護られる手、
1月5日誕生花ミスミソウ
睦月五日、三角草ーGuardian
料理人なんか、と幾度もう言われたろう?
そして称賛の眼ざしも幾度もう僕のもの。
「シェフ、」
「はい?」
呼ばれて返事して、でも手は皿に動かす。
唇かすめる湯気あまく深く芳ばしい、そんな居場所いつもの言葉。
「お客様がシェフにお礼をと言われていますが?」
お礼、こんなふう言われる日常。
ほら?また過去を笑い飛ばせる。
『料理人なんかに、』
過去の声また響く、あれは卑下の聲。
それすら過去と呼べる今に微笑んだ。
「はい、何番テーブル?」
「1番です、皿はどれもキレイでした。」
答えたコックコート姿に皿を渡す。
ソースなめらかな艶チェックして、コック帽を直しながら扉を開けた。
ほら、今日も満席。
「あらシェフ、今日もおいしいわ、」
「今日もいい味だ、ありがとうシェフ?」
ほら席あちこち笑いかけてくる。
いつもの声に笑顔むけ会釈ゆっくり歩む、その靴先ふわり絨毯うずむ。
「ほんと素敵なお店ね、上品だけど気さくに寛げて、」
「いい雰囲気だろう?」
踏みしめる絨毯ごと声が称える。
こうして聞くごと過去は遠退いて、一番テーブルに辿りついた。
「本日はようこそ、お口に合いましたでしょうか?」
微笑んで軽やかに頭さげて、今日の客を見る。
仕立て美しいカジュアルジャケット、銀髪なめらかな紳士、そんな客が穏やかに笑った。
「とても美味しかった、いい時間を過ごさせてもらいました。」
「気に入って頂けたなら、」
笑いかけ会釈して、満足の瞳が自分を讃えてくれる。
讃える眼ざし穏やかに朗らかで、その視線が同席者に微笑んだ。
「彼女も気に入ったようだよ?いつも食が細いのに残さずたいらげました、」
言葉に笑いかけた先、満足の瞳が笑ってくれる。
この眼は今日が初見、これから常連になるだろうか?
―デセールもプティ・フールも完食か、ほんとに気に入ったみたいだ?
空いた皿に満足度うかがえる。
これは「次回」もあるだろう?そんな予想にメゾソプラノ響いた。
「ほんとうに、ほっぺこぼれそうでした、」
あ、なつかしい言葉だ?
『大介がつくるとね、ほっぺこぼれそうよ?』
なつかしい声が笑いだす、遠い遠い幸せな声。
ただ懐かしく女性客に微笑んだ。
「ありがとうございます、」
すこし頭さげ笑いかけて、映るワンピースの薄紅色やわらかい。
藤色ふくんだ紅色あわい優雅、そのシルクに過去が呼んだ。
「私にはなつかしい味でした、みかんゼリーが特に、」
今、なんて言った?
「それはおまえ、オレンジのジュレだろう?間違えるなんて失礼だよ、」
銀髪の紳士がたしなめる、でも「間違え」じゃない。
メニューの名は紳士が言う通りで、それでも彼女は微笑んだ。
「ごめんなさい。でも私には、みかんゼリーなの、」
メゾソプラノが微笑む、その口もと黒子が青い。
この口もと昔むかし笑っていた僕の前で?
「シェフが考えたメニューなのだから、おまえ流に言っては違うだろう?」
「ごめんなさい、」
謝りながら微笑む口もと、黒子が青い。
笑っている瞳ゆるやかに睫あげて、まっすぐ自分を見た。
「ごめんなさい、ここではオレンジのジュレと言うんですね?でも私が初めて食べたときは、みかんゼリーだったんです、」
テーブルから見あげてくれる瞳、黒目がち鳶色が深い。
この瞳だ。
『大介がつくるとね、ほっぺこぼれそうよ?』
遠い幸せな日、笑ってくれた。
あれから冬いくつ超えたろう?想い素直に微笑んだ。
「奥様が仰る通りです。私が初めて作った時も、みかんゼリーでした。」
笑いかけた真中、黒目がち鳶色ふかくなる。
あまいオレンジ香る午後、ほら?遠い遠い幸せの声。
「ええ…今日のみかんゼリーも、ほっぺこぼれそうでした、」
メゾソプラノが微笑む、遠い遠い声より深い声。
見あげてくれる輪郭やわらかに臈たけて白い、遠い遠い日は薔薇色まるかった頬。
「光栄です、喜んでいただけたのなら。」
笑いかけて頭さげる、軽く、でもさっきより深く。
傾けたコック帽に君の眼差しふれてくれる、もう見つめあえない瞳。
「…ええ、私ほんとに喜んでいます、なつかしい大好きな味なんです、」
幸せな声が告げてくる、あのころのまま君の言葉。
『大好きよ、大介!』
みかん香る、あまい清らかな酸味、涼やかな艶。
オレンジ色あざやかに透けるひとつの菓子、それから薄紅やさしいワンピース。
もう遠い遠い幸せなとき、あのころのまま薄紅やわらかにまとう女性へ笑いかけた。
「私も大好きな味です。メニューは師匠から教えられた通りのフランス語で載せていますが、今の時季だけミカンで作るんですよ?」
大好きだ、今も。
『大介がつくるとね、ほっぺこぼれそうよ?』
大好きで忘れられない、だから今も作り続けて皿に載せる。
隔てられた過去のまま。
「なるほど。彼女が言う通り、ほんとうにミカンゼリーなのだね?」
「はい、内緒ですよ?」
目の前の紳士に笑いかけて、けれど記憶もう軋む。
遠く遠く隔てられた記憶、過去。
『料理人なんかに、娘をやれるか?』
遠くなった言葉、遠い遠い幸せの終止符。
それでも忘れられなかった、忘れられないまま作り続けてきた。
いつか君を迎えに行く、ただ願いごと作り続けた一皿、その甘い香にメゾソプラノが告げた。
「私、ほんとうに大好きです、涼しいお菓子なのに温かくなれるの、」
あの日と同じ言葉が微笑む、その口もと黒子が青い。
もう確信するしかない現実の瞳に、そっと背すじ伸ばし笑った。
「ありがとうございます、奥様、」
奥様、それが今の君の呼び名。
あのころ隔てられて、今も変わらない壁に会釈した。
「お茶のおかわりお持ちいたします、」
笑いかけ頭下げて、君の視線ちいさく逸らす。
もう見つめあってはいけない、それが幸せたどる一筋の道。
ただ踵かえして絨毯を踏んで、扉から扉ひとつ自分の世界に開いた。
かたん、
扉を開いて厨房ざわめく、背に扉が閉じられる。
こうして隔てられていく面影に微笑んで、いつもの言葉を言った。
「1番テーブルにおかわりを、」
告げて厨房ながめて歩く、白いコックコートたち忙しい。
銀色ポット出されて馥郁ゆれて、あまやかな香くぐり勝手口ドア開けた。
さあっ…
風がゆく、あまい香ながれて落葉が香る。
裏庭ひとり枯草ふんで、いつもの庭木ことり背凭れた。
「は…、」
息をつく、肩ゆるやかに力ほどかれる。
硬くなった呼吸ゆるく吐いて、白い息に微笑んだ。
「憶えててくれたんだ…」
君は憶えていてくれた。
味も、僕のことも。
『でも私には、みかんゼリーなの、』
あのころのまま君が言った、あのころのまま薄紅色まとって。
もう遠いはずの幸せが現れてしまった、そんな足もとに微笑んだ。
「なんだ…同じ色じゃないか?」
足もと枯草落葉、けれど小さく薄紅色が咲く。
この花いつも毎年ここに見て、そのまま見つめた現実の声なぞる。
『私ほんとに喜んでいます、なつかしい大好きな味なんです、』
なつかしいと、現実に君は言った。
「なつかしいんだ…もう過去だから、」
声こぼれて軋む、過去になった現実に。
もう手をつないではいけない、もう幼い幸福は終わってしまった希望。
もう見つめあえない、もう迎えに行くこともできない、それでも護られる。
『ほんとうに大好きです、涼しいお菓子なのに温かくなれるの、』
それでも護られる、この手に温めるひと口で。
三角草:ミスミソウ、花言葉「自信・忍耐・悲痛、優雅、高貴、少年時代の希望」
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