萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

孤峰、想懐―side story「陽はまた昇る」

2011-10-07 22:02:01 | 陽はまた昇るside story

ひとり、あざやかなのは




孤峰、想懐―side story「陽はまた昇る」

カーテンを開けると、色彩あざやかな夜明けの空が広がった。
川苔山の登山練習の日も、こんな夜明けを見て登った。
今日も天気に恵まれそうで、良かったなと英二は微笑んだ。

訓練登山なのだから、どんな天候でも決行すると聴いている。
救助発生は悪天候こそ困難なのだから、それは当然だろう。
それでも山へ行くなら、晴れた日の方が気持ちいい。

携帯の充電をチェックする。
山では電波の繋がりにくい事もあるが、遭難時には携帯が命綱になる事もある。
ストラップをチェーンで繋いでベルトに固定する。落とさない用心になると国村が教えてくれた。
山で落し物をしたら、拾おうとしてバランスを崩す事もある。

早朝6時過ぎ、食堂はいつもより早く開いた。
救助服姿が数人座っている。
トレイを受け取ってテーブルへ行くと、おはようと藤岡に声かけられて座った。

「調子は?」
「おう、いいよ」

初訓練の緊張感がなんとなく快い。
国村に連れて行ってもらった川苔山の登攀は、山の厳しい現実もたくさん教わった。
けれどそれ以上に、山はいいなと英二に感じさせてくれた。
警察学校に入る前まで、自分が登山を気にいるなど思っていなかった。
学生時代までの知人が知ったら、きっと驚くだろう。

朝食を済ませ、昼食用の握飯を受け取った。
またあとでと藤岡と別れて、自室で仕度を整える。
時計を見ると6時半だった。湯原は今どうしているのだろう。
雲取山荘で1泊の行程、今夜は電話できるのか解らない。今日は声を聴けないかもしれない。
訓練も山小屋に泊まる事も初めてで、緊張と共に楽しみだが声を聴けないのは嫌だった。

集合時間まで30分程ある、今すこしでも掛けてみようかと携帯を持った。
けれど今日の湯原は当番勤務だと英二は思い出した。
普通の当番なら午後出勤で翌朝までの勤務だが、出勤前に術科センターに行くと言っていた。
射撃大会に卒配直後での出場な上、日が少ないからとほぼ毎日通っている。
疲れがたまらないのか、心配になる。

やっぱり、少しでも眠らせてやりたい。
そのかわり山からメールしようと、チェーンで繋いだ携帯をポケットに戻しかけた。
戻しかけた掌に、振動が響いた。
もしかしてと開くと、着信表示は懐かしい名前だった。たぶん今、顔が笑っている。
すぐに開いて耳に当てて、英二は口を開いた。

「おはよう、」
「あ、…おはよう」

掛けて来たくせに、妙に恥ずかしそうな気配が伝わる。きっと途惑っている。
こんな朝早くに電話をかけてしまった自分を、持て余している。
いつもの事だけれど、どうしてこんなかわいい反応ばかりするのかと思う。初々しくて、微笑んでしまう。
いつもの調子で、つい英二は言ってしまった。

「かわいい、」
「…っぅ」

たぶんまた首筋が赤くなっている。
この隣のこんな姿を知っているのは、湯原の母と自分だけだろう。その事が嬉しい。

こんなふうになれるなんて、思っていなかった。
警察官の自分達は、事件が起きればそこへ行く。この1秒後には危険へ立ち向かうかもしれない。
それに男同士では、結婚という絆さえも許されない。偏見という冷たい視線も楽ではない。
どんなに大切でも、何の約束もできない。決して求めてはいけないと思った。

求められない枷は苦しかった。それでも隣で過ごせる事が嬉しくて、6か月ずっと隣で見つめていた。
その日々が自分に、警察官として男としての誇りを教えてくれた。湯原がいたから、自分は今ここにいる。
それからあの夜があって今がある。
6か月ずっと自分を捕え続けた重荷の逡巡を、あの夜に湯原は一緒に背負ってくれた。
そして湯原の母が全部を受け留めてくれた。きっと彼女の懐に温められながら、今こうして隣にいられる。
この隣のためになら何でもしてやりたい、そういつも思ってしまう。

きっと今まだ困っているな。
携帯に充電器を繋ぎながら、英二は電話のむこうへ微笑んだ。

「声、聴かせてくれて嬉しいよ」

ありがとなと告げると、電話の向こうが微笑む気配が伝わった。

「…俺も声を聴きたかっただけだから」

ぼそぼそと言って、また恥ずかしそうな困ったような無言になる。
思わず本音を言ってしまったのだなと、可笑しかった。
聡明で落ち着いた様子が懐かしい、けれど繊細で穏やかな空気はもっと懐かしい。
あいたいなと思いながら英二は言った。

「そういうのすげえ嬉しいんだけど」

きれいな笑顔で英二は笑った。
あのきれいな隣は、たぶんきっとまた、赤くなっている。


準備を済ませて1階ロビーへ降りた。
半分くらいが既に、荷物を傍らに置いて立っている。その輪へと歩きかけて、背中に声をかられた。
おはようと穏やかに挨拶して、警察医の吉村が立っていた。

「雲取の訓練に行くんだね、宮田くんは初めてかな」

はいと英二は笑って答えた。
ロマンスグレーの頭を少し傾げて、吉村医師は少し待っていてくれと診療室へ歩いて行った。
なんだろうなと見送っていると、藤岡がやってきた。

「宮田早いな、」
「そうでもないよ」

他愛ない話をしていると、吉村医師が戻ってきた。はいと20cm位の布張ケースを渡してくれる。
促されてファスナーを開けると、救急用具一式がコンパクトに納まっていた。

「救助隊の備品もあるだろうが、念のため持って行きなさい」

小型や折畳式になった器具は、携行専用の良い品だった。
たぶん吉村が、現場へ行く時に使うものだろう。
なんだか申し訳なくて英二は遠慮しようとしたが、穏やかに吉村医師が微笑んだ。

「君に無事戻って欲しい私の、お節介な我儘だよ」

使わないに越した事はないが、と付け加えてから吉村は言った。

「この間の死体見分の、君の姿勢が私は嬉しかった。
 今時の若者にも、こういう真摯な男がいるのだと。日本も捨てたのでは無いなと思えたよ」

このセットあと2つまだあるから心配するなと言って、吉村は笑ってくれた。
嬉しいなと素直に思えた。
あの時から英二は、この医師を尊敬し始めている。
そんなふうに思ってもらえる事が嬉しかった。

「ありがたくお借りします」

きれいな笑顔で英二は頭を下げた。



青梅署から奥多摩交番へ移動し、副隊長と合流した。
東日原から登山口まで、日原林道を歩いて行く。歩くにつれて、渓流までの高度がみるまに開いていく。
ガードレールのない林道は、冬期のアイスバーンが張ったら危険だろう。
そんな事を思いながらも、初秋の風にそよぐ樹林は、あわい色彩に美しかった。

「11月の中旬にはまさに、錦繍の紅葉になるよ」

副隊長の後藤が、楽しそうに笑って教えてくれた。

「この日原川を挟んだ対岸はな、あざやかな赤や黄色と常緑樹の濃緑の、コントラストがほんとうに美しい」

目の覚めるような秋なんだ。後藤は愛しそうに川岸の林へと目を細めている。
心から山を愛しているのだなと、英二は思った。
副隊長は警視庁山岳会会長を務める、山の世界の有名人だった。
奥多摩を愛好する皇族が訪れる時も、彼がいつも案内役を務めると岩崎にも聴いている。

けれど、気さくで温かな雰囲気は「山ヤ」だった。
前を歩く背中は、どちらかと言えば痩身だけれど頼もしさに充ちている。
こういう背中はいいなと思いながら、英二は足を運んだ。

8km程林道を歩いて登山道に入る。
登山道入口に建てられた「クマが出るので鳴り物を」の看板に、藤岡が辺りを見回すのが可笑しかった。
看板を眺めて国村が穏やかに言った。

「熊の住む場所へ、自分達がお邪魔するんだ」

そういう気持ちで歩くと熊も襲ってこないようだよ。
微笑んで国村は、さあ行こうかと歩きだした。
山に入る事は、自分が入れてもらう事なのだろう。その通りだなと英二は感じた。

登山道に入ると、木々の淡い葉色が光の中できらめいていた。
幽玄さを匂わす苔生した山肌へふる陽光が、スポットの様に明るい。
樹幹の香が空気に充ちて、山の生命力が頬撫でる。
東京に、こんな場所があることが驚かれ、嬉しかった。

「奥多摩のなかでも、日原の紅葉は際立って美しいよ」

足許に気を配りながらも木々を見渡す英二に、副隊長が話しかけてくれた。

「ここは自然林が多いのですか」

英二の質問にそうだと笑って頷いて、教えてくれた。

「気温の高低も激しい、紅葉はその方が鮮やかだ」

なんだかこの半年間の自分みたいだと英二は思った。
楽に生きようと考えていた自分が、警察官と男の誇りを持って生きようと今ここにいる。
警察学校で突きつけられた厳しい現実と、湯原の隣で知った真摯な生き方が、自分を育ててくれた。

―君も笑顔で行くと決めたんなら、それを通せばいいじゃないか。
 甘くなんかない、警察官が笑顔でいる事は一番難しい事だ

奥多摩に卒配されて3週間、遠野教官の言葉をよく思い出す。
ここではそんな笑顔の警察官が山を歩いている。自分がここに卒配された事が、本当にありがたいといつも思う。
遠野は元気なのかな。卒業式の仏頂面を思い出して、可笑しくて懐かしかった。

職務質問の実習で、遠野教官が湯原とパートナーを組ませてくれた。
その事が今の自分をここへ連れてきてくれた。
もしあの時に組まされていなかったら、湯原の深い懐を理解する事も出来なかったかもしれない。
初任総合科で学校に戻った時、遠野に会ったらなんて言おう。そんな事を思いながら英二は、また一歩足を進めた。

雲取山頂は青空の下だった。

「富士山に雪が見えるな」

嬉しそうに藤岡が遠望する。
秩父連山の奥には冠雪のアルプス山脈も見えている。
他の山は連なっているけれど、富士山だけがすっくりと大きく立ちあがって、異彩を感じられた。
なぜ富士だけが違う雰囲気なのだろう。英二が考えていると、国村がどうしたと訊いてくれた。

「富士山は他の山と、雰囲気が違うなと思えるんです」

ああと笑って答えてくれた。

「富士山は単独峰だからかな」

山は山脈になって連なる事が多いが、富士山は連山を持たない。
平地に富士だけが聳えて立っている。

「孤高って言葉が似合うかなと、俺はよく思うよ」

孤高―国村の言葉に、ふっと湯原の顔が掠めた。
出会った頃、湯原はいつも独りで佇んでいた。
ただ独り黙々と目的へ向かって生きていた。冷たいのだと思っていた。
けれどあの脱走した夜を受けとめてくれたのは、ぎこちなくて温かい胸だった。
自分の険しい生き方に他人を巻き込めない優しさと、隠した豊かな繊細さが、湯原を孤独にしていると気がついた。

湯原の穏やかな静けさは居心地が良くて、英二は隣に座り続けた。
孤独をこわして、自分の居場所になって欲しかった。
遠くに聳える富士山は、美しく強く、立派だった。
独り聳えるその姿が、あの隣の佇まいを思い出させてしまう。
ここへ連れて来たいなと思いながら、端麗な孤峰を英二はみつめた。


北側に回って、山頂から20分ほどで雲取山荘に入る。
ログハウスの造りは、木の温もりがやわらかで寛げる雰囲気だった。
今日の東京の日没は17時。夕食前に入口の広場から空を眺めた。
秋の空は暮れ早い、刻々と空の色が変化していく。淡い赤色から紫、夜の紺青と黒へと色彩がながれていく。
こういう空が東京にもあることが、不思議で畏敬の思いがふっと生まれた。

山荘の中は少し混んでいた。
訓練の仲間達と、食事しながらの他愛ない話が楽しい。ハンバーグ等の献立が、山小屋らしいと藤岡が喜んでいた。
山荘前の広場でも、自炊をしている一般登山客がいる。

「ご一緒にいかがですか」

奥多摩交番勤務だという畠中が、気さくに声をかけて輪に入りビールを吞み始めた。
いいねえと他の先輩達も混ざり始める。

「ほら行こうよ」

国村が笑って、英二と藤岡に缶ビールを渡してくれた。こんばんわと声かけて、3人一緒に加えてもらう。

「いただきます」

プルリングを引いて口をつける。久しぶりのアルコールが喉と肚に沁みた。
初秋の山の冷気はすこし寒いが、まわり始めた酔いを涼やかに宥めて快かった。
新人さんなんだと登山客達が話しかけてくれる。どの人もなんだか温かい。
寡黙で明るい雰囲気が、山の夜に充ちている。
皆が輪に座って呑んで、初対面同士でも気さくに、山の話が盛り上がっていた。

「山ヤはね、みんな仲間だから」

肩書きも立場も年齢も関係なく、山ヤはただの山ヤだよ。
いつもより少し饒舌な国村が、笑いながら教えてくれた。
こういうのはなんか良いな。山の世界に惹きつけらる自分が、英二はなんだか嬉しい。

消灯は21時だが、20時には解散となった。割り当てられた部屋へ歩きかけて、国村が呼びとめた。
携帯の機種は何と訊かれて答えると、じゃあ大丈夫と言われて手招きされて外へ出た。

「ここなら携帯繋がるよ」

たしかにアンテナが立っている。でもなぜ国村は教えてくれたのだろう。
不思議に思って英二は、礼を言いながら訊いてみた。

「ありがとうございます。でもなぜ教えてくれたんですか」

何でもない事だという顔で、国村は答えた。

「宮田くん、休憩の度に携帯確認していたから」

きっと電話やメールしたい人いるのだろうと思った。からりと答えて国村は微笑んだ。
英二はどきっとした。そんなに見ていた自覚がなかった。
けれど確かに、休憩の都度に撮った風景の写真を、湯原に送りたいなと思っていた。
それを見抜かれたのかなと考えていると、唇の端をすこし上げて国村は笑った。

「どんなひとか訊いていい?」

やっぱり訊かれたと英二は微笑んだ。
こういう顔をする時は、国村は油断ならない事を言ってくる。けれどそういう率直な悪戯っ気は、国村の魅力だと思う。
そうですねと少し考えて、英二は言った。

「瞳がきれいで、すぐ赤くなる位に純情で、笑顔が最高にかわいい。誰より大切で好きな人です」
「そういうひと、いいよね」

国村は笑って、俺も電話してくると向こうへ行ってしまった。
たぶん国村にも、大切な人がいるのだろう。
もともと奥多摩出身だという国村は、休みには日帰りでよく外出をする。
地元の幼馴染なんか似合いそうだな。そんな事を思いながら、携帯のメモリーを開いた。

今日撮った写真から、一番きれいな物を選ぶ。これがいいかなと添付して、湯原にメールを送った。
今日は当番勤務だから、電話をこちらから掛けるのは控えられた。
朝に声を聴かせてもらえたしと、自分で言い聞かせるけれど、本当は今ここで話せたらいいなと思う。

ログハウスの壁に寄りかかって、空を見上げた。
360度と足許から、星がとりまくように輝いている。
暗く山嶺は沈むけれど、星明りが稜線をしめしてなだらかだった。
なんだか宇宙に立っているような、不思議な空気だった。

山は不思議で偉大だなと素直に感じる。こころが素に戻されて快い。
東京にも、こんな空間がある事が嬉しい。
ずっと東京で生まれ育ってきたけれど、自分は何も知らなかったのだなと改めて感じる。

ぼんやり見上げている掌に、振動が生まれた。
携帯を開くと、本当は待っていたかった着信表示が光っている。
微笑んで英二は携帯を耳に当てた。





blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 イラストブログ 風景イラストへにほんブログ村

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 故里、望郷―another,side sto... | トップ | 緩衝、想懐―another,side sto... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

陽はまた昇るside story」カテゴリの最新記事