見つめる想いと一緒に
第31話 春隣act.1―side story「陽はまた昇る」
目覚めた視界は青い暁闇に見つめられた。
夜明けはいくぶん遠い静謐に部屋は鎮まっている。きっと3時頃と枕元のクライマーウォッチを見ると長針と短針の位置は予想通りだった。
今朝も時間が当って英二はちょっと微笑んだ。そのまま起きあがって窓を見ると白く曇っている。
静かにサッシに手をかけて開けていくと、その隙間からそっと水けを含む冷気が部屋へ滑りこんだ。
そんな冷気に白いガラス窓を開いた向こうは、白銀おだやかな山麓の街が夜の底に眠っていた。
「…新雪だな、」
そっとつぶやいて英二は笑った。きっと今頃は国村も喜んで外を見ているだろう。
笑って見つめる山嶺は雪明りに白く夜に稜線を描いていく、その上空には雪雲がまだうすく残っている。
山上は雪が降っているかもしれない、そのつもりで装備を準備しようと英二は窓を閉めた。
これから山岳訓練を3時間半コースで国村とこなす、そのあと武蔵野署で射撃訓練をして青梅署に戻り携行品返却をする。
それから新宿で周太と12時に待ち合わせて、川崎の家に向かう。
今日はハードスケジュールになるけれど、どれも英二には楽しみだった。
年明けてからは山岳訓練も射撃訓練も初めてになる、どちらも1週間ぶりで楽しみに思えてしまう。
御岳駐在所は管轄に武蔵御嶽神社を持つため、年末年始は警邏や参拝登山客の対応など忙しい。
そのために訓練は休憩合間の短時間ですむボルダリングやザイル下降しか出来なかった。
登山は国村とのショートコースでの早朝登山や御岳山巡回はほぼ毎日こなしてはいる、けれどグレードがやはり違う。
「そういえば、今日はどの山に登るか訊いてなかったな?」
思わず独りごとに英二は首を傾げた、いつもなら前夜にはコースを言われて地図でチェックをする。
けれど昨日はシフト交替で非番になった国村は、実家に帰って家のことをしていた。それで帰寮も遅かったらしい。
でもメールもないから多分、英二がよく知っているコースなのだろう。
そう考えながら着替えを済ませ救急用具の点検が終わるころ、また扉が勝手に開かれて国村が覗きこんだ。
「おはよ、宮田。出れる?雲取山に行くよ、野陣尾根で急登の訓練な」
「おはよう、出れるよ。って国村…勝手に鍵開けたらダメだろ?」
隣室に迷惑かけないよう笑いながら念のため英二は文句を言った。
けれどやっぱり国村は飄々と笑っている。
「ノックしたら近所迷惑だろ?どうせ簡単に開くんだしさ、このほうが手っ取り早いよ、ねえ?」
「まあな、確かに音はしなくていいけど」
もとから器用な国村は道具でも料理でも何でも工夫がうまい。そして射撃や逮捕術も器用にこなして特技になっている。
そんな特技のひとつが「開錠」らしく、いつも英二の部屋の鍵も針金で簡単に開けて入ってしまう。
もし警察官でも兼業農家でもない無職なら、凄腕の犯罪者になってしまったかもしれない。
こいつが農家の一人っ子長男に生まれた事は、世の中にとって幸運かもしれないな。
そう考えながら笑う英二の顔を見て、すうっと細い目をさらに細めて国村が笑った。
「宮田?おまえ、また俺のこと犯罪向きとか考えてるだろ?」
「うん、だって本当だろ?」
登山靴を履きながら英二は素直に答えた。
そんな英二にゲイターを投げてよこしながら愉快げに国村が答えた。
「だね。まあ、そういう転職する時もさ、おまえには声かけるからね。生涯のアイザイレンパートナーとしてさ、ねえ?」
「犯罪までアイザイレンパートナーするのは嫌だよ?周太が哀しむことは俺、絶対にしないからな」
「おまえってさ、ほんと湯原くんが全てだよね。やっぱり婚約するって違う?」
登山靴の上からきっちりゲイターを履いて、ザックを背負うと英二は立ち上がった。
そして同じ高さの細い目を見て、幸せに英二は笑いかけた。
「そうだな、人生をきちんと背負わせてもらえたなって自信になるな。でも周太が全てなのは、つきあう前からなんだ、俺」
「ふうん?それってさ、いつからだよ。あ、時間無いから歩きながらね?」
しずかに廊下へ出て扉に鍵をかける。午前3時20分、まだ寮は眠りの静寂にしずまっていた。
まだ薄暗い廊下を、冬用登山靴の固い踵が鳴らないよう気をつけて歩いていく。
個室エリアを抜けてから低い声で英二は答えた。
「…前にさ。国村んちの河原で、初めて藤岡も一緒に飲んだ時に話したことだよ」
「…あばずれに振られた脱走の夜?それとも、公園の初ベンチか?」
さらり「あばずれ」と言われて英二は横の顔を見た。
当時の彼女に騙されて英二は警察学校を脱走した、その彼女を国村は「あばずれ」と呼んでいる。
そんな国村は上品な顔で飄々と笑っている、けれど英二の話を思いだして国村は怒っているのだろう。
こんなふうに国村は怒ると笑顔のままでも、さり気なくキツイことを言ってしまう。
なんだか申し訳ない気分で英二は、すこしフォローを言ってみた。
「うん、公園のベンチの時…なあ?あばずれ、って言うのはちょっと悪いよ?俺だって悪いんだしさ」
「なに言ってんのさ、あばずれで充分だろ?」
またさらっとキツイ形容詞を遣いながら、国村は微笑んだ。
でもなと見る英二を見かえしながら人差し指一本立てて国村は笑った。
「山ヤは自然の掟に生きるから誇り高いんだ。
そういう山ヤの誇りを汚す人間はさ、自然のルールに逆らうのと同じだよ。そういう傲慢な人間は蔑まれて当然だね」
山と自然の峻厳な掟、それが自身のルールでもある生粋の純粋無垢な山ヤで国村はいる。
だからだろうか、こんな話を国村とするとき英二は、いつも山の化身とでも向き合う気持ちになっていく。
けれど国村は自分と同じ年で、上品な顔に似合わずオヤジで、愉快な友人でいる。
そして今も同じ山ヤとして友人として、当時の彼女に怒ってくれているのだろう。
こんな真直ぐな友人の想いが嬉しくて、英二は微笑んだ。
「うん、ありがとう国村。誇りを傷つけられたことはね、河原でも話した通りだ…
俺、やっぱり許せないでいる。でもさ、あのころは自分にも嘘ついて生きていたからさ、仕方なかったっても思ってるんだ」
「そんなにさ、自分を責めるんじゃないよ?まったく真面目だね、宮田はさ」
呆れたように言って、けれど細い目は温かく英二に笑いかけてくれる。
でも、と言いたげな英二を抑えるように、立てた人差し指で国村は英二の額を小突いた。
「宮田の外見が美形すぎて目立ち過ぎるからってさ、外見だけで勝手な妄想しすぎて宮田の心と向き合えなかった。それだけだろ?
そうやって宮田を傷付けたことはね、勝手な妄想にハマった相手の責任だ。おまえの責任じゃないよ、美形なのは持って生まれただけだ」
「そうかな?」
「そうだろ。おまえってさ、ほんと損な性格している時あるよね?
そんだけ美形なんだしさ、我儘に自分をゴリ押ししちゃっても普通モテるだろ?変に気を遣うなよ、おまえ素で充分いけてるよ」
そう言って国村は楽しげに青梅署ロビーから雪へと一歩踏み出した。
さくりと新雪を踏んで満足げに笑っている顔は、色白で上品に整って秀麗な文学青年風でいる。
この国村も美形だけれどずっと自由なまま生きている、自分とは何が違っていたのだろう?思ったままに英二は訊いてみた。
「国村ってさ、きれいな顔しているよな。体格も俺と同じ感じだし。でも俺みたいなことって無かったのか?」
「うん?宮田みたいに『きれいな愛玩人形』にされるってことか?」
「…うん、」
いつも褒められる「華やかな外見」に人は寄ってくる、けれど英二は実直で真面目な性格で地道な性質でいる。
だから華やかな外見通りの性格を求められると相手を失望させてしまう、そのたびに英二は傷つけられてきた。
そして本音で人と接することを諦めて、求められる姿通り「きれいな愛玩人形」として楽に生きようと思ってしまった
そう諦めてしまえば傷つくことは少なくなった、でもそれは悔しくて辛いだけの寂しい生き方だった。
けれど英二は周太と出会ったことで本音で生きることを取り戻し、そのお蔭で今ここに立っている。
周太に出会えていなければ英二は、相手の期待ばかりに応えて自分を押し殺し続けて、本当に自分を壊していただろう。
そんな生き方を一時でも選んだ自分と、ずっと自由に素顔で生きられている国村の違いは何だろう?
この自分と似ている友人の答えを知りたくて、英二は並んで歩く秀麗な顔を見つめていた。
そう英二が見つめる細い目を可笑しそうに笑ませて国村は口を開いた。
「まあね、勝手な妄想するやつはさ、いたりもするみたいだよ?」
さらっと答えて国村が笑ってくれた。
思った通りだったな。自分と同じ経験をした人間がいてくれる、そんな安心感に英二は微笑んだ。
「やっぱり?国村も性格と見た目のギャップ、酷いもんな」
「だろ。俺って結構いけてるよな?しかも性格とのギャップは宮田よりずっと酷いね。それでも外見だけで妄想するヤツいるんだよな」
「たとえば、王子様とか?」
「そ。まあ俺は和顔系だからね、『若様』とかさ、中国の武将の名前で呼ばれたりね。で、どれも耽美なイメージでさ。笑っちゃうだろ?」
話しながら雪つもった青梅署の駐車場を歩いていく。
すぐに国村の四駆に着くと、運転席に乗り込みながら国村はからり笑った。
「でも俺は俺だからさ、そんな妄想と俺は無関係だね」
自分は自分、だから人の思惑なんて関係ない。
そんな真直ぐな強さが国村らしい、なんだか嬉しくて英二は横へと笑いかけた。
「そっか。俺は俺だよな?」
「そうだよ。自分が自分であることにね、遠慮なんかいらないだろ?
宮田は真面目すぎてさ。相手に気を遣い過ぎるから、変に遠慮しすぎる時がある。
相手に遠慮してさ、相手の期待に応えないと悪いって思うだろ?そのせいで人形になっちゃったんじゃないの。あ、シートベルトしめな?」
真面目すぎて遠慮しすぎ。
自分は周りに遠慮しすぎて自分自身を歪めてしまった、そう国村は言ってくれる。
そうかもしれない、英二は国村の言葉に頷いた。
「そうだな。俺、なんか相手の期待に応えないと悪いと思ってた」
「だろ?真面目なのはいいけどね、見当違いな期待にまで応えなくていい。そういう度外れた真面目は止めときな。
だからさ、宮田。俺には絶対に遠慮するなよ、何でも言っちまいな。でなきゃ生涯のアイザイレンパートナーなんかやってらんないからね」
からり笑いながら国村はハンドルを捌いていく。
まだ暗い車窓の向こうは白銀がしずまっていた、それを友人の向こうに見ながら英二は微笑んだ。
「うん、ありがとう。俺もさ、国村みたいに我儘もっと言おうかな?」
「良いんじゃない?おまえならさ、我儘もきっと正しいよ」
そんなふうに国村は温かく目を細ませて、おだやかに笑ってくれた。
けれどすぐに底抜けに明るい目で愉快そうに唇の端を上げた。
「あ、そうするとストッパー居なくなっちゃうか。やっぱ宮田は程々にしとけ、俺が自由にできなくなる」
「なんだよ、それ?」
あっけらかんと笑う国村に英二も笑ってしまった。
一緒に笑いながら国村が続けて言ってくれる。
「だってさ、俺たちってパートナーだろ?やっぱバランスがあるね。だから俺が勝手する分をさ、宮田が真面目にフォローすりゃ調度良いよ」
「それじゃ俺、周りの期待に応えることになるよ?さっきと言ってること違うだろ、ほんと国村って自由だよな」
ちょっと呆れながらも笑ってしまう。
だってこれも国村らしい我儘と優しさの表現だろう。こうやって国村は英二に「もっと言っちまえよ」と促してくれている。
こういう男っぽい大らかな優しさが国村らしくて、そんなところが英二は好きだなと思う。
こいつやっぱり良いやつだな、そう笑っていると国村が言った。
「どうせ宮田は真面目人間だからね、我儘を言いまくるとか出来ないんじゃないの?仕方ないからさ、もう一生ずっと俺のフォローしてな」
一生ずっとフォロー。きっとそうなるのだろう、英二は微笑んだ。
生涯のアイザイレンパートナーとして、最高のクライマーをサポートするレスキューを自分は目指すのだから。
でもきっと山以外の場所では ― 周太を守るためには英二が国村にサポートしてもらうだろう。
それも国村は解ってくれている、フォローし合って山も他も越えようと言ってくれている。
それが本当にうれしくて、ありがたくて英二は笑った。
「そうだな、一生フォローするよ。だから国村、俺のフォローも頼んだよ?」
ちらっと細い目が英二を見て笑ってくれる。
それからテノールの透る声で国村が言ってくれた。
「おう、任せな。ま、俺のフォローはさ、ちょっと驚かせるかもしれないけどね?」
「ありがとう、驚くのも楽しみだな」
「だろ? さ、着いたよ」
軽やかに笑って国村は車を停めた。
AM4:00まだ日原林道は暗い夜でいる、ヘッドライトを点けてアイゼンを履く足元が白い。
青梅署周辺よりも雲取山の方が当然雪は深い、ゲイターを装着した踝までが雪へと踏み込んだ。
「ちょっとラッセルも必要かもね、良い訓練になるな」
「うん、指導よろしくな」
落葉松分岐の手前にかかる吊橋も雪化粧していた。
雪で滑りやすい足元に気をつけながら渡りきると、野陣尾根へと道をとる。
まだ暗いブナ林は雪の底へと音が全て吸いこまれ静謐が佇む。「冬の眠りにつく」と言う通りだな、ほっと英二は息ついて微笑んだ。
その吐く息が凍っている。気温マイナス5℃、見上げるとブナの梢には樹氷が美しい。
アイゼンに気をつけて歩きながら英二は、ブナ林の樹氷をヘッドライトと星明りに透かして眺めた。
「今日の日の出は何時だっけ?」
少し前を歩く国村が笑って訊いてくる。
訊かれて英二は昨日チェックした国立天文台の暦計算室HPに掲載されたデータを答えた。
「6:51だよ。日の出を見てから下山する?」
「そりゃ見たいよね。でもな、そうすると武蔵野署に着くの遅くなるな?うん、やっぱり今日はさ、射撃は休んじゃおうよ」
わが意を得たりと言わんばかりの顔で国村が笑った、やっぱり本当は射撃訓練など嫌いなのだろう。
もう1か月後には開催される警視庁拳銃射撃大会に、センターファイアピストル青梅署代表として国村はエントリーされている。
エントリーされた時は国村は不貞腐れた、警察学校時代に本部特練選抜された嫌な経験から拳銃嫌いになっている為だった。
そんな国村は出場する条件を3つ出し全て承諾された上でエントリーが決定している。
その条件「一人で嫌な事したくないから宮田も射撃訓練に参加する」の通り、英二は国村の射撃訓練につきあっていた。
けれど英二が訓練に付き合うのは「国村が訓練放棄しないよう管理する」ように後藤副隊長達に頼まれたのが真相になる。
そんなわけで英二は、今日も真面目に国村を窘めにかかった。
「それはダメだろ、国村?手配してくれる後藤副隊長に悪い、ちゃんと今日も行こうな」
「でもさ、日の出を見て下山したら唐松谷分岐に8時前だろ?
それから武蔵野署へ行ったらさ、青梅署に戻るの10時半だけど?そしたらさ、湯原くんとの約束に遅れちゃって困るだろ?」
そんなふうに国村は英二のスケジュールを引き合いに、射撃訓練をサボる正当性を主張した。
英二と国村は山岳救助隊でもパートナーを組むため、お互い相手のスケジュールを把握している。
山岳救助隊ではパートナー同士のスケジュール把握は、非番や週休でも遭難現場に駆けつけられる場所にいれば召集対応するため必要だった。
特に英二と国村は180cm超の大柄なうえ細身でも筋肉質で重く、釣合う体格はお互いしかおらずパートナーの代理は立てられない。
そのため2人は必ずセットで召集が掛かる、そんな理由もあって英二と国村は互いにスケジュール把握をしている。
そんな唯一無二のパートナーの発言に、微笑んで英二は答えた。
「青梅署10時半なら問題ない、元からそのつもりで予定してあるから」
英二は新宿12時に待ち合わせてある。
きっと国村は日の出を山頂付近から見たがるだろう、そう思って逆算した上で予定を組んでいた。
こんな予想通りの展開が可笑しい、可笑しくて英二は微笑んだ。
そんな英二の顔を見た国村の細い目が、すこし大きくなって「参ったなあ」と笑った。
「おまえさ、最近どうも俺のこと操縦するの巧いよね?」
「まあね、俺だって学習していますから?それにさ、生涯のアイザイレンパートナーを組むならこれくらい必要だろ」
笑って英二は答えた。
国村も文学青年風の端正な顔を笑ませると楽しげに口を開いた。
「頼もしいね、よろしく頼むよ宮田。じゃあ日の出はさ、七ツ石山から見よう。
あそこからなら俺たちだと1時間かからず下山できるだろ?それに雲取山頂と七ツ石山頂の2つ三角点に行けるな」
「いいな、2つ行けるのは楽しそうだな。で、登山計画書はどんなルートで出している?」
「野陣尾根の往復だよ、急登の訓練のつもりだったからね。なに、計画書通りじゃないとNGか?」
おまえって真面目だからなあ、そんな目を国村に向けられて英二は首を傾げた。
これも予想通りの展開だなと思いながら英二は答えた。
「計画書は大事だろ?でも変更していいよ。青梅署もね、携帯からでも計画書変更できるようになったから」
「へえ、そんなこと出来るようになったんだね。もしかしてさ、宮田がやった?」
歩きながらも細い目が少し大きくなって英二を見やった。
そんなパートナーを見やって英二は、野陣尾根の急登をテンポよく登りながら微笑んだ。
「うん、この1月から稼働させたんだ。登山計画書出してもさ、天候とか体調で変更することあるだろ?
そういう時の対応が出来たら良いなって後藤副隊長と話していてさ。それで青梅署だけでもって始めてみたんだ」
「ふうん、最近はメールとかネットで登山計画書だせるのは多いよな?あんな感じか」
「そう。あんな感じでメールフォームを作ってみたんだ。でも電波が届かないと使えないからさ、どこまで役に立つかな?」
そんな話をしながら小雲取山を通過すると、雲取山頂へと5時半に着いた。
左腕のクライマーウォッチに時間を確認しながら、この時計の贈り主を想って英二は微笑んだ。
この7時間後には想いの人の、なつかしい笑顔の隣に自分が立っているといい。
そんな想いで見まわした山頂は静かで、昨夜の降雪の為かテント泊も今日はいない。
無人の様子に機嫌よく笑うと国村は、左手のグローブを外しながら雲取山頂を示す三角点の前に立った。
「よし、俺が一番乗り」
うれしそうに笑うと三角点に積もった新雪へ、左手を突っ込んで手形をつけていく。
器用に雪から掌を抜くと巧く手形が出来上がっていた。
「ほら、宮田もやんなよ」
「うん、ありがとうな」
促されて英二は左手のグローブを外した。
そして周太から贈られたクライマーウォッチを嵌めた左で、英二は三角点に手形を付けた。
ゆっくり左手を抜きとると雪の中に手形がついている。国村の手形を壊さなくてよかった、おだやかに英二は微笑んだ。
「よし、宮田が2番目だ」
愉快そうに笑いながら国村は外したインナーグローブとオーバーグローブを左手にはめなおした。
英二も左手に2つのグローブをきちんとはめなおす。冬期はこんなふうに2枚重ねでグローブをする。
グローブをはめ終わって英二は山波の向こうを遠望した、そこは新宿の夜景が広がっている。
あの新宿の光の海では、周太は今頃きっと当番勤務で起きているだろう。
― 周太。いま俺はね、雲取山頂から周太を見つめているよ。この東京の最高峰から、周太を想っている
おだやかで純粋な笑顔を想いながら英二は夜景へと微笑んだ。
それから携帯を取り出すと国村を振り返った。
「登山計画書の変更申請しようよ」
「あ、そうだったな。じゃ電波のポイントに行かないとね」
雲取山では携帯電話はほぼ圏外になる、けれど数少ないポイントを国村は知っていた。
この山頂でもピンポイントが一ヶ所だけある、そこへ英二は立つと登山計画書の変更申請をメールフォームで送った。
手続きが終わってポケットに携帯を戻すと、楽しげに国村が英二を促した。
「じゃ、七ツ石山に行くよ。目標タイムは30分で」
「わかった、国村のペースで歩いてくれ。俺、付いていくから」
「結構ハイペースだよ?ま、アイゼンに気をつけて付いてこいな」
話しながら今度は尾根を歩いていく。
まだ夜の闇にしずむ山脈は蒼いままでいる、けれど雪の反射で稜線が星明りに浮かんできれいだった。
そんな光景は雪の静寂にひそやかで、氷を張りつめたような大気が頬撫でる。
ヘッドライトの下で並んで歩く顔は冷気に紅潮して、落ち着いた秀麗な顔だけれど幼げだった。
ちいさいころに絵本で見た雪ん子みたいだ、なんだか微笑ましくて英二は微笑んだ。
「なに宮田?俺の顔を見てひとりで笑って」
「うん。おまえさ、寒いと頬が赤くなるだろ?なんか雪ん子みたいだな」
「ああ、よく言われる。結構かわいいだろ?」
からり笑って細い目を笑ませた。
そうして他愛ない話をしながら30分弱歩いて、七ツ石山頂の三角点に6時前に到着した。
ここから雲取山頂もよく見える、さっきまでいた場所をこうして眺めるのは不思議な感じだった。
すこし背の高い三角点の石も雪で今日は半分くらい埋まっている、こんもり積もった三角点の頭の雪に国村は手形を押した。
「よし、ここも俺が一番乗りだな。宮田、次のスタンバイしなよ?」
「うん。ありがとうな、国村」
あたりの新雪には国村と英二の足跡しかつけられていない。
時刻はまだ6時過ぎ、日の出までの時間が40分はある。こんな時間に山頂へ立つ物好きも少ないだろう。
こんな物好きに自分がなるなんて、去年の春に警察学校へ入校したときは思ってもみなかった。
国村の後から手形を押しながら、こういう今の自分が英二は愉快でうれしくて微笑んだ。
ゆっくり手形から左手を抜くと英二は、掌についた新雪をそっと握りしめた。
「宮田、朝飯にしようよ。ここらへん雪除けな」
「いいな、腹減ったなって思っていたんだ。俺もね、クッカー持ってきたんだ」
「このあいだ買ったやつか、今日が初めて使うんだろ?」
「駐車場で試しはさ、吉村先生と1回やってみたんだ。結構いい感じだよ?」
話しながら雪を除けて、座る場所とクッカーを設置する場所を広げる。
こういう作業にも英二はだいぶ手慣れた、ほぼ毎日の早朝をショートコースでも登って国村と露営の練習をしている。
すぐに場所を作るとクッカーで湯を沸かしながら、ザックに座って英二は国村に包みを渡した。
受けとると、国村は機嫌よく笑って包みを開いた。
「握り飯だ、いいね。昨夜のうちに用意したんだ?」
「うん、食堂の調理師さんが作ってくれたんだ。カップ麺だけじゃ腹減るだろ?」
「そうなんだよね。カップ麺のスープにさ、握り飯入れても旨いんじゃない?」
「雑炊みたいだな、いいかもな」
そんな会話の合間に、ゆるやかな湯が沸く音が早朝の静寂に響きだす。
沸いた湯をカップ麺に注いで蓋をすると、いつものように国村が英二に注文をした。
「じゃ、3分な」
「いいよ。国村、マグカップ出して。インスタントコーヒー先に飲もうよ、夜明け前で寒いだろ?」
言いながら英二は自分のマグカップをザックから出して地面に置いた。
そんな英二の様子を見ながら国村は、温かく細い目を笑ませて自分のマグカップを出した。
「ありがとな。うん、宮田もさ、なんだか手馴れてきたね」
「ほとんど毎日な、国村きちんと教えてくれるだろ?そのお蔭だよ。後藤副隊長と吉村先生にも教わっているしさ」
「そっか、そうだな。宮田が来て3ヶ月ちょっとか?特にさ、12月は山ばっかだもんね。もう宮田、すっかり馴染んだろ?」
「だな。なんかもっと昔からさ、こういう生活しているような気がすることあるな。はい、熱いから気をつけろよ」
他愛ない会話をしながらコーヒーを啜って握り飯を頬張った。
山の冷気で握り飯は冷えているけれど、熱いコーヒーで気にならない。
そういえばと想いだしながら英二は口を開いた。
「あのな、温かい飲み物は冬山ではさ、必ず飲んだ方が良いらしいな」
「うん?ああ、なにか吉村先生に教えてもらったね」
「そうなんだ。温かい飲み物でな、血流を保つことが凍傷予防に効果的なんだ」
いつも英二は吉村医師の手伝いを朝夕とさせてもらっている。
そして週休に調度よく吉村の予定と会えば一緒に山へ登り、遭難事故が起きやすい状況や地形について実地講習を受ける。
吉村医師は自身も山ヤだから現場に即した医学知識と見解を持つ。そういう吉村医師の講義は現場から入った英二には解りやすい。
そんな英二の知識に感心したように底抜けに明るい目で国村は頷いた。
「なるほどね、体に必要だからさ、旨いって感じるのかもね」
「その通りなんだ。あ、3分だ」
出来上がったカップ麺は今朝もちょうどいい具合になっている。
握り飯と一緒に腹へと納め終わるころ、すこし空が明るみ始めた。
簡単な露営を片づけ元に戻すと、ふたりで三角点の前に立って明るんでくる空を眺めた。
そうして立つ頬ふれる風が急激に冷え込んでいく、その冷たさに夜明けの近さを感じながら英二は空を見つめていた。
「…日の出だ、」
ゆっくりと赤く輝きだした空と稜線の向こうから、黄金まぶしい太陽が顕れた。
うすく残っていた雪雲が陽光にそめあげられて薄紅や朱、金色へと刻々輝いてあざやいでいく。
そして極彩色の雲の下には新宿の街の夜景が広がっていた。
きれいだな、思わず見惚れてしまう英二を横から、国村が小突いて笑ってくれた。
「ほら、写メール送ってやるんだろ?ボケッとしてないで撮りなよね」
「あ、うん。ありがとう、国村」
礼を言いながら英二はポケットから携帯を取り出した。
そして美しい写真を撮ると、英二は文章を添えて周太へと送信した。
T o :周太
subject:今朝の頂上
添 付 :七ツ石山から眺める夜明けの空と新宿の夜景
本 文 :おはよう周太、今朝は雲取山と七ツ石山に登っているんだ。
いまは七ツ石山の山頂に立って、新宿を見つめている。
今はまだ離れているけれど、空を通じて繋がっているなって実感できるよ。
それでも俺はね、周太。やっぱり周太の隣に帰りたい。だから待っていて?必ず俺はね、周太の隣に帰るよ
(to be continued)
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第31話 春隣act.1―side story「陽はまた昇る」
目覚めた視界は青い暁闇に見つめられた。
夜明けはいくぶん遠い静謐に部屋は鎮まっている。きっと3時頃と枕元のクライマーウォッチを見ると長針と短針の位置は予想通りだった。
今朝も時間が当って英二はちょっと微笑んだ。そのまま起きあがって窓を見ると白く曇っている。
静かにサッシに手をかけて開けていくと、その隙間からそっと水けを含む冷気が部屋へ滑りこんだ。
そんな冷気に白いガラス窓を開いた向こうは、白銀おだやかな山麓の街が夜の底に眠っていた。
「…新雪だな、」
そっとつぶやいて英二は笑った。きっと今頃は国村も喜んで外を見ているだろう。
笑って見つめる山嶺は雪明りに白く夜に稜線を描いていく、その上空には雪雲がまだうすく残っている。
山上は雪が降っているかもしれない、そのつもりで装備を準備しようと英二は窓を閉めた。
これから山岳訓練を3時間半コースで国村とこなす、そのあと武蔵野署で射撃訓練をして青梅署に戻り携行品返却をする。
それから新宿で周太と12時に待ち合わせて、川崎の家に向かう。
今日はハードスケジュールになるけれど、どれも英二には楽しみだった。
年明けてからは山岳訓練も射撃訓練も初めてになる、どちらも1週間ぶりで楽しみに思えてしまう。
御岳駐在所は管轄に武蔵御嶽神社を持つため、年末年始は警邏や参拝登山客の対応など忙しい。
そのために訓練は休憩合間の短時間ですむボルダリングやザイル下降しか出来なかった。
登山は国村とのショートコースでの早朝登山や御岳山巡回はほぼ毎日こなしてはいる、けれどグレードがやはり違う。
「そういえば、今日はどの山に登るか訊いてなかったな?」
思わず独りごとに英二は首を傾げた、いつもなら前夜にはコースを言われて地図でチェックをする。
けれど昨日はシフト交替で非番になった国村は、実家に帰って家のことをしていた。それで帰寮も遅かったらしい。
でもメールもないから多分、英二がよく知っているコースなのだろう。
そう考えながら着替えを済ませ救急用具の点検が終わるころ、また扉が勝手に開かれて国村が覗きこんだ。
「おはよ、宮田。出れる?雲取山に行くよ、野陣尾根で急登の訓練な」
「おはよう、出れるよ。って国村…勝手に鍵開けたらダメだろ?」
隣室に迷惑かけないよう笑いながら念のため英二は文句を言った。
けれどやっぱり国村は飄々と笑っている。
「ノックしたら近所迷惑だろ?どうせ簡単に開くんだしさ、このほうが手っ取り早いよ、ねえ?」
「まあな、確かに音はしなくていいけど」
もとから器用な国村は道具でも料理でも何でも工夫がうまい。そして射撃や逮捕術も器用にこなして特技になっている。
そんな特技のひとつが「開錠」らしく、いつも英二の部屋の鍵も針金で簡単に開けて入ってしまう。
もし警察官でも兼業農家でもない無職なら、凄腕の犯罪者になってしまったかもしれない。
こいつが農家の一人っ子長男に生まれた事は、世の中にとって幸運かもしれないな。
そう考えながら笑う英二の顔を見て、すうっと細い目をさらに細めて国村が笑った。
「宮田?おまえ、また俺のこと犯罪向きとか考えてるだろ?」
「うん、だって本当だろ?」
登山靴を履きながら英二は素直に答えた。
そんな英二にゲイターを投げてよこしながら愉快げに国村が答えた。
「だね。まあ、そういう転職する時もさ、おまえには声かけるからね。生涯のアイザイレンパートナーとしてさ、ねえ?」
「犯罪までアイザイレンパートナーするのは嫌だよ?周太が哀しむことは俺、絶対にしないからな」
「おまえってさ、ほんと湯原くんが全てだよね。やっぱり婚約するって違う?」
登山靴の上からきっちりゲイターを履いて、ザックを背負うと英二は立ち上がった。
そして同じ高さの細い目を見て、幸せに英二は笑いかけた。
「そうだな、人生をきちんと背負わせてもらえたなって自信になるな。でも周太が全てなのは、つきあう前からなんだ、俺」
「ふうん?それってさ、いつからだよ。あ、時間無いから歩きながらね?」
しずかに廊下へ出て扉に鍵をかける。午前3時20分、まだ寮は眠りの静寂にしずまっていた。
まだ薄暗い廊下を、冬用登山靴の固い踵が鳴らないよう気をつけて歩いていく。
個室エリアを抜けてから低い声で英二は答えた。
「…前にさ。国村んちの河原で、初めて藤岡も一緒に飲んだ時に話したことだよ」
「…あばずれに振られた脱走の夜?それとも、公園の初ベンチか?」
さらり「あばずれ」と言われて英二は横の顔を見た。
当時の彼女に騙されて英二は警察学校を脱走した、その彼女を国村は「あばずれ」と呼んでいる。
そんな国村は上品な顔で飄々と笑っている、けれど英二の話を思いだして国村は怒っているのだろう。
こんなふうに国村は怒ると笑顔のままでも、さり気なくキツイことを言ってしまう。
なんだか申し訳ない気分で英二は、すこしフォローを言ってみた。
「うん、公園のベンチの時…なあ?あばずれ、って言うのはちょっと悪いよ?俺だって悪いんだしさ」
「なに言ってんのさ、あばずれで充分だろ?」
またさらっとキツイ形容詞を遣いながら、国村は微笑んだ。
でもなと見る英二を見かえしながら人差し指一本立てて国村は笑った。
「山ヤは自然の掟に生きるから誇り高いんだ。
そういう山ヤの誇りを汚す人間はさ、自然のルールに逆らうのと同じだよ。そういう傲慢な人間は蔑まれて当然だね」
山と自然の峻厳な掟、それが自身のルールでもある生粋の純粋無垢な山ヤで国村はいる。
だからだろうか、こんな話を国村とするとき英二は、いつも山の化身とでも向き合う気持ちになっていく。
けれど国村は自分と同じ年で、上品な顔に似合わずオヤジで、愉快な友人でいる。
そして今も同じ山ヤとして友人として、当時の彼女に怒ってくれているのだろう。
こんな真直ぐな友人の想いが嬉しくて、英二は微笑んだ。
「うん、ありがとう国村。誇りを傷つけられたことはね、河原でも話した通りだ…
俺、やっぱり許せないでいる。でもさ、あのころは自分にも嘘ついて生きていたからさ、仕方なかったっても思ってるんだ」
「そんなにさ、自分を責めるんじゃないよ?まったく真面目だね、宮田はさ」
呆れたように言って、けれど細い目は温かく英二に笑いかけてくれる。
でも、と言いたげな英二を抑えるように、立てた人差し指で国村は英二の額を小突いた。
「宮田の外見が美形すぎて目立ち過ぎるからってさ、外見だけで勝手な妄想しすぎて宮田の心と向き合えなかった。それだけだろ?
そうやって宮田を傷付けたことはね、勝手な妄想にハマった相手の責任だ。おまえの責任じゃないよ、美形なのは持って生まれただけだ」
「そうかな?」
「そうだろ。おまえってさ、ほんと損な性格している時あるよね?
そんだけ美形なんだしさ、我儘に自分をゴリ押ししちゃっても普通モテるだろ?変に気を遣うなよ、おまえ素で充分いけてるよ」
そう言って国村は楽しげに青梅署ロビーから雪へと一歩踏み出した。
さくりと新雪を踏んで満足げに笑っている顔は、色白で上品に整って秀麗な文学青年風でいる。
この国村も美形だけれどずっと自由なまま生きている、自分とは何が違っていたのだろう?思ったままに英二は訊いてみた。
「国村ってさ、きれいな顔しているよな。体格も俺と同じ感じだし。でも俺みたいなことって無かったのか?」
「うん?宮田みたいに『きれいな愛玩人形』にされるってことか?」
「…うん、」
いつも褒められる「華やかな外見」に人は寄ってくる、けれど英二は実直で真面目な性格で地道な性質でいる。
だから華やかな外見通りの性格を求められると相手を失望させてしまう、そのたびに英二は傷つけられてきた。
そして本音で人と接することを諦めて、求められる姿通り「きれいな愛玩人形」として楽に生きようと思ってしまった
そう諦めてしまえば傷つくことは少なくなった、でもそれは悔しくて辛いだけの寂しい生き方だった。
けれど英二は周太と出会ったことで本音で生きることを取り戻し、そのお蔭で今ここに立っている。
周太に出会えていなければ英二は、相手の期待ばかりに応えて自分を押し殺し続けて、本当に自分を壊していただろう。
そんな生き方を一時でも選んだ自分と、ずっと自由に素顔で生きられている国村の違いは何だろう?
この自分と似ている友人の答えを知りたくて、英二は並んで歩く秀麗な顔を見つめていた。
そう英二が見つめる細い目を可笑しそうに笑ませて国村は口を開いた。
「まあね、勝手な妄想するやつはさ、いたりもするみたいだよ?」
さらっと答えて国村が笑ってくれた。
思った通りだったな。自分と同じ経験をした人間がいてくれる、そんな安心感に英二は微笑んだ。
「やっぱり?国村も性格と見た目のギャップ、酷いもんな」
「だろ。俺って結構いけてるよな?しかも性格とのギャップは宮田よりずっと酷いね。それでも外見だけで妄想するヤツいるんだよな」
「たとえば、王子様とか?」
「そ。まあ俺は和顔系だからね、『若様』とかさ、中国の武将の名前で呼ばれたりね。で、どれも耽美なイメージでさ。笑っちゃうだろ?」
話しながら雪つもった青梅署の駐車場を歩いていく。
すぐに国村の四駆に着くと、運転席に乗り込みながら国村はからり笑った。
「でも俺は俺だからさ、そんな妄想と俺は無関係だね」
自分は自分、だから人の思惑なんて関係ない。
そんな真直ぐな強さが国村らしい、なんだか嬉しくて英二は横へと笑いかけた。
「そっか。俺は俺だよな?」
「そうだよ。自分が自分であることにね、遠慮なんかいらないだろ?
宮田は真面目すぎてさ。相手に気を遣い過ぎるから、変に遠慮しすぎる時がある。
相手に遠慮してさ、相手の期待に応えないと悪いって思うだろ?そのせいで人形になっちゃったんじゃないの。あ、シートベルトしめな?」
真面目すぎて遠慮しすぎ。
自分は周りに遠慮しすぎて自分自身を歪めてしまった、そう国村は言ってくれる。
そうかもしれない、英二は国村の言葉に頷いた。
「そうだな。俺、なんか相手の期待に応えないと悪いと思ってた」
「だろ?真面目なのはいいけどね、見当違いな期待にまで応えなくていい。そういう度外れた真面目は止めときな。
だからさ、宮田。俺には絶対に遠慮するなよ、何でも言っちまいな。でなきゃ生涯のアイザイレンパートナーなんかやってらんないからね」
からり笑いながら国村はハンドルを捌いていく。
まだ暗い車窓の向こうは白銀がしずまっていた、それを友人の向こうに見ながら英二は微笑んだ。
「うん、ありがとう。俺もさ、国村みたいに我儘もっと言おうかな?」
「良いんじゃない?おまえならさ、我儘もきっと正しいよ」
そんなふうに国村は温かく目を細ませて、おだやかに笑ってくれた。
けれどすぐに底抜けに明るい目で愉快そうに唇の端を上げた。
「あ、そうするとストッパー居なくなっちゃうか。やっぱ宮田は程々にしとけ、俺が自由にできなくなる」
「なんだよ、それ?」
あっけらかんと笑う国村に英二も笑ってしまった。
一緒に笑いながら国村が続けて言ってくれる。
「だってさ、俺たちってパートナーだろ?やっぱバランスがあるね。だから俺が勝手する分をさ、宮田が真面目にフォローすりゃ調度良いよ」
「それじゃ俺、周りの期待に応えることになるよ?さっきと言ってること違うだろ、ほんと国村って自由だよな」
ちょっと呆れながらも笑ってしまう。
だってこれも国村らしい我儘と優しさの表現だろう。こうやって国村は英二に「もっと言っちまえよ」と促してくれている。
こういう男っぽい大らかな優しさが国村らしくて、そんなところが英二は好きだなと思う。
こいつやっぱり良いやつだな、そう笑っていると国村が言った。
「どうせ宮田は真面目人間だからね、我儘を言いまくるとか出来ないんじゃないの?仕方ないからさ、もう一生ずっと俺のフォローしてな」
一生ずっとフォロー。きっとそうなるのだろう、英二は微笑んだ。
生涯のアイザイレンパートナーとして、最高のクライマーをサポートするレスキューを自分は目指すのだから。
でもきっと山以外の場所では ― 周太を守るためには英二が国村にサポートしてもらうだろう。
それも国村は解ってくれている、フォローし合って山も他も越えようと言ってくれている。
それが本当にうれしくて、ありがたくて英二は笑った。
「そうだな、一生フォローするよ。だから国村、俺のフォローも頼んだよ?」
ちらっと細い目が英二を見て笑ってくれる。
それからテノールの透る声で国村が言ってくれた。
「おう、任せな。ま、俺のフォローはさ、ちょっと驚かせるかもしれないけどね?」
「ありがとう、驚くのも楽しみだな」
「だろ? さ、着いたよ」
軽やかに笑って国村は車を停めた。
AM4:00まだ日原林道は暗い夜でいる、ヘッドライトを点けてアイゼンを履く足元が白い。
青梅署周辺よりも雲取山の方が当然雪は深い、ゲイターを装着した踝までが雪へと踏み込んだ。
「ちょっとラッセルも必要かもね、良い訓練になるな」
「うん、指導よろしくな」
落葉松分岐の手前にかかる吊橋も雪化粧していた。
雪で滑りやすい足元に気をつけながら渡りきると、野陣尾根へと道をとる。
まだ暗いブナ林は雪の底へと音が全て吸いこまれ静謐が佇む。「冬の眠りにつく」と言う通りだな、ほっと英二は息ついて微笑んだ。
その吐く息が凍っている。気温マイナス5℃、見上げるとブナの梢には樹氷が美しい。
アイゼンに気をつけて歩きながら英二は、ブナ林の樹氷をヘッドライトと星明りに透かして眺めた。
「今日の日の出は何時だっけ?」
少し前を歩く国村が笑って訊いてくる。
訊かれて英二は昨日チェックした国立天文台の暦計算室HPに掲載されたデータを答えた。
「6:51だよ。日の出を見てから下山する?」
「そりゃ見たいよね。でもな、そうすると武蔵野署に着くの遅くなるな?うん、やっぱり今日はさ、射撃は休んじゃおうよ」
わが意を得たりと言わんばかりの顔で国村が笑った、やっぱり本当は射撃訓練など嫌いなのだろう。
もう1か月後には開催される警視庁拳銃射撃大会に、センターファイアピストル青梅署代表として国村はエントリーされている。
エントリーされた時は国村は不貞腐れた、警察学校時代に本部特練選抜された嫌な経験から拳銃嫌いになっている為だった。
そんな国村は出場する条件を3つ出し全て承諾された上でエントリーが決定している。
その条件「一人で嫌な事したくないから宮田も射撃訓練に参加する」の通り、英二は国村の射撃訓練につきあっていた。
けれど英二が訓練に付き合うのは「国村が訓練放棄しないよう管理する」ように後藤副隊長達に頼まれたのが真相になる。
そんなわけで英二は、今日も真面目に国村を窘めにかかった。
「それはダメだろ、国村?手配してくれる後藤副隊長に悪い、ちゃんと今日も行こうな」
「でもさ、日の出を見て下山したら唐松谷分岐に8時前だろ?
それから武蔵野署へ行ったらさ、青梅署に戻るの10時半だけど?そしたらさ、湯原くんとの約束に遅れちゃって困るだろ?」
そんなふうに国村は英二のスケジュールを引き合いに、射撃訓練をサボる正当性を主張した。
英二と国村は山岳救助隊でもパートナーを組むため、お互い相手のスケジュールを把握している。
山岳救助隊ではパートナー同士のスケジュール把握は、非番や週休でも遭難現場に駆けつけられる場所にいれば召集対応するため必要だった。
特に英二と国村は180cm超の大柄なうえ細身でも筋肉質で重く、釣合う体格はお互いしかおらずパートナーの代理は立てられない。
そのため2人は必ずセットで召集が掛かる、そんな理由もあって英二と国村は互いにスケジュール把握をしている。
そんな唯一無二のパートナーの発言に、微笑んで英二は答えた。
「青梅署10時半なら問題ない、元からそのつもりで予定してあるから」
英二は新宿12時に待ち合わせてある。
きっと国村は日の出を山頂付近から見たがるだろう、そう思って逆算した上で予定を組んでいた。
こんな予想通りの展開が可笑しい、可笑しくて英二は微笑んだ。
そんな英二の顔を見た国村の細い目が、すこし大きくなって「参ったなあ」と笑った。
「おまえさ、最近どうも俺のこと操縦するの巧いよね?」
「まあね、俺だって学習していますから?それにさ、生涯のアイザイレンパートナーを組むならこれくらい必要だろ」
笑って英二は答えた。
国村も文学青年風の端正な顔を笑ませると楽しげに口を開いた。
「頼もしいね、よろしく頼むよ宮田。じゃあ日の出はさ、七ツ石山から見よう。
あそこからなら俺たちだと1時間かからず下山できるだろ?それに雲取山頂と七ツ石山頂の2つ三角点に行けるな」
「いいな、2つ行けるのは楽しそうだな。で、登山計画書はどんなルートで出している?」
「野陣尾根の往復だよ、急登の訓練のつもりだったからね。なに、計画書通りじゃないとNGか?」
おまえって真面目だからなあ、そんな目を国村に向けられて英二は首を傾げた。
これも予想通りの展開だなと思いながら英二は答えた。
「計画書は大事だろ?でも変更していいよ。青梅署もね、携帯からでも計画書変更できるようになったから」
「へえ、そんなこと出来るようになったんだね。もしかしてさ、宮田がやった?」
歩きながらも細い目が少し大きくなって英二を見やった。
そんなパートナーを見やって英二は、野陣尾根の急登をテンポよく登りながら微笑んだ。
「うん、この1月から稼働させたんだ。登山計画書出してもさ、天候とか体調で変更することあるだろ?
そういう時の対応が出来たら良いなって後藤副隊長と話していてさ。それで青梅署だけでもって始めてみたんだ」
「ふうん、最近はメールとかネットで登山計画書だせるのは多いよな?あんな感じか」
「そう。あんな感じでメールフォームを作ってみたんだ。でも電波が届かないと使えないからさ、どこまで役に立つかな?」
そんな話をしながら小雲取山を通過すると、雲取山頂へと5時半に着いた。
左腕のクライマーウォッチに時間を確認しながら、この時計の贈り主を想って英二は微笑んだ。
この7時間後には想いの人の、なつかしい笑顔の隣に自分が立っているといい。
そんな想いで見まわした山頂は静かで、昨夜の降雪の為かテント泊も今日はいない。
無人の様子に機嫌よく笑うと国村は、左手のグローブを外しながら雲取山頂を示す三角点の前に立った。
「よし、俺が一番乗り」
うれしそうに笑うと三角点に積もった新雪へ、左手を突っ込んで手形をつけていく。
器用に雪から掌を抜くと巧く手形が出来上がっていた。
「ほら、宮田もやんなよ」
「うん、ありがとうな」
促されて英二は左手のグローブを外した。
そして周太から贈られたクライマーウォッチを嵌めた左で、英二は三角点に手形を付けた。
ゆっくり左手を抜きとると雪の中に手形がついている。国村の手形を壊さなくてよかった、おだやかに英二は微笑んだ。
「よし、宮田が2番目だ」
愉快そうに笑いながら国村は外したインナーグローブとオーバーグローブを左手にはめなおした。
英二も左手に2つのグローブをきちんとはめなおす。冬期はこんなふうに2枚重ねでグローブをする。
グローブをはめ終わって英二は山波の向こうを遠望した、そこは新宿の夜景が広がっている。
あの新宿の光の海では、周太は今頃きっと当番勤務で起きているだろう。
― 周太。いま俺はね、雲取山頂から周太を見つめているよ。この東京の最高峰から、周太を想っている
おだやかで純粋な笑顔を想いながら英二は夜景へと微笑んだ。
それから携帯を取り出すと国村を振り返った。
「登山計画書の変更申請しようよ」
「あ、そうだったな。じゃ電波のポイントに行かないとね」
雲取山では携帯電話はほぼ圏外になる、けれど数少ないポイントを国村は知っていた。
この山頂でもピンポイントが一ヶ所だけある、そこへ英二は立つと登山計画書の変更申請をメールフォームで送った。
手続きが終わってポケットに携帯を戻すと、楽しげに国村が英二を促した。
「じゃ、七ツ石山に行くよ。目標タイムは30分で」
「わかった、国村のペースで歩いてくれ。俺、付いていくから」
「結構ハイペースだよ?ま、アイゼンに気をつけて付いてこいな」
話しながら今度は尾根を歩いていく。
まだ夜の闇にしずむ山脈は蒼いままでいる、けれど雪の反射で稜線が星明りに浮かんできれいだった。
そんな光景は雪の静寂にひそやかで、氷を張りつめたような大気が頬撫でる。
ヘッドライトの下で並んで歩く顔は冷気に紅潮して、落ち着いた秀麗な顔だけれど幼げだった。
ちいさいころに絵本で見た雪ん子みたいだ、なんだか微笑ましくて英二は微笑んだ。
「なに宮田?俺の顔を見てひとりで笑って」
「うん。おまえさ、寒いと頬が赤くなるだろ?なんか雪ん子みたいだな」
「ああ、よく言われる。結構かわいいだろ?」
からり笑って細い目を笑ませた。
そうして他愛ない話をしながら30分弱歩いて、七ツ石山頂の三角点に6時前に到着した。
ここから雲取山頂もよく見える、さっきまでいた場所をこうして眺めるのは不思議な感じだった。
すこし背の高い三角点の石も雪で今日は半分くらい埋まっている、こんもり積もった三角点の頭の雪に国村は手形を押した。
「よし、ここも俺が一番乗りだな。宮田、次のスタンバイしなよ?」
「うん。ありがとうな、国村」
あたりの新雪には国村と英二の足跡しかつけられていない。
時刻はまだ6時過ぎ、日の出までの時間が40分はある。こんな時間に山頂へ立つ物好きも少ないだろう。
こんな物好きに自分がなるなんて、去年の春に警察学校へ入校したときは思ってもみなかった。
国村の後から手形を押しながら、こういう今の自分が英二は愉快でうれしくて微笑んだ。
ゆっくり手形から左手を抜くと英二は、掌についた新雪をそっと握りしめた。
「宮田、朝飯にしようよ。ここらへん雪除けな」
「いいな、腹減ったなって思っていたんだ。俺もね、クッカー持ってきたんだ」
「このあいだ買ったやつか、今日が初めて使うんだろ?」
「駐車場で試しはさ、吉村先生と1回やってみたんだ。結構いい感じだよ?」
話しながら雪を除けて、座る場所とクッカーを設置する場所を広げる。
こういう作業にも英二はだいぶ手慣れた、ほぼ毎日の早朝をショートコースでも登って国村と露営の練習をしている。
すぐに場所を作るとクッカーで湯を沸かしながら、ザックに座って英二は国村に包みを渡した。
受けとると、国村は機嫌よく笑って包みを開いた。
「握り飯だ、いいね。昨夜のうちに用意したんだ?」
「うん、食堂の調理師さんが作ってくれたんだ。カップ麺だけじゃ腹減るだろ?」
「そうなんだよね。カップ麺のスープにさ、握り飯入れても旨いんじゃない?」
「雑炊みたいだな、いいかもな」
そんな会話の合間に、ゆるやかな湯が沸く音が早朝の静寂に響きだす。
沸いた湯をカップ麺に注いで蓋をすると、いつものように国村が英二に注文をした。
「じゃ、3分な」
「いいよ。国村、マグカップ出して。インスタントコーヒー先に飲もうよ、夜明け前で寒いだろ?」
言いながら英二は自分のマグカップをザックから出して地面に置いた。
そんな英二の様子を見ながら国村は、温かく細い目を笑ませて自分のマグカップを出した。
「ありがとな。うん、宮田もさ、なんだか手馴れてきたね」
「ほとんど毎日な、国村きちんと教えてくれるだろ?そのお蔭だよ。後藤副隊長と吉村先生にも教わっているしさ」
「そっか、そうだな。宮田が来て3ヶ月ちょっとか?特にさ、12月は山ばっかだもんね。もう宮田、すっかり馴染んだろ?」
「だな。なんかもっと昔からさ、こういう生活しているような気がすることあるな。はい、熱いから気をつけろよ」
他愛ない会話をしながらコーヒーを啜って握り飯を頬張った。
山の冷気で握り飯は冷えているけれど、熱いコーヒーで気にならない。
そういえばと想いだしながら英二は口を開いた。
「あのな、温かい飲み物は冬山ではさ、必ず飲んだ方が良いらしいな」
「うん?ああ、なにか吉村先生に教えてもらったね」
「そうなんだ。温かい飲み物でな、血流を保つことが凍傷予防に効果的なんだ」
いつも英二は吉村医師の手伝いを朝夕とさせてもらっている。
そして週休に調度よく吉村の予定と会えば一緒に山へ登り、遭難事故が起きやすい状況や地形について実地講習を受ける。
吉村医師は自身も山ヤだから現場に即した医学知識と見解を持つ。そういう吉村医師の講義は現場から入った英二には解りやすい。
そんな英二の知識に感心したように底抜けに明るい目で国村は頷いた。
「なるほどね、体に必要だからさ、旨いって感じるのかもね」
「その通りなんだ。あ、3分だ」
出来上がったカップ麺は今朝もちょうどいい具合になっている。
握り飯と一緒に腹へと納め終わるころ、すこし空が明るみ始めた。
簡単な露営を片づけ元に戻すと、ふたりで三角点の前に立って明るんでくる空を眺めた。
そうして立つ頬ふれる風が急激に冷え込んでいく、その冷たさに夜明けの近さを感じながら英二は空を見つめていた。
「…日の出だ、」
ゆっくりと赤く輝きだした空と稜線の向こうから、黄金まぶしい太陽が顕れた。
うすく残っていた雪雲が陽光にそめあげられて薄紅や朱、金色へと刻々輝いてあざやいでいく。
そして極彩色の雲の下には新宿の街の夜景が広がっていた。
きれいだな、思わず見惚れてしまう英二を横から、国村が小突いて笑ってくれた。
「ほら、写メール送ってやるんだろ?ボケッとしてないで撮りなよね」
「あ、うん。ありがとう、国村」
礼を言いながら英二はポケットから携帯を取り出した。
そして美しい写真を撮ると、英二は文章を添えて周太へと送信した。
T o :周太
subject:今朝の頂上
添 付 :七ツ石山から眺める夜明けの空と新宿の夜景
本 文 :おはよう周太、今朝は雲取山と七ツ石山に登っているんだ。
いまは七ツ石山の山頂に立って、新宿を見つめている。
今はまだ離れているけれど、空を通じて繋がっているなって実感できるよ。
それでも俺はね、周太。やっぱり周太の隣に帰りたい。だから待っていて?必ず俺はね、周太の隣に帰るよ
(to be continued)
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