Serenade&Requiem、愛しきひとの安息を
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第42話 雪陵Serenade.act.2―side story「陽はまた昇る」
23時になって藤岡は「また明日あははっ」と笑って自室へと引き上げた。
あんなに酔っぱらっても藤岡の足音は、きちんと廊下を歩いて去って行く。
「いつもだけどね、藤岡って、すごいよね?べろべろに酔ってるみたいなのに、足取りはしっかりしてるなんてさ、」
「うん、なんか不思議だよな?藤岡の酒って、」
感心しながら見送る先で藤岡は、擦違った先輩にも陽気な笑顔できちんと挨拶している。
そしてまた真直ぐちゃんと歩いて、自室の方へ向かっていく。
「スゴイ飲んでシッカリ酔って、ものスゴイ陽気な笑い上戸。なんかホント、藤岡って酒の神様みたいだね?」
「そうだな?瓢箪とか持たせたら、似合いそうだな、藤岡」
「あ、それいいね?今度、プレゼントしちゃう?」
扉から顔出して見送りながら、ふたり笑いを堪えてしまう。
明るい元気な性格のまま藤岡の酒は、いつも明るく陽気で楽しい。
そんな藤岡は罹災と祖父の死という困難を越えてきた、けれど悲嘆に翳らず藤岡の心は隈なく明るい。
こういう強靭で大らかな明るさが藤岡の良い所で、レスキューとしての適性になっている。
レスキューの厳しい現場では、救助する側される側の双方にとって明るさは救いになっていく。
しかも青梅署の場合は首都近郊の山域を抱え、遭難救助は勿論のこと自殺遺体の発見件数も多い。
こうした生死の歓びと悲嘆が廻る現場では、強靭な明るい精神が張りつめた心を和ませてくれる。
そんな精神を持った話しやすい同期が居てくれるのは、やっぱり嬉しい。
―藤岡と一緒に配属されて、良かったな
素直な感謝の想いに見送る先で、ちゃんと藤岡は自室の扉を開いて入って行く。
無事の帰室を見届けて、ぱたんと閉じた扉に施錠すると国村は英二に笑いかけた。
「さてと。おまえは、酔っぱらってはいないよね?例の写真、見せてくれる?」
「うん、」
英二は鍵付の抽斗を開くと、底板を外して青色の表装鮮やかな冊子を取出した。
絹張表装の美しいアルバムは、ずしりと持ち応えがある。
手渡すと早速に国村は開いて、まず感心の声に微笑んだ。
「きっちりメモが付いてるんだね、几帳面だな。周太と似てるね、」
「やっぱり国村もそう思う?」
同じように思うんだ?
なんだか嬉しくて笑った英二に、上品な笑顔は頷いてくれる。
「思うね、…なんかさ、ハイクラスの家って感じだね、」
「うん。この頃って写真自体が貴重だろ?なのに、これだけ日常的に写真を撮ってる。すごいことだよな?」
「だね。ふうん、メイドとかもいるんだ。かなりなモンだね…周太、お姫さまなんだな、」
白い指が大切にページを捲っていく。
幾度か華奢な女性の笑顔を見ていくうち、透明なテノールが笑った。
「うん、曾ばあさん、周太と似ているな?」
「だろ?奥ゆかしくて、淑やかっていうのかな。雰囲気とか似てるな、って思う」
「だな、似てる。雰囲気が好いね、可愛い、」
温かに笑んで国村は、丁寧にアルバムのページを捲っていく。
そして一枚の写真にふと白い指の動きは止まった。
「これだな?宮田が言っていた写真は、」
軍服姿の周太の祖父、晉の写真。
その軍服姿の腰あたりに、細い目はじっと注視している。
そして、ほっと息吐いてテノールの声は判断を告げた。
「うん、拳銃のホルスターだって、俺も思うね、」
ごとり、心に重たく昏い塊が墜ちこんだ。
重たく昏く苦い塊。
この塊が落としてくる推論が2つの可能性を示唆してしまう。
この可能性は択一、どちらかが真相になるだろう。重苦しさを抱いたまま英二は訊いた。
「普通はさ、サーベルを提げるんだろ?なのに、お祖父さんはホルスターだ。どうしてだ、って考える?」
「おまえが考えている通りだろうね、」
透明な目が英二を見つめてくれる。
すこしだけ微笑んで、はっきりとテノールが英二に告げた。
「特別に、『射撃が得意』だったからだ、」
周太の祖父、晉の軍服姿に見える拳銃。
晉も拳銃射撃が得意だった、この「得意」が示す2つの可能性が哀しい。
この2つを国村もすぐ気付くだろうな?考えながら英二は微笑んだ。
「でも日記によると、おじいさんは、息子が射撃部に入ることは猛反対したんだ…何故だと思う?」
「息子が射撃をすると都合が悪い理由がある、ってことだな?…ふん、」
透明な目がすこし細められて、覗きこむよう英二を見つめてくる。
ふっと微笑んで、テノールの声は考えを述べ始めた。
「射撃が得意だと知られる可能性は、どんなに小さな芽でも摘みたい。それには『射撃』を身辺から遠ざけておきたい。
だから息子の射撃部は困るんだ、息子が射撃が得意だってなると、自分からの遺伝の可能性を探られるかもしれないからね。
そして、この戦争当時に射撃が得意だった、ってことはね?法律の抵触をしていた可能性が、2つ出てくるだろうな。宮田も思っただろ?」
やっぱり同じ2つに気づくんだな?
こんなふうに解かって、共に考えてくれる存在が嬉しい。
孤独に背負わなくても済むことが心を幾らか軽くしてくれる、すこし笑って英二は頷いた。
「うん、2つあるよな?…やっぱり、国村も思うんだ、」
答えながら、英二はアルバムの最期のページを開いた。
そこに挟みこんだ封筒をだすと、感染防止グローブを出し国村にも渡す。
英二はグローブを嵌めた手で、封筒から古い写真を出した。
「これが、北穂で言っていた写真だな?」
「うん、この写真が貼られていたアルバムの本体は、無かったんだ…」
グローブを嵌めた白い指が、英二の手から1枚の写真を取って細部まで眺めていく。
見つめた細い目が1つ瞬いて、テノールの声は静かに告げた。
「血痕、だな、」
どす黒い斑紋が付着した、セピア色の写真たち。
セピア色に映し出される幸福な笑顔は、暗赤色の染みに蝕まれている。
昏い色彩が翳おとす、1926年から1938年の血痕あざやかな写真たち。
これらが貼られていたアルバム『since 1926』は消失して今は無い。
「アルバムは消えた、そして東屋には血痕があったんだよな?」
「うん。そしてさ、曾おじいさんの亡くなった日は、誕生日の当日なんだ」
「アルバムには、毎年の誕生日会の写真があるな?…でも、その亡くなった日は写真が無いんだ?」
「うん、無いんだ…そしてさ?誕生会の写真見ると、いつもアルバムが曾おじいさんの傍に置かれているんだ、」
ページを捲って周太の曽祖父、敦の誕生会の写真を示す。
そこには今見ているアルバムと同じデザインの冊子が、彼のすぐ傍に映っている。
そして毎年同じ場所で映されている、その撮影場所は、
「撮影場所は東屋なんだ、毎年…その東屋の柱に血痕があった、そしてこの写真にも。国村、どういうことだって考える?」
彼岸桜のもと佇む東屋の、木製の柱に遺された血液の痕。
血痕に染まる1926年から1938年の写真たち、貼られていたアルバム『since 1926』は消失。
周太の曽祖父、敦の死亡月日と誕生日の一致。
周太の祖父、晉の軍服姿に見える拳銃の影が示すのは、晉も射撃が得意だった事実。
そして息子、馨の射撃部活動を猛反対する晉の意図は?
そして、馨が英文学者の道を捨て警視庁に任官した、その理由は?
この全てが指し示す「連鎖の原点」は?
「そうだね?2つの可能性を考るね、」
おまえも思うだろう?
細い目が訊いてくれるのに英二は無言で頷いた。
頷いた英二に微笑んで、冷静なテノールの声が口を開いた。
「曾じいさんが亡くなった日と翌日の新聞記事。俺も今日、web閲覧したんだよ。おまえの言う通りだった」
1962年、敦誕生日の夕方と翌朝に発刊された新聞記事。
これを英二は静養中に、川崎の家のパソコンで閲覧をしている。
50年前の川崎で起きた事件は、新聞掲載されているのか?それを知りたくて閲覧をした。
そして見つけた記事は、予想外なようで想定内の内容だった。
「あの現場は、近所だな?」
「うん、近い…今は家の、3軒隣になる。当時は、あの辺りは殆ど林だったらしい、だから目撃証言は無いんだ」
「宮田は、あの記事に書いてある事は、全て事実だって思う?」
「思いたいけど、でも…自分が見つけたことと、記事に書いてある事は、矛盾が多いよ、」
「だな?…まあ、2つは事実だろうけどね、」
沈思する透明な目が英二の目を見つめてくれる。
見つめながら、国村は淡々と言った。
「遺体の身元と、あの界隈を発砲音が2発響いたこと。この2つは隠蔽出来ない、だから事実だね」
1962年、敦の誕生日当日。
川崎の古い住宅街を、銃声に似た2発の破裂音が響いた。
通報を受けた川崎警察署は界隈を巡回、ちょうど知人宅に訪問中だった警視庁所属の警察官も捜査に加わった。
そして住宅街にある雑木林から、男性の遺体が発見された。
男性は無職50代、こめかみに銃創があり、拳銃を手にしていた。
その拳銃は元軍人だった本人が退役後も隠し持っていた物だった。
銃弾は脳を貫通したらしく左から右へと抜けた弾痕がみられ、銃弾は雑木林に落ちていた。
生活苦による退役軍人の拳銃自殺、それが行政検死の結論だった。
「目撃者がいない、銃声は2発、そしてさ?警視庁の警察官がちょうど近くにいた。これが気になるよね?」
「俺も、同じところが気になったよ?…でも、そうだとしたら、2つの可能性の内、1つは消えるよな?」
この可能性には、消えてほしい。
どちらも残酷な2つの可能性、けれどより残酷な方だけでも消えてほしい。
そんな想いと見つめる英二に、透明な目はすこし笑って頷いてくれた。
「うん、消えるな?不幸中の幸いだね、それでも、もう1つだってキツイ事実だけどさ、」
それでも、最悪な方の可能性は消える。
ほっと溜息を吐いて、英二は微笑んだ。
「でも、よかった。最悪なところだけでも、消えてほしかったんだ、」
「だね。あの記事がなかったらさ、ソッチをまず、考えちゃうよね?」
「うん、考えたとき俺、自分ですごく嫌だった。それもあって、新聞の記事を確認しようって思ったんだ、」
写真を封筒に戻しアルバムの一番後ろに挟みこむ。
それを鍵付の抽斗へと元通りに戻すと施錠して、英二は感染防止グローブを外した。
「銃声の発砲場所は、正確じゃない。そう国村も思うんだ?」
「もちろん。だってさ、おまえの現場検証と矛盾するだろ?だから俺は、違うって思ったね、」
新聞記事よりも、英二の検証を国村は信頼してくれる。
まだ卒配半年程度の自分を信じてくれる、そんなパートナーが嬉しくて微笑んだ英二に、テノールの声は続けた。
「でさ?そう考えると、東屋の血痕は2種類の血液が混合している可能性が出てくる。1種類は写真のと同じ型だろうけどね、」
「うん。この自殺事件っていう判定自体がフェイク、ってことになるよな?」
「だね?そうするとさ、この警察官の存在がポイントなるね、」
グローブを外して英二に渡すと、国村はベッドの窓際に座りこんだ。
窓枠に頬杖ついて外を眺めながら、テノールの声は考えを述べ始めた。
「この警察官が、もし訪問者だとしたら。誰の知人かって考えるとね、キャリアの可能性が高いよな?
1962年だと、DNA鑑定もまだ無い時代だ。せいぜいルミノール試験だよね、警察関係者かつキャリアなら、隠蔽は容易いよな?」
国村の言う通りだろう。
片づけ終えながら英二は、ちいさくため息を吐いて答えた。
「うん。ルミノール試験は、新鮮な血痕より古い血痕の方が発光が強いから…しかも野外なら、隠蔽は簡単だと思う、」
ルミノール「luminol」
窒素含有複素環式化合物の一種で、科学捜査や化学の演示実験に用いる試薬。
これを用いた「ルミノール試験」は犯罪現場から血痕を探す場合などに利用されている。
試験方法はルミノールの塩基性溶液と過酸化水素水との混液を作り、現場や対象物に塗布または噴霧する。
これを暗所で観察すると血痕であれば青白い化学発光が確認できる、これをルミノール反応と呼ぶ。
そしてこの青色発光は、ヘミンが形成されている古い血痕の方が発光が強い。
「あれって、血液鑑定における予備試験ってトコだよね?」
「うん。まず、本当に血液であるかの鑑定から必要になるよ、」
答えながら英二は脳裏にある鑑識ファイルを開いた。
そこから吉村医師に教わった現場との照合データを言葉に出し始めた。
「血液なのかすら判定できない、だから人間の血液であるのか、ルミノール試験だけでは判断できないんだ。
人間以外の血液に対しても、ルミノール試薬は青色発光する。だから…血痕の偽造も、ルミノール試験だけだと破られない。
あの試験はさ、その後の鑑定をしなければ証拠能力としては低いんだ。でも、1962年当時に自殺案件にされたなら、鑑定までは…」
もし行政検死で「自殺」判定を出したなら?
この場合の可能性について、英二は言葉を続けた。
「前に吉村先生に聴いたんだ。警察医は開業医の嘱託がほとんどで、研修制度も整備されていないって。
法医学の経験者は少ない、しかも検案は検査事項が限られている。それで正確な検案が出来ない警察医も、多いんだ。
行政検死に意見できる自信が警察医に無いから、実際は警察官の行政検死だけで、死因判定をするケースも珍しくないらしい。
この場合に警察官が自殺と判定したら。そのまま検案所に安置して、遺族が引取りに来て、荼毘にふすよな?…簡単に、証拠は消せる」
警察医の実情と、犯罪立件の相関。
この問題はある意味で「慣例」になっている現場も少なくない。
この陥穽を警察官が意図的に利用したのなら?
「警察機構の落とし穴に、ずっぽり嵌めた。ってトコだよね、」
ほっと溜息を吐いて国村は、軽く頷いた。
「ほんとにさ、吉村先生みたいなプロは希少なんだよね?警察医が皆、先生みたいならさ。防げた犯罪もいっぱいあるよね、」
「うん、だから先生、警察医の改善に取り組まれているんだ。今日も、研修用資料を作ってらした、」
「ありがたいよね、俺たち警察官からすると、ホントにさ…こういう落とし穴、減ってほしいよね、」
「俺も、本当にそう思うよ、」
話しながら窓枠に浅く腰掛けて、窓ガラスに長い指でふれる。
雪の冷気が窓ガラスをあわく曇らせている、それでも深夜の底が銀色に輝く様子が美しい。
街路灯に蒼くうかぶ春雪を見つめながら英二は口を開いた。
「この警察官の、その後、って解るかな、」
「うん?そうだね、名前の特定が出来れば、なんとかなるかな。大学のOB名簿とか、手懸りになるんじゃない?」
「OB名簿か、調べやすいし、いい考えだな。あとは…日記に、名前のヒントがあるかな?」
ふれる窓ガラスは冷たい。
指先の冷たさを感じながら雪夜を見つめる傍、テノールの声は静かに言った。
「あると思う、もしあるのだとしたら『その後』が、周太のオヤジさんが警視庁に任官させられた理由、かもしれないね…」
告げられた言葉に、黙ったまま英二は頷いた。
頷いた顔の目許から、ぽつんと涙がひとつ零れて、床に砕けていく。
この「その後」が編み出した哀しい連鎖の束縛が、悔しく、哀しい。
ある男が発砲した、1発の銃弾。
ただ1発の銃弾が、50年間に亘って父子達を廻らす哀しみの連鎖の、原点だという推論。
たった1発、けれどこの1発が、ある家の50年間の幸福を壊し続け、50年を経た今も苦しめている。
そんな推論が本当はもう、哀しいけれど自分の中には見えている。
たった1発、それなのに?
ぽつり、涙がまた零れ落ちていく。
零れる涙には、警察学校の時に周太が言った言葉がリフレインしてくる。
凍える窓の向こう、雪輝く夜を見つめたまま英二は口を開いた。
「周太が前に言ったんだ…おまえは拳銃をなめてる、って、」
涙が頬を伝っていく。
伝う涙のこぼれるままに、英二は泣笑いに微笑んだ。
「ほんとうに、俺は甘かったよ?…1962年だ、銃弾が撃たれて、50年だよ…1発が最初、たった1発が、あの家を、ずっと今も…」
ベッドの軋む音が静かに鳴る。
そっと気配が立ち上がって、隣から温かな腕が英二を抱きしめた。
「どうしてかな?国村…どうして曾おじいさん、そんなことになったのかな?…50年だよ、」
どうして、50年も束縛されなきゃならない?
疑問と哀しみと、50年間の重みが圧し掛かる束縛の痛み。
ただ1発の銃弾が、もし、撃たれなかったなら?痛みと悔しさに英二の目から涙がこぼれた。
「50年を、1発の銃弾に縛られている、あの家は…たった1発の束縛が、50年経っても終わらないままだ。
そんなに重たい堅い、束縛なのか?そんなに難しいのか?それでも周太を、救けられるかな?…周太と、お母さんは、救けたいんだ、」
涙ながれた頬に、頬よせてくれる温もりが優しい。
温もりに佇んでいる英二に、透明なテノールが静かに応えてくれる。
「大丈夫、救けられるね。宮田にはね、俺がいるんだからさ。おまえ1人じゃない、俺が一緒にいるよ?」
やさしいテノールが、そっと心に落ちていく。
抱きしめられるままベッドに腰をおろすと、温かな白い手は英二の頬を拭ってくれた。
「大丈夫、絶対に救けられるね。おふくろさんも、周太も、幸せに出来るよ?」
「…うん、ありがとう、」
素直に涙拭われながら、すこしだけ英二は微笑んだ。
そんな英二に底抜けに明るい目は、からり笑って言ってくれた。
「絶対大丈夫、幸せに出来るね。だってさ?おまえの笑顔は、最高の別嬪だからね、」
「なんだ、俺って、顔だけ?」
思わず英二は笑ってしまった。
笑った英二に底抜けに明るい目が温かに笑んで、透明なテノールの声が言ってくれた。
「ほら、その笑顔だよ?おまえの笑顔ってさ、見てるだけで幸せになれるんだよね。だから、おまえの顔は重要だよ?
しかも宮田はね、優秀な警察官で、この俺のアンザイレンパートナーだ。その上、酒も強い。これだけ出来てりゃ充分、おまえは最強だよ、」
透明な目が真直ぐ英二を見つめて、明るい大らかな優しさに笑ってくれる。
ほっと肩の力が抜けて、可笑しくて英二は笑った。
「俺って、最強なんだ?」
「そ、最強だね。最高峰の竜の爪痕をもつ男だろ、おまえは。だから、さっ、」
ぐいっと引っ張られて、バランスが崩れる。
そして英二は抱きしめられたまま、ふたり一緒にベッドにひっくり返った。
「最強の宮田が一緒にいるからね、俺も、雅樹さんのこと向き合えるんだ。だからね、自信持ちな?」
ふたりベッドにひっくり返ったまま、底抜けに明るい目が微笑んでくれる。
大らかなアンザイレンパートナーの温もりに、英二は笑いかけた。
「うん、ありがとう、国村。おまえに言われると、なんか自信出るよ?」
「だろ?俺ってね、最高のアンザイレンパートナーだろ?」
Yes、って言ってよ?
透明な目が真直ぐ見つめる問いかけに、英二は微笑んだ。
「うん、国村は最高だな?」
「だよね、俺の愛しのアンザイレンパートナー?愛してるよ、で、おまえも俺のこと、愛しちゃってるね?」
無邪気な笑顔で笑って、白い指が英二の額を小突く。
この言葉と笑顔の想いに槍ヶ岳で見つめた想いが重なっていく、素直に英二は笑って頷いた。
「そうだな、パートナーとしてね。でもさ、この体勢は変だよ?」
「変じゃないね。ほらっ、ア・ダ・ム、イヴの腕で安心して眠ってよ、」
愉しげに笑いながら国村は、英二を抱きしめてくれる。
こんなふうにベッドで誰かに抱きしめられるのは、大柄な英二には初めてだった。
なんだか可笑しくて困って、そのままに困り顔で英二は微笑んだ。
「ちゃんと1人で寝れるから、俺。だから安心して、国村は自分のベッドで寝てよ?」
「俺が安心できないね。今夜はここで、イヴはアダムに寄添いたいの…お願い、愛してるなら言うこと聴いて?」
「そんなに抱きついたら苦しいって、こんな馬鹿力のイヴはいないよ?」
「そんなこと言わないで?この力があるから、アダムのこと援けられるのよ。さ、アダム、おやすみのキス、し・ま・しょ?」
「キス無理要らないキス要らないから、って、こらっ、なにまた首にキスしてんの、っ」
―…おしゃぶりの癖で、寝惚けて雅樹の首を吸っちゃうんですよね
だから朝起きるとね?雅樹の首のところに、いつも可愛いキスマークがついていました
国村くんが家に来てくれた後は、今でも家内や雅人と話します。おしゃぶり光ちゃんが、あんなに大きくなったな、って
逃げようともがきながら、吉村医師が教えてくれたことが頭をめぐる。
それが可笑しくて思わず英二は笑ってしまった。
「こら、おしゃぶり光ちゃん。23歳になってまだ、おしゃぶり癖が抜けない甘えんぼなわけ?」
「あ、吉村先生に聴いたんだ?」
可笑しそうに国村も笑って、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
けれど、笑んだ透明な目から、ひとしずく涙が頬に溢れた。
「そうだよ?ほんと今も甘えんぼで、寂しいね。だから俺、宮田にじゃれつきたい。それくらい、おまえが大好きなんだよね、」
秀麗な笑顔のままで、涙だけが流れていく。
この涙には弱いかもしれない?こんなふうに周太以外に想うのは予想外だけれど。
もちろん周太に対する想いとは色合いが違う、けれど国村も大切な相手であることは変わらない。
この弱い涙に観念して、英二は大切なアンザイレンパートナーの髪を撫でて微笑んだ。
「うん、俺もね、おまえのこと大好きだよ?だからさ、仕方ないから、今日はここで寝て良いよ。ほら、」
笑いかけながら抱きよせて、ちいさい子にするよう背中を叩いてやる。
きっと今日の遭難救助で国村は、哀しみの記憶で揺すられて不安定にもなっているだろう。
だから今夜は独りになりたくない気持ちも納得出来る、それなのに放り出すことはしたくない。
ここに居て良いよ?目で告げて微笑んだ英二に、テノールの声が笑ってくれた。
「お許し出たね?よし、じゃ、遠慮なく同衾するね、」
「はい、どうぞ?でも変なコトするなよ?」
念のため釘刺しながら英二はブランケットをひきよせた。
うれしそうに国村もブランケットに潜りこむと、無邪気な笑顔は楽しげに言ってきた。
「そんなこと言っても、したかったらするよ?それでもやっぱり、俺のこと可愛いんでしょ、ア・ダ・ム?」
「はいはい、かわいい可愛い。だから、大人しく寝てくれな?」
「はーい、その気分になったらね?」
涙の痕を残したまま、大きな子どもは無邪気に笑っている。
この笑顔が超えた、鋭鋒に聳える蒼穹の点。あの超える瞬間の哀しみと、明るい決意が心の底からふれてくる。
あの想いを今も無邪気な笑顔は抱いている、この想いを今夜は分け持ってやれたらいい。
そんな想いに英二は雪の春宵に微笑んだ。
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眠りこんだ春雪の夜、意識の底で歌声を聴いた。
…
季節は 色を変えて 幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように 揺らめいて 君を想う
奏であう言葉は 心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を 失さない為なら…
…
優しく低く、あまく透明なテノールが、静謐にゆらめいていく。
静かで透きとおる歌声に惹きこまれながら、眠りのまま意識と心は聞惚れている。
この歌声は聴いたことがある、そして、また聴きたいと思っていた。
…
降り注ぐ木洩れ日のように 君を包む
それは僕の強く 変わらぬ誓い
夢なら夢のままで かまわない
愛する輝きにあふれ 明日へ向かう喜びは 真実だから…
…
どこか切ない、あまやかで懐かしい。
求め得ぬものを追うようで、大らかに包むようで、温かい。
やさしい神秘と見つめる峻厳、けれど寄添うよう甘やかせる慕わしさ。
ひそやかな歌声は静かに流れていく。
…
残された 哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて 靡く
あざやかな君が 僕を奪う
季節は色を変えて 幾度廻ろうとも
この気持ちは 枯れない 花のように…
…
あまやかで静かな歌声は、無垢の透明にやわらかい。
切ないほど無垢な声に心ごと惹かれていく、横たわる眠りの底にも聲はゆれ響く。
この響きにこもる想いは、なんと言うのだったろう?
…
夢なら 夢のままで かまわない
愛する 輝きに あふれ胸を染める いつまでも
君を想い…
心惹きこむ歌声は、やわらかな熱に唇ふれた。
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【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
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第42話 雪陵Serenade.act.2―side story「陽はまた昇る」
23時になって藤岡は「また明日あははっ」と笑って自室へと引き上げた。
あんなに酔っぱらっても藤岡の足音は、きちんと廊下を歩いて去って行く。
「いつもだけどね、藤岡って、すごいよね?べろべろに酔ってるみたいなのに、足取りはしっかりしてるなんてさ、」
「うん、なんか不思議だよな?藤岡の酒って、」
感心しながら見送る先で藤岡は、擦違った先輩にも陽気な笑顔できちんと挨拶している。
そしてまた真直ぐちゃんと歩いて、自室の方へ向かっていく。
「スゴイ飲んでシッカリ酔って、ものスゴイ陽気な笑い上戸。なんかホント、藤岡って酒の神様みたいだね?」
「そうだな?瓢箪とか持たせたら、似合いそうだな、藤岡」
「あ、それいいね?今度、プレゼントしちゃう?」
扉から顔出して見送りながら、ふたり笑いを堪えてしまう。
明るい元気な性格のまま藤岡の酒は、いつも明るく陽気で楽しい。
そんな藤岡は罹災と祖父の死という困難を越えてきた、けれど悲嘆に翳らず藤岡の心は隈なく明るい。
こういう強靭で大らかな明るさが藤岡の良い所で、レスキューとしての適性になっている。
レスキューの厳しい現場では、救助する側される側の双方にとって明るさは救いになっていく。
しかも青梅署の場合は首都近郊の山域を抱え、遭難救助は勿論のこと自殺遺体の発見件数も多い。
こうした生死の歓びと悲嘆が廻る現場では、強靭な明るい精神が張りつめた心を和ませてくれる。
そんな精神を持った話しやすい同期が居てくれるのは、やっぱり嬉しい。
―藤岡と一緒に配属されて、良かったな
素直な感謝の想いに見送る先で、ちゃんと藤岡は自室の扉を開いて入って行く。
無事の帰室を見届けて、ぱたんと閉じた扉に施錠すると国村は英二に笑いかけた。
「さてと。おまえは、酔っぱらってはいないよね?例の写真、見せてくれる?」
「うん、」
英二は鍵付の抽斗を開くと、底板を外して青色の表装鮮やかな冊子を取出した。
絹張表装の美しいアルバムは、ずしりと持ち応えがある。
手渡すと早速に国村は開いて、まず感心の声に微笑んだ。
「きっちりメモが付いてるんだね、几帳面だな。周太と似てるね、」
「やっぱり国村もそう思う?」
同じように思うんだ?
なんだか嬉しくて笑った英二に、上品な笑顔は頷いてくれる。
「思うね、…なんかさ、ハイクラスの家って感じだね、」
「うん。この頃って写真自体が貴重だろ?なのに、これだけ日常的に写真を撮ってる。すごいことだよな?」
「だね。ふうん、メイドとかもいるんだ。かなりなモンだね…周太、お姫さまなんだな、」
白い指が大切にページを捲っていく。
幾度か華奢な女性の笑顔を見ていくうち、透明なテノールが笑った。
「うん、曾ばあさん、周太と似ているな?」
「だろ?奥ゆかしくて、淑やかっていうのかな。雰囲気とか似てるな、って思う」
「だな、似てる。雰囲気が好いね、可愛い、」
温かに笑んで国村は、丁寧にアルバムのページを捲っていく。
そして一枚の写真にふと白い指の動きは止まった。
「これだな?宮田が言っていた写真は、」
軍服姿の周太の祖父、晉の写真。
その軍服姿の腰あたりに、細い目はじっと注視している。
そして、ほっと息吐いてテノールの声は判断を告げた。
「うん、拳銃のホルスターだって、俺も思うね、」
ごとり、心に重たく昏い塊が墜ちこんだ。
重たく昏く苦い塊。
この塊が落としてくる推論が2つの可能性を示唆してしまう。
この可能性は択一、どちらかが真相になるだろう。重苦しさを抱いたまま英二は訊いた。
「普通はさ、サーベルを提げるんだろ?なのに、お祖父さんはホルスターだ。どうしてだ、って考える?」
「おまえが考えている通りだろうね、」
透明な目が英二を見つめてくれる。
すこしだけ微笑んで、はっきりとテノールが英二に告げた。
「特別に、『射撃が得意』だったからだ、」
周太の祖父、晉の軍服姿に見える拳銃。
晉も拳銃射撃が得意だった、この「得意」が示す2つの可能性が哀しい。
この2つを国村もすぐ気付くだろうな?考えながら英二は微笑んだ。
「でも日記によると、おじいさんは、息子が射撃部に入ることは猛反対したんだ…何故だと思う?」
「息子が射撃をすると都合が悪い理由がある、ってことだな?…ふん、」
透明な目がすこし細められて、覗きこむよう英二を見つめてくる。
ふっと微笑んで、テノールの声は考えを述べ始めた。
「射撃が得意だと知られる可能性は、どんなに小さな芽でも摘みたい。それには『射撃』を身辺から遠ざけておきたい。
だから息子の射撃部は困るんだ、息子が射撃が得意だってなると、自分からの遺伝の可能性を探られるかもしれないからね。
そして、この戦争当時に射撃が得意だった、ってことはね?法律の抵触をしていた可能性が、2つ出てくるだろうな。宮田も思っただろ?」
やっぱり同じ2つに気づくんだな?
こんなふうに解かって、共に考えてくれる存在が嬉しい。
孤独に背負わなくても済むことが心を幾らか軽くしてくれる、すこし笑って英二は頷いた。
「うん、2つあるよな?…やっぱり、国村も思うんだ、」
答えながら、英二はアルバムの最期のページを開いた。
そこに挟みこんだ封筒をだすと、感染防止グローブを出し国村にも渡す。
英二はグローブを嵌めた手で、封筒から古い写真を出した。
「これが、北穂で言っていた写真だな?」
「うん、この写真が貼られていたアルバムの本体は、無かったんだ…」
グローブを嵌めた白い指が、英二の手から1枚の写真を取って細部まで眺めていく。
見つめた細い目が1つ瞬いて、テノールの声は静かに告げた。
「血痕、だな、」
どす黒い斑紋が付着した、セピア色の写真たち。
セピア色に映し出される幸福な笑顔は、暗赤色の染みに蝕まれている。
昏い色彩が翳おとす、1926年から1938年の血痕あざやかな写真たち。
これらが貼られていたアルバム『since 1926』は消失して今は無い。
「アルバムは消えた、そして東屋には血痕があったんだよな?」
「うん。そしてさ、曾おじいさんの亡くなった日は、誕生日の当日なんだ」
「アルバムには、毎年の誕生日会の写真があるな?…でも、その亡くなった日は写真が無いんだ?」
「うん、無いんだ…そしてさ?誕生会の写真見ると、いつもアルバムが曾おじいさんの傍に置かれているんだ、」
ページを捲って周太の曽祖父、敦の誕生会の写真を示す。
そこには今見ているアルバムと同じデザインの冊子が、彼のすぐ傍に映っている。
そして毎年同じ場所で映されている、その撮影場所は、
「撮影場所は東屋なんだ、毎年…その東屋の柱に血痕があった、そしてこの写真にも。国村、どういうことだって考える?」
彼岸桜のもと佇む東屋の、木製の柱に遺された血液の痕。
血痕に染まる1926年から1938年の写真たち、貼られていたアルバム『since 1926』は消失。
周太の曽祖父、敦の死亡月日と誕生日の一致。
周太の祖父、晉の軍服姿に見える拳銃の影が示すのは、晉も射撃が得意だった事実。
そして息子、馨の射撃部活動を猛反対する晉の意図は?
そして、馨が英文学者の道を捨て警視庁に任官した、その理由は?
この全てが指し示す「連鎖の原点」は?
「そうだね?2つの可能性を考るね、」
おまえも思うだろう?
細い目が訊いてくれるのに英二は無言で頷いた。
頷いた英二に微笑んで、冷静なテノールの声が口を開いた。
「曾じいさんが亡くなった日と翌日の新聞記事。俺も今日、web閲覧したんだよ。おまえの言う通りだった」
1962年、敦誕生日の夕方と翌朝に発刊された新聞記事。
これを英二は静養中に、川崎の家のパソコンで閲覧をしている。
50年前の川崎で起きた事件は、新聞掲載されているのか?それを知りたくて閲覧をした。
そして見つけた記事は、予想外なようで想定内の内容だった。
「あの現場は、近所だな?」
「うん、近い…今は家の、3軒隣になる。当時は、あの辺りは殆ど林だったらしい、だから目撃証言は無いんだ」
「宮田は、あの記事に書いてある事は、全て事実だって思う?」
「思いたいけど、でも…自分が見つけたことと、記事に書いてある事は、矛盾が多いよ、」
「だな?…まあ、2つは事実だろうけどね、」
沈思する透明な目が英二の目を見つめてくれる。
見つめながら、国村は淡々と言った。
「遺体の身元と、あの界隈を発砲音が2発響いたこと。この2つは隠蔽出来ない、だから事実だね」
1962年、敦の誕生日当日。
川崎の古い住宅街を、銃声に似た2発の破裂音が響いた。
通報を受けた川崎警察署は界隈を巡回、ちょうど知人宅に訪問中だった警視庁所属の警察官も捜査に加わった。
そして住宅街にある雑木林から、男性の遺体が発見された。
男性は無職50代、こめかみに銃創があり、拳銃を手にしていた。
その拳銃は元軍人だった本人が退役後も隠し持っていた物だった。
銃弾は脳を貫通したらしく左から右へと抜けた弾痕がみられ、銃弾は雑木林に落ちていた。
生活苦による退役軍人の拳銃自殺、それが行政検死の結論だった。
「目撃者がいない、銃声は2発、そしてさ?警視庁の警察官がちょうど近くにいた。これが気になるよね?」
「俺も、同じところが気になったよ?…でも、そうだとしたら、2つの可能性の内、1つは消えるよな?」
この可能性には、消えてほしい。
どちらも残酷な2つの可能性、けれどより残酷な方だけでも消えてほしい。
そんな想いと見つめる英二に、透明な目はすこし笑って頷いてくれた。
「うん、消えるな?不幸中の幸いだね、それでも、もう1つだってキツイ事実だけどさ、」
それでも、最悪な方の可能性は消える。
ほっと溜息を吐いて、英二は微笑んだ。
「でも、よかった。最悪なところだけでも、消えてほしかったんだ、」
「だね。あの記事がなかったらさ、ソッチをまず、考えちゃうよね?」
「うん、考えたとき俺、自分ですごく嫌だった。それもあって、新聞の記事を確認しようって思ったんだ、」
写真を封筒に戻しアルバムの一番後ろに挟みこむ。
それを鍵付の抽斗へと元通りに戻すと施錠して、英二は感染防止グローブを外した。
「銃声の発砲場所は、正確じゃない。そう国村も思うんだ?」
「もちろん。だってさ、おまえの現場検証と矛盾するだろ?だから俺は、違うって思ったね、」
新聞記事よりも、英二の検証を国村は信頼してくれる。
まだ卒配半年程度の自分を信じてくれる、そんなパートナーが嬉しくて微笑んだ英二に、テノールの声は続けた。
「でさ?そう考えると、東屋の血痕は2種類の血液が混合している可能性が出てくる。1種類は写真のと同じ型だろうけどね、」
「うん。この自殺事件っていう判定自体がフェイク、ってことになるよな?」
「だね?そうするとさ、この警察官の存在がポイントなるね、」
グローブを外して英二に渡すと、国村はベッドの窓際に座りこんだ。
窓枠に頬杖ついて外を眺めながら、テノールの声は考えを述べ始めた。
「この警察官が、もし訪問者だとしたら。誰の知人かって考えるとね、キャリアの可能性が高いよな?
1962年だと、DNA鑑定もまだ無い時代だ。せいぜいルミノール試験だよね、警察関係者かつキャリアなら、隠蔽は容易いよな?」
国村の言う通りだろう。
片づけ終えながら英二は、ちいさくため息を吐いて答えた。
「うん。ルミノール試験は、新鮮な血痕より古い血痕の方が発光が強いから…しかも野外なら、隠蔽は簡単だと思う、」
ルミノール「luminol」
窒素含有複素環式化合物の一種で、科学捜査や化学の演示実験に用いる試薬。
これを用いた「ルミノール試験」は犯罪現場から血痕を探す場合などに利用されている。
試験方法はルミノールの塩基性溶液と過酸化水素水との混液を作り、現場や対象物に塗布または噴霧する。
これを暗所で観察すると血痕であれば青白い化学発光が確認できる、これをルミノール反応と呼ぶ。
そしてこの青色発光は、ヘミンが形成されている古い血痕の方が発光が強い。
「あれって、血液鑑定における予備試験ってトコだよね?」
「うん。まず、本当に血液であるかの鑑定から必要になるよ、」
答えながら英二は脳裏にある鑑識ファイルを開いた。
そこから吉村医師に教わった現場との照合データを言葉に出し始めた。
「血液なのかすら判定できない、だから人間の血液であるのか、ルミノール試験だけでは判断できないんだ。
人間以外の血液に対しても、ルミノール試薬は青色発光する。だから…血痕の偽造も、ルミノール試験だけだと破られない。
あの試験はさ、その後の鑑定をしなければ証拠能力としては低いんだ。でも、1962年当時に自殺案件にされたなら、鑑定までは…」
もし行政検死で「自殺」判定を出したなら?
この場合の可能性について、英二は言葉を続けた。
「前に吉村先生に聴いたんだ。警察医は開業医の嘱託がほとんどで、研修制度も整備されていないって。
法医学の経験者は少ない、しかも検案は検査事項が限られている。それで正確な検案が出来ない警察医も、多いんだ。
行政検死に意見できる自信が警察医に無いから、実際は警察官の行政検死だけで、死因判定をするケースも珍しくないらしい。
この場合に警察官が自殺と判定したら。そのまま検案所に安置して、遺族が引取りに来て、荼毘にふすよな?…簡単に、証拠は消せる」
警察医の実情と、犯罪立件の相関。
この問題はある意味で「慣例」になっている現場も少なくない。
この陥穽を警察官が意図的に利用したのなら?
「警察機構の落とし穴に、ずっぽり嵌めた。ってトコだよね、」
ほっと溜息を吐いて国村は、軽く頷いた。
「ほんとにさ、吉村先生みたいなプロは希少なんだよね?警察医が皆、先生みたいならさ。防げた犯罪もいっぱいあるよね、」
「うん、だから先生、警察医の改善に取り組まれているんだ。今日も、研修用資料を作ってらした、」
「ありがたいよね、俺たち警察官からすると、ホントにさ…こういう落とし穴、減ってほしいよね、」
「俺も、本当にそう思うよ、」
話しながら窓枠に浅く腰掛けて、窓ガラスに長い指でふれる。
雪の冷気が窓ガラスをあわく曇らせている、それでも深夜の底が銀色に輝く様子が美しい。
街路灯に蒼くうかぶ春雪を見つめながら英二は口を開いた。
「この警察官の、その後、って解るかな、」
「うん?そうだね、名前の特定が出来れば、なんとかなるかな。大学のOB名簿とか、手懸りになるんじゃない?」
「OB名簿か、調べやすいし、いい考えだな。あとは…日記に、名前のヒントがあるかな?」
ふれる窓ガラスは冷たい。
指先の冷たさを感じながら雪夜を見つめる傍、テノールの声は静かに言った。
「あると思う、もしあるのだとしたら『その後』が、周太のオヤジさんが警視庁に任官させられた理由、かもしれないね…」
告げられた言葉に、黙ったまま英二は頷いた。
頷いた顔の目許から、ぽつんと涙がひとつ零れて、床に砕けていく。
この「その後」が編み出した哀しい連鎖の束縛が、悔しく、哀しい。
ある男が発砲した、1発の銃弾。
ただ1発の銃弾が、50年間に亘って父子達を廻らす哀しみの連鎖の、原点だという推論。
たった1発、けれどこの1発が、ある家の50年間の幸福を壊し続け、50年を経た今も苦しめている。
そんな推論が本当はもう、哀しいけれど自分の中には見えている。
たった1発、それなのに?
ぽつり、涙がまた零れ落ちていく。
零れる涙には、警察学校の時に周太が言った言葉がリフレインしてくる。
凍える窓の向こう、雪輝く夜を見つめたまま英二は口を開いた。
「周太が前に言ったんだ…おまえは拳銃をなめてる、って、」
涙が頬を伝っていく。
伝う涙のこぼれるままに、英二は泣笑いに微笑んだ。
「ほんとうに、俺は甘かったよ?…1962年だ、銃弾が撃たれて、50年だよ…1発が最初、たった1発が、あの家を、ずっと今も…」
ベッドの軋む音が静かに鳴る。
そっと気配が立ち上がって、隣から温かな腕が英二を抱きしめた。
「どうしてかな?国村…どうして曾おじいさん、そんなことになったのかな?…50年だよ、」
どうして、50年も束縛されなきゃならない?
疑問と哀しみと、50年間の重みが圧し掛かる束縛の痛み。
ただ1発の銃弾が、もし、撃たれなかったなら?痛みと悔しさに英二の目から涙がこぼれた。
「50年を、1発の銃弾に縛られている、あの家は…たった1発の束縛が、50年経っても終わらないままだ。
そんなに重たい堅い、束縛なのか?そんなに難しいのか?それでも周太を、救けられるかな?…周太と、お母さんは、救けたいんだ、」
涙ながれた頬に、頬よせてくれる温もりが優しい。
温もりに佇んでいる英二に、透明なテノールが静かに応えてくれる。
「大丈夫、救けられるね。宮田にはね、俺がいるんだからさ。おまえ1人じゃない、俺が一緒にいるよ?」
やさしいテノールが、そっと心に落ちていく。
抱きしめられるままベッドに腰をおろすと、温かな白い手は英二の頬を拭ってくれた。
「大丈夫、絶対に救けられるね。おふくろさんも、周太も、幸せに出来るよ?」
「…うん、ありがとう、」
素直に涙拭われながら、すこしだけ英二は微笑んだ。
そんな英二に底抜けに明るい目は、からり笑って言ってくれた。
「絶対大丈夫、幸せに出来るね。だってさ?おまえの笑顔は、最高の別嬪だからね、」
「なんだ、俺って、顔だけ?」
思わず英二は笑ってしまった。
笑った英二に底抜けに明るい目が温かに笑んで、透明なテノールの声が言ってくれた。
「ほら、その笑顔だよ?おまえの笑顔ってさ、見てるだけで幸せになれるんだよね。だから、おまえの顔は重要だよ?
しかも宮田はね、優秀な警察官で、この俺のアンザイレンパートナーだ。その上、酒も強い。これだけ出来てりゃ充分、おまえは最強だよ、」
透明な目が真直ぐ英二を見つめて、明るい大らかな優しさに笑ってくれる。
ほっと肩の力が抜けて、可笑しくて英二は笑った。
「俺って、最強なんだ?」
「そ、最強だね。最高峰の竜の爪痕をもつ男だろ、おまえは。だから、さっ、」
ぐいっと引っ張られて、バランスが崩れる。
そして英二は抱きしめられたまま、ふたり一緒にベッドにひっくり返った。
「最強の宮田が一緒にいるからね、俺も、雅樹さんのこと向き合えるんだ。だからね、自信持ちな?」
ふたりベッドにひっくり返ったまま、底抜けに明るい目が微笑んでくれる。
大らかなアンザイレンパートナーの温もりに、英二は笑いかけた。
「うん、ありがとう、国村。おまえに言われると、なんか自信出るよ?」
「だろ?俺ってね、最高のアンザイレンパートナーだろ?」
Yes、って言ってよ?
透明な目が真直ぐ見つめる問いかけに、英二は微笑んだ。
「うん、国村は最高だな?」
「だよね、俺の愛しのアンザイレンパートナー?愛してるよ、で、おまえも俺のこと、愛しちゃってるね?」
無邪気な笑顔で笑って、白い指が英二の額を小突く。
この言葉と笑顔の想いに槍ヶ岳で見つめた想いが重なっていく、素直に英二は笑って頷いた。
「そうだな、パートナーとしてね。でもさ、この体勢は変だよ?」
「変じゃないね。ほらっ、ア・ダ・ム、イヴの腕で安心して眠ってよ、」
愉しげに笑いながら国村は、英二を抱きしめてくれる。
こんなふうにベッドで誰かに抱きしめられるのは、大柄な英二には初めてだった。
なんだか可笑しくて困って、そのままに困り顔で英二は微笑んだ。
「ちゃんと1人で寝れるから、俺。だから安心して、国村は自分のベッドで寝てよ?」
「俺が安心できないね。今夜はここで、イヴはアダムに寄添いたいの…お願い、愛してるなら言うこと聴いて?」
「そんなに抱きついたら苦しいって、こんな馬鹿力のイヴはいないよ?」
「そんなこと言わないで?この力があるから、アダムのこと援けられるのよ。さ、アダム、おやすみのキス、し・ま・しょ?」
「キス無理要らないキス要らないから、って、こらっ、なにまた首にキスしてんの、っ」
―…おしゃぶりの癖で、寝惚けて雅樹の首を吸っちゃうんですよね
だから朝起きるとね?雅樹の首のところに、いつも可愛いキスマークがついていました
国村くんが家に来てくれた後は、今でも家内や雅人と話します。おしゃぶり光ちゃんが、あんなに大きくなったな、って
逃げようともがきながら、吉村医師が教えてくれたことが頭をめぐる。
それが可笑しくて思わず英二は笑ってしまった。
「こら、おしゃぶり光ちゃん。23歳になってまだ、おしゃぶり癖が抜けない甘えんぼなわけ?」
「あ、吉村先生に聴いたんだ?」
可笑しそうに国村も笑って、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
けれど、笑んだ透明な目から、ひとしずく涙が頬に溢れた。
「そうだよ?ほんと今も甘えんぼで、寂しいね。だから俺、宮田にじゃれつきたい。それくらい、おまえが大好きなんだよね、」
秀麗な笑顔のままで、涙だけが流れていく。
この涙には弱いかもしれない?こんなふうに周太以外に想うのは予想外だけれど。
もちろん周太に対する想いとは色合いが違う、けれど国村も大切な相手であることは変わらない。
この弱い涙に観念して、英二は大切なアンザイレンパートナーの髪を撫でて微笑んだ。
「うん、俺もね、おまえのこと大好きだよ?だからさ、仕方ないから、今日はここで寝て良いよ。ほら、」
笑いかけながら抱きよせて、ちいさい子にするよう背中を叩いてやる。
きっと今日の遭難救助で国村は、哀しみの記憶で揺すられて不安定にもなっているだろう。
だから今夜は独りになりたくない気持ちも納得出来る、それなのに放り出すことはしたくない。
ここに居て良いよ?目で告げて微笑んだ英二に、テノールの声が笑ってくれた。
「お許し出たね?よし、じゃ、遠慮なく同衾するね、」
「はい、どうぞ?でも変なコトするなよ?」
念のため釘刺しながら英二はブランケットをひきよせた。
うれしそうに国村もブランケットに潜りこむと、無邪気な笑顔は楽しげに言ってきた。
「そんなこと言っても、したかったらするよ?それでもやっぱり、俺のこと可愛いんでしょ、ア・ダ・ム?」
「はいはい、かわいい可愛い。だから、大人しく寝てくれな?」
「はーい、その気分になったらね?」
涙の痕を残したまま、大きな子どもは無邪気に笑っている。
この笑顔が超えた、鋭鋒に聳える蒼穹の点。あの超える瞬間の哀しみと、明るい決意が心の底からふれてくる。
あの想いを今も無邪気な笑顔は抱いている、この想いを今夜は分け持ってやれたらいい。
そんな想いに英二は雪の春宵に微笑んだ。
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眠りこんだ春雪の夜、意識の底で歌声を聴いた。
…
季節は 色を変えて 幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように 揺らめいて 君を想う
奏であう言葉は 心地よい旋律 君が傍に居るだけでいい
微笑んだ瞳を 失さない為なら…
…
優しく低く、あまく透明なテノールが、静謐にゆらめいていく。
静かで透きとおる歌声に惹きこまれながら、眠りのまま意識と心は聞惚れている。
この歌声は聴いたことがある、そして、また聴きたいと思っていた。
…
降り注ぐ木洩れ日のように 君を包む
それは僕の強く 変わらぬ誓い
夢なら夢のままで かまわない
愛する輝きにあふれ 明日へ向かう喜びは 真実だから…
…
どこか切ない、あまやかで懐かしい。
求め得ぬものを追うようで、大らかに包むようで、温かい。
やさしい神秘と見つめる峻厳、けれど寄添うよう甘やかせる慕わしさ。
ひそやかな歌声は静かに流れていく。
…
残された 哀しい記憶さえそっと 君はやわらげてくれるよ
はしゃぐように懐いた やわらかな風に吹かれて 靡く
あざやかな君が 僕を奪う
季節は色を変えて 幾度廻ろうとも
この気持ちは 枯れない 花のように…
…
あまやかで静かな歌声は、無垢の透明にやわらかい。
切ないほど無垢な声に心ごと惹かれていく、横たわる眠りの底にも聲はゆれ響く。
この響きにこもる想いは、なんと言うのだったろう?
…
夢なら 夢のままで かまわない
愛する 輝きに あふれ胸を染める いつまでも
君を想い…
心惹きこむ歌声は、やわらかな熱に唇ふれた。
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【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】
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