La tu te degages Et voles selon ―その解放、
第68話 薄明act.6―another,side story「陽はまた昇る」
開いた扉の向こう、独り住まいの空間は端正に素っ気ない。
整えられた1DKの空間は全てが揃う、洗濯機も冷蔵庫も置かれて浴室もある。
何も不自由のないワンルームは今までの単身寮と違いすぎて独居の空気が静まらす。
『独房』
そんな単語が映ってしまうのは今、自分の心は偏見が強すぎる?
そんな想い微笑んで周太は革靴を脱ぎ、部屋に上がった。
「…違うんだね、」
ぽつり言葉こぼれて見まわしながら廊下を抜けてゆく。
アイボリーの壁もフローリングの床も新しい、リビングの絨毯も貼り換えられてある。
きちんとメンテナンスされた部屋は高価なマンションの広告と似ているようで同じ警視庁の寮と思えない。
―こういう寮があるって聴いていたけど、本当なんだね…
特定の部署に配属されると入寮する高層マンションがある、そう聴いたことはあった。
そこに入れば所謂エリートコースの軌道を掴むチャンスでもあると言う、そんな噂は知っていた。
その通りなのだと思わされる一室に登山ザックとボストンバッグを下ろして窓辺、カーテンを開き周太は微笑んだ。
「やっぱり…鉄柵、あるね、」
窓の向こうはビルが並んでいる、そんな都心にありきたりな風景すら鉄柵が遮らす。
これは外部に対する防御でもあるだろう、けれど本当の理由は他にあるかもしれない。
そんな理由は14年以上をかけて集めてきた父のパズルたちから気付かされてしまう。
―簡単には出られないんだね、ここからは、
自室の窓から逃れる事すら出来ない、もちろんエントランスもセキュリティが万全だった。
それに今、見おろしている地上十数階はるか下、モノトーンのカラーリングされた車体が停まる。
この逆サイドには待機寮の「別庁舎」まである事実はここが特殊な場所なのだと納得せざるを得ない。
―いちばん危険で安全な場所だから、だね、
警視庁警察官、そこのエリートが辿るコースは二種類あるだろう。
国家公務員一種に合格した警察庁直属のキャリア、地方公務員として任官した警視庁採用のノンキャリア。
そして自分が属するノンキャリアで昇進してゆくコースなら今日、受験する合格先がその1つに挙げられる。
警視庁特殊急襲部隊 Special Assault Team 通称SAT
警視庁警備部に所属する精鋭部隊は、頭脳体力ともに抜群でなければ選ばれない。
警察学校の初任科教養から初任総合で上位を獲ること、勤務姿勢など人格的にも認められる。
そうした選抜要件を全て充たした者だけが入隊テストを提示され、本人の希望があれば受検する。
選ばれ、選び、特殊任務に就く精神からエリートの集団、そんな男たちが住む官舎は安全で危険な場所だろう。
―だから別庁舎があるんだね、その隣にもある…警察官常駐所まで、
今見おろしている構内には警視庁の中枢達が棲んでいる。
そんな現実に立ってしまった今の視界は29年前、父も似たような光景を見たろうか?
―お父さんはこの建物じゃなかったのかな、でも同じ様な雰囲気だった?
見つめる鉄格子の向こうに父の視界を探しながら、そっと窓から離れ踵を返す。
そのままボストンバッグを開いて少ない荷物を部屋に納めてゆく、それも直ぐ終る。
デスクの書架には大学のテキストと警察学校の教本を並べて、救急法のファイルは抽斗に仕舞う。
そして紺青色の表装きれいな一冊を手にして、見つめたまま吐息こぼれて、密やかに心は沈黙つぶやいた。
―ね、お父さんは受験希望を訊かれたの?それとも俺と同じで…命令だった、の?
「来週から2週間、湯原にはSAT試験訓練が課されます。表向きは交番勤務の協力派遣となるが品川か術科センターに通ってもらう、」
あの日、午後15時すぎに聴いた台詞は「命令」だった。
選抜基準は非公開でも性別から身長に家族構成など厳正な事はテスト自体のハイリスクにある。
だからこそ推薦を提案された者が熟考を経た後、志願して応じることがSAT入隊テストの原則になる。
けれど自分が告げられたのは台詞は提案では無い命令、そこに志願の確認すら無かった。
それは既に動かせない「決定」事項だからだろう。
「二週間の後はそのまま一週間の休暇だ、だから退寮の手続きを、」
「湯原、…すまん、」
昨日の業後に告げてくれた上司の声は落着いていた、けれど瞳は誤魔化しきれない沈黙が傷んだ。
あの目が告げられなかった沈黙は「疑問」を気付いた苦しみ、それが解かるから尚更に「疑問」が今も心を覆う。
あの全てはきっと今この掌にある一冊で解かれゆく?そんな思案に周太は登山ザックを開いて底深く、本を納めた。
『 La chronique de la maison 』Susumu Yuhara
祖父が遺した小説がもし「記録」だとしたら、この一冊は疑問への解答になる。
それならば自分が祖父の遺作を持つことは多分、ここでは知られない方が良い。
―もし小説が事実なら、
もし祖父の小説が事実で、それが父の「殉職」を招いたとしたら。
そんな現実が自分を此処に惹きこんだのならば、この小説が周知されることは?
Puisque de vous seules,
Braises de satin,
Le Devoir s'exhale
Sans qu'on dise : enfin.
昨夜も今朝も想った詩の一節が今、廻りだす思考に父の現実を映しだす。
この詩に詠われる「Braises」熾火は太陽の炎なのだろう、けれど父には銃火だ。
Puisque de vous seules,
もう君のものだ、
Braises de satin,
繻子に艶めく深紅の熾火は
『湯原先生も学生時代は射撃部と掛持ちされてたそうでな、それが大変だったから馨さんには射撃部は反対していたんだよ』
大学時代も山岳部だった父は友人に頼まれ、射撃部と掛持ちした。
そしてペンとピッケルを握っていた父の手に銃火器は持たされた。
決して好きで選んだ訳じゃない射撃、けれど父は警察官になった。
『進学しないで警察官になられたよ。先輩は優秀な射撃の選手でな、それで湯原先生の友達で警察庁にいた方から勧められたんだ』
Le Devoir s'exhale
義務は義務の炎を吐くだけで
Sans qu'on dise : enfin.
本音ひとつ許さぬまま盡き、終焉する。
『だけど殉職された、もう14年になる…大学に戻ってくれって私は言ったんだ。でも、ただ笑って私にこの本を渡したんだ』
父は唯ひとりのアンザイレンパートナーの田嶋にすら何も言わず、独りこの世界に来てしまった。
ただ任務の為に銃火器を操って、それでも信じた祈りに殺人の罪すら任務に負って独り秘密を抱いていた。
文学への夢も誇りも何も言わずに微笑んで生きて、綺麗な笑顔だけ遺して父は生命を終えて逝ってしまった。
いま登山ザックの底に仕舞い込んだ本一冊、祖父の遺作を親友に託して。
―お父さん、この小説は事実だって気づいたの、それともお話だって思う?
心に問いかけながらネクタイ解きジャケット脱いで、ハンガーに掛ける。
ワイシャツとスラックスはそのままで書架の本を取り、独り掛けのソファに腰下した。
膝に開いたページは古くても綺麗に扱われて、けれど書込みが細かく丁寧に綴られて温かい。
「…吉村先生の字だね、」
見つめる文字に嬉しくて微笑んで、そっと指先に筆跡をなぞってみる。
銃創の処置を記した洋書は、篤実な医師の真摯な態度が紙面にも芳蹟ごと温もり残らす。
もう30年以上前に書かれたろう文字はページに馴染む、そんな英文綴りの本を捲って、ふと視線が止まった。
―あ、奥書のところ?
Our cheerful faith, that all which we behold
Is full of blessings. Therefore let the moon
Shine on thee in thy solitary walk;
And let the misty mountain-winds be free
流麗な筆記体で綴らす詞たちは、見覚えがある。
それは書込みよりも鮮やかに際立ってブルーブラックが瑞々しい。
そんな筆跡に贈り主が籠めてくれた祈り息づくまま記憶の底、懐かしい声が母語に謳う。
…
僕らの信じるところ、僕らの目に映る全ては
大いなる祝福に充ちている。だからこそ月よ
独り歩く貴方の頭上を明るく輝いてくれ、
そして霧深い山風も自由に駈けてくれ
…
常に月が頭上にあるように希望は常にある。
その希望を燈火にして何処にあっても自由でいてほしい。
そう異国の詞が綴る想いが唯そっと鼓動に響いて、響くまま優しい。
「ありがとうございます、先生…お父さん、」
そっと独りの部屋に微笑んで周太はページを捲った。
この本に書かれている知識は自分を、そして自分の前にある人を救う。
そんな想いは去年の夏、自分を救けてくれた背中の体温を偲ばせて唯、懐かしい。
そして警視庁術科センターの奥、あの扉が開かれる。
【引用詩文:Jean Nicolas Arthur Rimbaud「L'eternite'」/William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」】
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