ただ想いひとつ、掌にこめて
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第35話 曙光act.4―side atory「陽はまた昇る」
周太からのメールに英二はすぐ電話を架けた。
いつものように迎えに行って早く逢いたかった、今は恋人の立場ではないけれど傍にいられたら幸せだから。
けれど周太にきっぱりと断られてしまった。
「ダメ、英二。美代さんとお茶してて?俺が行くから、待ってて?」
こんなふうに、迎えに行くことを断られるのは初めてだった。
ちいさくため息吐きながら電話を切ると、ゆっくり瞬いてから英二は美代へと微笑んだ。
「お待たせ、美代さん。周太、あと20分位で来てくれるって」
今から10分後に新宿署独身寮を出るなら、そのくらいになるだろう。
こんな簡単な時間計算すら今は切ない、自分の迎えを断られた余韻が痛々しい。
迎えに行けば、ふたりきりで歩く時間が出来るから、少し話が出来ると英二は思った。
けれど、それが周太は嫌なのかもしれない。哀しい想い隠して微笑んだ英二に、楽しげに美代が笑って提案をくれた。
「ね、お迎え行ってきて?」
「うん…でも、今、周太にダメって言われたんだ」
微笑んで答えながら英二は心にため息を吐いた。
ほんとうは。今日は午後からの予定は自由だったから「少しでも逢いたい」と英二は周太に訊いた。
けれど手話講習会があるからと断られてしまった、それは仕方ないと思っていた。
けれど美代と会ってきてと言われて、そして今は迎えに行くことすら強硬に断られた。
― まるで、俺と美代さんを、ふたりきりにさせたいみたいだ?
こう思ったとき、がらり想いが崩れた。
“ 周太はもう、英二が邪魔になったのだろうか? ”
こんな予想は哀しい、けれど、邪魔にされても、仕方ない。
自分は周太を、愛するひとを強姦した。その罪を、自分が一番わかっている。
卒業式の夜、無理に抱いたせいで周太の体を傷つけて。
翌朝に見たシーツに散った、赤い花の血痕に自分の罪を思い知らされ泣いた。
もう二度と周太の体に辛い事はしない、そう誓ったはずだった。
それなのに自分はあの夜以上の過ちを犯して周太を傷つけた。
もし同じ事を誰か他の人間が周太にしたら。
絶対に自分は許せない。どんな手段を使っても、地の涯までだって相手を追い詰める。
追い詰めて、冷酷な仕打ちをして苦しませ泣かせて、深い傷に償いをさせるだろう。
それくらい自分は平気でするだろう、それほどに英二の周太は不可侵だから。
それくらい許せない、それなのに、自分が周太にしてしまった。
― こんな俺は…捨てられて当然、だな
ため息に埋もれながら俯き加減にコーヒーを見つめた。
見つめたマグカップに残る香の色に、ふっと愛しい笑顔が映りこむ。
その笑顔が想いの風景の中いつもの御岳駐在所の給湯室に佇んだ。
―…今から茶を淹れます、きちんと見ていて下さい
マグカップを湯で温める細やかな気遣い。
急須も温め、それから茶葉を入れ、ゆっくり湯を注ぐ。
コーヒーフィルターを器用にセットする、すこし小さい掌。
フィルターに湯を注ぐ丁寧な手つき、湯を見つめる穏やかな表情。
その全てに見惚れながら周太の隣に立って、心から幸せな想いで自分は笑っていた。
―…俺にはさ、一生ずっと周太が淹れてくれること。それなら覚える
…わかった、約束する…一生、淹れるよ?
今秋11月、御岳駐在所の給湯室で交わした約束。
英二のコーヒーと茶は一生ずっと周太が淹れてくれること。
これはプロポーズを仮託した約束だった、この幸せな約束の記憶が今は痛い。
この幸せな約束を、自分は自分の欲望と浅はかさで壊してしまった。
ただ独占欲のまま快楽に溺れこんだ、こんな自分が呪わしい。
どんな理由があっても、愛するひとを強姦するなど許されない。
愛しているほど深い信頼がある、深い信頼だからこそ裏切った罪は深く傷つける。
こんなの思いあがりかもしれない、けれど、周太は自分を愛してくれている。
だから、きっと、周太は深く傷ついた。
まだ10歳の心のままでも、深い愛情を強く抱いて時に母のようにも周太は愛してくれた。
この左手首のクライマーウォッチに籠る守りたい願い、いつも温かい手料理、気恥ずかしげな笑顔。
そして見つめてくれる純粋無垢な恋と愛の全てを自分は知っている、泣いても逃げず愛してくれる優しい強さも知っている。
その優しさ故に孤独を選んでいた周太、けれど英二の想いを心から信じて、孤独を脱いで愛してくれた。
だからこそ、その信頼を踏みつけた罪深さが、時の経過と気づかされていく。
この罪は自分が一番知っている、もう恋人と呼ばれなくて当然だ。
今はただ保護者として守りぬいて、すこしでも罪を償いたい。そう覚悟している。
けれど、幸せな記憶と約束がふるよう想い出されて、今更ながら喪失感の虚無が嗤って痛い。
こんな時にも虚無が英二の心掴まえて、ぼんやりマグカップを見つめていると美代が笑ってくれた。
「ね、お迎えに行ってきて?きっとね、本当は湯原くん、来てほしいって想っているから」
きれいな明るい目が笑って、英二を虚無から戻してくれた。
ひき戻された意識に映る笑顔に微笑んで、穏かに英二は尋ねた。
「どうして美代さん、そう思うの?」
尋ねられて明るい目が笑ってくれる。
明るく笑いながら可愛らしい声が明朗な論理で話し始めた。
「だって、さっき教えてくれたでしょう?恋したら少しも離れていたくないって。
だからね、湯原くんも宮田くんも、早く逢いたいだろうな、って思うのよ?ね、そうでしょう?だから、お迎えに行って、」
実直な優しさが「ほら、早く?」と明るく笑ってくれる。
こんなふうに女の子に気遣いされるのは初めてだった、すこし驚きながら英二は微笑んだ。
「ね、美代さん?美代さんは俺に、憧れてくれているんだろ?
普通はね、俺と一緒にいたいってなると思う。それなのに美代さんは、周太のところへ行けって言ってくれるの?」
「うん。だってね、私、宮田くんの幸せそうな笑顔が好きよ?」
言って美代は、あわく頬染めて笑ってくれる。
気恥ずかしげに笑いながら、可愛らしい声が実直な想いを告げてくれた。
「好きな人の笑顔を見ていたい、だからね、心から笑ってほしいのよ?
宮田くんは湯原くんと居るとね、ほんとうに幸せそうなの。その笑顔がね、…好きです、はい、憧れます」
困ったように恥ずかしげに、きれいな明るい目が笑ってくれる。
明るい目ですこし首傾げて微笑んで、美代は真直ぐに想いを言葉に紡いだ。
「それに、正直に言っちゃうと、ね?友達だけでど私、湯原くんがいちばん好きなの。
まだ湯原くんと会ったのは11月と1月の2度だけよ?でもね、お手紙や電話や、メールでね、たくさん心は繋いできたの。
この3ヶ月間で、ね?湯原くんと繋げた言葉や気持ちはね、本当に嬉しくて、楽しくて、やさしい時間と記憶でいっぱいなの」
英二が周太を想ったのも、出逢ってすぐのことだった。
警察学校に入寮してすぐの脱走事件のとき、いま思えば、あの時に大好きになった。
あの時に傷ついた心は周太の懐が癒してくれた、その居心地が安らかで英二は離れられなくなった。
穏かな静謐が深く優しい周太の懐は純粋で温かで、いつ訪れても安らかで言葉が要らない。
真直ぐな黒目がちの瞳は凛として、繊細で勁い眼差しに心ごと惹かれ見惚れていった。
あの時の自分と同じように美代は周太の居心地に気がついている。
美代は普段距離は離れていても、心を真直ぐに繋いで周太を好きになった。
この美代の気持ちは自分はわかる、英二は微笑んだ。
「うん、美代さんの気持ち解るよ?周太ってね、時間の長さは問題じゃないんだ」
「あ、宮田くんもそう思うのね?きっと湯原くん、やさしく受けとめてくれるからかな、って思う」
素直に頷いて美代は微笑んだ。
ほんとうに美代は周太を好きなのだろう、そんな様子が何だかうれしくて英二は微笑んだ。
そんな英二を見て美代は率直に言ってくれた。
「宮田くんのこと、憧れてます、好きです。でもね、今は私、湯原くんが一番大切なの。
だからバレンタインもプレゼントしたいな、って思っちゃったのよ?だから宮田くん、今すぐ迎えに行って、湯原くん喜ばせて?」
ほら早く行って?きれいな明るい目でも告げながら美代は勧めてくれる。
実直なままに温かい美代の気遣いがうれしい、けれど英二は正直に言った。
「ありがとう、美代さん。でも俺ね、もう…周太に嫌われたかもしれなくて。だから、俺の迎えなんて…迷惑かもしれなくて」
自分で言っていて哀しくなっていく。
周太に嫌われる?そんなことになったら自分はどうしたらいい?
確かに今の自分には「山」がある、けれど、それだって周太がいるから幸せになれる。
このまま周太が居なくなったら「山」を下りた時、自分はどこに帰ればいいのだろう?
「なに言ってるのよ?ね、ちゃんと、見てるの?」
さらり美代は断固と言った。
きれいな明るい目が真直ぐ英二を見つめて、可愛らしい声が言ってくれた。
「そんな『かもしれなくて』はね、きちんと向き合って答えを出さなくちゃ。大丈夫、湯原くん待ってるよ?…さて、」
話し終えて美代は選んだ本のうち3冊まとめ持つと席を立った。
どうするのかすぐ気がついて英二は、立ち上がるとブラックミリタリージャケットをはおった。
「美代さん、その本ちょっと貸してくれる?先にね、ここの会計も済ませるから」
「え、あの、」
笑いかけながら英二は美代の掌から本を手にとった。
そしてレジへ行くと伝票と一緒に美代の3冊を店員に差し出した。
「本はプレゼント用にして頂けますか?」
「はい、リボンをおかけする感じですが、よろしいですか?」
「お願いします、」
美代が驚いたように隣から見上げてくれる。
その様子がどこか周太と似通っていて微笑ましい、そろそろ周太は出るころだろうか?
そう考えているうちに会計と包装が終わって、英二は美代にきれいなペーパーバッグを差し出した。
「はい、美代さん。周太迎えに行くのに、中座するお詫び、」
「え、でも…悪いよ?」
途惑ったように美代は英二と本の包みを見比べている。
遠慮しなくていいのに?そう目で笑いかけて英二は言った。
「だってね、美代さん?今日は俺と美代さんのデートなんだよ、なのに俺はね?
美代さんをエスコートしない時間を作っちゃうんだ、こんなの男として恥ずかしいんだよ。だから、せめてものお詫びをさせて?」
自分の男としてのプライドの為に受けとってほしい。
そう言って英二は美代に3冊の本が入ったペーパーバッグを渡した。
素直に受けとると、美代は気恥ずかしそうに笑ってくれた。
「ありがとう、宮田くん。…あのね、気を遣わせて、ごめんね?」
「こっちこそ、ごめんね。そして、ありがとう、美代さん。俺の背中、押してくれて。おかげでね、周太を迎えに行けるよ?」
華奢な女の子が、大柄な自分の心と背中を小さな掌で押してくれた。
押してくれた小さな掌は、実直に温かで優しい。なんだか幸せで英二はきれいに微笑んだ。
そんな英二に美代も、きれいな明るい目で楽しそうに笑ってくれた。
「よかった、そう言って貰えて。…ね、やっぱり宮田くん、かっこいいね?憧れます、」
「そう?ありがとう。美代さんこそ素敵だよ? じゃ、行ってくるね」
きれいに笑って英二はブックカフェを後にした。
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新宿署独身寮までたどり着いて、英二は途惑った。
ブックカフェからここまで経路は1つしかない、それなのに周太に会えなかった。
いま見上げる独身寮にある周太の部屋の窓は、きちんとカーテンが閉められ照明は無い。
もう周太は外出しているはずだった。
どこかで行き違ったのだろうか?
それとも、英二に逢いたくなくて、どこかへ行ってしまった?
そんな哀しい予想をして英二は濃い睫をかるく伏せこんだ。
―… そんな『かもしれなくて』はね、きちんと向き合って答えを出さなくちゃ。大丈夫、湯原くん待ってるよ?
背中を押してくれた、小さな掌と明朗な言葉。
あの言葉の温もりは裏切りたくないな、微笑んで英二は携帯電話を開いた。
コールが1つ、2つ、3つと呼んでいく、コールの1つずつに鼓動も支配されていく。
このコールに応えて出てくれるのか?コール音に緊張が鳴る、そうして5つ数えた時ふっと通話が繋がった。
「ごめんなさい、英二、」
大好きな声が謝って、名前を呼んでくれた。
名前を呼ぶトーンはいつも通り変わっていない。
自分は嫌われてはいないのだろうか?祈るような想いに英二は名前を呼んだ。
「周太…、」
呼んだ名前の声がすこし掠れた。
けれど電話越しには伝わらない程度の掠れだった。
いま周太はどこにいるのだろう?電話越しの音に傾けた耳に喧騒が届く。
喧騒まじりに聞き慣れたアナウンスが伺えて、英二は駅へ踵を返した。
「いま…駅のホームにいる?…青梅線?」
「ん、今ね、美代さんを見送って…ごめんね、英二、迎えに来てくれていたんでしょ?」
足早な衣擦れの音が聞こえてくる、いま周太はあの場所へ向かっている?
懐かしい「いつもの」を予想しながら英二は、美代の行動に驚いた。
「そうだけど…美代さん、帰ったのか?」
「ん、そう…俺もね、帰るからって電話で言われて。それで、走って駅に見送りに来て…」
美代は1月に、河辺のカラオケ屋から周太を連れてエスケープした。
けれどここは新宿で美代には不慣れな場所だろう、しかも都会で気後れすると言っていた。
それでも今また自由にエスケープをした、そういう美代の行動力は今の英二には納得が出来てしまう。
さっきも美代は英二の背中を押してくれた、英二が席を立ちやすいよう美代は本の会計に行こうとしてくれた。
大らかで明朗な美代の実直さと行動力は好きだなと素直に想える、周太もそういう美代が好きなのだろう。
そんなふうに考えている英二に、遠慮がちな声が謝ってくれた。
「あの、勝手に動いて、ごめんね?」
「いや、無事ならいいんだ、ふたりとも」
遠慮がちな周太の声が愛しい、こんなふうに謝ってくれることが嬉しい。
けれど周太の遠慮がちなほど優しい心が、ときおり痛々しくも思えてしまう。
もっと、わがまま言って自己主張してくれたらいいのに?
そんな願いを想いながら駅への道を歩いて、英二は電話むこうに微笑んだ。
「周太、見送ってくれて、ありがとう」
「ん、…こっちこそね、美代さんの話、聴いてくれて、ありがとう」
たん、たん、たん、
電話越し階段を早足で上がっていく靴音が聴こえてくる。
きっと青梅線ホームから階段を登ってくる靴音、きっと周太はあの場所に来てくれる。
もし周太がまだ自分のことを想っているなら、あの場所で待ち合わせようとしてくれる。
きっと来てくれる。そう思いながらも英二は、ブックカフェで気懸りになったことを訊いた。
「周太、美代さんの話がなにか、知ってた?」
美代が英二に好意を持っていること。
もし知っていて会わせたのなら、それは別れの手段として使った方法かもしれない。
もし周太にとって英二と別れる手段の方法だったら?
そんな怖い予想に瞑目して英二は周太の回答を聴いた。
「ん、昨日ね、電話で話してくれて…それで、英二に聴いてほしくって…」
美代が英二に好意を持っている。
それを周太は知っていて、美代とデートするよう勧めていた。
― 周太…俺のこと、美代さんにあげたいの?
ごとり、心が1つ崩れてしまう。
やっぱり周太にとって自分は邪魔なのだろうか?
ほんとうは周太は英二を嫌いで、けれど優しいから言わないのだろうか?
そんな哀しい予想をしながらも英二の足は、改札口前に着いていた。
「美代さんね、喜んでたよ?ありがとう、英二」
「うん、…」
電話の向こうに聴こえる雑踏が、いま英二が佇む雑踏とシンクロしていく。
ここは警察学校の時から待合せた、ふたりの記憶が佇んでいる。どうか今も、ここに周太に来てほしい。
言わないでも解り合える信頼と想いを手繰り寄せるよう、英二は改札口を見つめていた。
見つめる想いの真ん中に、あわいブルーグレーのダッフルコート姿が映りこんだ。
「周太、」
もし嫌われていたら。
そんなこと考える前にもう、心も口も名前を呼んでいた。
真直ぐ見あげてくれた黒目がちの瞳が、自分の姿を見止めてくれる。
見つけてくれた?うれしくて笑いかけた黒目がちの瞳に、瑞々しい光がふと見えた。
あの光は、涙?
もしそうだというのなら、どんな意味の涙だろう?
「…英二…!」
名前、呼んでくれた。
抱きついて、背中に鞄ごと掌まわしてしがみついてくれる。
やわらかな髪から穏かに爽やかな香が頬を撫でていく。
ダッフルコートの肩がすぐ近くにいてくれる。
「周太、…」
そっと名前を囁いて、ゆるやかに長い腕で小柄な体を抱きしめる。
逢いたかった肩も背中も抱きしめて、ふれる温もりが幸せで、しがみついてくれる想いが温かい。
おだやかな鼓動が懐から響いてくれる。抱きしめている現実が幸せで切なくて、どうしていいか解らない。
本当は、このままずっと離したくない。けれど今の自分には、言うことも願うことも赦されない。
それでも抱きしめられた今が幸せで、この今の幸せだけを見つめていたくて英二は微笑んだ。
そんなふうに微笑む英二を黒目がちの瞳が真直ぐ見上げて、周太が唇を開いた。
「ね、英二…浚って?…このまま、連れて帰って?」
いま、なんて言ってくれた?
自分の願望の声だろうか?
それとも、本当に周太が願ってくれた言葉?
しずかに体を少し離すと英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
本当に言ってくれたのなら良いのに、そんな願いと見つめるなかで、やさしく周太が微笑んだ。
「お願い、英二?このままね、奥多摩へ連れて行って?」
お願い、って言ってくれた。
このまま奥多摩へと、連れて行ってと願ってくれた。
こんな幸せな願いを言ってくれる?こんな幸せな願いなら、これが現実でも夢でも良い。
黒目がちの瞳を見つめて、ゆっくり頷くと英二は笑った。
「うん、周太…お願い、叶えるよ?一緒に帰ろう」
一緒に帰ろう。
たった一言だけれど、宝物の呪文。
この宝物の呪文をまた言えた、幸せで英二は微笑んだ。
微笑んで見つめた黒目がちの瞳に、ふっと涙こぼれて周太は泣いた。
「英二、…連れて帰ってくれるの?まだ、…俺の居場所は、英二の隣にある?」
黒目がちの瞳から涙がこぼれていく。
こぼれる涙にあふれた周太の「問い」が心にそっと響いていく。
―… 俺の居場所は、英二の隣にある?
こんなこと聴いてくれるなんて?
けれどこの意味はまだ解らない。保護者、父、兄、友人、沢山の意味で「隣」はある。
けれど、どの意味でも構わない、隣で、近くで、ずっと見つめていられるなら。
また近くで見つめられる幸せに英二はきれいに笑った。
「当たり前だよ、周太?言っただろ、俺はね、周太のものだよ?」
ずっと自分は周太のもの。
これは自分にとって「絶対の約束」になっている。
この約束は周太に対して結んだ、そして敬愛する人と大切な人と結んだ祈りの約束。
だからこの約束は生涯ずっと手離すわけにいかない。
はっきり答えた英二に周太が微笑んでくれた。
「ん、…ありがとう、英二。連れて帰って?」
「うん、連れて帰るよ?でも周太、その前に新宿署に戻るよ。外泊申請を出さないと、」
きれいに笑って英二は、周太の右掌をとると左掌でくるんだ。
ミリタリージャケットのポケットに周太の掌ごと入れて温める。
そっと長い指で黒目がちの瞳あふれる涙を拭うと、周太が涙と一緒に微笑んだ。
「ん、温かいね?…幸せだよ、英二?…で、ね?靴を見て?」
「靴?」
言われて素直に英二は周太の足元を見た。
その足元は冬用登山靴を履いている、これで周太は駅まで走ったのだろうか?
驚いた英二に周太はうれしそうに微笑んでいる、掌を繋いだまま英二は訊いた。
「周太、登山靴で駅まで走ったんだ?」
「ん。結構ね、走れたよ?」
微笑んで黒目がちの瞳が見つめてくれる。
この冬用登山靴の意味に自分は期待してもいいのだろうか?
解からなくて佇んでいる想いのなかに、気恥ずかしげな笑顔で周太が唇を開いた。
「英二とね、どうしても一緒にいたくて…それで、当番勤務あがって、すぐ外泊申請を提出したんだ」
自分と、どうしても一緒にいたくて?
こんな幸せなこと、本当に言ってくれている?
すこし呆然としそうな想いを飲みこんで英二は微笑んだ。
「当日でも、許可が下りたんだ?」
「ん、自主トレーニングに参加します、って書いたから…すぐに許可してもらえて。
あの、英二、ごめんなさい、勝手に書いて…でも俺、どうしても一緒に連れて帰ってほしくて…」
謝らなくっていい、勝手に書いても構わない。
どうしても一緒に連れて帰ってほしい、そんなお願いが幸せで仕方ない。
この「一緒にいたい」の意味がまだ解らない。けれど一緒にいられるなら、それだけでもいい。
「周太?うれしいよ、そういうの」
本当にうれしい、こんなお願いも行動も。
それも周太が自分から望んで考えて、英二についてこようと行動してくれた。
見つめたくて覗きこんだ黒目がちの瞳も、いま嬉しそうに笑ってくれている。
今ならこの質問も出来る?きれいに笑って英二は懐かしい質問を訊いた。
「ね、周太?夕飯、なに食いたい?」
この質問は久しぶり、外泊日のときは「昼飯」だった。
幸せな合言葉のように思っていた、この言葉で約束する外泊日は周太を独り占めできる日だった。
独り占めして食事して、あの公園のベンチに座って、読書する周太の横顔を見つめていた。
ただ隣に座って見つめる時間が幸せだった、今もその気持ちは変わらない。
今も自分は変わらない、けれど今の周太はなんて答えてくれる?
祈るような想いに見つめる先で、黒目がちの瞳が幸せそうに微笑んだ。
「ん、ラーメン」
落着いた大好きな声が答えてくれた。
この答えには自分の答えは決まっている、「いつものように」英二は笑って答えた。
「またかよ?」
懐かしい「いつものように」がまた戻ってきた。
ありふれたこと、けれど自分には幸せが温かい、あの頃ともう違う「今」であっても。
あの頃は自分が周太を独り占め出来ればいいと思っていた。
けれど今は、周太の自由な幸せを祈る自分がいる。
そして周太の自由を祈る自分も、大らかに愛する自由な想いを手に入れた。
こんな今の自分は、無駄な力が抜けて軽やかさが居心地いい。
きっと前の自分よりすこしだけ大きくなれている?
そんな自分の変化が愉しくて英二は微笑んだ。
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青梅警察署独身寮に戻ると英二は急いで外泊申請書を書いた。
時刻は20時半をまわっている、こんな時間に急に申請を出すなんて非常識だとも思う。
けれど、奥多摩に帰ってくる青梅線の中で見た周太の涙に、心は決まってしまった。
―…あいしてるなら…キス、…して、よ?…そして、今夜、ずっと傍にいて…
お願い、英二?申請は…無理にでも通してきて?今夜は一緒にいて、
あんなふうにお願いされたら、言うこと聴かないわけにいかない。
そして重ねた1ヶ月ぶりのキスは、心から幸せだった。
やさしい穏やかなキスは、今までで一番幸せだった。
キスを求めてくれるなんて、期待してもいいのだろうか?
―…帰ってきて?ごはん、作るから…おふとん干すから、おふろ沸かすから…帰ってきてね、俺の隣に
俺はね、なにも出来ないけど、でもね…出来る精一杯で、居心地のいい場所を作りたい
英二が帰ってくる場所をつくりたい。俺は、ね…他のひととの初恋を大切にしてる。そんな俺に出来るのか、わからない、けど
キスを求めて、帰ってくる場所を作りたいと言ってくれた。
周太はまた自分を恋人として求めてくれているのだろうか?
それとも、父や兄といった家族としてだろうか?
家族とキスすることは日本では稀だろう、けれど周太は幼い日々に両親から額へのキスで愛され育まれている。
そういう周太なら唇のキスを知って、家族でもすれば良いのにと思ってしまうかもしれない。
いまだ10歳の子供のまま純粋で単純な所がある周太なら、こんな発想もするかもしれない。
けれど、
―…今夜は、英二、ずっと一緒にいてね?…どうか、一緒にいて、あいしてる、から
この言葉が告げてくれるのは、愛しているから夜を一緒に過ごしてと言う願い。
だから、きっと。奥多摩鉄道の夜に交わしたキスは「恋人」のキスだった。
― ね、周太?この今夜、再び恋人の時間を蘇らせようとしてくれている?
けれど、と心にブレーキがかかる。
自分は周太に決して犯してはならない罪を行ってしまった。
そんな自分を許してもいいのだろうか?だから本当は外泊も断ろうかと思った。
けれど、今さっきビジネスホテルに送った別れ際も、周太はお願いしてくれた。
「ね、英二、必ず来てね?来るまでずっと待ってるから…」
「うん、頑張って申請出してみるけど、」
「もし、来なかったらね、床で寝ちゃうからね、俺…具合悪くなったら、英二、責任とってね?」
あんなふうに願って、わがまま言ってくれたのは初めてだった。
わがままを言っているとき周太の首筋は紅潮して、気恥ずかしさと艶が薫って眩かった。
ちょっと反則だ、そんな文句が口から零れ出そうに惹きつけられて、見惚れてしまった。
そんなふうに見惚れた自分の首筋が熱かった、そんな初めての感覚に途惑ってしまう。
この初めてに自分はもう、わがままな周太の姿と言動に心を掴まれて動けない。
けれど、哀しい途惑いも本音に居坐っている。
まだ自分が許せないままで、周太の願いを聴いていいのか解らない。
それでも今夜は一緒にいないわけにもいかないだろう、一緒にいるために周太はここまで来てくれたのだから。
そんな周太の願いを自分は拒むことなんか出来ない、英二は手際よく書きあげた申請書を急いで提出した。
「はい、外泊先は、すぐそこですね?携帯の電源は落とさないこと、緊急召集に応じられるようにね」
いつも通りの注意を言われて、すぐに申請は受理してもらえた。
あんまりスムーズで逆に申し訳なくなって、率直に英二は訊いてみた。
「こんな時間に急な私用が理由です、それでも受理戴いて大丈夫でしょうか?」
「ええ、構いませんよ?」
問題ないですよと担当官の目が笑ってくれる。
そして理由をきちんと答えてくれた。
「すぐそこですから呼び出しも可能ですし、宮田くんは奥多摩にいる限り必ず召集に応じてくれるからね。
なによりね、ほんと宮田くんは真面目でしょう?だからね、私用で急と言っても、きちんとした理由があるのだろうから」
信用してもらえているのが嬉しい。
ありがたいなと微笑んだ英二に、担当官は感心と呆れがミックスした顔で笑いかけてくれた。
「しかも宮田くん、今日は週休なのに昼まで2つも訓練して。
いつもそんなでしょう、君は。業務や訓練が無ければ、吉村先生の手伝いしているか、部屋で勉強しているか。
確かにね、救助隊は暇があれば訓練するのは当然だし、勉強も大事だ。けどね、息抜きも大事だよ?君はもう少し遊んだ方が良い」
そんなふうに担当官は笑って「今夜はのんびりするんだよ?」と言って外泊許可書を渡してくれた。
これで周太との約束は果たせる、ほっとして自室に戻ると英二はデスクの前に立った。
鍵付の抽斗を開けると、すこし厚い書類封筒が入っている。
英二は書類封筒を取出すとデスクの上に置いた。
この中にクライマー任官の書類がすべて入っている。
この書類が自分の生涯を決める、これを今夜中に書きあげて明朝には提出しなくてはいけない。
そして朝一番に蒔田地域部長へ届けられて、午後一までに人事部で受理される予定だと聴かされた。
この今は21時前。
この16時間後には、自分の運命は定められ、もう動かない。
今から16時間後になれば警視庁人事部にある自分の履歴が改訂される。
警察官として奉職する時間の全てを「山」に生きることが公式文書に記録され、実質の本配属決定になる。
そして自分は公人の立場で山岳救助の現場に立ち続け、山岳レスキューの最前線で生命の尊厳を担う義務と責任を負う。
そして、もうひとつ大きなものを背負う。
最高のクライマーと共に生涯を最高峰の踏破に懸けていく、この夢と責任と義務を背負う。
8,000m峰14座の踏破と世界ファイナリストの夢、この夢は最高のクライマーである国村に懸けられた。
この夢のサポートのために自分は最高の山岳レスキューとして、体を張っても国村の安全と自由を守りぬく義務を負う。
自分にとって国村は、山ヤの最高の夢と憧憬の結晶、そして大好きな最高の友人。
夢で憧憬で友人で、唯一人のアンザイレンパートナー。この存在を守るために自分は「山」に生きる。
そしてこれら全てが、これから更に危険へと立つ周太を守る道に繋がっていく。
この全てが16時間後には、公式文書に記録され自分の心に刻まれ定まってしまう。
いまデスクに置かれている書類封筒には、自分と国村と周太、3つの運命が入っている。
この全てを記す書類が、英二に記入されることを待っている。
「これを書く場所は、やっぱり、あの場所だよな?」
ひとり言に微笑んで英二は印鑑ケースを2つ胸ポケットに入れた。
そのまま書類封筒を持って廊下へ出ると、すぐの部屋の扉を英二は軽くノックした。
「はい、どうぞ?」
透明なテノールの声と一緒に扉が開いて、底抜けに明るい目が笑った。
すぐ体をずらして中に英二を入れてくれると国村が悪戯っ子の目で楽しげに言った。
「なに、宮田?とうとう俺に、夜這いかけてくれんの?」
「夜這いはしないよ?でもね、約束の書類を書きに来たよ。俺がお前の公式パートナーになる、ってね」
きれいに笑って英二は、自分のアンザイレンパートナーのデスクに書類を広げた。
(to be continued)
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第35話 曙光act.4―side atory「陽はまた昇る」
周太からのメールに英二はすぐ電話を架けた。
いつものように迎えに行って早く逢いたかった、今は恋人の立場ではないけれど傍にいられたら幸せだから。
けれど周太にきっぱりと断られてしまった。
「ダメ、英二。美代さんとお茶してて?俺が行くから、待ってて?」
こんなふうに、迎えに行くことを断られるのは初めてだった。
ちいさくため息吐きながら電話を切ると、ゆっくり瞬いてから英二は美代へと微笑んだ。
「お待たせ、美代さん。周太、あと20分位で来てくれるって」
今から10分後に新宿署独身寮を出るなら、そのくらいになるだろう。
こんな簡単な時間計算すら今は切ない、自分の迎えを断られた余韻が痛々しい。
迎えに行けば、ふたりきりで歩く時間が出来るから、少し話が出来ると英二は思った。
けれど、それが周太は嫌なのかもしれない。哀しい想い隠して微笑んだ英二に、楽しげに美代が笑って提案をくれた。
「ね、お迎え行ってきて?」
「うん…でも、今、周太にダメって言われたんだ」
微笑んで答えながら英二は心にため息を吐いた。
ほんとうは。今日は午後からの予定は自由だったから「少しでも逢いたい」と英二は周太に訊いた。
けれど手話講習会があるからと断られてしまった、それは仕方ないと思っていた。
けれど美代と会ってきてと言われて、そして今は迎えに行くことすら強硬に断られた。
― まるで、俺と美代さんを、ふたりきりにさせたいみたいだ?
こう思ったとき、がらり想いが崩れた。
“ 周太はもう、英二が邪魔になったのだろうか? ”
こんな予想は哀しい、けれど、邪魔にされても、仕方ない。
自分は周太を、愛するひとを強姦した。その罪を、自分が一番わかっている。
卒業式の夜、無理に抱いたせいで周太の体を傷つけて。
翌朝に見たシーツに散った、赤い花の血痕に自分の罪を思い知らされ泣いた。
もう二度と周太の体に辛い事はしない、そう誓ったはずだった。
それなのに自分はあの夜以上の過ちを犯して周太を傷つけた。
もし同じ事を誰か他の人間が周太にしたら。
絶対に自分は許せない。どんな手段を使っても、地の涯までだって相手を追い詰める。
追い詰めて、冷酷な仕打ちをして苦しませ泣かせて、深い傷に償いをさせるだろう。
それくらい自分は平気でするだろう、それほどに英二の周太は不可侵だから。
それくらい許せない、それなのに、自分が周太にしてしまった。
― こんな俺は…捨てられて当然、だな
ため息に埋もれながら俯き加減にコーヒーを見つめた。
見つめたマグカップに残る香の色に、ふっと愛しい笑顔が映りこむ。
その笑顔が想いの風景の中いつもの御岳駐在所の給湯室に佇んだ。
―…今から茶を淹れます、きちんと見ていて下さい
マグカップを湯で温める細やかな気遣い。
急須も温め、それから茶葉を入れ、ゆっくり湯を注ぐ。
コーヒーフィルターを器用にセットする、すこし小さい掌。
フィルターに湯を注ぐ丁寧な手つき、湯を見つめる穏やかな表情。
その全てに見惚れながら周太の隣に立って、心から幸せな想いで自分は笑っていた。
―…俺にはさ、一生ずっと周太が淹れてくれること。それなら覚える
…わかった、約束する…一生、淹れるよ?
今秋11月、御岳駐在所の給湯室で交わした約束。
英二のコーヒーと茶は一生ずっと周太が淹れてくれること。
これはプロポーズを仮託した約束だった、この幸せな約束の記憶が今は痛い。
この幸せな約束を、自分は自分の欲望と浅はかさで壊してしまった。
ただ独占欲のまま快楽に溺れこんだ、こんな自分が呪わしい。
どんな理由があっても、愛するひとを強姦するなど許されない。
愛しているほど深い信頼がある、深い信頼だからこそ裏切った罪は深く傷つける。
こんなの思いあがりかもしれない、けれど、周太は自分を愛してくれている。
だから、きっと、周太は深く傷ついた。
まだ10歳の心のままでも、深い愛情を強く抱いて時に母のようにも周太は愛してくれた。
この左手首のクライマーウォッチに籠る守りたい願い、いつも温かい手料理、気恥ずかしげな笑顔。
そして見つめてくれる純粋無垢な恋と愛の全てを自分は知っている、泣いても逃げず愛してくれる優しい強さも知っている。
その優しさ故に孤独を選んでいた周太、けれど英二の想いを心から信じて、孤独を脱いで愛してくれた。
だからこそ、その信頼を踏みつけた罪深さが、時の経過と気づかされていく。
この罪は自分が一番知っている、もう恋人と呼ばれなくて当然だ。
今はただ保護者として守りぬいて、すこしでも罪を償いたい。そう覚悟している。
けれど、幸せな記憶と約束がふるよう想い出されて、今更ながら喪失感の虚無が嗤って痛い。
こんな時にも虚無が英二の心掴まえて、ぼんやりマグカップを見つめていると美代が笑ってくれた。
「ね、お迎えに行ってきて?きっとね、本当は湯原くん、来てほしいって想っているから」
きれいな明るい目が笑って、英二を虚無から戻してくれた。
ひき戻された意識に映る笑顔に微笑んで、穏かに英二は尋ねた。
「どうして美代さん、そう思うの?」
尋ねられて明るい目が笑ってくれる。
明るく笑いながら可愛らしい声が明朗な論理で話し始めた。
「だって、さっき教えてくれたでしょう?恋したら少しも離れていたくないって。
だからね、湯原くんも宮田くんも、早く逢いたいだろうな、って思うのよ?ね、そうでしょう?だから、お迎えに行って、」
実直な優しさが「ほら、早く?」と明るく笑ってくれる。
こんなふうに女の子に気遣いされるのは初めてだった、すこし驚きながら英二は微笑んだ。
「ね、美代さん?美代さんは俺に、憧れてくれているんだろ?
普通はね、俺と一緒にいたいってなると思う。それなのに美代さんは、周太のところへ行けって言ってくれるの?」
「うん。だってね、私、宮田くんの幸せそうな笑顔が好きよ?」
言って美代は、あわく頬染めて笑ってくれる。
気恥ずかしげに笑いながら、可愛らしい声が実直な想いを告げてくれた。
「好きな人の笑顔を見ていたい、だからね、心から笑ってほしいのよ?
宮田くんは湯原くんと居るとね、ほんとうに幸せそうなの。その笑顔がね、…好きです、はい、憧れます」
困ったように恥ずかしげに、きれいな明るい目が笑ってくれる。
明るい目ですこし首傾げて微笑んで、美代は真直ぐに想いを言葉に紡いだ。
「それに、正直に言っちゃうと、ね?友達だけでど私、湯原くんがいちばん好きなの。
まだ湯原くんと会ったのは11月と1月の2度だけよ?でもね、お手紙や電話や、メールでね、たくさん心は繋いできたの。
この3ヶ月間で、ね?湯原くんと繋げた言葉や気持ちはね、本当に嬉しくて、楽しくて、やさしい時間と記憶でいっぱいなの」
英二が周太を想ったのも、出逢ってすぐのことだった。
警察学校に入寮してすぐの脱走事件のとき、いま思えば、あの時に大好きになった。
あの時に傷ついた心は周太の懐が癒してくれた、その居心地が安らかで英二は離れられなくなった。
穏かな静謐が深く優しい周太の懐は純粋で温かで、いつ訪れても安らかで言葉が要らない。
真直ぐな黒目がちの瞳は凛として、繊細で勁い眼差しに心ごと惹かれ見惚れていった。
あの時の自分と同じように美代は周太の居心地に気がついている。
美代は普段距離は離れていても、心を真直ぐに繋いで周太を好きになった。
この美代の気持ちは自分はわかる、英二は微笑んだ。
「うん、美代さんの気持ち解るよ?周太ってね、時間の長さは問題じゃないんだ」
「あ、宮田くんもそう思うのね?きっと湯原くん、やさしく受けとめてくれるからかな、って思う」
素直に頷いて美代は微笑んだ。
ほんとうに美代は周太を好きなのだろう、そんな様子が何だかうれしくて英二は微笑んだ。
そんな英二を見て美代は率直に言ってくれた。
「宮田くんのこと、憧れてます、好きです。でもね、今は私、湯原くんが一番大切なの。
だからバレンタインもプレゼントしたいな、って思っちゃったのよ?だから宮田くん、今すぐ迎えに行って、湯原くん喜ばせて?」
ほら早く行って?きれいな明るい目でも告げながら美代は勧めてくれる。
実直なままに温かい美代の気遣いがうれしい、けれど英二は正直に言った。
「ありがとう、美代さん。でも俺ね、もう…周太に嫌われたかもしれなくて。だから、俺の迎えなんて…迷惑かもしれなくて」
自分で言っていて哀しくなっていく。
周太に嫌われる?そんなことになったら自分はどうしたらいい?
確かに今の自分には「山」がある、けれど、それだって周太がいるから幸せになれる。
このまま周太が居なくなったら「山」を下りた時、自分はどこに帰ればいいのだろう?
「なに言ってるのよ?ね、ちゃんと、見てるの?」
さらり美代は断固と言った。
きれいな明るい目が真直ぐ英二を見つめて、可愛らしい声が言ってくれた。
「そんな『かもしれなくて』はね、きちんと向き合って答えを出さなくちゃ。大丈夫、湯原くん待ってるよ?…さて、」
話し終えて美代は選んだ本のうち3冊まとめ持つと席を立った。
どうするのかすぐ気がついて英二は、立ち上がるとブラックミリタリージャケットをはおった。
「美代さん、その本ちょっと貸してくれる?先にね、ここの会計も済ませるから」
「え、あの、」
笑いかけながら英二は美代の掌から本を手にとった。
そしてレジへ行くと伝票と一緒に美代の3冊を店員に差し出した。
「本はプレゼント用にして頂けますか?」
「はい、リボンをおかけする感じですが、よろしいですか?」
「お願いします、」
美代が驚いたように隣から見上げてくれる。
その様子がどこか周太と似通っていて微笑ましい、そろそろ周太は出るころだろうか?
そう考えているうちに会計と包装が終わって、英二は美代にきれいなペーパーバッグを差し出した。
「はい、美代さん。周太迎えに行くのに、中座するお詫び、」
「え、でも…悪いよ?」
途惑ったように美代は英二と本の包みを見比べている。
遠慮しなくていいのに?そう目で笑いかけて英二は言った。
「だってね、美代さん?今日は俺と美代さんのデートなんだよ、なのに俺はね?
美代さんをエスコートしない時間を作っちゃうんだ、こんなの男として恥ずかしいんだよ。だから、せめてものお詫びをさせて?」
自分の男としてのプライドの為に受けとってほしい。
そう言って英二は美代に3冊の本が入ったペーパーバッグを渡した。
素直に受けとると、美代は気恥ずかしそうに笑ってくれた。
「ありがとう、宮田くん。…あのね、気を遣わせて、ごめんね?」
「こっちこそ、ごめんね。そして、ありがとう、美代さん。俺の背中、押してくれて。おかげでね、周太を迎えに行けるよ?」
華奢な女の子が、大柄な自分の心と背中を小さな掌で押してくれた。
押してくれた小さな掌は、実直に温かで優しい。なんだか幸せで英二はきれいに微笑んだ。
そんな英二に美代も、きれいな明るい目で楽しそうに笑ってくれた。
「よかった、そう言って貰えて。…ね、やっぱり宮田くん、かっこいいね?憧れます、」
「そう?ありがとう。美代さんこそ素敵だよ? じゃ、行ってくるね」
きれいに笑って英二はブックカフェを後にした。
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新宿署独身寮までたどり着いて、英二は途惑った。
ブックカフェからここまで経路は1つしかない、それなのに周太に会えなかった。
いま見上げる独身寮にある周太の部屋の窓は、きちんとカーテンが閉められ照明は無い。
もう周太は外出しているはずだった。
どこかで行き違ったのだろうか?
それとも、英二に逢いたくなくて、どこかへ行ってしまった?
そんな哀しい予想をして英二は濃い睫をかるく伏せこんだ。
―… そんな『かもしれなくて』はね、きちんと向き合って答えを出さなくちゃ。大丈夫、湯原くん待ってるよ?
背中を押してくれた、小さな掌と明朗な言葉。
あの言葉の温もりは裏切りたくないな、微笑んで英二は携帯電話を開いた。
コールが1つ、2つ、3つと呼んでいく、コールの1つずつに鼓動も支配されていく。
このコールに応えて出てくれるのか?コール音に緊張が鳴る、そうして5つ数えた時ふっと通話が繋がった。
「ごめんなさい、英二、」
大好きな声が謝って、名前を呼んでくれた。
名前を呼ぶトーンはいつも通り変わっていない。
自分は嫌われてはいないのだろうか?祈るような想いに英二は名前を呼んだ。
「周太…、」
呼んだ名前の声がすこし掠れた。
けれど電話越しには伝わらない程度の掠れだった。
いま周太はどこにいるのだろう?電話越しの音に傾けた耳に喧騒が届く。
喧騒まじりに聞き慣れたアナウンスが伺えて、英二は駅へ踵を返した。
「いま…駅のホームにいる?…青梅線?」
「ん、今ね、美代さんを見送って…ごめんね、英二、迎えに来てくれていたんでしょ?」
足早な衣擦れの音が聞こえてくる、いま周太はあの場所へ向かっている?
懐かしい「いつもの」を予想しながら英二は、美代の行動に驚いた。
「そうだけど…美代さん、帰ったのか?」
「ん、そう…俺もね、帰るからって電話で言われて。それで、走って駅に見送りに来て…」
美代は1月に、河辺のカラオケ屋から周太を連れてエスケープした。
けれどここは新宿で美代には不慣れな場所だろう、しかも都会で気後れすると言っていた。
それでも今また自由にエスケープをした、そういう美代の行動力は今の英二には納得が出来てしまう。
さっきも美代は英二の背中を押してくれた、英二が席を立ちやすいよう美代は本の会計に行こうとしてくれた。
大らかで明朗な美代の実直さと行動力は好きだなと素直に想える、周太もそういう美代が好きなのだろう。
そんなふうに考えている英二に、遠慮がちな声が謝ってくれた。
「あの、勝手に動いて、ごめんね?」
「いや、無事ならいいんだ、ふたりとも」
遠慮がちな周太の声が愛しい、こんなふうに謝ってくれることが嬉しい。
けれど周太の遠慮がちなほど優しい心が、ときおり痛々しくも思えてしまう。
もっと、わがまま言って自己主張してくれたらいいのに?
そんな願いを想いながら駅への道を歩いて、英二は電話むこうに微笑んだ。
「周太、見送ってくれて、ありがとう」
「ん、…こっちこそね、美代さんの話、聴いてくれて、ありがとう」
たん、たん、たん、
電話越し階段を早足で上がっていく靴音が聴こえてくる。
きっと青梅線ホームから階段を登ってくる靴音、きっと周太はあの場所に来てくれる。
もし周太がまだ自分のことを想っているなら、あの場所で待ち合わせようとしてくれる。
きっと来てくれる。そう思いながらも英二は、ブックカフェで気懸りになったことを訊いた。
「周太、美代さんの話がなにか、知ってた?」
美代が英二に好意を持っていること。
もし知っていて会わせたのなら、それは別れの手段として使った方法かもしれない。
もし周太にとって英二と別れる手段の方法だったら?
そんな怖い予想に瞑目して英二は周太の回答を聴いた。
「ん、昨日ね、電話で話してくれて…それで、英二に聴いてほしくって…」
美代が英二に好意を持っている。
それを周太は知っていて、美代とデートするよう勧めていた。
― 周太…俺のこと、美代さんにあげたいの?
ごとり、心が1つ崩れてしまう。
やっぱり周太にとって自分は邪魔なのだろうか?
ほんとうは周太は英二を嫌いで、けれど優しいから言わないのだろうか?
そんな哀しい予想をしながらも英二の足は、改札口前に着いていた。
「美代さんね、喜んでたよ?ありがとう、英二」
「うん、…」
電話の向こうに聴こえる雑踏が、いま英二が佇む雑踏とシンクロしていく。
ここは警察学校の時から待合せた、ふたりの記憶が佇んでいる。どうか今も、ここに周太に来てほしい。
言わないでも解り合える信頼と想いを手繰り寄せるよう、英二は改札口を見つめていた。
見つめる想いの真ん中に、あわいブルーグレーのダッフルコート姿が映りこんだ。
「周太、」
もし嫌われていたら。
そんなこと考える前にもう、心も口も名前を呼んでいた。
真直ぐ見あげてくれた黒目がちの瞳が、自分の姿を見止めてくれる。
見つけてくれた?うれしくて笑いかけた黒目がちの瞳に、瑞々しい光がふと見えた。
あの光は、涙?
もしそうだというのなら、どんな意味の涙だろう?
「…英二…!」
名前、呼んでくれた。
抱きついて、背中に鞄ごと掌まわしてしがみついてくれる。
やわらかな髪から穏かに爽やかな香が頬を撫でていく。
ダッフルコートの肩がすぐ近くにいてくれる。
「周太、…」
そっと名前を囁いて、ゆるやかに長い腕で小柄な体を抱きしめる。
逢いたかった肩も背中も抱きしめて、ふれる温もりが幸せで、しがみついてくれる想いが温かい。
おだやかな鼓動が懐から響いてくれる。抱きしめている現実が幸せで切なくて、どうしていいか解らない。
本当は、このままずっと離したくない。けれど今の自分には、言うことも願うことも赦されない。
それでも抱きしめられた今が幸せで、この今の幸せだけを見つめていたくて英二は微笑んだ。
そんなふうに微笑む英二を黒目がちの瞳が真直ぐ見上げて、周太が唇を開いた。
「ね、英二…浚って?…このまま、連れて帰って?」
いま、なんて言ってくれた?
自分の願望の声だろうか?
それとも、本当に周太が願ってくれた言葉?
しずかに体を少し離すと英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
本当に言ってくれたのなら良いのに、そんな願いと見つめるなかで、やさしく周太が微笑んだ。
「お願い、英二?このままね、奥多摩へ連れて行って?」
お願い、って言ってくれた。
このまま奥多摩へと、連れて行ってと願ってくれた。
こんな幸せな願いを言ってくれる?こんな幸せな願いなら、これが現実でも夢でも良い。
黒目がちの瞳を見つめて、ゆっくり頷くと英二は笑った。
「うん、周太…お願い、叶えるよ?一緒に帰ろう」
一緒に帰ろう。
たった一言だけれど、宝物の呪文。
この宝物の呪文をまた言えた、幸せで英二は微笑んだ。
微笑んで見つめた黒目がちの瞳に、ふっと涙こぼれて周太は泣いた。
「英二、…連れて帰ってくれるの?まだ、…俺の居場所は、英二の隣にある?」
黒目がちの瞳から涙がこぼれていく。
こぼれる涙にあふれた周太の「問い」が心にそっと響いていく。
―… 俺の居場所は、英二の隣にある?
こんなこと聴いてくれるなんて?
けれどこの意味はまだ解らない。保護者、父、兄、友人、沢山の意味で「隣」はある。
けれど、どの意味でも構わない、隣で、近くで、ずっと見つめていられるなら。
また近くで見つめられる幸せに英二はきれいに笑った。
「当たり前だよ、周太?言っただろ、俺はね、周太のものだよ?」
ずっと自分は周太のもの。
これは自分にとって「絶対の約束」になっている。
この約束は周太に対して結んだ、そして敬愛する人と大切な人と結んだ祈りの約束。
だからこの約束は生涯ずっと手離すわけにいかない。
はっきり答えた英二に周太が微笑んでくれた。
「ん、…ありがとう、英二。連れて帰って?」
「うん、連れて帰るよ?でも周太、その前に新宿署に戻るよ。外泊申請を出さないと、」
きれいに笑って英二は、周太の右掌をとると左掌でくるんだ。
ミリタリージャケットのポケットに周太の掌ごと入れて温める。
そっと長い指で黒目がちの瞳あふれる涙を拭うと、周太が涙と一緒に微笑んだ。
「ん、温かいね?…幸せだよ、英二?…で、ね?靴を見て?」
「靴?」
言われて素直に英二は周太の足元を見た。
その足元は冬用登山靴を履いている、これで周太は駅まで走ったのだろうか?
驚いた英二に周太はうれしそうに微笑んでいる、掌を繋いだまま英二は訊いた。
「周太、登山靴で駅まで走ったんだ?」
「ん。結構ね、走れたよ?」
微笑んで黒目がちの瞳が見つめてくれる。
この冬用登山靴の意味に自分は期待してもいいのだろうか?
解からなくて佇んでいる想いのなかに、気恥ずかしげな笑顔で周太が唇を開いた。
「英二とね、どうしても一緒にいたくて…それで、当番勤務あがって、すぐ外泊申請を提出したんだ」
自分と、どうしても一緒にいたくて?
こんな幸せなこと、本当に言ってくれている?
すこし呆然としそうな想いを飲みこんで英二は微笑んだ。
「当日でも、許可が下りたんだ?」
「ん、自主トレーニングに参加します、って書いたから…すぐに許可してもらえて。
あの、英二、ごめんなさい、勝手に書いて…でも俺、どうしても一緒に連れて帰ってほしくて…」
謝らなくっていい、勝手に書いても構わない。
どうしても一緒に連れて帰ってほしい、そんなお願いが幸せで仕方ない。
この「一緒にいたい」の意味がまだ解らない。けれど一緒にいられるなら、それだけでもいい。
「周太?うれしいよ、そういうの」
本当にうれしい、こんなお願いも行動も。
それも周太が自分から望んで考えて、英二についてこようと行動してくれた。
見つめたくて覗きこんだ黒目がちの瞳も、いま嬉しそうに笑ってくれている。
今ならこの質問も出来る?きれいに笑って英二は懐かしい質問を訊いた。
「ね、周太?夕飯、なに食いたい?」
この質問は久しぶり、外泊日のときは「昼飯」だった。
幸せな合言葉のように思っていた、この言葉で約束する外泊日は周太を独り占めできる日だった。
独り占めして食事して、あの公園のベンチに座って、読書する周太の横顔を見つめていた。
ただ隣に座って見つめる時間が幸せだった、今もその気持ちは変わらない。
今も自分は変わらない、けれど今の周太はなんて答えてくれる?
祈るような想いに見つめる先で、黒目がちの瞳が幸せそうに微笑んだ。
「ん、ラーメン」
落着いた大好きな声が答えてくれた。
この答えには自分の答えは決まっている、「いつものように」英二は笑って答えた。
「またかよ?」
懐かしい「いつものように」がまた戻ってきた。
ありふれたこと、けれど自分には幸せが温かい、あの頃ともう違う「今」であっても。
あの頃は自分が周太を独り占め出来ればいいと思っていた。
けれど今は、周太の自由な幸せを祈る自分がいる。
そして周太の自由を祈る自分も、大らかに愛する自由な想いを手に入れた。
こんな今の自分は、無駄な力が抜けて軽やかさが居心地いい。
きっと前の自分よりすこしだけ大きくなれている?
そんな自分の変化が愉しくて英二は微笑んだ。
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青梅警察署独身寮に戻ると英二は急いで外泊申請書を書いた。
時刻は20時半をまわっている、こんな時間に急に申請を出すなんて非常識だとも思う。
けれど、奥多摩に帰ってくる青梅線の中で見た周太の涙に、心は決まってしまった。
―…あいしてるなら…キス、…して、よ?…そして、今夜、ずっと傍にいて…
お願い、英二?申請は…無理にでも通してきて?今夜は一緒にいて、
あんなふうにお願いされたら、言うこと聴かないわけにいかない。
そして重ねた1ヶ月ぶりのキスは、心から幸せだった。
やさしい穏やかなキスは、今までで一番幸せだった。
キスを求めてくれるなんて、期待してもいいのだろうか?
―…帰ってきて?ごはん、作るから…おふとん干すから、おふろ沸かすから…帰ってきてね、俺の隣に
俺はね、なにも出来ないけど、でもね…出来る精一杯で、居心地のいい場所を作りたい
英二が帰ってくる場所をつくりたい。俺は、ね…他のひととの初恋を大切にしてる。そんな俺に出来るのか、わからない、けど
キスを求めて、帰ってくる場所を作りたいと言ってくれた。
周太はまた自分を恋人として求めてくれているのだろうか?
それとも、父や兄といった家族としてだろうか?
家族とキスすることは日本では稀だろう、けれど周太は幼い日々に両親から額へのキスで愛され育まれている。
そういう周太なら唇のキスを知って、家族でもすれば良いのにと思ってしまうかもしれない。
いまだ10歳の子供のまま純粋で単純な所がある周太なら、こんな発想もするかもしれない。
けれど、
―…今夜は、英二、ずっと一緒にいてね?…どうか、一緒にいて、あいしてる、から
この言葉が告げてくれるのは、愛しているから夜を一緒に過ごしてと言う願い。
だから、きっと。奥多摩鉄道の夜に交わしたキスは「恋人」のキスだった。
― ね、周太?この今夜、再び恋人の時間を蘇らせようとしてくれている?
けれど、と心にブレーキがかかる。
自分は周太に決して犯してはならない罪を行ってしまった。
そんな自分を許してもいいのだろうか?だから本当は外泊も断ろうかと思った。
けれど、今さっきビジネスホテルに送った別れ際も、周太はお願いしてくれた。
「ね、英二、必ず来てね?来るまでずっと待ってるから…」
「うん、頑張って申請出してみるけど、」
「もし、来なかったらね、床で寝ちゃうからね、俺…具合悪くなったら、英二、責任とってね?」
あんなふうに願って、わがまま言ってくれたのは初めてだった。
わがままを言っているとき周太の首筋は紅潮して、気恥ずかしさと艶が薫って眩かった。
ちょっと反則だ、そんな文句が口から零れ出そうに惹きつけられて、見惚れてしまった。
そんなふうに見惚れた自分の首筋が熱かった、そんな初めての感覚に途惑ってしまう。
この初めてに自分はもう、わがままな周太の姿と言動に心を掴まれて動けない。
けれど、哀しい途惑いも本音に居坐っている。
まだ自分が許せないままで、周太の願いを聴いていいのか解らない。
それでも今夜は一緒にいないわけにもいかないだろう、一緒にいるために周太はここまで来てくれたのだから。
そんな周太の願いを自分は拒むことなんか出来ない、英二は手際よく書きあげた申請書を急いで提出した。
「はい、外泊先は、すぐそこですね?携帯の電源は落とさないこと、緊急召集に応じられるようにね」
いつも通りの注意を言われて、すぐに申請は受理してもらえた。
あんまりスムーズで逆に申し訳なくなって、率直に英二は訊いてみた。
「こんな時間に急な私用が理由です、それでも受理戴いて大丈夫でしょうか?」
「ええ、構いませんよ?」
問題ないですよと担当官の目が笑ってくれる。
そして理由をきちんと答えてくれた。
「すぐそこですから呼び出しも可能ですし、宮田くんは奥多摩にいる限り必ず召集に応じてくれるからね。
なによりね、ほんと宮田くんは真面目でしょう?だからね、私用で急と言っても、きちんとした理由があるのだろうから」
信用してもらえているのが嬉しい。
ありがたいなと微笑んだ英二に、担当官は感心と呆れがミックスした顔で笑いかけてくれた。
「しかも宮田くん、今日は週休なのに昼まで2つも訓練して。
いつもそんなでしょう、君は。業務や訓練が無ければ、吉村先生の手伝いしているか、部屋で勉強しているか。
確かにね、救助隊は暇があれば訓練するのは当然だし、勉強も大事だ。けどね、息抜きも大事だよ?君はもう少し遊んだ方が良い」
そんなふうに担当官は笑って「今夜はのんびりするんだよ?」と言って外泊許可書を渡してくれた。
これで周太との約束は果たせる、ほっとして自室に戻ると英二はデスクの前に立った。
鍵付の抽斗を開けると、すこし厚い書類封筒が入っている。
英二は書類封筒を取出すとデスクの上に置いた。
この中にクライマー任官の書類がすべて入っている。
この書類が自分の生涯を決める、これを今夜中に書きあげて明朝には提出しなくてはいけない。
そして朝一番に蒔田地域部長へ届けられて、午後一までに人事部で受理される予定だと聴かされた。
この今は21時前。
この16時間後には、自分の運命は定められ、もう動かない。
今から16時間後になれば警視庁人事部にある自分の履歴が改訂される。
警察官として奉職する時間の全てを「山」に生きることが公式文書に記録され、実質の本配属決定になる。
そして自分は公人の立場で山岳救助の現場に立ち続け、山岳レスキューの最前線で生命の尊厳を担う義務と責任を負う。
そして、もうひとつ大きなものを背負う。
最高のクライマーと共に生涯を最高峰の踏破に懸けていく、この夢と責任と義務を背負う。
8,000m峰14座の踏破と世界ファイナリストの夢、この夢は最高のクライマーである国村に懸けられた。
この夢のサポートのために自分は最高の山岳レスキューとして、体を張っても国村の安全と自由を守りぬく義務を負う。
自分にとって国村は、山ヤの最高の夢と憧憬の結晶、そして大好きな最高の友人。
夢で憧憬で友人で、唯一人のアンザイレンパートナー。この存在を守るために自分は「山」に生きる。
そしてこれら全てが、これから更に危険へと立つ周太を守る道に繋がっていく。
この全てが16時間後には、公式文書に記録され自分の心に刻まれ定まってしまう。
いまデスクに置かれている書類封筒には、自分と国村と周太、3つの運命が入っている。
この全てを記す書類が、英二に記入されることを待っている。
「これを書く場所は、やっぱり、あの場所だよな?」
ひとり言に微笑んで英二は印鑑ケースを2つ胸ポケットに入れた。
そのまま書類封筒を持って廊下へ出ると、すぐの部屋の扉を英二は軽くノックした。
「はい、どうぞ?」
透明なテノールの声と一緒に扉が開いて、底抜けに明るい目が笑った。
すぐ体をずらして中に英二を入れてくれると国村が悪戯っ子の目で楽しげに言った。
「なに、宮田?とうとう俺に、夜這いかけてくれんの?」
「夜這いはしないよ?でもね、約束の書類を書きに来たよ。俺がお前の公式パートナーになる、ってね」
きれいに笑って英二は、自分のアンザイレンパートナーのデスクに書類を広げた。
(to be continued)
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