凍れる夜と、夢の温度
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第37話 凍嶺act.1―side story「陽はまた昇る」
厳冬期2月下旬の平日、夜叉神の森駐車場は空いていた。
国村の祖母が用意した握飯とカップ麺で朝食を済ませると、英二と国村は登山道へと入った。
午前3時半、夜叉神の森は冬夜の眠りに静まり、雪踏む音も静寂に呑みこまれていく。
雪山の静謐に透明なテノールが低く笑った。
「うん、この時間だと雪もさ、それなりに締って歩きやすいかな」
ヘッドランプの下で細い目が楽しげに笑んでいる。
お互いテント泊縦走用の装備が肩に荷重を掛けていく、けれど遭難救助の装備を背負うより楽だなと英二は思った。
それでも足元は荷重に沈みやすい、こんな雪の感触も愉しくて英二は微笑んだ。
「ちょっとさ、ざらりとした音が、かき氷みたいだな?」
「かき氷か、夏は好きだね。ばあちゃんの作る梅シロップだとまた旨いよ、夏になったら食おうな?」
国村の祖母は料理名人と御岳では有名で週末だけ農家レストランも開いてる。
今朝の握飯もそうだけれど、英二と藤岡もよく差入の相伴を楽しませてもらう。
きっと彼女が作るのなら美味しいだろうな、素直に頷いて英二は訊いてみた。
「ありがとう、旨いんだろな。国村ん家の梅で作るんだ?」
「そ。俺の梅の木が結構イイ実をつけるんだよ、野梅系の品種でさ、香が良いんだ。それを使うんだよね」
「国村の梅の木?」
「そ。俺んちってね、子供が生まれたり嫁さん貰うとさ、山に梅を植えるんだ。で、俺んちの山は梅だらけってワケ」
他愛ない話をのんびりしながら夜叉神のゲートを通過していく。
監視ボックスの脇を通りながら国村は目を細めて唇の端をあげた。
「ここにさ、6時になるとね、オッサンが入っている訳さ?で、ガタガタ言うんだって有名なんだよね」
「その人って、どういう権利で封鎖しているんだろ?県警は問題なく登山計画書を受領してくれるから、県はOKってことだろうし」
冬期の北岳登山は奈良田と夜叉神の2つが主な入口になる。
けれど奈良田のトンネルは針山のようなゲートで封鎖され、夜叉神は件の監視ボックスが関門となってしまう。
夜叉神トンネル入り口の金属扉を開きながら、テノールの声が軽く嗤った。
「南アルプス市のね、通称林道課ってとこの話だとさあ?
林道法面からの氷や岩石の落下があるから通行しない様にお願いしている、って話らしいけど、ねえ?
法的根拠は無いんだよ、禁止じゃなくって安全のため『お願い』しているらしいけどさ?お願いって態度を学習してほしいね」
語尾に「さあ?」「ねえ?」が入っている。
この場合は不機嫌な「ねえ?」他だろう、よほど腹に据えかねる事態があるらしい。
トンネルのあわい照明とヘッドライトの下で英二は訊いてみた。
「そんなに態度すごいんだ?」
「ああ、スゴイよ。ザックを掴まれたって話も聞くね。それこそ暴行罪だろが?
だいたいさあ、山に登る自由は自己責任だ。怒鳴ってまでココで安全指導するならさ、冬富士や剣岳の方がよっぽど必要だね。
それにね、俺たち山ヤはさ、結局は止めたって登るもんなあ?ここが通れなきゃ、もっとヤバいルートで入るだけでさ。ねえ?」
法的根拠のない通行止め。
この問題はこれからどうなるのかな?法学部出身の英二としては、つい考えてしまう。
暖かいトンネルの長い道を抜けると、星空が頭上に広がっていく。
無事にゲートとトンネルを抜けた開放感に微笑んだ英二に、満足げに国村が笑いかけた。
「さ、自由だ。でね、この後の鷲ノ住山への入口を間違える人が多いんだよね。しばらく樹林帯を歩くよ、」
歩き出した樹林帯は凍れる梢が白々と夜闇に透けて見える。
まだ夜明け遠い空がみせる深い青藍の色彩は深海の底を想わせた。
確実なアイゼンワークに2人並んで歩きながら、標高と距離を稼いでいく。
工事慰霊碑を過ぎてしばらく歩いた道標を見、ゆるやかな登りを上がる。
「あの慰霊碑のとこでさ、下っちゃう人がいるんだよ。で、道迷い」
「この時期、ここで道迷いになったらさ?捜索の県警と監視ボックスで喧嘩になりそうで、嫌だな」
奥多摩での救助現場でも、警視庁山岳救助隊と地元の各関係機関の連携は欠かせない。
それなのに、ここ北岳の冬期入山に対する態度が、市の林道課と県警で食い違っている。
こういう断裂は緊急時対応に響かないのだろうか?
山岳レスキューの1人として現場の心配をついしてしまう。
もし自分ならどうするだろう、考えかけた英二に国村はからり笑った。
「そうだねえ?ま、俺だったらさ、一言ちょっと言わせてもらって通してもらうね。
人命救助と尊厳、そして山の自由を守る。これが俺たち、山ヤの警察官の任務だからさ。ねえ?」
この「一言」が国村は恐ろしい。
もし国村が山梨県警でここの管轄だったら、ある意味で簡単に決着がつくかもしれない?
そんなことを考えながら英二は発電所のある野呂川吊橋を渡った。
林道と3つのトンネルを通過して、歩き沢橋手前の登山口に着くと、国村が登山グローブの指で先を示した。
「ここから樹林帯をさ、ちょっと長い登りが始まるよ。だらっと雪を歩いていく良い訓練になる」
「うん、池山御池小屋まで行くんだよな?」
「そ。池山辺りで日の出かな?今のとこはまあ、目標タイム通りかな」
ざくりさくりアイゼンに雪踏んで速いピッチでも着実に進んでいく。
通常よりだいぶピッチが速い国村は、すでに6,000m峰は海外遠征訓練に参加して踏破している。
このピッチを自分のものにしなければ、到底のこと8,000m峰でのアンザイレンパートナーを組めない。
国村の足運びと呼吸に自分を合わせながら、いま歩く北岳に続く雪道を英二は訓練に楽しんだ。
コメツガやシラビソの樹林を登り、標高2,063m池山のピークを過ぎると明るみ始めた池山御池小屋が見えてくる。
雪は膝下位の深さになり、小屋の手前にひろがる池も雪埋もれて、平らかな雪原の姿になっていた。
あわい陽射の気配に佇む雪原は穏やかに優しい、きれいだなと微笑だ英二に国村が笑いかけた。
「日の出は近いね?そろそろ休憩しよう」
「うん、なんとか目標タイム通りかな?」
「だね。通常タイムの半分弱で来れたけどさ、ま、こんなもんかな?」
夜の紺青が暖色の光に交替していく空の下で、話しながら幾らか雪を除けていく。
雪中にスペースを作ると並んで腰を下ろし、クッカーに火を入れた。
沸きあがってくる湯の音を聴きながら遠望する、明るんでいく空が美しい。
遠くから射す朝いちばんの陽光に頬を温めながら、英二は微笑んだ。
「国村、太陽が生まれるな?」
「うん、今日っていう1日がね、生まれる瞬間だな」
底抜けに明るい目も朝陽に細められて、満足げに微笑んだ。
いま林に囲まれた視界では旭日は見えないけれど、明日は美しい姿が見られるだろう。
それでも朝の陽光の気配が山で感じられるのは気持ちが良い。
インスタント・スープを作って飲みながら、雪の冷気と陽光の熱をふたり楽しんでいた。
飲み終えて温まるとクライマーウォッチは7時半を示している。
積雪が予想より少なかったこともあって、一般的な通常ペースの半分のタイムでこれた。
今朝は3時起きだったけれど疲れもほとんどない。
毎日の訓練と現場経験のおかげだろう、日常の積み重ねに英二は感謝した。
「宮田、体調とかどう?高度2,000だけどさ、」
「いつもどおりだよ。夜間ビバークで救助とかだと気も張るけれど、自由に登るのは楽しいし」
「まあね、山岳レスキューの人間で8,000m峰に行こうってヤツがさ?この程度でへばっていたら話になんないね、」
からり笑って国村が立ち上がると、ぐるり首を歩と回しして北岳方面を遠望した。
英二もザックを背負いあげて立つと、雪をまた簡単に戻してから北岳の方を眺めた。ここからはまだ北岳は見えない。
「この先のさ、ボーコン沢の頭まで行かないと、見えないんだよね」
「うん、雑誌とかで読んだけど、ほんとに見えないんだな」
東面の大岸壁は「バットレス」と呼ばれ、その威容はさまざまな写真で英二も見てきた。
国村の部屋にも額に収められた写真が窓のようだった。あの写真の世界近くに今、もう自分は立っている。
登頂を楽しみにしながら英二は国村と雪のなかを歩き始めた。
池山吊尾根を登り1時間半ほどで砂払いに着くと、森林限界のここは眺望がいきなり開ける。
きれいな富士山の遠望をバックに国村が笑った。
「ここの平地は3張くらい幕営できるんだ、で、今のとこ他にいないからさ?一番いい場所が選べるね」
「うん、今、もう張るんだろ?」
ザックをおろしながら英二は微笑んだ。
その隣に来ると国村もザックをおろし、テントの準備を始めていく。
「そ。俺たちのね、今夜の愛の巣を作るよ?み・や・た、」
「テントは作るけど、愛の巣は作らないよ?」
笑いあいながら手際よくテントを張っていく。
英二はテント泊は初めてになる、けれど青梅署の駐車場や奥多摩の山で、練習は何度か国村としてきた。
緊急時のビバークに備え、降雪や強風の日をわざと選んでも幕営練習を積んである。
おかげで好天の今日は難なくきちんと張り終えられた。
中に入って具合を確かめると、満足げに細い目を笑ませて国村が訊いてきた。
「さてと、時間はまだ昼より前だな?でも腹減ったよなあ、宮田はどう?」
「うん、いいよ。昼飯にしよう?」
素直に頷いた英二に国村は嬉しげに笑って、手際よく昼飯の支度を始めた。
しっかりとした食材を工夫して国村はパッキングしてある、どれも切って調味料と合わせた上でセットされていた。
これらを使って、多めに持参したガスボンベをセットしたコンロで調理をしていく。
ごく手馴れた雰囲気に感心しながら英二は手順を見ていた。
「な?料理できないとさ、こういう縦走でのテント泊で困るんだよね。おまえ、周太にきちんと教わりな?」
「やっぱり必要だよな?…うん、今度から、きちんと手伝うことにするよ」
「そうしな?でさ、たまには周太に手料理くらい、ご馳走してやんなよね。それともさ、俺の愛情手料理で周太、オトしてイイ?」
「ダメ、とかいうのも悔しいよ、俺?とにかく、料理は覚えるな、」
こんな反省と目標を話しているうち、たっぷりの鍋焼きうどんが仕上げられた。
熱い湯気ごとカップにうどんをよそうと、小さなタッパーを国村は開けてくれた。
あわい黄色と赤が散った味噌が綺麗に詰められている、これを箸で器用に掬うと国村はカップに落としこんだ。
「柚子入りの辛味噌だよ、これ入れて食うと旨いんだ」
素直に入れてみると、やさしい柚子の香と唐辛子の熱さが旨い。
覚えのある味の雰囲気に、英二は微笑んだ。
「これ、美代さんが作ったやつ?」
「そ。寒いとき温まるからって持たしてくれてさ、で、宮田?」
お代わりをカップによそいながら、底抜けに明るい目が英二を見た。
なにかな?と微笑かけると英二の顔を見ていた国村はからり笑った。
「あーあ、おまえ?マジ反則だよ、その笑顔。困るねえ」
「なに?どうしたんだよ、国村?」
いったい国村はどうしたのだろう?
友人の様子に首傾げながらも英二は、お代わりのカップに味噌を溶きこんだ。
英二を眺めながら国村もうどんを啜ると、飲み込んでまた口を開いた。
「おまえ、美代は好きか?」
「うん、好きだよ?」
素直に答えて英二は微笑んだ。
箸を動かしながら国村は英二の顔を半分呆れたよう見、すぐ笑って質問した。
「どう好きなんだよ?」
「真面目なとこが好き、って言ってくれたから、かな?」
熱い汁ごと具や麺を啜りこむと腹から温まって気持ち良い。
ほっと息吐いて英二は微笑んだ。
「俺、恋愛で好かれるのは外見ベースばっかりで。いちばんに中身を好きになってくれたのは周太だけだ、って前も話しただろ?」
「うん、聴いたな。心を認めてもらえるとさ、嬉しいよな?ほら、ラスト1杯ずつ食おうよ」
うどんを浚えながら国村も笑ってくれる。
熱い椀を受け取って英二は続けた。
「外見ばかりってさ、寂しいだろ?そういう俺の寂しさを周太、ずっと気にしてくれているんだ。
だから俺を美代さんとデートさせたんだよ。心を見つめて俺を好きになってくれる人が、ちゃんといるって俺に教えたかったんだ、周太」
あの日のことを見つめながら英二は微笑んだ。
きっと周太にとっても一大決心だった。そのことが数日前ブナの木で過ごした時間から今はもう解る。
やさしい哀しい恋人の面影を心にそっと見つめた英二に、純粋無垢な細い目は温かに笑んだ。
「うん、周太らしいな?優しすぎて不器用なんだよね。なあ宮田、あのとき周太、マジへこんでいたって聴いてる?」
「いっぱい拗ねて泣いてくれたって聴いたよ。それもね、うれしかった、俺。隣にいてって求めてもらえて嬉しかった」
熱い椀にゆっくり箸つけながら英二はきれいに笑った。
その笑顔に底抜けに明るい目が、ちょっと困ったよう微笑んだ。
「おまえの心に美代が惚れている、それは解っているんだよな」
「惚れている、ってことはないよ、憧れてはくれているけど。心を見つめて憧れてもらえて、すごく嬉しいよ、」
想ったままを素直に英二は答えた。
そんな英二の貌を熱い湯気の向こうから、珍しく秀麗な貌が困ったように見ている。
困ったままに細い目が見ながら、透明なテノールが尋ねた。
「ふうん、なんで嬉しい?」
「美代さんみたいに地に足着けてるっていうかな?姿勢がいい人に、心を好かれるのは嬉しいよ。
だから俺は美代さんが好きだよ。でも、周太への想いとはまた違う。美代さんは幸せになってほしいって想うよ?
でも周太のことは、俺が周太を幸せにしたいんだ。そうやって、ずっと周太の傍にいたい。毎日笑顔を見て、好きだって言いたい」
率直な想いのまま、きれいな低い声で英二は想いを告げた。
言い終えて、しまったと英二は自分の馬鹿正直に苦笑しながら友人に謝った。
「ごめん、国村。俺ばっか周太を独り占めするようなこと、言ってる」
「うん?別に気にするなよ、俺だってね、隙あらば周太のこと独り占めする気満々だから」
こういう明朗な奪還宣言が国村はいい、恋敵がこの男なことが嬉しくなって英二は笑った。
からり底抜けに明るい目も笑んで、堪らないようテノールの声が愉快に笑いだした。
「あーあ、困ったね?ほんと、おまえ反則だよ?そんな綺麗な笑顔しちゃってさ、」
「そうかな?普通に笑っているだけだよ?」
熱い汁を最後まで呑み終えて、ほっと息吐くと体が温まっている。
きもちいいなと微笑んだ英二に、同じように食べ終えた国村が唇の端をあげた。
「ひとつ教えてやるよ。今は美代、憧れだろうね?でも時間の問題だ、きっと惚れるよ。
美代はさ?着火点がすごく難しいんだよ、惚れ難いんだ。だから俺が、ここまで独占め出来ていたってワケ。
しかも真面目で純情なアノ性格だ?いちど惚れたらね、たぶん梃子でも動かなくなるよ。生涯ずっと愛され続けるだろね、宮田」
たしかに美代にとって初恋は英二だろう。
数だけは多くの女の子と付き合ってきた英二には、美代の有様が解かる。けれど生涯ずっとだなんて?
美代は居心地のいい女性だと想うし、実直な人は好きだ。なにより美代は周太の大切な友達でいる。
そんな美代は大切にしたい。だからこそ途方に暮れてしまう、途惑うまま英二は口を開いた。
「俺は周太と婚約してる、それは美代さんも知ってるはずだ。
俺だって…ずっと想われても、きっと何も応えられない。そんなこと美代さんだったら解っているはずだ、それなのに?」
唇の端をあげたまま、すこし困った顔で国村は笑っている。
ほんと困るよな?細い目で言いながらテノールの声が穏やかに告げた。
「うん、美代はよく解ってるだろね。それでもだ、」
国村は美代の気持ちをよく理解した上で言っている。
ずっと一緒に育った国村と美代はある意味、家族以上の深い理解が互いにあるらしい。
それくらい理解し合える姉代わりの美代を、国村は大切にしていると英二も解かっている。
自分の大切な友人の大事な存在だと解っている、けれど自分は受容れられない。
「…でも俺は美代さんと結婚できない。それなのに、生涯ずっとだなんて、ダメだ、」
出来る事なら美代に考え直してほしい、真実の想いだとしても変えてほしい。
真実の想いなら変えるのは無理だと自分も解っている、自分だって何度も周太を諦めようと努力したから。
けれど、無理だと解っていても、そんな報われない恋は寂しい、どうか止めてほしい。
苦しいまま見つめる先で、困ったままの底抜けに明るい目は温かに笑んだ。
「馬鹿だねえ、おまえ?そんなもんで、人の心が堰き止められるって想ってんのかよ?」
どうしたらいいのだろう?
たしかに美代は周太と同じような空気を持っていて、一緒にいて楽しかった。
それでも自分は必ず周太を選んでしまうと確信が出来る、自分が愛するのは周太1人じゃないから。
この確信に想うありのままを素直に英二は口にした。
「前も国村には話したけどさ…俺、周太だけじゃないんだ。
周太の父さんも母さんも、それぞれに愛しているんだ。俺はね、あの家ごと周太を愛しているんだ。
あの家はね、穏かで静かで温かくってさ。建物も庭も、やさしい想いと気配で充ちていて。ほんと安心するんだ、俺。
家の気配すべてが『のんびり寛ぎなさい』って言ってくれているみたいでね。周太の母さんも、そんな人なんだよ。
だから俺、あの家をずっと守りたいんだ。あの家の人達の、想いも記憶も全部、俺に守らせて欲しいんだ。
だから分籍も決めているし、婚約もしたかったんだ、俺。家族になって『家』と周太を、守る資格と権利が欲しいから」
あの「家」を、周太の両親の想いも大切にしたい、周太を笑顔にしたい。
そのため家族にして欲しいと心から願っている、だから周太が他の人に想いを掛けても婚約破棄したくなかった。
なにがあっても自分は変わらずに「家」を守りたい、英二は微笑んだ。
「俺の生れた家は、俺に良くしてくれたよ。食べ物も服も、本もさ、何不自由なく与えてくれた。
確かに母から俺に向ける愛情は歪だと思う…哀しいけど解かっている。けれど俺には、姉が居てくれたから。
父も今はね、俺と向き合おうってしてくれている。遠慮なく帰って来いっていってくれる、周太にも会いたいって。
でも俺はね、湯原の家に帰りたいんだ。あんなふうに無条件で俺のこと、受けとめてくれる人達と家族になりたい」
家族になりたい。
これが自分の本音、みっともない寂しさだと言われても本心だから仕方ない。
ありのままに英二は綺麗に笑った。
「俺ね、初めて本当に『帰りたい居場所』が見つけられたんだ。
もう俺はね、周太の隣に、湯原の家に帰るって決めているんだ。だから、美代さんとは絶対に結婚できない。
ごめん、国村。俺、おまえの大切な姉さんの、大切な恋を叶えてあげられない…ごめん、国村。こんな俺で、ごめん」
涙ひとつ、英二の頬を伝ってこぼれた。
こんな自分なのに、心から美代は見つめて想いを掛けてくれている。
そういう一途に実直な美代の想いは英二には解る、自分もそういう所があるから。
自分が想いには嘘つけないように、きっと美代も想いに嘘がつけない、それが解かるから苦しい。
けれど、どんなに苦しくても逃げることは、きっと出来ない。だからもう、自分も覚悟を決めるしかないだろう。
いま生まれたばかりの覚悟に微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
「こんな宮田がね、俺は大好きだよ?困ったことにね。さて、」
困ったねえと目で笑いながら国村は登山図を広げた。
いまきっと互いがそれぞれ困っている。それでも英二はため息ひとつ吐いて、登山図に集中を落としこんだ。
ちいさなミスも山では命取りになる、だから今はボンヤリしている暇は無い。
山ヤのスイッチが入った貌の英二を見て、満足げに国村は口を開いた。
「さて、おまえの訓練と努力のたまものでね、俺たちは予定通りのピッチでココまで登れた。
いま時刻は10時半だ。でさ?ここ砂払いから北岳山頂まで、通常ピッチなら4,5時間ってトコだ。
雪の深度に寄っちゃもっとかかるけどね、俺たちはこの半分が通常タイムだろう。で、宮田?今日この後の予定、どうしたい?」
愉しげに底抜けに明るい目が笑いかけてくる。
当初の登山計画書では、今日はこのまま幕営して明日以降から登頂と縦走になっている。
けれどいま国村が訊いたのは多分「このまま寝るの勿体無いね」との意志表示だろう。
生涯のアンザイレンパートナーとしては、答えはひとつだろうな?
英二は冬富士山頂を目指した時と、同じ回答をした。
「登山計画書の予定変更、県警にメール申請するよ?」
綺麗に笑って答えた英二に、国村が笑った。
明るい目を満足げに細めると、透明なテノールの声は変更後計画を提案し始めた。
「やっぱり俺の可愛いアンザイレンパートナーだね?じゃ、予定変更だ。
今日のうちに北岳登頂しよう。そしたらさ、バットレスで下降と登りの訓練もできるだろ?それくらい体力あるよな、」
「うん、大丈夫。ザックは背負ったままでやるんだろ?」
「当然だね、デポするとか俺達には不要だろ?」
山岳救助の訓練で英二と国村はお互いを背負って登攀・下降をする。
それが日常になっている2人には30Kg程度のザックの重さは問題にならない。
まして、この先に登っていく北壁や8,000m峰ではもっと厳しい条件での登攀もある。
いま立っている条件下で楽をする選択は出来ない、そんな暗黙の了解に満足げに笑んで国村は続けた。
「で、今夜は北岳山荘に幕営するよ、室内幕営でも標高2,900mだ、相当零下の夜が体感できる。
明日の予定は間ノ岳、農鳥岳を縦走して北岳に戻る。そして明日夜にここ泊まろう、今回は天候もイイだろうからイケるね」
言われた通りのルートを英二は携帯からの登山計画書変更届にまとめていく。
そして最後に送信し終えると、英二と国村は素早くテントを収納した。
こんな作業もすっかり英二は手馴れている、一緒に手を動かしながら国村が感心気に頷いた。
「うん、おまえもさ、テントに随分馴れたよな?この数か月でたいしたもんだね、」
「そうか?ありがとう、おまえに言われると自信もてるよ。じゃ、行こうか?」
ザックを太股を使って背負いあげる、こうすると体への負荷がすくない。
冬期雪山登山では水や食料もあるため重量はある、けれど英二と国村にとっては「遭難救助よりずっと楽」となる。
ボーコン沢ノ頭に向かいアイゼンで雪踏みながら国村が訊いてきた。
「宮田、ザックの重さ、どう?」
「うん、こんなもんかな、って感じだけど」
荷重30Kgなら今の英二にはさして重たくは無い。
一般的には重たいだろう、けれど今の英二からすれば普段の訓練で背負う国村の体重の半分も無い。
感じたまま応えた英二に国村は愉しげに笑った。
「おまえ、現場でも大抵は救助者背負って歩いてるもんね。冬富士でも男を背負っていたけどさ?あいつ、65Kgはあったろ」
「そうだな、身長も175cm位あったもんな、あのひと」
1ヶ月前の冬富士訓練で遭遇した救助者の顔に英二は笑った。
自分達とさして年も違わない若い男だった、きっと彼も雪山の練習をしている事だろう。
いま歩く雪の尾根道からは富士山が美しい山容を魅せて、あの日に佇んだホワイトアウトと雪崩は異界の出来事にも思える。
あの雪崩は危険だった、けれど英二には富士の神に逢えたのだと想えてしまう。
登山グローブの指でそっと頬の傷痕を撫でた英二に、愉しげに国村が質問した。
「宮田ってさ、山の経験ほとんど無かったろ?そのわりにはパワーは卒配の最初からあるよね、どこで鍛えた?」
質問に想い出される記憶が懐かしい。
あのときは今のような幸せが与えられるとは夢にも思わなかった。
雪の尾根に目立ち始めたハイマツを眺めながら、記憶に微笑んで英二は答えた。
「警察学校の寮とかでさ、いつも周太を背負わせてもらっていたんだ」
「ああ、山岳訓練で周太怪我したときの話か、治った後も背負っていたのか?」
「うん。周太だと55Kgも無いんだけど、人を背負うことには慣れられて良かったんだ。…あ、国村?」
白銀の雪上に大きなケルンが積み上げられている。
たぶんここがそうかな?隣を見ると底抜けに明るい目が笑った。
「うん、ボーコン沢ノ頭だね。早くあそこに立とうよ、宮田」
すこしピッチを上げて立ったそこは、ひろやかな空と山嶺の世界だった。
右手には鳳凰三山が雪の尾根筋あざやかに青空の下ひろがっていく。
そして左手には白峰三山、農鳥岳・間ノ岳に北岳の威容が白銀に輝いていた。
「…きれいだ、」
連なり波寄せるような雪山の銀嶺が美しい。
吹きよす風は冷たく塊のように強い、けれど南アルプスの秀麗な姿に英二は見惚れた。
いま目前に聳える北岳バットレスは青空を従え佇んで、別称「哲人」にふさわしい高潔な輝きを魅せた。
ほんとうに綺麗だな、なんども写真で見て憧れていた「哲人」に英二は微笑んだ。
「あそこに、本当に立ちに行くんだな?」
「そうだよ、宮田。目標タイム1時間でいくよ?正午には三角点タッチと行きたいね、」
からり笑うと国村は「ほら行くよ?」と雪にアイゼンを踏み出した。
標高2,802mボーコン沢ノ頭を超えていくと、次のピークも大らかなドーム状山頂になる。
これを過ぎて八本歯ノ頭の頂上に至る一段手前にケルン型遭難碑があった。
通り過ぎながらも心裡そっと、安らかな山の眠りを英二は祈った。
…でも、俺は、遭難死はしない
どんな山からも、自分は必ず帰る。
自分のアンザイレンパートナーを援け、無事に山に登る自由を守ってみせる。
ずっと最高峰に、山頂に、この最高のクライマーで一番の友人と笑っていけたらいい。
そして愛するひとの隣に帰って「ただいま」をずっと言いつづけたい。
心に抱いている「絶対の約束」に微笑んで英二は八本歯のコルを慎重に降った。
コルからは岩稜を梯子を伝って登っていく。
柱の欄干にすこし触れてみると凍れる冷たさがグローブ越しに感じた。
この厳冬期の北岳は小屋内でも零下20度になる、いま日中とはいえ気温の低さが肌感覚に知らされる。
ネックゲイターの影に埋めた口許の吐く息が凍るように感じていく。
「うん、ちょっと風が強いな?ここから尾根がぐっと痩せてくるし、念のためアンザイレンしていこう」
サングラスの奥から細い目が提案してくれる。
北岳は北西風は山自体が屏風になって防いでくれる、それでも標高3,000m峰の風は重たい。
突風に気をつけながら互いの体をザイルで繋ぎとめあうと、山頂へ昇っていく稜線に踏み出した。
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第37話 凍嶺act.1―side story「陽はまた昇る」
厳冬期2月下旬の平日、夜叉神の森駐車場は空いていた。
国村の祖母が用意した握飯とカップ麺で朝食を済ませると、英二と国村は登山道へと入った。
午前3時半、夜叉神の森は冬夜の眠りに静まり、雪踏む音も静寂に呑みこまれていく。
雪山の静謐に透明なテノールが低く笑った。
「うん、この時間だと雪もさ、それなりに締って歩きやすいかな」
ヘッドランプの下で細い目が楽しげに笑んでいる。
お互いテント泊縦走用の装備が肩に荷重を掛けていく、けれど遭難救助の装備を背負うより楽だなと英二は思った。
それでも足元は荷重に沈みやすい、こんな雪の感触も愉しくて英二は微笑んだ。
「ちょっとさ、ざらりとした音が、かき氷みたいだな?」
「かき氷か、夏は好きだね。ばあちゃんの作る梅シロップだとまた旨いよ、夏になったら食おうな?」
国村の祖母は料理名人と御岳では有名で週末だけ農家レストランも開いてる。
今朝の握飯もそうだけれど、英二と藤岡もよく差入の相伴を楽しませてもらう。
きっと彼女が作るのなら美味しいだろうな、素直に頷いて英二は訊いてみた。
「ありがとう、旨いんだろな。国村ん家の梅で作るんだ?」
「そ。俺の梅の木が結構イイ実をつけるんだよ、野梅系の品種でさ、香が良いんだ。それを使うんだよね」
「国村の梅の木?」
「そ。俺んちってね、子供が生まれたり嫁さん貰うとさ、山に梅を植えるんだ。で、俺んちの山は梅だらけってワケ」
他愛ない話をのんびりしながら夜叉神のゲートを通過していく。
監視ボックスの脇を通りながら国村は目を細めて唇の端をあげた。
「ここにさ、6時になるとね、オッサンが入っている訳さ?で、ガタガタ言うんだって有名なんだよね」
「その人って、どういう権利で封鎖しているんだろ?県警は問題なく登山計画書を受領してくれるから、県はOKってことだろうし」
冬期の北岳登山は奈良田と夜叉神の2つが主な入口になる。
けれど奈良田のトンネルは針山のようなゲートで封鎖され、夜叉神は件の監視ボックスが関門となってしまう。
夜叉神トンネル入り口の金属扉を開きながら、テノールの声が軽く嗤った。
「南アルプス市のね、通称林道課ってとこの話だとさあ?
林道法面からの氷や岩石の落下があるから通行しない様にお願いしている、って話らしいけど、ねえ?
法的根拠は無いんだよ、禁止じゃなくって安全のため『お願い』しているらしいけどさ?お願いって態度を学習してほしいね」
語尾に「さあ?」「ねえ?」が入っている。
この場合は不機嫌な「ねえ?」他だろう、よほど腹に据えかねる事態があるらしい。
トンネルのあわい照明とヘッドライトの下で英二は訊いてみた。
「そんなに態度すごいんだ?」
「ああ、スゴイよ。ザックを掴まれたって話も聞くね。それこそ暴行罪だろが?
だいたいさあ、山に登る自由は自己責任だ。怒鳴ってまでココで安全指導するならさ、冬富士や剣岳の方がよっぽど必要だね。
それにね、俺たち山ヤはさ、結局は止めたって登るもんなあ?ここが通れなきゃ、もっとヤバいルートで入るだけでさ。ねえ?」
法的根拠のない通行止め。
この問題はこれからどうなるのかな?法学部出身の英二としては、つい考えてしまう。
暖かいトンネルの長い道を抜けると、星空が頭上に広がっていく。
無事にゲートとトンネルを抜けた開放感に微笑んだ英二に、満足げに国村が笑いかけた。
「さ、自由だ。でね、この後の鷲ノ住山への入口を間違える人が多いんだよね。しばらく樹林帯を歩くよ、」
歩き出した樹林帯は凍れる梢が白々と夜闇に透けて見える。
まだ夜明け遠い空がみせる深い青藍の色彩は深海の底を想わせた。
確実なアイゼンワークに2人並んで歩きながら、標高と距離を稼いでいく。
工事慰霊碑を過ぎてしばらく歩いた道標を見、ゆるやかな登りを上がる。
「あの慰霊碑のとこでさ、下っちゃう人がいるんだよ。で、道迷い」
「この時期、ここで道迷いになったらさ?捜索の県警と監視ボックスで喧嘩になりそうで、嫌だな」
奥多摩での救助現場でも、警視庁山岳救助隊と地元の各関係機関の連携は欠かせない。
それなのに、ここ北岳の冬期入山に対する態度が、市の林道課と県警で食い違っている。
こういう断裂は緊急時対応に響かないのだろうか?
山岳レスキューの1人として現場の心配をついしてしまう。
もし自分ならどうするだろう、考えかけた英二に国村はからり笑った。
「そうだねえ?ま、俺だったらさ、一言ちょっと言わせてもらって通してもらうね。
人命救助と尊厳、そして山の自由を守る。これが俺たち、山ヤの警察官の任務だからさ。ねえ?」
この「一言」が国村は恐ろしい。
もし国村が山梨県警でここの管轄だったら、ある意味で簡単に決着がつくかもしれない?
そんなことを考えながら英二は発電所のある野呂川吊橋を渡った。
林道と3つのトンネルを通過して、歩き沢橋手前の登山口に着くと、国村が登山グローブの指で先を示した。
「ここから樹林帯をさ、ちょっと長い登りが始まるよ。だらっと雪を歩いていく良い訓練になる」
「うん、池山御池小屋まで行くんだよな?」
「そ。池山辺りで日の出かな?今のとこはまあ、目標タイム通りかな」
ざくりさくりアイゼンに雪踏んで速いピッチでも着実に進んでいく。
通常よりだいぶピッチが速い国村は、すでに6,000m峰は海外遠征訓練に参加して踏破している。
このピッチを自分のものにしなければ、到底のこと8,000m峰でのアンザイレンパートナーを組めない。
国村の足運びと呼吸に自分を合わせながら、いま歩く北岳に続く雪道を英二は訓練に楽しんだ。
コメツガやシラビソの樹林を登り、標高2,063m池山のピークを過ぎると明るみ始めた池山御池小屋が見えてくる。
雪は膝下位の深さになり、小屋の手前にひろがる池も雪埋もれて、平らかな雪原の姿になっていた。
あわい陽射の気配に佇む雪原は穏やかに優しい、きれいだなと微笑だ英二に国村が笑いかけた。
「日の出は近いね?そろそろ休憩しよう」
「うん、なんとか目標タイム通りかな?」
「だね。通常タイムの半分弱で来れたけどさ、ま、こんなもんかな?」
夜の紺青が暖色の光に交替していく空の下で、話しながら幾らか雪を除けていく。
雪中にスペースを作ると並んで腰を下ろし、クッカーに火を入れた。
沸きあがってくる湯の音を聴きながら遠望する、明るんでいく空が美しい。
遠くから射す朝いちばんの陽光に頬を温めながら、英二は微笑んだ。
「国村、太陽が生まれるな?」
「うん、今日っていう1日がね、生まれる瞬間だな」
底抜けに明るい目も朝陽に細められて、満足げに微笑んだ。
いま林に囲まれた視界では旭日は見えないけれど、明日は美しい姿が見られるだろう。
それでも朝の陽光の気配が山で感じられるのは気持ちが良い。
インスタント・スープを作って飲みながら、雪の冷気と陽光の熱をふたり楽しんでいた。
飲み終えて温まるとクライマーウォッチは7時半を示している。
積雪が予想より少なかったこともあって、一般的な通常ペースの半分のタイムでこれた。
今朝は3時起きだったけれど疲れもほとんどない。
毎日の訓練と現場経験のおかげだろう、日常の積み重ねに英二は感謝した。
「宮田、体調とかどう?高度2,000だけどさ、」
「いつもどおりだよ。夜間ビバークで救助とかだと気も張るけれど、自由に登るのは楽しいし」
「まあね、山岳レスキューの人間で8,000m峰に行こうってヤツがさ?この程度でへばっていたら話になんないね、」
からり笑って国村が立ち上がると、ぐるり首を歩と回しして北岳方面を遠望した。
英二もザックを背負いあげて立つと、雪をまた簡単に戻してから北岳の方を眺めた。ここからはまだ北岳は見えない。
「この先のさ、ボーコン沢の頭まで行かないと、見えないんだよね」
「うん、雑誌とかで読んだけど、ほんとに見えないんだな」
東面の大岸壁は「バットレス」と呼ばれ、その威容はさまざまな写真で英二も見てきた。
国村の部屋にも額に収められた写真が窓のようだった。あの写真の世界近くに今、もう自分は立っている。
登頂を楽しみにしながら英二は国村と雪のなかを歩き始めた。
池山吊尾根を登り1時間半ほどで砂払いに着くと、森林限界のここは眺望がいきなり開ける。
きれいな富士山の遠望をバックに国村が笑った。
「ここの平地は3張くらい幕営できるんだ、で、今のとこ他にいないからさ?一番いい場所が選べるね」
「うん、今、もう張るんだろ?」
ザックをおろしながら英二は微笑んだ。
その隣に来ると国村もザックをおろし、テントの準備を始めていく。
「そ。俺たちのね、今夜の愛の巣を作るよ?み・や・た、」
「テントは作るけど、愛の巣は作らないよ?」
笑いあいながら手際よくテントを張っていく。
英二はテント泊は初めてになる、けれど青梅署の駐車場や奥多摩の山で、練習は何度か国村としてきた。
緊急時のビバークに備え、降雪や強風の日をわざと選んでも幕営練習を積んである。
おかげで好天の今日は難なくきちんと張り終えられた。
中に入って具合を確かめると、満足げに細い目を笑ませて国村が訊いてきた。
「さてと、時間はまだ昼より前だな?でも腹減ったよなあ、宮田はどう?」
「うん、いいよ。昼飯にしよう?」
素直に頷いた英二に国村は嬉しげに笑って、手際よく昼飯の支度を始めた。
しっかりとした食材を工夫して国村はパッキングしてある、どれも切って調味料と合わせた上でセットされていた。
これらを使って、多めに持参したガスボンベをセットしたコンロで調理をしていく。
ごく手馴れた雰囲気に感心しながら英二は手順を見ていた。
「な?料理できないとさ、こういう縦走でのテント泊で困るんだよね。おまえ、周太にきちんと教わりな?」
「やっぱり必要だよな?…うん、今度から、きちんと手伝うことにするよ」
「そうしな?でさ、たまには周太に手料理くらい、ご馳走してやんなよね。それともさ、俺の愛情手料理で周太、オトしてイイ?」
「ダメ、とかいうのも悔しいよ、俺?とにかく、料理は覚えるな、」
こんな反省と目標を話しているうち、たっぷりの鍋焼きうどんが仕上げられた。
熱い湯気ごとカップにうどんをよそうと、小さなタッパーを国村は開けてくれた。
あわい黄色と赤が散った味噌が綺麗に詰められている、これを箸で器用に掬うと国村はカップに落としこんだ。
「柚子入りの辛味噌だよ、これ入れて食うと旨いんだ」
素直に入れてみると、やさしい柚子の香と唐辛子の熱さが旨い。
覚えのある味の雰囲気に、英二は微笑んだ。
「これ、美代さんが作ったやつ?」
「そ。寒いとき温まるからって持たしてくれてさ、で、宮田?」
お代わりをカップによそいながら、底抜けに明るい目が英二を見た。
なにかな?と微笑かけると英二の顔を見ていた国村はからり笑った。
「あーあ、おまえ?マジ反則だよ、その笑顔。困るねえ」
「なに?どうしたんだよ、国村?」
いったい国村はどうしたのだろう?
友人の様子に首傾げながらも英二は、お代わりのカップに味噌を溶きこんだ。
英二を眺めながら国村もうどんを啜ると、飲み込んでまた口を開いた。
「おまえ、美代は好きか?」
「うん、好きだよ?」
素直に答えて英二は微笑んだ。
箸を動かしながら国村は英二の顔を半分呆れたよう見、すぐ笑って質問した。
「どう好きなんだよ?」
「真面目なとこが好き、って言ってくれたから、かな?」
熱い汁ごと具や麺を啜りこむと腹から温まって気持ち良い。
ほっと息吐いて英二は微笑んだ。
「俺、恋愛で好かれるのは外見ベースばっかりで。いちばんに中身を好きになってくれたのは周太だけだ、って前も話しただろ?」
「うん、聴いたな。心を認めてもらえるとさ、嬉しいよな?ほら、ラスト1杯ずつ食おうよ」
うどんを浚えながら国村も笑ってくれる。
熱い椀を受け取って英二は続けた。
「外見ばかりってさ、寂しいだろ?そういう俺の寂しさを周太、ずっと気にしてくれているんだ。
だから俺を美代さんとデートさせたんだよ。心を見つめて俺を好きになってくれる人が、ちゃんといるって俺に教えたかったんだ、周太」
あの日のことを見つめながら英二は微笑んだ。
きっと周太にとっても一大決心だった。そのことが数日前ブナの木で過ごした時間から今はもう解る。
やさしい哀しい恋人の面影を心にそっと見つめた英二に、純粋無垢な細い目は温かに笑んだ。
「うん、周太らしいな?優しすぎて不器用なんだよね。なあ宮田、あのとき周太、マジへこんでいたって聴いてる?」
「いっぱい拗ねて泣いてくれたって聴いたよ。それもね、うれしかった、俺。隣にいてって求めてもらえて嬉しかった」
熱い椀にゆっくり箸つけながら英二はきれいに笑った。
その笑顔に底抜けに明るい目が、ちょっと困ったよう微笑んだ。
「おまえの心に美代が惚れている、それは解っているんだよな」
「惚れている、ってことはないよ、憧れてはくれているけど。心を見つめて憧れてもらえて、すごく嬉しいよ、」
想ったままを素直に英二は答えた。
そんな英二の貌を熱い湯気の向こうから、珍しく秀麗な貌が困ったように見ている。
困ったままに細い目が見ながら、透明なテノールが尋ねた。
「ふうん、なんで嬉しい?」
「美代さんみたいに地に足着けてるっていうかな?姿勢がいい人に、心を好かれるのは嬉しいよ。
だから俺は美代さんが好きだよ。でも、周太への想いとはまた違う。美代さんは幸せになってほしいって想うよ?
でも周太のことは、俺が周太を幸せにしたいんだ。そうやって、ずっと周太の傍にいたい。毎日笑顔を見て、好きだって言いたい」
率直な想いのまま、きれいな低い声で英二は想いを告げた。
言い終えて、しまったと英二は自分の馬鹿正直に苦笑しながら友人に謝った。
「ごめん、国村。俺ばっか周太を独り占めするようなこと、言ってる」
「うん?別に気にするなよ、俺だってね、隙あらば周太のこと独り占めする気満々だから」
こういう明朗な奪還宣言が国村はいい、恋敵がこの男なことが嬉しくなって英二は笑った。
からり底抜けに明るい目も笑んで、堪らないようテノールの声が愉快に笑いだした。
「あーあ、困ったね?ほんと、おまえ反則だよ?そんな綺麗な笑顔しちゃってさ、」
「そうかな?普通に笑っているだけだよ?」
熱い汁を最後まで呑み終えて、ほっと息吐くと体が温まっている。
きもちいいなと微笑んだ英二に、同じように食べ終えた国村が唇の端をあげた。
「ひとつ教えてやるよ。今は美代、憧れだろうね?でも時間の問題だ、きっと惚れるよ。
美代はさ?着火点がすごく難しいんだよ、惚れ難いんだ。だから俺が、ここまで独占め出来ていたってワケ。
しかも真面目で純情なアノ性格だ?いちど惚れたらね、たぶん梃子でも動かなくなるよ。生涯ずっと愛され続けるだろね、宮田」
たしかに美代にとって初恋は英二だろう。
数だけは多くの女の子と付き合ってきた英二には、美代の有様が解かる。けれど生涯ずっとだなんて?
美代は居心地のいい女性だと想うし、実直な人は好きだ。なにより美代は周太の大切な友達でいる。
そんな美代は大切にしたい。だからこそ途方に暮れてしまう、途惑うまま英二は口を開いた。
「俺は周太と婚約してる、それは美代さんも知ってるはずだ。
俺だって…ずっと想われても、きっと何も応えられない。そんなこと美代さんだったら解っているはずだ、それなのに?」
唇の端をあげたまま、すこし困った顔で国村は笑っている。
ほんと困るよな?細い目で言いながらテノールの声が穏やかに告げた。
「うん、美代はよく解ってるだろね。それでもだ、」
国村は美代の気持ちをよく理解した上で言っている。
ずっと一緒に育った国村と美代はある意味、家族以上の深い理解が互いにあるらしい。
それくらい理解し合える姉代わりの美代を、国村は大切にしていると英二も解かっている。
自分の大切な友人の大事な存在だと解っている、けれど自分は受容れられない。
「…でも俺は美代さんと結婚できない。それなのに、生涯ずっとだなんて、ダメだ、」
出来る事なら美代に考え直してほしい、真実の想いだとしても変えてほしい。
真実の想いなら変えるのは無理だと自分も解っている、自分だって何度も周太を諦めようと努力したから。
けれど、無理だと解っていても、そんな報われない恋は寂しい、どうか止めてほしい。
苦しいまま見つめる先で、困ったままの底抜けに明るい目は温かに笑んだ。
「馬鹿だねえ、おまえ?そんなもんで、人の心が堰き止められるって想ってんのかよ?」
どうしたらいいのだろう?
たしかに美代は周太と同じような空気を持っていて、一緒にいて楽しかった。
それでも自分は必ず周太を選んでしまうと確信が出来る、自分が愛するのは周太1人じゃないから。
この確信に想うありのままを素直に英二は口にした。
「前も国村には話したけどさ…俺、周太だけじゃないんだ。
周太の父さんも母さんも、それぞれに愛しているんだ。俺はね、あの家ごと周太を愛しているんだ。
あの家はね、穏かで静かで温かくってさ。建物も庭も、やさしい想いと気配で充ちていて。ほんと安心するんだ、俺。
家の気配すべてが『のんびり寛ぎなさい』って言ってくれているみたいでね。周太の母さんも、そんな人なんだよ。
だから俺、あの家をずっと守りたいんだ。あの家の人達の、想いも記憶も全部、俺に守らせて欲しいんだ。
だから分籍も決めているし、婚約もしたかったんだ、俺。家族になって『家』と周太を、守る資格と権利が欲しいから」
あの「家」を、周太の両親の想いも大切にしたい、周太を笑顔にしたい。
そのため家族にして欲しいと心から願っている、だから周太が他の人に想いを掛けても婚約破棄したくなかった。
なにがあっても自分は変わらずに「家」を守りたい、英二は微笑んだ。
「俺の生れた家は、俺に良くしてくれたよ。食べ物も服も、本もさ、何不自由なく与えてくれた。
確かに母から俺に向ける愛情は歪だと思う…哀しいけど解かっている。けれど俺には、姉が居てくれたから。
父も今はね、俺と向き合おうってしてくれている。遠慮なく帰って来いっていってくれる、周太にも会いたいって。
でも俺はね、湯原の家に帰りたいんだ。あんなふうに無条件で俺のこと、受けとめてくれる人達と家族になりたい」
家族になりたい。
これが自分の本音、みっともない寂しさだと言われても本心だから仕方ない。
ありのままに英二は綺麗に笑った。
「俺ね、初めて本当に『帰りたい居場所』が見つけられたんだ。
もう俺はね、周太の隣に、湯原の家に帰るって決めているんだ。だから、美代さんとは絶対に結婚できない。
ごめん、国村。俺、おまえの大切な姉さんの、大切な恋を叶えてあげられない…ごめん、国村。こんな俺で、ごめん」
涙ひとつ、英二の頬を伝ってこぼれた。
こんな自分なのに、心から美代は見つめて想いを掛けてくれている。
そういう一途に実直な美代の想いは英二には解る、自分もそういう所があるから。
自分が想いには嘘つけないように、きっと美代も想いに嘘がつけない、それが解かるから苦しい。
けれど、どんなに苦しくても逃げることは、きっと出来ない。だからもう、自分も覚悟を決めるしかないだろう。
いま生まれたばかりの覚悟に微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
「こんな宮田がね、俺は大好きだよ?困ったことにね。さて、」
困ったねえと目で笑いながら国村は登山図を広げた。
いまきっと互いがそれぞれ困っている。それでも英二はため息ひとつ吐いて、登山図に集中を落としこんだ。
ちいさなミスも山では命取りになる、だから今はボンヤリしている暇は無い。
山ヤのスイッチが入った貌の英二を見て、満足げに国村は口を開いた。
「さて、おまえの訓練と努力のたまものでね、俺たちは予定通りのピッチでココまで登れた。
いま時刻は10時半だ。でさ?ここ砂払いから北岳山頂まで、通常ピッチなら4,5時間ってトコだ。
雪の深度に寄っちゃもっとかかるけどね、俺たちはこの半分が通常タイムだろう。で、宮田?今日この後の予定、どうしたい?」
愉しげに底抜けに明るい目が笑いかけてくる。
当初の登山計画書では、今日はこのまま幕営して明日以降から登頂と縦走になっている。
けれどいま国村が訊いたのは多分「このまま寝るの勿体無いね」との意志表示だろう。
生涯のアンザイレンパートナーとしては、答えはひとつだろうな?
英二は冬富士山頂を目指した時と、同じ回答をした。
「登山計画書の予定変更、県警にメール申請するよ?」
綺麗に笑って答えた英二に、国村が笑った。
明るい目を満足げに細めると、透明なテノールの声は変更後計画を提案し始めた。
「やっぱり俺の可愛いアンザイレンパートナーだね?じゃ、予定変更だ。
今日のうちに北岳登頂しよう。そしたらさ、バットレスで下降と登りの訓練もできるだろ?それくらい体力あるよな、」
「うん、大丈夫。ザックは背負ったままでやるんだろ?」
「当然だね、デポするとか俺達には不要だろ?」
山岳救助の訓練で英二と国村はお互いを背負って登攀・下降をする。
それが日常になっている2人には30Kg程度のザックの重さは問題にならない。
まして、この先に登っていく北壁や8,000m峰ではもっと厳しい条件での登攀もある。
いま立っている条件下で楽をする選択は出来ない、そんな暗黙の了解に満足げに笑んで国村は続けた。
「で、今夜は北岳山荘に幕営するよ、室内幕営でも標高2,900mだ、相当零下の夜が体感できる。
明日の予定は間ノ岳、農鳥岳を縦走して北岳に戻る。そして明日夜にここ泊まろう、今回は天候もイイだろうからイケるね」
言われた通りのルートを英二は携帯からの登山計画書変更届にまとめていく。
そして最後に送信し終えると、英二と国村は素早くテントを収納した。
こんな作業もすっかり英二は手馴れている、一緒に手を動かしながら国村が感心気に頷いた。
「うん、おまえもさ、テントに随分馴れたよな?この数か月でたいしたもんだね、」
「そうか?ありがとう、おまえに言われると自信もてるよ。じゃ、行こうか?」
ザックを太股を使って背負いあげる、こうすると体への負荷がすくない。
冬期雪山登山では水や食料もあるため重量はある、けれど英二と国村にとっては「遭難救助よりずっと楽」となる。
ボーコン沢ノ頭に向かいアイゼンで雪踏みながら国村が訊いてきた。
「宮田、ザックの重さ、どう?」
「うん、こんなもんかな、って感じだけど」
荷重30Kgなら今の英二にはさして重たくは無い。
一般的には重たいだろう、けれど今の英二からすれば普段の訓練で背負う国村の体重の半分も無い。
感じたまま応えた英二に国村は愉しげに笑った。
「おまえ、現場でも大抵は救助者背負って歩いてるもんね。冬富士でも男を背負っていたけどさ?あいつ、65Kgはあったろ」
「そうだな、身長も175cm位あったもんな、あのひと」
1ヶ月前の冬富士訓練で遭遇した救助者の顔に英二は笑った。
自分達とさして年も違わない若い男だった、きっと彼も雪山の練習をしている事だろう。
いま歩く雪の尾根道からは富士山が美しい山容を魅せて、あの日に佇んだホワイトアウトと雪崩は異界の出来事にも思える。
あの雪崩は危険だった、けれど英二には富士の神に逢えたのだと想えてしまう。
登山グローブの指でそっと頬の傷痕を撫でた英二に、愉しげに国村が質問した。
「宮田ってさ、山の経験ほとんど無かったろ?そのわりにはパワーは卒配の最初からあるよね、どこで鍛えた?」
質問に想い出される記憶が懐かしい。
あのときは今のような幸せが与えられるとは夢にも思わなかった。
雪の尾根に目立ち始めたハイマツを眺めながら、記憶に微笑んで英二は答えた。
「警察学校の寮とかでさ、いつも周太を背負わせてもらっていたんだ」
「ああ、山岳訓練で周太怪我したときの話か、治った後も背負っていたのか?」
「うん。周太だと55Kgも無いんだけど、人を背負うことには慣れられて良かったんだ。…あ、国村?」
白銀の雪上に大きなケルンが積み上げられている。
たぶんここがそうかな?隣を見ると底抜けに明るい目が笑った。
「うん、ボーコン沢ノ頭だね。早くあそこに立とうよ、宮田」
すこしピッチを上げて立ったそこは、ひろやかな空と山嶺の世界だった。
右手には鳳凰三山が雪の尾根筋あざやかに青空の下ひろがっていく。
そして左手には白峰三山、農鳥岳・間ノ岳に北岳の威容が白銀に輝いていた。
「…きれいだ、」
連なり波寄せるような雪山の銀嶺が美しい。
吹きよす風は冷たく塊のように強い、けれど南アルプスの秀麗な姿に英二は見惚れた。
いま目前に聳える北岳バットレスは青空を従え佇んで、別称「哲人」にふさわしい高潔な輝きを魅せた。
ほんとうに綺麗だな、なんども写真で見て憧れていた「哲人」に英二は微笑んだ。
「あそこに、本当に立ちに行くんだな?」
「そうだよ、宮田。目標タイム1時間でいくよ?正午には三角点タッチと行きたいね、」
からり笑うと国村は「ほら行くよ?」と雪にアイゼンを踏み出した。
標高2,802mボーコン沢ノ頭を超えていくと、次のピークも大らかなドーム状山頂になる。
これを過ぎて八本歯ノ頭の頂上に至る一段手前にケルン型遭難碑があった。
通り過ぎながらも心裡そっと、安らかな山の眠りを英二は祈った。
…でも、俺は、遭難死はしない
どんな山からも、自分は必ず帰る。
自分のアンザイレンパートナーを援け、無事に山に登る自由を守ってみせる。
ずっと最高峰に、山頂に、この最高のクライマーで一番の友人と笑っていけたらいい。
そして愛するひとの隣に帰って「ただいま」をずっと言いつづけたい。
心に抱いている「絶対の約束」に微笑んで英二は八本歯のコルを慎重に降った。
コルからは岩稜を梯子を伝って登っていく。
柱の欄干にすこし触れてみると凍れる冷たさがグローブ越しに感じた。
この厳冬期の北岳は小屋内でも零下20度になる、いま日中とはいえ気温の低さが肌感覚に知らされる。
ネックゲイターの影に埋めた口許の吐く息が凍るように感じていく。
「うん、ちょっと風が強いな?ここから尾根がぐっと痩せてくるし、念のためアンザイレンしていこう」
サングラスの奥から細い目が提案してくれる。
北岳は北西風は山自体が屏風になって防いでくれる、それでも標高3,000m峰の風は重たい。
突風に気をつけながら互いの体をザイルで繋ぎとめあうと、山頂へ昇っていく稜線に踏み出した。
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