萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第37話 凍嶺act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-03-23 23:55:17 | 陽はまた昇るside story
雪山、迎えてくれる場所



第37話 凍嶺act.4―side story「陽はまた昇る」

きっちりリミット前に夜叉神のゲートを抜けて四駆に乗込んだのは5時40分だった。
予想より速めのタイムをクライマーウォッチに確認すると、細い目が満足げに笑んだ。

「よし、下りも無事にこれたね。下りの方が事故は多いからね、ま、俺たちが事故っちゃヤバいよな」
「ほんとに無事で良かったよ、」

相槌を打って英二は心から安堵のため息に微笑んだ。
なによりゲート通過が無事で良かった、もし監視ボックスの人が国村に何か言えばタダでは済まない。
それが奥多摩でのことならまだいい、けれどここは他管轄どころか他県警の管轄する山になる。
こんなところで揉め事でも起こせば、警視庁警察官と他県警の対立のように言われてしまう。
そんなイザコザになる気苦労よりも、きっと8,000m峰に登る方が気は楽だろう。

― こういうサポートの方が国村は大変だ、

心裡につぶやいた言葉に、クリスマスイヴに美代から言われた言葉が谺した。
「ずっと光ちゃんの相手するなんて大変ね?」
こんなふうに言った美代の言葉の意味が、こんなとき思い知らされる。
それでも、これだって国村が真直ぐな心だからこそ起きる気苦労だろう。
そして英二は、こんな友人が大好きだ。なんだか愉しくて可笑しい、微笑んだ英二にご機嫌な声が訊いてきた。

「さてと、今まだ6時前だね。まずはさ、どっか温泉行きたいよな?で、朝飯食ってさ。
川崎に15時ごろ着くんだと、12時前に高速乗ればいいんだけどね。どっか寄りたいとことか、リクエストってある?」

「うん、花屋にちょっと寄りたいな。あと出来れば、うまいケーキ屋あれば、茶菓子に買っていきたいな」
「買物ばっかだね?いいよ、じゃ、それを計算した時間で、なんか見に行くかな?」

そんな会話を交わしながら四駆で走った先は、竜ヶ岳だった。
標高1,485m本栖湖畔の竜ヶ岳山頂は、真正面に冬富士の姿を魅せた。
朝9時前の陽光に山頂の雪がまばゆい。その白銀のむこう裾ひいた優美な富士が輝いている。

「ここはさ、ダイヤモンド富士のポイントで有名なんだよ」

愉しげに笑うと国村はレンズを冬富士へと構えた。
さっき言っていた「なんか見に行くかな?」は、やっぱり雪山だったな?
予想通りに山尽くしな山ヤが愉しい、英二も携帯で冬富士と竜ヶ岳山頂を撮るとメールを打ちこんだ。
いまごろ周太は当番勤務が明けて、川崎に帰る仕度をしているだろう。
たぶん車内で見てくれるかな?そんな想いと一緒にメールを送った。

送信してまた正面に向けた目に雄渾な冬富士が映りこむ。
昨日の今頃は北岳から遠く、この最高峰の姿を眺めていた。
数時間前まで佇んでいた「哲人」の名をもつ高潔な山が、英二は懐かしかった。
今見ている最高峰も美しい、けれど第2峰の威容に自分は惹かれてしまう。

山にも相性ってあるのかな?

ふっ、とそんなことを想って「あるかも」と英二は自答して微笑んだ。
今回の北岳登山は天候にも恵まれていた、そう想うと自分と北岳は相性が良いかもしれない。
けれど。長い指で英二は自分の頬にふれた。
ふれる指先には、なめらかな皮膚の感触しかわからない。
けれどいま、陽に透かされて頬には傷痕が浮んでいるだろう。
いま眺めている優雅な最高峰の雪崩で、跳んだ氷に裂かれた傷は細くちいさかった。
それでも何故か傷痕はこうして残っている、それが我ながら不思議だった。

―…この傷痕はね、最高峰の竜が、英二が山で生きられるようにってつけてくれた、お守りだね?
 きっとね、英二は『山』に愛されてるよ?

バレンタインの翌日にブナの木の下で、この傷痕を周太は寿いでくれた。
ほんとうに言葉通りであってほしい、素直にそう想えた。なによりも、言葉に籠る周太の祈りが嬉しかった。
そろそろ周太は電車に乗るのかな?愛する笑顔に微笑んだとき携帯が振動した。
携帯を開くと思っていた名前が表示されている、すぐ通話に繋いで英二は微笑んだ。

「おはよう、周太?」
「おはよう、英二…いま、竜ヶ岳ってとこにいるの?」

気恥ずかしげな笑顔の気配が朝の挨拶を贈ってくれる。
つい最近「わがままになるからね、」とツンデレ宣言した癖に相変わらずの初々しい雰囲気が可愛い。
こんな可愛いとつい、同じ男だと忘れそうになる。困ったなと思いながら英二は頷いた。

「うん、本栖湖の近くなんだ。富士山がきれいに見えるって、有名なとこらしい。それで国村、いま写真を撮ってる」
「光一、カメラ使ってるんだ?…見せてもらったんでしょ?」
「見せてもらったよ?北岳がすごく良い、あとで見せてもらうと良いよ、」

あとで。そう言えるのは嬉しい。
今日はこの後で逢える、そんな約束が出来ることが幸せだなと思える。
電話のむこうも微笑んで、穏かな声で言ってくれた。

「ん。…あのね、気をつけて帰ってきて。ごはん作って、おふろ沸かすから…あと、ふとん干しとくから…ね、」

最後すこし声が小さくなった、こんなところが周太は可愛い。
小さくなった声のむこうでは歩く音がしている、いま駅に向かって歩いているのだろう。
きっと家に帰って仕度して待ってくれるつもりでいる、そんな心遣いに微笑んで英二は答えた。

「うん、気をつけて帰るよ?でね、周太。今夜は国村が一緒だから、周太とは一緒に寝れないかな、って思うけど…」
「そんなの嫌、なんで一緒じゃないの?」

打って響くよう周太が疑問をぶつけてきた。
これくらい本当は周太は解るだろう、けれど敢えて「一緒が良い」と言ってくれている。
なんて言えば納得してくれるかな?考えながら英二は諭し始めた。

「国村ひとりで寝かす訳に行かないだろ?なにより、国村は周太のこと好きなんだから。なのに俺と周太が一緒だったら、」
「解からない、知らない、…あいしてるんならいうこときいてもらうから、」

やっぱり周太は「わがまま」を正直に言うつもりらしい。
きっと今わがまま言いながら真赤になっているだろう、けれど今は駅への道を周太は歩いているだろうに困らないのだろうか?
こんな駄々っ子はつい可愛くなる、けれど今回はすこし困りながら英二は微笑んだ。

「愛してるよ、周太?北岳でもね、周太のこと、いっぱい考えて来たよ?だから周太、国村のことも考えてほしいな?」
「嫌。ずっと電話も我慢していたんだから、今日は言うこと聴いてもらうんだから…あ、電車来た、あとでね」

ふっと、電話が切れて英二は困り顔で微笑んだ。
こんなに駄々をこねているのは、たぶん拗ねてもいるのだろう。
どうも周太にとって国村は2つの面を持つ存在でいるらしい、それが射撃大会辺りから英二にも解ってきた。
今日は川崎でいったいどうなるのだろう?

ま、お母さんがいるし。きっと良い智慧を教えてもらえるだろな?

そんな「母任せ」を想って、なんだか幸せで英二は微笑んだ。
こんなふうな親頼みを英二はしたことがない、だから周太の母に甘えるような発想が出たことが新鮮でいる。
今日も花束を土産にするつもりだけれど、どんな花束にしよう?そんな幸せな悩みにいる英二の掌で携帯が短く振動した。

From :周太
Subject:お願い
本 文 :今日は独りにしないで?今夜食べたいものメールして。

たった1行、けれど心がひっぱたかれる。
こんなこと言われたら嬉しい、けれど国村もいるのにどうしよう?
困ったなと思いながら英二は、今夜食べたいものを考えてメールの文章を作り始めた。

「俺、蕪蒸が食いたいな、」

透明なテノールに横入りされて、覗きこんできた雪白の顔に英二は笑った。
振向いた先で悪戯っ子な細い目を楽しげに笑ませて、国村は可笑しそうに口を開いた。

「周太、拗ねていたんだろ?」
「どうしてそう思うんだ?」

メールに「蕪蒸、肉じゃが、鶏の胡桃焼」と書きながら英二は隣に訊いた。
訊かれて底抜けに明るい目が笑ってくれる。

「周太って俺のこと好きだよ?でも嫉妬の対象でもある、いつも俺は宮田と一緒にいるからね。
でさ?この3晩ずっと北岳で俺たち二人きりだったし、電話も出来なかったろ?こんなの周太は、拗ねるんじゃないの?」

好かれて憎まれている。
そんな相反する感情で初恋相手に見られていると、国村は理解している。
この怜悧な友人は持ち前の真直ぐな視点で、とっくにお見通しらしい。参ったなと笑って英二は素直に頷いた。

「その通りだよ、国村。ちょっと周太、拗ねちゃったみたいだ」
「やっぱりね。で、何にそんな拗ねてるんだよ?」

下山方向に指さして「歩きながらね、」と細い目が言ってくれる。
かるく頷くと、歩きだしながら英二は困惑に口を開いた。

「今夜、寝る場所のことだよ、」
「寝る場所、ね?…ふん、」

短く復唱して国村はすこし考える顔をした。
そしてすぐ唇の端をあげると、さも愉しげにテノールの声は笑いだした。

「ふうん?今夜はさ、ツンデレ女王さまが見れそうだね。楽しみだな?ね、み・や・た」

楽しみかな?
心裡で呟きながら英二は本栖湖へと雪道を降りていった。



川崎の家には予定より早めの14時半に着けた。
門の脇にある駐車場に前向き駐車で入って行くと、咲きはじめた梅の花がフロントガラスに映りこんだ。

「お、玉英だね?いいね、なかなか良い枝ぶりだよ、」

梅の木を眺める底抜けに明るい目が、うれしげに笑っている。
駐車場から一旦通りへ出て、きちんと門を潜ってから庭に入ると国村は梅の木の下に立った。

「うん、大切にされているな?よしよし、…うん、良い実が成るよ?」

白い花にやわらかな指でふれながら秀麗な顔が微笑んだ。
兼業農家の警察官である国村は代々、梅と蕎麦を主に作っている。
そんな国村は梅にも思い入れがあるらしい、きっとここでも梅に会えたことが嬉しいのだろう。
白梅の下に佇む白いマウンテンコート姿がなんだか白梅の精霊みたいで英二は微笑んだ。

「国村、なんかおまえ、この木の精みたいだよ?」
「そうだね、そうかもしれないよ?この玉英はね、奥多摩が原産だから」

からり愉しげに笑って教えてくれながら、愛しげに白梅を見あげている。
ほんとうに梅が好きなのだろうな?そう見ていると今度は大きな一本の木の前に国村は佇んだ。
赤紫を含んだ灰色の木肌が美しい幹に、そっと白い掌でふれると底抜けに明るい目は梢を仰いだ。
一緒に見上げた視線の先では細やかな枝に、ちいさな花芽がたくさんついている。この樹姿には見覚えがある、英二は微笑んだ。

「これ、山桜だよな?奥多摩にも生えてるな」

声に黒髪の頭がすこし動いて、細い目が英二を真直ぐに見つめた。
その視線がどこか雄渾でまぶしい。そんな普段と違う雰囲気が不思議で、首を傾げながらも英二は綺麗に笑った。

「この木はね、周太のお父さんが大切にしていたんだ。
だから俺ね?この桜が咲いたら周太と、お母さんとさ、夜桜の花見をする約束してるんだよ。お父さんと一緒に、」

婚約を申し込んだ翌朝に板敷廊下のテラスで結んだ約束だった。
あの春の日に周太の父が叶えたかった約束を見つめながら英二は国村に微笑んだ。

「お父さん、亡くなった夜はね。あの窓から夜は花見をしようって、お母さんと周太と約束していたんだ。
それを代わりに俺、叶えてあげたくってさ。俺もこの家の桜を見てみたいし。ココアと桜餅を食べながらの甘い花見なんだけどね」

白い掌が山桜を愛しむよう木肌を撫でている。
おだやかに幹にふれながら国村は細い目を温かに笑ませて、きれいに笑った。

「うん、良い約束だね?この木も喜んでるよ。けどさ、ホント甘そうな花見だね?」
「だろ?」

甘い飲み物に甘い菓子。ほんとうに周太の父、馨は甘いもの好きだったのだろう。
そんなところも彼が就いていた任務に不似合いで切ない。
哀切を見つめながら英二は、そっと口を開いた。

「桜の園遊会の日だった、お父さんは警邏の応援を頼まれてね、本当は休みだったのに任務を引き受けたんだ。
そのあとにね、新宿署で射撃指導員をしていた同期の方と一緒に指導をして。終わってから休憩室でココア飲んでいたんだ。
そしたら強盗犯の通報が来て、お父さんは同期の方と現場に走った。拳銃を持った犯人を制圧するために、発砲許可が出ていた」

底抜けに明るい目が真直ぐに英二を見つめて聴いてくれる。
ゆっくりひとつ瞬くと、静かにテノールの声が言った。

「その同期がさ、今の武蔵野署の指導員だね?」
「…知っていたのか、国村?」

すこし驚いて英二は友人の怜悧な目を見つめ返した。
見つめた細い目は、いつものように明るいまま頷いて国村は口を開いた。

「前にも話したけどさ、俺は事件があった当時に話は知っていたんだ。
でも、それが周太のおやじさんだって知ったのは再会した時だ。で、ちょっと調べさせてもらったんだよ。
俺だって周太を守りたいからね。だから武蔵野署まで射撃訓練行くのも悪くない、って思ったんだよ。彼のこと見たかったからね」

なんでもない事のようにテノールの声は飄々と話してくれる。
この国村は冷静沈着で豪胆、純粋無垢な目で真直ぐ物事を捉える視点と、的確に判断できる怜悧を持っている。
この友人なら調べるくらい簡単だろう、また英二は自分の迂闊さを思い知らされた。

「もしかして国村、その為に練習の初日はわざと逃げた?」
「あ、ばれちゃったね?」

からり笑って底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑んだ。
ちょっと唇の端をあげると国村は、さらっと自白してくれた。

「俺が逃げたらさ?宮田は彼に屋上の場所を訊きに行くなって思ったんだ、武蔵野署で唯一の知り合いだからね。
で、俺を連れ戻したら当然、詫びに行くだろ?そのときに顔と名前がハッキリ解かる。そしたら後はさ、通うたびに見てりゃいい」

いつものように明るい目は愉しげに笑っている。
この怜悧な目は、どのように安本を見たのだろう?そっと英二は訊いた。

「おまえは、どんな人だって見た?」

訊かれて、細い目がすっと考え込んだ。
すこしだけ考えをまとめると国村は口を開いた。

「嘘の下手な男って感じかな?良い人過ぎて単純っていうかさ。だから周太のおやじさん、彼には話せなかったんじゃない?
ま、周太とおやじさんを陥れるツモリは、欠片も無いだろね。たぶん彼は白だ、気をつけないと悪気なく足引っ張るタイプだけどさ」

英二と同じように国村も安本を見ていた。
国村も独自に調べて、周太が置かれた状況のほとんどを把握したのだろう。
きっと英二が秘密を隠していても国村は自分で探り出してしまう。

―もう国村には、全てを相談した方がいいのかもしれない

ずっと数か月間、ひとり抱えていたことを分け持てる相手がいてくれる。
ほっと肩の力が抜ける安堵感に、英二は微笑んだ。

「俺もね、そう思ったよ。すごく良い人なんだ、でも読みが甘いっていうか…こんなこと、一年目の俺が言うのは烏滸がましいけど」
「そんなの関係ないだろ?」

あっさり断言して底抜けに明るい目が笑んでいる。
さも当然と言う口調で国村は可笑しそうに言ってくれた。

「警察はね、実力がモノを言う世界だろが?年数積んでも役立たずには権利は与えられない。
そんな世界の話だ、そこで実力のある人間がえばって何が悪い?一年目でも関係ないね、おまえには言う権利があるって俺は思うよ」

明朗に断言して国村は笑っている。
そんなふうに言って貰えることは嬉しいし、本当にその通りだと思う。
だから事件の話を聴きだした時は、英二も安本に対して大上段の態度に出て堂々と脅かしもした。
けれど本来の真面目な性質からすると、こういうのは所在無くて困ってしまう。困ったままを英二は言ってみた。

「ありがとう、国村。俺もね、そうだとは思うよ?でも階級も実績も俺は何もないんだ、それこそ烏滸がましいだろ?」
「こら宮田、おまえ、解ってないんだね?困るねえ、」

半分呆れ顔で「困るだろうが」と細い目が笑っている。
笑いながら国村は低めた声で話し始めた。

「宮田はね、俺がアンザイレンパートナーに選んだ男だ。クライマーとして任官して、俺の公式パートナーになった。
それってね?おまえが将来、警視庁山岳会のナンバー2になることは決まり、って事だよ。既に発言権も、いくらか獲得してる。だろ?」

最高のクライマーである国村のパートナーになれば発言権は得られる。
それは英二も解っていたし、このことは周太を守る上で有利になると考えていた。
けれど自分が山岳会のナンバー2になるとは考えていなかった、驚いたままを英二は言葉にした。

「うん、…おまえのパートナーだから、いくらか発言権は得られるとは思ったよ?でも、ナンバー2とか考えなかった」
「解ってないねえ?おまえってさ、賢いくせに時々ホント馬鹿だよな。自分のこと、ちゃんと見ろよ?」

呆れたよとキツイ言葉を言いながらも細い目は温かく笑んでいる。
相変わらず静かな低いテノールが英二に告げた。

「警視庁ではさ、山ヤの警察官のトップは後藤のおじさんだろ?
で、おじさんの山ヤのパートナーって本来は蒔田さんなんだよ、だから蒔田さん昇進したんだ。
山岳会が警視庁に対して発言力を得るため、ナンバー2自らオエライさんになったんだよ。警察の世界で生きる山ヤを守るためにさ。
そうやってファイナリストが育つ環境を作ったワケ。だから宮田、おまえも出世することになるよ?蒔田さんと同じコースってコトだ」

ちょっと待ってほしい。ほっと英二はため息を吐いた。
だって自分はまだ本当なら卒配期間の新人だ。それなのに既にそんな進路が決まっているなんて?
このクライマー任官も随分とイレギュラーだとは思った、けれどもっと単純な意味に自分は考えていた。
小春日和の静謐おだやかな山桜の下、静かに英二は呆然を口にした。

「俺、まだ1年目だろ?まだ何の実績もない、なのにそこまで決めるなんて…無謀じゃないのか?」
「期間なんて関係ないね、おまえは見込まれちゃったんだよ、この俺にね」

畳みかけるよう底抜けに明るい目が笑っている。
笑いながら透明なテノールが低く英二に教えてくれた。

「世界ファイナリストの強い発言権を持った警視庁山岳会トップ、これに俺を就かせる。
このために後藤のおじさんは、俺を警視庁に任官させたんだ。警視庁の山ヤの警察官を守るためにね。
で、俺のパートナー宮田をナンバー2に育てる必要がある。だからクライマー任官の最終面接はナンバー2自身だったんだろ?」

山ヤの警察官であることに後藤副隊長は誇りを持っている。
そんな後藤が自分の後継者を真剣に育てたがることは納得が出来てしまう。
そして、射撃大会の開会式で国村が「山ヤの警察官」として誇らかに宣戦布告したことも納得が出来る。
そんな国村を後藤は涙ぐんで見つめていた、きっと蒔田も心から嬉しく見ていただろう。

あのとき国村はいろんなものを背負って術科センターに立っていた。
この事実が今更ながら驚きと、素直な賞賛になって温かい。
けれど英二自身の事となれば正直、途惑いも大きくなってしまう。
そんな想いと見つめる真中で、真白なマウンテンコート姿が明るく笑いながら英二に告げた。

「俺の生涯のアンザイレンパートナーとして宮田はね、3つの責任があるってコトだ。
ひとつめは最高のクライマーと同等の山ヤになって、一緒に世界中の高峰を踏破していくこと。
ふたつめは最高の山岳レスキューとして俺の専属を務めること、そして最高峰からも必ず無事に帰ること。
で、3つめ。きっちり昇進してエラくなってさ、警視庁に対する山岳会の発言権を守る。そうやって山ヤの警察官を守ることだ」

3つめの責任は、英二にとって全くの盲点だった。
まだ1年目の自分、けれどこの責任をもう負ったということだろうか?
けれど今更ながら思えば、任官書類を渡すとき後藤副隊長も「ほんとにいいのか?」と訊いてくれた。
よく意味を解っていなかった自分だった、けれど、きっと。いま目前に示された3つの責任に英二は微笑んだ。

「いま俺、驚いてるよ?なんにも解かっていなかったな、って。
でも俺、解っていたとしても、きっと答えは変わらなかった。3つめの責任は本音、重たいよ?
それでも、国村のアンザイレンパートナーやる為なら構わない。なんでもやるよ?俺、おまえと一緒に最高峰に立ちたいんだ」

いまこの瞬間に覚悟できなかったら、きっと一生後悔する。
今この瞬間に心深く生み出した覚悟を見つめて、英二はきれいに微笑んだ。

「それに俺ね、山ヤの警察官であることに誇りを持ってるんだ。
だから山ヤの警察官を守る手援けをしたい、俺に出来る精一杯で。これはね、きっと周太のお父さんも喜んでくれると思うんだ」

喜んでくれますよね?
長い指でニットごしに合鍵にふれながら英二は山桜を見あげた。
この奥多摩の森を映した庭を愛したひと、その遺された想いをすこしでも多く受けとめたい。
この自分を信じてくれる人達の信頼に、精一杯に自分は応えていきたい。
こんな自分でも「可能性を信じる」と、あの射撃大会の日に後藤副隊長と蒔田地域部長は言ってくれた。
そしていま、この隣に立っている最高の山ヤの心に生きるクライマーは自分を選んでくれた。
この懸けられている想いのすべてに自分は応えていきたい。
それがまた周太とこの家を守る道にも繋がるはずだから。

「うん、そうだね。きっと喜んでくれるよ?彼も山ヤの警察官の1人だったから」

静かに答えてくれる底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
笑んだまま英二を見つめると国村は、おだやかに英二に告げた。

「あのとき、山岳会は彼を守ってやれなかった。それをね、後藤のおじさんは悔やんでる。
俺もね、あんな哀しいことは繰り返したくないよ?それもあって俺さ、本気で世界ファイナリストになろうと思うんだよね。
警視庁だけじゃない、世界の山ヤの頂点に俺は立ちに行きたいね。で、発言権を得たらさ?言ってやりたいコトが色々あるんだ」

国村には国村の誇りを懸けた戦いがある。
それをすこし英二に教えてくれた、こんな信頼が嬉しい、けれど言ったことが可笑しくて英二は笑った。

「国村はさ?かなり言いたい放題だって俺、思ってるけど。でも、まだ言ってやりたいコトが色々あるんだ?」
「当然だろ?まだまだ言い足りないね。その為にも、み・や・た?おまえには観念して、キッチリ昇進してもらうよ?」

可笑しそうに笑って鞄を持ち直すと、国村は玄関へ踵を向けた。
並んで飛石を歩きながら、抱えた花束の翳で英二は微笑んだ。

「うん、頑張るよ。俺は今度の秋が昇進試験か、対策のコツとか教えてくれる?」
「もちろん教えるね?この俺が家庭教師するんだ、ストレートで全部の試験にクリアしてもらうよ?」

国村は警察学校で首席入学の首席卒業だったと英二も聴いている。
これだけ頭が切れたら学科も優秀だろうし、高校時代に三大北壁を踏破するほど心身の能力も優れている。
そのうえ射撃であれだけ腕があれば、首席も当然だったろうと納得してしまう。
ほんとうに力強い味方、けれど敵にまわしたら、こんな怖い相手もいない。
それは国村に狂言強姦されかかった時の恐怖で、英二自身も身に染みて思い知らされた。

こんな国村は優れた能力を備えながら、本人は単に「山が好き」なだけの純粋無垢な山ヤでいる。
ただ山と酒があれば満足で、山ヤの誇らかな自由のままに人間社会の範疇になど捉われることが無い。
この純粋無垢で強靭な精神の持ち主が心から英二は大好きだ。
いつものように隣を歩いている、大好きな友人に英二は笑いかけた。

「国村、ナンバー2の話。今ここで話してくれたのってさ、今日、俺がお母さんに話せるように、気を遣ってくれたんだろ?」
「まあね、」

細い目が温かに笑んで英二を見た。
けれどすぐ悪戯っ子に笑って愉快気にテノールが笑いだした。

「ほら、宮田とおふくろさん、二人で話す時間とるだろ?その隙に俺はね、周太とのフタリキリを楽しませてもらうよ?」

こんな照れ隠しな悪戯発言が国村は面白い。
可笑しくて笑いながら英二は礼を言った。

「ありがとう、国村。周太ね、写真を見たがってたから、楽しませてあげて?でさ、明日はここ8時に出れば良かった?」
「写真、了解したよ。で、8時でOK。青梅署に戻って着替えて携行品もらってさ、御岳駐在に昼前に充分着けるよ。
 そしたら岩崎さんとの交替に、きっちり間に合うだろ?14時に出発って言っていたよな。剣岳に登るんだったっけ?」
「そうだよ、畠中さんと、あと七機の同期の人と登るって言ってた。帰ってきたら話、聴かせてほしいな」

話しながら首に掛けた合鍵を手繰り寄せて、ふと足元の翳に英二は上を見あげた。
見あげた先の玄関上のバルコニーには、よく陽に温まったふとんが真白に干されている。
そのむこう、バルコニーの木枠窓がからりと開いて、なつかしい姿がふとんを抱え込んだ。

「周太、」

うれしくて掛けた声に気がついて、ふとん抱え込んだままエプロン姿が見おろしてくれる。
そして小春日和の青空から、大好きな声が微笑んだ。

「おかえりなさい、英二、」

幸せそうな笑顔で黒目がちの瞳が迎えてくれる。
この大好きな笑顔が無事に見られた幸せに、英二は綺麗に笑った。

「ただいま、周太、」




(to be continued)

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