萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第35話 曙光act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-03-12 23:54:33 | 陽はまた昇るside story
この想いに赦しを、




第35話 曙光act.5―side story「陽はまた昇る」

クライマー任官の書類を国村に教わりながら英二は書あげた。
思ったより読み込む箇所も多くて手間取ってしまった、けれど国村は愉しげにつきあってくれた。
なんとか書きあげた書類を国村にお願いすると、その間に英二は急いで風呂を済ませた。

この後は近くのビジネスホテルに泊まっている周太の元へ行く。
ほんとうは湯冷めしないようにホテルの浴室を使う方が良いのだろう。
けれど青梅署からホテルまで数分の距離のこと、走って行けば湯冷めもしない。
なにより今の自分には周太の肌の気配が残る場所を使うことは憚られてしまう。
ほんとうは自分は、周太を抱きしめたくて仕方ないから。

さっき青梅線で一緒に帰ってくるとき、周太に願われるままキスをした。
あのキスがあんまり幸せで、もっと近づいてふれたら幸せになれるのにと想ってしまった。
そんな自分だから本当は、急な外泊申請は出来ないからと泊まる事は断ろうと思った。
けれど、断れなかった。

―今夜、自制心へのチャレンジになるのかな、俺?

脱衣所で湯上りの肌にシャツを羽織りながら、そんな想いに英二はため息を吐いた。
もう少し自分に胸張りたくて抑え込んだ「未練」が今ため息となってしまう。
こんなふうに本音の自分は周太を求めたくて仕方ない。

自分は周太の恋人としての資格を失った。
そう納得して、ただ傍にいるだけでも幸せだと心から想っている。
それでも、さっきのキスが幸せすぎて、未練が嬉しそうに目を覚ましてしまった。
けれど、せめてもう少しだけ自分は自制心の強い誠実な男になりたい。

どうか今夜の自分が誠実であれますように。
そんな願いのなか身支度を済ませて英二は国村の部屋に戻った。

「お帰り、み・や・た。いつもながら艶っぽい風呂上がりだね。今日はまた表情がさ、悩ましげでイイよ」

こんなこと言いながらも国村は、細かく書類チェックしてくれていた。
これでOKと風呂上りの英二に書類を戻しながら、透明なテノールの声が微笑んだ。

「さあ、宮田?これで俺たち、公認の仲だね?よろしくね。俺だけの、唯一人のパートナー」
「こっちこそ、よろしくな。今度の夏には8,000m峰、いけるように頑張るよ」
「そりゃ嬉しいね。俺も8,000m峰は、まだ1座しか登っていないからさ?一緒に初体験しようね、み・や・た」

底抜けに明るい目が心底楽しげに笑って、白い指が英二の額をうれしげに小突いた。
小突かれた額に笑いながら英二は、ふと国村が携帯電話を開いている事に気がついた。
どうやら国村は英二を待ちながら電話していたらしい、書類を書くことに集中して英二は気づいていなかった。
誰と電話していたのだろう?なにげなく携帯電話を見た英二に細い目が悪戯っ子に笑んだ。

「周太にね、ラヴコールしていたんだよ?明日のデートの約束しようって思ってさ」
「俺、まだ、周太が来てるって言っていないよな?」

どうして周太が来ていると知っているのだろう?
不思議に首傾げた英二に国村は種明かしをしてくれた。

「外泊許可書が見えたんだよね、受領されたばかりで、しかも今日外泊日のさ。
こんな時間になってから、おまえが当日の許可書もらうなんてね、周太以外の理由が他にあるわけ?」

言われてみれば全くその通りだ。
どのみち自分から言おうと思っていた、けれど国村の気持ちを想うと心が軋んでくる。
ほんとうは国村だって周太とふたりで過ごしたい、そう考える事くらい自分には解ってしまう。
けれど周太は「英二と一緒にいたい」と言ってくれた。
どうせ自分はありのまましか言えやしない、正直に英二は口を開いた。

「うん、その通りだよ?周太、今夜は俺と一緒にいたいから奥多摩に連れて行って、って言ってくれたんだ。
だから俺はね、周太の願いどおりに、今から周太と一緒に時間を過ごしてくる。でも恋人としてじゃない、だから許してほしい」

自分は周太の恋人には、もう相応しくない。
やってはいけない罪を犯した自分は、もう望んではいけない。
それでも周太が望んでくれるなら、今夜は傍にいたい。見つめるだけで良いから傍にいたい。
素直な想いを英二は国村に告げた。

「もう俺は、周太の恋人に相応しくない。って解ってる、でも、今夜は行かせて欲しい。…手出し、しないから」

透明に明るい目がゆっくり瞬いて英二を見つめた。
見つめながら確かめるようテノールの声が尋ねてくる。

「夜を一室で過ごす、けど、手出しはしないのか?」
「うん、しない。俺には、そんな資格ないから」
「ふうん、資格、ね?」
「そうだよ?俺はね、周太の大切な人達に誓って約束した。それをね、自分で破ったんだ、俺…周太を犯した瞬間に、ね」

なにがあっても周太を守り抜く。
そう自分は周太の父に誓い続けてきた。それは周太の母の切ない祈りでもある。
そして婚約を申し込んだ墓参でも、周太の祖父たちに自分は守ることを誓った。
あんなに誓って約束をし続けてきた、それなのに自分は一瞬ですべてを壊した。

あの威嚇発砲の後に見た周太と国村の不思議な繋がりに、嫉妬して焦って周太を強姦した。
いろんな言い訳を自分にして正当化して、独占欲と快楽への欲望を抑えなかった、自分の鈍感さを盾にした。
そして自分はすべての信頼を裏切った。
周太の深い愛情に育った信頼を裏切った、周太の母が抱く美しい切ない祈りを裏切った。周太の父の遺志さえ裏切った。
そして周太を14年間ずっと待ち続けた国村の、純粋無垢な恋と愛と哀しみすべて自分は踏み躙ってしまった。

「そして、その瞬間はさ、国村?お前のこともね、俺は裏切った。そうだろ?」

唯一人のアンザイレンパートナーと信じてくれる大切な友人まで自分は裏切った。
この罪は重罪。それなのに国村は赦して笑って傍にいてくれる、この借りは大きい。
この贖罪はどうしたら出来るのだろう?痛切と見つめた秀麗な顔は、すこし笑ってくれた。

「ふん、…俺が宮田を信頼して周太を任せていた、そのことを気付いて言っている、ってワケ?」
「そうだよ。俺、おまえが信頼してくれる程にはね、もう…周太の近くにいる資格も無いだろ?だから、恋人じゃない」

この沢山の罪に気づくこと、それすら自分は国村に言われるまで出来なかった。
こんな自分が許せない、他の人間がやったら殺すほどに憎い罪を自分が犯してしまった。
こんな自分の一番の罰は「周太から離れること」
けれど、それだけは自分には出来ない。どんなに卑怯と言われても自分は離れられない。
ただ守っていたい、見つめていたい、もう恋人じゃなくても良いから傍にいたい。
だから周太の父と母の約束を理由にして、ずっと保護者でいようと覚悟した。

「もう恋人じゃない、俺は。婚約も今は立場だけだよ。周太を守るために必要な立場だから、そのままにしてる…でも、」

ただ約束の為に傍にいる、この言葉がどんなに立派に聞こえても、本音はただ自分が傍にいたいだけ。
そんなこと自分が一番知っている、約束を利用して自分は正当化して周太を手放さない。
こんな自分は卑怯だと解っている、そのまま素直に英二は口を開いた。

「でも、本当は。俺はただ周太と一緒にいたいだけなんだ。
約束と立場を利用して保護者に成って、周太の隣にいる。こんな俺は卑怯だよ。
なのにね、周太…今夜は一緒にいたいって、俺にお願いしてくれたんだ…だから国村、今夜を俺に、許してくれ」

ひとつ英二は呼吸した。
底抜けに明るい目が真直ぐ自分を見てくれている、その純粋無垢な目に英二は願った。

「こんな俺なのに、周太、キスして、って言って…俺からのキスにね、幸せそうに笑ってくれたんだ。
あの幸せな笑顔を俺、見ていたい…今夜ずっと、周太を見ていたい、傍にいたい。だから…国村、俺に、今夜を許してほしい」

想いと一緒に涙がひとつ頬こぼれて伝っていく。
こんなふうに自分は懇願してでも、周太との時間がほしくてしょうがない。
こんな自分は本当に馬鹿だと思う、こんなに願うほど大切だというのなら、なぜ正しく大切に出来なかったのだろう?
こんな自分にも今夜一夜の時は与えてもらえるのだろうか?
そんな願いと想いと見つめる透明なテノールの声が、やわらかく微笑んだ。

「なに言ってんのさ?おまえ、本当はさ、わかってんだろ?」

底抜けに明るい目が温かに笑んで英二を見つめてくれる。
ばかだねと笑いながらテノールの声が話しだした。

「生真面目で純粋だよ、周太は。そう簡単に『キスして』なんて言わない。
俺なんかね、一度も言って貰ったことないよ?悔しいけどね。そんな周太が『キスして、今夜は一緒にいて』なんてさ?
どういう意味かくらい、とっくに解っているんだろ?ま、あとはね、おまえが周太の気持ちに、応えたいのかどうかだよ」

どう応えたいか、解ってるんだろ?
そんなふうに細い目が可笑しそうに笑ってくれる。笑いながら透明なテノールの声が言ってくれた。

「おまえと周太がね、幸せに抱きあうのならそれでいい。存分に幸せな時間と想いを重ねな?
で、ふたり幸せなイイ顔になってね、艶っぽくなってくれたら嬉しいね。俺に眼福を愉しませろよ、このエロオヤジを満足させな?」

ストレートな言い方が裏表なくて嬉しい、英二は微笑んだ。
そんな英二に底抜けに明るい目を優しく笑ませて国村は気楽に宣戦布告をした。

「でも、宮田?今夜は周太がお前を望んだからって、安心するなよ?
昨夜おまえ言ったろ?周太は自由だって。遠慮せずに、周太が望んで俺も望むんだったら、幸せに抱いてやってほしい。
その言葉に素直にね、俺は好きにさせて貰う。俺だってね、周太と心も体も繋げてみたいんだよ。だから、俺は遠慮しない」

真直ぐに純粋無垢な目が英二を見つめてくる。
おまえと俺は対等だよ?そう言いながら誇らかな視線で明るくテノールの声が宣言した。

「もし周太が俺に惚れてくれたらね、そのときは遠慮なく周太を戴くよ。
なんといっても初恋相手の俺だ、しかも俺はイイ男だろ?そして本気だ。おまえも頑張んないとね、俺に周太を奪還されるよ?」

堂々と明るい誇り高らかな「奪還」宣言を国村はしてくれた。
この「奪還」に籠められた想いが解ってしまう、ほんとうは英二が簒奪者だと自分で知っているから。
喩え知らなかったとしても、14年間ずっと信じて待ち続けた国村の初恋を英二は横から浚って奪ってしまった。
それでも国村は14年を超えて周太に初恋を蘇らせた、そして英二の言葉に遠慮の枠をすべて外して自由に恋すると言っている。
こんなふうに正々堂々と競うなら楽しいだろうな?こんな率直な友達が嬉しくて英二は微笑んだ。

「うん、解かった。俺もね、頑張るよ?周太の傍にいたいからさ、少しでもまた好きになって貰えるよう、今夜は努力してくる」
「そうだよ、努力しな?この俺を相手にしてさ、油断している暇なんかないね」

からり底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そして心底から楽しげに透明なテノールの声が微笑んだ。

「で、み・や・た?これから俺はね、周太をデートに誘うとこなんだ。この誘惑の電話を邪魔するんじゃないよ、さっさと行きな?」

ほら、さっさと行けよ?そんなふうに手の甲を向けてふってくれる。
そして携帯電話を耳元へ当て直すと、楽しげにテノールの声が透った。

「お待たせ、周太。いま終わって、あいつ、俺の部屋から出たからね。10分後位には、君の隣に座っているはずだよ」

俺を嘘つきにするんじゃないよ?からり細い目が笑って、白い指が扉を指し示してくれる。
こんな恋敵のシーンですら国村は「遠慮するな、お互いに本気でやり合おうよ?」と明るい男気が潔く温かい。
こんな友人の男倫理が自分は大好きだ、「ありがとう」と微笑んで英二は国村の部屋の扉を開いた。



青梅署を出て歩きながらクライマーウォッチを見ると22時を10分ほど過ぎていた。
夜半を迎える静謐が町に静まりはじめている、足早に歩きだす頬ふれる風も凍る冬の夜を含んで冷たい。
見上げた空は深い紫紺に澄んでいた。あざやかに透明な夜空には星が銀色に冴えていく。
きっと明くる朝は美しい空だろう、きれいな曙を周太に見せてあげられるかもしれない。
美しい朝の空と光の彩に、きっと周太は喜んで幸せな笑顔を見せてくれる。
そのためにも今夜、自分は絶対に周太を哀しませるような事は出来ない。

―きちんと、自分の自制心が頑張れますように、

心に祈りながら白シャツ越しに合鍵に触れて、ふっと英二は苦笑した。
この合鍵は周太の父の合鍵だった、自分の息子への自制を祈られて彼はどんな顔しただろう?
こんなふうに今の自分は、何にでも祈ってすがりたい気持ちになっている。
だってきっと、と自分で思う。
きっと今夜、周太の笑顔を守る為には最大の敵が英二自身だから。

周太は「抱きしめて、」と言ってくれた。
けれどそれは父の懐に甘えたい想いかもしれない、この確信の方がずっと今は強い。
だから自制心でコントロールしなければ、自分はまた判断ミスをして周太を傷つけてしまう。
それが怖い、だから今夜の自分の敵は自分自身になる。

周太は本質的に繊細で優しくて、そのぶんだけ想いが深い。
そんな周太は唯ひとりの子供として両親と深く愛しあって育った、それだけに周太親子は深い絆を持っている。
この親子を繋ぐ絆は温もりに充ちて優しい。この絆を見つめる時間が積算されるなか、英二も深い想いを抱き始めた。
英二自身が周太の母を大切に想い、周太の父を敬愛するようになった。
こんなふうに英二にまで影響を与えるくらい、周太の愛情は深く繊細で優しい温もり充ちている。

そんな周太だからこそ父を亡くした後も諦められず見つめ続けたくて、父の軌跡を追う道を選んだ。
その道が困難と危険に満ちていると知っても逃げないのは、父への愛情が深いからこその選択になっている。
さっきも周太は父を慕って「銀河鉄道の夜」の記憶を英二に話してくれた。
そんなふうに周太は取り戻した父の記憶に向き合い、真直ぐ父を愛し慕っている。

そんな周太は愛する父の面影を英二の笑顔に見つめている時がある。
確かに最近の英二は、後藤副隊長や武蔵野署の安本など周太の父を知る人に似ていると言われる。
ふとした折に哀しみと微笑んだ顔が似ているらしい、言われた最初は自分ではよく解らなかった。
けれど偶然その顔が部屋の窓に映った時に見た。その自分の顔は、あの書斎机に佇む写真の笑顔とどこか似ていた。
だから今夜の周太は父を求めて英二と一緒にいたいのかもしれない。

さっき青梅線の車窓に哀しい記憶を話す周太が切なくて、今夜は奥多摩鉄道の夜だと英二は周太に話した。
きっと周太と一緒に父も奥多摩に帰るこの電車に乗って今夜を旅している。
そんなふうに感じるままを英二は話し、聴いた周太は心から幸せそうに笑ってくれた。
あの奥多摩鉄道のまま今夜と明日の周太を過ごさせてあげられたら?
そうしたら、もっと幸せな笑顔を周太は見せてくれるだろうか?

そんなふうに考えながら歩くうち、気が付いたら英二はホテルのエントランスを潜っていた。
さっき周太のチェックインの時に話しておいたから、すぐ手続きは終わってしまう。
そうしてエントランス通過の3分後には一室の扉を鍵が開いた。

開かれていく扉の向こうから、ルームライトの温かい光が廊下に射していく。
この光が照らす空間に今夜、愛する人とふたりの時を過ごす。
そんな想いに鼓動ひとつ、鼓膜の底に響いた。

「…緊張してる?俺、」

こんな自分への問いかけがひとり言に零れた。
こんな緊張を英二がすることは周太に出逢うまでなかった。
だから英二のこんな緊張は。周太がいつも「初めて」を独り占めしている。
初めて周太の前髪をかきあげた時、指先はふるえた。
初めて周太にキスした時は早い鼓動を聴きながら唇を重ねた。
そしていま扉を開く、それだけの動作に自分の鼓動が早くなる、ドアノブを掴む手が冷たい。

「…ん、末端の血流不足。心拍数、鎮まらないな?」

ファーストエイドの判断を自分にして英二は苦笑した。
まだ扉を開いただけ。それだけで自分は心が乱れて自身に救急法を施している。
今夜ほんとうに自分の自制心は大丈夫だろうか?ちょっと途方に暮れながら英二は扉の内側に入った。
ぱたんと閉まる扉を背に聞きながら眺めた部屋には、周太の姿は見えない。
けれど浴室から水音が聞こえてくる、いま周太は浴室にいるのだろう。

「周太、風呂に入っているのか。…っ、」

なにげなく言った独り言。
けれど「風呂」と思った途端に英二の首筋が熱くなってきた。
いま風呂に入っているのなら、あの扉の向こうには湯に熱る周太の肌がある。
湯気にけぶる肌の艶が脳裏に再生されて、鼓動が心をひっぱたいた。

「ちょっ…不意打ち?」

そして今に湯上がりの周太があの扉から現れる?
湯上りの周太の肌はあわい紅潮に艶めいて、いつも誘われてしまう。
そんな姿を今の自分が見ても自制心は耐えてくれるだろうか?

「…いきなり、試練なんて。酷いよ?周太…」

思わず責めてしまう想いが零れて英二はため息を吐いた。
ほっと息吐いて浴室の扉に背を向けると、サイドテーブルが視界に入る。
そのテーブルに置かれた、青い布張表装の立派な学術書が目に映りこんだ。

「周太、これ読んで待っててくれたんだ、」

いつものラーメン屋で食事した時、樹医から周太が贈られた青い本。
この本の贈り主と周太は12月に勤務中の交番で出会った、あのとき周太は樹医という職業への憧れを話してくれた。
あの樹医とのラーメン屋での再会に周太は心から嬉しそうに笑って、幸せそうに贈られた本を抱きしめていた。
幼い日に憧れた樹医「植物の魔法使い」が書いた本を樹医自身から贈られた、それは周太にとって夢叶った瞬間だったろう。
きっと今も一生懸命に読んでいたのだろうな?そんな想いと青い表紙を見つめていると、背後で扉が開く音がした。

湯上りの周太だったらどうしよう?

そんな心配が心を打った自分に心裡に笑ってしまった。
もうここまで来たら肚を括って我慢大会するしかないのに?
もし湯上りで艶っぽかったとしても逃げるわけにいかない、一緒にいると約束したのだから。
ほっと呼吸して英二はすこしだけ心を治めて微笑んだ。

「お帰りなさい、英二…」

大好きなゆるやかなトーンの声が、すこしだけ緊張して背に響いた。
今から自分は「保護者」温かな想いでいればいい、ゆっくり呼吸1つしながら英二は振向いた。
振向いた先には白いシャツ姿の周太が佇んで、気恥ずかしげに微笑んでいる。
さっぱりした顔だけれど湯上りではない風情に英二は安堵しながら笑いかけた。

「ただいま、周太、」
「ん、」

うれしそうに笑って周太はマグカップをカウンターに置いた。
さっきの水音はこれを洗っていたのだろう、自分の勘違いが可笑しくて英二は微笑んだ。
けれど水音だけであんな妄想をしてしまう自分が自分で信用できにくい。
ちょっと自分自身に困るなと思っていると周太が隣に立って微笑んだ。

「…英二、ただいま、」

言って、ポンと英二に周太が抱きついた。
緊張に一瞬つまった息の懐に、やわらかな黒髪がふれて石鹸の香がくすぐってくる。
背中にしがみつく掌からシャツ越しに伝わってくる温もりが優しい。
ふれる肩を覆って、背中ごとだきしめる小柄な体の体温と鼓動が穏やかだった。
やわらかに微笑んで周太が英二を見あげてくれる。
この笑顔にいま自分が贈るべき言葉は?見上げる瞳に英二はきれいに笑いかけた。

「お帰りなさい、周太、」
「ん、ただいま、英二」

もう一度くりかえして周太は幸せに笑ってくれる。
こんな笑顔を見せてもらえるなら、今夜の自分は何でも出来るだろう。
こんな笑顔を見つめて今夜が過ごせたらいい、微笑んで英二はもう一度抱きしめてから腕をほどいた。

「お帰り、周太。ちょっとジャケット脱いでもいいかな?」
「ん、」

素直に頷いてくれる笑顔を見ながら英二はミリタリージャケットを脱いだ。
ジャケットの下は、いつもの白いシャツにカーディガンを羽織ってきた。
そんな部屋着姿の英二を周太が不思議そうに見ている。
風呂を済ませてきたのかな?そんな視線の周太に英二は微笑んだ。

「さっきね、国村に書類チェックして貰っていただろ?あの間にね、急いで済ませてきたんだ」
「そうなの?…でも、15分も無かったよ、ね?」
「うん、もう全速力だったから、」

本音を言えば、早く逢いたくて急いでしまった。
こんなに自分は本当は逢いたくて、縋ってしまいたいと思っている。
けれど自分の罪と罰を思えば、縋ることなど赦されやしない。
周太に笑いかけながらジャケットをハンガーにかけると、英二はコーヒーのセットを始めた。
熱い飲み物で心をすこし落ち着けたい。そんな想いで動かす掌に、そっと温かな掌が重ねられた。

「待って、英二…あの、俺が淹れるから、」

やさしい声がすぐ傍から言ってくれる。
重なりふれる掌の体温に心が捕われて身動きが取れない、鼓動がまた耳を打つ。
つまりそうな息の狭間から、それでも英二は微笑んだ。

「大丈夫だよ、周太?今日は当番明けで講習もあったから、疲れているだろ?」
「ううん、俺が淹れる…」

周太の掌が英二の手元からカップとコーヒーフィルタを取り上げていく。
なす術もなく手を引っ込めた英二に周太が微笑んでくれた。

「だって、約束でしょ?俺がね、一生ずっと、英二にコーヒーを淹れる、って…だから、」

話しながら周太の手元はコーヒーをセットしていく。
ゆっくり注いでいく湯を見つめている周太の首筋が、きれいな紅に染めあげられるのが目に映る。
きれいだと心にため息が零れていくのを見つめながら、英二は周太の手元を見つめた。
見つめながら周太が言った「約束、一生ずっと」が心をリフレインしていく。

周太、一生ずっと、淹れてくれるつもりなの?

そう訊きたくて仕方ない、けれど言葉も唇も竦んで動けない。
なんだか今夜は調子が狂いっぱなしの自分がいる、どこか前と違う周太に途惑う自分がいる。
そして今夜は鼓動の調子すら意志に従わない、目の前の言動ひとつずつに見惚れ惑って「欲しい」と鼓動が狂っていく。
卒配後はいつも「冷静で真面目、ストイック」と言われる自分、なのに今は冷静もストイックも役立たず。
ただ竦んで見惚れている英二に、温かなマグカップを持って周太が微笑んだ。

「あの、お待たせ…」

熱い香りに充ちたマグカップを渡して、黒目がちの瞳が見あげてくれる。
この瞳は今、自分の存在をどんなふうに認識してくれているのだろう?
父、兄、保護者、友達。それとも「友達の憧れの人」美代の想い人として見ている?
周太の本心はどこにあるのだろう?こうして廻ってしまう想いが時に痛くて哀しい。
それでも微笑んでマグカップを受けとった英二に、周太は嬉しそうに笑いかけてくれる。

「熱いから、気をつけて、ね」
「うん、ありがとう、周太」

黒目がちの瞳に微笑んで英二はサイドテーブルにマグカップを置いた。
ソファに座ってマグカップに口付けると、ゆるやかな芳香が温かい。
やっぱり自分は周太が淹れたコーヒーが一番うれしい、素直な想いに英二は微笑んだ。

「旨い。周太が淹れてくれたコーヒーがね、いちばん旨いね?」
「…よかった、ありがとう、英二」

英二の言葉に心から嬉しそうに周太は微笑んだ。
その微笑みの気配がふわり近づいて、ごく自然に周太は英二の隣に座ってくれた。
その座る位置が近い、ほとんど英二の体に添うほどに近い、その近さに心が一瞬で竦んだ。
思いがけない距離の近さに肩がふれる、ふれる温もりの気配に響いた鼓動を英二はコーヒーで飲み下した。
けれど近いままの肩ふれる温もりに、想い竦んで少しも動けない。

前は、近くに来てくれたら単純に嬉しかった。
嬉しいままに抱きしめれば良かった、キスすればよかった。
けれど今はもうその資格は自分にない。
そんな「資格が無い」という理屈以上の「何か」が自分の自由すべて奪っていく。
何なのか解らない、ただ周太の気配全てに緊縛されて体も心も竦んでしまう。

この鼓動の高鳴りは何だろう?
どこかじわり熱い首筋の、この熱はどこから来る?

途惑い、不安と哀しみ、胸の高鳴り。
どれもが自分には初めてで、あの卒業式の夜と違う束縛感が全身を覆っていく。
だっていま自分は周太の瞳を見つめる事すら、緊張感と首筋の熱に支配される。
この熱に浮かされたような感覚はなんだろう?
自分の気持ちを追いかけながらコーヒーを啜る英二に、静かな声が聞こえた。

「…美代さんはね、英二の真面目なところが好き、って、教えてくれたよ?」

マグカップを持つ英二の手がとまった。
きっと、今から周太は「なぜ美代と英二を会わせたのか?」を話そうとしている。
この話をするために周太は、今夜一緒にいたいと言ったのだろうか?この「なぜ」を聴かせるために。
もし美代と一緒にいてと言われたら、周太から離れろと言われたら、自分はどうしていいのか解らない。
この今から周太が話す「なぜ」を聴くことが怖い、別れを宣告される不安の気配が怖い。
こんなに恐怖を覚える位なら、なぜ自分は周太に罪を犯す前に気づけなかったのだろう?

マグカップ持つ手が微かに震えて、しずかに英二はテーブルへとカップを置いた。
ふるえる手を組み合わせると膝に置いて、じっと英二はマグカップを見つめた。
別れを宣告されたら?この不安と恐怖に心崩れそうで、いま周太の顔を見ることすら出来ない。
ただ別れの恐怖にふるえる英二の横顔に、静かに周太は話してくれた。

「国村を必ず連れて帰ってくる、そう英二が約束したのが、美代さんは嬉しかったんだ。
そしてね、本当に英二は国村を連れて帰って来た…美代さんはね、雪崩があったことも気がついているんだ」

名前を呼んで、黒目がちの瞳が英二をそっと覗きこんだ。
キスできるほど近くから周太が見つめてくれる、この近さに心がまた軋む。
このままキスで言葉を奪ってしまいたい、けれど今ここで逃げたら自分は一生後悔する。
ただ見つめ返しながら英二は、周太の唇を見つめて言葉を聴いた。

「本当に危険なときでも、約束を守ってくれた英二をね、美代さんは好きになってくれたんだよ…
ね、英二…?美代さんはね、英二の心を真直ぐ見つめて、好きになってくれたんだ。だから俺はね、うれしかったんだ…」

約束を守ったから、好きになってくれた?
心を真直ぐ見つめて、好きになってくれた?

自分の心と想いに美代は想いをむけてくれた、そう周太は言っている。
この「外見」ではなく真直ぐ「心」を見つめ惹かれた人がいる、心を、真実の自分を恋しようという人がいてくれる。
そんな人は周太だけだと思っていた、他では「外見だけ用あり」で会えなければ「不用品」と言われ捨てられたから。
けれど美代は互いに忙しい日常で会った回数も限られる、それでも英二の心を見つめ恋しようと言ってくれている。

ほんとうに心を認めて向き合って自分に恋してくれるひとが居る?
それが本当なら嬉しい、そんな自分の喜びを周太はわかってくれている?
こんな美代の想いは嬉しい、けれど、それ以上に周太が解かって「うれしい」と言ってくれる事が嬉しい。
そんな想いの中心で、優しい瞳は英二の目を見つめて率直に想いを教えてくれた。

「英二の心に恋してくれる人がね、うれしかった。
俺が、大切にしている英二の心をね、素敵だって、好きになって貰えたことがね、うれしかったんだ。
だから英二に知ってほしかったんだ。英二の心をね、愛するひとが俺以外にもいる、そう知ってね、英二に笑ってほしかった…」

英二の「心」を認められたい想いを、周太が理解してくれた。
この「心」が抱く寂しさを、周太は美代の想いを伝えて励まそうとしてくれる。
こんなにも周太は深い理解をしてくれる、この繊細な優しさが嬉しくて幸せな想いが甦ってしまう。
そして、こんなに理解するほど見つめてくれるなら、それならば「愛されている」のかと期待したくなる。

周太は英二を邪魔にしたわけじゃない?
ただ英二の心を好きになった人がいると教えたいだけ?
この期待通りほんとうに、周太が自分を見つめて愛して、恋人と想ってくれているなら良いのに?

ゆるやかな安堵と期待がこみあげてくる。
こみあげる想い治めるよう英二は1つゆっくり瞬いて周太を見つめた。
この安堵と期待を確かめたい、黒目がちの瞳を真直ぐ見つめて英二は静かに想いを声にした。

「俺はね、周太…俺が、邪魔になったから、だから…美代さんの気持ちを知っていて、デートさせたのかな、って思ったんだ」

どうかこれは「違う」と言ってほしい。
そう見つめた先で黒目がちの瞳が「違うよ?」と告げながら周太は言ってくれた。

「俺はね、子供を産めない…だから、美代さんに気後れしたのは、ほんとう。
でも英二を邪魔になんて出来ない、だってね、…俺、本当は、いっぱい泣いたんだ。
自分でね、美代さんにも、英二にも、デートするように勧めたくせにね…落ち込んで、拗ねて…みっともなかった、よ?」

恥ずかしげに話してくれる首筋が、きれいに赤くなっていく。
見つめる先で頬も赤くなっている、こんな顔で告げてくれること全て真実なら幸せだ。
赤くなる周太を見つめて英二は訊いてみた。

「拗ねて、みっともない位に、泣いてくれた?周太、」
「ん、…ほんとうにね、…みっともないよ?泣き虫で、弱くて、ずるいんだ、俺は…ごめんね?」

真赤になりながらも周太は素直に話してくれる。
英二の為に周太は、泣き虫で弱くて、ずるくなってくれた?
こんなに本音をさらけ出してくれて、うれしい。正直な周太の本音に呼吸が楽になる。
だってこの本音は言ってくれている「美代の元へ行かないで?」とねだってくれている。
おねだりに期待したくなる、独り占めしたいほど周太が英二を求める感情が恋愛ならいいのに?
本当にそうなら良いのにと、気恥ずかしげな微笑に祈りながら英二はきれいに笑いかけた。

「泣き虫で、弱くて、ずるい周太。可愛いよ?…ほんとうにね、守ってあげたくなる…周太、」

ふるえ治まった腕でそっと小柄な肩を背中を抱きしめる。
こうして抱きしめたなら、すこしでも恋して愛してくれる?
そんな縋りつく想いを、シャツを透かして伝わる体温が幸せな温もりで癒してくれる。
いま抱きしめている想いと喜びの中から見上げて周太が微笑んでくれた。

「ほんとう?英二、こんな俺が…可愛いの?」
「うん、ほんとうにね、可愛い。大好きで、離せなくなって…」

本当に可愛い、そして離せない。
このまま離したくない、ずっと腕に閉じ込めてしまいたい。
そんな独占欲にまた掴まえられかけて、英二は少し腕の力をゆるめた。

「…困るよ、周太?」

すこし腕の力をゆるめながら英二は微笑んで、周太の瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ黒目がちの瞳は見つめ返してくれながら、おだやかに周太は訊いてくれた。

「ん、…離せなくなって、英二?傍にいてほしい…でも、英二は、困るの?」
「うん、…困るよ、俺。でも、傍にいるよ?安心して、周太」

ほんとうに困ってしまうから。
また自分は独占欲のまま周太を傷つけたら困るから。
なにより今の立場「保護者」のままこれ以上、周太に惹かれたら困ってしまう。
ほんとうはもう保護者だけじゃなくて恋人になってしまいたい、けれど、周太の想いの居場所がまだ解らない。
いま縋りたい想いを打ち消すように英二は、見上げてくれる周太の額に優しいキスをした。

「さ、周太?そろそろ眠らないとね、昨夜は当番勤務で、ほとんど寝てないだろ?」
「あ、…ん、そう、だけど…」

途惑ったように周太は英二を見つめてくれる。
どうして途惑うのだろう?そんな周太を温かな想いと共に英二は見つめた。
見つめる先また赤くなる周太に、何か心配になってしまう。けれど英二はおどけたように訊いてみた。

「ね、周太?ベッドまで、お姫さま抱っこする?」

言った途端に周太は気恥ずかげに俯きかけていく。
きっと照れて「抱っこはいらない」と言うだろうな?そう言う時の気恥ずかしげな周太も見ていたい。
気恥ずかしがって首筋も頬も染めあげて、はにかんで困った顔をする、あの初々しい姿が見たい。
もう周太の顔は赤くなって含羞が染めあげていく、きっともうじき「いらない」と言うだろう。
いつもどおりの予想に微笑みかけると、小さく周太が頷いた。

「ん。」

けれど周太は「いらないと」言わなかった。
今日の周太は少し笑って、はにかみながらも迷わず腕を英二の首へと回した。

「抱っこして…」

今日の周太も真赤になった、けれど「いらない」と言わなかった。
はにかむ笑顔の温かな腕で英二の首を抱きしめて「抱っこして」とねだった。

こんなの、予想外だ

抱きしめられた首筋が熱くなっていく。
こんなふうに自分は気恥ずかしがっている?
こんなふうに赤くなる自分に途惑う、いったい自分は本当にどうしてしまったのだろう?
首筋と心を昇っていく初めての感覚と、ふれる周太の感触に英二は途方に暮れた。
けれど嬉しそうに周太は、ぎゅっと英二の首に抱きついて微笑んだ。

「ね、英二?はやく抱っこして?…つれていって?」

抱きついてくれる周太の首筋が赤い。
綺麗な色だなと見つめていると、なめらかな頬の感触が首筋にふれた。
こんなに抱きしめられ頬寄せられたら、もう観念して言うこと聴くしかない。
元はと言えば自分が言い出した癖に途方にくれる自分も可笑しい、そっと英二は周太を抱き上げた。

「…うん、…周太、つれてくよ?」

抱き上げた周太の額にかるく額でふれる。
ふれあう額と絡み合う髪の感触に、おだやかで爽やかな周太の髪の香がくゆっていく。
いま間近い顔が愛しくて英二は静かに笑いかけた。
けれど見つめてくれる瞳と表情に、また心が望みを期待して軋んで苦しい。
そんな顔しないでほしいな?困ったように微笑んで英二は囁くようつぶやいた。

「…そんな顔で、俺のこと見つめないで?周太…困るから、」

そんなに自分は困らせているの?
そんな質問を瞳に湛えて、不思議そうに周太は訊いてくれた。

「どうして、困るの?」
「どうしても、だよ?周太、」

微笑んで英二は周太をベッドにおろした。
ブランケットを捲って白いシーツの上に周太を抱え移してブランケットで包みこむ。
やわらかな枕に髪をこぼしながら見上げてくれる瞳が愛しい、この瞳を曇らせたくはない。
やわらかな前髪を長い指でかきあげて、やさしいキスで額にふれると英二は微笑んだ。

「おやすみ、周太、」

愛する想いに微笑んで英二はソファの前へと戻った。
このソファはサイドベッドに出来る造りになっている、今夜はここで自分は寝ればいい。
ベッドが1つだけの部屋じゃなくて良かった、ちいさな安堵に微笑んで英二はサイドベッドを作り始めた。
いまもう既に、ふとした周太の表情に言葉に、心はゆらいで止まらない。
いま一緒のベッドで寝て自制心が保てる自信なんか欠片もない、だから離れて寝たい。
いま無心に心抑えながら、さっさと手を動かしていると背後から周太が英二に問いかけた。

「どうして、英二?…どうして、そんなことしてるの?…ベッドに入ってくれないの?」

不思議そうな声に、英二の身も心も微かにふるえて動きが縛り上げられる。
いま自分はどんな顔をしているだろう?この今の表情は見せられなくて、背中向けたまま英二は微笑んだ。

「今日はね、周太も疲れてるだろ?ゆっくり休んだ方がいい、だからベッドを広く使ってほしいんだ。俺が入ったら狭いだろ?」
「婚約者は、一緒に寝るって言ったの、英二でしょ?…どうして、そんなこと言うの?」
「その時によってはね、ひとりで寝ることもあるよ?だいじょうぶだよ、周太、ここにいるから」

背中向けたまま英二は微笑んで、またサイドベッドのセッティングを始めた。
この手の動きがどこかぎこちない、今既にこんなに動揺する自分がいる。
このまま早くお互いに眠ってしまえばいい、どうか朝を無事に迎えたい。
ただ焦るような想いに手を動かしていく背中に、ふと気配が起きた。

とん、…

ベッドから周太が降りた?
気がついて止まった動きに、素足のままカーペットを踏んでいく気配が届く。
いま止められた背中の呼吸から、英二はなんとか声を押し出した。

「…周太、」
「ん、なに?…英二、」

この背中の後から素直に周太が答えてくれる。
いま背後のすぐ近くに周太が佇んでいる、緊張感が微かに背中にふるえてしまう。
いったい周太はどうするつもりなのだろう?そう思った途端、英二の背中にふたつの掌がふれた。

「…っ、」

ふれられた掌の温もりに呼吸がひとつ止まる。
掌で背中にふれられただけ、それなのに鼓動が狂い始めていく。
ただ掌が背中にシャツとニット越しふれただけで鼓動と一緒に感覚が狂いだす。
これだけで苦しくてたまらない、心と体の本音が叫び出しそうで怖い。

離れてよ、周太?

そう言えばいいだけ、なのに喉がつまって声も出ない。
ふるえが背中に這い登る、紅潮が首筋つたって脳まで支配する。
心も体もふるえる緊張になす術なく縛り上げられ動けない、こんなの苦しくて堪らない。
それなのに、背中には小柄な体温が全身で寄りかかる。

「…っ、」

背中に感じられる周太の体の輪郭と体温。
コットン2枚とニットを隔てた位では隠せない、洗練された肢体が感じられてしまう。
もどかしさが背中から這い登る、「抱きしめたい」と本音が体を動かしそうで怖い。

離れてよ、周太、ダメだよ?

言葉なんて出てこない、溜息すら縛られた呼吸に零れない。
こんなに折られそうな自制心がふるえているのに、後ろから白いシャツの腕が伸ばされる。
伸ばされた腕が胸元にまわされて、ふたつの掌がシャツの胸に重ねられる。
そうして周太に英二は背中から抱きしめられた。

離してよ、周太、怖いんだ、

口が動いても声は音を失ってしまった。
ただ狂っていく鼓動の速い心音が「緊張状態・受傷あり」と告げてくる。
こんな時でもレスキュー・モードで内心の声が判断してくる自分は仕事人間だ。
そんな仕事モードですら思ってしまう、この「受傷」は自制心に罅か打撲が入った傷。
この自制心の罅が広がりだすのが怖い、そんな恐怖から声が音を持って英二の口から出た。

「…周太、寒いから…ベッドに、入って?」
「ん、英二が一緒なら、入る…ひとりじゃ嫌」

お願い言うこと聴いてよ周太?そんな想いの背中に微笑みの気配が伝わってくる。
けれど抱きしめてくる腕に力がやわらかく入れられて「ひとりじゃ嫌だよ?」と告げてくる。
胸元の掌が白いシャツ越しに心ごと英二を抱きしめて、また鼓動が狂っていく。

ほんとうに、周太は今夜、わがままを通すつもりなんだ?

周太の意志が胸元の掌から温かに伝わってくる。
この温かな意志に心ほどかれた息が、ほっと零れて微かに楽になった。
どうしたら、この周太のわがまま宥められるかな?困りながらも英二は微笑んだ。

「ね、周太…どうして俺がね、ベッド別にしているか、解からないの?」

肩越しに微笑みかけると、黒目がちの瞳が見上げてくれる。
この自分が周太を強姦した、その恐怖が周太を追い詰めたことを今すぐ思い出してほしい。
あの恐怖と過ちをもう繰り返したくない、だから言うこと聴いてほしいよ?
そう笑いかけたのに周太は小さく首を振った。

「わからない、知らない…理由なんて知らない、…ひとりじゃ嫌、一緒にベッドに入って、英二」

こんなに聞き分けのない周太は初めて見た。
こんなに聞き分けないこと言いながら周太の首筋は赤くなっていく。
気恥ずかしそうにしながら、けれど周太は断固として自分のしたいことを英二に告げた。

「お願い、英二?一緒にベッドに入って?…抱きしめて?ひとりは嫌、」
「…周太、」

ため息が呼びかける名前と一緒に零れてしまう。
こんなの困ってしまう、いまにも自制心の罅割れが大きく裂けそうなのに?
けれど本音が喜んでいることも嘘つけない、そんな英二に周太は独特の可愛いトーンでねだった。

「英二、一緒に寝て?…そうじゃなきゃ俺、床で寝ちゃうから…お願い聴いて、あいしてるんでしょ?」

床で寝られたら、きっと風邪をひかせてしまう。
そしてこの周太の駄々っ子ぶりは気恥ずかしそうで、頑固で、可愛い。
こんな駄々のこね方する周太なんて想像していなかった、あんまり可愛くて困らされる?
こんな可愛い駄々こねて「お願い聴いて、あいしてるんでしょ?」なんて上から目線で命令して?

こんなの反則だ。

気恥ずかしげに頬赤くしながら命令して駄々っ子するなんて。
わがままに可愛らしく「お願い聴いて」なんて言われたら、参ってしまう。
こんなの反則だ、もう降参だ、今夜はもう観念して自制心の試練を受ければいい。

きっとこれこそ「罰ゲーム」だろう。
愛するひとを強姦した罪への裁可と罰が今夜、周太の手で下される。
もう周太に心も身も任せて潔く裁かれよう、どうせ自分は逆らえやしない。
ひとつの諦観に潔く微笑んで振向くと、英二は背中の駄々っ子な裁可者を抱きしめた。

「うん、お願い聴くよ?…周太のお願いにはね、絶対に俺、逆らえない…観念するよ、」

英二は周太を抱きしめたまま、笑って抱き上げた。
抱き上げて額に額でふれて「降参だよ」と笑いかけると黒目がちの瞳が嬉しそうに微笑んだ。

「ん、観念して?…俺ね、英二にはもう、わがまま言うって決めたんだ…全部、正直に言っちゃう。だから言うこと訊いて?」
「言うこと聴くよ、周太。わがままもね、可愛い、」

お手上げだ、観念するしかない、存分に裁かれればいい。
こんな可愛い駄々っ子わがままされたら敵わない、為す術なく支配されてしまう。
もう仕方ない。そんな笑いがこぼれる英二に周太は少し得意げでも気恥ずかしげに言ってくれた。

「わがまま、可愛い、でしょ?…それくらい、俺のこと、好きなんでしょ?あいしてるんでしょ?」
「そうだよ、周太。愛してるよ、…お手上げだよ、」

ほんと、お手上げ。
こんなのずるい、愛しているぶんだけ分が悪すぎる。
惚れた弱みの英二を周太は無意識に掴んで、可愛く強請ってしまう。
周太はこんな小悪魔的だったなんて知らなかった、けれど嬉しい誤算だと思えてしまう。
こんな小悪魔は気恥ずかしげに英二に微笑んだ。

「ね、英二?…こんなに俺はね、わがままで、…ほんとに、可愛いの?」

この、小悪魔。
思わず心に罵って英二は微笑んだ。
だって訊いている内容は「わがまま言うからね」という支配の宣言。
けれど訊いてくれる声は気恥ずかしげで初々しいまま可愛らしい。
困りながら微笑んで英二は答えた。

「わがまま周太、ほんと可愛い…あんまり可愛いから、困る」

ほんと困るよ?微笑んで周太を抱き上げたまま、英二も一緒にベッドへ入った。


(to be continued)

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