萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第35話 曙空act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-07 22:50:04 | 陽はまた昇るanother,side story
掌をつないで、こころ抱いて、




第35話 曙空act.2―another,side story「陽はまた昇る」


新宿駅を19時半前の電車に乗りこんだ。
扉際に立って眺める車窓は夜の底に沈みこんで黒と藍だった。
すぐ隣に立ってくれる長身の端正な横顔を見あげると、やさしい微笑を返してくれる。
こんなふうに夜の電車に乗って一緒に行けることが、周太は幸せだった。
いつもは、夜に一緒に電車に乗る時は送ってもらう時で、離れる時間の始まりになる。
けれど今夜は、連れて帰ってもらう為に一緒に夜の電車に乗っている。

…今からが一緒の、ふたりきりの時間の始まりだから、うれしい。けれど…

けれど英二は今夜ずっと一緒に居てくれるだろうか?
今回は英二に無断で周太は奥多摩へ行くことを決めてしまった、だから英二は外泊申請も出していない。
それに今夜は書類を英二は書くだろう、クライマー任官の書類は明日提出すると言っていたから。
まだ訊いていない質問への不安のまま、周太は車窓の夜を見つめていた。
夜の底を走る電車が多摩川を越える時、川面が車窓に映りこんで揺れて見えた。

…電車が夜空を駆けるみたいだ、ね…銀河鉄道みたいに、

天窓に見つめ続けていた、銀河鉄道の夜。
幼いころに読んだ哀しい話と天窓の記憶に、ちいさく周太はため息を吐いた。

「周太?なんか哀しい?」

すぐに気がついて英二が訊いてくれる。
ほら、やっぱり英二は解ってくれた。こんな理解がうれしいと改めて想える。
この離れていた1ヶ月は距離感が本当に寂しかった、だから尚更に今このひと時がうれしい。
ささやかで、けれど深い嬉しさに周太は微笑んだ。

「ん、…銀河鉄道の夜、って本があって、…哀しい本だったから」
「宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のこと?」

ふたりの少年が夜空を駆ける銀河鉄道で旅する物語。
この本を英二も同じように読んでいる?こんな「同じ」でも嬉しくて、すこし周太は微笑んで訊いてみた。

「ん、そう…英二も読んだの?」
「うん、姉に勧められて読んだよ。小学校4年生だったかな、読書感想文の推薦図書だったんだ」

小学校4年生の時に英二も読んでいた。
これは偶然なのかな?それとも何かの意味がある?ちいさく笑って周太は言った。

「ん、俺もね、きっと同じ頃に読んだんだ…父が亡くなった後で、ね」

あのころ近所でも学校でも父の殉職に対する言葉が飛び交っていた。
オリンピック代表で警視庁随一の射撃名手が拳銃射殺された、それに対する無神経な善意と好奇心と嘲笑。
どれもが父を「殉職」の二文字でしか評価しない言葉ばかり、もう聴きたくなくて誰とも話したくなかった。
だから父の蔵書を持ち歩いていた、読書中なら誰も話しかけないから。
同じ理由で学校の昼休みは図書室で本を読んだ、あの場所なら静かにする規則で誰も話しかけないから。
そうして図書室で読んだ一冊が『銀河鉄道の夜』不慮の事故に遭った少年の死出の旅路の物語だった。

「あの本を読んで…父も銀河鉄道に乗ってると思って。主人公と同じように、旅をしてるって…亡くなった人の国に行くために」

おとうさんも、銀河鉄道に乗って夜空を旅しているの?

そう思いながら読んで涙がこぼれて、頬杖ついた影に隠れて袖で瞳を拭いた。
あの日、学校が終わって家に帰ると屋根裏部屋の天窓の下にマットレスを敷いた。
そして夜になって周太はマットレスに寝んで、天窓を通した夜空を見上げ朝まで起きていた。
父の乗った銀河鉄道が天窓の向こうを通るかもしれない、そう想って見上げていた。
でも、銀河鉄道は天窓を通ってくれなかった。

「それで毎晩、あの屋根裏部屋でね、天窓を見あげて眠って。父の乗っている銀河鉄道を見たいと思って…でも、ね、」

2週間ずっと天窓を見あげて夜は眠った、けれど銀河鉄道は通らなかった。
天窓を見あげたまま疲れて眠る夢に現れる父は、銀河鉄道の席に座ってはいなかった。
検案所で面会した命が消えた姿、現実には見ていない狙撃された瞬間の姿、そんな哀しい姿ばかりだった。
いつも哀しみに叫んで目が覚めて、洗面所で吐いて泣声を押し殺して。
ほんとうは母の懐に抱きついて甘えて泣きたかった。
けれど母も父を失った苦しみに耐えていると解っていた、だから父のことで泣く姿は母に見せられなかった。
そして天窓を見あげることが苦しくなった、待ち続けても銀河鉄道が見えない現実が苦しくて哀しかった。
そうして周太は、あの大切な屋根裏部屋を記憶と一緒に封印してしまった。

「銀河鉄道が…父がね、天窓を通ってくれない。
哀しくて…それで俺、あの屋根裏部屋をね、閉じちゃったんだ。
そしてね、どうして父は通ってくれないのかな、って理由を考えて…気がついたんだ、俺は父のこと何も知らなかった、って」

どうして父の銀河鉄道は通らないのだろう?
この理由を考えた時、自分は父を何も知らないことに気がついた。
ただ父がくれる幸せしか自分は見ていなかった、父が警察官として何をしているのかも知らなかった。
何も知らない自分だから、だから自分は父の苦しみにも気づかないまま、父を救けられなかった。
父のすべてに向き合えていなかった、何も知ろうとしなかった。

「父を何も知らない、だから自分は父を救けられなかった。そう、思えて。
それで父との記憶が辛くなって…父との時間を思い出す宝物は、あの部屋にしまって…記憶ごと、部屋を閉じたんだ」

何も知らないから自分は父を救けられなかった、だから父は天窓を通らない。
そんな想いが苦しかった、もう父の面影を待ち続けることが哀しかった、だから天窓を閉じた。
この現実が、父の殉職を聴いた瞬間に砕かれた心と記憶が痛かった、だから全てをあの宝箱の部屋に封印した。

「そしてね、父がどう生きていたのか知ろうって思って。
それで俺は、警察官になろう、って決めたんだ…警察官の父のこと、何も知らなかったから。
警察官になる…それだけ考えるようになって、調べて、父の任務に気がついて…それでね、俺は独りで生きようって決めたんだ」

全てを忘れてただ、父の軌跡を辿ることだけを考えるようになっていった。
そうして13年間の冷たい孤独の時間が始まった、あの瞬間の10歳のままに心は凍結されて。
あの哀しい時間の記憶が、いま車窓に映る夜の鉄道の風景に見えてしまう。

…銀河鉄道は通らなかった、そして…

思わず俯きかけた周太の右掌をそっと英二は惹きよせてくれた。
そして綺麗な切長い目で周太の瞳を覗きこんで、きれいに微笑んでくれた。

「ね、周太?この電車はね『奥多摩鉄道の夜』だよ、」
「奥多摩鉄道、の夜?」

そんな名前の電車は無いけれど、この夜に奥多摩へ向かう雰囲気に合っている。
英二が言ってくれる「奥多摩鉄道の夜」どんな意味で英二は話してくれる?
そう見つめた先できれいな低い声が話してくれた。

「奥多摩は心のふるさとのような優しさがある。
そんなふうに後藤副隊長は言うんだよ、そして俺もね、本当にそうだなって思う。
周太の父さんは奥多摩が好きだったろ、だからね、周太?周太のお父さんの心は、奥多摩に帰ったのかもしれない」

心のふるさと、そんな奥多摩に父は帰っている?
ぽつんと周太はつぶやいた。

「お父さんの心…奥多摩に?」

「うん。お父さんは独身時代からね、奥多摩によく来ていたって後藤副隊長に聴いたんだ。
それにね、周太。川崎の家も庭は、奥多摩の森を映してあるだろ?だからお父さん、家と同じくらい奥多摩にも帰りたいかなって」

川崎の家の庭は、奥多摩を愛したという祖父が奥多摩の森を映して造らせた。その庭を父も愛していた。
本当に英二が言うとおり父は奥多摩が好きだった、何度も父は周太も連れて山に登り森や川で遊んだ。
やさしい記憶に映る父と自分の奥多摩をめぐる想いたち。懐かしい温もりに微笑んだ周太に英二は言ってくれた。

「きっと、お父さんはね、この奥多摩鉄道に乗ったんだよ。
あの春の夜、心のふるさとの奥多摩に帰る旅をしたんだよ、きっと。…だからね、周太?きっと、お父さん今も一緒に乗ってるよ」

「…いま、一緒に?」

10歳の春、天窓を見あげて待ち続けた父の乗る銀河鉄道。
あのときは通ってくれなかった、けれど今は一緒に乗れているの?
14年前の祈りが今このとき叶えられている?幼い日の祈りのなか、きれいな笑顔は穏やかに告げてくれた。

「そうだよ、周太と一緒にね、奥多摩へ帰るために今も乗っている。そしてね、明日は一緒に奥多摩で歩いてくれるよ、」

どうして、英二?

どうしていつも英二は、求めている言葉と心をくれる?
やさしい英二の想いが心に響いて瞳の奥に熱が生まれていく。
すうっと涙ひとつ頬を伝っていく温もりに周太はきれいに笑った。

「ん、一緒に帰るんだね、お父さん…いま、俺はね、お父さんと…英二と一緒に、奥多摩に帰るんだね」
「うん、そうだね、周太。3人一緒に帰るんだね、」

やさしい笑顔がきれいに隣で咲いてくれる、笑顔の優しさに涙があふれてしまう。
この笑顔が好きで、ずっと見つめていたいと願って、あの卒業式の夜にすべて委ねた。
そして今この大好きな笑顔は、父の合鍵と一緒に父の遺志と想いを抱いてくれている。
そうして叶えられないと諦めた祈りすら、英二は抱きとめ叶えてしまう。
この今も、14年前に諦めて泣いた銀河鉄道の祈りすら叶えて。

「いっぱい泣いちゃったね、周太。泣顔も可愛いけど、」

長い指がオレンジ色のパッケージから1つ、周太が好きな飴を出してくれる。
きれいな指先がオレンジの飴をそっと周太の口もとへ運んでくれた。

「ほら、周太。あーん、して?」
「はい、…」

素直に唇を開けると、ことんとオレンジと蜂蜜の香が口のなか広がっていく。
あまく爽やかな馴染んだ味がおいしい、うれしくて周太は微笑んだ。

「うん、笑顔の方がね、やっぱり可愛いな?」

きれいな低い声で笑いかけてくれる。
きれいな長い指がまた1つ飴を出すと英二の口もオレンジの香をふくんだ。
その指と笑顔を見つめながら周太は心を見つめていた。

…愛している

心の深い場所がゆっくり響いていく。
あの冬富士の雪崩に遭う前よりずっと愛していると、夜の車窓に気づかされていく。
大切な初恋も愛している。きっと明日一緒に過ごす時間には、純粋な想いを見つめることになる。
けれど、自分の運命にいちばん近く添い続ける、最愛の人は誰だろう?

「…ね、英二?」

見あげて、名前を呼んで。
呼んだ名前に微笑んで、きれいに笑いかけくれる。

「うん?なに、周太、」

きれいな低い声で自分の名前を呼んで、きれいな笑顔を見せてくれる。
この笑顔をずっと今夜は見ていたい。この願いは、わがまま、そうかもしれない。
他の人も好きな自分に、わがままをいう事なんて許されるの?そんな迷いも自責も締めつける。
けれど、この目の前の人に自分を全て委ねてみたい。

あの卒業式の夜に全て委ねたように、この今の自分と想い全て委ねたい。
そして今の自分をありのままに見つめてほしい、それでも愛せるのか見つめてほしい。
これで英二に嫌われるかもしれない、それでも、この今の真実と想いを知りたい。
ただ覚悟を見つめて、静かに周太は唇を開いた。

「あの、ね…急に、勝手に決めたくせに、わがままなんだけど、でも…」
「うん、わがまま嬉しいよ?聴かせて、周太。ぜんぶ話してくれる約束だろ?」

ぜんぶ話す約束、これは英二が周太を守る為に結んでくれた約束だった。
本当に受けとめてくれる?祈るように周太は想いを言葉にした。

「ん、…今夜ね、いつものとこに泊まるんだけど…英二もね、一緒に…とま、って、」

一緒に泊まって?そう言いたいのに言葉が掠れた。
拒絶への不安と「泊まる」意味の気恥ずかしさが喉を詰まらせる。
ほらもう熱が首筋を昇っていく、赤くなる頬が恥ずかしい、ねだる想いの熱が所在ない。
それでも周太は英二の目を真直ぐ見あげた。

「明日、あまり一緒にいられない、んでしょ?だから…今夜は、一緒にいて?…お願い、わがまま、聴いて…」

うまく話せない、緊張と羞恥に言葉が詰まる。
それでも周太は真直ぐに英二を見つめて、わがままを言った。

「勝手に押しかけたくせに…恥ずかしいこと言ってる、って解ってる。
こんなの、わがまま…でも、わがまま言って、良いんでしょ?…こんなの、ずるい言い方、でも…あいしてるんでしょ?」

見つめる綺麗な笑顔にゆっくり涙の紗がかかる。
きっと今ここで泣くのは、ずるい。けれど涙はもう頬へこぼれていく。
ほら自分はこんなに弱くて、ずるい。それでもいいの?こぼれる涙と一緒に周太は続けた。

「わがままで、他のひとが初恋で、弱くて泣き虫…それが俺、だよ?
いっぱいした約束も、きちんと守れない嘘つき…いっぱい英二にもらって、でも返せない…何もない、ずるい俺、で。
ずるい欲張りで、初恋が大切なくせに英二を欲しい…それが俺、なの…それでも、愛してるんでしょ?こんな俺が好き、なんでしょ…」

ずるさも欲も、罪も、弱さも想いも、すべて隠さないから見つめてほしい。
この目の前の人の「愛している」という言葉が、もし真実なら全て見つめて抱きとめてほしい。
この自分すべてを真直ぐ見つめて周太は想いを声にした。

「こんな、俺を、愛してるんでしょ?だから、婚約も、している…よね?
だったら、このお願いも叶えて、よ…お願い、英二。今夜、ずっと、一緒にいて?…傍にいて…だきしめて…」

なりふり構わない告白。
ずるくて、わがままで恥ずかしい告白。遠慮なく全部ぶちまけてしまう。
こんなことを周太は言ったことがなかった、相手を傷つけるより自分が黙って我慢する方がいいから。
それでも英二には全て委ねてみたかった、すべて曝け出して、本当に受けとめて貰えるか知りたい。
ちいさく息を1つ吸って、つまりそうな喉から想いを押し出した。

「…あいしてる、んでしょ?…だったら、だきしめて…今夜、一緒に、いて?」

本当に「自分」が愛されているのか真直ぐ見つめたい。
そんな願いを英二には想ってしまった、それだけ英二を求めている自分だと気付いてしまった。
この1ヶ月を光一と英二、それぞれに電話とメールで繋いでいく想いたちを見つめた。
そうして見つめた想いの答えが今朝、クロワッサンの香に目を覚ました。

あの卒業式の夜に初めて想いを交して、翌朝もう再び逢えない覚悟でお互いの家に帰った。
そして次の朝に再び逢えて、いつものベンチで英二はクロワッサンを食べた。
食べ終えた英二に母の結論を伝えて、そして一緒に生きることを約束した。
あの約束のキスはクロワッサンの香だった。

あのクロワッサンを自分はいつも買ってしまう。
あの約束のキスの幸せを思い出すように同じクロワッサンを口にする。
そして今朝も口にした時、1ヶ月見つめた想いの答えは目を覚ました。
約束の香に目覚めた想いと答えそのままを、素直に周太は口にした。

「…あいしてるなら…キス、…して、よ?…そして、今夜、ずっと傍にいて…」

一緒にいるために今夜、自分は連れて来てとねだった。
今夜一晩を英二と向き合って、英二と自分の想いを確かめたいと願った。

…だから、お願い…どうか傍に居て?

見あげた先、きれいな切長い目が困ったように微笑んでいる。
困ったように周太を見つめて、切長い目がゆっくり1つ瞬いた。
そして隣の端正な顔に、大らかな幸せな笑顔がひとつ、きれいに咲いた。

「うん、一緒にいるよ。周太、」

車窓によりそう周太を覆うように、そっと英二は体を周太に寄せてくれる。
ふわりと樹木のような深い香が頬を撫でて、やさしい長い指が頬にふれ顎にかけられる。
かすかなふるえと穏やかな温もりが、ふれる長い指から伝わって想いがふれてくる。
見あげる瞳に美しい切長い目が笑いかけて、ゆっくり寄り添ってくる。

「…周太、」

きれいな低い声が宝物のように名前を呼んで、あたたかな唇が唇にやわらかく重なった。

…英二、

ふれる熱のやさしさに周太は瞳をとじた。
ふれる熱が穏やかに心ほどいて、やさしい温もりがなじんでいく。
やさしい穏やかな温かなキス、ふれる唇から幸せにしてくれる。
ふれる吐息はオレンジと蜂蜜の残り香がおだやかに甘くて幸せが温かい。
あまやかな温もりで優しさにくるんでくれる、こんな英二のキスは初めてだった。
やさしいキスに周太の瞳から涙がこぼれた。

…ね、英二…キスまで、やさしくなった、ね?

冬富士の雪崩。威嚇発砲、その夕方の「あの時」の哀しい時間。
あの時までと今この時と、英二が変わったようにキスも変わった。
この今ふれるキスはどこまでも、やさしい幸せが温かい。

どこまでも優しいキスに想いがこめられる。
大らかに愛する想いがキスのやさしさに温かい、そんな心と体を繋いだキスが幸せをくれる。
やさしい温もりのキスに大らかな愛をくれる、そんな大きなひとに英二はなった。
この今ふれる温もりのキスが心から幸せで、周太の想いが微笑んだ。

…愛してる、

ことんと心に響いた想いが幸せに微笑んだ。

やさしい唇がゆっくり離れていく。
ゆっくり瞳を披きかける周太に、きれいな低い声が微笑んだ。

「…周太、愛してるよ、」

いま告げられた想いは、ほんとう?
ゆっくり見あげた瞳に、きれいな笑顔が幸せに咲いていた。
こんなに自分は言いたい放題した、それでも愛してくれるの?
素直に周太は唇を開いた。

「…こんな俺でも、いいの?」
「こんな周太だからね、愛してる…周太、」

きれいな微笑があざやかな睫毛を伏せながら、そっと近寄せられる。
やわらかな風ふれるようなキスに温もりを伝えて、きれいに英二は笑ってくれた。

「大好きだよ、周太。ずっと一緒にいたいよ、周太の隣だけに、俺は帰りたい」

ずっと一緒に。隣に帰りたい。
告げられた想いの温もりふれる涙に周太は微笑んだ。

「ん、…帰ってきて?ごはん、作るから…おふとん干すから、おふろ沸かすから…帰ってきてね、俺の隣に」

こんなことしか自分は出来ない。
こんな自分に対して、英二は本当にいろんなことが出来る。
英二は大らかな心と賢明な視点でフラットに人と接するから、犯罪者の心すら開かせられて警察官の適性が高い。
英二は山岳救助隊や医師にも認められるほど、救急法に長けて山岳レスキューの適性が高い。
英二は最高のクライマーの光一に認められるほど、山ヤの心が輝いてクライマーの素質も高い。
そういう英二に、こんなことしか出来ない自分が相応しいのか?
なんども考えて落ち込んだ、この先も考え込むかもしれない。
それでも英二が求めてくれるなら。

「うん、帰るよ、周太…ね、周太?今の言葉はね、いつか一緒に暮らそう、ってことかな?」

ほら、率直に求めて、訊いてくれる。
求めてくれる想いが嬉しくて幸せに周太は微笑んだ。

「ん。…俺はね、なにも出来ないけど、でもね…出来る精一杯で、居心地のいい場所を作りたい。
英二が帰ってくる場所をつくりたい。俺は、ね…他のひととの初恋を大切にしてる。そんな俺に出来るのか、わからない、けど…」

「周太、前も言った通りだよ?誰かを大切に想う心は、大切にしてほしい。
大切な人が多い方がね、人生ってきっと幸せだよ?だから周太も大切にしてほしい、そして幸せに笑ってほしいよ?」

ほんとうにいいの?
そんな想いで見つめる切長い目は「ほんとうだよ?」と笑ってくれる。
そして楽しそうに、きれいな低い声が言ってくれた。

「だからね、周太?明日もさ、国村とデートしてやって?
あいつ、ほんとエロオヤジだけどさ。でもね、周太のことは純粋に愛してる。
そんな純粋なね、あいつの恋愛も、あいつの事もね、俺は大好きで大切なんだ。だからね、あいつの幸せな笑顔も見たいんだ」

やさしい大らかな、フラットな英二の視点。
いつも真直ぐに実直な想いで見つめて、想ったことしか言わない出来ない。
こんなふうに真直ぐで、やさしい大きな心のひとを、愛さないでいられる?
この隣に立つひとへの想いを真直ぐ見つめて周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう、英二…じゃあ、明日はね、国村とも時間、過ごしてくるね?」
「うん、よろしくね、周太。たくさん一緒に笑ってきて?それで、もっと可愛く綺麗になってきてよ、」
「ん、ありがとう…でも、そんなふうに言われると、…恥ずかしくなるよ?」
「恥ずかしい顔も可愛いよ?周太、」

愉しそうに幸せに英二は笑ってくれる。
見あげる笑顔が大らかで優しい美しさに輝いて、見惚れてしまう。
こんな笑顔をずっと見ていたい、願いのまま周太は約束の確認をした。

「それで、あの…今夜は、英二、ずっと一緒にいてね?…どうか、一緒にいて、あいしてる、から、」

気恥ずかしさに声が掠れる、それでも言えた。
もう耳の後ろも頬も熱い、きっと真赤になっている。
恥ずかしくて頬に掌をあてた周太に、きれいな笑顔で英二は言ってくれた。

「うん、一緒にいる。でも周太、もし、外泊申請が通らなかったら、ごめんな?」
「ごめんなんて、言わないで?急に俺が来たから、だし…」

つい遠慮しがちな事を言いかけて、ふっと周太は言葉を止めた。
もう、自分は正直にいう事にしたのだった。
ほんとうに、正直な自分はわがままで恥ずかしい。それでも周太は正直に想いを言った。

「でも、お願い、英二?申請は…無理にでも通してきて?今夜は一緒にいて、」

こんなわがまま言うなんて、真面目な英二には呆れられる?
それでも一緒にいたくて見あげた英二の笑顔は、嬉しそうに頷いてくれた。

「うん、頑張って通してくる。たぶんね、大丈夫だと思うよ?」
「ん、頑張ってきてね?…お願い、ね」
「うん、お願いされたよ?だから、なんとかしてくる、」

きれいな幸せな笑顔が受けとめてくれる。
わがままも受けてとめられて嬉しい、まだ赤い顔のまま周太は微笑んだ。

「あとね、俺、休暇が決ったんだ。こんどの火曜日…火・水・木って連休だから、奥多摩に来るつもりなんだけど」

火曜日は英二は出勤する、そう既に聴いている。
きっとその話が出るだろうな、首傾げて英二を見るとすこし困った顔で微笑んでくれた。

「火曜はね、岩崎さんが山に行くから俺は出勤なんだ、国村と一緒に」
「ん、火曜はね、美代さんと約束があるから、大丈夫」

火曜は美代の家に遊びに行くことになっている。
たぶん木曜も英二は日勤でダメだろうな?思いながら見上げていると英二は言ってくれた。

「美代さんと約束あるなら、良かった。それでね、周太?木曜も日勤でダメなんだ、でも国村が非番だから、声かけてやって?」
「ん。わかった、そうするね?」

でも、水曜日はきっと週休。
でも、もし山岳救助隊の訓練が入っていたらどうしよう?
すこし不安に見上げた先で、こんどは楽しそうに英二が微笑んでくれた。

「でもね、周太。水曜は1日ちゃんと休みだから。この1日は全部、周太にあげるよ?何したいかな、」

英二とゆっくりできるのは水曜だけ。
たぶんそうだと解っていたから、今夜は必ず連れて帰ってほしかった。
それに1日だって一緒の日があれば幸せだ、うれしくて周太は微笑んだ。

「あのね、ブナの木に会いに行きたいんだ…英二の大切な、あの木に会いたい…だめ?」

おねだりを聴いた白皙の貌に、華やかな幸せな笑顔があざやかに笑った。

「うれしいよ、周太?うん、一緒に行こう、ブナの木に会いに」

心から幸せな、きれいな英二の笑顔が周太に笑ってくれる。
大好きな笑顔も雪崩の前より、ずっと輝いて美しくなった。
こんな笑顔を見せてくれるなんて幸せで、周太は微笑んだ。



河辺駅のビジネスホテルに着くと20時半を少し回っていた。
チェックインの手続きを済ませると英二は青梅署に戻っていった。
外泊申請の提出と、クライマー任官の書類を今夜中に英二は書きあげないといけない。
見慣れたホテルの一室で周太はシャワーを済ませて着替えると、コーヒーを淹れた。

ゆっくり湯を注いで、たち昇っていく芳ばしい湯気とフィルターを透っていく色が温かい。
この1ヶ月で自分も英二も、光一と美代も、大きく変わってしまった。
この変化が良いほうの変化になっていくといい、フィルターを透る湯のように。

「…ん、きっとね、なれる…だって、自分は…」

いまシャワーを使ったとき。
髪を拭きながら見た鏡のなかで、自分はまた雰囲気が変わっていた。
この変化をどんなふうに今夜、英二は見てくれるだろう?
そして明日たぶん会う光一は何と言うだろうか?

コーヒーを淹れ終えてマグカップをテーブルに運んだ。
それから携帯電話と分厚い布張りの本を持って、周太はソファに落ち着いた。
まず携帯を開くと周太は1通のメールを書き始めた。

T o :小嶌美代
subject:ありがとう
本 文:ちゃんと家に着けましたか?
    英二はエスケープに驚いていたよ、全然怒っていないから大丈夫。
    あのあと、ラーメン屋に行ったんだ。そうしたらね、樹医の先生に会った。
    前にも話した交番で会った先生。学生の君にどうぞって本を貰ったよ。
    読んだらまた感想おくります、おやすみなさい。

もう美代も家に帰って落ち着いている頃だろうな?
そう考えながら送信ボタンを押した。
あえて周太は奥多摩に来たとメールに書かなかった。
明日、美代は駐在所まで英二に謝りに来ると言っていたから、もしかして会えるかもしれない。
もし会えたら美代は、きっと驚くだろう。今日は美代のエスケープに驚かされたから、自分も驚かせてみたい。
明日は会えて、驚かせられるかな?考えながら周太は窓際に立つと、カーテンを開けてすこし窓を開いた。

「…ん、気持ちいい、ね」

ひやりと森の香の空気が頬を撫でて部屋にすべりこんでくる。
見つめる夜の向こうには雪に白い稜線が、やわらかな星灯にあわく光っていく。
明日は英二と御岳山に登る、他にも光一がどこかの山に連れて行ってくれるだろう。
いま見ているあの場所のどこかに、明日の自分は立っている。
そういう想像は不思議でなんだか楽しい、ほっと微笑んだとき携帯が振動した。

「…美代さんだ、」

From :小嶌美代
subject:ありがとう、無事です
本 文:ちゃんと家に着けました、今は部屋でのんびりです。
    樹医の先生に会えたのね、いいなあ、やっぱり、ラーメン屋さん一緒に行けばよかった!><
    奥多摩も大きい木が多いから、JAにも樹医の先生いらっしゃるけど、話す機会って少なくて。
    樹医の方の本、すごく面白そうね?ぜひ感想を聴かせてね。
    明日は駐在所へ宮田くんに謝りに行きます、どきどきします。憧れもね、なかなか大変ね?
    恋している湯原くんが、偉大に想える今夜です。また電話させてね?おやすみなさい。

「美代さんの方がね、偉大だと想う、よ?」

メールの文面に微笑んで、周太は窓を閉めた。
ソファに戻って落ち着くとコーヒーをひとくち啜りこんで、ほっと息が吐かれる。
今日は当番勤務明けで講習会に参加したから少し疲れている、けれど眠る気持ちには勿論なれない。
半分ほど温かなコーヒーを飲んでからマグカップをテーブルに戻すと、分厚い本を手にとった。
さっきラーメン屋で樹医から贈られた、青い布張表装が美しい学術書に周太は微笑んだ。

『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』

樹木の生命力について、樹木の医師である樹医が記した本。
幼い日に憧れた「植物の魔法使い」が書いたと思うと不思議な書物に想える。
ずしりと重たい本だけれど周太の心は軽やかな楽しみに充ちていく。
すこしでも今すぐ読んでみたい、周太はそっと表紙を開いた。

「…あ、…」

表紙のすぐ裏に、達筆な文章がさらり書かれている。
流麗な横書きの万年筆の筆跡で記されたサインの肩書は、交番で書いてもらった「樹医」と同じだった。
きっと樹医が自筆で書いてくれた文章だろう、万年筆の文章を周太は読んだ。

 ひとりの掌を救ってくれた君へ
 樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
 そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
 この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
 いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
 この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
 この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。
                                    樹医 青木真彦

「…生命の一環を救った、真実…誇りを持って…」

この今ある警察官の道は父への責任と義務に選んだ。
だから事情聴取も義務と責任の1つとして勉強をして業務として現場に臨んだ。
こうした義務で自分の行った聴取が「生命の一環を救った」と青木樹医は告げてくれた。
そして「君に誇りを持ってください」と言ってくれた。

自分は何も出来ない。
英二や光一のような優れた資質があるわけじゃない。
それでも自分は与えられた今の道にも向き合う努力をしている。
そんな自分の努力に見つめた義務と責任が、誇りある真実へと繋げられた。
こんな自分にも出来たことがある?万年筆の筆跡に周太は微笑んだ。

「…青木先生、ありがとうございます、」

この先生の公開講座に必ず行きたい。
この一筆へのお礼を言いたい、この本の感想も告げたい。
そんな願いと1つの目標を抱いて周太は、青い表装の本のページを捲った。
そして白いページの文字に広がる森と生命の物語が、大らかに周太の心に啓かれた。



とおく、ちかく、透明な音、旋律?

きれいなピアノの旋律に周太は我に返った。
すっかり本の世界に没頭していたらしい、この部屋がどこなのか?一瞬だけ怪訝になった。
そういえば自分はいま奥多摩にいるのだった?すぐ理解して頷くと周太は携帯電話を手にとった。
この着信音は光一の音、すぐに画面を開いて通話を繋いだ。

「はい、こんばんは、光一?」
「こんばんは、周太。ずいぶんとね、宮田がお待たせしちゃって、ごめんね?」

可笑しそうに笑っている透明なテノールの声に、周太は左手首を見た。
左手首のクライマーウォッチは21:45と表示されている。
いつのまに時間が経っていたのだろう?驚きながら周太は光一に訊いてみた。

「あの、英二は、どうしたの?」
「宮田、外泊許可はおりたんだよね。でもさ、書類がまだ終わっていない。もう少し待ってて?お、書けた?どれ、」

紙を受けとる音がして、すこし間が空いた。
たぶん光一が英二の書類をチェックしているのだろう。
青梅署へ英二が戻ってから1時間以上が経っている、きっと書類は記載場所と読む量が多かったのだろう。
この書類はクライマーとしての任官をする為のもの、一般警察官より「特別な危険」への承諾サインなども多いはず。
それだけの危険が伴う任官を英二がする、その重みに改めてため息がそっとこぼれた。

…でも、今までだって、山岳救助隊での現場に立っていた、英二は…だから、現場は変わらない、

それでも8,000m峰の踏破は新しい経験になる。
卒配期間が終了次第、たぶん本格的な高峰への登山が始まっていく。
そんな予想と、自分の本配属を思うと緊張がじわり蝕んでくる。
そのとき本当に「明日」は解らない日々が始まっていくだろう。

…だから、今このときを、大切にしたい

ささやかな願いに周太は微笑んだ。
微笑んだ耳もとに紙を手にとる音が聞こえて、何か話している声が聞こえた。
そして透明なテノールが楽しげに笑いかけてくれた。

「お待たせ、周太。いま終わって、あいつ、俺の部屋から出たからね。10分後位には、君の隣に座っているはずだよ」
「ん、ありがとう、光一。チェックしてくれたんだね?」
「まあね、俺が書いたのは4年前だけどさ。でも一応チェックしてくれ、って押しかけてきて、ずっと俺の机で書いてたんだよ。
宮田も真面目だね、ほんとにさ。で、よく見たら、外泊許可書を持ってるだろ?それで俺は、待たせてる君に電話したわけ、」

からり笑って光一は教えてくれた。
こんなふうに気遣ってくれる温かい優しさがうれしい、微笑んで周太は礼を述べた。

「ん。気遣ってくれて、ありがとう、光一。そしてね、チェックお疲れさま」
「どういたしまして。でね、周太?明日さ、俺とデートしてくれるんでしょ?どこ行きたいとか、あったら言ってね」
「ん、ありがとう…どこがいいかな?お任せしてもいい?」

急に決めたことだから考えていなかった。
あの山桜にもまた逢いたいけれど、たぶん光一は既に連れて行くつもりだろう。
どこを提案してくれるかな?思っているとテノールの声が言ってくれた。

「じゃあさ、俺んち来る?週末だからね、ばあちゃんのレストランが開いてるんだ。美代も手伝ってる」
「あ、美代さん…うん、会いたいな。でもね、俺が奥多摩にいることは内緒にして?驚かせたいんだ」
「いいよ、黙っとくね。でさ、御岳山の巡回も行くんだよね。送ってあげるよ、8時に迎えに行くね」

いつもどおりに光一は細やかな気遣いをしてくれる。
夕方にも電話で背中押して助けてくれた、感謝の想いを素直に周太は告げた。

「ん、ありがとう…ね、光一、本当に、いろいろね、ありがとう」
「うん?どういたしまして。じゃ、明日はたくさん笑顔を見せてね。おやすみ周太、」
「ん、…おやすみなさい、光一」

笑いあって電話を切ると周太はマグカップを抱えた。
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲干すと、カップを洗いに席を立った。
洗面台を流し替わりに丁寧にカップを洗っていると、扉が開く音がして穏やかな気配が佇んだ。
いまこの洗面台がある浴室の扉むこう、英二がきっと部屋にいる。

「…なんか、緊張、しちゃう、ね?」

マグカップを洗う水道の栓を閉じる。
タオルで手を拭いて、ちいさく微笑んで周太は扉を開いた。

「お帰りなさい、英二…」

部屋に佇む端正な長身の背中が、ゆっくり振向いてくれる。
きれいな切長い目が周太の瞳を見つめて、きれいな笑顔が笑いかけてくれた。

「ただいま、周太、」

笑顔、うれしい。
うれしい想いのまま周太はマグカップをカウンターに置いた。
それから大好きな笑顔に向かって歩み寄って微笑んだ。

「…英二、ただいま、」

言って、ポンと英二に抱きついて、広い背中に掌を回してしがみついた。
さっき新宿駅でも感じた深い香が、抱きとめられる体をくるんでくれる。
やわらかな安堵に微笑んで周太は英二を見あげた。

「お帰りなさい、周太、」

見あげた周太の瞳を受けとめて、英二はきれいに笑った。




(to be continued)

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