手紙、永遠の約束へ
第67話 陽向act.6―another,side story「陽はまた昇る」
そっと抱きしめるブックバンドの一冊に、懐かしい俤が温まる。
さっき贈られたばかりの一冊は無名かもしれない、けれど自分には宝物。
たぶん母にも宝物になる、そして祖父にとっては何よりも掌中の宝だろう。
そんな想いごとブックバンド抱きしめて歩く隣、青いギンガムチェック姿が振向いた。
「私、図書館に本返すの忘れちゃってた。ちょっと返してくるね、湯原くんたち先に帰ってても良いよ?」
あわい木洩陽に髪ゆらし美代は笑って訊いてくれる。
その逆隣りから闊達な声が笑いかけた。
「俺はバイトも予定も無いから大丈夫だけど、周太は急ぐ?」
「俺も今日は大丈夫、賢弥は図書館に用事ある?」
もし賢弥も用があるなら皆で図書館に行こうかな?
そんな思案と笑いかけた先、愛嬌の笑顔は軽く首振った。
「俺は無いよ、周太も無いならココで待ってよっか、」
「ん、そうだね、」
答えながら左腕のクライマーウォッチを見ると16時半、この時間ならちょうど良い。
前から考えていた事を今日はしたくて、その提案に周太は笑いかけた。
「美代さん、ここで賢弥と待ってるね、でね、良かったら帰りにラーメン屋さん一緒しない?」
「あ、宮田くんといつも行くお店ね?ぜひ一緒させて、待っててね、」
嬉しそうに笑って踵返すと青いシャツ姿は駈けだした。
小気味よく走っていく小柄な背を見送りながら、愉しげに賢弥が訊いてくれた。
「周太、ラーメン屋って俺も一緒していい?」
「ん、もちろん。今日はふたりと行きたいなって思ってたんだ、」
即答に笑いながら懐かしい顔が記憶から温かい。
あの店に行くのは異動してからは初めてになる、そして多分、今日行かなかったら次はいつか解らない。
だから今日は友達二人と行っておきたい、そんな想いの隣で眼鏡の瞳が明るく笑ってくれた。
「周太の常連の店って良さそうだな、どこにあんの?」
「新宿だよ、俺も去年教えてもらったんだけど…好きなお店なんだ、」
去年、そう言いながら首筋が店の記憶に火照りだす。
初めて連れて行ってもらった夏の一日、真相を聴いた秋の日、それから青木樹医と再会した冬の日。
あの店に自分の分岐点が廻ってくれた、そこにある父の俤を見つめる想いに友達が笑った。
「じゃあ周太には俺がオゴリな、小嶌さんの真似っ子だけど研究生になる祝ってやつ、」
「え、俺の方こそご馳走しようって思ってるんだけど…前に泊めてもらった御礼もしたいし、」
「あのとき酒とか買ってくれたろ?アレで充分だから気にすんなよ、あそこ座ろっか、」
ふたり笑いあいながら木洩陽を通り1号館の階段脇に座りこんだ。
9月の空はまだ明るくて農正門に陽は照りかえす、けれど大樹の翳にキャンパスは薄暮が蒼い。
その樹影から夕涼みの風が吹いてくる、額ふれる心地よさに瞳細めた隣で闊達な声が笑った。
「風透って気持ち良いな、もう秋だ、」
「ん、秋だね、」
微笑んで応えた季節に、もう心は波立たない。
秋が来ることは2度めの異動の時、その瞬間が本当はずっと怖かった。
けれど今は穏やかなまま恐怖は小さい、そんな心は知ってゆく事実と真実に支えられている。
―お祖父さん、お父さん、今日知ったこともぜんぶ大好きだから…きっと、どんなことでも俺は好きになるよ?
今日も辿れた祖父と父の過去、ふたりを想う人の心、その全てがただ愛おしい。
そんな想い微笑んで膝のブックバンドを見つめる隣から、温かい声が尋ねてくれた。
「周太、そこに挟まってる本の名前って、もしかしてオヤジさん?」
問いかけられた言葉の先、手許のブックバンドで布張表紙が温かい。
微笑んで周太は丁寧にバンド解くと深緑の一冊を両掌に捧げた。
「ん、父の名前だよ、」
答えた掌のなか、ふっと深緑が明るんで光やわらかに照らされる。
座る講義棟の階段にランプが灯った、その黄色やさしい光に銀文字が煌めいた。
『MEMOIRS』Kaoru Yuhara
今日、手渡された一冊は厚みの重さが温かい。
この本に籠められた想いへの感謝に周太は口を開いた。
「父の論文集なんだ、田嶋先生が父の為に作ってくれたの、」
微笑んで言いながら瞳の奥へ熱が生まれだす。
この本に籠められる全てが自分の瞳に熱を灯す、その想いを声にした。
「父が学生時代に書いた論文がね、全部これに納まってるんだ。父が亡くなったとき、田嶋先生が父の論文を全部纏めてくれたの。
大学の事務室に問い合わせて父の履修講義を全部ピックアップしてね、その担当だった先生たち全員を尋ねて、集めてくれたんだ。
文学以外の一般教養のレポートもある、父の大学4年間の全部がこの一冊に納めてくれてあるんだ…こんなに綺麗に装丁もしてくれて、」
父の論文集はシンプルだけど丁寧に造られて美しい。
きっと費用は安くなかった、そんな装丁に田嶋の父へ寄せてくれる友情と敬意が篤い。
その想いを自分の友達にも聴いてほしくて周太は深い緑色を見つめながら微笑んだ。
「田嶋先生はね、父のことを天才だって信じてくれてるんだ、父の研究を全て大切に遺したいからって私費出版してくれたの。
だから部数も少なくて買えない本で…だけど文学部の図書館とね、仏文と英文の研究室に納めてくれてあるって教えてくれたよ、
この一冊は俺にあげようって持って来てくれてたの、研究生になるお祝いにしたかったって…まだ俺が誰かも知らなかったのに、ね?」
微笑んで話しかけた先、眼鏡の瞳にランプの燈火きらめく。
この友人なら心全部で受けとめてくれる、そう信じた通りの瞳に周太は笑いかけた。
「この表紙、緑色なのは先生と父が一緒に登った山のイメージなんだよ?アンザイレンパートナーへの気持ちを籠めてくれた色なの、」
微笑んだ頬を風ふわり撫でて、シャツの衿元が涼む。
やわらかな夕風とランプに佇んで周太は素直な想いを声にした。
「俺ね、父にこういう友達が居てくれることが本当に嬉しいんだ…いつも優しくて穏やかな父だったけど、どこか寂しそうで。
だから青木先生にも感謝してるんだ、田嶋先生に翻訳のことで紹介して下さったから今、こうして父と祖父のことも教えてもらえる、」
去年の冬、青木樹医と出会えたことが父と祖父の軌跡に繋がっている。
その感謝に微笑んだ隣から友人も笑ってくれた。
「その本、もう開いて見た?」
「まだ見てないんだ…今、開いて見ても良い?」
笑いかけた真ん中、愛嬌の笑顔が頷いてくれる。
いつもの快活な優しさに微笑んで周太は緑深い表紙を開いた。
―立派な本…保管も、きちんとしてる、
開いた本の手触りに心ため息こぼれだす。
内張の紙材は厚く軽やかな手触りに経年の劣化も無い。
ふれる指にも田嶋の篤実は温かで嬉しくて、微笑んで捲ったページに瞳が響いた。
I give it to an epitaph of savant Kaoru Yuhara.
And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
[Cited from Shakespeare's Sonnet18]
アルファベット綴る英国詩の一節が、温かく視界を滲んで心に滴る。
世界で愛されるソネットの詩節は深く懐かしく父の口遊みに記憶が謳いだす。
「この詩はね、周…シェイクスピアが愛する人に捧げる気持ちを詠っているんだ、」
木洩陽きらめく庭のベンチ、穏やかな笑顔は澄んで温かい。
涼やかな風に父の袂ひるがえり陽に透ける、その風に染めの藍が凛と香る。
爽やかな浴衣姿は広げたページに愉しげで嬉しい、この嬉しい気持ちに思い切って訊いてみた。
「ん…じゃあらぶれたーってこと?」
質問しながら覚えたての言葉が気恥ずかしい。
入ったばかりの小学校でそんな話を聴いてきた、そういう話は何だか照れてしまう。
少し解かりかけている「らぶれたー」に羞んでシャツのボタンいじる隣で父は涼やかに笑った。
「ん、確かに愛の手紙だね、シェイクスピアが大切な人に贈った詩だから…恋愛より深い気持がある相手への、手紙みたいな詩、」
大切な人に贈った手紙みたいな詩。
その言葉がなんだか嬉しいまま大好きな笑顔を見上げた。
「お父さん、れんあいじゃない…らぶれたーってあるの?」
「ん、あるよ、」
穏やかな声に微笑んで父が膝の本を持ち上げてくれる。
その仕草に嬉しく笑って浴衣の膝へ登ると、切長い瞳は涼やかに微笑んだ。
「家族とか友達とかね、大切な人へ大好きって気持を書いた手紙、真心を贈る手紙はね、どれもラヴレターだよ、」
そんなふう父が教えてくれた夏の朝が今、見つめる詩から記憶に響きだす。
夏の庭に咲いた綺麗な笑顔、あの幸福の永遠が父の遺作集に詩の一節で輝いている。
―ね、お父さん、これは田嶋先生からお父さんへのラヴレターだね、
静かな想いに微笑んだ視界、滲んだ温もり一滴が頬を伝う。
父の母校に佇んで父の遺愛の詩に回り逢う、この時間を贈ってくれた人の想いが温かい。
『いつか馨さんはここに、文学に戻る…それが馨さんの正しい運命だって俺は信じている、君のお父さんは学問に愛される人なんだ』
夏の午後ふる仏文研究室、明るい光のなか聴かせてくれた想い。
あの言葉を父が愛した詩によせて遺作集に言祝いでくれた、その篤実は涙になる。
父に寄せてくれる哀惜と真直ぐな敬愛が嬉しい、嬉しく微笑んだ隣で闊達な涙声も笑ってくれた。
「カッコいいな、周太のお父さんも田嶋先生も…っぅ…俺、こういうの弱いんだって、」
詰まらす声にそっと振向いた真中で愛嬌の笑顔に涙ひとつ伝う。
こんなふう一緒に泣いて笑ってくれる友人が自分にも居てくれる、その幸せに周太は笑った。
「ん、俺のお父さんってカッコいいよ?でね…あんまり顔は似ていないけど声は似てるって、田嶋先生に言われて嬉しかった、」
「やっぱり周太、おふくろさん似なんだ?でも語学の才能とかはオヤジさん似だよな、お祖父さんにも、」
笑いながら賢弥は眼鏡を外して指に涙を払った。
また眼鏡を掛け直し、その視線が向うを見て照れくさげに微笑んだ。
「やばい、小嶌さんがコッチ見ながら走ってくる、泣いてるトコ見られたな?」
友達の声に振り向いた向こう、薄暮のキャンパスを白いサブリナパンツが駈けてくる。
近づいてくる日焼あわい貌は不思議そうに真直ぐ見つめて、すぐにランプやわらかなエントランスに駆けこんだ。
「どうしたの?二人で、泣いたりして…なんかあったの?」
すこし息弾ませ訊きながら綺麗な瞳が気遣わしく見つめてくれる。
その瞳へと周太は父の論文集を差し出して綺麗に笑った。
「これ、田嶋先生が父の為に作ってくれた本なんだけど、先生が父に贈った手紙を読んでたんだ…美代さんも見て?」
研鑽たゆまぬ学者、湯原馨の碑銘に捧げる。
夏の限られた時は短すぎる一日。
天上の輝ける瞳は熱すぎる時もあり、
時には黄金まばゆい貌を薄闇に曇らす、
清廉なる美の全ては いつか滅びる美より来たり、
偶然の廻りか万象の移ろいに崩れゆく道を辿らす。
けれど貴方と言う永遠の夏は色褪せない、
清らかな貴方の美を奪えない、
貴方が滅びの翳に迷うとは死の神も驕れない、
永遠の詞に貴方が生きゆく時間には。
人々が息づき瞳が見える限り、
この詞が生きる限り、詞は貴方に命を贈り続ける。
(to be continued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」より抜粋】
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第67話 陽向act.6―another,side story「陽はまた昇る」
そっと抱きしめるブックバンドの一冊に、懐かしい俤が温まる。
さっき贈られたばかりの一冊は無名かもしれない、けれど自分には宝物。
たぶん母にも宝物になる、そして祖父にとっては何よりも掌中の宝だろう。
そんな想いごとブックバンド抱きしめて歩く隣、青いギンガムチェック姿が振向いた。
「私、図書館に本返すの忘れちゃってた。ちょっと返してくるね、湯原くんたち先に帰ってても良いよ?」
あわい木洩陽に髪ゆらし美代は笑って訊いてくれる。
その逆隣りから闊達な声が笑いかけた。
「俺はバイトも予定も無いから大丈夫だけど、周太は急ぐ?」
「俺も今日は大丈夫、賢弥は図書館に用事ある?」
もし賢弥も用があるなら皆で図書館に行こうかな?
そんな思案と笑いかけた先、愛嬌の笑顔は軽く首振った。
「俺は無いよ、周太も無いならココで待ってよっか、」
「ん、そうだね、」
答えながら左腕のクライマーウォッチを見ると16時半、この時間ならちょうど良い。
前から考えていた事を今日はしたくて、その提案に周太は笑いかけた。
「美代さん、ここで賢弥と待ってるね、でね、良かったら帰りにラーメン屋さん一緒しない?」
「あ、宮田くんといつも行くお店ね?ぜひ一緒させて、待っててね、」
嬉しそうに笑って踵返すと青いシャツ姿は駈けだした。
小気味よく走っていく小柄な背を見送りながら、愉しげに賢弥が訊いてくれた。
「周太、ラーメン屋って俺も一緒していい?」
「ん、もちろん。今日はふたりと行きたいなって思ってたんだ、」
即答に笑いながら懐かしい顔が記憶から温かい。
あの店に行くのは異動してからは初めてになる、そして多分、今日行かなかったら次はいつか解らない。
だから今日は友達二人と行っておきたい、そんな想いの隣で眼鏡の瞳が明るく笑ってくれた。
「周太の常連の店って良さそうだな、どこにあんの?」
「新宿だよ、俺も去年教えてもらったんだけど…好きなお店なんだ、」
去年、そう言いながら首筋が店の記憶に火照りだす。
初めて連れて行ってもらった夏の一日、真相を聴いた秋の日、それから青木樹医と再会した冬の日。
あの店に自分の分岐点が廻ってくれた、そこにある父の俤を見つめる想いに友達が笑った。
「じゃあ周太には俺がオゴリな、小嶌さんの真似っ子だけど研究生になる祝ってやつ、」
「え、俺の方こそご馳走しようって思ってるんだけど…前に泊めてもらった御礼もしたいし、」
「あのとき酒とか買ってくれたろ?アレで充分だから気にすんなよ、あそこ座ろっか、」
ふたり笑いあいながら木洩陽を通り1号館の階段脇に座りこんだ。
9月の空はまだ明るくて農正門に陽は照りかえす、けれど大樹の翳にキャンパスは薄暮が蒼い。
その樹影から夕涼みの風が吹いてくる、額ふれる心地よさに瞳細めた隣で闊達な声が笑った。
「風透って気持ち良いな、もう秋だ、」
「ん、秋だね、」
微笑んで応えた季節に、もう心は波立たない。
秋が来ることは2度めの異動の時、その瞬間が本当はずっと怖かった。
けれど今は穏やかなまま恐怖は小さい、そんな心は知ってゆく事実と真実に支えられている。
―お祖父さん、お父さん、今日知ったこともぜんぶ大好きだから…きっと、どんなことでも俺は好きになるよ?
今日も辿れた祖父と父の過去、ふたりを想う人の心、その全てがただ愛おしい。
そんな想い微笑んで膝のブックバンドを見つめる隣から、温かい声が尋ねてくれた。
「周太、そこに挟まってる本の名前って、もしかしてオヤジさん?」
問いかけられた言葉の先、手許のブックバンドで布張表紙が温かい。
微笑んで周太は丁寧にバンド解くと深緑の一冊を両掌に捧げた。
「ん、父の名前だよ、」
答えた掌のなか、ふっと深緑が明るんで光やわらかに照らされる。
座る講義棟の階段にランプが灯った、その黄色やさしい光に銀文字が煌めいた。
『MEMOIRS』Kaoru Yuhara
今日、手渡された一冊は厚みの重さが温かい。
この本に籠められた想いへの感謝に周太は口を開いた。
「父の論文集なんだ、田嶋先生が父の為に作ってくれたの、」
微笑んで言いながら瞳の奥へ熱が生まれだす。
この本に籠められる全てが自分の瞳に熱を灯す、その想いを声にした。
「父が学生時代に書いた論文がね、全部これに納まってるんだ。父が亡くなったとき、田嶋先生が父の論文を全部纏めてくれたの。
大学の事務室に問い合わせて父の履修講義を全部ピックアップしてね、その担当だった先生たち全員を尋ねて、集めてくれたんだ。
文学以外の一般教養のレポートもある、父の大学4年間の全部がこの一冊に納めてくれてあるんだ…こんなに綺麗に装丁もしてくれて、」
父の論文集はシンプルだけど丁寧に造られて美しい。
きっと費用は安くなかった、そんな装丁に田嶋の父へ寄せてくれる友情と敬意が篤い。
その想いを自分の友達にも聴いてほしくて周太は深い緑色を見つめながら微笑んだ。
「田嶋先生はね、父のことを天才だって信じてくれてるんだ、父の研究を全て大切に遺したいからって私費出版してくれたの。
だから部数も少なくて買えない本で…だけど文学部の図書館とね、仏文と英文の研究室に納めてくれてあるって教えてくれたよ、
この一冊は俺にあげようって持って来てくれてたの、研究生になるお祝いにしたかったって…まだ俺が誰かも知らなかったのに、ね?」
微笑んで話しかけた先、眼鏡の瞳にランプの燈火きらめく。
この友人なら心全部で受けとめてくれる、そう信じた通りの瞳に周太は笑いかけた。
「この表紙、緑色なのは先生と父が一緒に登った山のイメージなんだよ?アンザイレンパートナーへの気持ちを籠めてくれた色なの、」
微笑んだ頬を風ふわり撫でて、シャツの衿元が涼む。
やわらかな夕風とランプに佇んで周太は素直な想いを声にした。
「俺ね、父にこういう友達が居てくれることが本当に嬉しいんだ…いつも優しくて穏やかな父だったけど、どこか寂しそうで。
だから青木先生にも感謝してるんだ、田嶋先生に翻訳のことで紹介して下さったから今、こうして父と祖父のことも教えてもらえる、」
去年の冬、青木樹医と出会えたことが父と祖父の軌跡に繋がっている。
その感謝に微笑んだ隣から友人も笑ってくれた。
「その本、もう開いて見た?」
「まだ見てないんだ…今、開いて見ても良い?」
笑いかけた真ん中、愛嬌の笑顔が頷いてくれる。
いつもの快活な優しさに微笑んで周太は緑深い表紙を開いた。
―立派な本…保管も、きちんとしてる、
開いた本の手触りに心ため息こぼれだす。
内張の紙材は厚く軽やかな手触りに経年の劣化も無い。
ふれる指にも田嶋の篤実は温かで嬉しくて、微笑んで捲ったページに瞳が響いた。
I give it to an epitaph of savant Kaoru Yuhara.
And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
[Cited from Shakespeare's Sonnet18]
アルファベット綴る英国詩の一節が、温かく視界を滲んで心に滴る。
世界で愛されるソネットの詩節は深く懐かしく父の口遊みに記憶が謳いだす。
「この詩はね、周…シェイクスピアが愛する人に捧げる気持ちを詠っているんだ、」
木洩陽きらめく庭のベンチ、穏やかな笑顔は澄んで温かい。
涼やかな風に父の袂ひるがえり陽に透ける、その風に染めの藍が凛と香る。
爽やかな浴衣姿は広げたページに愉しげで嬉しい、この嬉しい気持ちに思い切って訊いてみた。
「ん…じゃあらぶれたーってこと?」
質問しながら覚えたての言葉が気恥ずかしい。
入ったばかりの小学校でそんな話を聴いてきた、そういう話は何だか照れてしまう。
少し解かりかけている「らぶれたー」に羞んでシャツのボタンいじる隣で父は涼やかに笑った。
「ん、確かに愛の手紙だね、シェイクスピアが大切な人に贈った詩だから…恋愛より深い気持がある相手への、手紙みたいな詩、」
大切な人に贈った手紙みたいな詩。
その言葉がなんだか嬉しいまま大好きな笑顔を見上げた。
「お父さん、れんあいじゃない…らぶれたーってあるの?」
「ん、あるよ、」
穏やかな声に微笑んで父が膝の本を持ち上げてくれる。
その仕草に嬉しく笑って浴衣の膝へ登ると、切長い瞳は涼やかに微笑んだ。
「家族とか友達とかね、大切な人へ大好きって気持を書いた手紙、真心を贈る手紙はね、どれもラヴレターだよ、」
そんなふう父が教えてくれた夏の朝が今、見つめる詩から記憶に響きだす。
夏の庭に咲いた綺麗な笑顔、あの幸福の永遠が父の遺作集に詩の一節で輝いている。
―ね、お父さん、これは田嶋先生からお父さんへのラヴレターだね、
静かな想いに微笑んだ視界、滲んだ温もり一滴が頬を伝う。
父の母校に佇んで父の遺愛の詩に回り逢う、この時間を贈ってくれた人の想いが温かい。
『いつか馨さんはここに、文学に戻る…それが馨さんの正しい運命だって俺は信じている、君のお父さんは学問に愛される人なんだ』
夏の午後ふる仏文研究室、明るい光のなか聴かせてくれた想い。
あの言葉を父が愛した詩によせて遺作集に言祝いでくれた、その篤実は涙になる。
父に寄せてくれる哀惜と真直ぐな敬愛が嬉しい、嬉しく微笑んだ隣で闊達な涙声も笑ってくれた。
「カッコいいな、周太のお父さんも田嶋先生も…っぅ…俺、こういうの弱いんだって、」
詰まらす声にそっと振向いた真中で愛嬌の笑顔に涙ひとつ伝う。
こんなふう一緒に泣いて笑ってくれる友人が自分にも居てくれる、その幸せに周太は笑った。
「ん、俺のお父さんってカッコいいよ?でね…あんまり顔は似ていないけど声は似てるって、田嶋先生に言われて嬉しかった、」
「やっぱり周太、おふくろさん似なんだ?でも語学の才能とかはオヤジさん似だよな、お祖父さんにも、」
笑いながら賢弥は眼鏡を外して指に涙を払った。
また眼鏡を掛け直し、その視線が向うを見て照れくさげに微笑んだ。
「やばい、小嶌さんがコッチ見ながら走ってくる、泣いてるトコ見られたな?」
友達の声に振り向いた向こう、薄暮のキャンパスを白いサブリナパンツが駈けてくる。
近づいてくる日焼あわい貌は不思議そうに真直ぐ見つめて、すぐにランプやわらかなエントランスに駆けこんだ。
「どうしたの?二人で、泣いたりして…なんかあったの?」
すこし息弾ませ訊きながら綺麗な瞳が気遣わしく見つめてくれる。
その瞳へと周太は父の論文集を差し出して綺麗に笑った。
「これ、田嶋先生が父の為に作ってくれた本なんだけど、先生が父に贈った手紙を読んでたんだ…美代さんも見て?」
研鑽たゆまぬ学者、湯原馨の碑銘に捧げる。
夏の限られた時は短すぎる一日。
天上の輝ける瞳は熱すぎる時もあり、
時には黄金まばゆい貌を薄闇に曇らす、
清廉なる美の全ては いつか滅びる美より来たり、
偶然の廻りか万象の移ろいに崩れゆく道を辿らす。
けれど貴方と言う永遠の夏は色褪せない、
清らかな貴方の美を奪えない、
貴方が滅びの翳に迷うとは死の神も驕れない、
永遠の詞に貴方が生きゆく時間には。
人々が息づき瞳が見える限り、
この詞が生きる限り、詞は貴方に命を贈り続ける。
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【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」より抜粋】
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