山上から告げて、届けて
第30話 歳新―side story「陽はまた昇る」
大晦日の御岳山は二年参りの人出でにぎやかだった。
もう除夜の鐘が奥多摩にも響き始め、駐在所の前も年改まる華やぎに人波が往来していく。
今日は初日の出を楽しむハイカーも多い、昼すぎまで何件もの登山計画書が提出されている。
楽しげな通りをたまにパソコンデスクから眺めながら、英二は提出された登山計画書を整理しながらデータ入力していた。
「宮田、3分よろしく」
「おう、」
休憩室から国村に声かけられて、何気なく英二は書類に目を通しながら答えた。
計画書は提出時にすぐチェックは入れてある、けれど英二は入力時にきちんと見直すことにしている。
万が一に遭難となった時、登山計画書が頭に入っていれば迅速な対応がとりやすい。
そして救助はスピード勝負でもある、少しでも万全に備えたくてこんな処理をしていた。
―いま2分5秒かな?
感覚の隅で時間計測を進めながら英二は、御岳山の登山計画書を終えて大岳山の分を入力し始めた。
御岳山から大岳山へ抜けるルートや御前山まで足を伸ばす計画書もある、そして大半が山小屋泊となっていた。
山小屋での年越しを楽しんで初日の出を元朝に眺める、そんな正月を都心から近い奥多摩で過ごす人も多い。
今夜の奥多摩はどこの山小屋も賑やかだろうな、そんな楽しい想いに微笑んで英二は休憩室へ声をかけた。
「はい、3分」
英二の声掛けに、休憩室でファイルを眺めていた国村が顔を上げた。
その前にはカップ麺が割り箸を乗せて置いてある。やっぱり3分計測はこの為なんだな、可笑しくて英二は微笑んだ。
そんな英二に細い目を笑ませて国村が手招きした。
「ほら、宮田。ちょっと来なよ」
言われて素直に英二はデータ保存してパソコンを休止状態にした。少しでも席を立つ時、英二はいつもこうしている。
御岳駐在所は人の出入りが多い、登山計画書の提出も多いが岩崎の人柄か町の人も立寄って茶飲み話を楽しんでいく。
そんな日常からセキュリティの為にも英二は、几帳面に都度パソコンを閉じていた。
整理を終えた書類ファイルを持って立ち上がると、英二は休憩室を覗きこんだ。
「なに、国村?」
「見ろよ、またちょうどいい具合だろ?おまえってさ、ほんと時間正しいのな。真面目だね、宮田は」
言いながら国村はカップ麺の蓋を開けて示すと、満足げに目を細めて笑わせている。
こんなふうに英二は時間感覚が鋭い所がある、それが国村は面白いらしくて英二の感覚精度を試したがる。
それで国村はおやつのカップ麺を作るとき、いつも英二を砂時計代わりにつかう。
「ほら、延びる前に食いなよ。麺、増やしたいなら止めないけどさ」
「またくれるんだ?いつも悪いよ、」
「もう作っちゃったんだ、あげたくなければ作らないだろ?だから遠慮なんかいらない、さっさと食いなよ」
そう英二に勧めながら国村は麺を啜りこんだ。こんなかんじに国村はいつも英二におやつを分けてくれる。
今日も奢ってくれるつもりらしい、書類ファイルを戻すと英二も休憩室に座った。
そしてカップ麺の蓋を見て英二は笑った。
「おまえさ、蕎麦はさっき夕飯で食っただろ?なんでまた蕎麦なんだよ」
英二の前にはカップ蕎麦が置かれていた、これだと今日2食目の蕎麦になる。
今日は大晦日だからと国村の祖母が夕飯時に、旨い手打ちそばを差し入れてくれた。
それなのに夜食も蕎麦とはね?そう思っていると国村が涼しい顔で言った。
「だって年越しだろ?蕎麦食わないとね。それにさ、そのカップ麺は俺んとこのJAで作ったやつだよ。旨いから食いな」
言われて蓋のラベルと見ると「JA西東京」と表記されていた。
国村は蕎麦と梅を主にする兼業農家の警察官だから、JAや青年団との付き合いが深い。
感心しながら英二は蓋を外しながら訊いてみた。
「へえ、じゃあ国村が作った蕎麦を使ってたりするわけ?」
「そ。これは他の家のも混ざっているけどさ、まあ御岳の蕎麦も悪くないと思うよ。ほら、食えよ?国内産蕎麦の需要に勤めなね」
「そっか。じゃあご馳走になるな…あ、旨いね。ちょっと市販のと違うな?
「だろ、」
そんな話をしながら平らげると、英二は左腕のクライマーウォッチを見た。その長針は1を差そうとしている。
このアナログとデジタルの複合式クライマーウォッチは、クリスマスに周太が贈ってくれた大切な時計だった。
もとから英二がほしかったモデルで、それに周太は気がついて選んでくれた。
その英二の腕時計を、俺にください。
そして英二は、俺の贈った時計を、ずっと嵌めていて?
そうして英二のこれからの時間も、…全部を、俺にください。そして一緒にいさせて?
そんなふうに周太は英二に「わがまま」を言ってくれた。
それで英二が元々嵌めていたクライマーウォッチは、今は周太の左手首に嵌められている。
元のクライマーウォッチは警察学校時代に自分で買い求めたものだった。
学校の山岳訓練で周太を救助したことがきっかけで、英二は山岳救助隊を目指すことに決めた。
そうして進路を決めてすぐの外泊日に新宿で買った腕時計だった、その時も周太と一緒に買い物をした。
―外泊日、なつかしいな
なつかしさに英二は微笑んで、そっと時計のフレームを撫でた。
外泊日はいつも一緒に新宿で、本屋を覗いてラーメン屋で昼を食べて、それからあの公園のベンチに座った。
ベンチで缶コーヒー飲んで夕方に実家に帰って。そして翌日の昼に新宿で待合わせて、またラーメン食べて帰寮した。
そんな周太との時間が楽しみで英二は、外泊日は毎回いつも次回の約束をして半年間ずっと周太を独り占めしていた。
そうやって片想いでも一番近くで周太を見つめていたかった、そして他の誰にも盗られたくなくて独り占めし続けた。
―でも今はもうね、「わがまま」言ってくれたしさ。
クリスマスとその翌日を想いだして英二は微笑んだ。
クリスマスに腕時計の交換を周太から望んでくれた、そして「これからの時間を全部ください」と言ってくれた。
そんなプロポーズになる台詞と一緒に腕時計を贈るのは婚約になってしまうのに。
婚約の結納品は女性には指輪で男性は腕時計かスーツが一般的だけれど、最近は男女とも腕時計を贈り合うことも多い。
けれど怜悧でも世間に疎い周太のことだから、きっと意味なんか解らずに望んでいると英二はすぐ気がついた。
それでも「腕時計の交換」の既成事実を作ってしまえば周太も断れなくなる、英二は喜んで腕時計を交換してしまった。
俺、しらなくて…でもじかんがほしいとかいうのって、…あの、同じことになっちゃうのかな
やっぱり想った通りに周太は知らなかった。
そして途惑っていたけれど周太は、英二に言われた通り信じて「婚約」に素直に頷いてくれた。
それ以来うれしくて何度も周太を「婚約者」と呼んでしまう、そのたびに気恥ずかしそうにしながらも返事してくれる。
―Yes,ってことだよね、周太
クリスマスは最高峰の約束と、いつか必ず籍を入れる約束もできた。
これでもう周太は他の誰かにまず盗られない、油断はもちろんしないけれど。
けれど一緒に風呂に入ることは、周太に断固断られてしまった「だめです、今はだめ」の一点張りで逃げられて。
警察学校では毎晩一緒だったのに何でダメなんだろう?そんな考えに沈んだ英二の額を国村が小突いた。
「…痛いよ、国村?」
「痛いよ?じゃないよ。おまえな、またエロ顔になってるけど?年の瀬までなんてさ、エロ顔の仕納めってこと?」
飄々と笑っている国村は、もう山岳救助隊服に着替えている。
ほら行くよと笑いながら国村は、ぼんやり座りこむ英二の腕を掴んで立たせた。
そして更衣室へと連行すると、勝手に英二のロッカーを開けて救助隊服を投げてきた。
「さっさと着替えな?登山道巡視もう出る時間だろ?ボケッとしてるんじゃないよ」
「あ、うん…ごめん、」
ぼそりと答えて英二は着替え始めた。
そんな沈んだ英二の様子に国村は少し首傾げると、英二の左肩を掴んで覗きこんだ。
その肩には1つ赤いきれいな痣が刻まれている。周太がクリスマスにキスでつけてくれた大切な痣だった。
「…なんだよ、国村。勝手に見ないでくれる?」
「うん?お前さ、なに急に不機嫌になってるんだよ?いつもなら幸せそうに笑って喜ぶくせにさ」
「あ、うん…ごめんな」
国村の言うとおり自分は不機嫌になっている。
ひとつため息を吐いて救助隊服を着終えた英二に、国村が訊いてくれた。
「ほら、言いたいことあるんだろ?言えよ宮田」
「うん、…じゃあさ、言うけど」
ちょっといったん切って英二はウィンドブレーカーを着ながら国村の目を見た。
相変わらず底抜けに明るい目が話してみろよと笑ってくれる。
英二は更衣室の扉をあけながら、国村に訊いてみた。
「周太がさ、一緒に風呂入るの断固拒否するんだ。なんでだと思う?」
言った途端に国村の細い目が呆れたように笑った。
そして人差し指一本立てて「まあ待てよ」と目で笑うと、駐在所の奥へと声をかけた。
「岩崎さん、警邏と巡視行ってきますけど」
「おう、ちょっと待て」
奥から岩崎が出てきて簡単な引継ぎをしてくれる。
それが済むと国村が笑ってちょっと背筋伸ばして立つと、折り目正しく敬礼をしてみせた。
「では、国村警部補、宮田巡査と警邏の任務に行ってまいります」
「はい、よろしくお願いします」
そんな改まった挨拶を交わすと笑い合って、それから駐在所の外へと並んで出た。
外の空気は凍てついて吐く息が真白な靄になる向こうで、夜闇に透ける森の梢が霜で白い。
人通り多い雪残る道を歩いて御岳山へ向かう道すがら、英二はたった今生まれた疑問を横へと訊いた。
「国村ってさ、警部補なんだ?」
訊かれて国村がちらっと英二を見やり笑った。
その頬がすっかり寒さに紅潮している、そんな幼げに若返った顔でからり答えた。
「うん?そうだよ、知らなかったっけ?」
「ああ、初めて聞いた。でも国村は高卒任官で先輩だけど俺とタメだろ?23歳で警部補の昇進試験って受けられるのか?」
英二や国村は警視庁の採用試験に合格し警察官となった、いわゆるノンキャリアになる。
ノンキャリアの階級は巡査から始まり、警部までは階級ごとに昇進試験を受け合格することで昇進していく。
巡査部長への昇進試験を受験する資格は、大卒の場合は実務経験1年、高卒なら4年。
その次の警部補は巡査部長合格から大卒は1年、高卒は3年で受験資格を得ることになる。
そうすると高卒の国村の場合、順調に合格しても警部補の昇進試験は26歳で受験資格を得ることになる。
だから23歳で警部補なのは計算が合わない、どういうことだろう?
そんな疑問の顔でいる英二に、ちょっと国村は笑って答えた。
「うん、巡査部長は去年受験して合格したね。警部補の昇進はこの間の春だけどさ、まあ『口封じ』だよな」
「口封じ?」
昇進が口封じ?どういうことだろう。
思わず訊き返した英二をちらっと見、底抜けに明るい細い目がすっと可笑しそうに細められる。
そんな細めた目のままで国村は唇の端を上げた。
「春の雪山でさ、ちょっと間抜けなヤツに物申した。それだけだよ?」
国村はトップクライマーだった両親やその友人の後藤副隊長、親戚の田中など一流のクライマー達に山ヤへと育てられた。
そして5歳で奥多摩最高峰の雲取山へ自力で登り、幼少期から職人気質のクライマー「山ヤ」として生きている。
そんな国村は峻厳な山の掟に向きあい、小さな人間の範疇には捉われない誇らかな山ヤの自由が明るい。
だから無秩序な登山者には厳然とした態度で臨み「国村の一言」でキツイお灸をすえてしまう。
そのお灸がとんでもないことが多い、けれどそんな国村を山ヤであれば誰もが好きでいる。
国村なあ。以前に不用意な道迷いで救助した、さるお偉いさんを号泣させた事があってなあ
11月の鷹ノ巣山での道迷遭難の捜索時、後藤副隊長が英二に言ったある経緯。
その経緯のために山岳救助隊の皆が「国村の一言」に気を遣うようになったらしい。
もしかして「さるお偉いさんを号泣」が国村の言う「口封じ」と関係あるのだろうか?
ならんで歩く通りに並ぶ夜店を眺めながら、可笑しい答えを予想しながら英二は訊いてみた。
「国村、なんて『物申し』てお灸すえたんだ?」
「うん?そうだな、確か『勲章と命だとさ、どっちが重くて大切ですかね?』って感じかな」
いま国村は「勲章」と言った。
以前にも国村は勲章について笑ってのけたことがある。
「勲章がいっぱいついている人はさ、一個くらい軽くした方が体に良いよな」
2月開催の警視庁拳銃射撃大会にむけた練習へ通う道で、国村はそんなことを言って笑っていた。
それと考え合わせると国村がお灸をすえた「間抜けなお偉いさん」はいったい誰なのか?
勲章がいっぱいついて、勲章と生命の重みを問われるような人間。
なんだかとても嫌な予感と痛快な予想がする、思ったままを英二は声を低めて訊いてみた。
「もしかして国村…警視庁の関係者にお灸据えたんだ?」
しずかに訊いた英二の目を細い目が可笑しそうに見つめ返した。
細い目は底抜けに明るいまま、愉快な記憶を面白がるように国村は口を開いた。
「そうだけど?あいつ『やんごとなき方が登られる事前の視察』とか言ってさ、春先に青梅署に来たんだよな。
で、副隊長と俺で案内したんだよ。でさあ?その時期に登るくせにさあ、軽アイゼンも持って来ないんだよね。
そのくせ温泉に行く準備は持っていやがる。危機感覚ゼロ、そんなのが危険に向かう警察官のトップだなんてさ、マジ間抜けだろ?」
文学青年風に上品な顔が「あいつ」呼ばわりでせせら笑っている。
そして「そんなのがトップ」と国村は言った、英二は卒業式で見た勲章で埋めた制服姿の男に少し同情した。
同情はするけれど、確かに国村が言うとおり「間抜け」としか思えない。
春先の奥多摩は雪が残る、それを知らずに軽アイゼンも持たず視察に訪れることは、立場的にも下調べが杜撰すぎる。
そういう態度は警視庁幹部として恥ずかしい無知だろうし、奥多摩地域への軽視が透けて伺えてしまう。
きっと彼の態度は、山岳救助隊全員の神経を逆撫でしただろうな。そっとため息を吐いた英二の横で国村は「間抜け」の話を続けた。
「でさ、その前の夜に20cmくらい雪降ったんだよね。
だからさあ、アイゼン貸しましょうかって俺は言ってやったよ?
でも、あいつさあ。ちっとも言うこと、聞かないでさあ『私には不要だ』なんて、空威張りしやがるんだよね」
「アイゼン履かずに、どこに登ったんだ?」
ちょっと驚いて英二は訊き返した、雪山でのアイゼン不使用は転倒の危険が大きくなる。
まして奥多摩は低山とはいえ登山道は急斜や急登も多く細い尾根道もある、足元の不用意での滑落事故も多い。
いくらなんでも無謀だろう、そう考えながらすれ違う町の人と挨拶を交わしながら国村が答えた。
「鷹ノ巣山だよ、浅間尾根から登ってさ、石尾根を下るルート。
で、六ツ石山まで来たとき、水根山付近の救助要請があったんだ。なのにさあ、あいつ『私は早く下山したい』とか言い出してさ。
仕方なく副隊長だけ救助に行ったんだよ?マジありえない。で、あいつと俺は2人にされてさあ、ほんと面倒くさかったよ?」
遭難救助の邪魔までするなんて?さすがに英二は呆れてすこし目を大きくした。
そんな英二を見ながら国村は、さらりと付け加えた。
「そしたらさあ?ちょっと滑落したんだ、あいつ」
さらりと「ちょっと滑落」だなんて言うことは、ほんとうに2,3m滑った程度なのだろう。
まあ大事なくてよかったと思いながら英二は微笑んだ。
「やっぱりアイゼンないと怖いよな。すぐ助けられた?」
「まあね、助けてくれっていうからさ。で、助けてやったよ?
でもさあ、あいつ。今度は俺に説教なんか始めやがってね『君たちのルート選択が悪いからだ』だってさ、ねえ?」
救助の邪魔をし、山のルールに従わず滑落したうえ、理不尽な説教まで国村にしてしまった。
これで無事には済まされる訳はない。仕方ないなと思いながら英二は「それから?」と目だけで国村に訊いてみた。
そんな英二に愉快げに細い目がすっと細く笑んだ。
「だからさ、あいつに自分でルート選ばせてやったんだ。それで違う道を下山することになってさ。で、あいつ泣いたんだよ」
ただルート選択しただけでは泣かない、その選択ミスでアクシデントでも起きたのだろう。
たぶん国村はアクシデントを予想してそんな対応をしている、英二は訊いてみた。
「どこのポイントで何て言って、ルート選択させたんだ?」
「うん、三ノ木戸林道と石尾根に別れる三叉路だよ。俺は予定通りにこっち行きますけど、お好きな道をどうぞ?ってね」
その分岐点は石尾根と、三ノ木戸山頂にむかうルートと三ノ木戸林道から下山するルート。
きっと石尾根は意地で選ばないだろう、そうすると残り2つを選ばざるを得ない。
そのルートが問題になる、英二は解答をしてみた。
「三ノ木戸山頂へ行って、それから三ノ木戸林道を下ったけれど道迷いになった。そんなとこ?」
「当たり。しかもさ?あいつ地図も懐中電灯も持っていなかった。
山の三品は必要だってくらいさ、警察学校では山岳訓練で教わると思うんだけど。キャリアは大学校で教わんないのかな、ねえ?」
「多分教わると思うんだけど。でも、それじゃ道迷いしちゃうだろうな、」
三ノ木戸林道は別名を小中沢林道とも呼ばれ、針葉樹林帯を抜けるために暗くなりやすい。
そして標識はあるが仕事道が交差する迷いやすい道になる。
そういうルートを地図も持たず、「山の三品」の1つ照明器具も持たないで歩くことは危険だろう。
警察官としてそれくらいは知って装備してほしいな、そう考えている英二に国村は言った。
「三品も持たずに道迷いで遭難なんてねえ?ほんと山を舐めきってるよな。あんなヤツが山岳救助隊の上司であるわけないよな、ねえ?」
すごい痛烈な皮肉をからりと国村は言ってのけた。
ほんとうにこんな道迷い遭難を警察官がしたら、恥さらしもいいところだろう。しかも山岳救助隊の上司とはとても言えない。
なぜ「あいつ」が泣いたのか?きっと同じようなことを言ったのだろう、横へと英二は訊いてみた。
「国村さ、今言ったことを言ったんだろ?どんな状況で言ったんだ?」
「奥多摩交番に戻って茶を飲んでいたらさ。あいつから携帯で救助要請が交番に来たんだよね。
で、水根山の救助から戻っていた副隊長とさ、あいつの遭難救助に出動したってわけ。
もう暗くなってる林道でさあ、真っ青な涙目で俺に抱きついてきたんだよ、あいつ。ほんとマジ迷惑だよな、ねえ?」
可笑しそうに笑いながら国村はヘッドライトを点灯すると、御岳山登山口へと歩き始めた。
英二もライトを点けて登山口へはいると、ぱりんと薄氷の割れる感触が登山靴の底に広がる。
今夜も冷えるなと並んで歩きながら「マジ迷惑」な情景を思って英二に苦笑いが浮かんだ。
「それで国村、抱きつかれたところで言っちゃったんだ?」
「当然だろ?むさくるしいオッサンに抱きつかれたんだ、我慢の限界もあるよなあ。で、言わせてもらったよ
『出鱈目な遭難で命落としかけた人間が、首都の治安を守れるとは不思議ですね?勲章と命はどちらが重くて大切かな』ってね」
3月では奥多摩はまだ寒く、雪があれば凍死による遭難死もある。
凍死者は幻覚症状から錯乱状態になることがあるが、そんな手前だったのかもしれない。
「真っ青だった」と国村も言っている、割と危険な状態まで追い込まれていただろう。でも自己責任の問題が誘引したことだ。
なにより山ヤとしては国村の怒りは正当だし、警察官としても「あいつ」の態度と行動は褒められない。
結局は小さな警察社会の「箱庭」人間らしい人なのかな。そんな感想と歩きながら登山道に気を配る英二に、国村は続けた。
「そしたら数日後に昇進の辞令が来たんだよ。でもまあ、昇進の理由なんか聴いていないし?口封じになるかは俺次第だけどさ」
「…あ、そうだよ国村?俺に話してよかったのか?」
気がついて英二は横を歩く色白の顔を見やった。
けれど国村は飄々と笑いながら冷気に紅い頬で、からりと言ってのけた。
「うん?だって宮田はさ、俺の生涯のアイザイレンパートナーだからね。
万が一のためにさ、知っておいてもらう方が無難だろ?大体、あんなヤツの考えになんで俺が従わなきゃいけないんだ?」
国村が自分をそうやって信頼してくれる事はうれしいなと思う。
でも少しは許すことも「あいつ」にとっても必要かな、そんな想いで英二は自分のパートナーを見た。
「そうだな。でもまあ隠したくなる気持ちもさ、解らないでもないんだろ?」
まだ23歳で高卒任官の巡査部長に、大幹部の自分が泣いて縋ってしまった。
それを警視庁山岳会長でもある後藤に目撃されてしまい、しかも泣いた原因が自分の油断が招いたミス。それは隠したくもなるだろう。
けれど細い目は底抜けに明るく笑いながら「嫌だね、」と答えた。
「あいつは自分でミスを犯したんだ、危険管理に責任ある立場のくせにね。その責任と恥を消そうなんてさ、甘ったれすぎるだろ?」
「うん、」
やっぱり国村は厳しい、そして言う通りで何もフォローなんかできない。
そう素直に頷いた英二に国村は唇の端を上げてみせた。
「けれどさ、こんな特例の昇進させるなんて、ねえ?
自分から『なにかありました』って自白するようなモンなのにさ。それとも俺が恐縮するとでも思ったのかな?
なんにせよ、ほんと良いカードをくれたよな、あいつ。このカードは何の目的で使うかな、ねえ?宮田は何か良い案ある?」
そして国村は怜悧で冷静沈着な悪戯好き知能犯だ、きっと「良いカード」もすごい使い方をするだろう。
あのひと助かったのは良かったけれど、また随分と悪い相手に弱みを握られたものだな。その点は英二は心からの同情を寄せた。
けれどこの「良いカード」を国村がどう使うのかもちょっと楽しみになってしまう。
いったい何に国村は使う気だろう?考えながら登山道を抜けると富士峰園地へ出た。
「ここは人、そんなに多くないな」
「うん、この時間は社殿が混雑するよね、やっぱり」
話しながら歩いて、いちばん見晴らしのいい場所に並んで立った。
そこからは新宿の夜景が遠くはるかに、けれど華やかな無数の燈火があざやかに眺められていく。
あの大きなビルらしき灯りの辺り周太がいるのだろうな。見つめる目がふっと熱くなりかけて英二はゆっくり瞬いた。
―今夜も一緒に居たかったな、
クリスマスは幸せだった。
朝早く雪の中を電車に乗って本を読む合間、会ったら何て話そうか考えて。
仕事を終える周太を待ちながら雪の街角に佇んで、驚いて喜んでくれる顔を想いながら幸せで。
11月に別れた木の下で抱きしめて、一緒にカフェで公園のベンチで、それからショップと花屋で。
そして川崎の家で過ごした、やさしい温かな時間と熱い甘やかな時は幸せで離れられなくて。
―新宿での別れが、辛かったな
クリスマスの翌日は、ゆっくり朝食をとってから屋根裏部屋でのんびり昼寝して。
それから庭をすこし散歩してから簡単な昼食をとって、一緒に片づけて。
片付けが終わった周太がエプロンを外しながら微笑んで訊いてくれた。
「ね、英二?午後は何しようか…川崎を散歩する?それとも新宿へ出る?」
「午後」と聞いて英二は途端に寂しくなってしまった。
もうあと8時間くらいで離れないといけないー別れを意識した途端に哀しくなった。
そして気がついたら周太を抱き上げて階段を登り始めていた。
「…英二、どうしたの?」
「俺が周太を抱っこしたいんだ…いいよね、俺の婚約者さん?」
「…あ、」
驚いている周太を静かにベッドへ沈めると、そっと抱きしめ唇を重ねた。
そんなつもりは無かったのに離れる時刻が迫ることが哀しくて、もう離せなかった。
離れてしまうなら少しでも温もりを感じたくて、熱を刻みたくて止められなかった。
そうして素肌を抱きしめて目覚めた時、陽射しはゆるく朱色を帯びていた。
「…周太、」
名前を呼んで、飽きずに黒目がちの瞳を見つめて。
やわらかな髪を長い指で梳きながら、暗くなるまで抱きしめたまま過ごした。
そんな時間は愛しくて、けれど別れが迫ることが切なくて。どうしようもなくて唇を重ねて抱いて、愛しい温もりを求めて。
こんなに離れたくないなんて自分はどうかしている?そう想ってしまうほどに離れたくなくて、離せなかった。
そんな自分に周太は静かに微笑んで、そっとキスをしてくれた。
「…ね、英二。大丈夫だよ?俺はね、いつも英二の帰る場所でいるから…
だからね、英二?…俺の想いをね、そのクライマーウォッチに見つめて?
俺も英二のクライマーウォッチに英二を見つめるから…そうやって離れても傍にいる、だって…こんやくしゃなんでしょ?」
最後の方が気恥ずかしげなトーンになったのが可愛くて、やっと英二は笑うことが出来た。
そして頬に頬寄せてキスをして、もう一度抱きしめてやっと英二は腕をほどくことが出来た。
「うん、婚約者だ。周太はね、俺の嫁さんになる運命だよ?だからさ、そのためにも俺、ちょっと頑張ってくる」
「ん、…頑張ってきて?待ってるから…英二だけを、ね」
そんなふうに笑いあって、それから支度をして新宿に出て。
いつものラーメン屋で食事して店の主人とも笑いあって。
そしていつものカフェのベンチでいつものホットドリンクを楽しんで、新宿署独身寮の傍の木の下で別れた。
そしてほんとうは、木の下から見送る姿が寮の階段へと見えなくなった瞬間、涙がひとつこぼれ落ちた。
―こんどの金曜日には、あえるといいな
今のところは英二の週休と周太の非番が重なる日になっている。けれどもし遭難救助が入れば英二は召集がかかるだろう。
年始のあいさつと婚約の許しを周太の母に話しもしたい、何も起きないでほしいな。そんな想いに思わず1つため息を英二は吐いた。
そんな額を小突かれて英二は横に並んだ、友人で同僚で2階級も上だった男に微笑んだ。
「なに、国村?」
「なに?じゃないだろ、お前のさっきの質問だよ?」
「あ、…風呂のこと?」
さっき「周太がさ、一緒に風呂入るの断固拒否するんだ。なんでだと思う?」と訊いてそのままだった。
そういえば国村の階級の話題になっていた、そのあと考え事していたな。あらためて英二はこの怜悧な友人に尋ねた。
「なあ?なんで周太はさ、一緒に風呂入ってくれないんだろ?警察学校では毎日一緒だったのに」
「うん、当然じゃないの?」
さらっと答えると国村は可笑しそうに笑った。
なにがそんなに可笑しいのだろう?すこし首傾げて見つめる英二に呆れたように国村が教えてくれた。
「前は友達だから意識しなかったんでしょ。しかも彼はその頃まだ処女だろ?恥じらいとか知らなかったろうね」
男に「処女」という言葉は普通は遣わないだろう。
けれど周太には何だか似つかわしくて、英二も自然と頷いてしまった。
「そうか、前と今とじゃ違うってこと?」
「そ。今はもう友達と違うしさ。裸ですること、やられちゃってるだろ?それで恥ずかしいんじゃないの」
なるほどなと思いながら英二は聴いていた。
でも自分は一緒に入りたいのにな、そう考えていると額をまた小突かれて国村が笑った。
「だからさ、宮田?おまえはね、やる方だから気にならないの。
でも彼は初々しいだろ?そして脱がされるばっかりだからさ、そりゃ恥ずかしいんだって。
こういうことはさ、能動と受動は違うだろうが。おまえ女の経験は多いくせにさ、そんなこと解んないわけ?」
解らない、自分には。
ちょっと考えてから少し笑って英二は答えた。
「うん、解らない。だって俺、一緒に風呂入りたいとか周太以外には無かったし。
こんなにいつも考えていることも周太が初めてだよ。俺はね、ほんとに周太が初恋なんだ。
だからさ、たぶん前の経験とかは別だと思う…ほんとにさ、こんなに一緒に居たいとか思わなかった、俺」
ずっと一緒にいたいな、だからこそ山岳救助隊も最高峰へ登ることも辞められない。
ずっと一緒にいられる日を迎えるために、今を我慢して努力しなくてはいけない。
そう解っていても気持ちは誤魔化せない。また溜息をつきかけた英二の背中を、ポンとひとつ平手で国村が叩いてくれた。
「5日はさ、俺んち忙しいから休みほしいんだけど?宮田の7日とシフト交換してよ」
「うん、…いいけど?じゃあ射撃と山の訓練も7日に移動か?」
7日は土曜日で射撃訓練場の武蔵野署までは道路が混むかな。
そう考えていると額を白い指にきつめに小突かれて、英二は眉をしかめた。
「痛いよ、国村?」
「痛いよじゃないよ?おまえって賢いくせにね、時々なんか馬鹿だよなあ。7日は射撃行かなくていい。
代わりに6日の早朝に山登ってさ、その後に朝一で武蔵野署へ行くよ。それで青梅署に10時に戻れば、昼に新宿へ着けるだろ?」
6日は週休でまだ正月だから、後藤と吉村医師の個人指導は休みになっている。
そして7日が一日自由なら2日休みがとれて、6日非番で7日週休の周太と休みが合わせやすい。
それでも周太は多分非番は午前中が射撃訓練だろう、でも昼前には終わるから待ち合わせが出来る。
「国村、気遣ってくれてんの?」
「宮田がこんだけ萎れてるってことはさ、たぶん湯原くんはもっと、だろ?それに富士の訓練前に逢いたいんだろ?」
英二と国村は今月中旬には富士山での雪上訓練を2泊3日で行う予定になっている。
標高2,000mを超える場所、本格的な雪渓での登山は英二には初めてだった。
後藤副隊長と岩崎駐在所長が相談して日程を決め、パートナーを組んで訓練できるよう計らってくれている。
その訓練前に出来れば顔を見せて、周太とその母を安心させてやりたいと思っていた。
けれど何も英二は言っていなかった、それでも国村は気づいてくれている。うれしい感謝に英二は微笑んだ。
「うん。俺、逢いに行きたかったんだ。ありがとうな、国村」
「どういたしまして。ま、俺も5日は忙しいからさ、ちょうどいいかなって思ってね。
それにお前、富士山でそんな気の抜けた顔されたら危険だろ?
アイザイレン組むんだからさ、俺の命かかってるんだ。きっちり充たされてさ、気を引き締めてこいよ?」
明け透けだけれど細やかな気遣いは的を得ている、そして心から考えてくれている。
もう本当に「生涯のアイザイレンパートナー」なんだな、こういう友人がいるのは良いと英二は微笑んだ。
「うん。ありがとう、国村」
「おう、…あ、そろそろお互い時間だな。じゃ、宮田。10分後またな」
からりと笑うと国村は、端に雪残る武蔵御嶽神社の参道へと歩いて行った。
そこで国村は美代と新年の顔合わせを毎年している、そうして任務合間にも年越しには寄り添うのが恒例らしい。
あの二人のそうした決まり事は、本当に小さい頃からずっと積んでいるものばかりでいる。
そのどれもが自然で純粋できれいで、幸せになってほしいなと英二は心から祈ってしまう。
国村のアイザイレンパートナーとして、どこでも国村の無事を俺が守ろう。
そんな願いをそっと想ってから、英二はクライマーウオッチを眺めながら携帯電話を開いた。
時刻は23:58、発信履歴から英二は通話を繋いだ。
「待ってた?周太、」
「ん、…待ってた。だって英二の声、…聴きたかったんだ」
気恥ずかしげな声が穏やかに答えてくれる。
その向こうの喧騒は新宿の神社が賑わっていることを教えている、きっと周太は寂しかっただろう。
微笑んで英二は愛しい想い人へ話しかけた。
「俺こそ周太の声はずっと聴いていたいよ?抱きしめて見つめたいな、周太は俺の婚約者なんだから。ね、携帯も繋がったろ?」
幸せな呼び名「婚約者」もうこう呼ぶことを自分は許されている。
そんな呼びかけに恥ずかしそうに頷いて、ゆっくりしたトーンで周太は答えてくれた。
「ん、…うれしいな。あのね、いま、奥多摩の方角をね、見てるよ?」
「そういうのってさ、うれしいよ、周太。俺はね、いま御岳山から新宿の街を見てる。周太のこと見てるよ?」
除夜の鐘が響いていく奥多摩の山脈、山上の神社の荘厳だけれど賑やかな空気。
そんな向こうへ眺める山嶺の彼方には、新宿の街の灯が満天の星を映したように輝いている。
あのひとつに周太がいま立って、自分と声で想いを繋いでいる。その左腕に自分のクライマーウォッチを見つめながら。
そんな愛しい姿を想いながら微笑んだ英二に、おだやかな声が聴いてくれた。
「…英二?御岳山は雪があるの?」
「少しだけあるよ、でも風が少し湿気ているから明日の朝は雪かもしれないな…あ、」
話しながら左腕のクライマーウォッチを見て英二は微笑んだ。
そして迎える年の最初の想いを愛する婚約者へと英二は告げた
「あけましておめでとう、周太。今年もよろしくな、俺の婚約者さん」
うれしくて幸せな、新年最初に告げた想いと願い。
想いも願いも繋いだ電話から、気恥ずかしげな微笑みと一緒に返してくれた。
「あけましておめでとうございます、英二…いちばん大切なひと、今年も無事に帰ってきて。ね、英二?」
無事に帰る、それは絶対の約束。
今年だけじゃなく一生ずっと帰るからね?そんな想いと一緒に英二は周太に約束を一つ教えた。
「おう、帰るよ?一生ずっとね。でね、周太?6日の昼に新宿で待ち合わせよう?そしたら夜はさ、川崎の家に泊まれるかな?」
「…休みがとれるの?英二」
すこし息をのむような驚きと期待に満ちた声が伝わってくる。
こんなふうに喜んでくれる、うれしくて英二はきれいに笑って答えた。
「うん、2日休めるんだ。だからね、周太?遅くなるけれどさ、正月をしよう?お母さんにも連絡していいかな?」
「ん、…連絡してあげて?きっと喜ぶから…じゃあね、おせち少し作るね。簡単にだけど…」
おせち料理を手作りで。
英二にとっては初めてのことだった、いつも実家では決まった店の仕出しだったから。
それも周太が作ってくれる、うれしくて仕方ないままで英二は言った。
「周太、それすげえ幸せなんだけど?なんか婚約者の特権って感じだし。どうしよう俺、テンションあがってこの後、大丈夫かな?」
「あ、…任務はちゃんとして?しかも夜間登山なんだからね、気をつけて?…でないと作ってあげない」
「うん、わかった。俺、ちゃんと落ち着いて任務遂行します。だから作らないとか言わないでよ、周太?」
そんな会話で笑ってから、約束をして電話を切った。
携帯をポケットにしまいながら振り向くと、もう国村が立って待っていた。
「よお、休暇は喜んでくれた?」
「すごい喜んでくれた。ありがとうな国村」
底抜けに明るい目を温かに笑ませて、おだやかに国村が微笑んだ。
こういう顔のときは、本当に優しげな温もりが国村はきれいでいる。
けれどすぐ愉快げに細い目が笑って国村は言った。
「ま、ね?アイザイレンパートナーの婚約者はさ、哀しませるわけにいかないだろ?」
英二はまだ誰にも、周太と婚約したことは言っていない。周太の母にも6日に話すつもりでいる。
だのにどうして国村は知っているのだろう?考えかけてすぐに納得して英二は笑った。
「おまえさ、10分後って言っておいて8分後には背後にいただろ?」
「あれ、そうだった?まあ、ちょっと話が聞こえちゃったかな。幸せな会話を聞くのは良いもんだよな、ねえ?」
そんな会話をしながら雪と氷が残る中を、御岳山から大岳山を回って歩いていく。
除夜の鐘は山上にも響き渡る、冬は空気が澄んで音の屈折もあってよく聞こえる。
こんなふうに山で年越しをするなんて、前の自分には想像もつかなかった。けれど今ほんとうに楽しい。
途中でアイゼンを着脱しながら雪道を歩いて、御岳駐在所へとAM2:00に2人は戻った。
「うん?…明日は新雪かもしれないね」
「やっぱりそう?ちょっと風が湿気てるよな」
どうも雪の気配が空気にある、国村も同じ意見らしい。
そんな話をしながら中へ入ると、奥の休憩所から藤岡が笑いながら出迎えてくれた。
「お帰り。約束の持ってきたよ」
「うん、ありがとうね。藤岡はもう上がり?」
「そうだよ。ウチの管轄の神社はさ、もう人出が引けたからね。御岳はまだすごい人だなあ」
楽しそうに話しながら国村は、藤岡が持ってきた紙袋を開けていく。
夜食に差し入れを持ってくると藤岡が言っていた。何を持ってきてくれたのかな。
そう思いながら更衣室で活動服に着替えると、英二は休憩室を覗きこんだ。
そして英二は絶句した。
「…なあ、それってさ?いつもの酒じゃないの?」
見慣れた一升瓶が駐在所の休憩室で鎮座していた。
その前にコップを持った国村が、細い目を笑ませて座りこんでいる。
持っているコップの中身はもう半分になっていた。
ご機嫌で国村はコップを啜ると、楽しげに英二に言った。
「これはさ、正月の縁起物だよ。で、俺が賭けで勝ちとった酒だからね。いつもより旨いかな」
「あ、…俺の肩の?」
国村と藤岡は英二の左肩の痣で賭けをしていた。
その痣は周太が英二にキスで刻んでくれた想いの痣だった、これを英二は風呂の時に藤岡に見つかり国村にも見つけられている。
そして2人は賭けようとなり、年明けまで痣が残っていれば国村の勝ちで、年越し警邏明けの酒を藤岡が奢るという話だった。
「うん。負けたから俺、買ってきたんだよ。でもさ、宮田と湯原が幸せそうで良かったよ。だから俺、賭けに負けても嬉しいな」
負けたくせに幸せそうな人の好い顔で藤岡が笑ってくれる。
やっぱり藤岡って良いヤツだ。英二は藤岡の酒で赤い顔に微笑んで、こんどは国村に話しかけた。
「それで国村、さっそく勝った酒を呑んでるんだ?」
「そ。こういう酒って旨いよな」
そう言ってまたコップを啜りこむと、立ち上がって英二の腕を国村は掴んだ。
これは嫌な予感がする、腕を解こうと白い掌を掴んだけれど離れない。
そんな英二に上品な笑顔だけれど底抜けに明るい目で、国村が笑いかけた。
「ほら、宮田?俺はお前の先輩で階級も上なんだよ?酌ぐらいしろよな」
「なに国村?こんな時だけ先輩になるわけ?」
可笑しくて英二は笑ってしまった。
その声を聴いて岩崎も奥から出てくると、休憩室の様子に笑い出した。
「お、国村?今年は仲間がいて楽しそうだな」
「はい、今年は良いですよ。岩崎さんも座ってください、祖母の差入よかったらどうぞ」
「お、うれしいなあ。国村のお祖母さんの料理は旨いよな、うちの嫁さんも褒めてたよ」
さらっと岩崎も酒宴に加わってしまった。
毎年こんな雰囲気なのかな?そう眺めながら英二は、岩崎のコップに酒を注いだ。
「おう、宮田ありがとうな。うん、男でも美人の酌は良いよなあ」
「そうですか?じゃあ俺の見た目も、職場に役立っていますか?」
「ああ。宮田の笑顔はさ、遭難者だけじゃなく町の人にも好評だよ。もうファンレターぐらい貰っているんだろ?」
こういう質問は酒の席だと多いな?とくに何も言わずに英二は微笑んで箸をとった。
重箱の料理を口に入れてしまえば、答えなくても済むだろう。
そう思って口を動かしていると、国村が勝手に答えてくれた。
「その通りですよ、岩崎さん。宮田、もう10通くらいお礼の手紙貰ってます。女性8割で子供が1名、あと男性1名ですけどね」
「へえ、宮田って相変わらずモテるんだなあ」
「ふうん、さすがだな宮田。やっぱり美形はそんなもんか?」
案の定な風向きに英二は少し首傾げるだけで答えた。
どうやら年越の警邏と巡視が明けると、こういう席になるのが恒例らしい。
自分まで酒の肴にされてはいるけれど、こうして友人や尊敬する先輩と呑むことは楽しい。
でも一応ここは酒は呑まないでおこうかな?そう思いながら英二は夜食を口に運んだ。
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第30話 歳新―side story「陽はまた昇る」
大晦日の御岳山は二年参りの人出でにぎやかだった。
もう除夜の鐘が奥多摩にも響き始め、駐在所の前も年改まる華やぎに人波が往来していく。
今日は初日の出を楽しむハイカーも多い、昼すぎまで何件もの登山計画書が提出されている。
楽しげな通りをたまにパソコンデスクから眺めながら、英二は提出された登山計画書を整理しながらデータ入力していた。
「宮田、3分よろしく」
「おう、」
休憩室から国村に声かけられて、何気なく英二は書類に目を通しながら答えた。
計画書は提出時にすぐチェックは入れてある、けれど英二は入力時にきちんと見直すことにしている。
万が一に遭難となった時、登山計画書が頭に入っていれば迅速な対応がとりやすい。
そして救助はスピード勝負でもある、少しでも万全に備えたくてこんな処理をしていた。
―いま2分5秒かな?
感覚の隅で時間計測を進めながら英二は、御岳山の登山計画書を終えて大岳山の分を入力し始めた。
御岳山から大岳山へ抜けるルートや御前山まで足を伸ばす計画書もある、そして大半が山小屋泊となっていた。
山小屋での年越しを楽しんで初日の出を元朝に眺める、そんな正月を都心から近い奥多摩で過ごす人も多い。
今夜の奥多摩はどこの山小屋も賑やかだろうな、そんな楽しい想いに微笑んで英二は休憩室へ声をかけた。
「はい、3分」
英二の声掛けに、休憩室でファイルを眺めていた国村が顔を上げた。
その前にはカップ麺が割り箸を乗せて置いてある。やっぱり3分計測はこの為なんだな、可笑しくて英二は微笑んだ。
そんな英二に細い目を笑ませて国村が手招きした。
「ほら、宮田。ちょっと来なよ」
言われて素直に英二はデータ保存してパソコンを休止状態にした。少しでも席を立つ時、英二はいつもこうしている。
御岳駐在所は人の出入りが多い、登山計画書の提出も多いが岩崎の人柄か町の人も立寄って茶飲み話を楽しんでいく。
そんな日常からセキュリティの為にも英二は、几帳面に都度パソコンを閉じていた。
整理を終えた書類ファイルを持って立ち上がると、英二は休憩室を覗きこんだ。
「なに、国村?」
「見ろよ、またちょうどいい具合だろ?おまえってさ、ほんと時間正しいのな。真面目だね、宮田は」
言いながら国村はカップ麺の蓋を開けて示すと、満足げに目を細めて笑わせている。
こんなふうに英二は時間感覚が鋭い所がある、それが国村は面白いらしくて英二の感覚精度を試したがる。
それで国村はおやつのカップ麺を作るとき、いつも英二を砂時計代わりにつかう。
「ほら、延びる前に食いなよ。麺、増やしたいなら止めないけどさ」
「またくれるんだ?いつも悪いよ、」
「もう作っちゃったんだ、あげたくなければ作らないだろ?だから遠慮なんかいらない、さっさと食いなよ」
そう英二に勧めながら国村は麺を啜りこんだ。こんなかんじに国村はいつも英二におやつを分けてくれる。
今日も奢ってくれるつもりらしい、書類ファイルを戻すと英二も休憩室に座った。
そしてカップ麺の蓋を見て英二は笑った。
「おまえさ、蕎麦はさっき夕飯で食っただろ?なんでまた蕎麦なんだよ」
英二の前にはカップ蕎麦が置かれていた、これだと今日2食目の蕎麦になる。
今日は大晦日だからと国村の祖母が夕飯時に、旨い手打ちそばを差し入れてくれた。
それなのに夜食も蕎麦とはね?そう思っていると国村が涼しい顔で言った。
「だって年越しだろ?蕎麦食わないとね。それにさ、そのカップ麺は俺んとこのJAで作ったやつだよ。旨いから食いな」
言われて蓋のラベルと見ると「JA西東京」と表記されていた。
国村は蕎麦と梅を主にする兼業農家の警察官だから、JAや青年団との付き合いが深い。
感心しながら英二は蓋を外しながら訊いてみた。
「へえ、じゃあ国村が作った蕎麦を使ってたりするわけ?」
「そ。これは他の家のも混ざっているけどさ、まあ御岳の蕎麦も悪くないと思うよ。ほら、食えよ?国内産蕎麦の需要に勤めなね」
「そっか。じゃあご馳走になるな…あ、旨いね。ちょっと市販のと違うな?
「だろ、」
そんな話をしながら平らげると、英二は左腕のクライマーウォッチを見た。その長針は1を差そうとしている。
このアナログとデジタルの複合式クライマーウォッチは、クリスマスに周太が贈ってくれた大切な時計だった。
もとから英二がほしかったモデルで、それに周太は気がついて選んでくれた。
その英二の腕時計を、俺にください。
そして英二は、俺の贈った時計を、ずっと嵌めていて?
そうして英二のこれからの時間も、…全部を、俺にください。そして一緒にいさせて?
そんなふうに周太は英二に「わがまま」を言ってくれた。
それで英二が元々嵌めていたクライマーウォッチは、今は周太の左手首に嵌められている。
元のクライマーウォッチは警察学校時代に自分で買い求めたものだった。
学校の山岳訓練で周太を救助したことがきっかけで、英二は山岳救助隊を目指すことに決めた。
そうして進路を決めてすぐの外泊日に新宿で買った腕時計だった、その時も周太と一緒に買い物をした。
―外泊日、なつかしいな
なつかしさに英二は微笑んで、そっと時計のフレームを撫でた。
外泊日はいつも一緒に新宿で、本屋を覗いてラーメン屋で昼を食べて、それからあの公園のベンチに座った。
ベンチで缶コーヒー飲んで夕方に実家に帰って。そして翌日の昼に新宿で待合わせて、またラーメン食べて帰寮した。
そんな周太との時間が楽しみで英二は、外泊日は毎回いつも次回の約束をして半年間ずっと周太を独り占めしていた。
そうやって片想いでも一番近くで周太を見つめていたかった、そして他の誰にも盗られたくなくて独り占めし続けた。
―でも今はもうね、「わがまま」言ってくれたしさ。
クリスマスとその翌日を想いだして英二は微笑んだ。
クリスマスに腕時計の交換を周太から望んでくれた、そして「これからの時間を全部ください」と言ってくれた。
そんなプロポーズになる台詞と一緒に腕時計を贈るのは婚約になってしまうのに。
婚約の結納品は女性には指輪で男性は腕時計かスーツが一般的だけれど、最近は男女とも腕時計を贈り合うことも多い。
けれど怜悧でも世間に疎い周太のことだから、きっと意味なんか解らずに望んでいると英二はすぐ気がついた。
それでも「腕時計の交換」の既成事実を作ってしまえば周太も断れなくなる、英二は喜んで腕時計を交換してしまった。
俺、しらなくて…でもじかんがほしいとかいうのって、…あの、同じことになっちゃうのかな
やっぱり想った通りに周太は知らなかった。
そして途惑っていたけれど周太は、英二に言われた通り信じて「婚約」に素直に頷いてくれた。
それ以来うれしくて何度も周太を「婚約者」と呼んでしまう、そのたびに気恥ずかしそうにしながらも返事してくれる。
―Yes,ってことだよね、周太
クリスマスは最高峰の約束と、いつか必ず籍を入れる約束もできた。
これでもう周太は他の誰かにまず盗られない、油断はもちろんしないけれど。
けれど一緒に風呂に入ることは、周太に断固断られてしまった「だめです、今はだめ」の一点張りで逃げられて。
警察学校では毎晩一緒だったのに何でダメなんだろう?そんな考えに沈んだ英二の額を国村が小突いた。
「…痛いよ、国村?」
「痛いよ?じゃないよ。おまえな、またエロ顔になってるけど?年の瀬までなんてさ、エロ顔の仕納めってこと?」
飄々と笑っている国村は、もう山岳救助隊服に着替えている。
ほら行くよと笑いながら国村は、ぼんやり座りこむ英二の腕を掴んで立たせた。
そして更衣室へと連行すると、勝手に英二のロッカーを開けて救助隊服を投げてきた。
「さっさと着替えな?登山道巡視もう出る時間だろ?ボケッとしてるんじゃないよ」
「あ、うん…ごめん、」
ぼそりと答えて英二は着替え始めた。
そんな沈んだ英二の様子に国村は少し首傾げると、英二の左肩を掴んで覗きこんだ。
その肩には1つ赤いきれいな痣が刻まれている。周太がクリスマスにキスでつけてくれた大切な痣だった。
「…なんだよ、国村。勝手に見ないでくれる?」
「うん?お前さ、なに急に不機嫌になってるんだよ?いつもなら幸せそうに笑って喜ぶくせにさ」
「あ、うん…ごめんな」
国村の言うとおり自分は不機嫌になっている。
ひとつため息を吐いて救助隊服を着終えた英二に、国村が訊いてくれた。
「ほら、言いたいことあるんだろ?言えよ宮田」
「うん、…じゃあさ、言うけど」
ちょっといったん切って英二はウィンドブレーカーを着ながら国村の目を見た。
相変わらず底抜けに明るい目が話してみろよと笑ってくれる。
英二は更衣室の扉をあけながら、国村に訊いてみた。
「周太がさ、一緒に風呂入るの断固拒否するんだ。なんでだと思う?」
言った途端に国村の細い目が呆れたように笑った。
そして人差し指一本立てて「まあ待てよ」と目で笑うと、駐在所の奥へと声をかけた。
「岩崎さん、警邏と巡視行ってきますけど」
「おう、ちょっと待て」
奥から岩崎が出てきて簡単な引継ぎをしてくれる。
それが済むと国村が笑ってちょっと背筋伸ばして立つと、折り目正しく敬礼をしてみせた。
「では、国村警部補、宮田巡査と警邏の任務に行ってまいります」
「はい、よろしくお願いします」
そんな改まった挨拶を交わすと笑い合って、それから駐在所の外へと並んで出た。
外の空気は凍てついて吐く息が真白な靄になる向こうで、夜闇に透ける森の梢が霜で白い。
人通り多い雪残る道を歩いて御岳山へ向かう道すがら、英二はたった今生まれた疑問を横へと訊いた。
「国村ってさ、警部補なんだ?」
訊かれて国村がちらっと英二を見やり笑った。
その頬がすっかり寒さに紅潮している、そんな幼げに若返った顔でからり答えた。
「うん?そうだよ、知らなかったっけ?」
「ああ、初めて聞いた。でも国村は高卒任官で先輩だけど俺とタメだろ?23歳で警部補の昇進試験って受けられるのか?」
英二や国村は警視庁の採用試験に合格し警察官となった、いわゆるノンキャリアになる。
ノンキャリアの階級は巡査から始まり、警部までは階級ごとに昇進試験を受け合格することで昇進していく。
巡査部長への昇進試験を受験する資格は、大卒の場合は実務経験1年、高卒なら4年。
その次の警部補は巡査部長合格から大卒は1年、高卒は3年で受験資格を得ることになる。
そうすると高卒の国村の場合、順調に合格しても警部補の昇進試験は26歳で受験資格を得ることになる。
だから23歳で警部補なのは計算が合わない、どういうことだろう?
そんな疑問の顔でいる英二に、ちょっと国村は笑って答えた。
「うん、巡査部長は去年受験して合格したね。警部補の昇進はこの間の春だけどさ、まあ『口封じ』だよな」
「口封じ?」
昇進が口封じ?どういうことだろう。
思わず訊き返した英二をちらっと見、底抜けに明るい細い目がすっと可笑しそうに細められる。
そんな細めた目のままで国村は唇の端を上げた。
「春の雪山でさ、ちょっと間抜けなヤツに物申した。それだけだよ?」
国村はトップクライマーだった両親やその友人の後藤副隊長、親戚の田中など一流のクライマー達に山ヤへと育てられた。
そして5歳で奥多摩最高峰の雲取山へ自力で登り、幼少期から職人気質のクライマー「山ヤ」として生きている。
そんな国村は峻厳な山の掟に向きあい、小さな人間の範疇には捉われない誇らかな山ヤの自由が明るい。
だから無秩序な登山者には厳然とした態度で臨み「国村の一言」でキツイお灸をすえてしまう。
そのお灸がとんでもないことが多い、けれどそんな国村を山ヤであれば誰もが好きでいる。
国村なあ。以前に不用意な道迷いで救助した、さるお偉いさんを号泣させた事があってなあ
11月の鷹ノ巣山での道迷遭難の捜索時、後藤副隊長が英二に言ったある経緯。
その経緯のために山岳救助隊の皆が「国村の一言」に気を遣うようになったらしい。
もしかして「さるお偉いさんを号泣」が国村の言う「口封じ」と関係あるのだろうか?
ならんで歩く通りに並ぶ夜店を眺めながら、可笑しい答えを予想しながら英二は訊いてみた。
「国村、なんて『物申し』てお灸すえたんだ?」
「うん?そうだな、確か『勲章と命だとさ、どっちが重くて大切ですかね?』って感じかな」
いま国村は「勲章」と言った。
以前にも国村は勲章について笑ってのけたことがある。
「勲章がいっぱいついている人はさ、一個くらい軽くした方が体に良いよな」
2月開催の警視庁拳銃射撃大会にむけた練習へ通う道で、国村はそんなことを言って笑っていた。
それと考え合わせると国村がお灸をすえた「間抜けなお偉いさん」はいったい誰なのか?
勲章がいっぱいついて、勲章と生命の重みを問われるような人間。
なんだかとても嫌な予感と痛快な予想がする、思ったままを英二は声を低めて訊いてみた。
「もしかして国村…警視庁の関係者にお灸据えたんだ?」
しずかに訊いた英二の目を細い目が可笑しそうに見つめ返した。
細い目は底抜けに明るいまま、愉快な記憶を面白がるように国村は口を開いた。
「そうだけど?あいつ『やんごとなき方が登られる事前の視察』とか言ってさ、春先に青梅署に来たんだよな。
で、副隊長と俺で案内したんだよ。でさあ?その時期に登るくせにさあ、軽アイゼンも持って来ないんだよね。
そのくせ温泉に行く準備は持っていやがる。危機感覚ゼロ、そんなのが危険に向かう警察官のトップだなんてさ、マジ間抜けだろ?」
文学青年風に上品な顔が「あいつ」呼ばわりでせせら笑っている。
そして「そんなのがトップ」と国村は言った、英二は卒業式で見た勲章で埋めた制服姿の男に少し同情した。
同情はするけれど、確かに国村が言うとおり「間抜け」としか思えない。
春先の奥多摩は雪が残る、それを知らずに軽アイゼンも持たず視察に訪れることは、立場的にも下調べが杜撰すぎる。
そういう態度は警視庁幹部として恥ずかしい無知だろうし、奥多摩地域への軽視が透けて伺えてしまう。
きっと彼の態度は、山岳救助隊全員の神経を逆撫でしただろうな。そっとため息を吐いた英二の横で国村は「間抜け」の話を続けた。
「でさ、その前の夜に20cmくらい雪降ったんだよね。
だからさあ、アイゼン貸しましょうかって俺は言ってやったよ?
でも、あいつさあ。ちっとも言うこと、聞かないでさあ『私には不要だ』なんて、空威張りしやがるんだよね」
「アイゼン履かずに、どこに登ったんだ?」
ちょっと驚いて英二は訊き返した、雪山でのアイゼン不使用は転倒の危険が大きくなる。
まして奥多摩は低山とはいえ登山道は急斜や急登も多く細い尾根道もある、足元の不用意での滑落事故も多い。
いくらなんでも無謀だろう、そう考えながらすれ違う町の人と挨拶を交わしながら国村が答えた。
「鷹ノ巣山だよ、浅間尾根から登ってさ、石尾根を下るルート。
で、六ツ石山まで来たとき、水根山付近の救助要請があったんだ。なのにさあ、あいつ『私は早く下山したい』とか言い出してさ。
仕方なく副隊長だけ救助に行ったんだよ?マジありえない。で、あいつと俺は2人にされてさあ、ほんと面倒くさかったよ?」
遭難救助の邪魔までするなんて?さすがに英二は呆れてすこし目を大きくした。
そんな英二を見ながら国村は、さらりと付け加えた。
「そしたらさあ?ちょっと滑落したんだ、あいつ」
さらりと「ちょっと滑落」だなんて言うことは、ほんとうに2,3m滑った程度なのだろう。
まあ大事なくてよかったと思いながら英二は微笑んだ。
「やっぱりアイゼンないと怖いよな。すぐ助けられた?」
「まあね、助けてくれっていうからさ。で、助けてやったよ?
でもさあ、あいつ。今度は俺に説教なんか始めやがってね『君たちのルート選択が悪いからだ』だってさ、ねえ?」
救助の邪魔をし、山のルールに従わず滑落したうえ、理不尽な説教まで国村にしてしまった。
これで無事には済まされる訳はない。仕方ないなと思いながら英二は「それから?」と目だけで国村に訊いてみた。
そんな英二に愉快げに細い目がすっと細く笑んだ。
「だからさ、あいつに自分でルート選ばせてやったんだ。それで違う道を下山することになってさ。で、あいつ泣いたんだよ」
ただルート選択しただけでは泣かない、その選択ミスでアクシデントでも起きたのだろう。
たぶん国村はアクシデントを予想してそんな対応をしている、英二は訊いてみた。
「どこのポイントで何て言って、ルート選択させたんだ?」
「うん、三ノ木戸林道と石尾根に別れる三叉路だよ。俺は予定通りにこっち行きますけど、お好きな道をどうぞ?ってね」
その分岐点は石尾根と、三ノ木戸山頂にむかうルートと三ノ木戸林道から下山するルート。
きっと石尾根は意地で選ばないだろう、そうすると残り2つを選ばざるを得ない。
そのルートが問題になる、英二は解答をしてみた。
「三ノ木戸山頂へ行って、それから三ノ木戸林道を下ったけれど道迷いになった。そんなとこ?」
「当たり。しかもさ?あいつ地図も懐中電灯も持っていなかった。
山の三品は必要だってくらいさ、警察学校では山岳訓練で教わると思うんだけど。キャリアは大学校で教わんないのかな、ねえ?」
「多分教わると思うんだけど。でも、それじゃ道迷いしちゃうだろうな、」
三ノ木戸林道は別名を小中沢林道とも呼ばれ、針葉樹林帯を抜けるために暗くなりやすい。
そして標識はあるが仕事道が交差する迷いやすい道になる。
そういうルートを地図も持たず、「山の三品」の1つ照明器具も持たないで歩くことは危険だろう。
警察官としてそれくらいは知って装備してほしいな、そう考えている英二に国村は言った。
「三品も持たずに道迷いで遭難なんてねえ?ほんと山を舐めきってるよな。あんなヤツが山岳救助隊の上司であるわけないよな、ねえ?」
すごい痛烈な皮肉をからりと国村は言ってのけた。
ほんとうにこんな道迷い遭難を警察官がしたら、恥さらしもいいところだろう。しかも山岳救助隊の上司とはとても言えない。
なぜ「あいつ」が泣いたのか?きっと同じようなことを言ったのだろう、横へと英二は訊いてみた。
「国村さ、今言ったことを言ったんだろ?どんな状況で言ったんだ?」
「奥多摩交番に戻って茶を飲んでいたらさ。あいつから携帯で救助要請が交番に来たんだよね。
で、水根山の救助から戻っていた副隊長とさ、あいつの遭難救助に出動したってわけ。
もう暗くなってる林道でさあ、真っ青な涙目で俺に抱きついてきたんだよ、あいつ。ほんとマジ迷惑だよな、ねえ?」
可笑しそうに笑いながら国村はヘッドライトを点灯すると、御岳山登山口へと歩き始めた。
英二もライトを点けて登山口へはいると、ぱりんと薄氷の割れる感触が登山靴の底に広がる。
今夜も冷えるなと並んで歩きながら「マジ迷惑」な情景を思って英二に苦笑いが浮かんだ。
「それで国村、抱きつかれたところで言っちゃったんだ?」
「当然だろ?むさくるしいオッサンに抱きつかれたんだ、我慢の限界もあるよなあ。で、言わせてもらったよ
『出鱈目な遭難で命落としかけた人間が、首都の治安を守れるとは不思議ですね?勲章と命はどちらが重くて大切かな』ってね」
3月では奥多摩はまだ寒く、雪があれば凍死による遭難死もある。
凍死者は幻覚症状から錯乱状態になることがあるが、そんな手前だったのかもしれない。
「真っ青だった」と国村も言っている、割と危険な状態まで追い込まれていただろう。でも自己責任の問題が誘引したことだ。
なにより山ヤとしては国村の怒りは正当だし、警察官としても「あいつ」の態度と行動は褒められない。
結局は小さな警察社会の「箱庭」人間らしい人なのかな。そんな感想と歩きながら登山道に気を配る英二に、国村は続けた。
「そしたら数日後に昇進の辞令が来たんだよ。でもまあ、昇進の理由なんか聴いていないし?口封じになるかは俺次第だけどさ」
「…あ、そうだよ国村?俺に話してよかったのか?」
気がついて英二は横を歩く色白の顔を見やった。
けれど国村は飄々と笑いながら冷気に紅い頬で、からりと言ってのけた。
「うん?だって宮田はさ、俺の生涯のアイザイレンパートナーだからね。
万が一のためにさ、知っておいてもらう方が無難だろ?大体、あんなヤツの考えになんで俺が従わなきゃいけないんだ?」
国村が自分をそうやって信頼してくれる事はうれしいなと思う。
でも少しは許すことも「あいつ」にとっても必要かな、そんな想いで英二は自分のパートナーを見た。
「そうだな。でもまあ隠したくなる気持ちもさ、解らないでもないんだろ?」
まだ23歳で高卒任官の巡査部長に、大幹部の自分が泣いて縋ってしまった。
それを警視庁山岳会長でもある後藤に目撃されてしまい、しかも泣いた原因が自分の油断が招いたミス。それは隠したくもなるだろう。
けれど細い目は底抜けに明るく笑いながら「嫌だね、」と答えた。
「あいつは自分でミスを犯したんだ、危険管理に責任ある立場のくせにね。その責任と恥を消そうなんてさ、甘ったれすぎるだろ?」
「うん、」
やっぱり国村は厳しい、そして言う通りで何もフォローなんかできない。
そう素直に頷いた英二に国村は唇の端を上げてみせた。
「けれどさ、こんな特例の昇進させるなんて、ねえ?
自分から『なにかありました』って自白するようなモンなのにさ。それとも俺が恐縮するとでも思ったのかな?
なんにせよ、ほんと良いカードをくれたよな、あいつ。このカードは何の目的で使うかな、ねえ?宮田は何か良い案ある?」
そして国村は怜悧で冷静沈着な悪戯好き知能犯だ、きっと「良いカード」もすごい使い方をするだろう。
あのひと助かったのは良かったけれど、また随分と悪い相手に弱みを握られたものだな。その点は英二は心からの同情を寄せた。
けれどこの「良いカード」を国村がどう使うのかもちょっと楽しみになってしまう。
いったい何に国村は使う気だろう?考えながら登山道を抜けると富士峰園地へ出た。
「ここは人、そんなに多くないな」
「うん、この時間は社殿が混雑するよね、やっぱり」
話しながら歩いて、いちばん見晴らしのいい場所に並んで立った。
そこからは新宿の夜景が遠くはるかに、けれど華やかな無数の燈火があざやかに眺められていく。
あの大きなビルらしき灯りの辺り周太がいるのだろうな。見つめる目がふっと熱くなりかけて英二はゆっくり瞬いた。
―今夜も一緒に居たかったな、
クリスマスは幸せだった。
朝早く雪の中を電車に乗って本を読む合間、会ったら何て話そうか考えて。
仕事を終える周太を待ちながら雪の街角に佇んで、驚いて喜んでくれる顔を想いながら幸せで。
11月に別れた木の下で抱きしめて、一緒にカフェで公園のベンチで、それからショップと花屋で。
そして川崎の家で過ごした、やさしい温かな時間と熱い甘やかな時は幸せで離れられなくて。
―新宿での別れが、辛かったな
クリスマスの翌日は、ゆっくり朝食をとってから屋根裏部屋でのんびり昼寝して。
それから庭をすこし散歩してから簡単な昼食をとって、一緒に片づけて。
片付けが終わった周太がエプロンを外しながら微笑んで訊いてくれた。
「ね、英二?午後は何しようか…川崎を散歩する?それとも新宿へ出る?」
「午後」と聞いて英二は途端に寂しくなってしまった。
もうあと8時間くらいで離れないといけないー別れを意識した途端に哀しくなった。
そして気がついたら周太を抱き上げて階段を登り始めていた。
「…英二、どうしたの?」
「俺が周太を抱っこしたいんだ…いいよね、俺の婚約者さん?」
「…あ、」
驚いている周太を静かにベッドへ沈めると、そっと抱きしめ唇を重ねた。
そんなつもりは無かったのに離れる時刻が迫ることが哀しくて、もう離せなかった。
離れてしまうなら少しでも温もりを感じたくて、熱を刻みたくて止められなかった。
そうして素肌を抱きしめて目覚めた時、陽射しはゆるく朱色を帯びていた。
「…周太、」
名前を呼んで、飽きずに黒目がちの瞳を見つめて。
やわらかな髪を長い指で梳きながら、暗くなるまで抱きしめたまま過ごした。
そんな時間は愛しくて、けれど別れが迫ることが切なくて。どうしようもなくて唇を重ねて抱いて、愛しい温もりを求めて。
こんなに離れたくないなんて自分はどうかしている?そう想ってしまうほどに離れたくなくて、離せなかった。
そんな自分に周太は静かに微笑んで、そっとキスをしてくれた。
「…ね、英二。大丈夫だよ?俺はね、いつも英二の帰る場所でいるから…
だからね、英二?…俺の想いをね、そのクライマーウォッチに見つめて?
俺も英二のクライマーウォッチに英二を見つめるから…そうやって離れても傍にいる、だって…こんやくしゃなんでしょ?」
最後の方が気恥ずかしげなトーンになったのが可愛くて、やっと英二は笑うことが出来た。
そして頬に頬寄せてキスをして、もう一度抱きしめてやっと英二は腕をほどくことが出来た。
「うん、婚約者だ。周太はね、俺の嫁さんになる運命だよ?だからさ、そのためにも俺、ちょっと頑張ってくる」
「ん、…頑張ってきて?待ってるから…英二だけを、ね」
そんなふうに笑いあって、それから支度をして新宿に出て。
いつものラーメン屋で食事して店の主人とも笑いあって。
そしていつものカフェのベンチでいつものホットドリンクを楽しんで、新宿署独身寮の傍の木の下で別れた。
そしてほんとうは、木の下から見送る姿が寮の階段へと見えなくなった瞬間、涙がひとつこぼれ落ちた。
―こんどの金曜日には、あえるといいな
今のところは英二の週休と周太の非番が重なる日になっている。けれどもし遭難救助が入れば英二は召集がかかるだろう。
年始のあいさつと婚約の許しを周太の母に話しもしたい、何も起きないでほしいな。そんな想いに思わず1つため息を英二は吐いた。
そんな額を小突かれて英二は横に並んだ、友人で同僚で2階級も上だった男に微笑んだ。
「なに、国村?」
「なに?じゃないだろ、お前のさっきの質問だよ?」
「あ、…風呂のこと?」
さっき「周太がさ、一緒に風呂入るの断固拒否するんだ。なんでだと思う?」と訊いてそのままだった。
そういえば国村の階級の話題になっていた、そのあと考え事していたな。あらためて英二はこの怜悧な友人に尋ねた。
「なあ?なんで周太はさ、一緒に風呂入ってくれないんだろ?警察学校では毎日一緒だったのに」
「うん、当然じゃないの?」
さらっと答えると国村は可笑しそうに笑った。
なにがそんなに可笑しいのだろう?すこし首傾げて見つめる英二に呆れたように国村が教えてくれた。
「前は友達だから意識しなかったんでしょ。しかも彼はその頃まだ処女だろ?恥じらいとか知らなかったろうね」
男に「処女」という言葉は普通は遣わないだろう。
けれど周太には何だか似つかわしくて、英二も自然と頷いてしまった。
「そうか、前と今とじゃ違うってこと?」
「そ。今はもう友達と違うしさ。裸ですること、やられちゃってるだろ?それで恥ずかしいんじゃないの」
なるほどなと思いながら英二は聴いていた。
でも自分は一緒に入りたいのにな、そう考えていると額をまた小突かれて国村が笑った。
「だからさ、宮田?おまえはね、やる方だから気にならないの。
でも彼は初々しいだろ?そして脱がされるばっかりだからさ、そりゃ恥ずかしいんだって。
こういうことはさ、能動と受動は違うだろうが。おまえ女の経験は多いくせにさ、そんなこと解んないわけ?」
解らない、自分には。
ちょっと考えてから少し笑って英二は答えた。
「うん、解らない。だって俺、一緒に風呂入りたいとか周太以外には無かったし。
こんなにいつも考えていることも周太が初めてだよ。俺はね、ほんとに周太が初恋なんだ。
だからさ、たぶん前の経験とかは別だと思う…ほんとにさ、こんなに一緒に居たいとか思わなかった、俺」
ずっと一緒にいたいな、だからこそ山岳救助隊も最高峰へ登ることも辞められない。
ずっと一緒にいられる日を迎えるために、今を我慢して努力しなくてはいけない。
そう解っていても気持ちは誤魔化せない。また溜息をつきかけた英二の背中を、ポンとひとつ平手で国村が叩いてくれた。
「5日はさ、俺んち忙しいから休みほしいんだけど?宮田の7日とシフト交換してよ」
「うん、…いいけど?じゃあ射撃と山の訓練も7日に移動か?」
7日は土曜日で射撃訓練場の武蔵野署までは道路が混むかな。
そう考えていると額を白い指にきつめに小突かれて、英二は眉をしかめた。
「痛いよ、国村?」
「痛いよじゃないよ?おまえって賢いくせにね、時々なんか馬鹿だよなあ。7日は射撃行かなくていい。
代わりに6日の早朝に山登ってさ、その後に朝一で武蔵野署へ行くよ。それで青梅署に10時に戻れば、昼に新宿へ着けるだろ?」
6日は週休でまだ正月だから、後藤と吉村医師の個人指導は休みになっている。
そして7日が一日自由なら2日休みがとれて、6日非番で7日週休の周太と休みが合わせやすい。
それでも周太は多分非番は午前中が射撃訓練だろう、でも昼前には終わるから待ち合わせが出来る。
「国村、気遣ってくれてんの?」
「宮田がこんだけ萎れてるってことはさ、たぶん湯原くんはもっと、だろ?それに富士の訓練前に逢いたいんだろ?」
英二と国村は今月中旬には富士山での雪上訓練を2泊3日で行う予定になっている。
標高2,000mを超える場所、本格的な雪渓での登山は英二には初めてだった。
後藤副隊長と岩崎駐在所長が相談して日程を決め、パートナーを組んで訓練できるよう計らってくれている。
その訓練前に出来れば顔を見せて、周太とその母を安心させてやりたいと思っていた。
けれど何も英二は言っていなかった、それでも国村は気づいてくれている。うれしい感謝に英二は微笑んだ。
「うん。俺、逢いに行きたかったんだ。ありがとうな、国村」
「どういたしまして。ま、俺も5日は忙しいからさ、ちょうどいいかなって思ってね。
それにお前、富士山でそんな気の抜けた顔されたら危険だろ?
アイザイレン組むんだからさ、俺の命かかってるんだ。きっちり充たされてさ、気を引き締めてこいよ?」
明け透けだけれど細やかな気遣いは的を得ている、そして心から考えてくれている。
もう本当に「生涯のアイザイレンパートナー」なんだな、こういう友人がいるのは良いと英二は微笑んだ。
「うん。ありがとう、国村」
「おう、…あ、そろそろお互い時間だな。じゃ、宮田。10分後またな」
からりと笑うと国村は、端に雪残る武蔵御嶽神社の参道へと歩いて行った。
そこで国村は美代と新年の顔合わせを毎年している、そうして任務合間にも年越しには寄り添うのが恒例らしい。
あの二人のそうした決まり事は、本当に小さい頃からずっと積んでいるものばかりでいる。
そのどれもが自然で純粋できれいで、幸せになってほしいなと英二は心から祈ってしまう。
国村のアイザイレンパートナーとして、どこでも国村の無事を俺が守ろう。
そんな願いをそっと想ってから、英二はクライマーウオッチを眺めながら携帯電話を開いた。
時刻は23:58、発信履歴から英二は通話を繋いだ。
「待ってた?周太、」
「ん、…待ってた。だって英二の声、…聴きたかったんだ」
気恥ずかしげな声が穏やかに答えてくれる。
その向こうの喧騒は新宿の神社が賑わっていることを教えている、きっと周太は寂しかっただろう。
微笑んで英二は愛しい想い人へ話しかけた。
「俺こそ周太の声はずっと聴いていたいよ?抱きしめて見つめたいな、周太は俺の婚約者なんだから。ね、携帯も繋がったろ?」
幸せな呼び名「婚約者」もうこう呼ぶことを自分は許されている。
そんな呼びかけに恥ずかしそうに頷いて、ゆっくりしたトーンで周太は答えてくれた。
「ん、…うれしいな。あのね、いま、奥多摩の方角をね、見てるよ?」
「そういうのってさ、うれしいよ、周太。俺はね、いま御岳山から新宿の街を見てる。周太のこと見てるよ?」
除夜の鐘が響いていく奥多摩の山脈、山上の神社の荘厳だけれど賑やかな空気。
そんな向こうへ眺める山嶺の彼方には、新宿の街の灯が満天の星を映したように輝いている。
あのひとつに周太がいま立って、自分と声で想いを繋いでいる。その左腕に自分のクライマーウォッチを見つめながら。
そんな愛しい姿を想いながら微笑んだ英二に、おだやかな声が聴いてくれた。
「…英二?御岳山は雪があるの?」
「少しだけあるよ、でも風が少し湿気ているから明日の朝は雪かもしれないな…あ、」
話しながら左腕のクライマーウォッチを見て英二は微笑んだ。
そして迎える年の最初の想いを愛する婚約者へと英二は告げた
「あけましておめでとう、周太。今年もよろしくな、俺の婚約者さん」
うれしくて幸せな、新年最初に告げた想いと願い。
想いも願いも繋いだ電話から、気恥ずかしげな微笑みと一緒に返してくれた。
「あけましておめでとうございます、英二…いちばん大切なひと、今年も無事に帰ってきて。ね、英二?」
無事に帰る、それは絶対の約束。
今年だけじゃなく一生ずっと帰るからね?そんな想いと一緒に英二は周太に約束を一つ教えた。
「おう、帰るよ?一生ずっとね。でね、周太?6日の昼に新宿で待ち合わせよう?そしたら夜はさ、川崎の家に泊まれるかな?」
「…休みがとれるの?英二」
すこし息をのむような驚きと期待に満ちた声が伝わってくる。
こんなふうに喜んでくれる、うれしくて英二はきれいに笑って答えた。
「うん、2日休めるんだ。だからね、周太?遅くなるけれどさ、正月をしよう?お母さんにも連絡していいかな?」
「ん、…連絡してあげて?きっと喜ぶから…じゃあね、おせち少し作るね。簡単にだけど…」
おせち料理を手作りで。
英二にとっては初めてのことだった、いつも実家では決まった店の仕出しだったから。
それも周太が作ってくれる、うれしくて仕方ないままで英二は言った。
「周太、それすげえ幸せなんだけど?なんか婚約者の特権って感じだし。どうしよう俺、テンションあがってこの後、大丈夫かな?」
「あ、…任務はちゃんとして?しかも夜間登山なんだからね、気をつけて?…でないと作ってあげない」
「うん、わかった。俺、ちゃんと落ち着いて任務遂行します。だから作らないとか言わないでよ、周太?」
そんな会話で笑ってから、約束をして電話を切った。
携帯をポケットにしまいながら振り向くと、もう国村が立って待っていた。
「よお、休暇は喜んでくれた?」
「すごい喜んでくれた。ありがとうな国村」
底抜けに明るい目を温かに笑ませて、おだやかに国村が微笑んだ。
こういう顔のときは、本当に優しげな温もりが国村はきれいでいる。
けれどすぐ愉快げに細い目が笑って国村は言った。
「ま、ね?アイザイレンパートナーの婚約者はさ、哀しませるわけにいかないだろ?」
英二はまだ誰にも、周太と婚約したことは言っていない。周太の母にも6日に話すつもりでいる。
だのにどうして国村は知っているのだろう?考えかけてすぐに納得して英二は笑った。
「おまえさ、10分後って言っておいて8分後には背後にいただろ?」
「あれ、そうだった?まあ、ちょっと話が聞こえちゃったかな。幸せな会話を聞くのは良いもんだよな、ねえ?」
そんな会話をしながら雪と氷が残る中を、御岳山から大岳山を回って歩いていく。
除夜の鐘は山上にも響き渡る、冬は空気が澄んで音の屈折もあってよく聞こえる。
こんなふうに山で年越しをするなんて、前の自分には想像もつかなかった。けれど今ほんとうに楽しい。
途中でアイゼンを着脱しながら雪道を歩いて、御岳駐在所へとAM2:00に2人は戻った。
「うん?…明日は新雪かもしれないね」
「やっぱりそう?ちょっと風が湿気てるよな」
どうも雪の気配が空気にある、国村も同じ意見らしい。
そんな話をしながら中へ入ると、奥の休憩所から藤岡が笑いながら出迎えてくれた。
「お帰り。約束の持ってきたよ」
「うん、ありがとうね。藤岡はもう上がり?」
「そうだよ。ウチの管轄の神社はさ、もう人出が引けたからね。御岳はまだすごい人だなあ」
楽しそうに話しながら国村は、藤岡が持ってきた紙袋を開けていく。
夜食に差し入れを持ってくると藤岡が言っていた。何を持ってきてくれたのかな。
そう思いながら更衣室で活動服に着替えると、英二は休憩室を覗きこんだ。
そして英二は絶句した。
「…なあ、それってさ?いつもの酒じゃないの?」
見慣れた一升瓶が駐在所の休憩室で鎮座していた。
その前にコップを持った国村が、細い目を笑ませて座りこんでいる。
持っているコップの中身はもう半分になっていた。
ご機嫌で国村はコップを啜ると、楽しげに英二に言った。
「これはさ、正月の縁起物だよ。で、俺が賭けで勝ちとった酒だからね。いつもより旨いかな」
「あ、…俺の肩の?」
国村と藤岡は英二の左肩の痣で賭けをしていた。
その痣は周太が英二にキスで刻んでくれた想いの痣だった、これを英二は風呂の時に藤岡に見つかり国村にも見つけられている。
そして2人は賭けようとなり、年明けまで痣が残っていれば国村の勝ちで、年越し警邏明けの酒を藤岡が奢るという話だった。
「うん。負けたから俺、買ってきたんだよ。でもさ、宮田と湯原が幸せそうで良かったよ。だから俺、賭けに負けても嬉しいな」
負けたくせに幸せそうな人の好い顔で藤岡が笑ってくれる。
やっぱり藤岡って良いヤツだ。英二は藤岡の酒で赤い顔に微笑んで、こんどは国村に話しかけた。
「それで国村、さっそく勝った酒を呑んでるんだ?」
「そ。こういう酒って旨いよな」
そう言ってまたコップを啜りこむと、立ち上がって英二の腕を国村は掴んだ。
これは嫌な予感がする、腕を解こうと白い掌を掴んだけれど離れない。
そんな英二に上品な笑顔だけれど底抜けに明るい目で、国村が笑いかけた。
「ほら、宮田?俺はお前の先輩で階級も上なんだよ?酌ぐらいしろよな」
「なに国村?こんな時だけ先輩になるわけ?」
可笑しくて英二は笑ってしまった。
その声を聴いて岩崎も奥から出てくると、休憩室の様子に笑い出した。
「お、国村?今年は仲間がいて楽しそうだな」
「はい、今年は良いですよ。岩崎さんも座ってください、祖母の差入よかったらどうぞ」
「お、うれしいなあ。国村のお祖母さんの料理は旨いよな、うちの嫁さんも褒めてたよ」
さらっと岩崎も酒宴に加わってしまった。
毎年こんな雰囲気なのかな?そう眺めながら英二は、岩崎のコップに酒を注いだ。
「おう、宮田ありがとうな。うん、男でも美人の酌は良いよなあ」
「そうですか?じゃあ俺の見た目も、職場に役立っていますか?」
「ああ。宮田の笑顔はさ、遭難者だけじゃなく町の人にも好評だよ。もうファンレターぐらい貰っているんだろ?」
こういう質問は酒の席だと多いな?とくに何も言わずに英二は微笑んで箸をとった。
重箱の料理を口に入れてしまえば、答えなくても済むだろう。
そう思って口を動かしていると、国村が勝手に答えてくれた。
「その通りですよ、岩崎さん。宮田、もう10通くらいお礼の手紙貰ってます。女性8割で子供が1名、あと男性1名ですけどね」
「へえ、宮田って相変わらずモテるんだなあ」
「ふうん、さすがだな宮田。やっぱり美形はそんなもんか?」
案の定な風向きに英二は少し首傾げるだけで答えた。
どうやら年越の警邏と巡視が明けると、こういう席になるのが恒例らしい。
自分まで酒の肴にされてはいるけれど、こうして友人や尊敬する先輩と呑むことは楽しい。
でも一応ここは酒は呑まないでおこうかな?そう思いながら英二は夜食を口に運んだ。
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