萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第37話 凍嶺act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-03-21 22:20:21 | 陽はまた昇るside story
凍れる山にみる夢、




第37話 凍嶺act.2―side story「陽はまた昇る」

聳えたつ雪壁の天辺に佇んだ。
すぐ横を静謐と風音がふきぬけていく。その果て遠く、正午の陽光に最高峰はまばゆい。
黒髪を舞わせる烈風は凍らすよう纏わりついて、零下の峻厳が北岳山頂を支配していた。
いま歩いてきた道を見下ろすと、細く長い稜線は白銀に蒼い翳がおちている。
真青な冬麗の空のした、尾根道も聳える山頂も白銀の潔癖に佇んでいた。

北岳。
標高3,193m。この国の第二峰であり南アルプスの盟主。
高潔な気品あふれる山容から「哲人」と称され、東面に大岩壁「バットレス」を持つ。
いま日中南時を迎えた「哲人」は、今日最上に光輝な太陽に白銀透けるほど明るんでいく。
この足元から眼下に広がっているバットレスの威儀、端正に細やかな尾根筋はストイックな強靭が美しい。
輝く潔癖と高雅な佇まいは別称にふさわしい、素直な讃嘆にネックゲイターの影で吐息がこぼれた。

「うん、…第二峰も、きれいだ、」

うれしくて英二は微笑んだ。
こんな美しい山がある国が自分の故郷、幸せだと心から笑顔になってしまう。
いま立っている雪嶺と、はるか遠望する最高峰の雪嶺に大らかな心が充たされていく。
強風と高度に体感温度は零下をくだっていく、それでも心は穏やかに温かい。
ほっ、と呼吸ひとつして、英二は隣を振り返った。

「お待たせ、国村。だいぶ待たせたかな?」
「まあね。でもまあ、俺も存分に堪能していたからね、大丈夫だ。ほら、写真撮るんだろ?」
「うん、」

チェーンで固定した携帯を出すと英二は、山頂の光景を一枚収めた。
その隣に片膝つくと国村はピッケルを雪面に刺してザック開いている。
写メールを周太に送信してから振向くと、登山グローブの手は一眼レフのシャッターを切っていた。

「うん、イイ表情が撮れたね。今、光線がイイ感じになりそうなんだ。ちょっと待っててくれな?」

愉しげに笑いながら国村は、今度は遠く冬富士へとレンズを向けた。
手馴れた登山グローブの掌がレンズ調整をしてはシャッターを押していく。
カメラのフォールドも構え方も国村は随分さまになっている。
ちょっと玄人はだしな雰囲気に英二はかるく頷いた。
国村の父親は兼業農家の山岳専門カメラマンだったと英二も聴いている。
また、国村の山ヤの基礎を鍛え上げた田中は、御岳の美しい写真で有名なアマチュアカメラマンだった。

そんな国村の実家の部屋は、国村の父や田中が撮影した写真と一緒に本人が撮った物が飾られている。
きれいな窓のように見えるほど、ストレートに山の実体を映しこんだ国村の写真はどれも美しかった。
いつも国村は「山」に関することは優れた能力をみせるけれど、「山」を撮ることにかけても同様らしい。

あとでデジタル画面でもいいから見せてもらいたいな?
初めて見る友人の姿を暫し眺めながら、英二は胸ポケットからオレンジの飴をだして口に入れた。
この5ヶ月ですっかり馴染んだ甘さが優しい、この飴にうかぶ面影にそっと英二は微笑んだ。
いまごろ周太は昼休憩かもしれない、送った写メールを見ているだろうか?

…周太、今日の昼は何、食べているんだろ

明後日の下山後には逢える。
こんな感じに、山から帰る先が真直ぐ周太の隣だと言うのは幸せだ。
いつもこんなふうに早く成れたらいい、けれど、そうなるまでには越えていくべき困難が多い。
昨日の朝もまたすこし読み進められた、周太の父の日記を英二は心で再読にかけた。

―…射撃部に入ったことを今日、ようやく父に話すことが出来た。
 春はいつも新学期の忙しさで父は帰宅も遅く、食事の時間も一緒にとれない。やっと今日は話せる時間が出来た。
 友人から人数合わせでもと頼まれ始めたけれど、自分には適性があるようで楽しい、そう話した。
 けれど父はなぜか反対をした。
 その反対の理由は「学問の時間がもったいない」という事だった。
 私には納得が出来ない。それなら山岳部の方がよほど時間を使うだろう、山はよくて射撃が駄目だと言う理由が解らない。
 父に説明を求めても、これ以上のことは何も言って貰えない。父とこんなふうに意見が割れる事は初めてだ。
 けれど自分はもう選手登録のエントリーが終わってしまった。いま放棄しては友人達にも、大学にも迷惑をかけてしまう。
 このことを父にも話した、けれど父は反対を翻すことは無かった。いつも大学の不名誉を嫌う父らしくない。
 そこまで父が止めたがる理由は解からない、けれど父がこんなに反対するのに言うことを聴かないのは申し訳ない。
 父には心からすまないと想う、けれど、このまま明日は出場するしかないだろう。

なぜ、周太の父は、湯原馨は反対されたのだろう?
なぜ彼の父は息子の競技射撃への道を反対しようと思ったのだろう?
しかも馨の父は当時、馨が通っていた大学の仏文学科首席教授であることも記されている。そして馨の父自身の母校でもある。
そんな3重に縁深い大学に、迷惑を掛けてでも息子の部活動を阻止したがった理由は何だろう?
日記のなかで馨が言うように「納得がいかない」と英二も感じて仕方がない。

きっとなにか事情がある。

その事情が何なのか?その謎が未だ解けない。
その事情が恐らくは、馨を不幸な道へと惹きこんだ原因の1つではないだろうか?
これから読み進めていくページと記憶の時間に「事情」は隠されているのだろう。

この事情は周太の祖父や曾祖父の経歴に関わること、だから馨の父は息子に理由が言えない。
この理由を早く探り出したいけれど、日記帳がラテン語記述である以上、読解だけでも時間が掛る。
本当は別の方法でも、周太の祖父や曾祖父たちの経歴が調べられると良いなと思う。
あの家にある手がかりは過去帳しかない、アルバムすらどこかに隠されて不明のままだ。
それでも馨の父親である、周太の祖父の経歴はすこし調べられてはいる。

東京帝国大学仏文科卒業、大学院卒業の直前に学徒出陣。
戦後まもなくパリ大学文学部、現在のパリ第3大学ソルボンヌ・ヌーヴェルへ留学し、帰国後に母校で教授になった。
その後に結婚し、周太の父・馨が7歳を迎える秋から5年間をオックスフォードの招聘研究員として過ごしている。
この渡英直前に妻を亡くした為、息子の馨も英国へと連れて行ったらしい。
この渡英から帰朝後に、彼は東大仏文学科の首席教授に就任していた。
享年62歳、出張先のパリ大学にて心不全で客死している。

ここまでは名前からWebでも調べることが出来た、けれど他はまだ不明のままでいる。
今から30年前に60代だから知人達も存命なら90歳前後になる、亡くなっている人の方が多いだろう。
あとは教え子だろうが、教え子では細かな事情は知らされていないと考える方が妥当だ。
今から30年前に亡くなった1人の大学教授、この細かい事跡は調べるのが難しい。
フランス文学に詳しい人間にでも聴ければ、もう少し解かるのかもしれない。

周太の曽祖父については、過去帳に書かれた名前と享年、誕生日しか解からない。
彼は1962年に享年76歳で亡くなった、今から半世紀前では知人も既に鬼籍に入ってしまっている。
しかも湯原の家は親戚が全くない、墓参りに行っても周太と母があげた卒塔婆以外は無かった。
そのうえ曾祖父の時代に山口から川崎に移住転籍したらしく、それ以前の事跡が解からない。

…遡って調べるなら、戸籍謄本を取れば辿れる。だけど、

曾祖父の戸籍謄本を取得して、そこから元の本籍の戸籍へと遡る。
そうやって親戚を割り出すことは出来るだろう。けれどそこまで遠縁になっては、川崎湯原家の事情など知る訳がない。
いくらWeb検索が発達していても、半世紀前の人間を名前だけで探すことは難しい。
何の仕事をしていたのか?せめてそれだけでも手がかりがあればと思う。

今のところ、あの紺青色の日記帳しか手懸りは無い。
けれど、大学2年生の終わりから全文がラテン語記述になった為、解読はペースダウンしている。
できれば初任科総合の前までに、周太の父・馨が警察学校に入った事情が解かるページまで読んでしまいたい。
そんな想いで今日も実はザックのなかに、3日分のノルマをコピーしてファイルしたものと携帯用の小さな辞書を持っている。
出来れば人の日記帳をコピーしたくなかった、けれど時間が寸刻でも惜しい。
せめて、周太が本配属になって危険に踏み込む前までに、危険の「原点」を把握したい。

本当に間に合うのだろうか?
そんな不安との戦いが最近は芽生えている。

もう今は2月下旬、初任科総合は2ヶ月後に迫っている。そして初任科総合の2ヶ月間が終われば本配属になってしまう。
既に英二はイレギュラーだけれど本配属が決まった、それでも初任科総合は受けに行く。
その期間はまた警察学校の寮生活になる、たぶん日記帳の解読はほとんど出来ない。
だからあと2ヶ月程でラテン語記述の日記帳を2年分、読み終えなくてはいけない事になる。
いま大学3年生の5月に入っている、あと約700日分の日記を70日程で読まないといけない。

― きっと、ラテン語の力がつくだろうな?

そう思った途端、なんだか愉しくなって英二は笑った。
ラテン語をマスター出来たら、周太の採集帳に貼るラベルを書く手伝いが出来るだろう。
周太の採集帳に貼られるラベルには、植物の学術名がラテン語記載されている。それを周太の父が元々は書いていたらしい。
いまは周太は自分で書いているけれど、もし英二が一緒に手伝えたら喜んでくれるかもしれない。
こういう嬉しいオマケがあるなら、自分はきっと頑張れるだろうな?
そんな想いで微笑だ英二の額を、登山グローブの指が小突いた。

「こら宮田?なに、こんなとこまで来て、エロ顔になってんのさ?」

からり底抜けに明るい目が笑っている。
もうカメラはザックに仕舞いこんだ様子から撮影は済んだのだろう。
綺麗に笑って英二は自分のアンザイレンパートナーを見た。

「ごめん、ちょっと周太のこと考えてた。写真、終わったんだ?」

「うん、待たせたね?ま、おまえもね、ボンヤリを楽しんでいたみたいだけどさ。
お蔭でね、三角点タッチも先にやっちゃったよ。ほら、おまえも早くやりなね。で、バットレスのザイル下降するよ?」

話しながら国村はアーモンドチョコレートを口に放り込んだ。
ごりごり噛み始めながら「早く山で遊ぼうよ?」と目で誘いを掛けてくる。
この最高の山ヤと言われる「山っ子」にとっては日本第2峰も単に「愉しい山」に過ぎない。
本当に単に愉しいのだろうなという表情で、国村はアーモンドの香と一緒に雪嶺を楽しんでいた。

「ここもさ、ホントの最高点と三角点の位置が違うんだよね、」
「三角点は3、192.4mだったかな?」
「そ、あとから解ったんだよね、あっちの岩場が最高点だってさ」

三角点に手形を付けてから南へと雪のなかを歩き始めた。
歩いて20mほどに岩場がある、そこに立つと底抜けに明るい目が満足げに笑んだ。

「ここが最高点3,193mだ。あの最高峰にいま、誰も立っていなけりゃね、今この国では、俺がいちばん高い所に立ってるよ」

愉しげに国村は最高峰富士を指さしながら、第2峰の最高点に立って笑っている。
ほんとうに「点」に立つことが好きなのだろう、こういう無邪気な友人は愉しい。
笑いながら山頂に並び立ってバットレスを見おろした。

バットレスは建築用語で「控壁」「胸壁」を指し、小島烏水が名付けた。
北岳バットレスは南アルプスを代表する岩場で、北岳東面にひろがり山頂からの標高差は約600メートル。
大まかには大樺沢右俣と左俣の間の岩壁を指しており、6つの顕著な岩稜に呼称が各々付いている。

「この山頂から見下ろすと、左から東北尾根、第1尾根、第2尾根。
それから第3尾根、第4尾根、第5尾根って右へと続いていくんだ。で、尾根と尾根の間に食い込む岩溝。
いわゆるガリーにも名前が付いている。バットレス下部の横へ延びている垂直に近い岩壁があるだろ?あれが下部岩壁帯だよ」

眼下を登山グローブの指で示しながら国村が教えてくれる。
見遥かす尾根と岩溝の起伏は、白銀に蒼く翳になって刻まれていく。
きれいだなと微笑んだ英二に、愉しげに国村が提案してくれた。

「さて、天候は安定している。雪のコンディションも悪くない。で、バットレスいきたいんだけどさ?
こっちからだとね、普通は八本歯のコルから懸垂下降してバットレスに入るんだよ。でもさ、今、正午だろ?
下まで行って登ってくると時間が掛るかもしれない。だからさ、第四尾根に直接山頂から下降して往復でもイイかな?」

岩壁やルンゼの下降と登攀は普段の訓練でもやっている。あれと同じ要領だろう。
本当は八本歯コルから降りて登ってみたい、けれど日程もあるし遅くとも17時までには幕営したほうが良い。
なにより訓練であっても憧れのバットレスに取りつけたら愉しいだろう、微笑んで英二は頷いた。

「うん、いいよ。訓練でさ、救助者背負って登下降する、あの要領かな?」
「そ、あんなカンジ。俺を背負うよりもザックのが楽だろ?で、いま標高3,000超えてるけど、体調は?」
「いつも通りだよ?冬富士よりずっと楽だな」

強い風に注意して話しながらアイゼンを進めていく。
山頂直下の緩斜面を下って第四尾根の最終ピッチに着くと、そこからザイルを降ろした。

「じゃ、宮田。あそこのね、マッチ箱のコルまで行くよ?で、往復する感じ」
「了解、着いてくよ」

本格的な雪の岩壁は英二にとって初めてになる。
アイゼンのベルトを確認しながら見下ろす雪面は、まさに雪壁だった。
いまからここを降りて、また登ってくる。やることは奥多摩での山岳救助隊で積んできた訓練と変わらない。
けれど標高3,000mを頂点にする往復は初めてのこと、新しい経験に英二は微笑んだ。


マッチ箱のコルまでの第四尾根往復から戻った山頂で、クライマーウォッチは16時前を示した。
途中ラッセルもあったけれど、雪のコンディションも良好で恵まれている。
おかげで通常タイムの5/3程度で登下降できた、それでも目標タイムより少し遅い。
標高3,000mの気圧と酸素濃度はさして問題にはなっていない、自分の技術力の所為だろうか?
まだ5ヶ月といっても、山岳救助隊として毎日を現場に立つからには妥協は許されない。
ましてクライマーとして任官したなら尚更だ、すこし唇を噛んでから英二は口を開いた。

「もっと登攀と下降の訓練、増やそうかな?」
「どっちかっていうとさ、問題は雪だな。ラッセルに馴れることかな?ま、4月いっぱい迄、なるべく高い雪山に行こうよ」
「うん、ありがとう。俺、もっと雪壁に馴れたいな。滝谷とか、もっとすごいんだろ?」
「まあね、でも宮田ならいけるよ。それにさ?お初でこんだけ出来りゃ、大したモンだね。ま、焦るなよ?」

反省と今後の訓練を話しながら尾根を歩く、その向こうは黄昏の気配が美しい。
雪嶺にふり始めた今夕の華やいだ落日の気配に、きっと夕焼けが美しいだろうな?
そんなふうに眺めながら北岳山荘に16時半に着いた。

「うん、誰もいないみたいだね?」

がらんと無人の小屋に入って底抜けに明るい目が満足に笑んだ。
国村は人当たりも悪くないし明るい性格だから、よく人の輪の中心になりやすい。
けれど純粋無垢で繊細な世界も持っている、そんな所が国村の気難しさにもなってパートナーがずっと居なかった。
きっと今夜も気兼ねない英二だけを相手にして、のんびり山の夜を楽しみたいのだろう。
このまま誰もこないとご機嫌でいてくれていいな?ちょっと笑って英二はザックを小屋へとおろした。

「国村、ここにテント張るんだろ?」
「そ、じゃないと寒いからね。この時期はね、零下20度以下になるから。今日は天気も良い、放射冷却がすごいだろね」

さっさとテントを張る手を動かしながら国村は教えてくれる。
同じように幕営にと手を動かしながら英二は微笑んだ。

「今夜は星がきれいだろな。明日朝も、暗いうちに出るんだろ?」
「うん、農鳥小屋で日の出が良いなって。あそこから見える農鳥岳はね、アルプスってカンジで良いんだよ」
「写真、撮るんだ?あ、さっきのも見せてくれる?」
「うん、撮るし、見せるよ?で、今から、夕焼けを撮りに行くよ」

テントを張り終えてセッティングを済ませると国村はザックからカメラを出した。
どう見てもアマチュアじゃない雰囲気のカメラは、本体に比べてレンズは年季が感じられる。
なにげなく英二は国村に訊いてみた。

「本体より、レンズの方が古いもの?」

訊かれて底抜けに明るい目が温かに笑んでくれる。
白い繊細な指がそっとレンズを撫でながら、透明なテノールの声が言った。

「うん、レンズはね、オヤジが使っていた物なんだ」

細い目はすこし懐かしそうにレンズを眺めた。
穏かな明るい声のまま、国村は続けてくれる。

「本体はね、オヤジが巻き込まれた雪崩で、壊れちゃったんだよ。
それでも、フィルムとレンズは無事でさ。で、このレンズとマウントが同じ機種の本体を買って、ずっと俺が使っているってワケ」

このレンズは国村の父親が、その生涯の終わりに出遭った最も美しい光景を見つめたのだろう。
国村は高峰に登って撮影可能な条件の時は撮影してきている、この間の冬富士は初登頂の英二が同行とあって控えてくれたのだろう。
このレンズで10年間を国村は写真を撮ってきた、そのたびに国村はなにを想ってきただろう?
ふるい磨き抜かれたレンズを見つめて、ふっと英二は綺麗に微笑んだ。

「じゃあ、今日もオヤジさん、国村と一緒に写真撮るんだな?」

周太の父はいつも周太を見守っている、英二はそう感じている。
だから国村の父もきっと同じだろう。きっとそうだと隣を見ると、底抜けに明るい目が嬉しそうに笑った。

「だね?うん、おまえってさ、マジでよく解ってるし、良いこと言うよね。さて、行くよ?」

登山グローブを嵌めなおし、ピッケルとカメラを持つと国村は立ち上がった。
一緒に小屋の外へ出ると、左手に北岳を戴いて遥か雪嶺が夕陽に染めあげられていく。
南アルプスにふりそそぐ朱と黄金の黄昏に、英二は呼吸を忘れて佇んだ。

「ほら、おまえもね、写メ撮ってやんな?周太のこと、よろこばせろよ」
「あ、…うん、ありがとう、」

からり笑って促されて、英二は我に返って微笑んだ。
携帯を出して黄昏に向けて、シャッターを押す。
両手で携帯の画面をくるんだとき、ふと左手首のクライマーウォッチが目に映りこんだ。
いまごろ周太は、まだ新宿の東口交番で勤務しているだろう。
英二が贈ったクライマーウォッチを時折は見て、安否を気にしてくれている。

自分が立った道は周太に心配を掛けてしまう。
それでも、この道でしか自分は生きられないと時間積んでいくごと思い知らされている。
いまここに立つ喜びが鮮やか過ぎて、きっと他の道は選べない。
だから卒配期間が終わるのを待たずクライマー任官の話が来た時も、迷わずに自分は承けた。
そして、この道で夢を叶え成功していくことは、きっと周太を助ける道になる。
それでも愛するひとを不安にさせる懺悔に、英二はそっと微笑んだ。

「…ごめんね、周太。こんな生き方しか出来なくて…」

黄昏の空気にとけるよう呟いて英二は北岳を見あげた。
ずっと憧れていた山のひとつ、「哲人」北岳は残照のなか黄金に輝いている。
この山頂に自分は立ってきた、そして今ここから間近く眺めている。
ずっと写真のなか見つめた場所に、今日もまた立つことが出来た。あの冬富士の山頂に佇んだのと同じように。
こんなふうに夢がひとつずつ叶えられていく。

こんなこと、不可能だと思っていた。
警察学校で山岳レスキューの道を知った時、周太を助けるために、この道を選んだ。
けれど調べるにつれて「山」に生きる姿に憧れ惹かれていった。
そして名峰と呼ばれる山々の写真を見るたびに「行ってみたい」と思っていた。
それでも自分がそんな厳しい場所に行けるとは思っていなかった。

でも今は、最高峰と呼ばれる世界の入口に、自分はもう立っている。
こうして北岳の高潔な姿を眺めて、最高のクライマーの隣にアンザイレンパートナーとして佇んでいる。
こんなこと幸運過ぎて考えたことも無かった。
それでも現実に自分はここに居る。

だから、と想ってしまう、願ってしまう。
だからきっと自分は、周太の命も心も将来も、夢すらも、すべてを守ることが出来るだろう。
いま日記帳を読むごとに、周太の背負っている「家」にまつわる謎は絶えることなく湧いてくる。
その謎に不安を感じる時がある、自分に本当に抱えきれるのだろうかと揺れそうになる。
それでも、不可能だと思っていた夢に立てたのなら、きっと周太のことも救けられる。

尊敬する北岳、哲人と呼ばれる偉大な山。
どうか俺の願いを聴いてほしい、聴いてくれますか?
この先ずっと俺は、あなたの兄弟姉妹たちに会いに行きます。そして天辺に立たせてもらいます。
その度に俺は、愛するひとから離れた場所に立つことになる。それでもこの道しか俺は大切なものを守れない。
どうか北岳、あのひとの無事と幸せを願わせてほしい。
あのひとの道は困難が多い、それでも必ず笑顔になれるように。
そのために自分は「山」で廻っていく生命と尊厳を守る努力を捧げます。
山を愛するひとを救助し、山に眠るひとの想いを大切な人へ伝える手助けをします。
そうして生きていくともう、自分は心に定めています、この生涯を「山」に生きる人を守るために遣います。

―…だから、唯ひとりで良い、あのひとの幸せを北岳、あなたに守ってもらえませんか?

黄昏の黄金から紺青の夜に北岳は姿を変えていく。
その美しい高潔な姿に英二は、心からの願いと祈りを見つめて佇んだ。



北岳山荘のテントに戻ると早めに夕食を済ませた。
夕飯の餅入り鳥鍋を平らげて片づけ終えて、明日の準備も済ませると19時になっている。
それでも小屋には他に誰も訪れない。外はすっかり暗い山夜の闇が降りているだろう、今夜は英二と国村の2人だけらしい。
のんびり紅茶を飲みながらクライマーウォッチを眺めると、底抜けに明るい目が楽しげに笑った。

「よし、今夜は貸切だね?これで俺たち、誰に憚ることなく仲良く出来ちゃうね、み・や・た?」
「誰に憚るんだよ。仲良いのは、いつものことだろ?」

なに気なく英二が笑って答えると、細い目が悪戯っ子に笑んだ。
笑って英二の目を見ながら白い指を伸ばすと、英二のマグカップを取り上げて国村は唇の端をあげた。

「いつもよりね、仲よくしよう、ってコトだろ?ここなら、誰にも邪魔される心配ないからさ?ね、み・や・た」
「いつもよりって、あれ以上どうするんだよ?」

マグカップを取り返して英二は笑った。
英二と国村はアンザイレンパートナーを組んでいるため、山岳救助隊でも一緒に召集が掛けられる。
ふたりとも互いに体格が大きいために他の人間と組むことが難しい、そのため訓練でも他の隊員と組むことが出来ない。
それで御岳駐在員としては交代で勤務しても、休憩合間の自主訓練には非番の方が駐在所に出向いて一緒に取り組むことになる。
しかも気の合う友達で同じ寮に住んでいるから一緒にいることが多い。それなのに国村はまだ何かあるらしい。
きっとまた面白いこと言うんだろうな?そう見ていると秀麗な口が開いた。

「生着替えは毎朝見ているし、飯も風呂も一緒だしね。だから、あ・と・は、同衾かな?」

言い方が可笑しくて英二は笑ってしまった。
底抜けに明るい目も笑いながら紅茶を啜っている。英二もマグカップに口付けながら相槌を打った。

「それ、もう射撃大会が終わった夜に、おまえん家でやっただろ?ずっと背中に張り付いていたよな、」
「あ、そうだったね?ま、あれは、甘えん坊の俺がやったことだ。今夜はまた、違うバージョンにするよ」

寛いで会話をしながらマグカップを空にすると、国村はカメラを取出した。
手馴れた雰囲気で操作すると、撮影した写真の画像を英二に見せてくれた。

「ほら、今日撮ったヤツ」
「へえ…やっぱり、上手いな?おまえ、こっちの道でも行けそうだ、」

感心しながら画面を眺めて率直に英二は褒めた。
そんな英二に笑って国村が1枚の写真で手を止めた。

「これがさ、今日の俺の自信作だね。イイだろ?」

そこには英二の横顔が残照に輝いた雪嶺を背景に映っている。
自分でも知らない表情の貌に英二は我ながら驚いた。

「これが俺?…俺、こんな顔してるんだ?」
「うん、山を見ている時にはね、こういう貌するときあるな。イイ貌だろ、若き山ヤって感じでさ、」

自分の知らない表情を国村は知っていた。それが不思議で、けれど何故か納得出来る気がした。
全部を見せてくれると国村はカメラを抱え込んで英二に笑いかけた。

「さて、ちょっと俺はね、さっさとコレの編集しちゃうな。でも就寝は21時にはするよ、」
「うん。俺も、やりたいことあるんだ、」

頷きながら英二はラテン語の携帯用辞書と薄いファイルをザックから出した。
すこしでも日記の続きを読み進めたい、ファイルを開いて日記帳の写しを出すと膝に広げた。
それを黙読しながら英二はボードにセットしてきたルーズリーフにペンを走らせ始めた。

時計が21時になって、お互いに片づけるとシュラフにもぐりこんだ。
いつもなら周太に電話する時間、けれどここ北岳では充電が出来ないから電池の温存が必要になる。
ほんとうは声を聴きたい、でも万が一の時に携帯が使えないと生死を分ける事もある。
明後日には逢えるのだから。そう自分に言い聞かせて英二は目を瞑った。

明朝はまた午前3時起の予定でいる、英二は時間感覚を自分の脳に命じた。
いまから6時間後に目覚める、だから6時間で今日一日の疲れを全部とること。
こんなふうに言い聞かせておくと英二は時間通りに起きられる。
これでもう大丈夫、微笑んで眠りに就こうとした途端にシュラフが勝手に開けられた。

「なに?国村、寒いだろ、」

瞑った目を開けて英二は、愉しげに見おろしてくる国村に笑った。
また自分のアンザイレンパートナーは勝手な行動をとるつもりらしい。
今回は何だろう?そう思う間もなく国村は、勝手に英二の体をすこし押し退けた。

「いいからさ、ちょっと除けなね?ほら、」

機嫌よく笑いながら国村は、結局勝手に英二のシュラフにもぐりこんだ。
確かに英二は大柄だからシュラフも大きいサイズを選んではある。
けれど180cm超の男2人では、いくらなんでも狭い。無茶な狭さが可笑しくて、笑いながら英二は文句を言った。

「なあ、さすがに狭いって。ちゃんと自分ので寝ろよ?」
「寒いからさ、これが一番良いんだって。凍傷とか困るだろ?あ、やっぱ温いねえ、」

飄々と言いながら背中から英二に抱きつくと、気分良さ気に笑っている。
全くもって出ていく気配もない、さっき国村が言っていたことを思い出して英二は訊いてみた。

「さっきさ『今夜はまた違うバージョンにする』って言っていたのは、これのこと?」
「そ。今回はね『凍死しないように抱きあって温めあう二人』バージョンだよ?愉しいね、み・や・た」

機嫌よく答えながら肩越しに顔を乗せて頬寄せてくる。
あの射撃大会以来、こんな調子で国村は英二にスキンシップをしてしまう。

―…心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ
 だから俺はね、おまえ見るといつも、じゃれつくんだよ。宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ
 宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ

射撃大会が終わった夜、そんなふうに国村は本音を話してくれた。
この容姿と明るい雰囲気の国村だから、そのつもりになれば相手に不自由はしないだろう。
けれど山育ちもあってか直観力と感受性が強い国村は、すぐに相手と自分の関係を見抜いてしまう洞察力も鋭い。
そのせいで心底から相手に心許すことは国村は少ない、そのうえ純粋無垢な気質もあって、ある意味とても気難しい。
そんな国村は幼い日の1日の出逢いに生涯の恋愛を信じて、周太だけ14年間ずっと見つめている。
これは英二の存在を知っても、国村の想いは変わることがなかった。

ほんとうは国村は周太と、心も体も繋げてみたいと願っている。
けれど周太にそのつもりがないなら、国村は生涯そうした幸せを知らないまま生きることになる。
それでも構わないと国村は決めてしまっている、他に行けるなら14年の間にとっくに諦められただろう。
そんな国村の想いを知っているだけに、自分で良いのなら抱きつく位はさせてやりたいなと英二は想ってしまう。
求める相手に逢えない寂しさも、その相手しか求めたくない想いも、英二には痛切に解っている。
だから出来るだけ受けとめてやりたい、この大切なアンザイレンパートナーの潔癖な孤独を分ち持ってやれたらいい。
今夜も仕方ないな?きれいに微笑んで英二は、くっついているアンザイレンパートナーの額をかるく小突いた。

「ほんとはさ、周太以外は禁止なんだけどね?凍死しそうなら仕方ないな、温かいし、」
「だろ?ほんと人肌がいちばん温くっていいよな。…ね、み・や・た?もっと俺たち、仲よく温め合おう?」

愉快そうに笑いながら抱きついた掌が英二の喉元に伸びてくる。
白い掌の目的にすぐ気がついて、笑って英二は掌を握りこんで阻止した。

「このままで充分に仲良しだし、温かいだろ?ほら、早く寝るぞ、」
「ダメだよ、俺の可愛い公認パートナー?…今夜はね、絶対に邪魔が入らない絶好のチャンスだ。もっと仲を深めよう?」

頬寄せて囁いてくるテノールの声が艶やかさと醸してくる。
また国村の遊びが始まったらしい、明日は白峰三山の往復縦走を控えているのに?
困ったなと思いながらも可笑しくて、英二は笑いながら合せた。

「ダメ、こんな山小屋でなんて…心の準備もしていないの、だからお願い。今夜は寝かせて?」
「こんな山小屋だから、だよ?ね、可愛い俺のアンザイレンパートナー。言うこと聴いて?…優しくするから、」

こんな山の上まで来てもエロオヤジな国村が可笑しい。
可笑しくて笑ってしまいながら英二は自分のアンザイレンパートナーにお願いした。

「優しくするんなら、寝かせて?ほんと俺、眠くなってきたから。また3時起きだしさ、寝よ?」
「うん、寝ていいよ?」

にっこり笑って素直に国村が頷いた。
納得してくれたなら良かった、ほっとして英二は封じていた白い掌を離した。

「ありがと国村、じゃ、寝るな」
「うん、寝な?ま、俺は好きにするからさ、安心してね。お・や・す・み、可愛いパートナー」

好きにするってなに?
訊きかえそうと思ったけれど英二の意識は睡魔に掴まえられた。
ゆるやかな温もりと、今日の午前3時から山を歩いていた疲れが心地いい。
昼に夕に眺めた北岳の姿を見つめながら、英二は山夜の眠りの底へと落ち込んだ。


(to be continued)

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