萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第43話 護標act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-23 23:52:39 | 陽はまた昇るside story
circulate 想い、青と白にめぐる



第43話 護標act.2―side story「陽はまた昇る」

標高2,999m、剱岳。
山頂は祠も雪に埋もれて、ただ白銀が無垢にまばゆい。
遮るものない視界には穂高、後立山や北方稜線のラインが耀き映えていく。
見遥かす彼方を波のよう銀嶺は連なって、陰翳の蒼く鎮まるコントラストが美しい。
そして北東の最果ては、富山湾の海岸線が青い。

―海が、雪の山に抱かれている

あまねく輝きわたす銀竜の彼方、青く深く海がきらめている。
白と銀の織りなす壮麗と雄大なる紺青は呼応し、山と海は世界の涯に繋がっていく。
ひろやかに白銀が抱く青の雄渾な世界に、英二は微笑んだ。

「広いな…雪山と海、きれいだ」

素直な賞賛が風にこぼれて、海と山に融けていく。
白銀の山と豊穣に凍らぬ海、このコントラストが見られる国は限られている。
そして積雪期の晴天すらも稀だ、そんな幸運に微笑んだ隣から透明なテノールが笑いかけてくれた。

「見られてラッキーだよね、おまえ。天気好くなきゃ、日本海まで見えないからね、」
「そうだな、冬に晴れるのって珍しいもんな?」
「だよ?だから今日は、絶好の撮影日和だね、」

カメラをカイロで温めながら、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
笑いながら登山グローブの指を伸ばすと、国村はひとつずつ山を指し示してくれた。

「北は猫又山、毛勝三山、白馬岳から鹿島槍、針ノ木岳へ続く後立山連峰。
で、その右が八ヶ岳、富士、南アルプス。剱沢の向こうは別山、立山、室堂。東は大日岳。それから手前がね、槍だよ、」

「槍」は、槍ヶ岳を指す。
槍ヶ岳は国村と雅樹の「永訣」永遠の別離と連理の約束が、山頂に刻まれている。
いま見える蒼穹を指す点に、底抜けに明るい目は温かな想いのまま微笑んだ。

「ここから俺は、あの点を撮るからね。そして海と山を撮るよ、だから宮田は存分にボケっとしててね、」

雅樹が遺した誓いの点を、写真に納め残すこと。
このことに籠める国村の意志は、まばゆい笑顔に明るく輝いている。
こんな顔で笑ってもらえて良かった、嬉しい想い微笑んで英二は頷いた。

「うん、ボケっとしてる。だから国村も、存分に写真撮りなよ、」
「ありがとね、」

からり笑って登山グローブの手にレンズを構えると、底抜けに明るい目はファインダーを覗きこんだ。
ナイフリッジの風にシャッター音が響きはじめ、他は風音だけが吹き抜けていく。
白銀の剣尖は、雪山の静謐に安息が流れはじめた。

―静かだな、

風の音とシャッターの音、他に何もない。
ただ陽光おだやかに降りそそぎ、他に人も無く白銀と蒼だけが広がっていく。
こういう静謐は、好きだ。おだやかに微笑んで、英二は北東に視線を向けた。

白銀の竜の背波ふる朝の光が、視界を光に照らしだす。
あふれゆく光は太陽の高まりに白の耀きを増し、紺青深い海にも光の欠片が浮びだす。
純白まばゆい雪陵の壮麗充たす冷厳に、きらめく海の豊穣が春の訪れを告げている。

冬、山は氷雪に凍え命の気配は消える。
けれど春迎えたなら、雪解けの水が生まれだす。
大地に沁みこんだ雪解け水はやがて地表に湧きいでて、すべての生命を育んでいく。
川になる雪解けの水は海に流れこみ、豊穣なる海の営みを生成する。そして海水は蒸発し雲となり、雪に変わって山にふり積る。
こんなふうに山の雪はひろやかに世界を廻り潤し、生命と終焉を廻りゆく。

いま雪山は冷厳の死が蹲る、冷たい氷雪には永遠の眠りが息潜めている。
けれどこの氷雪は命育み潤す雪代水になって、世界を生の歓びに潤していく。
こんなふうに世界は、死と生が一環の和になって廻っていく。
この摂理がいま眼前の、雄渾かがやく白銀と紺青の世界に実感となって温かい。

―青と白の、大きな世界だ

こんな世界が見られる国に生まれて、良かったな?
こんな想いが父と母への感謝を、深く呼び起してくれる。
この国で父と母が出会い自分を産んでくれたから、自分は今ここに立つ事が出来る。

けれど父母は愛し合っていない、そう知っている。
ふたりは決して幸せな恋人とは言えない、心から笑いあう姿を見たこともない。そう気づいた時からずっと、子として寂しかった。
それでも、父と母が結婚してくれたから自分はこの体を与えられ、ここに立つ能力を鍛えられた。
ふたりは幸せな夫婦ではないかもしれない、愛もない、それでも。
いま英二が山ヤとして生きる、この幸福を掴める「体」を生んだのは、両親だ。

―父さん、母さん?…俺はね、ふたりのお蔭で幸せなんだよ?
 愛が無い結婚だとしても、父さんと母さんが夫婦になったからこそ、俺の幸福を生めたんだ…

このことを、両親に伝えたい。
ふたりに「ありがとう」を言って、そして知ってほしい。
たとえ幸せな恋愛の結びつきでは無くとも、ひとつの幸福な人生を産んだのは、自分たち夫婦なのだと知ってほしい。
そうして父と母が結婚し夫婦になったことを、誇りに想ってほしい。
ほんの少しでも、いいから。

―すこしでいいよ?夫婦になったことを「良かった」って想ってほしいんだ…湯原のお母さんたちみたいに、

終わらない恋人なのよ、ずっと愛してるの。
そう言って周太の母は幸せに微笑む、馨の妻で幸せだと息子の周太に胸を張る。
そして息子を褒められる度に「あのひとに良い所をたくさんもらったの」と堂々惚気て、夫と息子への愛を隠さない。
あんなふうに恋し愛し、結婚し夫婦となり、伴侶として生き抜けたなら、幸せな生涯だと最期も笑えるだろう。
あんな生き方を出来る彼女を自分は、心から愛している。
この愛する想いを、すこしでも実の両親にも抱きたいと、本当は心から願っている。
だから願いたい、祈りたい、ほんの少しで良いから「夫婦になって良かった」と笑ってほしい。

―ふたりが出逢った、そのことを後悔してほしくないんだ…俺を産んだのは「ふたり」だから、

ふたりが出逢わなければ、自分は生まれなかった。
だから後悔してほしくない。ふたりが後悔し否定することは、自分が生まれたことへの否定でもあるから。
だから本当は川崎の家に父が訪問した時も哀しかった、あのとき父が見せた母への壁が哀しかった。
奥多摩に母が来てくれた時だって、寂しかった。父に愛されていない母の傷みが、寂しかった。

たしかに夫婦間の寂寥は母の否が大きい、そう自分も姉も解かっている。
けれど、そんなふうにしか生きられない母の寂しさも、自分には解ってしまう。
この自分も母と同じように、前は冷酷な仮面をかぶっていたから。
無理に作った仮面の底に、想いも本音も封じ込んで。
刹那的な恋愛ゲームに寂しさ紛らせて、自分の本心すら無視して楽しいフリして嘘ついた。
この自分自身の本当の望みに、性格に、心の想いに願いにすらも、嘘ついて誤魔化して、要領良いフリして生きていた。
けれど自分は、周太に出逢えた。

周太に出逢って、穏かな静謐と純粋な優しさにふれた。
いつも黙って受けとめてくれる温かな居場所、そんな周太の隣が居心地良くて、毎日毎晩を周太の隣で過ごして。
そうして当然のように、初めての恋を自覚した。恋をして愛して、守りたいと願った自分は本音で生きる勇気を抱けた。
素顔の自分に戻って正直な想いを周太に告げて。そして生涯を隣で生きる約束をして今がある。
こんなふうに母も、素顔の母に戻れないのだろうか?

―素顔の母さん、は…きっと、甘えん坊

きっとそうだろうな?そんな確信がなんだか楽しい。
たぶん母は不器用な甘えん坊でワガママで、ツンデレなところがある。
そんな性格は誰かさんと似ていて、だから大丈夫じゃないかなと想えてくる。
だって父は「誰かさん」を「きれいな人だ、大事にしろ」と英二に言いながら、見惚れていたから。

だから、もし、と期待してしまう。
もし母が素直になって、ありのまま正直に父に接したのなら。
もしかしたら父は母に恋するかもしれない、父の性格と好みは英二とよく似ているから。

父と母は、夫婦になって26年になる。
ふたりの間は本当の意味では始まっていないまま、壁だけが凍りついていく年月だった。
もう26年だから遅いかもしれない、けれど今から始まっていく恋愛があっても良い。
この青と白の世界では、死の存在すら生を育む水に変わっていく。
だから心の氷壁だって、融けて、雪代の水に変わって、温かな想い育む可能性があるはずだ。
この自分がそうだったように。

「…父さん、母さん、恋してよ?」

想いこぼれて、ナイフリッジの風ゆるやかに吹きぬけた。
この風はどこまで届くのだろう?ぼんやり想い見つめる横顔に、登山グローブの指が頬を小突いた。

「お待たせ、宮田?ほら、行くよ、」

小突いた指の持主が、底抜けに明るい目で笑ってくれる。
楽しげなザイルパートナーの笑顔が嬉しい、うれしくて英二も笑い返した。

「うん、今度はここ、ピッケルで下降?」
「だね。裏返って、アイゼンの前歯しっかり刺していこう。じゃ、行くよ」

からり笑って青いウェア姿は、さっさとカニのハサミを下降し始めた。
素早い動きは身ごなしも軽い、その動きを見て記憶すると英二も真似て降り始めた。



シシ頭、エボシ岩と越えて早月尾根を下っていく。
まだ午前の低温に雪質は締り歩きやすい、さくさく雪踏みわけて平らなポイントまで戻ってきた。
先行する青いウェア姿が明るい雪原に立ち止ると、行動食の飴を口に入れている。
英二も歩きながらパッケージを取出して、オレンジ色の飴を口に入れた。
口動かしながらアンザイレンのザイルを手繰り、国村の隣へと並ぶと英二は笑いかけた。

「おつかれ、国村、」

笑いかけた英二に雪白の横顔が振り向いてくれる。
そしてサングラスの底で細い目が笑んで、青いウェア姿は英二に抱きついた。

「エデンに戻ってきたね、ア・ダ・ム?」

無邪気な笑顔が明るく英二に笑ってくれる。
この笑顔に北鎌尾根で見た、雅樹に向けられた笑顔が映りこむ。
そして笑顔を見つめる心どこか、慈しむような温もりが起きあがっていく。
この温もりは雅樹の心の欠片だろうか?この穏かな欠片に英二は微笑んだ。

「そうだな、確かにここは、楽園かもしれないな?」

天嶮に白銀かがやく平原は、午前の陽光に耀きまばゆい。
風の音が吹きぬけていく聲だけが響いていく、この静謐が現実から遊離させていく。
もし天に楽園があるのなら、こんな感じかもしれない。思いながら飴を噛み砕く英二に、透明なテノールが笑った。

「ここはね、祝福の雪の花が作った、エデンだよ、」

首に腕まわし抱きついて、同じ目の高さで無垢の瞳が笑っている。
細い切長の瞳は楽しげに明るんで、冷厳の風に頬赤らませた笑顔は幸せに咲いている。
そんな国村の笑顔は眩しくて、英二はすこし驚いた。

―こんな貌で国村、笑っていたかな?

やっぱり北鎌尾根からの変化だろうか?
かすかに途惑いながら微笑んだ英二を、まばゆい笑顔が嬉しげに見つめてくる。
こんな笑顔が不思議で見つめていると、透明なテノールが悪戯っ子に笑いかけた。

「エデンのキス、しよ?」

どういう意味?

そう訊いた英二の目に、透明な目が無垢に笑った。
その眼差しがいつもより綺麗で、初めて見る友人の貌に心が途惑いへ墜ちかかる。
途惑いのなか微笑んだ目に、ふっと桜色の唇は微笑んで、英二の唇を薄紅のキスに浚いこんだ。

― どうして?

心こぼれる途惑いに、澄明な甘い香ふれて口移しされる。
花と似た香はどこか記憶にふれていく、透けるよう清い馥郁はどこか懐かしい。
清雅に香る温もり心惹きこみながら、あまやかに蕩かす感触が唇から偲びこむ。
やさしい唇が唇ふれてくる、大らかで切ない熱は純粋のままに絡めとっていく。

どうして、こんな本気のキスを、国村が自分にしている?

今ふれる唇は、誰?
なぜ今ここで、自分がキスされている?
そんな疑問に見つめられながらも、キスは馴染んで融かされていく。
もうキスなんて、どんな相手と何人としたのかも自分は忘れた。ただ周太のキスだけを大切に覚えている。
それなのに「こんなのは馴れていない」と、そんな途惑う声が心こぼれていく。

惑うまま見開いている目に映るのは、瞳閉じた美しい貌。
この貌の持主は、自分の一番の友人でザイルパートナー。

なぜ、この友人のキスは、自分の心浚い蕩かされそうになる?
なぜこんなキスを、このザイルパートナーは自分にしてくる?
どうして本気の恋のキスが、今、自分にされているのだろう?

「…ん、」

かすかな吐息に、キスの時が終わりを告げる。
いくつもの疑問と謎が心に跡を残して、ゆっくりキスが離れていく。
ずっと驚きに見開いたままの目の前で、美しい睫が披かれていく。
ゆるやかに披いた睫から、底抜けに明るい目が英二を見ると愉しげに笑った。

「俺のキス、イイだろ?」
「…あ、」

なんて答えていいのか、解からない。
途惑ったまま見つめたザイルパートナーは、幸せな笑顔を見せて腕を解いた。
そして早月小屋の方を指さして、歩き出しながらテノールの声が微笑んだ。

「さて、とっと降りるよ?雪洞掘りがあるからね、早く作業やりにいこ?」

いつものよう無邪気に秀麗な貌が笑っている。
笑いながら青いウェア姿は前を見て、輝く白銀の平原から一すじの稜線へと歩き出した。



スノーソーで雪洞の奥を切りだしていく。
蒼く凍結した雪は青磁の耀きと似ている、この色に、緋牡丹を活けた青磁が重なって英二は微笑んだ。
あれは今から24時間ほど前、周太に教わりながら茶花として活けた。
大きな緋牡丹の蕾はそれ1つで華やいで、青磁の肌と映え美しかった。

「…周太、いまごろ勤務中だよな、」

ひとりごと呼んだ名前に、ほっと溜息が零れてしまう。
いますぐ逢えたらいいのに?そんな望みを想いながら英二は、唇を引き結んだ。
さっき国村にキスされた、この謎が心を締めあげてくる。

前にも国村にはキスされたことがある。
冬富士の後に「罰」として無理矢理されたことが最初だった。
次が遭難事故の昏睡状態から目覚めた後「護符」だといって一瞬のキスをされた。
あとは悪戯で首のあたりにキスされたことが何度かあるけれど、どれも冗談だった。

けれど、さっきのキスは今までと意味が全く違っている。
この意味の違いに心軋んで痛い。キスの後も国村は今まで通りで、普通に話せたけれど心は軋む。
いま軋む心に、昨夕の川崎で周太が言った言葉が静かに疼いていく。

―…光一のこと温めてあげて…寂しいから、ね?

言われたときは「雅樹の身代わりとして受けとめる」ことだと思っていた。
幼い日の国村は、雅樹にはワガママも言い夜は一緒に眠っていた。その身代わりは何度か既にしている。
周太が嫌がるなら止めようと思っていた、けれど周太が「温めて」といった意味はそれ以上を指していた。
あんなふうに、英二が他の誰かと体の繋がりを持つことを周太が願う。
それが意外で、けれど納得も出来てしまう。
こんなことにも、周太の精神年齢は、ゆっくりでも大人になっていると気付かされる。

けれど、たとえ身代わりでも周太以外と、体の繋がりを持つ気は自分には無い。
なにより、自分が他の誰かとそうなれば周太が泣いて嫌がると思っていた。
けれど周太は「きっと泣くから、いっぱい愛してね」と笑ってくれる。
こんな優しさが切なくて愛しくて、決意がまぶしくて、なおさら周太に恋をした。

この「英二」は周太に恋焦がれて、余所見なんて出来ない。
けれど「雅樹」なら最愛の山っ子を唯一に見つめて、体の望みも叶えてやっただろう。
だから、周太が泣いて決心してでも「光一を温めて」と望むなら、一夜だけ「雅樹」に成っても良いと思った。

―…雅樹は…年頃なのに恋人らしい女性もいなかったんです…女性とキスしたことも、無かったんじゃないのかな
  定期的に逢ったのはね…国村くん位なんですよ。可笑しいでしょう?…小さな男の子に逢いに通うなんて
  でも雅樹はね、国村くんと山に登ることが、本当に楽しかったんです。だから想いました、年齢を超えた繋がりもあると

父親の吉村医師が語ってくれた雅樹の想い。
生真面目で脇見も出来ない性格のまま、夢と誇りを懸けた山と医学だけを真直ぐ見つめた、美しい山ヤの医学生。
その真直ぐな視線のなかに入れたのは、山が結晶したような山っ子だけだった。
そんな雅樹も国村と同じ。心ごと体繋ぐ幸せは知らないままに、槍ヶ岳で永遠の眠りに鎮んでしまった。

―…ほんとうに雅樹は、山か医学ばかりの男でした。親として困る位、真面目でね

そう言って困ったよう微笑んだ吉村医師は、愛する息子が幸せだったと知っている。
それでも親として一度だけでも、恋人同士の幸福の時を知ってほしかったと、そんな願いに困ったよう笑っていた。
だから身代わりになっても良いと思えた、敬愛する吉村医師の願いをこんな形でも叶えられたら嬉しい、そうも思っていた。
なによりも、大切な友人の切ない痛みの願いを、自分で良いなら叶えてやりたいと思った。

―…逢いたかったんだ、待っていたんだ。名前を呼んでほしかった、見つめてほしかったんだ…
  あの日の続きを生きたい、あの笑顔を見つめて『好き』だって、『愛している』って、ほんとうは俺、言いたかったんだ

警視庁の拳銃射撃大会の夜、国村の実家で告げられた言葉。
この言葉は周太のことだと思っていた、けれど雅樹への想いも重ねられていたのだと、今なら解かる。
きっと国村が14年間ずっと周太を待ったのは、死に裂かれた雅樹への想いがあったから。
生きているなら、約束したなら、必ず逢いに来てくれる。そう信じたかったから国村は待ち続けていた。
自分は孤独な独りぼっちじゃないと、幸せに抱きあえる相手がいると信じたかったから、国村は待つことを止められなかった。
最愛の山ヤとの約束を叶えたかった、その愛惜の傷が約束を信じる強さになっていた。

―…俺さ、体のふれあいって遊びしかしてないだろ?
  心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ
  宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ。宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。
  無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ、温かいよ?

あの夜に御岳の部屋で、国村が英二に言った言葉たち。
なぜ英二には安心し温かいと想えたのか、今やっと解かったと想う。
最愛の山ヤと似ているから「恋愛じゃない」身代わり、けれど「俺にいちばん近い」一番の友人だと言ってくれた。
身代わりでもある、けれどそれだけじゃない。対等な友人として最高の相手だ、そう言ってくれていた。
こんなふうに大切に想ってくれる友人、だから英二も身代わりになって良いと想えた。

心ごと体繋げて愛しあう幸福を共にしたいのは、英二には周太しかいない。
けれど周太は、大切な初恋相手をこの幸福で温めてほしいと、英二に願う。
そして吉村医師は、愛する息子がそうした幸福を知らずに逝ったことを、親心に傷んでいる。
そんな雅樹自身はきっと、愛する山っ子が願うのなら体を繋げることすら望んだだろう。
だから雅樹の身代わりになって良いと思った。

敬愛する山ヤの医学生の為に、唯一のザイルパートナーで親友のために、望まれるなら身代わりになろうと思った。
北鎌尾根で雅樹として国村のザイルパートナーを務めたように、一夜だけ雅樹の身代わりとして国村の望みを受けとめる。
そうして心と体で繋がる幸せを、国村と雅樹に一夜だけでも贈ってやれるだろうか?
そんなふうに自分は、川崎から立山連峰に向かう7時間のなか考えていた。

けれど、さっき国村が自分にしたキスは、身代わりだけじゃない。
だからいま途惑っている、解からなくなった、7時間の覚悟も想いも真新の白に戻ってしまった。
どうしたらいいのだろう?途惑う想いのまま、唇から想いが零れた。

「ね、周太…解かっていたんだろ?…あいつの気持ち、」

こぼれた想いに、スノーソー使う手が止まる。
雪氷を切りだす音が止んだ蒼白の室に、静謐が包みこむ。
この静謐の底、かすかに壁の向こうから雪削る音が聞こえてくる。

…ざりっ、が…きしっ、がり…

いま、この雪凍れる壁の向こうで国村も雪洞を掘り進めている。
お互いに掘って向うとこちらを繋げて、ひとつの雪洞に作り上げないといけない。
そんなふうに互いに空間を繋げたときには顔を合わせる、けれど、どんな顔をすればいいのだろう?
こんな作業の合間にすら、もう顔合せる瞬間に途惑っている。
ただ蒼い氷壁を見つめた瞳から熱の雫があふれだした。

どうして?

見つめる青磁の壁に、愛するひとの面影を探してしまう。
いますぐ逢いたい、そして確かめさせてほしい。

どうして君は初恋相手に俺を差しだせるの?
どうして君はあいつのことを、そんなに思い遣っているの?
どうしても俺は君と一緒にいたいから、君の言うことなら何でも聴く「離れろ」以外なら。
だから身代わりなら務めようと思った、だって自分の心は片時も君から離れられないから、君以外と心を繋げられない。
こんな自分は自身の心を求められたとしても心は繋げられない、体だけしか繋げられない。
けれど君の初恋相手は「英二」の心も求めている、だから身代わりはもう出来ない。
そう知っていて君は「光一のこと温めてあげて、」と俺に願ったの?

「…周太、どうしてほしいんだ?俺に…」

雪と氷の静寂に、自分の声が反響する。

国村は大切なザイルパートナーで一番の友人。
だから、自分で良いなら心の傷を寂しさを癒してやりたい、そんな想いは勿論ある。
けれど友情と恋愛は違う、自分自身として友人と一線を越えるのは難しい。
まして男同士なら尚更に難しい。

以前の自分は気軽だった。
求められ、相手の容姿もそれなりなら気軽に頷いて、一夜限りの快楽を楽しんだ。
それが誰だろうが関係なくて、たとえ友達でも愉しめそうな相手なら、共にベッドに入ったこともある。
でも男とだけは避けてきた。
男の時は友人に限らず一時の相手でも避けた。
誘われても相手が笑って諦めるよう誘導して、関係を壊さないようにしてきた。
女性なら「本気で恋人になるつもりは無い」と解れば飽きて離れていくし、避妊さえすれば後腐れもない。
けれど男同士だと社会のなか公人として関わる可能性が誰ともある、そのリスクを避けてきた。

国村は男で、先輩で同僚で、唯一のザイルパートナーで一番の友人。
同じ山ヤの警察官として任務に共に立ち、生涯のアンザイレンパートナーとして共に最高峰に立ちたい。
ずっと一緒に山に登って笑いあっていたい、お互いに最高の理解者で親友であり続けたい。
そんなふうに想える相手は出会い難い、そんな唯一の大切な相手として国村を想っている。
それは愛とも言えるかもしれないほどに、強く真直ぐな想いが温かい。
けれどこの愛情は周太への想いと違う、ひとつに融けあうよう愛し合う伴侶とは違う。
ザイルパートナーも親友も、互いが個として独立しているからこそ、認めあい援けあい固い紐帯に繋ぎあえるのだから。
こんなふうに生涯を共にしたい大切な相手と、体の一線を越えてしまうことは怖い。

身代わりとしてなら、お互いにラインを引ける。
身代わりの一夜が明けたなら、元の自分に戻って今まで通りに友人として隣に立てばいい。
けれど、本気で大切な友人と、自分自身として「恋人」の夜を交わすなんて出来るのだろうか?
そうして一夜が明けたなら、目覚めた瞬間から自分は、どんな立場の顔になる?

もし、いちばんの友人を喪ったら怖い。
最大の理解者で絶対的信頼の相手が消えたら、怖い。
もし、唯ひとりのアンザイレンパートナーを喪ったら、山ヤとしてどう生きればいい?

「周太、…俺だって、怖いんだよ?」

ぽつん、涙がひとつ雪の床に零れおちた。
そのとき胸ポケットに振動が起きて、英二は胸に手を当てた。
携帯が、振動している。

「…電源、切ったのに?」

ポケットのファスナーを開き手にとると、受信ランプが確かに明滅している。
そのまま画面を開いて見るとメールが1通受信されていた。
その送信人名を、ちいさく英二は呼んだ。

「…周太、」

いま逢いたい、応えてほしい。
そう願った人が今、メールをおくってくれた。
とくんと心を鼓動が打って、英二はメールを開封した。


(to be continued)

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