望郷、遥かに遠く
第69話 山塊act.1-side story「陽はまた昇る」
見あげる涯、薄墨の彼方から雨は降る。
誰もいない屋上に水紋は広がり輪を描く、そのリングは涯が無い。
昨夜から注がれる水にコンクリートも池を成す、そしてシャツは透けて冷えてゆく。
それでも耳元のイヤホンに繋いだ遥か遠く東の朝は、穏やかな寝息を伝えて温かい。
「…周太、おはよう、」
そっと微笑んで掻き上げる髪から指を雫からんで、手首を伝い落ちてゆく。
まだ夜明けの直前時、黎明から少し明け初める刻限は普通なら眠りの時間だろう。
それでも今こうして音を確かめてしまうのは「普通」じゃない場所に居る人だから、知りたい。
―いま眠ってるなら大丈夫、今日のテストは昼間から夜間かな…呼吸も乱れてない、
聴こえる寝息に安否を確かめながら体調も診てしまう。
いま周太の日常が立たされている場所はきっと、硝煙と塵埃の濃い訓練場。
それが抱えている喘息を悪化させていないのか、発作を発現させていないのか知りたい。
『今は携帯電話の電波を遣えるからね、幾ら遠くてもクリアに音を届けられるワケ。しかも音源の機械に仕込んでるからね、色々と便利だろ?』
そんなふう光一が言ってくれた通りだとイヤホンから聞こえるシーンに解かる。
きっと今、周太は贈られた携帯用のオーディオで曲を聴きながら眠っているだろう。
だから寝息まで明確に自分の耳に届いて診断も出来る、この周到さに英二は微笑んだ。
―ほんと光一には俺、頭上がんないよな、
周太の居場所と状況、病状を把握する、
そんな目的で盗聴器と発信機を隠したオーディオを周太に仕掛け、送りだした。
その目的通りに1週間ずっとオーディオは役立って、それ以上の役割も果たしてくれる。
『ピアノで弾いてくれって曲を俺に聴かせたろ?アレをこの間の週休の時に録音してきたね、』
そう教えてくれた曲が周太のオーディオに入っている、それを聴きながら周太は微睡む。
そんな周太の想いごと聴くことが出来てしまうのは、こんなにも自分を支えるまま温かい。
「…予想よりも効果的だよな、俺にとって、」
ぼんやり見あげていた意識は天ふる冷たさに醒めて、クリアに天候を映しだす。
今日は久しぶりに現場での訓練に入る、その場所へ頭を廻らせ雲と風の運行を仰ぐ。
こんなふう雨降る風なら西の方も同じだろう、そう観天望気を見定めて英二は踵返した。
今日の訓練は厳しいかもしれない、現場としても。
指揮車の窓を雨が叩く、その飛沫が一秒後と速くなる。
透明な音にワイパーは間断ない、そんなフロントガラスは薄墨色に稜線を黒く浮ばせる。
こんなふうに雨が降るとき山は吸水が膨らんでしまう、そして起こり得る可能性に助手席が微笑んだ。
「ふん、こりゃ良いタイミングで俺たち訓練かもしれないね?」
飄々とテノールは笑って窓を眺めて、底抜けに明るい目に空を映す。
いつも通り陽気で澄んだ瞳は怜悧なまま落着いている、けれど今、背負うものは小さくない。
―初めての現場訓練で悪天候なんだ、幾ら光一でも緊張しない訳がないけど、
ハンドルを握りながら気遣ってしまうのは、指揮官の心を聴いているからだろう。
『全員、無事帰還だ、』
青梅署山岳救助隊で過ごした日々、後藤副隊長はそう笑って送りだしてくれた。
いつも訓練で現場で後藤は笑って立っていた、けれど無事にと笑う言葉には祈りがある。
その願いは今この隣に座っている笑顔にも同じだろう、そんな責任の重たさは今の自分には解る。
『警察社会で補佐役なら強かな狡さが無いとダメだ。一筋縄じゃいかない賢さと無欲な野心と、けれど山への純粋な情熱』
そう後藤が自分に言ってくれた期待が今日、これから試されるだろう。
いま走ってゆく道路から切れ落ちる崖下は渓流が飛沫を砕く、その水勢に山の状態が見えてしまう。
容易くない、そんな現状はフロントガラスの空に稜線にも鮮やかで、見たまま英二は穏やかに微笑んだ。
「今日は山の土が崩れやすいな、崩落もある。あのルートだと道迷いもあるかもしれない、霧が出るポイントがある、」
「訓練にはモッテコイかもね、それもさ、」
からり笑ってくれる瞳がガラス越しにも落着いている。
もう光一は覚悟が坐っているだろう、そんな上官に英二は笑いかけた。
「光一、訓練も現場のひとつだって覚悟は皆さんもあるはずだ、同じ山ヤなら自助と相互扶助は当然だろ?」
自助と相互扶助、
それが山に生きる基本だと最初に教えられた。
あの言葉のまま山に生きて一年が経つ、その時間を共に駆けてくれた相手は笑ってくれた。
「そりゃ当然だね、山っ子な俺の可愛い部下たちなんだからさ?ソコントコ徹底してもらうよ、」
底抜けに明るい瞳が笑ってくれる、この明るさは頼もしい。
そんな上官でアンザイレンパートナーに微笑んで英二は現状予測を報告した。
「今日のコース、もし一般ハイカーが登るなら滑落事故の危険が高まります。他のルートも言える事ですが季節と曜日的に初心者が多いはずです、
この悪天候でも無理に山を歩いてしまえば道迷いや滑落、低体温症のリスクも考えられます。救助要請に備えた装備で訓練にあたる方が良いです、」
奥多摩は低山、だからこそ油断が原因の遭難事故が多発する。
そんな現実は1年間に幾度もう見て来ただろう?そんな記憶に見つめるフロントガラスで上官は微笑んだ。
「お、公式モードに切り替わったね?」
「はい、もうすぐ目的地になりますから、」
笑って答えた視界、雨に染まる道は山と森の息吹に深くなる。
もうじき林道に入るだろう、そんな予測通りに車体の振動は砂利を噛みだした。
「うん、奥多摩だね、ただいまってカンジ、」
からり笑ったテノールの向こう、懐かしい山容が雨白く煙ぶる。
降りしきる水の帳に透かしても山の名前それぞれが解ってしまう、そんな自分の記憶に想いは正直だ。
この山嶺に雨に空気に想ってしまう率直な喜びは温かい、その肚底から英二はフロントガラスの彼方に笑った。
「ああ、帰って来たな、」
(to be continued)
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第69話 山塊act.1-side story「陽はまた昇る」
見あげる涯、薄墨の彼方から雨は降る。
誰もいない屋上に水紋は広がり輪を描く、そのリングは涯が無い。
昨夜から注がれる水にコンクリートも池を成す、そしてシャツは透けて冷えてゆく。
それでも耳元のイヤホンに繋いだ遥か遠く東の朝は、穏やかな寝息を伝えて温かい。
「…周太、おはよう、」
そっと微笑んで掻き上げる髪から指を雫からんで、手首を伝い落ちてゆく。
まだ夜明けの直前時、黎明から少し明け初める刻限は普通なら眠りの時間だろう。
それでも今こうして音を確かめてしまうのは「普通」じゃない場所に居る人だから、知りたい。
―いま眠ってるなら大丈夫、今日のテストは昼間から夜間かな…呼吸も乱れてない、
聴こえる寝息に安否を確かめながら体調も診てしまう。
いま周太の日常が立たされている場所はきっと、硝煙と塵埃の濃い訓練場。
それが抱えている喘息を悪化させていないのか、発作を発現させていないのか知りたい。
『今は携帯電話の電波を遣えるからね、幾ら遠くてもクリアに音を届けられるワケ。しかも音源の機械に仕込んでるからね、色々と便利だろ?』
そんなふう光一が言ってくれた通りだとイヤホンから聞こえるシーンに解かる。
きっと今、周太は贈られた携帯用のオーディオで曲を聴きながら眠っているだろう。
だから寝息まで明確に自分の耳に届いて診断も出来る、この周到さに英二は微笑んだ。
―ほんと光一には俺、頭上がんないよな、
周太の居場所と状況、病状を把握する、
そんな目的で盗聴器と発信機を隠したオーディオを周太に仕掛け、送りだした。
その目的通りに1週間ずっとオーディオは役立って、それ以上の役割も果たしてくれる。
『ピアノで弾いてくれって曲を俺に聴かせたろ?アレをこの間の週休の時に録音してきたね、』
そう教えてくれた曲が周太のオーディオに入っている、それを聴きながら周太は微睡む。
そんな周太の想いごと聴くことが出来てしまうのは、こんなにも自分を支えるまま温かい。
「…予想よりも効果的だよな、俺にとって、」
ぼんやり見あげていた意識は天ふる冷たさに醒めて、クリアに天候を映しだす。
今日は久しぶりに現場での訓練に入る、その場所へ頭を廻らせ雲と風の運行を仰ぐ。
こんなふう雨降る風なら西の方も同じだろう、そう観天望気を見定めて英二は踵返した。
今日の訓練は厳しいかもしれない、現場としても。
指揮車の窓を雨が叩く、その飛沫が一秒後と速くなる。
透明な音にワイパーは間断ない、そんなフロントガラスは薄墨色に稜線を黒く浮ばせる。
こんなふうに雨が降るとき山は吸水が膨らんでしまう、そして起こり得る可能性に助手席が微笑んだ。
「ふん、こりゃ良いタイミングで俺たち訓練かもしれないね?」
飄々とテノールは笑って窓を眺めて、底抜けに明るい目に空を映す。
いつも通り陽気で澄んだ瞳は怜悧なまま落着いている、けれど今、背負うものは小さくない。
―初めての現場訓練で悪天候なんだ、幾ら光一でも緊張しない訳がないけど、
ハンドルを握りながら気遣ってしまうのは、指揮官の心を聴いているからだろう。
『全員、無事帰還だ、』
青梅署山岳救助隊で過ごした日々、後藤副隊長はそう笑って送りだしてくれた。
いつも訓練で現場で後藤は笑って立っていた、けれど無事にと笑う言葉には祈りがある。
その願いは今この隣に座っている笑顔にも同じだろう、そんな責任の重たさは今の自分には解る。
『警察社会で補佐役なら強かな狡さが無いとダメだ。一筋縄じゃいかない賢さと無欲な野心と、けれど山への純粋な情熱』
そう後藤が自分に言ってくれた期待が今日、これから試されるだろう。
いま走ってゆく道路から切れ落ちる崖下は渓流が飛沫を砕く、その水勢に山の状態が見えてしまう。
容易くない、そんな現状はフロントガラスの空に稜線にも鮮やかで、見たまま英二は穏やかに微笑んだ。
「今日は山の土が崩れやすいな、崩落もある。あのルートだと道迷いもあるかもしれない、霧が出るポイントがある、」
「訓練にはモッテコイかもね、それもさ、」
からり笑ってくれる瞳がガラス越しにも落着いている。
もう光一は覚悟が坐っているだろう、そんな上官に英二は笑いかけた。
「光一、訓練も現場のひとつだって覚悟は皆さんもあるはずだ、同じ山ヤなら自助と相互扶助は当然だろ?」
自助と相互扶助、
それが山に生きる基本だと最初に教えられた。
あの言葉のまま山に生きて一年が経つ、その時間を共に駆けてくれた相手は笑ってくれた。
「そりゃ当然だね、山っ子な俺の可愛い部下たちなんだからさ?ソコントコ徹底してもらうよ、」
底抜けに明るい瞳が笑ってくれる、この明るさは頼もしい。
そんな上官でアンザイレンパートナーに微笑んで英二は現状予測を報告した。
「今日のコース、もし一般ハイカーが登るなら滑落事故の危険が高まります。他のルートも言える事ですが季節と曜日的に初心者が多いはずです、
この悪天候でも無理に山を歩いてしまえば道迷いや滑落、低体温症のリスクも考えられます。救助要請に備えた装備で訓練にあたる方が良いです、」
奥多摩は低山、だからこそ油断が原因の遭難事故が多発する。
そんな現実は1年間に幾度もう見て来ただろう?そんな記憶に見つめるフロントガラスで上官は微笑んだ。
「お、公式モードに切り替わったね?」
「はい、もうすぐ目的地になりますから、」
笑って答えた視界、雨に染まる道は山と森の息吹に深くなる。
もうじき林道に入るだろう、そんな予測通りに車体の振動は砂利を噛みだした。
「うん、奥多摩だね、ただいまってカンジ、」
からり笑ったテノールの向こう、懐かしい山容が雨白く煙ぶる。
降りしきる水の帳に透かしても山の名前それぞれが解ってしまう、そんな自分の記憶に想いは正直だ。
この山嶺に雨に空気に想ってしまう率直な喜びは温かい、その肚底から英二はフロントガラスの彼方に笑った。
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