萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

光跡、予兆―side story「陽はまた昇る」

2011-10-21 23:01:58 | 陽はまた昇るside story

トレースの行先、




光跡、予兆―side story「陽はまた昇る」


白妙橋での山岳救助隊訓練は、フリークライミングと救助者を背負ってのザイル下降がメインだった。
天然の岩場でのフリークライミングは、英二は初めてだった。

フリークライミングはボルダリングとリードクライミング、トップロープクライミングに分かれる。
今日はリードクライミングを教わった。

リードクライミングは、2つに分けられる。
あらかじめ開拓者によりボルトが打ち込まれているルートを対象としたルートクライミング。
岩の割れ目、クラックなどにナチュラルプロテクションをセットしながら登るトラッドクライミング。
白妙橋は前者のルートクライミングのエリアとして有名だった。
コンパクトだが、手頃なグレードの揃った良い岩場と言われている。

クリップ。ヌンチャクをボルトに掛け、ロープをセットすること。
レスト。片腕を放して休ませること。
そういう技術に関する駆け引きを、隊長の田村が指導してくれた。

初心者の英二は、ウェストハーネスに加えてチェストハーネスも装着した。

「メインロープの過重はあくまでもウエストハーネス側に掛かるように重点をおく。
チェストは胸前のカラビナの中にメインロープを通すだけで、墜落時に頭からの「反り返り止め」的性格に考えろ」

コツを田村に教わりながら、英二は自分で装着していった。
チェストハーネスは山岳訓練で、周太の救助に向かった時に装着したことがある。
ウェストハーネスは初めてだったが、田村に装着確認をしてもらうと大丈夫と言ってもらえた。

白妙橋の岩場は、日蔭は寒かった。けれど動き出すと、すぐ温かくなる。
国村は身軽に登っていく。簡単そうに見えるけれど、やってみると難しい。
さすがだなと見上げながら、英二も手足を進めて行った。
なんとか登攀しきると、初めてにしては大したものだと田村が笑ってくれた。

「宮田は指が長いな。握力と、背筋力はどの位だ」
「両手とも75kg位です。背筋は185Kgだったと思います」

成年男子平均値は握力が48Kg、背筋力が145Kg位になる。
スポーツ選手の平均背筋力が、野球は183Kg、ラグビーが192Kg。
元来、英二は細身でも筋力はある方だった。
その上に、警察学校時代に周太から教わりながら、筋力トレーニングを積んでいる。
登山経験の不足を、体力強化からも補いたかった。

なるほどと田村が笑って頷いた。

「普通はね、岩場登攀は登りきることは、最初は難しい」

それは英二も調べて知っていた。
だから毎日、出来る限り自主トレーニングを積んでいる。
今日はなんとか登れた、けれどまだ遅いと思う。
救助の現場では、スピードが要求される。

「宮田は筋力もあるが、最初にしては登り方も上手いな。どこかで教わったのか」
「いえ、国村さんを見ながら、真似をしていました」

田村の顔が、少し驚いた表情を浮かべた。
それから微笑んで、言ってくれた。

「見てもなかなか真似できるものではない。宮田は適性があるんだな」
「ありがとうございます」

素直に嬉しい、英二は笑って頭を下げて。

岩場のルートには名前がつけられている。
白妙橋のルート名も面白い。
バースディに乾杯、春の雪、消費税。代表的ルートはジャングルジムという名前だった。
ジャングルジムはムーブが多彩で面白いと教わった。

「最後まで気が抜けない、パワー系ルートだけどね」

軽々と登ってから、からっと国村が笑った。
色白痩身で、文学青年のような風貌の国村だけれど、かなり体力がある。
一呼吸入れようと国村と並んで見下ろすと、川からの風が登攀の熱に心地好かった。
登りきった岩場から眺める日原川は、碧の水が砕けて流れていく。
水がきれいだなと眺めながら、英二は訊いてみた。

「体力つけれるコツとか、教えてよ」

そうだなあと少し考えて、国村が答えた。

「休日は農業やるからじゃない」
「農業?」

意外で聴き返してしまった。

けれど、冷静沈着な印象の強い国村は、話すとからり明るい。
農業青年らしい明朗な気風が、たしかに国村にはある。
同じ年でも高卒の国村は先輩になるが、タメ口でねと気さくに話す。
冷静だけれど底が明るい、そういう国村と話すのは楽しい。

へえと英二が感心すると、国村は笑って教えてくれた。

「うちは狭い畑が多いからさ、ほとんど手作業なんだ。それが結構ハードかな」

山で両親を亡くした国村は、農家の祖父母に育てられている。
青梅署の独身寮で生活しているが、非番や週休の度に実家へと帰り、畑の面倒を見ていた。

「都立の農業高校を卒業してさ、警察学校に俺、入ったんだ」
「国村さん家、何の農家?」
「梅と蕎麦。梅林の春と夏の蕎麦畑はきれいだよ。見に来たらいい」

食用梅は白梅が多いんだと国村は教えてくれた。
休憩の短時間だったけれど、楽しそうに農業のことを話してくれる。
国村の意外な一面が、なんだか英二は嬉しかった。

午後からは御岳駐在所での勤務だった。
初の岩場訓練はさすがに疲れたが、岩崎の妻は昼食に生姜焼きを仕度してくれた。
岩崎から好物だと聞いてくれたらしい、心遣いが嬉しかった。

「ごはんのお替り、いっぱいしなさいね」

笑いながら、いつもよりも山盛の丼飯を渡してくれる。
ありがたく3杯平らげると、岩崎が元気だなと笑ってくれた。
食後の茶を一緒に啜りながら、訓練の報告を岩崎にする。
初の登攀でも登りきったことを訊いて、岩崎が口を開いた。

「宮田、いきなりジャングルジムのルート登ったのか」
「国村さんの真似しながらですけどね」

国村の真似かと、感心したように呟いて岩崎が言った。

「国村の両親はな、国内ではファイナリストに入るクライマーだったんだ」

国村の両親は、地元で農家を営みながら登山を続けていた。
そして国村が中学校に入学した直後、夫婦でペアを組んだ雪山で揃って亡くなっている。
そのことは国村から英二も訊いていたが、両親がファイナリストだった事は初めて聞かされた。

「国村は、幼い頃からその両親と登っている。さすがというか、国村のセンスと技術は抜群なんだ」

練習で登った川苔山、訓練の雲取山と今日の白妙橋。
どの時も、国村は息切れを全くしていなかった。
寮で食事する時と同じ調子で、山でも飄々と笑っている。
岩崎の言葉は納得がいくなと、英二は思った。

「国村本人にも、ファイナリストに入る素質がある。後藤副隊長もそんなことを言っていたよ」
「そんなすごい人と俺、一緒に飯食ってたんですね」

まあなと岩崎は笑って、英二の目を真直ぐ見た。

「宮田は初心者なのに、そういう国村の真似ができる。これは大したもんだぞ」
「そう、でしょうか」

なんだか英二は途惑った。
単に自分は少しだけ要領が良いだけ、そう思っている。
けれど岩崎は楽しそうに笑って、肩を叩いてくれた。

「宮田には適性がある、きっと良い山ヤになれるぞ」

良い山ヤになれる。そう言ってもらえるのは、嬉しかった。
岩崎は英二の直属上司であり、一番身近な山ヤの先輩だった。
岩崎は一番近くから、警察官として山ヤとして、英二の成長を見てくれている。
そういう岩崎に認めてもらえることは、素直に嬉しい。

「ありがとうございます、」

きれいな笑顔で英二は笑った。

いつもの時間に来た秀介の勉強を少し見た。
それからまた、地図と遭難事故の照合メモを作る。
紅葉シーズンに入って、道迷いの件数が増えていた。
今度の国村との練習登山で、道迷いのポイント確認が出来ると良い。

夕方の巡回を終え、帰り支度をしていると、岩崎が声をかけてくれた。
明日非番だなと訊かれて、そうですと英二は答えた。

「明日、術科センターで全国警察大会があるのは知っているか」
「はい、」

明日は、全国警察逮捕術大会と全国警察けん銃射撃大会の2つが開催される。
そして周太は射撃で、センター・ファイア・ピストルの部に出場する。

「俺の同期がな、逮捕術に出場するんだ。宮田の同期も射撃にでるんだったな」
「はい、」
「見学に一緒に行くか?」

意外な申出に、英二は驚いた。
周太がこの大会に出場することが決まって、少し英二は調べた事がある。
その事が気がかりで、当日は傍にいてやりたいと、ずっと考えていた。
けれど卒配の立場では申出難くいなと、ここ数日すこし悩んでいる。
岩崎の申出はありがたい、それでも英二は訊いてみた。

「行ってみたいです。ですが私の立場で行って差支えないでしょうか」

いつものように穏やかに微笑んで、岩崎が教えてくれた。

「機動隊の頃にな、俺は逮捕術の特練だったんだよ。そういう義理で明日は行かなきゃいけない」

第七機動隊所属の山岳救助レンジャー部隊。
御岳駐在所長に就任前、岩崎はそこに所属していたのは聞いている。
けれど特別訓練員だったことは、初めて聞かされた。

「一人で長旅もつまらんからな、道連れがいると嬉しいのだが」

こんなふうに岩崎は、さり気ない配慮が温かい。
ありがたいなと思いながら、ご一緒させて下さいと英二は頭を下げた。


夜の電話で繋いだ隣は、いつもより緊張している。
どことなく声が硬い、そしてすこしだけ壁があることを、英二には感じとれてしまう。
無理もないと、周太の心を思いながら悲しかった。

周太は「射撃の秀でた警察官」として、父親の人生をトレースしようとしている。
父の軌跡を辿ることで、父の汚名を潅ぎ、父の死の真実を知る。
その目的のために、周太は今日まで生きている。

卒業配置から1ヶ月、警察官になって7ヶ月。
その立場では本来、出場できるような大会では無い。
けれど周太は異例の抜擢で、センター・ファイア・ピストルの警視庁正選手になった。

周太は、警察学校以来の射撃実績で、これまで全弾10点的中を通している。
学生時代には全国3位の実績を出した。
抜擢も当然と言えば、そうなのかもしれない。

きっと周太は今まで通りに、明日の大会でも全弾的中するだろう。
けれどその事が、周太の進路を困難へ向けるかもしれない。
射撃の秀でた警察官として認められること。それはSAT狙撃手の候補に上がることを意味する。

SATは採用条件が非常に厳しい。
採用年齢は20代前半までの男性警察官。
体力・知力を併せ持ち、重火器に精通する事。
身長が概ね170cm前後、体重が60kg前後に該当する者。

体力面でいえば、腹筋を連続1000回、1500m走を5分以内で走る水準。
洗練され鍛えられた、均整のとれた闘士型体型。
拳銃、ライフル、ショットガン等、あらゆる銃器を操作する能力。そして射撃の腕前は世界水準に達すること。
冷静沈着で、高い分析能力と判断能力といった、精神面の強靭さと高レベルの知能。
警察官のエリートで構成されるのがSATだった。

どれもが全て、周太には備わっている。
そして周太の父親も、同様だったろう。

狙撃要員として指名を受けている隊員が、小隊内に数名いる。
周太の存在を知って、指名したいと考えたのだろう。
そのために、明日の競技大会出場という異例の措置がとられた。
そんなふうに、英二は考えている。

明日優勝して、卒配期間が終わって、機動隊へ配属になる。
その後にSATへ異動させられる可能性がある。そうなれば、周太は狙撃要員の指名を受けるだろう。
それはきっと、周太の父親と同じ軌跡になっている。

配属時には「宣誓書」にサインする。
自分がSAT隊員であること、SAT隊員の名前など個人情報、SATの訓練内容。
一切の情報を口外しないことを誓う。
この宣誓はSAT離隊後も有効で、警察官を辞めた後でも機密口外は禁じられている。

そして、警察官名簿から個人情報が抹消される。
SAT隊員個人をテロから守り、狙撃して射殺した場合の告訴を防ぐ配慮でもある。
そうして、配属前の上司や同僚、同期の警察官でさえ、誰がSATに異動したのか分からなくる。

こうした秘密主義からSAT隊員の活動には厳しい制約がある。
そのため、訓練時や実戦時は常に、顔を秘匿する為のマスクを被って任にあたる。

こんなふうに、SAT隊員に選ばれたら、自身の存在も隠されていく。
そのうえ、狙撃要員として選ばれることは、より重たい秘密を背負わされる事になる。
たぶん周太の父は、その重たい秘密に生きていた。

SAT指揮官の隊長や班長などの幹部は、30代以上になる。
おそらく周太の父親は、狙撃手からそのまま、幹部になっていた。
そんなふうに、英二は考えている。
けれど何かの理由で新宿を通り、そこで射殺された。

秘密を背負うことは、孤独に生きること。
だから本当は、周太と同じ配属を望みたかった。
どんな場所であっても、ずっと傍にいたい。同じ秘密を背負ってでも、離れないでいてやりたかった。
けれど英二の身長は180cm、不採用になることは明らかだった。
SATはテロリストと渡り合う際に、狭い通路や屋根の低い室内で動く。その為、180cm級の長身では採用されない。

同じSATへの配属は望めない、それを知った時は苦しかった。
それでも、絶対に離れることは出来ない。
たとえ同じ配属では無くても、必ず救ける方法はあるだろう。

諦めることなど出来はしない、そんな自分を英二は知っている。
だから自分は必ず、周太を孤独にしない方法を見つけるだろう。
自分は本当に諦めが悪くて、往生際悪くあがくことを、よく英二は知っていた。

そういう理由からも、英二は山岳救助隊の道を選らんだ。
救急法を学ぶ中で、気付いたことがある。
そのことは、青梅署警察医の吉村から得た知識から、確信が強くなった。
たぶんきっと、狙撃要員に指名された時、そのことが周太を救うだろう。

端正で純粋で、きれいな生き方が、眩しい。
そのままにきれいな、黒目がちな瞳の繊細で強いまなざしが、好きだ。
あの瞳に見つめてもらえるのなら、自分はどんな事でもするだろう。

警察官として男として、誇りを持って生きること。
誰かの為に生きる意味、何かの為に全てを掛けても真剣に立ち向かう事。
全てを自分に教えてくれた、この隣。
周太と出会えなかったなら、山ヤの警察官として生きる事もなかった。

生きる目的を与えてくれた人。
きれいな生き方で、どこまでも惹きつけて離さない人。
静かに受けとめる穏やかで繊細な、居心地のいい隣。
ほんとうに得難い、どこより大切な、自分だけの居場所。

本当は直情的で、率直なままにしか自分は生きられない。
だから身勝手で我儘だとしても、自分は周太を手放さない。
この大会の結末が、どうであっても関係ない。
自分は絶対に、周太を孤独に戻さない。

自分を苦しめると解っている生き方を、放りだせない周太。
周太の涙も母親の涙も、流した分だけ今の周太を縛りつけている。
けれどどうか、我儘を言ってほしい。
救けてと、隣にいたいと、自分に告げて甘えてほしい。

もっと自分を求めてほしい、頼って欲しい。そうしてもっと、自分だけを見つめてほしい。
こんな独占欲は、醜いのかもしれない。
それでも必ず守るから、決して独りにしないから、どうか許して欲しい。
どうか自分の隣から、離れてなんかいかないで。ずっと隣で、生きて笑って、見つめ続けさせてほしい。


青梅署で、岩崎が自家用車で拾ってくれた。
お互いに見慣れないスーツ姿が、なんとなく可笑しい。

久しぶりのスーツを、落着いた雰囲気に、英二は着こなした。
少しでも早く大人の男になりたくて、ネクタイの好みも半年間で変わっている。
宮田はこういうの似合うなと言われて、ちょっと嬉しかった。

車窓からの空は、都心の方は雲がかかって見える。
けれど、奥多摩には眩しい秋の青空が輝いていた。

今頃は周太は、寮を出たのだろうか。
もう1時間ほどで会える、そうしたら奥多摩の空模様を教えたい。

術科センターに着いて、担当窓口での手続きを済ませる。
その後は、このまま岩崎と別れることになった。
特別訓練員時代の仲間との旧交を、岩崎は久しぶりに楽しみにいく。

この後の英二の時間は、周太だけに費やせる。
ロビーの片隅で、英二は携帯の履歴から発信ボタンを押した。
1コールも無いうちに通話が繋がる。

やっぱり周太は待っていた、そんなふうに解るのが、嬉しい。
微笑んで英二は、そっと訊いてみた。

「泣いてた?」
「…ん、心でだけだけど」

素直な言葉が、いとしい。
不安が声に揺れているのが解る。
今すぐ全部受けとめてやりたい、笑って英二は言った。

「じゃあさ、今すぐにロビーへ来てくれない?」
「…っ、」

驚いているのが解る。
それは驚くだろうと思う、けれど今は一瞬の時間も惜しい。
英二は笑って促した。

「早く来てよ、」

そしてロビーにすぐ、懐かしい姿が現われてくれた。
駆け寄って見上げて、周太が呟いてくれる。

「みやた…本当に今、ここにいるのか」
「おう、おはよう」

昨日は初めての岩場訓練で、今日は疲れて寝るかな。
そんなふうに、前は話していた。
急に決まって今日は来られたから、昨夜はあえて内緒にしていた。
驚いて少し大きくなった瞳。この顔が、かわいくて好きで、つい、驚かせようと思って黙っていた。

「御岳駐在の岩崎さんのな、同期の方が逮捕術に出場するから応援にいくけど。って声かけてもらって。
それで俺は、周太の射撃を見にきたよ」

覗きこんだ顔が、まだ不安に耐えている。
きっと射場に立って、銃を構えてしまえば、冷静になれるだろう。
それでも本当は、素顔はいつもこんな顔。
少し、寛がせてやりたい。

「周太、風が気持いいんだ。外で話そう」

すこし奥まったところが調度良さそうだった。
壁に凭れて、周太に笑いかける。

「おいで、」

広げた腕の前に、静かに周太が来てくれた。
前ならきっと、来てくれなかっただろう。
こんなふうに素直になっている。それが嬉しくて、少し痛ましい。
こんなに素直で純粋な隣。
それなのに、立ち向かわねばならない痛みがある事が、余計にこの隣への想いを募らせる。

「俺、ほんとうは怖い」
「うん、」

そっと長い腕を伸ばして、抱きとめる。
かすかにふるえる肩が、少しずつ納まってくれるのが、嬉しかった。

「俺を見て、父を知る人が現われて。そうして真実がひとつ解ることが、怖い」
「うん、」
「それから、…」

言いよどむ気配に解る、周太はきっと迷っている。
自分を待ち構える運命に、英二を巻きこむことを躊躇っている。

けれどそんなことは問題じゃない、ただ自分を求めてくれればいい。
そうして自分の腕に閉じ込めて、幸せに浚い続けるだけ。
たとえどの場所に周太が立たされようと、自分が逃がすわけがない。
どんなに引き離されても関係ない、自分は掴んだものは離さない。

含むように微笑んで、英二は言った。

「SATの狙撃手のことだろ?」

見上げてくれる周太の目が驚いている。
気づかないって思われていたのかな、けれど俺はそんなにお人好しじゃないよ。
いつものように微笑んで、真直ぐに見つめて、英二は告げた。

「俺も同じ警察官だよ、周太。周太の適性がどういう進路を選ばされるか、俺にも解っている」
「…知っていたのか」

きれいに笑って英二は言った。

「大切な人のこと、何でも知りたいだろ?」

それが本音。
自分は直情的だけれど、能力は要領がいい。
それをいくらでも利用して、この隣の為に役立てたい。

この隣の事なら、どんな事でも知っていたい。
自分が一番理解して、一番傍で見つめていたい。
他の誰にもそのことを、譲るつもりなんか少しも無い。

けれどこんなふうに、軽々と告げる事で。
少しでも隣に笑っていてほしい。
いつだって思っている、きれいな笑顔を自分だけに見せてほしい。

「…嬉しい」

周太が笑った。
そして英二の袖を掴んで、真直ぐに見上げてくれた。

「俺を絶対に離さないで」
「うん、」
「ずっと隣にいて」

もちろんそのつもり、けれど求められた。
嬉しい。求めてくれるなら、必ず自分はそうするだろう。
きれいに英二は笑って、静かに唇で唇にふれた。

「絶対に掴まえて離さない。俺は絶対に周太の隣に帰るから」
「…ん、」

必ず隣にいると告げておきたい。
自分がもう解っていて、それでも揺らがないと告げておきたい。
英二は周太に笑いかけた。

「俺も一緒に、周太の父さんの事を知りたい。俺の尊敬する人の姿を、真直ぐ見つめさせてよ」

周太の父の真実、それを知っても彼への尊敬は揺らがなかった。
誠実で穏やかな瞳の男。穏やかで重厚な書斎の主。
その彼の行動には、必ずきっと温かい心が息づいている。
そう自分は信じている。

自分は呆れるほどに直情的で、勘が強くて少し狡い。
だから解ってしまう。そういう男で無ければ、自分は尊敬などしない。
それが解っているから、寄り添って離れるつもりはない。

静かに周太が言った。

「きっと辛い現実が待っている、それでも、」

言いかけた唇に、そっと長い指をあてた。
長い指を操ってこっそりと、準備しておいた、あの飴。
自分が泣いた時、焦りが覆う時、そして目の前の誰かの涙を止める時。
いつも支えてくれた、周太が教えてくれた飴。

今日はきっと周太を支えてくれると、そっと隠して持っていた。
馴染んだ味に、目の前の肩の力が抜かれるのが解る。
きれいな笑顔で、英二は言った。

「言っただろ。どんなに辛い現実と、冷たい真実があったとしても、俺は周太を手放せないから」

それが本音。自分の方こそが手放せない。
何が妨げようとしても関係ない、掴まえたまま離さないだけ。
卒業式の翌朝、自分は母親を泣かせた。それすらも、少しだって後悔が出来ない。
それくらいにもう、この隣に惹かれて求めてしまう。

まあねと、明るく悪戯に英二は笑って見せる。

「それくらいもうさ、俺、周太にベタ惚れだし」
「…はずかしいそこまでいわれると」

こんなときなのに、首筋を赤くしてしまう。
どうしていつもこんなふうに、初々しいのだろう。

いつも通りに純粋な隣。
きっとこれから何が起こっても、この隣は純粋なまま生きるだろう。
それは時に辛いから、自分は何があっても受けとめたい。
どんな辛い事も全て、必ず笑顔に変えていきたい。

きれいに英二は微笑んで言った。

「だから心おきなく優勝してこいな」
「ん、」

そっと壊さないように、英二は周太の肩を押し出した。


射場に入る周太の背中を見つめた。
ホルスターから拳銃を抜くしぐさが、懐かしかった。
警察学校時代は、並んで射撃訓練を受けていた。
シリンダーチェックをして閉じる。その手つきも全て懐かしい。

周太の構え方は、真直ぐに凛と立つ。
その姿勢がきれいで、真似したいと思っていた。
同じように撃てたなら、同じ進路を選べるかもしれない。
そんなふうに思っていた。

けれど身長制限を知って、同じ進路は諦めざるを得なかった。
他の手段を使っても、周太に寄り添う事を考えた。
山岳訓練での周太の滑落事故。それがきっかけで山岳救助隊の存在を知った。
そうして山岳救助隊として生きる事が、寄り添う方法にもなると気付いた。

周太の前にある的が、次々と10点的中を示していく。
今きっと、きれいな黒目がちの瞳は、両目を見開いている。
あの真直ぐな視線の上に、拳銃のサイトを突き出すように構えて、引き金を絞っていく。
周太のノンサイト射撃は、距離に制限がない。
心のままに真直ぐな視線は、決してぶれる事がない。
その視線を追いかける、体の芯も揺るがない。

きっとこのまま、全弾的中していく。
それがもう解っているけれど、英二は目を離さず見つめていた。
周太の背中と、その向こうにある的。
銃弾が一発ずつ、周太の運命を定めていく。
その運命に寄り添うのは自分。それを誰にも譲る気がないから、今も英二は見つめていた。

全弾10点的中、400点の満点スコアで周太は優勝を決めた。
卒業配置から異例の抜擢で出場したけれど、今はもう誰もが納得している。
いつも通りに全弾的中しただけの事。
警察官の世界だろうが関係なく、周太になら出来る。それを英二は解っていた。

表彰される周太の横顔を、見つめている男が2人いる。
切長い目の端で、英二はその男を観察した。

ひとりは刑事らしき50代の男。
この男の眼差しは、懐かしさに痛みと温もりがある。
年恰好から行って、周太の父の同期かもしれない。

もうひとりは目つきが鋭い。
40代半ば位だろうか、けれど憔悴に老けて見える。
前に周太が話してくれたことがある「術科センターで知らない男に話し掛けられた」
多分この男ではないだろうか。
そして多分、この男が周太をこの場へ引きずり出した。
身長170cm位。制服に隠しているのはきっと、闘士型の体型だろう。


手続きを済ませて、射撃場の外へ出た。
見上げた空が青い。
奥多摩の晴天が、新木場の空まで追いかけてくれた。
そんな感じが今、心から嬉しい。

軽く体を伸ばして、ほっと息をつく。
今いるこの場所は、いつもいる場所とは異世界だと感じた。
けれどどちらも同じ、警察官の世界のことだ。

周太を見つめていた、小柄なあの男。
疲れ切った憔悴の風情が、哀れに思えてしまった。
ああいう男でも、山懐に抱かれれば、疲れが癒えるのだろうか。

ふっと穏やかな気配に、英二は振り向いた。
周太が外へ出てくるのが見える。
向き直って、英二は微笑んで佇んだ。


新宿署へ一旦戻った周太を待って、手近なカフェに座った。
通りがかった本屋で、久しぶりに買った一冊を開く。
イギリスの登山家の手記が、日本語訳で綴られている。
彼が歩いた世界の山が、活字の中で瑞々しかった。

穏やかな気配を感じて、英二は顔を上げた。
前髪をおろした周太が、カウンターで途惑っている。
たぶんきっと、何を注文したものか困っているのだろう。
髪をおろして、あんな顔をしていると幼げで、高校生にも周太は見える。
何を選んでくるのだろう、それが楽しみで、わざと黙って見ていた。

「ごめん、待たせた」

ほっとした顔でカップを持って、周太が隣に座ってくれた。
安心した顔もかわいいなと思いながら、英二は微笑んだ。

「もっと早く顔を見たかったけど、かわいいから許す」
「…そういうことこんなとこで言わないでくれない?」

もう、と少し呆れた周太の、首筋がすこし赤い。
着ているシャツが、藤色の細ラインチェックだから、余計に赤いのが際立っている。
ほんとの事だよ。と言いながら英二は、周太が抱えるカップを覗きこんだ。
見た目はカフェラテだけれど、さわやかで甘い香が特徴的だった。

「オレンジの香りがするな」
「ん。オレンジラテ?とか言う名前らしい」

自分で注文して飲んでいる癖に、名前に「?」をつけている。
勉強でも術科でも、正確無比な記憶力を周太は見せつけては、的確にこなしてしまう。
その癖、こんなありふれた事には「?」になっている。
なんだかもう、かわいくて、英二は笑ってしまった。

「…なに笑ってんの」
「周太があんまり、かわいいから、さ」

もういいと目で言いながら、周太はカップに口を付けてしまった。
そのカップを持つ手は、羽織ったニットパーカーの袖から半分だけ出ている。
前に、周太がカーディガンを着た時に、折られていた袖を、英二は伸ばした。
元来が小柄で可愛らしい周太には、そういう着方の方が似合う。
シャツの喉元も、第2ボタンまで外していた。
ちゃんと英二に言われた通りに、今日も着こなしてくれている。
それがなんだか嬉しかった。

いつものラーメン屋に行ったら、煮玉子をサービスしてくれた。
どうやら周太は、ひとりでも来たらしい。
なんとなく恥ずかしそうで、なぜ来たのか英二には解ってしまう。
それでもやっぱり訊いてみたくて、英二は微笑んだ。

「俺と来たこと、思い出しに?」
「…ん、」

短いけれど、素直な返事が嬉しい。
きっと今、うつむけた顔は赤いだろう。
首筋を染めていく赤さが、あわい藤色のシャツに映えて、きれいだった。


いつもの公園のベンチに座ると、空はすっかり晴れていた。
奥多摩は、朝も晴れていたと英二は教えた。

「じゃあ奥多摩の空が、ここにまで来たんだ」

そんなふうに言って、周太は嬉しそうだった。

高い青空が気持ち良い。
豊かな常緑樹の木洩日が、隣の横顔をほの白くうかばせる。
周太は、こういう場所が似合う。

周太は当番勤務が控えているから、ほんの1時間くらいだった。
それでもやっぱり、こんなふうに隣にいられるのは、嬉しい。
それに今日の場合、明日がある。

「周太、明日は非番だよな」
「ん、久しぶりに実家へ帰る」

ちょうどいいなと英二は思った。
そして周太に笑いかけて言った。

「じゃ、一緒に行く」
「…え、」
「周太の母さんに挨拶もしたい。だから一緒させてよ」

こうなってから、まだ挨拶をしていない。
周太の話だと、彼女は肯定してくれている。

周太とよく似た、穏やかな静けさと黒目がちの瞳。
自分が大好きな周太の特徴を、周太に譲ってくれたひと。
そういう周太の母を、英二は好きだった。

そしてたぶん、彼女と英二には、話すべき事がお互いにある。
彼女と英二はおそらく、同志のようなものだ。

隣が恥ずかしそうにしている。
たぶん、母親と英二が何を話すのか気になっている。
それから緊張、特別な存在と親の対面が、気恥ずかしいのだろう。
こういうの慣れてない、そんな呟きが黒目がちの瞳に読めてしまう。

それに明日は、英二にも特別な日だった。
けれどきっと、この隣はすっかり忘れているのだろう。
英二は笑って、隣の顔を覗きこんだ。

「明日さ、周太の誕生日だよ」
「…あ、」

競技大会の事で、すっかり忘れていたのだろう。
今日は11月2日、周太の誕生日の前日だった。

明日は、周太の母に花束を買っていきたい。
自分の大切な隣を、生んで育ててくれたひと。大切な息子を、自分に託してくれたひと。
ひとりの女性として、敬慕のできる素敵なひと。そして自分が敬愛する先輩が、心から愛したひと。
そんな彼女に、感謝の花束を贈らせてほしい。

「ありがとう、俺、忘れていた」

隣が嬉しそうに微笑んだ。
お礼を言われるのは嬉しい、笑顔はもっと嬉しい。
けれど、出来ればもう少しだけ、欲張らせてほしい。

「それだけ?」

言って英二は、そっと唇を重ねた。
さわやかな甘さが、かすかに唇からうつされ、静かに離れた。
隣は恥ずかしそうに頬染めて、けれど微笑みが嬉しそうで、きれいだった。

「明日、新宿で何時に待ち合わせようか。俺も週休だからさ、一日一緒にいられるんだ」

そう言って英二は、きれいに笑った。

今日の射撃競技大会での優勝。
そのことがたぶん、この隣の生き方を、曳きこもうとするだろう。
けれどそんなこと、自分には関係ない。
この隣がどこに立たされようとも、自分は絶対手放さない。

静かに微笑んでから、英二は隣へ笑いかけた。

「周太、明日は何時に当番あがれるんだ」
「たぶん8時かな、」
「じゃあ9時に新宿でいいよな、朝の公園へ行こうよ」
「ん。いいね、嬉しい」

今日こうして会えたのに、また明日も会える。
1ヶ月と少し前の、警察学校時代はそれが普通だった
けれど今は、今日も明日も会えることが、贅沢に思える。
けれどきっといつか、毎日を、この贅沢で充たしたい。

今夜の0時、周太に電話をしよう。
そうして誰より最後に「おやすみ」を言う。
それから誰よりも早く、その日に一番の「おはよう」を言いたい。

今夜0:00、周太の22歳最後の瞬間と、23歳最初の瞬間の時。
最初と最後の両方を、自分のものにしたい。

こんなに自分は独占欲が強い、けれど、どうか許して欲しい。
自分にはただ一つの居場所、そうして唯一のひと。
もう他には求めない、だからどうかずっとこのまま、自分だけの隣でいて。

きれいに笑って、英二は言った。

「今夜0:00に電話するから」





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