Le Fantome de l'Opera―隠した素顔、運命、彷徨う願い
第68話 玄明act.6-side story「陽はまた昇る」
微笑んだ空気は古書の香、そしてかすかな重厚で甘い深い香。
この香を自分は良く知っている、その記憶からここが忘れ得ぬ場所だと解かる。
この自分が警視庁の警察官となり山ヤになった、この運命を描いた最初の一点はここに始まった。
『文学部人文社会系研究科 フランス語フランス文学研究室』
この部屋との繋がりは周太だけのものじゃない、その証は祖母から継いだ一冊に息づく。
そして祖母から聴いた過去の時間と幸福が今、この場所に名残らす香から現実なのだと囁いてくる。
―書斎と同じ匂いだ、ココアみたいに甘くて、深い、
川崎の書斎と同じ香が遺された空間、端正に並んだ書架を仰ぐ。
見渡してゆく背表紙は既知のタイトルが多い、その装丁も見覚えがある。
きっと書斎の主が選んで備えた蔵書は古くても保管が良い、それと対照的なデスクから学者が笑った。
「そこの書棚は昔のまんまだよ、湯原先生が選んで並べられた通りになってる、」
そうだろう、言われた通りだと自分には解る。
本の並べ方にも懐かしい癖は見つけられて、その基準は書斎と似て整う。
―参考を探しやすいようにジャンルごと纏めてる、本のサイズも考えながら、
詩、小説、語学、研究書、そんなふうに本の内容ごと書架は整理される。
そのジャンルごと見つめて留められる一冊に英二は手を伸ばし、丁寧に引き出した。
『 La chronique de la maison 』
この研究室を繋いだ一人が遺した本、そのページを静かに捲る。
見開き、序文前、それから最後のページたちはどれも空白のまま何も綴られない。
ただ最終ページの後に広がる背表紙の中にだけ、サインと日付をブルーブラックの筆跡は遺す。
―やっぱり晉さん、相手を選んでメッセージを書いている、
亡き妻の従妹、息子、その二人に贈った本だけに晉はメッセージを遺した。
そこに綴られている意志と祈りを思案しながら書架に戻し、その背後から明朗な声が笑った。
「紅茶を淹れたよ、一杯つきあってくれ、」
「ありがとうございます、」
微笑んで振り向いて、ふわり芳香が頬を撫でる。
その香がどこか懐かしい、それが意外で茶の淹れ手を英二は見つめた。
―この先生がこんな佳い香に淹れるんだ?
くしゃくしゃ混ぜた癖っ毛は大風に吹かれた後、そう言われても納得する。
ネクタイ緩めたワイシャツの衿はボタンが2つ外れて、袖捲りも個性的な型を成す。
たぶん几帳面という形容詞から縁遠い男、そんな男の手が紅茶を丁寧に淹れていく。
その慣れた手許に歳月と想いと祈りが見えて、また土曜日の周太が記憶から微笑む。
―…この本をくれた田嶋先生はね、お父さんのアンザイレンパートナーだったんだよ?
いつもの穏かな声は大好きな父親のために笑っていた。
亡くなって14年になる父を想い、その友人を想い、笑って一冊の本を見せてくれた。
―…表紙、きれいな緑でしょ?お父さんと先生が一緒に登った山のイメージなの、アンザイレンパートナーへの気持ちを籠めてくれた色
深緑色の装丁をされた美しい一冊、あれと同じものがこの部屋のどこかにある。
それを探した視界の端、記憶の色彩を見つけて英二は綺麗に笑いかけた。
「田嶋先生、本を見せて頂いても宜しいですか?」
「ああ、好きなだけ見てくれ。ここの蔵書は良いぞ、」
大らかに笑って勧めてくれながら窓際にティーカップ2つ並べてくれる。
その受け皿が無いことが学者の性質を示していて、可笑しくて笑いたい。
―ほんとに大らかな人なんだな、拘らないっていうか。馨さんと正反対って感じだ、
想い笑いながら書架に手を伸ばし、深緑色の一冊を引き取らす。
ずしり分厚い重みを右手に持って踵返すと英二は窓際の椅子に座った。
ふわり優しい芳香くゆらすティーカップを眺めて、向かいに座る笑顔へ微笑んだ。
「遠慮なく頂きます、」
「ほい、どうぞ?この菓子も食ってくれ、ただし本には零すなよ、」
どこまでも明るい声が笑って日焼健やかな手は焼菓子を勧めてくれる。
その端正な銀盆は記憶の風景と同じで、また過去の痕跡を見つめながら英二はティーカップに口付け微笑んだ。
「すごく佳い香ですね、」
「だろう?紅茶だけは私も巧いんだ、」
日焼顔ほころばせて田嶋もティーカップを啜りこむ。
その笑顔ふっと和んで、明敏な瞳は真直ぐ英二を映して笑った。
「淹れ方を湯原先生たちに教わってるから巧いんだよ、さっき君も言ってたろ、この研究室のティータイム。今は私が受継いでるよ、」
湯原先生の研究室は人気だったそうですね、仏文なのに英国式のティータイムがあって。
そんなふうに自分が言った言葉を田嶋は憶えていて、その通りにもてなしてくれている。
―俺が言ったことを全部そのまま信じてくれてるんだ、だから銀盆まで出してくれてる、
大伯母が湯原先生の教え子でした。
祖母が大伯母を懐かしがるので、なにか土産話にと想って今日は講座に伺ったんです。
そう自分が告げたから田嶋は研究室に招き、昔と同じ風景を見せようとしてくれている。
土産話をもたせてあげたい、そんな厚意が向かい合っている明敏な瞳から大らかに優しくて伸びやかな心は温かい。
これでは本当に祖母への土産話が出来てしまったな?そんなふう想わされる敗北感が楽しくて英二は膝の本へ微笑んだ。
―本当に佳い男なんだ、だから周太も信用しきって…そうですよね、馨さん?
心に問いかける俤は今、膝に置いた深緑の一冊に素顔がある。
その素顔を最も知っているだろう男に英二は綺麗に笑いかけた。
「ストレートティーにスコンと銀盆だなんて、ハイクラスの英国式ですね、」
スコン、
そう発音した前で明敏な瞳かすかに大きくなる。
この研究室でこの発音を自分がしたら、どんな反応をされるのか?
そう予想した通りの眼差しが英二を見つめて低く透る声が問いかけた。
「詳しそうだな、君も英文学を学んでるのかい?イギリスに留学していたとか、」
「いいえ、」
正直な答えに微笑んで口付けたティーカップの向こう、明敏な瞳が見つめてくれる。
いま訊いて良いのか考え込んでいるだろう、そんな眼差しの前でカップを置くと膝の本を手にとった。
『MEMOIRS』Kaoru Yuhara
深緑色の表装に記された銀文字に、真直ぐな視線が問いかけを映す。
いま自分に向けられる聲を視界の端に見ながら表紙を開き、穏やかに英二は微笑んだ。
「ソネット18、シェイクスピアが大切な人に贈った詩だそうですけど、手紙みたいですよね…恋愛より深い気持がある相手への手紙、」
いつもと違うトーンの声に微笑んで、目の前にいる男へ笑いかける。
笑いかけた先、懐旧を探すような瞳は自分を映して低く透る声が問いかけた。
「この詩を知ってるんだ?」
「はい、小さい頃に読み聞かせてもらって、」
事実のまま答えた向こう明敏な瞳が窓の光に揺れる。
もうじき溢れそうな想いを見つめて、開いたページの一節を英二は口遊んだ。
「And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.」
土曜日の夜、読んでくれた声と韻律なぞるよう唇は詩を謳う。
その一音ごと眼前の瞳は感情あふれさせて、涙ひとつ、日焼の頬を伝って声になった。
「君は、誰なんだい?」
低く透る声の問いかけに、そっとワイシャツの胸元へ指ふれる。
指先の小さな輪郭は鼓動の上で温かい、その温もり素直に微笑んで、けれど言葉は秘密を噤む。
(to be continued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」より抜粋】
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第68話 玄明act.6-side story「陽はまた昇る」
微笑んだ空気は古書の香、そしてかすかな重厚で甘い深い香。
この香を自分は良く知っている、その記憶からここが忘れ得ぬ場所だと解かる。
この自分が警視庁の警察官となり山ヤになった、この運命を描いた最初の一点はここに始まった。
『文学部人文社会系研究科 フランス語フランス文学研究室』
この部屋との繋がりは周太だけのものじゃない、その証は祖母から継いだ一冊に息づく。
そして祖母から聴いた過去の時間と幸福が今、この場所に名残らす香から現実なのだと囁いてくる。
―書斎と同じ匂いだ、ココアみたいに甘くて、深い、
川崎の書斎と同じ香が遺された空間、端正に並んだ書架を仰ぐ。
見渡してゆく背表紙は既知のタイトルが多い、その装丁も見覚えがある。
きっと書斎の主が選んで備えた蔵書は古くても保管が良い、それと対照的なデスクから学者が笑った。
「そこの書棚は昔のまんまだよ、湯原先生が選んで並べられた通りになってる、」
そうだろう、言われた通りだと自分には解る。
本の並べ方にも懐かしい癖は見つけられて、その基準は書斎と似て整う。
―参考を探しやすいようにジャンルごと纏めてる、本のサイズも考えながら、
詩、小説、語学、研究書、そんなふうに本の内容ごと書架は整理される。
そのジャンルごと見つめて留められる一冊に英二は手を伸ばし、丁寧に引き出した。
『 La chronique de la maison 』
この研究室を繋いだ一人が遺した本、そのページを静かに捲る。
見開き、序文前、それから最後のページたちはどれも空白のまま何も綴られない。
ただ最終ページの後に広がる背表紙の中にだけ、サインと日付をブルーブラックの筆跡は遺す。
―やっぱり晉さん、相手を選んでメッセージを書いている、
亡き妻の従妹、息子、その二人に贈った本だけに晉はメッセージを遺した。
そこに綴られている意志と祈りを思案しながら書架に戻し、その背後から明朗な声が笑った。
「紅茶を淹れたよ、一杯つきあってくれ、」
「ありがとうございます、」
微笑んで振り向いて、ふわり芳香が頬を撫でる。
その香がどこか懐かしい、それが意外で茶の淹れ手を英二は見つめた。
―この先生がこんな佳い香に淹れるんだ?
くしゃくしゃ混ぜた癖っ毛は大風に吹かれた後、そう言われても納得する。
ネクタイ緩めたワイシャツの衿はボタンが2つ外れて、袖捲りも個性的な型を成す。
たぶん几帳面という形容詞から縁遠い男、そんな男の手が紅茶を丁寧に淹れていく。
その慣れた手許に歳月と想いと祈りが見えて、また土曜日の周太が記憶から微笑む。
―…この本をくれた田嶋先生はね、お父さんのアンザイレンパートナーだったんだよ?
いつもの穏かな声は大好きな父親のために笑っていた。
亡くなって14年になる父を想い、その友人を想い、笑って一冊の本を見せてくれた。
―…表紙、きれいな緑でしょ?お父さんと先生が一緒に登った山のイメージなの、アンザイレンパートナーへの気持ちを籠めてくれた色
深緑色の装丁をされた美しい一冊、あれと同じものがこの部屋のどこかにある。
それを探した視界の端、記憶の色彩を見つけて英二は綺麗に笑いかけた。
「田嶋先生、本を見せて頂いても宜しいですか?」
「ああ、好きなだけ見てくれ。ここの蔵書は良いぞ、」
大らかに笑って勧めてくれながら窓際にティーカップ2つ並べてくれる。
その受け皿が無いことが学者の性質を示していて、可笑しくて笑いたい。
―ほんとに大らかな人なんだな、拘らないっていうか。馨さんと正反対って感じだ、
想い笑いながら書架に手を伸ばし、深緑色の一冊を引き取らす。
ずしり分厚い重みを右手に持って踵返すと英二は窓際の椅子に座った。
ふわり優しい芳香くゆらすティーカップを眺めて、向かいに座る笑顔へ微笑んだ。
「遠慮なく頂きます、」
「ほい、どうぞ?この菓子も食ってくれ、ただし本には零すなよ、」
どこまでも明るい声が笑って日焼健やかな手は焼菓子を勧めてくれる。
その端正な銀盆は記憶の風景と同じで、また過去の痕跡を見つめながら英二はティーカップに口付け微笑んだ。
「すごく佳い香ですね、」
「だろう?紅茶だけは私も巧いんだ、」
日焼顔ほころばせて田嶋もティーカップを啜りこむ。
その笑顔ふっと和んで、明敏な瞳は真直ぐ英二を映して笑った。
「淹れ方を湯原先生たちに教わってるから巧いんだよ、さっき君も言ってたろ、この研究室のティータイム。今は私が受継いでるよ、」
湯原先生の研究室は人気だったそうですね、仏文なのに英国式のティータイムがあって。
そんなふうに自分が言った言葉を田嶋は憶えていて、その通りにもてなしてくれている。
―俺が言ったことを全部そのまま信じてくれてるんだ、だから銀盆まで出してくれてる、
大伯母が湯原先生の教え子でした。
祖母が大伯母を懐かしがるので、なにか土産話にと想って今日は講座に伺ったんです。
そう自分が告げたから田嶋は研究室に招き、昔と同じ風景を見せようとしてくれている。
土産話をもたせてあげたい、そんな厚意が向かい合っている明敏な瞳から大らかに優しくて伸びやかな心は温かい。
これでは本当に祖母への土産話が出来てしまったな?そんなふう想わされる敗北感が楽しくて英二は膝の本へ微笑んだ。
―本当に佳い男なんだ、だから周太も信用しきって…そうですよね、馨さん?
心に問いかける俤は今、膝に置いた深緑の一冊に素顔がある。
その素顔を最も知っているだろう男に英二は綺麗に笑いかけた。
「ストレートティーにスコンと銀盆だなんて、ハイクラスの英国式ですね、」
スコン、
そう発音した前で明敏な瞳かすかに大きくなる。
この研究室でこの発音を自分がしたら、どんな反応をされるのか?
そう予想した通りの眼差しが英二を見つめて低く透る声が問いかけた。
「詳しそうだな、君も英文学を学んでるのかい?イギリスに留学していたとか、」
「いいえ、」
正直な答えに微笑んで口付けたティーカップの向こう、明敏な瞳が見つめてくれる。
いま訊いて良いのか考え込んでいるだろう、そんな眼差しの前でカップを置くと膝の本を手にとった。
『MEMOIRS』Kaoru Yuhara
深緑色の表装に記された銀文字に、真直ぐな視線が問いかけを映す。
いま自分に向けられる聲を視界の端に見ながら表紙を開き、穏やかに英二は微笑んだ。
「ソネット18、シェイクスピアが大切な人に贈った詩だそうですけど、手紙みたいですよね…恋愛より深い気持がある相手への手紙、」
いつもと違うトーンの声に微笑んで、目の前にいる男へ笑いかける。
笑いかけた先、懐旧を探すような瞳は自分を映して低く透る声が問いかけた。
「この詩を知ってるんだ?」
「はい、小さい頃に読み聞かせてもらって、」
事実のまま答えた向こう明敏な瞳が窓の光に揺れる。
もうじき溢れそうな想いを見つめて、開いたページの一節を英二は口遊んだ。
「And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.」
土曜日の夜、読んでくれた声と韻律なぞるよう唇は詩を謳う。
その一音ごと眼前の瞳は感情あふれさせて、涙ひとつ、日焼の頬を伝って声になった。
「君は、誰なんだい?」
低く透る声の問いかけに、そっとワイシャツの胸元へ指ふれる。
指先の小さな輪郭は鼓動の上で温かい、その温もり素直に微笑んで、けれど言葉は秘密を噤む。
(to be continued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」より抜粋】
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