チェックアウトの手続きはね、宮田がやったってさ」
話しながら光一は周太のダッフルコートと鞄を持ってくれる。
そして周太の左掌をとると、愉しげに笑って外へと連れ出してくれた。
すぐ近くに停めてあった四駆の助手席に乗せてくれると運転席で光一は笑った。
「今日はさ、俺、ばあちゃんのレストランの仕込みが朝だけあるんだ。でも御岳山の巡回が終わる頃にはね、迎えに行けるよ」
話しながらアクセルとクラッチを登山靴の足は捌いていく。
きっと「仕込み」は山の畑にも行くのだろうな?そのことを光一の登山靴に周太は気がついた。
きっと朝の忙しい時間を光一は周太の為に割いてくれた、申し訳なくて周太は唇を開いた。
「忙しそうだね、光一?あの、無理に付きあってくれなくても、いいよ?…急に来たんだし、俺は一人でも大丈夫だよ?」
遠慮がちに周太は予定変更の提案をした。
けれど底抜けに明るい目は運転席から温かく笑ってくれた。
「なに言ってんのさ?せっかくのチャンスなんだよ、俺には。
君とデートできるっていうさ、大切なチャンスだ。君を独り占めできる時間を、俺は過ごしたいよ。君は嫌なの?」
「あの、そう言われると、恥ずかしいんだけど、嫌じゃないよ?…なんか、気を遣わせて、ごめんね?」
相変わらずのストレートな言葉は嬉しい、けれど気恥ずかしい。
しかも昨夜と今朝に深くこめられた英二の残り香が、肌に温められて服のはざま昇ってきてしまう。
大好きな深い森のような穏やかな香が愛しい面影を見せて、つい惹きこまれそうで気恥ずかしい。
こんなの面映ゆくて困ってしまう。つい俯き加減になる周太に光一は可笑しそうに微笑んだ。
「ふうん、俺には遠慮しちゃうわけ?そんな出し惜しみしないでさ『ツンデレ女王さま周太』を、俺にも見せてよ?」
「…っ、」
驚いて周太は思わず運転席の横顔を見あげた。
雪白の秀麗な横顔は愉しげで「ほら、遠慮しないで?」と横目で笑っている。
もう英二は光一に昨夜のことを話してしまったの?恥ずかしくて首筋がとっくに熱い。
どうしようと困っていると、愉しげに光一は教えてくれた。
「宮田が戻ってきたからさ、あいつの部屋に今日の打ち合わせに行ったんだよ。
で、いつも通りに俺は、制服生着替えを堪能していたらさ?あいつの左肩に、そりゃ綺麗なキスマークを発見したってワケ」
いつも通り、って言った?
いま聴いた光一の言葉に思わず周太は反復してしまった。
「せいふくなまきがえ、って…」
こんなえっちないいかたされたらびっくりする。
っていうかこういちは、まいあさえいじにそんなことしているの?
途惑って赤くなる周太に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑って言った。
「そ、制服に着替える宮田を鑑賞するんだよ。これがマジ眼福でね、スッカリ癖になってんの俺。
あんな極上の別嬪をアンザイレンパートナーにしてるんだ、その権利は最大限利用しないと勿体無いだろ?
で、遠慮なく堪能してるよ。ストイックな制服ってトコがまた、そそられるんだよね?あ、お触りは無しだから。安心しなね、」
いつもなにやってるんだろうこのひと?
すっかり気を抜かれて、周太は気の抜けた相槌を打った。
「…そう、…」
「うん、そうだよ?で、左肩のキスマークがまたね、艶っぽくて最高だったよ。今朝はイイ朝だね、」
満足げに細い目が笑っている、心底楽しくて仕方ない顔で。
そのキスマークを付けたのが誰か?この事実に周太は恥ずかしくて額まで熱を昇せた。
そんな真赤な周太を観ながら光一は殊更な満足に笑うと言葉を続けた。
「で、あいつの綺麗な背中がさ、また艶っぽいんだよね?
ただでさえ美肌なのに眩く艶めいちゃってさ、もう幸せ充実してますってカンジの、最高に眼福な背中。
で、こりゃさぞイイ夜だったろうなって思ってね、『おまえ押し倒しちゃったのかよ?』って、カマかけたらさ?
あいつ『違う、ツンデレ女王さまに命令されたんだ』って、つい自白しちゃったんだよね。で、事情聴取させて頂いたってワケ」
どうしていつもこうなのこのひとたち?
ほんとうにえっちなことばっかりすきなんだから?
こんなこと自分には付いていけない、どうしたらいいのか困ってしまう。
それでも周太はなんとか声をのどから押し出した。
「…ん、そう…」
「そうだよ?で、ドリアード、君も俺に聴かせてくれるかな?」
光一の言葉に周太は運転席を見あげた。
信号で停まると運転席の横顔がふり向いて、底抜けに明るい目が温かに笑いかけてくれる。
そして透明なテノールの声が愉しげに問いかけた。
「ドリアード、君は、愛する婚約者の腕のなかで、幸せな夜と朝を過ごせた?」
愉しげな声、けれど奥に微かな哀しみがある事を自分は知っている。
でもこの声には、それ以上に自分の幸せと笑顔を願う祈りが込められている。
素直に頷いて周太は、きれいに笑った。
「ん。幸せな夜と朝だったよ?…今までで、いちばん幸せだよ?」
きっと今、自分の顔は最高の幸せに輝いている。
だってほら、自分の顔を見る光一が、心から嬉しそうに微笑んでくれる。
そんな光一の笑顔がきれいで、けれど自分の心がほんとうは軋んで痛い。
ほんとうは光一の願いを知っている。
けれど、どうしていいのかまだ解らない。ただ今は正直にいるしか出来ない。
それでも心が痛いのも本当で、けれど周太は笑顔を崩さず底抜けに明るい目へと笑いかけた。
底抜けに明るい目は瞳を見つめ返して、透明なテノールの声が周太に笑ってくれた。
「うん、幸せな笑顔だね?この笑顔を俺は見たかったんだ。そりゃ、妬けるけどさ?」
きれいに笑う光一の目は底抜けに明るく大らかさが温かい。
こんな大らかな人が初恋を自分に与えてくれた、その感謝を抱いて周太は微笑んだ。
「ん。ありがとう、…妬かせて、ごめんね?でも、正直な気持ちだから…仕方ないでしょ?」
光一の気持ちを知っている、それなのに自分はわがままに正直に言っている。
こんな自分はずるいだろう、それでも嘘つくよりはずっといい。
わがままでしょ?そう微笑んだ先で光一は愉しそうに笑った。
「正直な気持ちは大歓迎だよ、ツンデレ女王さま?さ、着いた」
御岳山麓の滝本駅に四駆は着いた。
駅の近くには御岳駐在所の白い自転車が停まっている、英二はもう登山口に着いたのだろう。
急いで助手席から降りて運転席の窓近くに立つと、光一が笑ってくれた。
「登山口に10時位には迎えに行くよ、そしたら俺とデートしてね?ツンデレ女王さま周太を見せてほしいな、」
「ん、ありがとう…きっと、わがままで、大変だよ?」
「イイね、ちょっと俺を困らせてみてよ?あとさ、雪道は絶対に走っちゃダメだからね?」
「ん。走らない、気をつけるね、」
笑って別れると周太は御岳山の登山口へと向かった。
山道には雪が残って登山靴の底をざくりと締雪の感触が響いていく。
足元に気をつけながら登ってすぐに、スカイブルー鮮やかな救助隊アウターシェル姿の背中が見えた。
たった1時間ほど前に見送ったばかりの背中、けれどもう懐かしくて周太は無意識に雪を蹴りこんだ。
…英二、
すこしでも早く隣に行きたい、すこしでも長く傍にいたい。
正直な想いのまま雪の山道を駆けだす周太の登山靴から固い雪が散っていく。
締雪を蹴りこむ靴音にスカイブルーの背中が振り返ってくれた。
「…周太!ダメだ、走るな!凍った雪道はダメだ、」
綺麗な低い声が叫んだ。
叫ぶと同時に英二は、アイゼンで雪道を踏んで足早に歩み寄ってくる。
声に我に返って周太は、ここが雪の山道だったことを思い出した。
…あ、そうだ、凍った雪道は、ダメ
足を止めかけた時、不意に登山靴の底が凍れる雪にとられた。
凍れる雪のなめらかさが足の動きから自由を奪って靴底が滑りだす。
ぐらり、体のバランスが崩されていく、体が斜めに傾いて横へと倒れていく。
崩れかけた体が傾いていく先に、白い斜面が待つのを周太の瞳は見た。
落ちる、
「周太!」
スカイブルーの長い腕が伸びて、あわい水色の小柄な体を抱え込んだ。
がくん、斜面へと崩れかけ逸れた体がひきとめられ、強い腕が抱きよせる。
素早く周太の体を抱きこんで英二は山側へと倒れ込んだ。
「…っ、」
どさり、雪道にスカイブルーの救助隊服姿が横倒しになる。
それでも強い腕は周太を抱え込んだまま解けなかった。
抱え込んで、そのまま山際まで這い寄って英二は崖から離れていく。
そうして山際の安全な場所まで着いて、初めて英二は笑った。
「…周太、よかった…!」
抱きしめたまま起きあがって、きれいな笑顔が華やいだ。
登山グローブをはめた長い指が周太の髪から、そっと雪を払ってくれる。
うれしそうに切長い目が微笑んで、こつんと額に額をぶつけてくれた。
「ダメじゃないか、周太?ほんとうにね、雪道は危ないんだ。走っちゃダメだ、たぶん国村にも言われただろ?」
「…はい、…」
また自分は浅はかなことをしてしまった。
我を忘れて走ってしまった、そんな子供じみた自分が恥ずかしい。
なにより自分の所為で英二を今、危険な状況に晒してしまった。
申し訳なさ、羞恥、哀しみ、それから安堵。
いっぺんに押し寄せる感情の波に揺らされ迫り上げられて、つい涙がこぼれ落ちた。
「…ごめ、なさい…」
ほら、また泣いてしまった。
こんな泣き虫な自分はずるい、すぐ泣いてわがままに甘えてしまう。
もう23歳で男なのに、こんな自分は恥ずかしい。けれど涙が止まってくれない。
こぼれる涙が恥ずかしくて俯きかけた顔を、片手で器用に登山グローブを外した掌がくるみこんだ。
「大丈夫だ、周太。もう2度とやらなければそれでいい。約束、出来るな?周太、」
「ん、やくそくする…ごめんなさい、英二…俺、また、…警察学校の時も、そうだったのに…」
警察学校の山岳訓練でも周太は英二を危険に巻きこんだ。
同期の松岡が崖から落ちかけて助けたくて、冷静な判断を欠いた無理な救助を周太はしてしまった。
それでも松岡は助けられた、けれど周太は自分が滑落してしまった。
そして谷底まで滑落した周太を救けてくれたのは英二だった。
あのとき英二が周太を救助することは、危険なことだった。
それでも英二は谷底まで周太を救けに来てくれた、その後の怪我の看護もずっとしてくれた。
…あのとき、いっぱい後悔して、反省したはず、だったのに
どうして自分はいつも、つい、冷静さを落っことすのだろう?
そうして英二をまた危険に巻きこんでしまった、そんな自分が悔しくて哀しくて涙が止まってくれない。
けれど切長い目は楽しそうに笑って、やさしい笑顔は言ってくれた。
「あの時か、懐かしいな?ね、周太?あの時があったから、俺は今、山岳救助隊になれてるよ?だからいいんだ、」
やさしい長い指が涙を拭ってくれる。
こんな子供みたいに泣いている自分が恥ずかしい、周太は軽く唇をかんだ。
そんな周太にきれいに笑って、英二はオレンジ色のパッケージから飴を出してくれた。
「泣顔も可愛いね、周太は。ほら、あーん、して?」
「…ん、はい」
素直にくちびる解くと、きれいな長い指が飴を含ませてくれる。
なじんだオレンジと蜂蜜の甘さと香がやさしい、好きな味に周太は微笑んだ。
ひとつぶ自分も口に入れると、英二はザックからアイゼンを取出して周太に履かせてくれた。
「周太、きつくない?大丈夫」
「ん、へいき、」
「良かった。…うん、これでいいかな?」
きちんとアイゼンが装着されたのを英二が確認してくれる。
それから英二は周太を立たせてくれた。
「さ、行こうか?周太の『雪山』が待ってるよ?」
周太の誕生花『雪山』という名の山茶花は川崎の家の庭に咲いている。
これと同じ花木が御岳山上にも佇んでいる。
自分を木が待っている、その言葉がうれしくて周太は笑った。
「ん、会いたい、『雪山』に…あの、英二?」
「うん?どうした、周太」
呼びかけに英二が笑って名前を呼んでくれる。
向けてくれる笑顔をうれしく見上げると、背伸びして周太は英二にキスをした。
「救けてくれて、ありがとう、英二…ほんとうに、ごめんなさい、」
「キスのお礼、うれしいよ?こっちこそ、ありがとう、周太、」
きれいな幸せな笑顔が咲いて、雪道を歩き始めた。
並んで歩く道を英二は山側へと周太を歩かせてくれる。
すこし歩いてすぐに、ふと英二は立ち止まった。
「うん、やっぱり周太?念のためにショートロープしよう、」
「え、…あの、ザイルで繋ぐやつ?」
「そうだよ。ちょっと雪が凍ってるし、ロックガーデンは滑りやすいから」
話しながら英二はザイルをだすと、手早く支度を始めた。
手際よく周太のウエストにザイルを巻いて、きれいにショートロープのセッティングをしてくれる。
「これで安心だよ、さ、行こうか?」
「ん、…あの、お世話かけて、ごめんね?」
ザイルで繋がれながら周太は英二を見あげた。
長い指はザイルの長さ調整を器用にしながら、きれいな笑顔が周太に笑ってくれる。
「謝ることないよ、周太?ほら、ザイルで繋がれてさ、なんか赤い糸みたいだ。ね、周太?」
幸せそうに端正な顔が笑ってれる。
ちょうど周太は「赤いザイルを肩掛けした英二の姿が格好良いな」と見ていた。
だから図星刺されたようで周太はまた赤くなってしまった。
「ん、そう、だね?…きょうりょくなあかいいとだね?」
「だな?糸よりもさ、しっかり繋いでくれてて良いな?」
きれいな笑顔が素直に笑ってくれた。
この笑顔が自分はやっぱり大好き、笑顔を見れている今が幸せで周太は笑った。
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御岳山の登山口に戻ると光一が待っていてくれた。
クライマーウォッチを見ると10時を少し過ぎている。
すこし待たせたかもしれない?申し訳ないと思いながら周太は素直に謝った。
「ごめんなさい、ちょっと待たせたよね?」
「それは気にしなくていいよ、でも…宮田、ちょっと来い、」
光一は英二を呼ぶと右側に回り込む。
英二の右側体を眺めまわすと、底抜けに明るい目が真直ぐに切長い目を見た。
「宮田、ちょっと俺の車に寄れ。巡廻はその後だ、」
テノールの声が妥協は無しだと真直ぐ告げている。
そんな光一に英二は困ったなという顔で微笑んだ。
「やっぱり、解かるんだ?」
「そりゃね。たしかに救急法はさ、おまえの方が上だよ?でも俺だって救助隊だからね。ほら、行くよ」
救急法。
その言葉に周太は気がついて英二を見あげた。
「英二、さっきので怪我したの?俺の所為で、怪我した?」
「大丈夫だ、周太のせいじゃないよ?」
きれいに笑って英二は周太を連れて歩いてくれる。
ずっと御岳山を歩く間も英二は何のそぶりも見せなかった。
どんな怪我をしたの?不安なまま周太は思わず黙り込んだ。
「周太、そんな俯かないで?大丈夫だから、ね?」
「…でも…だって、クライマー任官したばかりだし…もうじき、北岳だって行くでしょ?なのに…ごめんなさい、」
山は基本、人間がいない。
それはアクシデントが起きたときに援けが無いということ、だから助かるには「自助」しかない。
それをよく知っているからクライマーは、特に職人気質の山ヤは「相互扶助」を暗黙の了解で行っていく。
けれどもし自助も相互扶助も不可能なら、唯一度のアクシデントでも即、死に繋がっていく。
吉村医師の次男である雅樹が、初めて救急用具を忘れた日に亡くなったように。
こんなふうに山では、唯一度のミスが自身の死と仲間を危険な救助へ巻きこむことに繋がっていく。
だから光一や英二のような職人気質に誇り高い山ヤたちは、自身のミスは誇りに懸けて許さない。
ミスをしない知識と技術、体への自信。これらを揃えて山ヤは山を登る自由を自分に許す。
だから山ヤは自身の体を大切にする、それなのに周太は大切な英二の体に怪我を負わせてしまった。
警察学校の時も英二は周太の為に酷い擦過傷を負ってしまった。その傷痕が今も本当は残っている。
また自分は今日も英二の体に傷を残してしまう?しかもクライマーとして任官したばかりの大切な時の今に?
我を忘れた時間は数秒だった、けれど、どんなに短い瞬間でも「ミス」であればこんな結果になっていく。
ほんとうに自分は愚かで、英二に相応しくない、このままの自分ではお荷物になってしまう。
哀しくて俯いて足元を見つめて歩く周太にテノールの声が笑った。
「ふうん、周太が原因なんだね?じゃ、宮田にとっては、名誉の負傷か。ま、事情聴取は処置しながらね?ほら、乗って?」
四駆の後部座席に光一は英二と並んで乗り込んだ。
自分のザックから救急用具を出しながら光一は英二に指示を出した。
「さて、宮田?ちょっと脱いでくれるかな、おまえの美しい右肩と右上腕をね、さ・わ・ら・せ・て?」
「やっぱり解るんだ、国村?でも、その言い方はちょっと嫌だな?」
笑いながら英二はスカイブルーのアウターシェルを脱いで、オレンジ色の隊服を脱いだ。
次はTシャツも脱ぐんだよね?そう思った途端、助手席から見守っていた周太はつい目を逸らした。
こんなの応急処置なら当然の事なのに恥ずかしい、ひとり困っている視界の端に白皙の肌が映った。
…やっぱり、思い出しちゃう、な
艶やかな白皙の肌まばゆい英二の上半身に、今朝と昨夜の記憶が気恥ずかしくなる。
いまそれどころじゃない時なのに、自分は何を呑気に気恥ずかしがっているの?
そう思っても気恥ずかしいのは嘘つけない、こんな自分に困ってしまう。
それでも怪我の様子が気懸りで、周太は視線を戻した。
「うん、大したことは無さそうだね?肩は何とも無い。上腕部に皮下出血、骨も筋も損傷なしだな。痛みはどうだ?」
「大丈夫だよ?この痣のとこがちょっと痛い程度かな?ま、明日明後日で治るだろ?」
英二の右上腕に痣が出来ている。蒼黒い痣が白皙の肌に痛々しい。
さっき周太を庇って抱きこんだまま英二は転倒した、その時にぶつけてしまったのだろう。
心配で見つめていると光一が笑いかけてくれた。
「怪我は大丈夫だよ。で、宮田が怪我をした原因は何かな?」
「俺が、雪道を走って…それで滑って、俺が崖に落ちそうになって、英二が守ってくれて…ごめんなさい、」
正直に話しながら周太は涙を2度ほど飲みこんだ。
つい俯きそうになる周太を英二は微笑んで見てくれている。
その優しい笑顔がうれしくて、けれど尚更に申し訳なくて周太は自分の迂闊さが恥ずかしかった。
「うん、もう言わなくても解ってると思うけどね。山では一瞬の不注意が文字通り命取りになる。だから、2度とダメだよ?」
周太の目を見ながら光一はきちんと「ダメだ」と言ってくれた。
光一の言葉に素直に頷くと周太は、反省と心配を口にした。
「…はい。本当に、ごめんなさい…あの、英二の怪我、今日は大丈夫?…北岳は平気?」
「うん、大丈夫だよ。今から、ちゃんと処置するからね」
英二の無事に、ほっとして周太は微笑んだ。
そんな周太を見て微笑むと、愉しげに光一は英二の腕にふれて悪戯っ子な目で言った。
「さて、み・や・た?ちょっと、お触り解禁してもらうよ?」
おさわりかいきん、ってなに?
よく解らなくて首傾げた周太の視界で、英二が可笑しそうに笑った。
「処置はお願いしたいけどさ、お触りはダメ」
「うん?お触り出来ないと処置出来ないだろ?これは不可抗力だね、ほら、さ・わ・ら・せ・て?」
「そうだけどさ、言い回し変えてよ?なんか嫌だよ、」
ふたり笑いあいながら愉しげに応急処置は進んでいく。
やっぱり光一も手際が良いな?感心して周太はプロの手元を見ていた。
そうして見ていた白い手が、不意に右上腕から胸元へと回されたのが周太の視界に飛び込んだ。
「ちょ、国村、そこ触る必要ないだろ?」
「必要あるね、俺の心も癒さないと困るだろ?大切なアンザイレンパートナーの負傷で、俺の心も負傷しちゃったんだからさ」
「それは他で癒してよ?やめろって、くすぐったいって。ほら、周太も困ってるだろ?」
ほんとにこまるんだけど。
いまちょっとあたまがまっしろなんだけど、でもこれは応急処置だよね?
そんな独り言がぐるぐる廻っている周太に、底抜けに明るい目が愉しげに笑った。
「御免ね、周太。こういうのがさ、大好きでたまんないんだよね、俺。聖人君子じゃない俺を許してね?」
「…あ、…はい…」
思わず気が抜けた返事を周太はしてしまった。
けれど光一はいよいよ愉しげに笑って英二に宣言した。
「ほら、宮田?可愛い婚約者からもお許し戴いたよ、これで安心だね。さ、ツンデレ女王さまご観覧のもと遠慮なく、し・よ・う?」
「俺、いま巡廻の途中だよ?そんなのダメ。って、やめろって、業務中なんだってば俺、」
「そっか、業務時間外ならOKなんだね。じゃ、遠慮なく今夜、夜這いさせて頂くよ?待っててね、み・や・た、」
「ちがうって。ほら、忙しいんだから俺、早く終わらせてよ?…あ、周太、違うってば、そんな顔しないで?」
本当に困った顔で英二が周太を見つめてくれる。
きっと英二の目が見つめているのは困り果てた周太の顔だろう。
その顔の通りに自分は困っている、けれどちょっと所在無くて拗ねてもいる。
だって嫌がってるふうでも英二は楽しそうじゃない?拗ねたそのまま素直に周太は口を開いた。
「…なにが違うの?しらない、すきにすれば?」
素っ気なく周太は言い放った。
けれど自分の顔は真赤になっているだろうな?思いながらも見ている先で英二が哀しそうに困った顔になった。
「周太…そんなこと言わないで?これ応急処置だよ…って、国村なにやってんの、やめてってば」
「そんな恥ずかしがっちゃって。可愛いね、俺のパートナーはさ?
ほら動くなよ、テーピングできないだろ?それとも、み・や・た?動けないようにして、って、緊縛プレイのおねだり?」
「違うよ、なに言ってんの?ちょ、ばか、ザイル出すなよ、周太もう怒ってるんだってば!早く処置終わらせてよ、」
これは山岳レスキュー現場の応急処置。
それなのに光一に掛ると随分と色合いが変わってしまうらしい。
気恥ずかしい光一の言い回しと必死で嫌がっていても艶やかな英二の姿を、周太は困りながら見ていた。
(to be continued)
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