萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

神無月十日、金木犀―adoration

2021-10-10 10:06:11 | 創作短篇:日花物語
その馥郁を追いかけて、
10月10日誕生花キンモクセイ金木犀


神無月十日、金木犀―adoration

ひとすじ香る、馨る。
あまくて甘くて、離れられない。

「扉は開けておいてくださいね、榊原君?」

私を「君」と呼ぶ、そして扉は籠められない。
こんなにも高潔なひとなんだ?想ったままが嬉しくて頭下げた。

「はい、教授…あの、お茶お淹れします、」

微笑んで、古書の空気ほろ甘くて渋い。
ならんだ書架と書斎机のむこう、学者は穏やかに微笑んだ。

「私が淹れましょう、学生にさせては申し訳ありません、」

かたん、
椅子かすかに鳴って長身のびやかに立ちあがる。
三つ揃えのスーツ端正に厳かで、そんな恩師に首を振った。

「いいえ先生、私のほうこそ申し訳ないですから…教授に淹れて頂くなんてそんな、」

一介の学生、しかも自分は女だ?
けれど穏やかな笑顔はジャケット脱いで、椅子に掛けてしまった。

「私が好きでやることです。腕はそんなに悪くないと思います、だから安心してください、」

眼鏡の底、笑ってくれる切長い瞳は温かい。
眼ざしと言葉に惹きこまれて、つい見つめる真中で学者は流し台に立った。

―先生がお茶を淹れてくれる、なんて…どうしよう、

見つめるまま心が呟く、声どうぞ零れないで?
こんなこと意外で困って、でも鼓動の底ゆるやかに満ちてしまう。

―憧れてたんだもの、ずっと…それに想像とちょっと違うから、

ほら心の声が止まらない、研究室の一点つい見てしまう。
書架のはざま小さな流し台、佇んだ長身の背は広やかに健やかで、ベスト姿さわやかな端正が若々しい。

―こんなにお若いなんて思わなかったもの、ね?

偉大な著書いくつも著した学者、その著作どれだけ自分を励ましたろう?
こんな世界があるのだと教えてくれた、道しるべ燈してくれた偉大な学者。
だから、もっと年上だとばかり想像していたのに?

―もう教授でいらっしゃるのだもの、たくさん御本も書かれて…でも、やっと三十半ばかしら、

つい見てしまう、だってベスト姿の背なか美しい。
真直ぐ佇んで茶器たち動かす、その腕は袖まくり若々しい。

―腕が逞しくていらっしゃるのね…っ、私ったら何を見てるのだめよ?

自覚そっと首を振って、研究室くるり見回してみる。
並んだ書架おだやかに書籍で満ちる、書斎机にも3冊、すこし大きなテーブルは学生用だろうか。
あの端に座ってお茶を飲むかもしれない?ハンカチとりだして、ダークブラウン深い木目そっと拭った。

―あ…きれいにしていっしゃる、

拭ったハンカチ、埃ほとんど付いていない。
まだ若い学者、こんなふうに掃除しているのは意外だ?

―貴重書がたくさんあるもの、お掃除の方は入らないはず…もしかして先生がお一人で?

きっと清掃員も立ち入らないだろう場所、それなのに埃ほとんど見かけない。
これだけ古書も並べば埃っぽくて当たり前、けれど澄んだ空気が瑞々しい。

―本を大切にしてらっしゃるんだわ、だからお掃除もきっと、

ならんだ背表紙どれも美しい、ほら?修繕の跡も端正だ。
こんなふうに書籍を大切にするのは、たぶん彼の著述のままだ。

“先人の偉業に敬意をもって”

この一文、著作のどれもに記されていた。
だから研究室は澄んだ光ほの明るくて、嬉しくて微笑んだ。

―本当にこの方なんだわ、あのご本を書いたのは…どこまで澄んで、

想い見つめる真中、ベスト姿の背中ひろやかな静謐が明るい。
この青年が講義室に現れた瞬間ほんとうに驚いて、けれど納得してしまった。

―おだやかに澄んで、とらわれなくて理知的で…ご本のままだわ、

ずっと憧れて、その講義を聴きたくて努力の果て入学した。
それだけ自分には道標だった存在、だからこそ届かない高い偉大な相手。
だから現実の姿に驚いて研究室まで来て、そして納得してしまった、この学者なら紅茶も淹れるだろう?

―男の方がお台所なんて、でも…先生は囚われないのだわ、

“男子厨房に入るべからず”

そんな言葉まだ生きている、戦争が終わった今でも。
あの戦争で時代は変わった、女の自分でも大学に入れる時代になった、それでも男性しかも学者先生が台所は「無い」だろう?
けれど「好きでやることです」と言った青年は、明るく澄んだ窓辺に笑った。

「お待たせしました、甘いものはお好きですか?」

今、なんて訊かれたのだろう?
驚いて瞬いた視界、白磁なめらかな皿に小麦色まぶしい。

「友人が差し入れしてくれたんです、お相伴してくれませんか?」

穏やかなバリトン深く響く、この声は想像のままだ。
けれど差しだされた焼菓子は意外で、そのくせ納得のまま微笑んだ。

「ありがとうございます、あの…よろこんで、」
「よかった、」

眼鏡ごし微笑んでくれる、その切長い目もとが美しい。
きれいで、鼓動そっと敲かれてティーカップ見つめた。

―あ、きれいな琥珀色…いい香、

見つめる白磁と青の底、琥珀色ゆるやかに香らせる。
ふれる湯気あまやかに高雅で、見つめるまま学者が微笑んだ。

「うん、まずくはないと思います。」

微笑んだティーカップの口もと、端正ほころんで優しい。
その笑顔と言葉に、呼吸ひとつティーカップそっと取った。

「…いい香、」

零れた声そっと甘く香る。
花と似て清々しい、口つけて啜りこんだ熱ほっと寛いだ。

「おいしいです…ほんとうにお上手なのですね、」

笑いかけた口もと香る。
花と似た澄んだ馥郁に、青年の瞳ふわり笑った。

「ありがとう、」

ひと言、その声ことん、鼓動に響く。
たった一言だけのこと、何気ない言葉だろう、それなのに?

「…私こそです、ありがとうございます、」

声を押しだしてティーカップ口つける。
あまやかな香しずかに熱い、ゆるやかに鼓動を浸して、沁みてしまう。
金木犀:キンモクセイ、花言葉「高潔、謙遜、陶酔、初恋、真実」


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