萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第37話 凍嶺act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-03-21 22:20:21 | 陽はまた昇るside story
凍れる山にみる夢、




第37話 凍嶺act.2―side story「陽はまた昇る」

聳えたつ雪壁の天辺に佇んだ。
すぐ横を静謐と風音がふきぬけていく。その果て遠く、正午の陽光に最高峰はまばゆい。
黒髪を舞わせる烈風は凍らすよう纏わりついて、零下の峻厳が北岳山頂を支配していた。
いま歩いてきた道を見下ろすと、細く長い稜線は白銀に蒼い翳がおちている。
真青な冬麗の空のした、尾根道も聳える山頂も白銀の潔癖に佇んでいた。

北岳。
標高3,193m。この国の第二峰であり南アルプスの盟主。
高潔な気品あふれる山容から「哲人」と称され、東面に大岩壁「バットレス」を持つ。
いま日中南時を迎えた「哲人」は、今日最上に光輝な太陽に白銀透けるほど明るんでいく。
この足元から眼下に広がっているバットレスの威儀、端正に細やかな尾根筋はストイックな強靭が美しい。
輝く潔癖と高雅な佇まいは別称にふさわしい、素直な讃嘆にネックゲイターの影で吐息がこぼれた。

「うん、…第二峰も、きれいだ、」

うれしくて英二は微笑んだ。
こんな美しい山がある国が自分の故郷、幸せだと心から笑顔になってしまう。
いま立っている雪嶺と、はるか遠望する最高峰の雪嶺に大らかな心が充たされていく。
強風と高度に体感温度は零下をくだっていく、それでも心は穏やかに温かい。
ほっ、と呼吸ひとつして、英二は隣を振り返った。

「お待たせ、国村。だいぶ待たせたかな?」
「まあね。でもまあ、俺も存分に堪能していたからね、大丈夫だ。ほら、写真撮るんだろ?」
「うん、」

チェーンで固定した携帯を出すと英二は、山頂の光景を一枚収めた。
その隣に片膝つくと国村はピッケルを雪面に刺してザック開いている。
写メールを周太に送信してから振向くと、登山グローブの手は一眼レフのシャッターを切っていた。

「うん、イイ表情が撮れたね。今、光線がイイ感じになりそうなんだ。ちょっと待っててくれな?」

愉しげに笑いながら国村は、今度は遠く冬富士へとレンズを向けた。
手馴れた登山グローブの掌がレンズ調整をしてはシャッターを押していく。
カメラのフォールドも構え方も国村は随分さまになっている。
ちょっと玄人はだしな雰囲気に英二はかるく頷いた。
国村の父親は兼業農家の山岳専門カメラマンだったと英二も聴いている。
また、国村の山ヤの基礎を鍛え上げた田中は、御岳の美しい写真で有名なアマチュアカメラマンだった。

そんな国村の実家の部屋は、国村の父や田中が撮影した写真と一緒に本人が撮った物が飾られている。
きれいな窓のように見えるほど、ストレートに山の実体を映しこんだ国村の写真はどれも美しかった。
いつも国村は「山」に関することは優れた能力をみせるけれど、「山」を撮ることにかけても同様らしい。

あとでデジタル画面でもいいから見せてもらいたいな?
初めて見る友人の姿を暫し眺めながら、英二は胸ポケットからオレンジの飴をだして口に入れた。
この5ヶ月ですっかり馴染んだ甘さが優しい、この飴にうかぶ面影にそっと英二は微笑んだ。
いまごろ周太は昼休憩かもしれない、送った写メールを見ているだろうか?

…周太、今日の昼は何、食べているんだろ

明後日の下山後には逢える。
こんな感じに、山から帰る先が真直ぐ周太の隣だと言うのは幸せだ。
いつもこんなふうに早く成れたらいい、けれど、そうなるまでには越えていくべき困難が多い。
昨日の朝もまたすこし読み進められた、周太の父の日記を英二は心で再読にかけた。

―…射撃部に入ったことを今日、ようやく父に話すことが出来た。
 春はいつも新学期の忙しさで父は帰宅も遅く、食事の時間も一緒にとれない。やっと今日は話せる時間が出来た。
 友人から人数合わせでもと頼まれ始めたけれど、自分には適性があるようで楽しい、そう話した。
 けれど父はなぜか反対をした。
 その反対の理由は「学問の時間がもったいない」という事だった。
 私には納得が出来ない。それなら山岳部の方がよほど時間を使うだろう、山はよくて射撃が駄目だと言う理由が解らない。
 父に説明を求めても、これ以上のことは何も言って貰えない。父とこんなふうに意見が割れる事は初めてだ。
 けれど自分はもう選手登録のエントリーが終わってしまった。いま放棄しては友人達にも、大学にも迷惑をかけてしまう。
 このことを父にも話した、けれど父は反対を翻すことは無かった。いつも大学の不名誉を嫌う父らしくない。
 そこまで父が止めたがる理由は解からない、けれど父がこんなに反対するのに言うことを聴かないのは申し訳ない。
 父には心からすまないと想う、けれど、このまま明日は出場するしかないだろう。

なぜ、周太の父は、湯原馨は反対されたのだろう?
なぜ彼の父は息子の競技射撃への道を反対しようと思ったのだろう?
しかも馨の父は当時、馨が通っていた大学の仏文学科首席教授であることも記されている。そして馨の父自身の母校でもある。
そんな3重に縁深い大学に、迷惑を掛けてでも息子の部活動を阻止したがった理由は何だろう?
日記のなかで馨が言うように「納得がいかない」と英二も感じて仕方がない。

きっとなにか事情がある。

その事情が何なのか?その謎が未だ解けない。
その事情が恐らくは、馨を不幸な道へと惹きこんだ原因の1つではないだろうか?
これから読み進めていくページと記憶の時間に「事情」は隠されているのだろう。

この事情は周太の祖父や曾祖父の経歴に関わること、だから馨の父は息子に理由が言えない。
この理由を早く探り出したいけれど、日記帳がラテン語記述である以上、読解だけでも時間が掛る。
本当は別の方法でも、周太の祖父や曾祖父たちの経歴が調べられると良いなと思う。
あの家にある手がかりは過去帳しかない、アルバムすらどこかに隠されて不明のままだ。
それでも馨の父親である、周太の祖父の経歴はすこし調べられてはいる。

東京帝国大学仏文科卒業、大学院卒業の直前に学徒出陣。
戦後まもなくパリ大学文学部、現在のパリ第3大学ソルボンヌ・ヌーヴェルへ留学し、帰国後に母校で教授になった。
その後に結婚し、周太の父・馨が7歳を迎える秋から5年間をオックスフォードの招聘研究員として過ごしている。
この渡英直前に妻を亡くした為、息子の馨も英国へと連れて行ったらしい。
この渡英から帰朝後に、彼は東大仏文学科の首席教授に就任していた。
享年62歳、出張先のパリ大学にて心不全で客死している。

ここまでは名前からWebでも調べることが出来た、けれど他はまだ不明のままでいる。
今から30年前に60代だから知人達も存命なら90歳前後になる、亡くなっている人の方が多いだろう。
あとは教え子だろうが、教え子では細かな事情は知らされていないと考える方が妥当だ。
今から30年前に亡くなった1人の大学教授、この細かい事跡は調べるのが難しい。
フランス文学に詳しい人間にでも聴ければ、もう少し解かるのかもしれない。

周太の曽祖父については、過去帳に書かれた名前と享年、誕生日しか解からない。
彼は1962年に享年76歳で亡くなった、今から半世紀前では知人も既に鬼籍に入ってしまっている。
しかも湯原の家は親戚が全くない、墓参りに行っても周太と母があげた卒塔婆以外は無かった。
そのうえ曾祖父の時代に山口から川崎に移住転籍したらしく、それ以前の事跡が解からない。

…遡って調べるなら、戸籍謄本を取れば辿れる。だけど、

曾祖父の戸籍謄本を取得して、そこから元の本籍の戸籍へと遡る。
そうやって親戚を割り出すことは出来るだろう。けれどそこまで遠縁になっては、川崎湯原家の事情など知る訳がない。
いくらWeb検索が発達していても、半世紀前の人間を名前だけで探すことは難しい。
何の仕事をしていたのか?せめてそれだけでも手がかりがあればと思う。

今のところ、あの紺青色の日記帳しか手懸りは無い。
けれど、大学2年生の終わりから全文がラテン語記述になった為、解読はペースダウンしている。
できれば初任科総合の前までに、周太の父・馨が警察学校に入った事情が解かるページまで読んでしまいたい。
そんな想いで今日も実はザックのなかに、3日分のノルマをコピーしてファイルしたものと携帯用の小さな辞書を持っている。
出来れば人の日記帳をコピーしたくなかった、けれど時間が寸刻でも惜しい。
せめて、周太が本配属になって危険に踏み込む前までに、危険の「原点」を把握したい。

本当に間に合うのだろうか?
そんな不安との戦いが最近は芽生えている。

もう今は2月下旬、初任科総合は2ヶ月後に迫っている。そして初任科総合の2ヶ月間が終われば本配属になってしまう。
既に英二はイレギュラーだけれど本配属が決まった、それでも初任科総合は受けに行く。
その期間はまた警察学校の寮生活になる、たぶん日記帳の解読はほとんど出来ない。
だからあと2ヶ月程でラテン語記述の日記帳を2年分、読み終えなくてはいけない事になる。
いま大学3年生の5月に入っている、あと約700日分の日記を70日程で読まないといけない。

― きっと、ラテン語の力がつくだろうな?

そう思った途端、なんだか愉しくなって英二は笑った。
ラテン語をマスター出来たら、周太の採集帳に貼るラベルを書く手伝いが出来るだろう。
周太の採集帳に貼られるラベルには、植物の学術名がラテン語記載されている。それを周太の父が元々は書いていたらしい。
いまは周太は自分で書いているけれど、もし英二が一緒に手伝えたら喜んでくれるかもしれない。
こういう嬉しいオマケがあるなら、自分はきっと頑張れるだろうな?
そんな想いで微笑だ英二の額を、登山グローブの指が小突いた。

「こら宮田?なに、こんなとこまで来て、エロ顔になってんのさ?」

からり底抜けに明るい目が笑っている。
もうカメラはザックに仕舞いこんだ様子から撮影は済んだのだろう。
綺麗に笑って英二は自分のアンザイレンパートナーを見た。

「ごめん、ちょっと周太のこと考えてた。写真、終わったんだ?」

「うん、待たせたね?ま、おまえもね、ボンヤリを楽しんでいたみたいだけどさ。
お蔭でね、三角点タッチも先にやっちゃったよ。ほら、おまえも早くやりなね。で、バットレスのザイル下降するよ?」

話しながら国村はアーモンドチョコレートを口に放り込んだ。
ごりごり噛み始めながら「早く山で遊ぼうよ?」と目で誘いを掛けてくる。
この最高の山ヤと言われる「山っ子」にとっては日本第2峰も単に「愉しい山」に過ぎない。
本当に単に愉しいのだろうなという表情で、国村はアーモンドの香と一緒に雪嶺を楽しんでいた。

「ここもさ、ホントの最高点と三角点の位置が違うんだよね、」
「三角点は3、192.4mだったかな?」
「そ、あとから解ったんだよね、あっちの岩場が最高点だってさ」

三角点に手形を付けてから南へと雪のなかを歩き始めた。
歩いて20mほどに岩場がある、そこに立つと底抜けに明るい目が満足げに笑んだ。

「ここが最高点3,193mだ。あの最高峰にいま、誰も立っていなけりゃね、今この国では、俺がいちばん高い所に立ってるよ」

愉しげに国村は最高峰富士を指さしながら、第2峰の最高点に立って笑っている。
ほんとうに「点」に立つことが好きなのだろう、こういう無邪気な友人は愉しい。
笑いながら山頂に並び立ってバットレスを見おろした。

バットレスは建築用語で「控壁」「胸壁」を指し、小島烏水が名付けた。
北岳バットレスは南アルプスを代表する岩場で、北岳東面にひろがり山頂からの標高差は約600メートル。
大まかには大樺沢右俣と左俣の間の岩壁を指しており、6つの顕著な岩稜に呼称が各々付いている。

「この山頂から見下ろすと、左から東北尾根、第1尾根、第2尾根。
それから第3尾根、第4尾根、第5尾根って右へと続いていくんだ。で、尾根と尾根の間に食い込む岩溝。
いわゆるガリーにも名前が付いている。バットレス下部の横へ延びている垂直に近い岩壁があるだろ?あれが下部岩壁帯だよ」

眼下を登山グローブの指で示しながら国村が教えてくれる。
見遥かす尾根と岩溝の起伏は、白銀に蒼く翳になって刻まれていく。
きれいだなと微笑んだ英二に、愉しげに国村が提案してくれた。

「さて、天候は安定している。雪のコンディションも悪くない。で、バットレスいきたいんだけどさ?
こっちからだとね、普通は八本歯のコルから懸垂下降してバットレスに入るんだよ。でもさ、今、正午だろ?
下まで行って登ってくると時間が掛るかもしれない。だからさ、第四尾根に直接山頂から下降して往復でもイイかな?」

岩壁やルンゼの下降と登攀は普段の訓練でもやっている。あれと同じ要領だろう。
本当は八本歯コルから降りて登ってみたい、けれど日程もあるし遅くとも17時までには幕営したほうが良い。
なにより訓練であっても憧れのバットレスに取りつけたら愉しいだろう、微笑んで英二は頷いた。

「うん、いいよ。訓練でさ、救助者背負って登下降する、あの要領かな?」
「そ、あんなカンジ。俺を背負うよりもザックのが楽だろ?で、いま標高3,000超えてるけど、体調は?」
「いつも通りだよ?冬富士よりずっと楽だな」

強い風に注意して話しながらアイゼンを進めていく。
山頂直下の緩斜面を下って第四尾根の最終ピッチに着くと、そこからザイルを降ろした。

「じゃ、宮田。あそこのね、マッチ箱のコルまで行くよ?で、往復する感じ」
「了解、着いてくよ」

本格的な雪の岩壁は英二にとって初めてになる。
アイゼンのベルトを確認しながら見下ろす雪面は、まさに雪壁だった。
いまからここを降りて、また登ってくる。やることは奥多摩での山岳救助隊で積んできた訓練と変わらない。
けれど標高3,000mを頂点にする往復は初めてのこと、新しい経験に英二は微笑んだ。


マッチ箱のコルまでの第四尾根往復から戻った山頂で、クライマーウォッチは16時前を示した。
途中ラッセルもあったけれど、雪のコンディションも良好で恵まれている。
おかげで通常タイムの5/3程度で登下降できた、それでも目標タイムより少し遅い。
標高3,000mの気圧と酸素濃度はさして問題にはなっていない、自分の技術力の所為だろうか?
まだ5ヶ月といっても、山岳救助隊として毎日を現場に立つからには妥協は許されない。
ましてクライマーとして任官したなら尚更だ、すこし唇を噛んでから英二は口を開いた。

「もっと登攀と下降の訓練、増やそうかな?」
「どっちかっていうとさ、問題は雪だな。ラッセルに馴れることかな?ま、4月いっぱい迄、なるべく高い雪山に行こうよ」
「うん、ありがとう。俺、もっと雪壁に馴れたいな。滝谷とか、もっとすごいんだろ?」
「まあね、でも宮田ならいけるよ。それにさ?お初でこんだけ出来りゃ、大したモンだね。ま、焦るなよ?」

反省と今後の訓練を話しながら尾根を歩く、その向こうは黄昏の気配が美しい。
雪嶺にふり始めた今夕の華やいだ落日の気配に、きっと夕焼けが美しいだろうな?
そんなふうに眺めながら北岳山荘に16時半に着いた。

「うん、誰もいないみたいだね?」

がらんと無人の小屋に入って底抜けに明るい目が満足に笑んだ。
国村は人当たりも悪くないし明るい性格だから、よく人の輪の中心になりやすい。
けれど純粋無垢で繊細な世界も持っている、そんな所が国村の気難しさにもなってパートナーがずっと居なかった。
きっと今夜も気兼ねない英二だけを相手にして、のんびり山の夜を楽しみたいのだろう。
このまま誰もこないとご機嫌でいてくれていいな?ちょっと笑って英二はザックを小屋へとおろした。

「国村、ここにテント張るんだろ?」
「そ、じゃないと寒いからね。この時期はね、零下20度以下になるから。今日は天気も良い、放射冷却がすごいだろね」

さっさとテントを張る手を動かしながら国村は教えてくれる。
同じように幕営にと手を動かしながら英二は微笑んだ。

「今夜は星がきれいだろな。明日朝も、暗いうちに出るんだろ?」
「うん、農鳥小屋で日の出が良いなって。あそこから見える農鳥岳はね、アルプスってカンジで良いんだよ」
「写真、撮るんだ?あ、さっきのも見せてくれる?」
「うん、撮るし、見せるよ?で、今から、夕焼けを撮りに行くよ」

テントを張り終えてセッティングを済ませると国村はザックからカメラを出した。
どう見てもアマチュアじゃない雰囲気のカメラは、本体に比べてレンズは年季が感じられる。
なにげなく英二は国村に訊いてみた。

「本体より、レンズの方が古いもの?」

訊かれて底抜けに明るい目が温かに笑んでくれる。
白い繊細な指がそっとレンズを撫でながら、透明なテノールの声が言った。

「うん、レンズはね、オヤジが使っていた物なんだ」

細い目はすこし懐かしそうにレンズを眺めた。
穏かな明るい声のまま、国村は続けてくれる。

「本体はね、オヤジが巻き込まれた雪崩で、壊れちゃったんだよ。
それでも、フィルムとレンズは無事でさ。で、このレンズとマウントが同じ機種の本体を買って、ずっと俺が使っているってワケ」

このレンズは国村の父親が、その生涯の終わりに出遭った最も美しい光景を見つめたのだろう。
国村は高峰に登って撮影可能な条件の時は撮影してきている、この間の冬富士は初登頂の英二が同行とあって控えてくれたのだろう。
このレンズで10年間を国村は写真を撮ってきた、そのたびに国村はなにを想ってきただろう?
ふるい磨き抜かれたレンズを見つめて、ふっと英二は綺麗に微笑んだ。

「じゃあ、今日もオヤジさん、国村と一緒に写真撮るんだな?」

周太の父はいつも周太を見守っている、英二はそう感じている。
だから国村の父もきっと同じだろう。きっとそうだと隣を見ると、底抜けに明るい目が嬉しそうに笑った。

「だね?うん、おまえってさ、マジでよく解ってるし、良いこと言うよね。さて、行くよ?」

登山グローブを嵌めなおし、ピッケルとカメラを持つと国村は立ち上がった。
一緒に小屋の外へ出ると、左手に北岳を戴いて遥か雪嶺が夕陽に染めあげられていく。
南アルプスにふりそそぐ朱と黄金の黄昏に、英二は呼吸を忘れて佇んだ。

「ほら、おまえもね、写メ撮ってやんな?周太のこと、よろこばせろよ」
「あ、…うん、ありがとう、」

からり笑って促されて、英二は我に返って微笑んだ。
携帯を出して黄昏に向けて、シャッターを押す。
両手で携帯の画面をくるんだとき、ふと左手首のクライマーウォッチが目に映りこんだ。
いまごろ周太は、まだ新宿の東口交番で勤務しているだろう。
英二が贈ったクライマーウォッチを時折は見て、安否を気にしてくれている。

自分が立った道は周太に心配を掛けてしまう。
それでも、この道でしか自分は生きられないと時間積んでいくごと思い知らされている。
いまここに立つ喜びが鮮やか過ぎて、きっと他の道は選べない。
だから卒配期間が終わるのを待たずクライマー任官の話が来た時も、迷わずに自分は承けた。
そして、この道で夢を叶え成功していくことは、きっと周太を助ける道になる。
それでも愛するひとを不安にさせる懺悔に、英二はそっと微笑んだ。

「…ごめんね、周太。こんな生き方しか出来なくて…」

黄昏の空気にとけるよう呟いて英二は北岳を見あげた。
ずっと憧れていた山のひとつ、「哲人」北岳は残照のなか黄金に輝いている。
この山頂に自分は立ってきた、そして今ここから間近く眺めている。
ずっと写真のなか見つめた場所に、今日もまた立つことが出来た。あの冬富士の山頂に佇んだのと同じように。
こんなふうに夢がひとつずつ叶えられていく。

こんなこと、不可能だと思っていた。
警察学校で山岳レスキューの道を知った時、周太を助けるために、この道を選んだ。
けれど調べるにつれて「山」に生きる姿に憧れ惹かれていった。
そして名峰と呼ばれる山々の写真を見るたびに「行ってみたい」と思っていた。
それでも自分がそんな厳しい場所に行けるとは思っていなかった。

でも今は、最高峰と呼ばれる世界の入口に、自分はもう立っている。
こうして北岳の高潔な姿を眺めて、最高のクライマーの隣にアンザイレンパートナーとして佇んでいる。
こんなこと幸運過ぎて考えたことも無かった。
それでも現実に自分はここに居る。

だから、と想ってしまう、願ってしまう。
だからきっと自分は、周太の命も心も将来も、夢すらも、すべてを守ることが出来るだろう。
いま日記帳を読むごとに、周太の背負っている「家」にまつわる謎は絶えることなく湧いてくる。
その謎に不安を感じる時がある、自分に本当に抱えきれるのだろうかと揺れそうになる。
それでも、不可能だと思っていた夢に立てたのなら、きっと周太のことも救けられる。

尊敬する北岳、哲人と呼ばれる偉大な山。
どうか俺の願いを聴いてほしい、聴いてくれますか?
この先ずっと俺は、あなたの兄弟姉妹たちに会いに行きます。そして天辺に立たせてもらいます。
その度に俺は、愛するひとから離れた場所に立つことになる。それでもこの道しか俺は大切なものを守れない。
どうか北岳、あのひとの無事と幸せを願わせてほしい。
あのひとの道は困難が多い、それでも必ず笑顔になれるように。
そのために自分は「山」で廻っていく生命と尊厳を守る努力を捧げます。
山を愛するひとを救助し、山に眠るひとの想いを大切な人へ伝える手助けをします。
そうして生きていくともう、自分は心に定めています、この生涯を「山」に生きる人を守るために遣います。

―…だから、唯ひとりで良い、あのひとの幸せを北岳、あなたに守ってもらえませんか?

黄昏の黄金から紺青の夜に北岳は姿を変えていく。
その美しい高潔な姿に英二は、心からの願いと祈りを見つめて佇んだ。



北岳山荘のテントに戻ると早めに夕食を済ませた。
夕飯の餅入り鳥鍋を平らげて片づけ終えて、明日の準備も済ませると19時になっている。
それでも小屋には他に誰も訪れない。外はすっかり暗い山夜の闇が降りているだろう、今夜は英二と国村の2人だけらしい。
のんびり紅茶を飲みながらクライマーウォッチを眺めると、底抜けに明るい目が楽しげに笑った。

「よし、今夜は貸切だね?これで俺たち、誰に憚ることなく仲良く出来ちゃうね、み・や・た?」
「誰に憚るんだよ。仲良いのは、いつものことだろ?」

なに気なく英二が笑って答えると、細い目が悪戯っ子に笑んだ。
笑って英二の目を見ながら白い指を伸ばすと、英二のマグカップを取り上げて国村は唇の端をあげた。

「いつもよりね、仲よくしよう、ってコトだろ?ここなら、誰にも邪魔される心配ないからさ?ね、み・や・た」
「いつもよりって、あれ以上どうするんだよ?」

マグカップを取り返して英二は笑った。
英二と国村はアンザイレンパートナーを組んでいるため、山岳救助隊でも一緒に召集が掛けられる。
ふたりとも互いに体格が大きいために他の人間と組むことが難しい、そのため訓練でも他の隊員と組むことが出来ない。
それで御岳駐在員としては交代で勤務しても、休憩合間の自主訓練には非番の方が駐在所に出向いて一緒に取り組むことになる。
しかも気の合う友達で同じ寮に住んでいるから一緒にいることが多い。それなのに国村はまだ何かあるらしい。
きっとまた面白いこと言うんだろうな?そう見ていると秀麗な口が開いた。

「生着替えは毎朝見ているし、飯も風呂も一緒だしね。だから、あ・と・は、同衾かな?」

言い方が可笑しくて英二は笑ってしまった。
底抜けに明るい目も笑いながら紅茶を啜っている。英二もマグカップに口付けながら相槌を打った。

「それ、もう射撃大会が終わった夜に、おまえん家でやっただろ?ずっと背中に張り付いていたよな、」
「あ、そうだったね?ま、あれは、甘えん坊の俺がやったことだ。今夜はまた、違うバージョンにするよ」

寛いで会話をしながらマグカップを空にすると、国村はカメラを取出した。
手馴れた雰囲気で操作すると、撮影した写真の画像を英二に見せてくれた。

「ほら、今日撮ったヤツ」
「へえ…やっぱり、上手いな?おまえ、こっちの道でも行けそうだ、」

感心しながら画面を眺めて率直に英二は褒めた。
そんな英二に笑って国村が1枚の写真で手を止めた。

「これがさ、今日の俺の自信作だね。イイだろ?」

そこには英二の横顔が残照に輝いた雪嶺を背景に映っている。
自分でも知らない表情の貌に英二は我ながら驚いた。

「これが俺?…俺、こんな顔してるんだ?」
「うん、山を見ている時にはね、こういう貌するときあるな。イイ貌だろ、若き山ヤって感じでさ、」

自分の知らない表情を国村は知っていた。それが不思議で、けれど何故か納得出来る気がした。
全部を見せてくれると国村はカメラを抱え込んで英二に笑いかけた。

「さて、ちょっと俺はね、さっさとコレの編集しちゃうな。でも就寝は21時にはするよ、」
「うん。俺も、やりたいことあるんだ、」

頷きながら英二はラテン語の携帯用辞書と薄いファイルをザックから出した。
すこしでも日記の続きを読み進めたい、ファイルを開いて日記帳の写しを出すと膝に広げた。
それを黙読しながら英二はボードにセットしてきたルーズリーフにペンを走らせ始めた。

時計が21時になって、お互いに片づけるとシュラフにもぐりこんだ。
いつもなら周太に電話する時間、けれどここ北岳では充電が出来ないから電池の温存が必要になる。
ほんとうは声を聴きたい、でも万が一の時に携帯が使えないと生死を分ける事もある。
明後日には逢えるのだから。そう自分に言い聞かせて英二は目を瞑った。

明朝はまた午前3時起の予定でいる、英二は時間感覚を自分の脳に命じた。
いまから6時間後に目覚める、だから6時間で今日一日の疲れを全部とること。
こんなふうに言い聞かせておくと英二は時間通りに起きられる。
これでもう大丈夫、微笑んで眠りに就こうとした途端にシュラフが勝手に開けられた。

「なに?国村、寒いだろ、」

瞑った目を開けて英二は、愉しげに見おろしてくる国村に笑った。
また自分のアンザイレンパートナーは勝手な行動をとるつもりらしい。
今回は何だろう?そう思う間もなく国村は、勝手に英二の体をすこし押し退けた。

「いいからさ、ちょっと除けなね?ほら、」

機嫌よく笑いながら国村は、結局勝手に英二のシュラフにもぐりこんだ。
確かに英二は大柄だからシュラフも大きいサイズを選んではある。
けれど180cm超の男2人では、いくらなんでも狭い。無茶な狭さが可笑しくて、笑いながら英二は文句を言った。

「なあ、さすがに狭いって。ちゃんと自分ので寝ろよ?」
「寒いからさ、これが一番良いんだって。凍傷とか困るだろ?あ、やっぱ温いねえ、」

飄々と言いながら背中から英二に抱きつくと、気分良さ気に笑っている。
全くもって出ていく気配もない、さっき国村が言っていたことを思い出して英二は訊いてみた。

「さっきさ『今夜はまた違うバージョンにする』って言っていたのは、これのこと?」
「そ。今回はね『凍死しないように抱きあって温めあう二人』バージョンだよ?愉しいね、み・や・た」

機嫌よく答えながら肩越しに顔を乗せて頬寄せてくる。
あの射撃大会以来、こんな調子で国村は英二にスキンシップをしてしまう。

―…心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ
 だから俺はね、おまえ見るといつも、じゃれつくんだよ。宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ
 宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ

射撃大会が終わった夜、そんなふうに国村は本音を話してくれた。
この容姿と明るい雰囲気の国村だから、そのつもりになれば相手に不自由はしないだろう。
けれど山育ちもあってか直観力と感受性が強い国村は、すぐに相手と自分の関係を見抜いてしまう洞察力も鋭い。
そのせいで心底から相手に心許すことは国村は少ない、そのうえ純粋無垢な気質もあって、ある意味とても気難しい。
そんな国村は幼い日の1日の出逢いに生涯の恋愛を信じて、周太だけ14年間ずっと見つめている。
これは英二の存在を知っても、国村の想いは変わることがなかった。

ほんとうは国村は周太と、心も体も繋げてみたいと願っている。
けれど周太にそのつもりがないなら、国村は生涯そうした幸せを知らないまま生きることになる。
それでも構わないと国村は決めてしまっている、他に行けるなら14年の間にとっくに諦められただろう。
そんな国村の想いを知っているだけに、自分で良いのなら抱きつく位はさせてやりたいなと英二は想ってしまう。
求める相手に逢えない寂しさも、その相手しか求めたくない想いも、英二には痛切に解っている。
だから出来るだけ受けとめてやりたい、この大切なアンザイレンパートナーの潔癖な孤独を分ち持ってやれたらいい。
今夜も仕方ないな?きれいに微笑んで英二は、くっついているアンザイレンパートナーの額をかるく小突いた。

「ほんとはさ、周太以外は禁止なんだけどね?凍死しそうなら仕方ないな、温かいし、」
「だろ?ほんと人肌がいちばん温くっていいよな。…ね、み・や・た?もっと俺たち、仲よく温め合おう?」

愉快そうに笑いながら抱きついた掌が英二の喉元に伸びてくる。
白い掌の目的にすぐ気がついて、笑って英二は掌を握りこんで阻止した。

「このままで充分に仲良しだし、温かいだろ?ほら、早く寝るぞ、」
「ダメだよ、俺の可愛い公認パートナー?…今夜はね、絶対に邪魔が入らない絶好のチャンスだ。もっと仲を深めよう?」

頬寄せて囁いてくるテノールの声が艶やかさと醸してくる。
また国村の遊びが始まったらしい、明日は白峰三山の往復縦走を控えているのに?
困ったなと思いながらも可笑しくて、英二は笑いながら合せた。

「ダメ、こんな山小屋でなんて…心の準備もしていないの、だからお願い。今夜は寝かせて?」
「こんな山小屋だから、だよ?ね、可愛い俺のアンザイレンパートナー。言うこと聴いて?…優しくするから、」

こんな山の上まで来てもエロオヤジな国村が可笑しい。
可笑しくて笑ってしまいながら英二は自分のアンザイレンパートナーにお願いした。

「優しくするんなら、寝かせて?ほんと俺、眠くなってきたから。また3時起きだしさ、寝よ?」
「うん、寝ていいよ?」

にっこり笑って素直に国村が頷いた。
納得してくれたなら良かった、ほっとして英二は封じていた白い掌を離した。

「ありがと国村、じゃ、寝るな」
「うん、寝な?ま、俺は好きにするからさ、安心してね。お・や・す・み、可愛いパートナー」

好きにするってなに?
訊きかえそうと思ったけれど英二の意識は睡魔に掴まえられた。
ゆるやかな温もりと、今日の午前3時から山を歩いていた疲れが心地いい。
昼に夕に眺めた北岳の姿を見つめながら、英二は山夜の眠りの底へと落ち込んだ。


(to be continued)

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第37話 凍嶺act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-03-20 22:59:25 | 陽はまた昇るside story
凍れる夜と、夢の温度




第37話 凍嶺act.1―side story「陽はまた昇る」

厳冬期2月下旬の平日、夜叉神の森駐車場は空いていた。
国村の祖母が用意した握飯とカップ麺で朝食を済ませると、英二と国村は登山道へと入った。
午前3時半、夜叉神の森は冬夜の眠りに静まり、雪踏む音も静寂に呑みこまれていく。
雪山の静謐に透明なテノールが低く笑った。

「うん、この時間だと雪もさ、それなりに締って歩きやすいかな」

ヘッドランプの下で細い目が楽しげに笑んでいる。
お互いテント泊縦走用の装備が肩に荷重を掛けていく、けれど遭難救助の装備を背負うより楽だなと英二は思った。
それでも足元は荷重に沈みやすい、こんな雪の感触も愉しくて英二は微笑んだ。

「ちょっとさ、ざらりとした音が、かき氷みたいだな?」
「かき氷か、夏は好きだね。ばあちゃんの作る梅シロップだとまた旨いよ、夏になったら食おうな?」

国村の祖母は料理名人と御岳では有名で週末だけ農家レストランも開いてる。
今朝の握飯もそうだけれど、英二と藤岡もよく差入の相伴を楽しませてもらう。
きっと彼女が作るのなら美味しいだろうな、素直に頷いて英二は訊いてみた。

「ありがとう、旨いんだろな。国村ん家の梅で作るんだ?」
「そ。俺の梅の木が結構イイ実をつけるんだよ、野梅系の品種でさ、香が良いんだ。それを使うんだよね」
「国村の梅の木?」
「そ。俺んちってね、子供が生まれたり嫁さん貰うとさ、山に梅を植えるんだ。で、俺んちの山は梅だらけってワケ」

他愛ない話をのんびりしながら夜叉神のゲートを通過していく。
監視ボックスの脇を通りながら国村は目を細めて唇の端をあげた。

「ここにさ、6時になるとね、オッサンが入っている訳さ?で、ガタガタ言うんだって有名なんだよね」
「その人って、どういう権利で封鎖しているんだろ?県警は問題なく登山計画書を受領してくれるから、県はOKってことだろうし」

冬期の北岳登山は奈良田と夜叉神の2つが主な入口になる。
けれど奈良田のトンネルは針山のようなゲートで封鎖され、夜叉神は件の監視ボックスが関門となってしまう。
夜叉神トンネル入り口の金属扉を開きながら、テノールの声が軽く嗤った。

「南アルプス市のね、通称林道課ってとこの話だとさあ?
林道法面からの氷や岩石の落下があるから通行しない様にお願いしている、って話らしいけど、ねえ?
法的根拠は無いんだよ、禁止じゃなくって安全のため『お願い』しているらしいけどさ?お願いって態度を学習してほしいね」

語尾に「さあ?」「ねえ?」が入っている。
この場合は不機嫌な「ねえ?」他だろう、よほど腹に据えかねる事態があるらしい。
トンネルのあわい照明とヘッドライトの下で英二は訊いてみた。

「そんなに態度すごいんだ?」

「ああ、スゴイよ。ザックを掴まれたって話も聞くね。それこそ暴行罪だろが?
だいたいさあ、山に登る自由は自己責任だ。怒鳴ってまでココで安全指導するならさ、冬富士や剣岳の方がよっぽど必要だね。
それにね、俺たち山ヤはさ、結局は止めたって登るもんなあ?ここが通れなきゃ、もっとヤバいルートで入るだけでさ。ねえ?」

法的根拠のない通行止め。
この問題はこれからどうなるのかな?法学部出身の英二としては、つい考えてしまう。
暖かいトンネルの長い道を抜けると、星空が頭上に広がっていく。
無事にゲートとトンネルを抜けた開放感に微笑んだ英二に、満足げに国村が笑いかけた。

「さ、自由だ。でね、この後の鷲ノ住山への入口を間違える人が多いんだよね。しばらく樹林帯を歩くよ、」

歩き出した樹林帯は凍れる梢が白々と夜闇に透けて見える。
まだ夜明け遠い空がみせる深い青藍の色彩は深海の底を想わせた。
確実なアイゼンワークに2人並んで歩きながら、標高と距離を稼いでいく。
工事慰霊碑を過ぎてしばらく歩いた道標を見、ゆるやかな登りを上がる。

「あの慰霊碑のとこでさ、下っちゃう人がいるんだよ。で、道迷い」
「この時期、ここで道迷いになったらさ?捜索の県警と監視ボックスで喧嘩になりそうで、嫌だな」

奥多摩での救助現場でも、警視庁山岳救助隊と地元の各関係機関の連携は欠かせない。
それなのに、ここ北岳の冬期入山に対する態度が、市の林道課と県警で食い違っている。
こういう断裂は緊急時対応に響かないのだろうか?
山岳レスキューの1人として現場の心配をついしてしまう。
もし自分ならどうするだろう、考えかけた英二に国村はからり笑った。

「そうだねえ?ま、俺だったらさ、一言ちょっと言わせてもらって通してもらうね。
人命救助と尊厳、そして山の自由を守る。これが俺たち、山ヤの警察官の任務だからさ。ねえ?」

この「一言」が国村は恐ろしい。
もし国村が山梨県警でここの管轄だったら、ある意味で簡単に決着がつくかもしれない?
そんなことを考えながら英二は発電所のある野呂川吊橋を渡った。
林道と3つのトンネルを通過して、歩き沢橋手前の登山口に着くと、国村が登山グローブの指で先を示した。

「ここから樹林帯をさ、ちょっと長い登りが始まるよ。だらっと雪を歩いていく良い訓練になる」
「うん、池山御池小屋まで行くんだよな?」
「そ。池山辺りで日の出かな?今のとこはまあ、目標タイム通りかな」

ざくりさくりアイゼンに雪踏んで速いピッチでも着実に進んでいく。
通常よりだいぶピッチが速い国村は、すでに6,000m峰は海外遠征訓練に参加して踏破している。
このピッチを自分のものにしなければ、到底のこと8,000m峰でのアンザイレンパートナーを組めない。
国村の足運びと呼吸に自分を合わせながら、いま歩く北岳に続く雪道を英二は訓練に楽しんだ。

コメツガやシラビソの樹林を登り、標高2,063m池山のピークを過ぎると明るみ始めた池山御池小屋が見えてくる。
雪は膝下位の深さになり、小屋の手前にひろがる池も雪埋もれて、平らかな雪原の姿になっていた。
あわい陽射の気配に佇む雪原は穏やかに優しい、きれいだなと微笑だ英二に国村が笑いかけた。

「日の出は近いね?そろそろ休憩しよう」
「うん、なんとか目標タイム通りかな?」
「だね。通常タイムの半分弱で来れたけどさ、ま、こんなもんかな?」

夜の紺青が暖色の光に交替していく空の下で、話しながら幾らか雪を除けていく。
雪中にスペースを作ると並んで腰を下ろし、クッカーに火を入れた。
沸きあがってくる湯の音を聴きながら遠望する、明るんでいく空が美しい。
遠くから射す朝いちばんの陽光に頬を温めながら、英二は微笑んだ。

「国村、太陽が生まれるな?」
「うん、今日っていう1日がね、生まれる瞬間だな」

底抜けに明るい目も朝陽に細められて、満足げに微笑んだ。
いま林に囲まれた視界では旭日は見えないけれど、明日は美しい姿が見られるだろう。
それでも朝の陽光の気配が山で感じられるのは気持ちが良い。
インスタント・スープを作って飲みながら、雪の冷気と陽光の熱をふたり楽しんでいた。

飲み終えて温まるとクライマーウォッチは7時半を示している。
積雪が予想より少なかったこともあって、一般的な通常ペースの半分のタイムでこれた。
今朝は3時起きだったけれど疲れもほとんどない。
毎日の訓練と現場経験のおかげだろう、日常の積み重ねに英二は感謝した。

「宮田、体調とかどう?高度2,000だけどさ、」
「いつもどおりだよ。夜間ビバークで救助とかだと気も張るけれど、自由に登るのは楽しいし」
「まあね、山岳レスキューの人間で8,000m峰に行こうってヤツがさ?この程度でへばっていたら話になんないね、」

からり笑って国村が立ち上がると、ぐるり首を歩と回しして北岳方面を遠望した。
英二もザックを背負いあげて立つと、雪をまた簡単に戻してから北岳の方を眺めた。ここからはまだ北岳は見えない。

「この先のさ、ボーコン沢の頭まで行かないと、見えないんだよね」
「うん、雑誌とかで読んだけど、ほんとに見えないんだな」

東面の大岸壁は「バットレス」と呼ばれ、その威容はさまざまな写真で英二も見てきた。
国村の部屋にも額に収められた写真が窓のようだった。あの写真の世界近くに今、もう自分は立っている。
登頂を楽しみにしながら英二は国村と雪のなかを歩き始めた。

池山吊尾根を登り1時間半ほどで砂払いに着くと、森林限界のここは眺望がいきなり開ける。
きれいな富士山の遠望をバックに国村が笑った。

「ここの平地は3張くらい幕営できるんだ、で、今のとこ他にいないからさ?一番いい場所が選べるね」
「うん、今、もう張るんだろ?」

ザックをおろしながら英二は微笑んだ。
その隣に来ると国村もザックをおろし、テントの準備を始めていく。

「そ。俺たちのね、今夜の愛の巣を作るよ?み・や・た、」
「テントは作るけど、愛の巣は作らないよ?」

笑いあいながら手際よくテントを張っていく。
英二はテント泊は初めてになる、けれど青梅署の駐車場や奥多摩の山で、練習は何度か国村としてきた。
緊急時のビバークに備え、降雪や強風の日をわざと選んでも幕営練習を積んである。
おかげで好天の今日は難なくきちんと張り終えられた。
中に入って具合を確かめると、満足げに細い目を笑ませて国村が訊いてきた。

「さてと、時間はまだ昼より前だな?でも腹減ったよなあ、宮田はどう?」
「うん、いいよ。昼飯にしよう?」

素直に頷いた英二に国村は嬉しげに笑って、手際よく昼飯の支度を始めた。
しっかりとした食材を工夫して国村はパッキングしてある、どれも切って調味料と合わせた上でセットされていた。
これらを使って、多めに持参したガスボンベをセットしたコンロで調理をしていく。
ごく手馴れた雰囲気に感心しながら英二は手順を見ていた。

「な?料理できないとさ、こういう縦走でのテント泊で困るんだよね。おまえ、周太にきちんと教わりな?」
「やっぱり必要だよな?…うん、今度から、きちんと手伝うことにするよ」
「そうしな?でさ、たまには周太に手料理くらい、ご馳走してやんなよね。それともさ、俺の愛情手料理で周太、オトしてイイ?」
「ダメ、とかいうのも悔しいよ、俺?とにかく、料理は覚えるな、」

こんな反省と目標を話しているうち、たっぷりの鍋焼きうどんが仕上げられた。
熱い湯気ごとカップにうどんをよそうと、小さなタッパーを国村は開けてくれた。
あわい黄色と赤が散った味噌が綺麗に詰められている、これを箸で器用に掬うと国村はカップに落としこんだ。

「柚子入りの辛味噌だよ、これ入れて食うと旨いんだ」

素直に入れてみると、やさしい柚子の香と唐辛子の熱さが旨い。
覚えのある味の雰囲気に、英二は微笑んだ。

「これ、美代さんが作ったやつ?」
「そ。寒いとき温まるからって持たしてくれてさ、で、宮田?」

お代わりをカップによそいながら、底抜けに明るい目が英二を見た。
なにかな?と微笑かけると英二の顔を見ていた国村はからり笑った。

「あーあ、おまえ?マジ反則だよ、その笑顔。困るねえ」
「なに?どうしたんだよ、国村?」

いったい国村はどうしたのだろう?
友人の様子に首傾げながらも英二は、お代わりのカップに味噌を溶きこんだ。
英二を眺めながら国村もうどんを啜ると、飲み込んでまた口を開いた。

「おまえ、美代は好きか?」
「うん、好きだよ?」

素直に答えて英二は微笑んだ。
箸を動かしながら国村は英二の顔を半分呆れたよう見、すぐ笑って質問した。

「どう好きなんだよ?」
「真面目なとこが好き、って言ってくれたから、かな?」

熱い汁ごと具や麺を啜りこむと腹から温まって気持ち良い。
ほっと息吐いて英二は微笑んだ。

「俺、恋愛で好かれるのは外見ベースばっかりで。いちばんに中身を好きになってくれたのは周太だけだ、って前も話しただろ?」
「うん、聴いたな。心を認めてもらえるとさ、嬉しいよな?ほら、ラスト1杯ずつ食おうよ」

うどんを浚えながら国村も笑ってくれる。
熱い椀を受け取って英二は続けた。

「外見ばかりってさ、寂しいだろ?そういう俺の寂しさを周太、ずっと気にしてくれているんだ。
だから俺を美代さんとデートさせたんだよ。心を見つめて俺を好きになってくれる人が、ちゃんといるって俺に教えたかったんだ、周太」

あの日のことを見つめながら英二は微笑んだ。
きっと周太にとっても一大決心だった。そのことが数日前ブナの木で過ごした時間から今はもう解る。
やさしい哀しい恋人の面影を心にそっと見つめた英二に、純粋無垢な細い目は温かに笑んだ。

「うん、周太らしいな?優しすぎて不器用なんだよね。なあ宮田、あのとき周太、マジへこんでいたって聴いてる?」
「いっぱい拗ねて泣いてくれたって聴いたよ。それもね、うれしかった、俺。隣にいてって求めてもらえて嬉しかった」

熱い椀にゆっくり箸つけながら英二はきれいに笑った。
その笑顔に底抜けに明るい目が、ちょっと困ったよう微笑んだ。

「おまえの心に美代が惚れている、それは解っているんだよな」
「惚れている、ってことはないよ、憧れてはくれているけど。心を見つめて憧れてもらえて、すごく嬉しいよ、」

想ったままを素直に英二は答えた。
そんな英二の貌を熱い湯気の向こうから、珍しく秀麗な貌が困ったように見ている。
困ったままに細い目が見ながら、透明なテノールが尋ねた。

「ふうん、なんで嬉しい?」

「美代さんみたいに地に足着けてるっていうかな?姿勢がいい人に、心を好かれるのは嬉しいよ。
だから俺は美代さんが好きだよ。でも、周太への想いとはまた違う。美代さんは幸せになってほしいって想うよ?
でも周太のことは、俺が周太を幸せにしたいんだ。そうやって、ずっと周太の傍にいたい。毎日笑顔を見て、好きだって言いたい」

率直な想いのまま、きれいな低い声で英二は想いを告げた。
言い終えて、しまったと英二は自分の馬鹿正直に苦笑しながら友人に謝った。

「ごめん、国村。俺ばっか周太を独り占めするようなこと、言ってる」
「うん?別に気にするなよ、俺だってね、隙あらば周太のこと独り占めする気満々だから」

こういう明朗な奪還宣言が国村はいい、恋敵がこの男なことが嬉しくなって英二は笑った。
からり底抜けに明るい目も笑んで、堪らないようテノールの声が愉快に笑いだした。

「あーあ、困ったね?ほんと、おまえ反則だよ?そんな綺麗な笑顔しちゃってさ、」
「そうかな?普通に笑っているだけだよ?」

熱い汁を最後まで呑み終えて、ほっと息吐くと体が温まっている。
きもちいいなと微笑んだ英二に、同じように食べ終えた国村が唇の端をあげた。

「ひとつ教えてやるよ。今は美代、憧れだろうね?でも時間の問題だ、きっと惚れるよ。
美代はさ?着火点がすごく難しいんだよ、惚れ難いんだ。だから俺が、ここまで独占め出来ていたってワケ。
しかも真面目で純情なアノ性格だ?いちど惚れたらね、たぶん梃子でも動かなくなるよ。生涯ずっと愛され続けるだろね、宮田」

たしかに美代にとって初恋は英二だろう。
数だけは多くの女の子と付き合ってきた英二には、美代の有様が解かる。けれど生涯ずっとだなんて?
美代は居心地のいい女性だと想うし、実直な人は好きだ。なにより美代は周太の大切な友達でいる。
そんな美代は大切にしたい。だからこそ途方に暮れてしまう、途惑うまま英二は口を開いた。

「俺は周太と婚約してる、それは美代さんも知ってるはずだ。
俺だって…ずっと想われても、きっと何も応えられない。そんなこと美代さんだったら解っているはずだ、それなのに?」

唇の端をあげたまま、すこし困った顔で国村は笑っている。
ほんと困るよな?細い目で言いながらテノールの声が穏やかに告げた。

「うん、美代はよく解ってるだろね。それでもだ、」

国村は美代の気持ちをよく理解した上で言っている。
ずっと一緒に育った国村と美代はある意味、家族以上の深い理解が互いにあるらしい。
それくらい理解し合える姉代わりの美代を、国村は大切にしていると英二も解かっている。
自分の大切な友人の大事な存在だと解っている、けれど自分は受容れられない。

「…でも俺は美代さんと結婚できない。それなのに、生涯ずっとだなんて、ダメだ、」

出来る事なら美代に考え直してほしい、真実の想いだとしても変えてほしい。
真実の想いなら変えるのは無理だと自分も解っている、自分だって何度も周太を諦めようと努力したから。
けれど、無理だと解っていても、そんな報われない恋は寂しい、どうか止めてほしい。
苦しいまま見つめる先で、困ったままの底抜けに明るい目は温かに笑んだ。

「馬鹿だねえ、おまえ?そんなもんで、人の心が堰き止められるって想ってんのかよ?」

どうしたらいいのだろう?
たしかに美代は周太と同じような空気を持っていて、一緒にいて楽しかった。
それでも自分は必ず周太を選んでしまうと確信が出来る、自分が愛するのは周太1人じゃないから。
この確信に想うありのままを素直に英二は口にした。

「前も国村には話したけどさ…俺、周太だけじゃないんだ。
周太の父さんも母さんも、それぞれに愛しているんだ。俺はね、あの家ごと周太を愛しているんだ。
あの家はね、穏かで静かで温かくってさ。建物も庭も、やさしい想いと気配で充ちていて。ほんと安心するんだ、俺。
家の気配すべてが『のんびり寛ぎなさい』って言ってくれているみたいでね。周太の母さんも、そんな人なんだよ。
だから俺、あの家をずっと守りたいんだ。あの家の人達の、想いも記憶も全部、俺に守らせて欲しいんだ。
だから分籍も決めているし、婚約もしたかったんだ、俺。家族になって『家』と周太を、守る資格と権利が欲しいから」

あの「家」を、周太の両親の想いも大切にしたい、周太を笑顔にしたい。
そのため家族にして欲しいと心から願っている、だから周太が他の人に想いを掛けても婚約破棄したくなかった。
なにがあっても自分は変わらずに「家」を守りたい、英二は微笑んだ。

「俺の生れた家は、俺に良くしてくれたよ。食べ物も服も、本もさ、何不自由なく与えてくれた。
確かに母から俺に向ける愛情は歪だと思う…哀しいけど解かっている。けれど俺には、姉が居てくれたから。
父も今はね、俺と向き合おうってしてくれている。遠慮なく帰って来いっていってくれる、周太にも会いたいって。
でも俺はね、湯原の家に帰りたいんだ。あんなふうに無条件で俺のこと、受けとめてくれる人達と家族になりたい」

家族になりたい。
これが自分の本音、みっともない寂しさだと言われても本心だから仕方ない。
ありのままに英二は綺麗に笑った。

「俺ね、初めて本当に『帰りたい居場所』が見つけられたんだ。
もう俺はね、周太の隣に、湯原の家に帰るって決めているんだ。だから、美代さんとは絶対に結婚できない。
ごめん、国村。俺、おまえの大切な姉さんの、大切な恋を叶えてあげられない…ごめん、国村。こんな俺で、ごめん」

涙ひとつ、英二の頬を伝ってこぼれた。
こんな自分なのに、心から美代は見つめて想いを掛けてくれている。
そういう一途に実直な美代の想いは英二には解る、自分もそういう所があるから。
自分が想いには嘘つけないように、きっと美代も想いに嘘がつけない、それが解かるから苦しい。
けれど、どんなに苦しくても逃げることは、きっと出来ない。だからもう、自分も覚悟を決めるしかないだろう。
いま生まれたばかりの覚悟に微笑んだ英二に、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。

「こんな宮田がね、俺は大好きだよ?困ったことにね。さて、」

困ったねえと目で笑いながら国村は登山図を広げた。
いまきっと互いがそれぞれ困っている。それでも英二はため息ひとつ吐いて、登山図に集中を落としこんだ。
ちいさなミスも山では命取りになる、だから今はボンヤリしている暇は無い。
山ヤのスイッチが入った貌の英二を見て、満足げに国村は口を開いた。

「さて、おまえの訓練と努力のたまものでね、俺たちは予定通りのピッチでココまで登れた。
いま時刻は10時半だ。でさ?ここ砂払いから北岳山頂まで、通常ピッチなら4,5時間ってトコだ。
雪の深度に寄っちゃもっとかかるけどね、俺たちはこの半分が通常タイムだろう。で、宮田?今日この後の予定、どうしたい?」

愉しげに底抜けに明るい目が笑いかけてくる。
当初の登山計画書では、今日はこのまま幕営して明日以降から登頂と縦走になっている。
けれどいま国村が訊いたのは多分「このまま寝るの勿体無いね」との意志表示だろう。
生涯のアンザイレンパートナーとしては、答えはひとつだろうな?
英二は冬富士山頂を目指した時と、同じ回答をした。

「登山計画書の予定変更、県警にメール申請するよ?」

綺麗に笑って答えた英二に、国村が笑った。
明るい目を満足げに細めると、透明なテノールの声は変更後計画を提案し始めた。

「やっぱり俺の可愛いアンザイレンパートナーだね?じゃ、予定変更だ。
今日のうちに北岳登頂しよう。そしたらさ、バットレスで下降と登りの訓練もできるだろ?それくらい体力あるよな、」
「うん、大丈夫。ザックは背負ったままでやるんだろ?」
「当然だね、デポするとか俺達には不要だろ?」

山岳救助の訓練で英二と国村はお互いを背負って登攀・下降をする。
それが日常になっている2人には30Kg程度のザックの重さは問題にならない。
まして、この先に登っていく北壁や8,000m峰ではもっと厳しい条件での登攀もある。
いま立っている条件下で楽をする選択は出来ない、そんな暗黙の了解に満足げに笑んで国村は続けた。

「で、今夜は北岳山荘に幕営するよ、室内幕営でも標高2,900mだ、相当零下の夜が体感できる。
明日の予定は間ノ岳、農鳥岳を縦走して北岳に戻る。そして明日夜にここ泊まろう、今回は天候もイイだろうからイケるね」

言われた通りのルートを英二は携帯からの登山計画書変更届にまとめていく。
そして最後に送信し終えると、英二と国村は素早くテントを収納した。
こんな作業もすっかり英二は手馴れている、一緒に手を動かしながら国村が感心気に頷いた。

「うん、おまえもさ、テントに随分馴れたよな?この数か月でたいしたもんだね、」
「そうか?ありがとう、おまえに言われると自信もてるよ。じゃ、行こうか?」

ザックを太股を使って背負いあげる、こうすると体への負荷がすくない。
冬期雪山登山では水や食料もあるため重量はある、けれど英二と国村にとっては「遭難救助よりずっと楽」となる。
ボーコン沢ノ頭に向かいアイゼンで雪踏みながら国村が訊いてきた。

「宮田、ザックの重さ、どう?」
「うん、こんなもんかな、って感じだけど」

荷重30Kgなら今の英二にはさして重たくは無い。
一般的には重たいだろう、けれど今の英二からすれば普段の訓練で背負う国村の体重の半分も無い。
感じたまま応えた英二に国村は愉しげに笑った。

「おまえ、現場でも大抵は救助者背負って歩いてるもんね。冬富士でも男を背負っていたけどさ?あいつ、65Kgはあったろ」
「そうだな、身長も175cm位あったもんな、あのひと」

1ヶ月前の冬富士訓練で遭遇した救助者の顔に英二は笑った。
自分達とさして年も違わない若い男だった、きっと彼も雪山の練習をしている事だろう。
いま歩く雪の尾根道からは富士山が美しい山容を魅せて、あの日に佇んだホワイトアウトと雪崩は異界の出来事にも思える。
あの雪崩は危険だった、けれど英二には富士の神に逢えたのだと想えてしまう。
登山グローブの指でそっと頬の傷痕を撫でた英二に、愉しげに国村が質問した。

「宮田ってさ、山の経験ほとんど無かったろ?そのわりにはパワーは卒配の最初からあるよね、どこで鍛えた?」

質問に想い出される記憶が懐かしい。
あのときは今のような幸せが与えられるとは夢にも思わなかった。
雪の尾根に目立ち始めたハイマツを眺めながら、記憶に微笑んで英二は答えた。

「警察学校の寮とかでさ、いつも周太を背負わせてもらっていたんだ」
「ああ、山岳訓練で周太怪我したときの話か、治った後も背負っていたのか?」
「うん。周太だと55Kgも無いんだけど、人を背負うことには慣れられて良かったんだ。…あ、国村?」

白銀の雪上に大きなケルンが積み上げられている。
たぶんここがそうかな?隣を見ると底抜けに明るい目が笑った。

「うん、ボーコン沢ノ頭だね。早くあそこに立とうよ、宮田」

すこしピッチを上げて立ったそこは、ひろやかな空と山嶺の世界だった。
右手には鳳凰三山が雪の尾根筋あざやかに青空の下ひろがっていく。
そして左手には白峰三山、農鳥岳・間ノ岳に北岳の威容が白銀に輝いていた。

「…きれいだ、」

連なり波寄せるような雪山の銀嶺が美しい。
吹きよす風は冷たく塊のように強い、けれど南アルプスの秀麗な姿に英二は見惚れた。
いま目前に聳える北岳バットレスは青空を従え佇んで、別称「哲人」にふさわしい高潔な輝きを魅せた。
ほんとうに綺麗だな、なんども写真で見て憧れていた「哲人」に英二は微笑んだ。

「あそこに、本当に立ちに行くんだな?」
「そうだよ、宮田。目標タイム1時間でいくよ?正午には三角点タッチと行きたいね、」

からり笑うと国村は「ほら行くよ?」と雪にアイゼンを踏み出した。
標高2,802mボーコン沢ノ頭を超えていくと、次のピークも大らかなドーム状山頂になる。
これを過ぎて八本歯ノ頭の頂上に至る一段手前にケルン型遭難碑があった。
通り過ぎながらも心裡そっと、安らかな山の眠りを英二は祈った。

…でも、俺は、遭難死はしない

どんな山からも、自分は必ず帰る。
自分のアンザイレンパートナーを援け、無事に山に登る自由を守ってみせる。
ずっと最高峰に、山頂に、この最高のクライマーで一番の友人と笑っていけたらいい。
そして愛するひとの隣に帰って「ただいま」をずっと言いつづけたい。
心に抱いている「絶対の約束」に微笑んで英二は八本歯のコルを慎重に降った。

コルからは岩稜を梯子を伝って登っていく。
柱の欄干にすこし触れてみると凍れる冷たさがグローブ越しに感じた。
この厳冬期の北岳は小屋内でも零下20度になる、いま日中とはいえ気温の低さが肌感覚に知らされる。
ネックゲイターの影に埋めた口許の吐く息が凍るように感じていく。

「うん、ちょっと風が強いな?ここから尾根がぐっと痩せてくるし、念のためアンザイレンしていこう」

サングラスの奥から細い目が提案してくれる。
北岳は北西風は山自体が屏風になって防いでくれる、それでも標高3,000m峰の風は重たい。
突風に気をつけながら互いの体をザイルで繋ぎとめあうと、山頂へ昇っていく稜線に踏み出した。





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第36話 春淡act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-19 23:55:49 | 陽はまた昇るanother,side story
運命、さだめられたもの




第36話 春淡act.5―another,side story「陽はまた昇る」

おだやかな陽射しふる雪の森で、英二はココアとホットサンドを作ってくれた。
クッカーを使う手つきもすっかり慣れて、手際よく作ってくれる。
簡単な昼食だけれど籠められた温かさが嬉しくて、ひと口ずつが周太には宝物だった。
大きなブナの梢を見あげながら幸せな昼食を摂り終えると周太は質問をした。

「ね、英二?英二はどうして雪山は竜だって、感じたの?」

ブナの林を歩きながら話していた「雪山が白銀の竜が眠るように想う」こと。
さっきこのブナの巨樹を見た瞬間に、ブナに気を取られて自分はまた他をすっかり忘れてしまった。
どうして自分はいつも、他を落っことすように何か一つにしか集中できないのだろう?
こんな子供っぽさは恥ずかしい、熱くなりそうな頬を片掌で撫でながら見つめた先で、英二は笑って答えてくれた。

「うん、山ってね、啼くんだよ」
「山が啼く?」

どういうことだろう?
不思議で首傾げた周太に、綺麗な低い声が教えてくれた。

「風が林や森を吹き抜けるとね、木々が音をだすんだ。それが俺にはね、竜が啼いているように感じるんだ」

―…銀の龍の背。そんなふうに言うひともいるよ?ほんとにさ、山って竜が眠っているようにも、見える
 …ん、木を風が駆ける音かな?…竜がね、吼える声ってこんなかな…?
 …梢を風が駆ける音だ。木の種類によっても音は違う

光一が英二を酒で眠らせた夜、光一に連れられて行った雪山で見つめた白銀の山嶺。
あのときに光一が言ったことと同じことを教えてくれながら、英二は「山が啼く」と言っている。
あのとき自分も木々の風音を、竜が吼える声のようだと思った。
同じように英二も感じてくれている?こんな同じが嬉しくなって周太は微笑んだ。

「ん、…俺もね、竜が吼えているみたい、って想うよ?」
「周太も想うんだ、同じだな?」

きれいな笑顔が嬉しそうに咲いてくれる。
こんな「同じ」を英二も喜んでくれる?嬉しいなと見つめた先で、すこし首筋を赤らめて英二は言葉を続けた。

「あとはね、…雪崩を見た時に、想ったんだ」

あの冬富士の雪崩のことだ。
あの雪崩にまつわる哀しい記憶が心に起きあがってしまう、周太は1つ息を呑んで記憶を治めこもうとした。
そんな周太を頼もしい腕が優しく包んで、そっと温もりに抱きとってくれた。

「ごめん、周太。…嫌なこと、想い出させたね?」

ほら、すぐ気付いてしまう、そして温めてくれる。
こんな「すぐ」に安らいで周太は、わがままを言った。

「ん、…ほんとにごめんって想うんなら、…きすしてよ」

わがまま言いながら恥ずかしい、頬が熱くなってくる。
でも言うこと聴いて?そう見上げた先で幸せな笑顔が咲いて、やさしいキスを贈ってくれた。
ふれる温もりの穏やかさに微笑んで、幸せに周太は笑った。

「ね、英二?雪崩を見たとき、どう想ったの?…教えて?」

このひとが感じたことを自分も共有したい。
そんな細やかな願いを見つめた先で、端正な唇が微笑んでくれた。

「初めにね、感覚の底で『来る』って想ったんだ。
それから登山靴の底を沸くように地響きが叫びをあげ始めた。それがね、大きな動物の足音の響きみたいだった」

穏かな冬の陽ざしのなか、やさしく周太を抱きしめてくれる。
温かな懐に包んでくれたまま、静かに英二は冬富士の記憶を紡いでくれた。

「迫ってくる轟音がホワイトアウトの底で吼えるのが、ほんとうに竜の吼え声のようでさ。
氷と雪の粒が体中を叩きながら…空気の塊が押し寄せるのはね、大きな動物がすり寄ってくるようだった。
氷の割れる音は、牙を噛み鳴らす音に聴こえたよ。雪が斜面を飲みこむ音は、空気を吸い込む大きな呼吸。
あのとき富士の山は、誇り高らかに吼えあげていた。ほんとうにね、白銀の竜が咆哮する響きが、全身を貫いたんだ」

白銀の竜が眠っている、そう自分は雪の山を見ていた。
けれど英二は、その竜が起きあがった暴威のなかに佇んだ。
その記憶に語られる光景が冷たい氷になって不安を産んでしまう、思わず広い胸にしがみついて周太は見上げた。

「…そんなところに、立っていたの?」
「うん、そんなところにね、立会ってきたよ?人間は小さいな、って心から肚の底から想えた」

なんでもない顔で英二はきれいに笑った。
どうして、そんなふうに笑えるの?そう見つめた先で英二は楽しげに想いを口にした。

「ね、周太?あの雪崩の姿を想い出すと不思議な気持ちになるんだ。
たしかに、あの雪崩で俺も国村も危険に晒された。けれどそれ以上に俺はね、山の神様に会えたんだって想えるんだ。
あのとき本物の竜に会えた、そんなふうに想えてしかたない。だから俺はね、やっぱり雪山に立ちたいって想ってしまうんだ」

話してくれる綺麗な笑顔の頬に、冬の陽がひとすじの細い線を透かして見せる。
この細い線は雪崩に跳んだ、最高峰の氷が裂いて刻みつけた傷の痕だった。
この傷がまだ生傷だったとき、まるで誓約の証の様に見えて哀しかった。
この傷が「最高峰に生きる運命に立つ」そんな契約の聖痕のようだと思ってしまった。

…やっぱりこの傷は、最高峰の運命の聖痕なの?

もう英二はクライマーとして任官してしまった。
最高のクライマーである光一と生涯を共に最高峰へ登ることが公式文書にも記されてしまった。
そんな英二は雪崩にも「山の神さまである竜」を見つめて憧れている。

「…英二、」

名前を呼んで周太は、そっと指を伸ばして英二の頬の傷にふれた。
ふれても傷の場所はわからない、それなのに陽光あざやかに傷痕はうかんでいる。
この傷痕の意味を、どういってあげることが英二は嬉しいだろう?そっと周太は微笑んだ。

「この傷痕はね、…最高峰の竜が、英二が山で生きられるようにって、つけてくれた、お守りだね?」

この頬を裂いた最高峰の氷は、白銀の竜の爪。
この美しい山ヤを、自分の元へと惹きよせるために刻んだ聖痕。
ようやく自分の「山」の運命に目覚めたばかりの美しい山ヤを、惹きよせ愛でる為に刻んだ護符。

…きっと、そう…英二なら、山の神さまにだって、竜にだって愛される、

「ほんと?周太。そう思ってくれる?」

綺麗な低い声で訊いてくれながら、うれしそうに英二が微笑んでくれる。
きっとそうだろう、哀しみと畏敬と、そして愛するひとへの祝福に周太は微笑んだ。

「ん、ほんとう。きっとね、英二は『山』に愛されてるよ?」

どうかお願い、山よ、この人の立つ道に祝福をしてください。
どうかお願い、ブナの木、この人の願いを受けとめ抱いていて?
そして無事にずっと山に登る自由を贈ってあげてほしい、祈りのなか周太はきれいに笑った。

「英二、北岳の話も、また聴かせてね?」

もうすぐ英二はこの国の第二峰へと立ちに行く。
どうかその道にも幸せな山ヤの時間が待っていますように。
祈りに見上げた先で英二は綺麗に笑ってくれた。

「うん、聴いてほしいよ、周太?必ず隣に帰るよ。北岳からそのまま川崎の家に帰るから、待ってて?」

やさしい綺麗な笑顔が幸せに見つめてくれる。
この笑顔をずっと見つめていけたら?そんな想いに周太は心から笑いかけた。

「ん、帰ってきて?ごはん作って、待ってるから…英二?」

どうかこの笑顔が無事で帰って来ますように。
祈りと願いを込めて周太は、そっと愛するひとへキスを贈った。



翌日の英二は勤務日だった。
ほんとうは一緒に御岳山の巡回に行きたいな?そう思ったけれど周太は我慢することにした。
この間の日曜に来た時に、自分がつい雪道を走ったせいで英二は怪我をしてしまった。
あんなふうに自分がまた冷静さを落っことして、怪我をさせたくない。
このすぐあとに英二は北岳の登山が予定されている、万が一にも怪我をするようなことは避けたかった。

「おはよう、周太…今朝もきれいだね、俺の花嫁さん?」

朝、温かな懐の目覚めに微笑んだとき、穏やかな切長い目が優しく笑いかけてくれた。
きれいな幸せな笑顔が嬉しくて、幸せで、やっぱりもう、自分は独りで立てないと思い知らされた。
この優しい幸せな時が欠片も無くなってしまったら、なにを自分の生きる理由に出来るのだろう?
そんな想いが尚更に、足手まといになることは避けたい願いになって、御岳山巡回の同行は言えなかった。
それでも見送る朝は寂しくて、部屋から出ていく背中を見送るのはため息が出た。

…でも、勤務が終わったら、またここに英二は帰ってきてくれる

朝、部屋の扉が閉められた瞬間から「あと何時間で英二に逢える?」とカウントダウンが始まった。
けれど、今夜を一緒に過ごしたら、明日には新宿へ戻らなくてはいけない。
早く夜になって逢えたらいいのに、けれど明日は来てほしくない。
そんな矛盾を抱いたまま周太は英二を見送った。

「行ってらっしゃい、英二?…あの、ゆうはんはどうしたい?」
「ここで、ふたりで食べたいな?周太が嫌じゃなかったら」

綺麗な低い声が、あまやかな約束をねだってくれる。
うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、…仕度しておくね?なに食べたい?」
「そうだな、ゆっくり周太と楽しめるものが良いな、酒の肴みたいなのかな?」
「ん。わかった、」

駅に併設された食品街に夕方は行こうかな?
そう考え込みかけた周太に、綺麗な笑顔が笑いかけてくれた。

「ね、周太?夕飯どうしたいなんてさ、ほんとに嫁さんみたいだね?うれしいよ、」

綺麗に幸せな笑顔が目の前で咲いてくれる。
気恥ずかしいけれど、素直な幸せに周太は微笑んだ。

「ん、…英二、今日も気をつけてね?」
「ありがとう、周太。今日は国村とのデート、楽しんできて?それで楽しかった話を聞かせてほしいな、必ず帰るから…」

やさしいキスが周太の唇にふれて「行ってきます」と告げてくれた。
そんな優しい穏やかなキスと想いをのこして、英二は部屋の扉を開いて1日の業務に向かった。

…さびしい、な。英二…

独りになった部屋はひどく広くて。
父の書斎から持って来た山行録の本を開いても、英二と一緒に読むときより楽しくない。
元々ひとりっこの周太は、ひとりの時間を楽しむことが好きでいる。
それなのに、今朝は全く楽しくない。

…どうしちゃったのかな、活字が頭に入らないなんて

こんなにも独りが楽しめないなんて?
こんなことは今までになかった。だからもう楽しめない原因は何か?なんてすぐ解ってしまう。
こんな自分を持て余して周太はソファのクッションを抱え込んだ。

…やっぱり、巡回に行きたいって、わがまま言えばよかった…

今更もう遅いのに?
邪魔したくないと自分で決めたのに?
こんな自分の弱さもわがままも哀しい、困惑ばかりが心身を支配していく。
ぼんやり周太はクッション抱えて、白銀の山波が映る窓を眺めていた。

「そろそろ目を覚ましてほしいな?俺の眠り姫さん、」

透明なテノールの笑い声と、耳元にふれる温もりに周太の瞳が披いた。
驚いて見上げると、雪白の貌が愉しげに笑って覗きこんでくれる。
クッションを抱えたまま、自分はソファに眠りこんでいたらしい。
いつのまに自分は眠っていたのだろう?
それに、いつのまにこんな至近距離に来ていたの?困惑に驚いたまま周太は尋ねた。

「光一?…いつから、ここに居たの?」
「20分位前かな?あんまり寝顔が可愛いからさ、つい見惚れてたよ?」

白いミリタリーマウンテンコート姿が周太に被さるよう見おろしている。
ソファに横たわってクッション抱え込みながら、そっと周太はお願いした。

「ん、…はずかしくなるよ?起きるから…ちょっと、どいて?」
「嫌だね、」

あっさり断られて周太は驚いて見上げた。
そんな驚いた顔を底抜けに明るい目が覗きこんで、愉しげ笑った。

「驚いた顔も可愛いね?さ、起きてよ周太?今日はさ、俺が一日ずっと独り占めできるんだからね」

告げながら光一は周太を抱きおこすとソファから立たせてくれた。
なんだか呆然としてしまうな?途惑いながらも周太は、渡されたダッフルコートを素直にはおった。
登山靴を履いてビジネスホテルのフロントから外へ出ると、ゆるやかに雪嶺から吹く風はどこか清々しい。
御岳山も雪が残っているだろう、登山道のコンディションはどうなのだろう?

…今日も一日、英二が無事でありますように

見あげた稜線に心裡でそっと祈りながら周太は四駆の扉を開いた。
光一の四駆に乗ってシートベルトを締めると、運転席から底抜けに明るい目が愉しげに微笑んだ。

「さて、ドリアード?今日はね、ちょっと連れて行きたいとこあるんだけど。でも、リクエストあらば仰せのままに?」

心から楽しげに雪白の貌が笑いかけてくれる。
こんなに光一は楽しそうなのに、自分はつい英二のことを考えてしまう。つきんと胸刺す痛みに微笑んで周太は答えた。

「ん、…夕方までに戻ってこれるなら、いいよ?ね、光一、どこに連れて行ってくれる?」
「夕方ね、宮田の勤務が終わる前ってことか。了解だよ、で、どこかはついてのお楽しみね」

からり笑って光一はエンジンキーを回した。


助手席の扉を開いて一歩降りると、さくり粉雪が登山靴をくるんでいく。
やわらかな雪を踏んで見上げるむこうには、雄渾な冬富士が青空を従え佇んでいた。
午前中の陽光ふる山頂が白銀にまばゆい、すぐ目前ひろやかな雪氷が現実感に迫ってくる。
いつも遠望する富士山の優美な姿とまた違う、猛々しさ秘めた荘厳の気配が肌感覚に響いた。

―…富士の山は、誇り高らかに吼えあげていた…白銀の竜が咆哮する響きが、全身を貫いたんだ
 本物の竜に会えた、そんなふうに想えてしかたない…やっぱり雪山に立ちたいって想ってしまうんだ

昨日ブナの木の前で英二が話してくれた冬富士の雪崩に見つめた竜の姿。
いま見つめている白く青く裾ひいた大きな姿に、英二が話してくれた言葉が実態を持って顕れだす。
これが、英二が言っていた白銀の竜が棲む山。呼吸忘れたようにただ周太は冬富士を見ていた。

「周太、富士山は初めて?」

透明なテノールに話しかけられて周太は振り向いた。
底抜けに明るい目が温かに笑んで見つめてくれる、ちいさく笑って周太は答えた。

「ん、小学校2年生の夏休みに、父と登った事がある…でも、冬は初めて、」
「そっか。夏とね、冬は全然見た目も違うだろ?」
「ん…すごいね、」

素直に頷きながら見上げる周太の頬を、峰から吹きおろす雪風がさあっと撫でていく。
その風に、白い花びらが舞いふるのを太陽の光が輝かせた。

「…きれい、」

ため息にこぼれた言葉と微笑んだ周太の前に、しずかに雪の花びらが舞いおりる。
そっと掌で受け留めると、白い花は掌のうえ陽光に輝きながら、ゆるやかに雫へと還っていく。
隣から周太の掌を覗きこみながら、楽しそうに笑って光一が口を開いた。

「富士の風花だね、」
「富士山の、風花?」
「うん。冬富士はね、突風がすごいだろ?あの風に飛ばされた雪が風花になるんだ」

冬富士から飛んできた雪の花。
いま掌に融けていく風花に周太は微笑んだ。

「ん、…最高峰の雪の、風花だね?」
「そうだよ、きれいだよね、」

風花ふる富士の風のなか、白いミリタリーマウンテンコートが翻っていく。
愉しげな足取りで駐車場の雪面を歩きながら、光一は最高峰の風花と遊ぶように空を見あげた。

「想ったとおり、よく降ってくれるね?これ、光の花みたいだろ。見せたかったんだ、周太に」

透明なテノールが歌うように楽しげに周太を振向いてくれる。
青空にふる光輝く雪の花のなか、雪白の秀麗な顔は幸せに笑っていた。

「ほんとはね、最高峰の景色を見せてあげたいよ?でもね、冬富士はエベレスト6,000m級の気象条件になるから」
「エベレスト6,000m級?」

風花ふるなか、真白な裾ひるがえす長身の姿に周太は訊きかえした。
富士山は標高3,776m、それでも冬富士はエベレスト並と呼ばれることは周太も知っている。
けれど6,000m級だなんて?驚きに見つめる先、ふりそそぐ光の雪に愉しげに笑いながら光一は口を開いた。

「そ、6,000m級だ。気圧は標高4,000mに該当する、固く締る雪は鏡面状態の場所もある。
厳冬期の穂高や剣よりはマシだろ、って思う人も多いけどね?現実には同レベルの危険度だよ、突風がなにせ危険だから」

いま立っている駐車場にも、ときおり強い風が吹きつけてくる。
マフラーをきちんと結び直しながら周太は光一の話を聴いた。

「富士山は周りに同レベルに高い山が無い、いわゆる孤立峰だ。
だから冬は季節風の北西風を猛烈にくらう。で、いちばん過酷な時は風速80m/s、気温は零下40℃になる。
もろな突風に遭ってさ、アイゼンとピッケルを氷に打ち込んで俯せたまんま、何時間も動けないこともある。これが冬富士、」

風速80m/s、零下40℃。
過酷な冬富士の実態に、周太はちいさく息を呑んだ。

「…そんなに、すごい風なんだね?」
「まあね。風って言うよりさ、空気の塊がドンってぶつかる感じかな?」

英二が話してくれた「雪崩のとき」と似ているのだろうか?
きらめく風花に透かす真白な長身の姿に周太は訊いてみた。

「英二はね、雪崩のとき、空気の塊が押し寄せるのが『大きな動物がすり寄ってくるようだった』って…そんな感じに風も?」
「ああ、良い表現だね?まさにそんな感じだよ…ふうん、宮田ってさ、やっぱり文才あるね?」

底抜けに明るい目が愉快に喜んで、舞いふる風花に掌をさしのべた。
大空にむけた繊細な白い指の掌に、ふわり一片の風花が舞いおりてくる。
そっと手中におさめた雪のかけらに微笑んで、光一は周太を見つめた。

「周太、俺のドリアード。最高峰の雪を君に贈るよ?」

きれいに笑いながら、周太の掌を取ると風花の掌に重ねあわせた。
透明な冷たさが掌ゆるく融けていく、そのまま掌を繋ぐと光一は幸せに笑った。

「この国の最高峰を支配する竜の涙だ。いま、君の掌に融けこんだよ」

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

昨日、ブナの木に聴いてもらった廻り続ける「自分の掌」への疑問たち。
この「掌の疑問」を光一は気がついているのだろうか?
隣に佇む純粋無垢に真直ぐな目を周太は見つめた。

「教えて?…最高峰の竜の涙が融けこんだ掌は、どうなるの?」

英二の頬に「山ヤの護符」聖痕を刻んだのは氷のフリした最高峰の竜の爪。
それなら最高峰の雪は、竜の涙は、この掌に何を残してくれるのだろう?
いま隣に佇む山の申し子と呼ばれる人は、なんて答えるのだろう?
どうか教えて?見つめる想いの真ん中で、底抜けに明るい目は温かく笑んだ。

「不可侵の純粋。それから、生命と尊厳の守り手になる」

どうして?
光一はこの掌がこの先に染める罪を知っている。
それなのに、こんなことをなぜ言えるのだろう?
どうして光一?哀しい疑問のまま周太は口を開いた。

「ね、光一?きっと俺の掌はね、任務のために罪を犯すことになるよ?
任務だから合法的には許される。けれど…山の掟では赦されない、でしょう?…なのに純粋って、どうして守り手って言える?」

「言えるよ?決まっているからね、」

からり笑って光一は即答した。
大らかに周太に笑いかけながら、繋いでいない方の掌も天に向けて風花ひとつ受けとめる。
ひとつの雪の涙を載せたまま光一は、もう片方の周太の掌に重ねて繋いだ。

「ドリアード、君はね?絶対に罪には堕ちない。どんな場所に立っても、君は純粋なままだ。そう約束するよ?」
「…どうして、そんなことが言えるの?」

ふたつの掌に最高峰の雪を融かされながら、周太は山の申し子を見つめた。
いつものように山っ子は愉しげな笑顔で、透明なテノールに想いを謳いあげた。

「だってね、周太?君を守るのは、俺と宮田だ。俺たち二人一緒ならね、マジで何でも出来るんだよ。
で、俺たちはね?君が大好きで、やさしい君の掌が大好きなんだ。だから絶対に守るよ?そう決まっているからね、大丈夫」

底抜けに明るい自信が周太をくるんで笑っている。
この明るい目を見ていると、何でも明るい方へと向かうような気持ちになってしまう。
たくさんの勇気と約束を昨日は英二から受け取った、だから今も明るい勇気に立っていたい。微笑に周太は頷いた。

「ん、ありがとう、光一?…竜の涙の御守り、大切にするね」
「うん、大切にしな?」

きれいに笑って光一は、繋いだ両掌を捧げるよう少し見つめた。
見つめる視線が惹くよう唇をよせると、ふわり周太の手の甲にキスの温もりが刻まれた。

「…っ、こういち?」
「これはね、周太?山っ子からの御守りだよ、きっとスゴイ効き目があるね?」

不意を見つめた周太の視線先、細い目が悪戯っ子に笑ってくれる。
ほら驚いたね?うれしげな明るい笑顔が咲きながら、そのまま周太の耳元にもキスをした。

「…っ、」

ふれられた所に熱が生まれる、首筋から熱が昇って顔が熱くなってしまう。
やっぱり馴れない困ってしまう?けれど両掌を繋がれて、真赤になっても逃げることも出来ない。
こういうのは英二なら恥ずかしくても大丈夫なのに?
赤い顔も他ごとも恥ずかしくて俯いたとき、愉しげにテノールの声が訊いてきた。

「で、さ?あいつの頬っぺた、君も気付いたろ?」

繋がれた右掌だけは解放してくれながら、左掌はマウンテンコートのポケットにしまわれた。
やっぱり手は繋ぐんだな?なんだか気恥ずかしくて困りながらも、周太は質問に答えた。

「ん、…陽に透けると、見える傷痕のこと?」
「そ、アレのこと、」

頷いて心底から愉しそうに無垢な目が笑っている。
繋いだ掌を繊細な指にくるんでくれながら、光一は教えてくれた。

「あの傷痕はさ、竜の爪痕だろね?君の掌にとけた涙とは、対なカンジだろ?」
「ん、そうだね?…あ、」

そのために光一は周太の掌に風花を贈ってくれたのだろうか?
英二の頬と揃えられたような掌に、励ましを贈ってくれている?

…英二への想いを知っているから、こんなふうに、お揃いにしてくれた?

どうしていつもこうなのだろう?
どうして光一はいつも、ただ周太の想いを大切にしようとしてくれる?
ほんとうは光一にも願っていることがある、それでも敢えて周太の英二の向ける愛を大切にしてくれる。
こんなにも無垢にやさしい人に、自分は今なにを応えたらいいのだろう?ささやかな祈りと願いに周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう…俺ね、自分の掌を大切にするね?光一、」

きっとこの先に自分が立つのは、暗く穢れにも充ちた哀しみの底。
ただ任務に生きる誇りだけが尊ばれるために、個人の涙と尊厳には目を背けさせられる。
それでも自分は、どこに立っても必ず、この自分の掌を信じたい。

いま立っている最高峰の麓に広がる森の梢には、青木樹医が贈ってくれた言葉を想いたい。
自分が彼の掌を救った事実には「生命の一環を救った真実」がある、この自分の掌は尊い樹医の掌を救うことが出来た。

いま心に映る大いなるブナの木には、英二が心からの愛と告げてくれた想いがふれてくる。
なにがあっても自分は変わらない。子供じみた自分だけれど、英二が愛してくれる純粋も無垢も、きっと勁い。

いま見上げている雄渾な冬富士の霊峰に、光一に与えられた「山」おくる護符が掌に温かい。
この掌には愛するひとと対になる守りが融けこんだ、この想いと温もりはきっと自分の心ごと温めてくれる。

…だから、自分は大丈夫

いまこの時、冬富士に自分は勁い誓いを見つめよう。
この最高峰からふる風花に、白銀かがやく山の神おくる祝福が、自分にも与えられたと信じたい。
そうして勇気ひとつと勁い心を抱いて、どこにいても真直ぐ運命に生き抜きたい。
大らかな想いと雄大な山姿に微笑んで、周太はきれいに笑った。

「ね、光一?俺はね、最高峰に登ることは難しいね?…でも、俺だけにしか歩けない道でなら、最高峰を目指せるかもしれないね?」
「うん、当然だね、」

底抜けに明るい目が笑って頷いてくれる。
きらめく雪のかけら透かして、秀麗な貌が愉しげに言ってくれた。

「周太には、周太にしか出来ないことがある。君の掌はその為に使われるって、決まっているね。
だから大丈夫、君の掌は決して、罪に穢れることは無い。これはね、人間がどうこう出来ないよ?もう決まっているからね、」

光一はいつも笑顔で、こういうことを言う。
愉快気な笑顔だけれど内容は自信に満ちて、きっぱりと話してしまう
こんなひとが自分の初恋相手なのも不思議だ、そして何故か信じていいと思える。
自分を廻る不思議を見つめながら周太は微笑んだ。

「ん、決ってるんだね…信じるよ?」

きっと、父の軌跡を辿り終えることが出来る。
そして自分の道に辿り着いて自分の「最高峰」に立ちに行く。
そうして自分も相手の想いを受けとめ温められるほど、心の広い大きいひとになりたい。

…きっと、自分の掌には出来るはず、そう信じよう

生まれたばかりの自分への信頼に、きれいに周太は微笑んだ。



夜19時に英二は周太の隣に帰ってきてくれた。
青梅署独身寮で着替と風呂を済ませたきた英二に、周太はすこしだけ拗ねた。

「どうして風呂済ませてきたの?…ここで入ってくれたら、もっと、早く逢えたのに」
「ごめんね、周太?着替えてくる方が荷物が無くて楽だな、って思っちゃったんだ。それに、国村に掴まってさ、」
「ん、…光一に?」

さり気なく周太は光一を名前で呼んだ。
最初は「ふたりだけの時に名前で呼んで」と光一に言われていた。
けれど、こういうことも英二には内緒にしたくない。今日これを光一に訊いてみたら「いいよ、」とあっさり許可してくれた。
どんなふうに英二は反応してくれるのかな?そう見上げた切長い目は大らかに微笑んだ。

「名前で呼ぶことにしたんだってね、周太?」
「もう、聴いたの?」

ふたりはこの話をもうしたんだ?
こんな素早い情報共有に少し驚きながら尋ねた周太に、綺麗な低い声が教えてくれた。

「うん、さっきね。俺が御岳駐在から戻ってきた所を、あいつに掴まえられたんだ。
でね、風呂につきあえって連れ込まれて、今日のデートの話を聴かされたよ。遅くなってごめんね、周太。待たせちゃったかな、」

今日の話をきちんと光一はしてくれた。
先に話が通っているなら周太も遠慮なく英二に話しやすい、こんな配慮が光一は細やかだ。
ありがたいなと思いながらも、わがままに周太は微笑んだ。

「ん、待ったよ?でも、仕方ないから許してあげる…ね、ごはん食べたいな?」
「ありがとう。ね、周太?拗ねてもらえて嬉しいよ?」

愉しげに笑いながら英二は、やさしいキスで額にふれてくれた。
こんなの嬉しい、けど気恥ずかしいな?赤くなる額を気にしながら周太は仕度しておいた夕食の皿を出した。
サイドテーブルに並べた皿には、カッティングした野菜を使ったオードブルがある。
11月に雲取山へ登ったとき、周太はトラベルナイフで同じように食事の支度をした。
あのとき喜んでくれたのが嬉しくて今日も同じように作ってみた。
前より量は多めに仕度したけれど、喜んでもらえるかな?そう見上げた先で幸せそうな笑顔が咲いてくれた。

「周太、作ってくれたんだね?ありがとう、」
「ん…切って並べただけで、悪いのだけど。でもね、…あいじょうはこめたつもりだから」

最後はやっぱり恥ずかしい、でも正直に言おうって自分は決めた。
それでお熱い頬を撫でていると、きれいな笑顔が周太の目の前で華やいだ。

「愛情を、って…ちょっと嬉しすぎて困るよ、周太?」

こんなに喜んでもらえてる?嬉しくて赤い顔のまま周太は微笑んだ。
やっぱり正直に言って良かった。だから今日、冬富士に想ったことも英二に聴いてもらいたい。
缶ビールを英二に渡しながら周太は、きれいに笑って正直な想いを話し始めた。

「あのね、英二?俺の掌にね、最高峰の竜が御守りをくれたんだ…英二と、お揃いだよ?」




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第36話 春淡act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-18 22:48:45 | 陽はまた昇るanother,side story
※念のため冒頭部だけR18(露骨な表現は一切ありません)

ふれて、かさねられる記憶



第36話 春淡act.4―another,side story「陽はまた昇る」

ゆるやかに頬ふれる陽光に周太は瞳を披いた。
目覚めていく体には昨夜の幸せが、素肌いっぱいに残されて温かい。
白いシーツとリネンと、白皙の肌にうずもれている自分の体が気恥ずかしい。
けれど、気恥ずかしさ以上に幸せに身をゆだねながら、微笑んで周太は瞳をあげた。

「ん、…おはようございます?…あの…俺の、花婿さん?」
「おはよう、周太。俺の花嫁さん、」

きれいな笑顔が幸せに咲いて、やさしい朝のキスを贈ってくれる。
穏かで優しいキスが温かで幸せな想い充たしてくれる、幸せに微笑んで周太は腕を伸ばし白皙の肢体に寄りそった。

「ん、…うれしい、英二?ね…可愛いの?」
「うん、いちばん可愛いよ?だから、ね、周太?…そんなにくっつくと、困るよ?」

困ったような微笑みが綺麗に咲いて、周太の瞳を見つめ返してくれる。
どうして困るのだろう?こうして寄り添うことが幸せで止めたくなくて、周太はわがままを言った。

「どうして困るの?くっつきたいのに…ね、英二?昨夜みたいに、俺のこと…おふろにいれて?」
「昨夜みたいに?」

気恥ずかしいけれど、昨夜の幸せな記憶のまま周太はおねだりした。
昨夜は、光一が作った驚異的なアルコール度数の日本酒を誤って飲んで、すっかり周太は酔っぱらって眠りこんだ。
けれど23時前には気がつけて、酔いは幾らか残っていたけれど英二の手助けで風呂を済ませることが出来た。
そのとき見た英二の肌が湯気に上気して綺麗で、つい見惚れてしまいながら幸せな時間を過ごした。

…また見たい、なんて…ちょっと言えない、けど、

はだかをみたいなんてじぶんもえっちなんだ。

そんな自覚が余計に首筋も顔も真赤に熱で染めあがる。
いくら恋人で婚約者とは言え、こんな「おねだり」はさすがにストレートには言い難い。
けれどきっと英二は断れないはず?気恥ずかしさに頬熱くしながら周太は英二を見つめた。

「そう…ね、英二?言うこと聴いて、愛してるんでしょ?…どれいなら逆らえない、でしょ?」

恋の奴隷だよ?そう何度も囁きながら英二は、昨夜も周太を体ごと愛してくれた。
奴隷なら言うこと聴くんでしょ?ねだる誘惑をかけたい想いに、抗わず身を任せて周太は英二に寄りそった。
ほら、言うこと聴いて?微笑んで見上げた端正な顔の頬が、すうっと綺麗な紅いろに染めあげられていく。
そろそろきっと頷いてくれる?そう見つめた先で照れたように英二が微笑んでくれた。

「うん。逆らえないよ?…おいで、周太?」

長い腕が体にまわされて、そっと宝物のように抱き上げてくれる。
額に額をくっつけて幸せに微笑むと、そのまま立ち上がって浴室へと英二は連れて行ってくれた。
こんなに自分が大胆になるなんて?自分自身の言動に途惑って呆れて、ほんとうは心底から恥ずかしい。
けれどもう、わがままに正直に求めて、こんな今の自分のすべてを曝け出していたいと思ってしまう。
だから今も、わがままをさせてね?恥ずかしさに真赤になりながら周太は唇を開いた。

「ね、えいじ?…ゆうべみたいに、あらって、よ…お願い、」

こんなおねだり、恥ずかしすぎる。
けれど昨夜、湯気と酔いの残滓にぼんやりしていても、洗ってもらう甘えた幸せが嬉しかった。
だから今も洗ってほしいな?お願い、と瞳で訴えながら見つめた先で、端正な顔が上気しながら微笑んだ。

「ツンデレ女王さまだね、周太?仰せのままに従うよ、でも…出掛ける時間、遅くなる、かな…山頂に行けなくなるかも?」

どうして遅くなるの?
そんな質問に開きかけた唇を、そっと閉じた。
この恋してくれる美しい奴隷が言いたいことが、なんとなく解かったかな?赤い顔のまま周太は答えを告げた。

「お昼ごはんはね、あのブナのとこで食べたい…あとは、すきに、ね?…ゆるしてあげる、」

こんな朝からなにしているの?
そう思う自分がいる、けれど愛し愛されたい想いが強くて止められない。
だってもう、この時間にはピリオド打つ日が来ると、あの大会で決められただろう。
だからせめて今は、この愛する想いだけ見つめられる時間を心から愛しんで止めたくない。
そんな想いに微笑んだ周太を、きれいな笑顔が静かに抱きしめてくれた。

「うん、それには間に合うから…可愛い、周太。好きにするよ?」

ふれあう肌が湯気にけぶって温められる、肌の温もりと湯のやさしさに融けていく。
こんなに愛するひとを求めてしまう自分が恥ずかしい、けれど幸せに酔いしれたい想いもある。
あの射撃大会で自分の運命は、この優しい幸せから遠くへ行くことが、もう定められたと解っている。
そして英二はもう、山岳レスキューに立つ山ヤの警察官として、危険地帯の救助に生きる責任を決めてしまった。

…今日だって、解からない。週休の今日だって、召集があれば、行ってしまう…

このひとが危険地帯に立ってしまう、その不安を想うと苦しくて、おかしくなりそう。
けれど英二は、この道に生きる誇りを見つめ認められ、夢に笑って輝き始めている。
その輝きを自分が一番に望んでいたい、目を逸らさず、ずっと見つめたいと願い続けたい。
だからこの今も英二が求めてくれるまま応えていたい、そして帰って来たいと英二に強く願ってほしい。
祈りと願いを見つめて周太は湯気のなか微笑んだ。

「ね、えいじ?ずっと帰ってきてね、隣に…やくそくして?」

どうかお願い約束してほしい、あなたの無事を祈り続けている自分の想いに応えて?
きっと「自分の隣」は難しくなると解っている、それでも幸せな約束に今だけでも酔いたい。
あまやかな湯気に見つめる想いのなかで、綺麗な笑顔が幸せに華やいだ。

「うん、約束するよ?周太…おいで?」

約束と一緒に英二は、周太の体を抱き上げてくれる。
そして浴室の扉を開くと、白いベッドへと周太の素肌を沈めこんで抱きしめた。



野陣尾根のブナ林に佇んだとき10時をクライマーウォッチは示した。
アイゼンで雪踏みしめていく森は、ぱさりと梢ふる雪の音が静かに響く。
踏みしめられる雪音がどこか懐かしい、樹木の肌しずむグレーと白銀の静謐を進みながら周太は微笑んだ。

「しずかだね、冬の山って…」
「うん。雪がね、音を吸ってしまうから、」

谷側を歩いてくれながら英二は周太に笑いかけてくれる。
慎重に運ぶアイゼンワークで仕事道に分け入りながら、きれいな低い声が教えてくれた。

「冬の山は、物音が少なく感じるよ。とくに雪山は。ほんとうにね、冬に山が眠っているって感じがする」
「冬に眠る…ん、そんな感じがする、ね」

幼い日に父と訪れた雪の奥多摩、あのときも雪の山を見た自分はそんな感想を抱いた。
このことを英二にも聴いてもらいたいな?懐かしい父との記憶の時間を周太は紡いだ。

「雪の山を初めて見たときにね、竜が眠っている、って想ったんだ…きれいな銀いろの白い竜だな、って」

こんなこと言うと変かな?
すこし気恥ずかしくなりながら見上げた隣は、楽しげに笑ってくれた。

「白銀の竜か、うん、そんな感じするな?うん…ほんとうにね、周太。雪山は竜だと思うよ、」
「ほんと?ね、英二はどんな時に、そう感じたの?…あ、」

周太が訊いた時、連なる樹間の細い仕事道から広やかな空間に出た。
居並ぶブナの木たちが囲んだ空間に、青空を梢に戴冠するブナの大きな姿が佇んでいる。
この木に会うのは11月以来のことになる、久しぶりの再会に微笑んで周太はブナへと歩み寄った。

「こんにちは、久しぶりだね?…雪にも、強いんだね?」

話しかけながら根を踏まないように巨樹の前にと進んでいく。
ふとやかな幹の前に立って見上げると、雪凍る梢の合間から如月の青空が輝いていた。
梢まとう雪氷はまばゆい光の花になって満開に咲き誇る、美しさへのため息交じりに周太は微笑んだ。

「ん…きれいだね、ふれさせてもらうね」

登山グローブを外すと両掌で、雪の無い幹にしずかにふれた。
冷たい雪山のはざま冷えた樹皮のした、ふれる場所から仄かな温みが伝わってくる。
どこか感じる温もりが嬉しい、そっと周太は幹へと耳をつけた。

かすかな水音が、ゆるやかな静寂の奥深くに響いていく。
ふれる頬と耳には大気に冷やされた樹皮がざらりと感触を伝えながら、芯に流れる生命の温度が静かにふれてくる。
この雪の冷たさにもブナの巨樹は佇んでいる、こんな光景がこのブナの巨樹には、いったい幾星霜と繰り返されてきただろう?

…きっと、自分よりもずっと永い時を、この木は生きて…

樹木は永遠に沈黙へと佇んでいる。
けれどこうして耳を澄まし掌でふれる時、たしかな生命の息吹と血流に出会っていく。
このブナの巨樹はこの場所で、ずっとなにを想っているのだろう?
このブナの巨樹が生まれた悠か遠い時間、ここに佇んだのはどんな人だろう?
このブナの巨樹の前では自分の想いも悩みも、生涯の生命すらも小さな時の一瞬かもしれない。
いま、こうしてブナにふれている自分の掌。
この掌はいつか哀しい任務の血に染まることになるだろう。
けれどその時にも、このブナの巨樹はこうして自分の掌を受けとめてくれるだろうか?

…生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?

この疑問には、どんな答えを見出すことが出来るのだろう。
この疑問の原因に、父はどのように向き合ってきたのだろう?

この疑問に生きた父の真実と想いを知りたくて、自分はこの道に立つことを選んだ。
ほんとうは揺らいでしまう自分がいる、そのたび覚悟を幾度も泣きながら繰返して、それでも逃げたくはない。
この道に立って父の想いも自分の運命も見つめて答えを得たい、この覚悟も望みも本音。
それでも疑問も涙も決して止むことが出来ない。

…この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

ずっと廻り続けていく疑問と涙。
あの春の夜を過ごし、訪れない銀河鉄道の夜に泣いて、そして選んでしまった今立っている道。
この道に立った瞬間からずっと、終わることない疑問と涙のリンクに心が竦んでいる。

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

すこし止んでも、また廻りだす疑問に竦んだ心のままに自分は孤独に生きることを選んできた。
この選んでしまった道の冷たさと重たさに誰も巻き込みたくも無かった。
この道で苦しむのは自分だけで良い、父を「殉職」のレッテルで見られる事もされたくない。
そう思って会話すら母としかしてこなかった。
それなのに。

…それなのに、…英二は、この運命に佇んでしまう…

警察学校で出逢ってから、ずっと英二は隣にいてくれた。
山岳訓練で滑落した時は救助に来てくれた背負ってくれた、立籠もり事件の時も隣に来てしまった。
父の殺害犯と対峙する時もそう、射撃競技大会でもそう。いつも英二は隣にいてくれる。
ほんとうは英二の普通の幸せを奪いたくなかった、なのに求められて嬉しくて、応えてしまう弱い自分がいる。

ずっと13年間を覚悟し続けた孤独と贖罪で造り上げた心の鎧。
本当は弱虫で泣き虫な自分、それでも鎧にこめ続けてきた偽りの強さに生きようと決めていた。
けれどもう、綺麗な笑顔のやさしさに、すべてが崩れて壊れて、独りでは立てなくなった。
与えられた英二の愛を受けとめて、寄添って生きていく。この幸せを抱きしめてしまった。

これが正しい選択なのか?

今だってずっと迷っている、婚約すらしたのに迷っている。
ほんとうは心から願っているから、祈ってしまうから、迷っている。
こんな自分の危険に踏み込まないで、英二が本来立つべき場所で輝く姿を願っている。
山に登り最高峰で輝いていく姿を、きれいな笑顔が咲き続けてくれることを、心から願っている。
この願いを祈っている、だから本当は、

…だから、離れたかった…英二、

だから本当は冬富士の雪崩の後、威嚇発砲して罪を犯せば、否が応でも離れられると思った。
もし光一に返り討ちにされたとしても、自分が消えてしまえるのだから良いのだとも思った。
こんな思惑も本当は心に隠しながら、あの弾道実験のザイル狙撃銃座で自分は拳銃を手にしていた。
こんな罪を犯したら、もし返り討ちに殺されたら。どれだけ周りに迷惑がかかるのか?大切な母を哀しませるのか?
ほんとうは考えなかったわけじゃない、けれど他にもう方法が想いつかなかった。
自分が選んだ危険から英二を守る方法が、もう、他に何も見えなかった。

「Le dernier amour du prince Genghi」

源氏の君の最後の恋―『Nouvelles orientales』にある恋愛小説。
光源氏は美しく才能あふれた恵まれた男、けれど母の愛に恵まれず孤独のままに「無償の愛」を求めていた。
けれど源氏は「無償の愛」を与えてくれた花散里を忘れたまま死んでしまった。
最初に読んだときは、忘れられたら哀しいと思った。
けれど自分は、忘れられても良いと思うようになった。
たとえ忘れられてしまっても、ひとときでも英二を安らがせてあげられたなら。
そうして一度でも名前を呼ばれて愛された記憶があるのなら、それで幸せだと想えた。

そして思ってしまった「むしろ英二は周太を忘れた方が幸せになれる」かもしれない?

自分を忘れることで英二が幸せになれるのなら、それでいい。
こんな危険な道に立つことを選んだ自分を守る、そんな危険を冒してほしくない。
だから、自分の事なんて忘れてくれていいから、遠くへ行きたかった。

周太が英二の手の届かない遠くへ行けばいい

そうしたら英二も自分を諦めてくれるだろう。
もう英二は周太の危険に巻き込まれない、普通の幸せに戻る事も出来る。
そして英二は「山」に全てを懸けてい生きられる、輝く山嶺の世界で自由な誇りに生きていける。
そんなふうに、夢に輝いていく姿のままで、幸福な人生を全うしてほしい。
そんな英二の姿を一番に望んで祈りたくて、邪魔な自分を消したかった。
けれど、消えたい想いと表裏になって、傍にいたい願望は温かすぎた。

「英二の帰る場所は自分だけ、それなら傍にいてあげたい」

そんな願いを言い訳にして、英二の想いを受入れてきた。
そうして与えられる幸せは、本当に温かくて心も体も救われ続けてきた。
この幸せのままに、与えられるままに、英二が望んでくれるなら一緒に危険な道も歩けばいい。
そんなふうに甘えながら自分は英二の愛情を受入れて、そして、愛してしまった。

…ほんとうは、離れたくない 愛してしまったから

けれど光一の姿を見てしまった。
光一の能力を目の当たりにしてしまった。
そして光一が英二の体を要求したと聴いてしまった。
英二にとって、唯ひとりのアンザイレンパートナーだと光一を認めてしまった。
それで想ってしまった。

「自分よりずっと光一の方が英二の居場所にふさわしい」

だからもう、自分は居なくなればいいと思ってしまった。
自分が居なくなっても光一がいる、英二には居場所がある、大丈夫。
そう思ってしまった時にはもう、自分が英二の傍にいていい理由が消えてしまった。

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?

ひととき止んでも廻りだす疑問、竦んでしまう心。
この終わらない疑問と涙に疲れてしまう自分がいる。
いま立っているこの「父の軌跡を追う道」は大切な母を泣かせても自分から選んだ。
けれど気づかされていく幸せの温もりに、この掌が辿る運命に待つ現実の冷たさが怖くなっていく。
この掌を穢すことになる覚悟が、この掌を愛してくれる人への想いと矛盾して身動きができない。

疑問と涙、冷たい現実への恐怖。
それでも逃げたくはない、父への責任と、誇りと意地。
それなのに「きれいな英二の笑顔を守りたい」この唯ひとつの祈りと願いには、自分の選んだ道は矛盾する。
この矛盾が本当は辛くて痛くて堪らない。

もう、終わりにしたい?

そんな本音がときおり穏やかに囁いてくれる。
そんな本音があのとき心と掌を動かして「トリガーを引く」選択になった。
英二の体を守りたい。この願いも本当の気持ち。けれど、そんな願いの翳で本当は「囁き」に耳傾けながらトリガーを引いた。
こんな自分の危険に英二を巻き込まないで済む方法、もう、他には想いつけなかったから。

こんな愚かな自分だから「父の軌跡を追う危険な道」を、歩むことも止められなくて。
けれど本当は、英二の幸せな笑顔だけが大切で、その為なら何を捨てても構わなくて。
この2つの意地と願いの狭間に顕れた答えが「自分を消す」ことだった。

光一に銃口を向けること

威嚇発砲の罪でも、返り討ちでの絶命でも良い。
とにかく自分が英二には追いかけられない場所に行けばいい。
これなら確実に、英二が追いかけられない遠くに自分は行ってしまえる、そう思った。
これがもう、英二が普通の幸せに戻れる最後のチャンスかもしれない、そう思ってしまった。

ほんとうは自ら命を絶てば良かったのかもしれない。
けれど、どうしても、自分には出来なかった。

だから光一に自分を消させてしまいたかった。
もし光一が自分を消したなら、きっと光一は自分を忘れられなくなる。
そうしたら光一はいつも自分の存在を意識して、そのぶんだけ英二を大切にする。
そして一度は英二に愛された自分の「意地」を英二の隣に佇む存在へと刻んでしまいたかった。
こんな自分にも優しくしてくれた光一を、自分の想いの為に利用しようとした。

それなのに、光一は、周太の罪を被って背負ってしまった

まさか、光一が自分の初恋だとは告白の瞬間まで思わなかった。
まさか14年間この自分を想ってくれた人がいるなんて?
まさか嫉妬の相手がその人だなんて?
あの告白の時は驚きと、戻り始めた記憶への途惑いが心を揺らした。
思ってもいなかった結果に途惑って、それでも寄せられた想いが嬉しかった。
自分が消えるはずだった「銃口」の前で、光一はあざやかに14年前の「山の秘密」と初恋を蘇らせてくれた。
自分を消してしまうはずだった瞬間の緊張、それが14年間の愛を告げられる瞬間の温もりに転化した。
消える、は、蘇える になった。

自分はもう、消えることは出来ない?

覚悟が肩透しにあった脱力感。
孤独だった時間もずっと、自分の幸せな笑顔に逢いたいという祈りがあったと知った喜び。
もう英二を自分から自由にしてあげられない?この安堵と哀しみとの矛盾。
初恋のひとに自分が向けた残酷な行為の罪悪感と大らかな愛情の引力。

あのとき、沢山の想いに竦んだまま、光一の掌に曳かれて下山した。
そして竦んだ心は14年前の雪の森に佇んで、帰りたがらなかった。

生命を奪う掌には、生命にふれることは赦される?
この掌の運命に自分は、どのように向き合えばいい?もう、終わりにしたい?
この14年間の忘却の罪をどうやって償えばいい?
忘れていた瞬間が甦った今は英二に告げてきた「初めて」は嘘になる?

増えていく疑問が心に廻って竦んでいく。
増えた疑問から目を逸らしたかった、しばらく14年前の雪の森に閉籠りたかった。
心は聴かされ思い出したばかりの、美しく楽しかった14年前の雪の森から帰りたがらなかった。
独りぼっちにしていた光一への想いに少しでも償いたい、この想いに尚のこと雪の森に佇みたかった。

ほんとうは、弱い自分がすべて悪い。
弱いままに父の死を受けとめられなかった、そして記憶も忘れてしまった。
弱いままに自分は英二の愛と自分の選んだ道の矛盾から、逃げたくて罪を犯してしまった。
弱いままに求められたら嬉しくて甘えたくなって、光一の14年間の想いに心を繋いでしまった。
こんな自分の弱さに尚更に、英二の隣にいる資格が自分には無いと思ってしまった。
もう英二の愛を受けとる資格も自信も、すべてを見失ってしまった。

…だから、嫌いになりたかった、英二のこと

だから本当は「体を無理強いされた」理由のままに、嫌いになって突き放してしまいたかった。
もし自分から本気で拒絶し続けたなら、英二も諦めて遠くに行ってくれる。
自分から遠いところで、ただ山に生きる幸せに英二は生きて輝いてくれる。
そうしたらもう、こんな自分の危険な道に巻き込まないで済む。
こんな「嫌いになる」課題を持って1ヶ月を過ごそうとも考えていた。
それなのに。

…それなのに、離れた分だけ、逢いたかった…逢いたくて寂しかった、英二…

逢いたくて、逢いたくて。
無理強いの恐怖に竦んだはずの体まで「逢いたい」と求めた。
ただ「英二に逢いたい」それだけしかもう、考えられなくなっていった。
クロワッサンの香にすら英二の面影と記憶を見つめて、英二と一緒にいた過去の自分に嫉妬した。
こんなに求めたかったのに「逢いたい」と自分からは言えなかった。

14年間の忘却への贖罪と記憶への愛情のまま、光一の初恋を手放すことが出来ない自分。
積み上げた14年間の時のまま「一生ずっと」と告げてくれる光一に、14年分ごと向き合って見つめたい。
こんな願いをもった自分には「逢いたい」と英二に言う資格はない、逢って何が言えるのかも解らない。
たくさん結んだ約束の幸せを、叶えて受けとる資格も自分にはもうないのだと諦めようとした。
たくさんの幸せな記憶と約束の面影を、見つめるごとに哀しくて苦しかった。

そして再会した拳銃射撃競技大会で、英二の胸に縋ってしまった自分がいた。
そしてもう離れたくなかった、だから土曜日は勝手に決めて奥多摩まで着いて来てしまった。
一緒に奥多摩へかえる「奥多摩鉄道の夜」は嬉しくて。
正直な想いを晒して受留められた事が幸せで、わがままに求めて応えてもらえて嬉しくて。
ありのままの自分を見つめられながら求め合って、再び体と心を繋いだ瞬間は心から幸せだった。
こんなふうに、わがままな自分の弱さごと受留められたら。もう独りで立てない、どこにも行けない。

それでも本当はまだ迷っている。
こんな自分の危険な運命に、愛する人を巻き込みたくはない。
だから美代の想いを知った上で、英二と美代をふたりきりで映画にも行かせてしまった。
もし、あのままに、ふたり想いを繋いでしまっても、構わないと想ってしまった。

けれど、拗ねて哀しくて苦しくて、取り戻したいと思ってしまった。
こんな弱い狡い自分は結局は、わがままに正直でいることしか出来ない。
もっと強くて賢くなれたなら、もっといい方法も見えるのだろうか?

ブナの木、この自分の想いが聴こえますか?

このブナの木に今日、会いに来たかったのは、この心の全てを聴いてほしかったから。
このブナの木は英二が大切にする木で、大切な安らぎの場にしている。
だからこの木に自分の想いを全て聴いて、覚えていてほしかった。
この掌が穢れる前に、このブナの木にもう一度ふれたかった。

…ね、ブナの木?この掌はもう、何かを救うために使えない、のかな…

英二の掌は人命救助と尊厳を守るために血に塗れる。
けれど自分の掌に待ち受ける運命は、きっと真逆の理由になっていく。

この掌をいつか英二の為だけに遣いたい、妻になって温かな家庭を作る掌にしたい。
そんな願いも祈りも本当で、けれどその前に掌が犯す罪の穢れが冷たくて。
そんな冷たい穢れに染まった掌で、ほんとうに温かな家庭など作れるの?

ブナの木、どうか覚えていてください。
この掌がまだ穢れて冷たくなる前の感触を、温もりを、あなたに覚えていてほしい。
そして英二がここに安らぐときに、この掌の記憶もどうか伝えて温めてあげて?
どうか覚えていてください、いまこの掌の温もりを。
この冬が終わって春が来て、夏が来たらもう、この掌は冷たくなるかもしれないから。

…だから、この冬のうちに、あなたに会いに来たかったんです、ブナの木…

閉じた瞳の奥から想いあふれて、涙が頬を伝っていく。
自分で選んだこと、それでも涙は止まってくれない。
この掌が冷たくなった後の自分は、大切な母と英二に料理を作ってもいいのだろうか?
誰よりも大切な家族、愛する二人の為に、この掌は遣っていもいいの?
そんな冷たい穢れに染められた掌を、美しい初恋相手の純粋無垢な山ヤは何と言うのだろう?
そして大好きな友達は、美しい野菜を育んでいく尊い掌を持った友達は、自分の掌の正体をどう思うだろう?

この疑問の答えは、どこ?

この先にある道の涯が、この間の射撃大会で一歩現実に近づいてしまった。
そんな今の現実に心が軋みあげていく、疑問の答えはどこと求める声が大きくなる。
こんなに弱くて泣き虫の自分に、この現実は支えきれるのだろうか?
そう思った周太の心にそっと一節の文章が寄りそった。

―…樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています 
 そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています…
 君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります…どうか君に誇りを持ってください。

…生命の一環を、救った真実…誇りを持って

ちいさな呟きが心にこぼれ落ちていく。
こぼれ落ちた呟きは声になって森の空気にひっそり融けた。

「…誇り、」

そっと呟いた唇に、やわらかな温もりがふれた。
温もりは幸せな熱を運んでくれる、この温もりの正体を自分は知っている。
ふれる温もりの幸せに微笑んで、しずかに周太の瞳が披かれた。

「…英二?キス、うれしい、よ」

しずかに見つめた綺麗な切長い目が穏やかに微笑んでくれる。
もう一度やわらかなキスを贈って、きれいな低い声が言ってくれた。

「周太、愛してる。ずっと、いつまでも、君を愛してる」

きれいな笑顔が見つめてくれながら、ブナの木にふれる掌に長い指の掌を重ねてくれる。
やさしい熱に包まれていく周太の両掌は、そっとブナの木から離れて端正な口許へと運ばれた。

「なにがあっても変わらない、君と、君の掌をね、俺はずっと愛してる」

きれいな唇が、やさしいキスを両掌に温もりと想いを贈ってくれた。
こんなふうに贈られる、やさしさに、美しさに、温もりに、心が響いてしまう。
響いていく想いのまま、心の底にしまい込んでいた本音が迫り上げられた。

「…英二、…ほんとうはね?嫌いになりたかったんだ、英二のこと…遠くに、行って、ほしかった、」

言葉と一緒に涙あふれて頬伝っていく。
あふれていく涙に端正な唇がふれて、やさしいキスが涙を吸ってくれた。

「遠くに、行ってほしい?」

きれいな低い声が穏やかに訊いてくれる。
ほんとうはそんなこと思っていないだろ?そう目が笑いかけて微笑んで。
こんな顔で訊かれたら素直に答えてしまう、正直に周太は首を振った。

「嫌…遠くに行ってほしくない、傍にいてほしい…でも、ね、英二?俺の掌は、夏が来たらもう…きっと、今と変わって…」
「周太。変わらないよ、周太も、周太の掌も、」

綺麗な低い声が明確に告げて、切長い目が真直ぐに周太の瞳を見つめてくれる。
見つめられる視線が真摯で美しくて、ただ周太は見惚れながら低い声に心傾けた。

「なにがあっても、周太は変わらない。君の純粋無垢は勁いってことを、俺は知っている。
そしてね、これも知っている。周太は俺を愛してくれて、俺の幸せを…普通の幸せを俺にくれようとしている。そうだろ?」

もう今は何を隠したって仕方ない、きっと英二を誤魔化すことなんかもう出来ない。
わがままな周太も全て見つめてくれた英二には「正直」しか通らないから。
こくんと涙ひとつ飲みこんで周太は頷いた。

「俺の危険に、巻き込みたくない…重荷を背負わせたくない。もっと、ただ、幸せに生きて、笑っていて、ほしくて…」

こんな願いも本当の想い。
けれどもっと正直な願いが自分にはある、それを願っていいのか解らない。
真直ぐに見つめ返す切長い目は穏やかに、真摯な想いを見つめながら微笑んだ。

「俺の幸せはね、周太?周太の隣でしか見つけられない、だから隣に帰りたいよ?
だから周太、覚えていてほしい。もし君が、この世から消える日が来た時は、きっと俺もこの世から消えてしまう」

いま、なんて言ってくれたの?
驚いて見上げた想いの真中で、綺麗な笑顔が幸せに笑ってくれた。

「言っただろ?俺はね、ずっと周太の隣に必ず帰る。周太のいる場所が俺の帰る場所。
だからね、周太?君がこの世から消えたとしても、俺は君のいる場所に帰ってしまうから…きっと、そうなるから、だから」

長い指が周太の両掌をやさしく包んで、宝物のように温めてくれる。
こんな優しくされたらもう、どうしたらいいの?そんな想いと見つめる先で英二は綺麗に笑った。

「だから、もう逃げないで、離れないで、周太。そして俺を縛り付けていて?だってね、君は俺のツンデレ女王さま、だろ?」

こんなときに、そんな言い方するなんて?
可笑しくて思わず笑ってしまう、まだ涙に濡れた瞳のまま周太は微笑んだ。

「女王さま、なの?…じゃあ、ずっと、一緒にいて言うこと聴いてくれるの?」
「うん、周太。ずっと一緒にいて、言うこと聴くよ?どんな命令でも、おねだりでも、聴くから…離れろ、以外ならね?」

幸せそうに想いを告げながら、綺麗な笑顔が咲いてくれる。
やさしく長い指の掌が周太の掌を惹きよせると、大らかな優しい想いが周太の瞳を覗きこんだ。

「周太、絶対の約束をするよ?俺はね、必ず君の隣に帰ります。君の笑顔を見つめていたいんだ。
最高峰でも君を想っている、だから永遠に告げていくよ?世界中の最高峰から、君を愛していると俺は、永遠に告げていく。
君が他のひとに恋しても憧れても、俺の気持ちは変わらない、必ず君を守っていく愛していく。俺の幸せは君の隣だけにある」

こんな告白は幸せだと心から想う。
素直に頷いて抱きついて、キスして応えられたらいいのにと想う。
けれど自分がふさわしいのか解らない、想いと迷いに正直に周太は唇を開いた。

「…俺は、きっと、…罪を犯すことになる…それに、光一の想いを無視することも出来ない…それでも、いいの?」
「どんなこともね、俺の想いは変えられないよ、周太?」

迷いなく即答をくれた。

…もう、嘘がつけない

黒目がちの瞳から、隠し続けた本音が涙になってあふれていく。
あふれた本音は言葉になって、周太の口を開かせた。

「…お願い、英二…聴いて?ほんとうの気持ち…お願い、英二…あなたを、全部、俺にください」

弱い自分は狡い、けれど英二は好きだと言ってくれた。
わがままも泣き虫も好きだと言ってくれた。
だからもう、本音を隠してなんかおけない。
泣き虫の本音のまま、涙こぼしながら周太は英二に正直に縋りつく想いを告げた。

「ずっと俺だけを見つめて、ずっと隣にいて?…お願い、
どんな罪に堕ちても俺を捨てないで?…穢れても、愛して?心も体も愛して?
どんなに穢れても、罪に堕ちても、傍にいて…英二の全てで、俺を受けとめてよ?…愛してるなら、言うこと聴いて?」

弱くて泣き虫わがまま、愚かで甘えたがり。
こんなみっともない自分なのに、これから先には穢れて罪にすら堕ちていく。
染められていく罪の冷たさに、掌だって冷え切ってしまうかもしれない。

こんな自分でも本当に、ずっと愛し続けてもらえるの?
愛情を盾に命令して、こんな涙で縋りついてもいいの?

「うん、周太。言うこと聴くよ?」

真直ぐ見つめた想いの真ん中で、心から幸せな笑顔が花開く。
きれいな笑顔に華やいで低い声が約束を告げた。

「約束するよ、周太。一生ずっと俺の全ては君のもの、ずっと君を受けとめて愛する。それがね、俺の幸せ」

掌を包んでくれたまま、真直ぐな目が見つめて微笑んでくれる。
こんな約束をくれる人に自分も精一杯の想いを贈りたい、見上げて周太はきれいに笑った。

「ん、…受けとめて?愛して?一生ずっと隣に帰ってきて?
なにがあっても、ごはん作って待ってるから…おふとん干してあげるから、一緒に眠って…ずっと体ごとあいして?」

最後はほんとうに恥ずかしい。
けれど伝えたかった想いが遂げられて幸せに周太は微笑んだ。
微笑んだ唇に、きれいな笑顔の唇がそっと近づいて笑ってくれた。

「うん、愛し続ける…周太、誓いのキス、してもいい?」
「ん、…して?」

素直に笑った周太の唇に、穏やかに熱いキスに唇が重ねられた。
やさしい想い、大らかな愛情、守りたい気持ち。心と体で求め合いたい想い。
それから、互いに願う「傍にいたい」やさしい素朴の切ない祈りがふれあっていく。
梢ふる冬の木洩陽まばゆい光のなかで、約束とキスに結ばれた2人の翳が白銀の雪へと青く描かれた。





(to be continued)

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第36話 春淡act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-17 22:50:21 | 陽はまた昇るanother,side story
みつめる想いと



第36話 春淡act.3―another,side story「陽はまた昇る」

御岳駐在所で勤務する2人の仕事が終わると、美代の車で4人一緒に青梅警察署へと戻った。
後部座席に活動服姿の2人を乗せて走りながら、美代が明るく笑った。

「ね?警察官を2人も乗せて走っているなんて、他から見たら何事か?って思うっちゃうね?」
「ん、そうだよね?…あ、でも、俺も警察官だよ?」

知らない人が見たら本当に「何事か?」と思うだろうな?
なんだか可笑しくて笑いながら答えた周太に、後部座席からテノールの声が笑った。

「周太はさ、警察官よりも、ツンデレ女王さまが本分だね。だろ、み・や・た?」
「あんまり、困らせないでよ?国村」

きれいな低い声が困ったように答えている。
助手席から周太が振向くと、端正な顔はやっぱり困り顔で微笑んでいた。
その手元には紙袋いっぱいのチョコレートが所在無げに置かれてる。
それを勝手に取り上げて光一が唇の端をあげた。

「おまえのね、困り顔はそそられるんだよ?もっと困りな、こんなにチョコレート貰っちゃってさ?どうするんだよ、おまえ」
「うん、…どうしよう?ね、周太、」

困った顔が縋るように周太の瞳を見つめてくれる。
こんな綺麗な貌で見つめられたら許したくなってしまう、けれど周太は素直に言った。

「どうとでもしたら?きかれたって、わからない…好きにして?」

素っ気なく言うと周太は、また前を向いてしまった。
さっき御岳駐在所で「ちゃんとしたら?」と周太に言われた英二は呆然とした隙にチョコレートを押しつけられたらしい。
あのあと学校帰りの女子高生や近所の主婦たちが、かわりばんこに訪れては同じシーンが繰り返されていた。
女の子を傷つけないのは良いけれど、いくらなんでも貰い過ぎじゃない?
女の子達の笑顔は素直に嬉しかったのに、こんな拗ねるような気持ちがミックスされてしまう。

…こんな拗ねちゃって、今夜どうしたらいいの?

このあと同期の藤岡も一緒に皆で食事することになっている。
そのあとは河辺駅近くのいつものビジネスホテルで、英二とふたりきりになるだろう。
いま正直に拗ねていても皆が一緒だから英二と直接向合わなくて良い、けれど、ふたりきりになった時はどうしたらいいの?
自分自身に途方に暮れたまま、青梅警察署の駐車場に周太は降りた。

「で、吉村先生のとこで全員集合するよ?周太、コーヒー3人前よろしくね。ほら宮田、行くよ?」

からり笑って光一は英二の腕を掴むと「じゃ、あとでね」とさっさと行ってしまった。
そんなふうに着替えに独身寮に戻っていった2人と別れると、美代と周太は警察医診察室を覗きこんだ。
もう診察時間は終わっている、けれどノックして扉を開けるとロマンスグレーの穏やかな笑顔が迎えてくれた。

「こんばんは、湯原くん、美代さん。お待ちしていましたよ?」
「こんばんは、吉村先生。ご無沙汰しています、」

1ヶ月ぶりに会えた笑顔が嬉しくて周太は微笑んだ。
白い清潔な部屋は相変わらず穏やかで心地いい、寛いだ空気に周太と美代はコートを脱いだ。
美代と周太の母からバレンタインギフトを受けとると、吉村医師は嬉しそうに笑ってくれた。

「すみません、恐縮してしまいますね?でも、とても嬉しいです。ありがとうございます」
「こちらこそ、いつも、ありがとうございます…コーヒー淹れますね?」

いつもどおりの穏やかで温かな空気が診察室に流れていく。
またこの空気に立てた今が嬉しい、穏かな気持ちでコーヒーを6つ淹れ終わるころ3人もやってきた。

「こんばんわ、吉村先生。また集合場所にしちゃったよ?」
「こんばんは、国村くん。いつでも使ってください、ここで良かったら、」

気さくに笑いながら吉村医師は3人を招き入れた。
マグカップをサイドテーブルへと周太が運ぶと、折り畳み式の椅子を英二と国村は出しているところだった。
なにげなく見ている周太の視線に切長い目が気がついて、英二は周太に困ったように微笑んだ。

― 周太、怒ってるの?

そんなふうに綺麗な切長い目に訊かれて、思わず周太は素っ気なく目を逸らしてしまった。
ふいっと逸らした視線の形跡に、切なそうな視線の気配が感じられる。
そんな切なげな想いに曳かれるよう、つい振向きたくなって周太は微かに英二の方へ顔を向けた。

…英二、気にしてくれてる?

すこしだけ肩越しに向けた視線の先に、周太の目線に気づいた嬉しげな笑顔がほころんだ。
あんな顔されると逆になんだか困ってしまう、また目を逸らして周太はマグカップを運んだ。
きっと今きれいな顔は哀しそうになっている、それが切なくなるのに意地っ張りの自分がいる。
自分に困りながら皆と一緒に座ると、吉村医師は周太が持参した和菓子を出してくれた。

「うん、これ旨いね?湯原ん家の近所の店とか?」

ひとつ口に入れた藤岡が楽しげに微笑んだ。
人の好い藤岡の屈託ない「美味しい」顔が嬉しい、その美味しそうな笑顔に周太は笑いかけた。

「ん、そうなんだ…昔から、家のひと皆が好きな店なんだ、」

この菓子折は今日、家から川崎駅に向かう途中で見繕ってきた。
美代と光一の家にも同じものを贈ってある、他のひとはどうかなと見ると吉村医師も褒めてくれた。

「そうですか。美味しいお菓子ですね、じゃあ、これは湯原くんの故郷の味ですね?」

自分の故郷。
あの川崎の町にそうした郷愁を考えたことはまだ無かった。
けれど実家の庭も家も懐かしい、そしてこの店の味を好んだ父の笑顔が懐かしい。
今朝も挨拶した、書斎机で微笑む父の写真を想いながら周太は頷いた。

「はい、そうですね?…父も、愛していたお店なんです。ここの桜餅が父はとても好きでした、」

父が亡くなった春の日。
あの日も母と一緒に父の為に桜餅を買いに行った。
父が帰ってきたら家族3人で桜餅を楽しみながら夜桜を眺めて、父は読書してくれるはずだった。
叶わなかった春の日の約束に微笑んだ周太に、吉村医師が穏かに笑いかけてくれた。

「そうですか、とても美味しいのでしょうね?…うん、奥多摩の桜餅も良いですよ。季節になったら、ご馳走しましょう」

さり気ない言葉にも吉村医師の理解が感じられる。
ほんとうは吉村医師に話したいことがたくさんある、今は皆がいるけれど少しだけでも伝えたい。
他の4人は賑やかに話しているから気にしないだろう、周太はそっと口を開いた。

「ありがとうございます…あの、先生?俺ね、わがままでも、正直に生きてみたいな、って思うんです」
「わがままに、正直に、ですね?…うん、受けとめてもらえたのでしょう?」

受けとめてもらえた。このフレーズのとき吉村医師は英二と光一の方を静かに見遣った。
あの2人に「わがままに正直に」が出来たのかな?そう訊いてくれている。
やっぱり吉村医師はわかってくれた、こんな理解が嬉しくて周太は微笑んだ。

「はい、受けとめてくれました。でも、全てが解決したわけじゃないです…それでも、答えのヒントになればって思います」
「うん、そうか…大丈夫、君ならね、必ず良い道を探せるはずですよ?そのためにもね、わがまま正直は、いいかもしれない」

低い穏やかな声で吉村医師は答えてくれる。
この1ヶ月ほど考えてきた、英二と光一と美代との想いの交錯を大切に出来る道。
この答えの途中経過を吉村医師は大丈夫だよと、いいだろうと頷いてくれる。
この医師も自分をありのまま受けとめてくれる一人だ、ありがたさに素直に周太は頷いた。

「はい、一生懸命に『ありのまま』をしてみます。ちょっと迷惑かける、かもしれないですけど、ね?」
「一生懸命にありのまま、ですか。うん、面白いですね?ちょっと迷惑かけて、困らせてやるくらいで調度いいかもしれないですし、」

可笑しそうに穏やかな目が笑って、ちらり英二と光一を見遣りながら言ってくれる。
困らせてやるのが調度いいなんて?この篤実な医師がそんな言い回しをするのが不思議で可笑しくて周太は訊いてみた。

「困らせてやるくらいで、良いんですか?」
「はい。だってね?彼らは思ったことしか言わないし出来ないでしょう?
これは誠実で自由で、真直ぐな生き方です。でもね、湯原くん?それこそ、ある意味で最大の我儘ですよ。
そんな彼らは当然の顔で我儘ばかりしているんです。だからね、君が少々わがまま正直して困らせる位で調度いいでしょう?」

楽しそうに答えてくれながら吉村医師は、コーヒーを美味しそうに啜りこんでくれる。
いつもこんなふうに答えを、明るく楽しい雰囲気へと吉村医師は変えてしまう。それが周太には救いにもなっていく。
話せば何でも心を明るくしてくれる「小十郎」と吉村医師は、どこか似ているかもしれない?
そんなことを想いついた自分は、ちょっと失礼かなと思いながらも周太は嬉しくて微笑んだ。

「ありがとうございます。ね、先生?さっきからずっと俺、ちょっと拗ねてて…今、わがままの最中なんです」
「なるほど、それでずっと困り顔の笑顔なんですね?でもきっとね、彼にとっては『困り顔も幸せの顔』だと思いますよ?」

可笑しそうに笑いながらも温かな眼差しで頷いてくれる。
そんな吉村医師の明るい温もりに、ほっと心がほどけて楽に広やかになっていく。
そうして広やかになる心に余裕ひとつ生まれて、穏かな想いが温かに生まれ育ってくれる。

…ん、英二がもてるのって、いいこと、だよね?

好かれ認められ、受け留められていくことは英二にとって幸せなことだろう。
英二は山岳レスキューの夢に立つため、家も母親も捨てて奥多摩に来てしまった。
実直で真直ぐな英二、だからこそ二度と実家の敷居は跨がない覚悟を持っている。だからこそ身元引受人も周太の母を第一に登録した。
けれど本当は、実の母に受け留めて貰いたいと、認めてほしいと英二は願っている。
こんな寂しさを抱え込んだ英二にとって、受留められる自信はひとつでも多い方が「認められる自信」として支えになるだろう。
そんな気付きのなか、ちいさな祈りが周太の心で呟きをもたらした。

…そんな自信をね、ひとつでも増やして、寂しさを超えていって?ね、英二

やさしい願いが1つ、おだやかに自分の心に生まれてくれた。
こんな願いを抱けたのは、きっと、吉村医師が周太の心に余裕を作ってくれたから。
やさしい願いも吉村医師の想いも幸せで嬉しくて周太は微笑んだ。

「ね、先生?好かれるって、自信になりますよね?…だから、喜んであげたいです。
それでも、やっぱり俺、わがままで…ちょっと拗ねちゃうのは、治らないんです。ほんと子供じみて、困ったもんですね?」

ほんとうに自分は子供っぽいな?
こんなこと恥ずかしくて人には言えなかった、けれど正直に自然とこの医師には話してしまう。
なんだか本当に「小十郎」に話しているみたいに素直だよね?それも不思議で見つめる周太に吉村医師は笑ってくれた。

「子供で当然ですよ?君は23歳だ、けれど心はようやく11歳になるんです。
そしてね、そんなふうに『子供じみて』って思えることは、順調に成長している証拠です。大丈夫、
君こそ『好かれて』いるんですから、困っても自分を認めていきましょう。そうしたら君にしか成れない素敵な人格が育ちます」

どうしてこの医師は、まるごと肯定して受容れられるのだろう?
大きな懐の温もりと、示してくれる明るい今後の自分の姿が、温かく自分を励ましてくれる。
こんなひとに自分も成れたらいい、尊敬と温もりへ素直に周太は微笑んだ。

「ありがとうございます…ね、先生?俺もね、先生みたいに、人を励ませるような人格に、なれるでしょうか?」
「おや、うれしいことを言ってくれますね?私の方こそね、君と話すと励まされますよ、」

うれしそうに笑ってコーヒーをひとくち吉村医師は啜りこんだ。
ほっと美味しそうに息吐くと、医師は穏やかに真直ぐ周太の瞳を見ながら話してくれた。

「この私の掌は大した力も無い、それでも、少しでも人間の美しさを信じて生命と尊厳を守る手助けをしたい。
そんな願いの為に私はここにいます。こんな私にとってね、人間の美しさに出会える瞬間は、なによりの救いと励ましです。
けれど今は、どこか自分中心で寂しい世の中です。それでも、君みたいな純粋な人がいてくれること。それが私には救いですよ?」

こんなふうに今の自分に言ってくれる人がいる。
この今の自分でも、何か誰かの為に役に立てているの?
なにか必要とされることは、きっと誰にとっても幸せで嬉しいことだろう。温かな想いに周太は笑いかけた。

「先生、ありがとうございます。ね、先生?俺にとってはね、先生こそが救いと励ましですよ?」

この明るい方向を示す医師と出会えて良かった、ここに英二に連れて来てもらえて良かった。
やさしい感謝に微笑んで周太は夜のひと時を過ごした。



5人での夕食は河辺駅から近い河原で、光一が得意の焚火で串焼きを仕上げてくれた。
美代の家の台所でケーキを焼いたとき、材料の下拵えだけは美代と周太でしてきてある。
雪白む河原に熱い焚火を囲んだ星ふる下で、親しい人たちとの食事は温かくて楽しかった。
ほとんど食べ終えた頃、日曜にも会った同期の藤岡が周太の貌をしげしげと見て言った。

「なあ、湯原?この間も思ったけどさ、ほんと、綺麗になっちゃたな?」
「ん、…そう、かな?」

こんな率直に言われるのも気恥ずかしい、熱くなる首筋を周太は撫でた。
変わらぬ呑気な笑顔で、藤岡は日本酒を片手にからり明るく笑ってくれる。

「そうだよ?たぶんさ、初任科総合で同期のやつらに会ったら、驚かれるんじゃないかな?宮田もだけどさ、」
「英二も?」

英二の話になって何となく気恥ずかしく想いながらも、周太は訊いてみた。
そうだよと頷いてコップ酒を啜りこみながら、藤岡は明るく話しを続けてくれる。

「うん、だってさ?卒配期間なのに宮田、もう本配属まで決っただろ?
それって、すごいことだと思う。ほんとに宮田、頼もしくなったよ。卒業式の後からさ、雰囲気ずいぶんと変わったよな、特に背中」

「ん、…背中?」

とくん、1つ鼓動がちいさく起きて周太は1つ瞬いた。
日曜の朝に見つめた英二の背中は頼もしかった、その記憶が心臓をノックしてしまう。
ちょっと赤くなりそうだな?すこし困っていると、藤岡がのんびりと話を続けてくれた。

「そう、背中がさ、なんか頼もしくなったよな?かっこいいな、って思うよ。だからかなあ?」
「ん?」

かっこいいと褒められることは嬉しい。
けれど、なにが「だから」なのだろう?そう見つめた先で藤岡は人の良い笑顔で口を開いた。

「なんかさ、最近、『あの御岳の駐在さんって、どんな人ですか?』って聞かれるんだよな。
今日もチョコレートの数、すごかったしさ?やっぱ、もてるよなあ、宮田。署の方にも何個か届いたりしていたしさ、」

「青梅署の方にまで?」

すこし驚いて周太は朗らかな笑顔に尋ねた。
尋ねられて藤岡は何気なく、ありのままを答えてくれる。

「うん。ほら、遭難救助でさ、宮田が応急処置とかするだろ?
宮田ってさ、いつも現場でも優しいんだよな。気持ちが動転している人には、飴あげて落着かせたりして。
だから宮田、大抵救助の後は、お礼状を貰っててさ。特に女の人たち。だからさ、チョコレートが届くのも納得だよな」

「…そう、なんだ」

お礼状をもらって嬉しかった、ことは英二からも聴いている。
けれど女性からたくさん来るなんて?初めて聞いた事実に困惑が心を掴まえていく。

…でも、言われたら、納得してしまう話だね?

認められている英二の姿は心から嬉しい。
けれど「女性からたくさん」のフレーズにどうしても、また拗ねたい気持ちが起こされてしまう。
こんなに自分って嫉妬深かったんだ?正直な想いと途惑いが熱に変わって首筋を昇っていく。
きっとすぐに顔も真赤になっちゃうな?すこし困りながら微笑んだ周太に、さらっと藤岡が訊いた。

「でさ、湯原も宮田に、チョコレートあげたりしたの?」

ちょっと待って、今、情報過多になってるから?
そのうえにそんな気恥ずかしい質問をされたらキャパオーバーしちゃう?
なんだか喉が渇いて周太は、すぐ傍に置かれたコップに手を伸ばすと中身を呑みこんだ。

「…ん?」

呑みこんだ液体が、喉に熱い。

…これ、一体、なんだろ、ね?

不思議で首傾げた周太の視界がぐらり傾いでいく。
首筋も頬もきっと真赤になっている、もう頭の中もなんだか熱い?
ふっ、と星空が瞳に映りこんだとき、体が抱えられて水仙に似たあまい香りが頬を撫でた。

「周太!」

透明なテノールが名前を呼んでくれる。
くらりとする意識ごと抱えられた周太に、どこか焦った調子で綺麗なテノールは響いていく。

「これ、ってさ?俺が作った酒のコップだよね?藤岡、これ全部、周太が呑んじゃったワケ?」

ぼんやりと霞がおりた視界の中心で、秀麗な雪白の貌がいつになく慌ててくれる。
その横から藤岡と美代が覗きこんでくれながら、光一と話していた。

「うん。あ?って思った時にはさ、湯原、一気で呑みこんじゃったんだ、」
「光ちゃんダメよ、いい加減なトコに置いたりして?ね、湯原くん、大丈夫?お水、飲める?」

…こういちって酒もつくれるんだ?

遠のく意識のなかで周太は初恋相手の特技を、またひとつ知った。
意識と一緒に閉じていく瞳には、端正な困り顔がさっきよりもっと困った表情で映りこんだ。

「周太?…指先は体温普通かな…脈拍、早い…周太、聴こえる?周太?!」

綺麗な低い声が一生懸命に名前呼んでくれる。
困ったまま驚いた端正な顔は、きれいな切長い目が大きくなって幼げになっていた。

…このかお、かわいくってすき…えいじ

今日はずっと、困った顔ばかり見ているね?
なんだか可笑しくて微笑んだまま、周太の意識は酒の香に融けこんだ。



あまい酒の香から意識がゆっくり浮上していく。
意識の浮上と一緒に睫が啓かれて、ゆるやかに焦点が定まりだした。
おだやかなルームライトのオレンジ色に白い天井が温かい、見覚えのある景色に周太は瞬いた。

…河原にいたよね?それから、…あれ?

さっきまで河原で焚火を囲んでいた。
けれどここは室内で、いつも泊まるビジネスホテルの一室と同じ風景でいる。
いま、頬はやわらかな白いまくらに包まれて、体はベッドのやさしい肌ざわりに沈みこむ。
どうして自分はここにいるのだろう?ゆるく視線を動かすとソファから長身の翳が立ち上がってくれた。

「…周太、気がついた?」

きれいな低い声が穏やかに笑いかけてくれる。
やさしい切長い目の眼差しが嬉しい、素直に周太は微笑んだ。

「英二?…こっち来て?」

ブランケットから掌を伸ばして英二の方へ向けると、綺麗な笑顔がかがみこんでくれる。
大好きな笑顔の頬を両掌ではさみこんで惹きよせて、きれいな切長い目を周太は覗きこんだ。
覗きこまれて、どこか照れたように笑ってくれる。こんな表情を以前の英二はしなかった、この間の土曜の夜までは。
この新しい英二の含羞が嬉しい、うれしくて微笑みながら周太は質問した。

「ね、英二?…どうしてここに俺、寝ているの?」
「周太ね、酔っぱらっちゃったんだ。国村の酒を、一気に呑んだから」
「…お酒?」

記憶の底を浚えて見つめていくと、ひとつのコップが浮びあがった。
そう、自分は喉が渇いてコップを手にとった、そして一息に中身を飲んだ。
なぜそんなことをしたのだったろう?

…あ、バレンタインの…たくさん、貰ったって、

拗ねたような嫉妬が心でまた起きてしまう。
せっかく寝た子を無理に起こしたよう持て余しながらも、正直に周太は口を開いた。

「英二?たくさん今日はチョコレート貰ったんでしょ?…署にまで届いたって、きいたけど?」
「うん、…そうだけど、」

言われて、綺麗な切長い目が困っていく。
こんな困った顔がなんだか良い気分?だって自分が拗ねていることに英二は困ってくれている。
こんなふうに構ってもらえる事がなんだか嬉しくて、つい周太はもっと拗ねてみせた。

「もてるよね、えいじ?かわいい子も、いっぱいいるんでしょ?…俺よりも、きれいなひと、たくさんいるよね?」
「そんなことないよ?周太、」

困っていた切長い目が、急に嬉しそうに笑った。
どうしてそんなに嬉しそうなの?そう見つめた先で英二が綺麗に笑ってくれた。

「いちばん周太が綺麗で、可愛くて、大好き。俺ね、周太の恋の奴隷なんだ。だから…キス、させて?」

こんな笑顔でキスをねだられたら許したくなってしまう。
けれど周太は掌を白皙の頬から離すと、まくらに顔を埋めてしまった。

「嫌、してあげない…あ、おふろ入りたい、」

そっぽ向いたまま起きあがると、周太はベッドから降りかけた。
カーペットの床に足をおろす、そのとき周太の動きが止まってしまった。

…なんで、素足なの?

履いていた黒藍のサルエルパンツも靴下も消えていた。
男なのに体毛も少ない脚がルームライトで露にされている、それにニットも脱がされている。
あわい色のチェックシャツだけしか自分は着ていない。自分の格好に驚いている周太に、綺麗な低い声が教えてくれた。

「周太、酔っぱらってただろ?体を締め付けていると嘔吐しやすいから、楽な格好にさせてあげたかったんだ。
おかげで今、気分も悪くないだろ?顔色も良いし、二日酔いの兆候も無さそうだよ。良かったね、周太?明日は山に行くのだし、」

気がついたら胸元も、シャツのボタンが3つも外されている。
こんな姿は恥ずかしい、きっと顔なんか真赤になってしまう。恥ずかしさに周太はベッドにもぐってしまった。
そんな周太に笑いかけてくれる気配と一緒に、きれいな低い声が楽しげに微笑んだ。

「周太?お願い、ご機嫌、直してよ?いいもの、あげるから」

いいものって何だろう?
英二は趣味が良くて、服でも花束でも素敵だなと思うものを贈ってくれる。
きっと今も「いいもの」なんだろうな?見てみたいし、喜んで受け取ってあげたら大好きな笑顔も見せてもらえるだろう。
気恥ずかしい、でも素直に英二から「いいもの」を受けとりたいな?周太は起きあがると白いベッドカバーを引き寄せた。

「ん、…なに?えいじ、」
「ありがとう、周太。出て来てくれて。はい、これ、」

綺麗な笑顔と一緒に、きれいな包みをひとつ周太の掌に渡してくれる。
見てみると、オレンジピールのチョコレートだった。

「日曜の朝にね、いつものパン屋で見つけたんだ。周太、好みの味かなって思って。ね、周太?バレンタインだよ?」
「…ばれんたいんなの?」

男のひとだけれど、自分にくれるの?
うれしさと恥ずかしさで顔が熱くなる周太に、きれいに英二が笑いかけてくれた。

「そうだよ、周太。俺の本命チョコ、受けとって?」

今日、贈られた中で一番うれしい。
嬉しさに頬染めながら、周太は素直に英二に微笑んだ。

「ん、ありがとう…英二のが、いちばん嬉しいよ?」
「よかった、…周太、」

きれいな笑顔が幸せそうに咲いて、やさしいキスが唇にふれてくれる。
やさしいキスを素直に受けて周太は微笑んだ。

「ん、キス、うれしいよ?…」
「俺も、うれしいよ?ね、周太?いちばん、ってことは、他にもチョコレート貰ったんだ?」
「ん。貰ったよ?」

今日は周太も幾つかチョコレートを貰った。
今までは母にしか貰ったことが無い、けれど今年はいろんな人に貰えて嬉しかった。
嬉しかった想いを英二に聴いてほしくて、素直に周太は続けた。

「朝ごはんの後に、母からチョコレートケーキでしょ?
それから、美代さんがオレンジ・ガトーショコラを焼いてくれて。
あとね、国村のお祖母さんもチョコレートを用意してくれていたんだ…美代さんのお姉さんも、くれて。お母さんと、お祖母さんも」

「美代さんの、お祖母さんたちも?」

すこし驚いたように低い声が訊いてくれる。
やっぱり意外なのかな?自分でも驚いたなと思い出しながら周太は微笑んだ。

「ん。国村の家に遊びに行っている間に、買ってきてくれて…お婿さんにきてね、って、言われたよ?」
「お婿さん…周太、気に入られちゃったんだ?」

すこし驚いたように切長い目が大きくなっている。
この顔は可愛くって好き、うれしく好きな顔に笑いかけながら周太は頷いた。

「なんかね?…はずかしいけど、うれしかったよ?みんな、良い人達で、好きなんだ、俺も」
「そっか。良かったね、周太」

驚いたまま、けれど優しく笑って英二は聴いてくれる。
優しい笑顔が嬉しくて素直に微笑みながら、周太はあと2つのチョコレートの話をした。

「あと2つはね…1つは、昨夜、いつもの新宿の花屋さんで、チューリップの花束を母に買ったとき。
あの花屋のひとがね?常連さんにサービスね、ってチョコレートくれたんだ。…昨夜の電話では言いそびれちゃったけど」

「優しそうなひとだよな?周太、嬉しかったね、」

楽しげに英二は話しを聴いてくれる。
やさしい楽しい空気に心ほどけて、周太は正直に思ったままを言葉にした。

「ん、…ほんとはね、英二のこと好きみたいだよ?でも…俺ね、あの人に『憧れ』ているみたい?で、」
「…花屋さんに?周太が?」

驚いたと困ったがミックスされた顔で英二が見つめてくれる。
いつも落着いている英二を、驚かせて困らせられている?なんだか少し気分が良くて周太は笑った。

「チューリップをね『この子』って呼んで、宝物みたいに大切に手にとるんだ…それで、素敵だな、って見惚れたよ?」

ちょっと英二も嫉妬してくれるのかな?
そう見ている先で綺麗な切長い目は、すこし考え込む風に周太を見つめて、やさしい笑顔で笑ってくれた。

「周太に見惚れてもらえるなんて、羨ましいな?でも…ね、周太?俺の嫁さんになってくれる?」

いきなりそんなこと訊くの?
気恥ずかしさに頬が熱くなってくる、なんて今、答えたらいいの?
けれど本当は応えなんて決まっている、ひとつ息を吸って周太はきれいに笑った。

「ん、…およめさんにしてね?…あ、でも、他のひとに憧れちゃったけど、いいの?」
「もちろんだよ、周太?言っただろ、たくさんの大切な人を見つけてほしいって。だからね、花屋さんも大切にして?」

ほら、英二は受け入れてくれた。
やっぱり本当に言うことを聴いてくれるの?そんな申し訳なさと嬉しさが織り交ぜられて気恥ずかしくなってくる。
あんまり頬が熱くなってばかりいると困っちゃうな?そっと掌で頬を抱え込んだ周太に、微笑んで英二は訊いてくれた。

「ね、周太?あと1つのチョコレートは、誰に貰ったの?」

そうだった、あと1つまだあった。
これは少し恥ずかしいと思いながらも、正直に周太は口を開いた。

「ん、国村だよ?」

「え、…あいつが?」

ちょっと間が空いて、綺麗な低い声が短く訊きかえしてくれる。
なんだか不意打ちが成功したような雰囲気に、つい嬉しくなりながら周太は答えた。

「ん、そう。アーモンドチョコレートをね、一箱くれたよ?本命だからね、って言われて…ね、これも、いいんでしょ?」
「うん。…そっか、あいつらしい、ね?」
「でしょ?」

ほんとうは、隠して置けばいいのかもしれない。
けれどこの綺麗な笑顔の持ち主には、ありのまま自分を全て抱きとめていてほしい。
だって自分の事を「ツンデレ女王さま」と呼んで恋の奴隷になりたいと言ってくれたから、遠慮はもうしたくない。
わがまま正直して、困らせちゃうんだからね?そう瞳で言いながら周太は英二を見つめて微笑んだ。

「でもね、英二?このオレンジピールがね、いちばん嬉しいよ?…ありがとう、英二?」
「俺が、いちばん?」

きれいな幸せな笑顔が隣で華やかに咲いてくれる。
美しい笑顔の華が嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、一番だよ?だから、ね、キスしてあげる…英二、」

美しい笑顔の白皙なめらかな頬を両掌で包む、その笑顔にまた幸せな華が咲いてくれる。
きれいな一番の幸せに微笑んで、そっと周太は大切な華に唯一のキスを贈った。




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第36話 春淡act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-16 22:49:29 | 陽はまた昇るanother,side story
おだやかな時、



第36話 春淡act.2―another,side story「陽はまた昇る」

河辺駅に周太が着いたのは13時前だった。
駅の改札を出ると、コート姿の美代が嬉しそうに駆け寄ってきてくれた。

「よかった、ちゃんとお出迎え間に合った、ね?」

楽しげに美代が弾んだ息で笑ってくれる。
今日の美代は午前中は勤務先のJAで仕事をしていた、きっと急いできてくれたのだろう。
うれしいなと思いながら周太は美代に礼を述べた。

「ん、ありがとう、美代さん…ね、仕事、焦らせちゃったかな?ごめんね、」
「私がね、午後一にすぐ来て、ってお願いしたでしょ?私こそ、お母さんとの時間を短くさせて、ごめんね?」
「それはね、大丈夫。母も、午後から仕事に出るって言っていたから…あ、」

母の話題で想い出して、周太はぺ-パーバッグから綺麗なミニチョコレートケーキを取出した。
朝早くに焼いたバレンタインの菓子を、母は言伝と一緒に持たせてくれた。
こういうのは初めてのこと、気恥ずかしさに首筋を熱くしながら周太は美代に差し出した。

「これね、母から美代さんに。今朝、母が焼いたんだ…それで、美代さん、遊びに来てねって、言伝だよ?」
「私に、お母さんから?わ、ありがとう。うれしいな、すごく綺麗なケーキね?」

うれしそうに笑って美代は受けとってくれる。
大好きな友達の笑顔を嬉しく見ながら、周太はもうひとつの紙袋からブーケを取出した。

「それでね…これ、家の庭の花で作ったブーケなんだ…今日、お家におじゃまするから、お土産に」
「これ、湯原くんが作ったの?すごい、ほんとに素敵なブーケね?うれしい、」

ぱっ、と花が咲いたように笑って美代はブーケを受けとってくれた。
楽しそうに花に頬寄せて香りを楽しんでくれている、そんな様子がうれしくて周太は微笑んだ。

「母にね、教わりながら作ったんだ。俺が作った方だから、あんまり上手じゃないんだけど…ごめんね?」
「ううん、湯原くんが作ってくれたのがね、うれしい。すごく良い香り、お庭に冬ばらが咲くなんて、素敵ね?」
「ちいさいけど、ばら園が庭に造ってあって…父が好きだったんだ。ばらの花にはね、いい思い出があったみたいで、」

話しながら一緒にコンコースを歩き始めた。
あわい紅いろの冬ばらを美代は特に気に入ったらしい、うれしげに眺めては花びらにそっとふれている。
こういう淡い色の花が似合うな?花と似合う友達が嬉しくて微笑んだ周太に、美代が提案してくれた。

「ね、お昼ごはんなんだけど、この間のお店のランチがね、まだ間に合うの。どうかな?」
「あのブックカフェ?…ん、いいね、楽しそう」

1月に鑑識実験で周太が訪れたとき、美代と一緒に行った店は花屋の併設されたブックカフェだった。
けれど花束を持って行っても大丈夫かな?そんな心配をしながら歩いていくとすぐ店についた。
扉を押して入ると、相変わらず綺麗な花と本が迎えてくれる。
陽だまりの居心地いいソファに落ち着いて、美代と一緒にランチメニューを覗きこんだ。

「ね、ここはね?パンが結構おいしいらしいの。サンドイッチのセットとか、結構、量も多いらしくって」
「ん、美代さんも、お昼は、初めてなの?」

なにげなく周太は訊いてみた。
訊かれて美代は頷きながら楽しそうに答えてくれる。

「うん、仕事帰りか、午後のお茶だけだったから。
食事の時間だと、だれか一緒の方が楽しいし。だからね、湯原くんと来ようって思ってたの。今日はね、これも楽しみだった1つ」

こんなふうに友達が自分の為に楽しみをとって置いてくれる。
こういうのは嬉しい、そして、やっぱり、と思ってしまう。
やっぱり自分はこの友達が大好き、いくら恋敵でもどうしたって憎めない。
なんだか嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう…なんかね、うれしいな?…あ、俺もね、美代さんと行こうって思ってる所があって」
「ほんと?それ、聴きたいな?あ、でも先にね、オーダーしよう?」
「あ、そうだね?…クラブハウスサンド、にしようかな、」

一旦お喋りは中断すると、ふたりでメニュー表に額つきあわせて食事を選んだ。
無事にオーダーが終わると、周太は一枚のプリントを鞄から取り出した。

「これね、土曜日にも持っていたんだ…でも、今日ゆっくり一緒に見ようって思ってて、」

土曜日にラーメン屋で再会した、樹医から貰った大学の公開講座一覧。
このプリントを美代に見せることが周太にとって今日の楽しみの一つだった。
喜んでくれるかな?そう見ている先で、きれいな明るい目が嬉しそうに笑ってくれた。

「これ、東京大学の森林科学専攻の公開講座ね?…すごい、これ、行ってみたかったの。どうやってこれ、貰ったの?」
「ん、あのね、この間も話した樹医のひと。あの人に貰ったんだ…申込書もあるんだけど、」

セットで貰った申込書を出してテーブルに周太は広げた。
なにげなく貰ったものだったけれど、美代は驚いてくれている。
そんなに珍しいものなのだろうか?すこし驚いて見ていると、美代が教えてくれた。

「ここの公開講座ってね、人気が高くって。それにね、なんとなく敷居が高くて、気後れしちゃって。
でも、奥多摩の水源林とか、受講してみたかったの…あ、その樹医の先生って、もしかして東大の先生なの?」

「ん、なんかね、講師らしいよ?でね、この講座も担当してて…あ、それでね、貰った本にね…」

青木樹医にもらった本の詞書と、内容について周太は美代に話し始めた。
やっぱり公開講座も美代は喜んでくれた、こんなふうに自分と同じものに興味を持ってくれる友達は嬉しい。
春の公開講座の予定を決めながら、気持ちのいい陽だまりの席で周太は楽しい時間を友達と過ごした。



御岳に立つ美代の家は、明るい雰囲気の農家だった。
美代が運転する車から降りると和やかな佇まいが気持ちいい、光一の家の隣とはいえ間に畑をはさんで離れていた。
なにげなく見まわした庭には、やさしい早春の花が雪残る間にも元気に咲いている。
雪割草、水仙、菜の花。雪に咲く花々は愛しい想いを起こさせる、可愛いなと眺めていく一角に菜園が造られていた。
なんとなく雰囲気が農家レストランの畑と似ている。たぶんそうかなと菜園を眺めていると美代が恥ずかしげに微笑んだ。

「あのね、私が作らせてもらっている畑なの。光ちゃんのお祖母さんの畑と、ここはね、私が一人で作ってて」
「ふたつも畑を作ってるの?…すごいね、美代さん」

心から感心しながら周太は美代を見た。
美代は平日はJA職員として仕事している、その合間に2つも畑の面倒を見ている。
きっと本当に好きじゃなかったら出来ない事だろう、そんな植物を愛する友達が周太は嬉しかった。
すごいね?と目でも賞賛する周太を見つめながら、気恥ずかしげに美代は両掌で赤い頬をはさんだ。

「すごくないよ?どっちも小さな畑だし、好きなことしているだけよ?…ね、ここも面白い野菜があるのよ、」
「ん、見せてくれる?」

きっとここも綺麗な野菜がいっぱい育てられているだろうな?
見てみたくて素直に訊いた周太に、嬉しそうに美代は頷いてくれた。

「もちろん。これも楽しみの1つでね、今日はお招きしたんだもの?」
「そういうの、うれしいな…あ、」

話しながら庭を横切って美代の菜園にふたり佇んだ。
野菜たちは雪のなかに彩鮮やかに瑞々しい、きれいな野菜の姿に見惚れながら周太は早速質問をした。

「ね、美代さん。この紫の葉っぱは何?」

あざやかな紫色の、サニーレタスのような縮み葉の野菜が雪のこる畑に映えている。
これは食べられるのだろうか?あんまり綺麗な紫に思わずしゃがみこんで不思議に見てしまう。
そんな周太の姿に嬉しそうに美代は笑って、隣にしゃがみこむと一枚ちぎってくれた。

「これね、ケールなの。レッドボーっていう名前でね、ビタミンCが豊富なの。加熱すると色が消えちゃうんだけど、」

話しながら、ちぎった一枚を半分に分けると周太に片方を渡してくれる。
勧められるままに口に入れてみると、赤キャベツのような味がする。
生野菜のアクセントになるかな?考えながら周太は訊いてみた。

「ん、サラダとかに入れたら、きれいだね?」
「でしょ?これね、見た目もきれいだから、観賞用としてもいいかな、って。思って…でね、この赤いのは、チコリなの」
「きれいなワイン色だね、…外国の野菜?」

あざやかな赤葡萄色に見惚れてしまう。
こんなきれいな色の野菜があるんだな?うれしくて微笑んだ周太に嬉しそうに美代が笑いかけた。

「うん、そうなの。ほろ苦くってね、独特の風味が良い味よ?はい、」

また1枚ちぎって半分にすると周太に渡してくれる。
口に入れると歯ざわりの好さが印象的でおいしい、感心して周太は美代に笑いかけた。

「ん、おいしいね?…すごいね、こんなに色んな野菜が造れるなんて。違う土地のものを作るって、難しいでしょ?」
「そうね、上手くいかない時もあるのよ?でもね、色々調べて頑張ってみると、上手に出来る。それがね、嬉しいし楽しいよ?」

ふたりで雪の菜園にしゃがみこんで話すのが楽しい。
ときおり葉をちぎって試食しながら野菜の話に夢中になっていると、可笑しそうな笑い声がふってきた。

「ほんとうに、仲良しね?、雪があるのに、しゃがみこんで夢中になって、」

ふたり一緒に顔をあげると、30代くらいのきれいな女性が畑の縁で微笑んでいる。
きれいな明るい目の彼女は楽しげに声を掛けてくれた。

「美代、お茶も出す前から、畑談義なの?遠くから来てくれたのでしょうに、」
「お姉ちゃん、来てくれたのね?よかった。ね、見て?湯原くんにね、お花もらったのよ」

嬉しそうに立ち上がると美代はブーケを彼女に見せてくれる。
一緒に立ちあがった周太に美代の姉はやさしく笑いかけてくれた。

「うん、見てそうかなって思ったよ?はじめまして、美代の姉です。素敵なお花ね?ありがとう、」

明るく周太に笑いかけてくれる笑顔は、美代と似ているけれど大人っぽくて綺麗だった。
こういう年上の綺麗な女性と話すことは緊張がくすぐったい、しかも雪のなか座りこむような子供っぽいところを見られてしまった。
初対面から幼いと思われてしまったかな?気恥ずかしさに頬を熱くしながら周太は頭を下げた。

「あの、初めまして…遠慮なく、お伺いしてすみません」
「嫌だったら、お招きしないわ?さ、あがってください。お茶、淹れますね」

やさしく笑って美代の姉は家へと招き入れてくれた。
清々しい居間に通されると周太は、きちんと美代の両親と祖母に挨拶して川崎の菓子折を差し出した。
喜んで受け取ってくれながら美代の母は、楽しそうに周太を見て微笑んだ。

「丁寧にありがとうございます。ほんとうに美代から訊いていた通りね?きちんとしてて、きれいな男の子さんで」
「あの、ありがとうございます…なんか、恥ずかしいです」

首筋がまた熱くなってくる。
赤くなると困るなと思っていると、余計に緊張して頬も熱くなってしまった。
そんな周太を見て美代の祖母が楽しそうに笑った。

「ずいぶんと内気な男の子さんだね?いまどき珍しいね、こういう純情な子は。美代、あんた、良い友達だね?」
「そうでしょ、おばあちゃん?湯原くんはね、きれいで優しいの。でね、植物が好きでね、私の話も聴いてくれるの、ね?」」
「あ、…ん、はい、植物は好きです、…」

率直に美代は褒めてくれるけれど、緊張している周太にはよけい赤くなる種になりがちだった。
友達の家を来訪することは光一の家に行ったくらいしか周太にはない。それに周太は大家族の雰囲気は初めてだった。
不慣れなことに緊張してしまう、すこし困って俯くと美代の父が笑ってくれた。

「そんな緊張しなくっていいんだよ?気楽にしてくれ。こんな家族総出で、驚かせて済まないね?」
「いいえ、こちらこそ申し訳ありません。あの、お言葉に甘えてしまって」

実直な雰囲気の美代の父はどこか英二とも感じが似ていた。
英二と同じように御岳で生きている人だからだろうか?すこし不思議に見ていると美代の父は気さくに教えてくれた。

「こちらこそね、美代に言っていたんだ、いちど連れておいでって。
だって美代がね?光ちゃん以外の男の話するなんて、初めてだったしな。しかも、女の子の友達より仲良しみたいだ。
どんな子かなって言っていたんだよ、そしたら美代が言っていた通りだ。みんな喜んでいます、仲よくしてやってください」

温かい笑顔で周太に笑いかけてくれる。
こういうふうに言って貰えるのは嬉しい、素直に周太は微笑んで頷いた。

「こちらこそ、仲よくしてもらえて、いつも嬉しいです。ありがとうございます」
「こちらこそね、ありがとう。美代は歳の離れた末っ子だから、ちょっと気儘なとこもあるけれど、よろしくお願いします。
今日も気楽に遊んでいってください。ちょっと俺は、組の集まりに行ってきますけれどね、遠慮なくゆっくりしてくださいよ」

気さくに笑うと美代の父は出かけて行った。
その背中ががっしりとして、大地に生きる人の力強さが頼もしい。
英二や光一の背中もそうだけれど、山で自然と人に向き合って生きる人はどこか頼もしい空気がある。
あんなふうな背中が男の背中なんだろうな?ちょっと憧れる想いで周太は美代の父の背中を見送った。

熱いお茶で一息つくと、ガトーショコラを作ってくれる美代を周太は手伝った。
一緒に美代の姉も手伝ってくれて出来上がったケーキは、オレンジの香が好みで嬉しい。
焼きたてのオレンジ・ガトーショコラで周太は、美代の家族と一緒にお茶を楽しんだ。

「ね、湯原くんて、ケーキ作るのとか慣れてるの?」

食べながら美代が訊いてくれる。
ちょっと恥ずかしいなと思いながらも周太は正直に答えた。

「ん、あのね、ちいさい頃から台所に立つの好きで…それでね、母のお菓子作りも手伝っていたんだ、」

こんなの男らしくないだろうな?そんな想いに首筋が熱くなってくる。
けれど本当のことだから仕方ない、気恥ずかしくても周太は微笑んだ。
そんな周太に美代の姉たちは楽しそうに笑いかけてくれた。

「いいな、こういう息子って憧れるわ。私もね、息子がいるの。小学校1年生だけど、お台所を教えたくて。湯原くんは幾つの時から?」

こんな息子でも、いいのかな?
ケーキ作りをするというと「女みたい」とか「男の癖に」と言われることも多くて、小さい頃から嫌だった。
けれど、ここでは受け入れてもらえる。こんなふうに褒めてもらえたことが嬉しくて周太は微笑んだ。

「ありがとうございます、…4つの時からだったと、母に訊いています」
「そんなに、ちいさい頃からお手伝いしていたの?偉いわ、私も、もっと早期教育すればよかった、」

周太の答えに感心して美代の姉が頷いてくれる。
その隣で美代の母も楽しそうに笑って言ってくれた。

「ほんとにねえ?いいね、こういう男の子さんは。
この子と美代の間にね、長男がいるんだけど。台所はからっきしダメ、食べるだけ。
こんな可愛い息子さんに、ごはん作って貰えるなんて、湯原くんのお母さんは幸せね。今日は幸せのおすそ分け頂いちゃったね?」

幸せのおすそ分け、そんな美代の母の言葉が周太は嬉しかった。
自分のこういう所が母を幸せに出来ている、そう思えることが幸せで周太は微笑んだ。

「あの、そんなに喜んで頂けて、嬉しいです…でも、なんか恥ずかしいですね?」

言いながらも頬が熱くなってくる。
きっと顔がもう真赤だろうな?すこし困っていると美代の祖母が楽しげに周太の顔を眺めた。

「おやまあ、ほんとにね、純情な男の子さんだ?
こんな子がね、ウチの孫だと良いのにねえ?美代、あんた、光ちゃんより湯原くんの方が良いんじゃないの?」

なんだか話がとんでもない方向に向かい始めそう?
困ったなと思いながら周太はケーキを大きめにフォークにとると口に運んだ。
頬張ってしまえば話しかけられても答えなくて済む、そう口を動かしている周太の隣で美代が嬉しそうに微笑んだ。

「あのね、おばあちゃん?私と光ちゃんはね、恋人とかじゃないの。弟みたいなものよ?でね、湯原くんは大好きな友達なの、でも、」

ちょっと言葉を切って美代が周太の方を見てくれる。
なにかな?とケーキに口動かしながら周太も見つめ返すと、ちょっと気恥ずかしげに美代は微笑んで口を開いた。

「でも、ね?きっと、人生を、ずっと一緒に生きていくなら。湯原くんとなら、楽しいだろうなって思うな?」

だって美代さん、英二のことは?そんな質問と一緒に周太はケーキを飲みこんだ。
けれど美代の姉は楽しげに妹へと話しかけた。

「そうよ、美代?優しくって細やかなひとはね、良いお婿さんになってくれるんだから。お友達でもね、これから解らないしね?」
「でもね、お姉ちゃん、湯原くんは好きなひといるの。だから、ダメ。でもね、一生お友達でいてもらうの、ね?」

率直に答えながら美代は、素直に周太に笑いかけてくれる。
こういう会話には全く馴れていない、すっかり周太は困りながら口を開いた。

「あの、…はい、友達でいたいよ?」
「ね?友達でいてね?」

うれしそうに美代は笑いかけてくれる。
こんなふうに笑ってもらえるなら嬉しいな?そう思いながらケーキを口に入れた周太に、美代の母が微笑んだ。

「あら残念、こんな息子が欲しいのに。でも、気が変わったらね、いつでもお婿さんになってね?」

こんなこと今日は言われるなんて考えていなかったのに?
なんだか所在無くて困ってしまう。頬まで熱くしながら周太は、ひたすらケーキに口を動かしていた。

お茶のあとは、美代の部屋で本を見せてもらいながら植物の話題を楽しんだ。
それから周太は美代と一緒に、光一の家を訪ねることにした。
日曜日はレストランへと急な来訪をしてしまった、けれど光一の祖母は快く迎えてくれて嬉しかった。
そのお詫びとお礼に行きたい、そう思って屋敷の門を入ると縁側で会話に花が咲いている。
その姿を遠目に眺めて、美代は悪戯っ子に周太に笑いかけた。

「ね、御岳のおばちゃん達がね、集まってるね?きっと、今、あそこにいくとね。話に巻き込まれるかも?」
「ん?そう、なの?」
「うん、たぶんね、宮田くんの同期です、ってなると、きっと餌食よ?」

可愛らしい声で「餌食よ?」なんて物騒な物言いをするのが可笑しい。
可笑しくてつい周太は笑ってしまった。
その笑い声に光一の祖母が気がついて、縁側に招いてくれた。

「湯原くん、美代ちゃん、おいで?よく来たね、お茶あがってきなさい、」

呼びかけながら、もう彼女は急須に湯を注ぎ始めている。
ほら捕まっちゃうね?そう目で悪戯に笑って美代は周太のダッフルコートの袖を掴んで連れて行ってくれた。
縁側まで行くと光一の祖母は、近所の主婦らしい3人と迎えて微笑んでくれる。
周太は菓子折を光一の祖母に差し出して、日曜日の礼を述べた。

「一昨日は急におじゃまして、すみません。でも、とても楽しかったです。ありがとうございました」
「あら、まあまあ、丁寧にわざわざ、ありがとうね?こっちこそ楽しかったわ、」

楽しげに笑いながら光一の祖母は菓子折を受けとってくれる。
受けとって貰えて嬉しく想いながら周太は、こんどは紙袋からブーケを取出した。

「あの、これ、家の庭の花で作ったんです。母と一緒に摘んだ花を、母にまとめてもらいました」

話しながら周太はブーケを光一の祖母に手渡した。
ふわり冬ばらの香が2月の空気にとけて、光一の祖母は花咲くように微笑んだ。

「まあ、きれい。うれしいわ、こんな可愛い男の子に花を貰えるなんて?人生も捨てたもんじゃないわね、」

うれしそうに花の香を楽しんでくれる彼女の笑顔が、周太も嬉しかった。
こんな様子を見て同席している近所の人たちが楽しそうに話しだした。

「まあ、うらやましいわね?あなたは、光ちゃんのお友達かしら?それとも美代ちゃんの?」
「あ、ふたりとも仲よくして貰ってて、」

素直に周太が答えると、主婦の一人が「あ、そうね?」と笑った。
なにが「そうね」なのだろうと考えていると、そのひとが周太に訊いてきた。

「もしかして、宮田くんの友達なの?」

とうとう聞かれちゃったね?
そんな顔で美代が隣から周太を見て、悪戯っ子に微笑んだ。
これから少し大変なのかな?思いながらも周太は素直に頷いた。

「はい、…あの、警察学校の同期で、」
「あら、そうなの?学生時代のお友達かと思っちゃったわ、警察官って感じじゃないから。ねえ、宮田くん、素敵ね?」

嬉しそうに彼女たちは周太と美代を引っ張り込んで、お喋りを再開した。
そうして周太と美代は暫くの間、英二のことを主婦たちから聴かされる時間を過ごした。



縁側の茶話会が終わって、周太は美代が運転する軽自動車に乗込んだ。
ちょうど光一の祖父が途中で帰ってきてくれて茶話会は早めに切り上げられた。
こういう女性の集まりに同席したのは周太は初めてだった。
いろいろ驚いたな?思わず、ほっと息吐いた周太に美代が笑いかけてくれる。

「さて、お疲れさまでした、ね?湯原くん。すごかったでしょ、おばちゃん達」
「ん、…ああいうのって、俺、初めてだったから…ちょっと驚いた、ね?」

素直な感想を述べて周太は美代に微笑んだ。
美代も微笑んで頷くと、車を走りださせながら言葉を続けた。

「ね?宮田くん、大人気よね?なんかね、女の子たちも最近は、駐在所を覗いていくらしいのよ?」
「ん、そう、なの?」

それも仕方ないだろうな?
ちょっと哀しくなりながらも納得していると美代は明るく宣言した。

「うん。でもね、宮田くんって湯原くんばっかりよ?だからね、何人女の子が来ても、私のライバルは湯原くん唯一人」

心配しないで自信を持って?
そんなふうに美代は明るく笑って励ましてくれる。
こういう美代の明朗さが大好き、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう。俺もね、ライバルは美代さんだけ、かな?」
「ね。唯一人のライバルで、いちばんの友達よ?こういうのって楽しいね。さて、着いたよ?」

御岳駐在所近くの農道に美代は車を停めた。
今日は所長の岩崎が長野の高峰へ出掛けて英二と光一のふたりで勤務だった。
ちょうど午後の巡回が終わって帰ってくる時間になる、もう帰っているだろうか?
思いながら駐在所の入口を開きかけて周太は止まった。

「うん?どうしたの、湯原くん、」

後ろから美代に訊かれて、周太は困ってしまった。
さっき美代が話していたことが現実になっている?これをどう考えよう?
そう思っていると、さっさと美代が入口を開いてしまった。

「こんにちは、宮田くん、光ちゃん。チョコレートと一緒にね、湯原くんも連れてきたんだけど?」

明朗な声と可愛い笑顔で、堂々と美代は駐在所に入った。
入った先では制服姿の女の子の前に困った笑顔の英二が立っている。
その困り顔の笑顔が周太を見つけると、嬉しそうな笑顔に変わって周太の方へと来てくれた。

「周太、来てくれたんだ?予定通りに着けた?」

きれいな笑顔で英二は周太に笑いかけてくれる。
けれど、その笑顔の向こうでは、高校生らしき女の子が所在無げに佇んだままでいる。
きっとバレンタインだから憧れの駐在さんにプレゼントを持って来た、それなのに英二は放り出してしまった。
こんなふうに独り占めさせてくれようとするのは嬉しい、けれど女の子の気持ちを想うと英二の笑顔を今は受入れたくない。
なんだか拗ねたい気持ちと女の子を庇いたい想いがミックスされてしまう、周太は思ったままを英二に告げた。

「それより英二?あの女の子、ちゃんとしたら?…いいかげんなのって嫌い、だよ?」

そっけなく言い放つと周太は給湯室でコーヒーを淹れ始めた。
たぶん英二は呆然としただろうな?もし嫌われたらどうしよう?
そんな心配や不安も廻ってくる、けれどちょっと良い気分な自分がいる。
けっこう自分は意地悪なのかな?そんなことを考えながら手を動かしていると、隣から光一が覗きこんできた。

「周太、さっきのイイね、ツンデレ女王ってカンジ。
恥じらいに頬染めて、キツイこと言うなんてさ?イイね、ちょっと俺、ゾクってきちゃったよ。今度、俺にもやって?」

底抜けに明るい目が愉しげに笑っている。
何時の間に光一は目撃していたのだろう?気恥ずかしさに余計に頬を熱くしながら周太は訊いてみた。

「え、…見ていたの?…はずかしいな、」
「うん、しっかり見たよ?宮田、一瞬でしょげちゃってさ?あんなに一喜一憂する宮田、イイ見モノだよ。俺は好きだね、」

からり笑って細い目が愉しげに笑っている。
なんだか困りながらもコーヒーを淹れていると、休憩室に菓子をひろげてくれた美代も隣に来て笑いかけてくれた。

「また光ちゃん、変なこと言ってるね?でもね、さっきの湯原くん、私も好きよ?」
「え、…ん、そう、なの?」
「うん、凛としてね、かっこよかったよ、」

率直に言って美代が笑ってくれる。
単に自分はわがままに思ったとおり言っただけ、なのに左右から褒められるなんて?
なんだか困ってしまう、なんて答えていいのか解らない。
そんな途惑う周太の顔を覗きこんで、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑んだ。

「マジかっこイイよ、さすがツンデレ女王さまだ。
恋の奴隷をさ、キッチリ曳きずりまわしてやんな?さて、見物するかな、宮田の困り顔って色っぽいんだよね、」

楽しげに光一は給湯室の入口から、さりげなく表の様子に目を遣り始めた。
そんな光一の後ろから、気恥ずかしげに微笑ながら美代も覗きこんだ。

「あ、ほんとね?困った顔の宮田くん、色っぽいね?」
「だろ?あいつさ、最高のエロ別嬪だからね。こういう貌はマジそそられるよ、」
「また光ちゃん、変なこと言ってるね?でも、ちょっと解かるかも?」

ふたりともなんて会話しているの?
すっかり気恥ずかしくなって周太は首筋を赤くして困ってしまった。
それでも手を動かして、4つのマグカップをコーヒーで充たしていく。
今日のコーヒーは「気恥ずかしい」味になっているかもしれない?
そう考えている周太の隣では、美代と光一は二人して表の様子に興じていた。



(to be continued)

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第36話 春淡act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-15 22:35:37 | 陽はまた昇るanother,side story
こころ、春おとなう、



第36話 春淡act.1―another,side story「陽はまた昇る」

おだやかな陽光と額にふれる優しさに周太は目を覚ました。
披いていく睫の向こう、やさしい黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
ひとつ瞬いて焦点があうと、楽しげに母が笑った。

「おはよう、周、私の宝物さん。バレンタインのチョコレートケーキが焼けたよ?」

ゆっくり瞬いて周太は母の瞳を見つめた。
見つめる母からはチョコレートがやさしい甘さに香ってくる。
眠っている自分を母は眺めていたらしい、気恥ずかしさに微笑んで朝の挨拶をした。

「おはよう、お母さん…どうしたの?寝ている所にくるなんて」
「久しぶりにね、周の寝顔を見たくなっちゃって。相変わらずの天使の寝顔だったよ?ほんと可愛いね、周は」

楽しげな母の微笑が明るくて嬉しい、うれしくて周太も微笑み返した。
けれど額の感触がすこし気になってしまう、起きあがりながら周太は訊いてみた。

「あのね、お母さん?…もしかして、おでこにキスしてくれた?」
「あ、ばれちゃったね?」

明るい声で母がバツ悪げに微笑んだ。
微笑んだ黒目がちの瞳で周太の瞳を見て、穏かに母は答えてくれた。

「昨夜ね、帰ってきた周を見た時に、すこし大人の顔になったなって感じたの。
それでね、思ったの。もうじき離れる時がくるかな、『離れる練習』が本番になるのかなって。
だから今朝は寝顔を見たくなって、久しぶりに周の寝顔を見に来たらね?もうキスも最後かなって思って、させてもらっちゃった」

昨夜は日勤がすこし長引いた後で帰ってきたから、家に着いたのは21時近かった。
食事の時は射撃大会の話をして、そのあと風呂を済ませてすぐ寝んだから、昨夜は英二のことは話せていない。
それでも母は周太の変化を感じ取ってくれている。こんな暗黙の理解が嬉しい、けれど同時に寂しさを想いながら周太は微笑んだ。

「ん、…すこしだけね、大人になれたかも、しれないんだ。英二と、光一と、美代さんのこと、すこし整理がついたから」
「そう、よかった。だからかな?周、すっきりした顔してるもの?」

きれいに微笑んだ母が、ふと周太の枕元に目を留めた。
見つかっちゃったな?今度は周太がバツが悪くなりながら微笑んだ。
そんな息子を見て母は、愉しげに笑ってくれた。

「周、小十郎と寝てあげたのね?」

気恥ずかしさに頬が熱くなってくる。
それでも周太は枕元からテディベア「小十郎」を抱き上げて微笑んだ。
テディベアの「小十郎」は、ひとりっこの周太には大切な友達だった。
この大切な友達をそっと抱きしめて、恥ずかしさに頬が熱くなりながら周太は母を見た。

「ん、そうだよ?…昨夜、屋根裏部屋からね、連れてきたんだ」
「小十郎の指定席の、あのロッキングチェアーから、ね?」

大切な宝物「小十郎」を周太は、父の死の知らせを聴いた瞬間に忘れてしまった。
そんな息子を母は静かに見守りながら、周太の代わりに「小十郎」を大切にしてくれていた。
けれど光一との再会で記憶が戻った周太に、母は「小十郎」を再び贈ってくれてた。
母のおかげで「小十郎」は13年と10ヶ月ぶりに屋根裏部屋のロッキングチェアーに戻ってこれた。
あのときの感謝に微笑みながら、気恥ずかしくても周太は思ったままを口にした。

「ん、そう…今もね、小十郎はあの椅子が好き、みたいで、」

ゆうべ帰ってきて屋根裏部屋に入ったとき、昔通りに座っている姿が嬉しかった。
天窓ふる星空を見あげるロッキングチェアーから「おかえりなさい」と笑ってくれたように思えた。
嬉しかった昨夜の記憶を想いながら、赤い頬のまま周太は微笑んだ。

「小十郎とね、屋根裏部屋で話して…それで、13年間は寂しかったろうな、って思って」

記憶を失う前まで周太はいつも「小十郎」とお喋りをしていた。
なぜか「小十郎」に話しかけると良い考えが浮かんで、なんでも楽しく出来た。
傍にいると心が明るくなる不思議なテディベア、ずっと宝物だった。
こんなに大切な宝物、なのになぜ自分は忘れてしまったのだろう?
自分自身で記憶の喪失を不思議に思いながら周太は、ありのままを母に話し始めた。

「13年間ずっと忘れていた分をね、埋め合わせしてあげたくて…。
それで、昨夜は一緒に寝たかったんだ…でも、やっぱり、23歳の男がテディベアと寝るなんて、変だよね?」

吉村医師にも言われたように、自分の精神年齢はまだ11歳足らずだろう。
それでも世間の目はさすがに解かる、23歳にもなった男がテディベアを可愛がるのは「変」だ。
けれど「小十郎」の気持ちを想うと昨夜は一緒に寝てあげたかった。
小学校に上がった時も悩んだことだけれど、やっぱり自分は「変」なのだろう。
こんな変な息子の自分がいろいろ申し訳なくて、周太は母に謝った。

「ね、お母さん…ごめんなさい、変な息子で」

こんなの母も恥ずかしいだろうな?そう思いながら周太は母の瞳を見つめた。
けれど母は、愉しげに笑って掌を伸ばすと「小十郎」の頭を撫でてくれた。

「周らしくって、素敵よ?周はね、そういう繊細で優しいとこが良いね。きっと、小十郎も嬉しかったと思うな?」

こんな自分でも母は受けとめてくれる。
いつもながらの無条件の受け入れが嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、…ありがとう。お母さん」
「あら、ほんとのこと言ってるだけよ?それにね、きっとお父さんも喜んでると思うわ」
「ん、お父さんが、喜んでくれるの?」

意外な母の言葉に周太は訊きかえした。こんな女々しい自分でも、父は喜んでくれるのだろうか?
そんな疑問と見つめた母は穏かに話してくれた。

「お父さんが小十郎を連れてきたのってね、まだ周が生まれる前だったでしょう?
あのときもね、お父さん忙しかったから、周が生まれてすぐ会えるかも解らなくって。
それでね、自分の代わりに周を見守ってほしいからって、言ってね。お父さん、小十郎を連れてきたのよ」

生まれる前に「小十郎」を連れて来てくれたのは周太も聴いていた。
けれど、父の身代わりだったことは初めて聴く。驚いたまま周太はつぶやいた。

「小十郎、お父さんの身代わりなの?」

「うん、そうなの。自分が忙しいせいで、周を寂しい思いさせるかもしれない。
だから自分の分も相手になってくれるように、テディベアを贈りたいって。名前も一生懸命に考えていたわ、お父さん」

父の身代わり。
初めて知らされた父の想いと「小十郎」を周太は見つめた。
どうして父の死と同時に自分が「小十郎」を忘れてしまったのか、その理由が解かったかもしれない。
そして母が「小十郎」を13年間ずっと大切にしていた想いが、切なくて愛しくて心が温まっていく。
ふりそそぐ両親の想いを見つめる視界におりていく涙の幕のなか周太は微笑んだ。

「お母さん。小十郎のこと、ずっと大切にするね…13年間、小十郎を大事にしてくれて、ありがとう、お母さん」
「こっちこそよ?ね、周。13年間、小十郎を貸してくれて、ありがとう」

ぽとん、周太の瞳から涙がこぼれて「小十郎」の瞳の涙になった。
一緒に泣いてくれる「小十郎」を抱きしめながら周太は母の瞳に微笑んだ。

「お母さん、あのね、…俺も、お母さんに、キスしていい?」

こんなこと23歳の男が言うのは変かもしれない。
けれど今、精一杯の愛情を母に贈りたい。
それでも気恥ずかしくて首筋も頬も熱い周太に、母は穏やかに笑ってくれた。

「うん、うれしいわ。ひさしぶりのキスね?」

きれいな黒目がちの瞳が愉しげに笑ってくれる。
そんな母の瞳に微笑んで周太は、そっと母の額にキスを贈った。

階下に降りて仏間への挨拶を済ますと、周太はリビングの扉を開いた。
やさしい甘い香と陽射しに温かい部屋の、あかるい陽だまりのテーブルにはチューリップの花束が可愛いく活けられている。
昨夜は固い蕾の花だったけれど今朝は綺麗にほころび始めている、嬉しくて周太は微笑んだ。

「…おはよう?きれいだね、」

この花束は昨夜帰ってくる途中で周太が新宿の花屋で買ってきた。
昨日は東口交番の勤務を終えてから3日間の休暇分の荷物を持つと、新宿南口のクラフトショップへと寄った。
目当ての植物標本用の薬剤を買って南口改札へ向かうとき、いつも英二が母に花束を作る花屋を通りかかった。
そこで目にとまったチューリップが可愛くて、周太は初めて一人で立ち寄ってみた。
すこしの緊張と店先を覗きこんだ周太の姿に、いつもの女主人はすぐ気がついて微笑んでくれた。

「こんばんわ、今日はひとりなの?」
「あ、こんばんわ…あの、今日はひとりです。それで、チューリップの花束、お願いできますか?」
「はい、かしこまりました」

いつもどおりに明るく笑って彼女はカウンターから出て来てくれた。
やさしい彩どりのチューリップの中に佇むと彼女は周太に微笑んだ。

「贈る相手は、どんな方ですか?」
「あの、母なんですけど…」

なんて母を表現したらいいだろう?
いつも英二はなんて母を表現して女主人に伝えていただろうか?
うまく表現できないで困りかけると、彼女は微笑んで言ってくれた。

「瞳がきれいな、穏かな方ですね?やさしい明るい感じにしましょう。お花、君も好きよね?どのチューリップが好きですか?」

彼女は英二のオーダーを覚えてくれていた。
しかも周太のことも見てくれていたらしい、彼女が作ってくれる常連の優しい空気に周太は緊張がほどけて微笑めた。

「ありがとうございます…俺は、このピンクと白のが好きです」
「かわいいですよね、この子。私も好きなんです。じゃあ、この子をメインに合わせていきますね?ほかに気になる子いるかな?」
「はい、この透明な赤い花、きれいだなって…」
「この子ね、今日いちばんの美人さんなのよ。やっぱりお目が高いですね?」

楽しそうに笑いながら彼女は綺麗にチューリップをまとめてくれる。
花を褒めながら手にとる優しさが嬉しくて、ブーケを作る鮮やかな手際が綺麗で周太は楽しく見惚れた。

「はい、今、こんな感じです。足し算ひき算あったら教えてくれるかな?」
「とても素敵です、ありがとうございます」
「よかった、気に入って頂けて嬉しいです。じゃ、オマケのお花を入れて仕上げますね、」

彼女の優しい気遣いのおかげで、周太が想ったとおりのブーケを作って貰えた。
あの女主人は心から花を愛している、チューリップに「この子」と呼びかけた微笑は彼女の心映えがきれいだった。
きっと英二が贈ってくれた婚約の花束も彼女が作ってくれたのだろう、あのメッセージカードも優しさがあふれていた。
花を愛する彼女と話すのは楽しくて、昨夜は思いがけない嬉しい時間が過ごせた。
けれど微かな罪悪感も感じてしまう、ちいさなため息と一緒に周太はチューリップに話しかけた。

「…ね?あのひとは、やっぱり、英二のこと好き、なのかな…」

昨夜、彼女が周太を見る目は、英二を見つめる目と違っていた。
以前も彼女が英二を見る目が気になった、きっと英二を好きなのだろうと感じた。
このことを、彼女の想いを英二は気づいているのだろうか?

「…もてるよね、」

ぽつんと呟いて、すこしだけ周太は落ち込んだ。
今日は母とゆっくり過ごした後、昼過ぎには奥多摩に自分は立っている。
今日は美代と待ち合わせて半日を一緒に楽しむ約束をしている、夜は英二と光一も一緒に食事する。
美代は大好きな友達だから会えることは本当に嬉しい、けれど。

「…美代さん、英二のこと、好きだから、ね…でも、」

美代は英二に憧れている、きっとこのまま恋になるだろう。それくらい英二は魅力的だから。
外見の美貌はもちろん魅力的だけれど、それ以上に真摯で実直な努力家なところが素敵だと思う。
どうしても英二は華やかな容姿が目立ってしまうから、内面とのギャップが大きくて本人は随分苦しんできた。
けれど、美代は英二の内面を好きになっている、周太と同じように。
そんな美代も可愛らしい外見だけれど、それ以上に実直で明朗なところが素敵で周太も大好きだ。
だからこそ、周太はため息を零しながら微笑んだ。

「…強力な、ライバル…だよね、きっと。でもね、大好きな友達だから、今日は楽しみ…逢えるし、ね」

そっと最後の言葉を呟くと首筋が熱くなりだした。
今夜と明日の夜と、英二は一緒に過ごしてくれる、それが嬉しくて気恥ずかしい。
つい先日の土曜夜も、どうしても英二と一緒にいたくて周太は、奥多摩へと行った。
あの夜はとても幸せだった、あんな我儘な自分を英二は喜んで受けとめてくれて嬉しかった。
今夜はどんな夜になるのだろう?ぼんやりチューリップを見つめて顔を赤くしていると、母が笑いかけてくれた。

「周?朝ごはん、出来たよ?…あら、お花見ていたのね?」

呼ばれて我に返って周太は顔をあげた。
いつのまにかクライマーウォッチは7:20を示している、20分以上も花の前にいたらしい。
朝ごはんの支度を手伝おうと思っていたのに?今ずっと英二のことを考えていた、恥ずかしくて赤くなってくる。
いつも家にいれば周太が食事の支度をする、けれど今朝はバレンタインだからと母が全て仕度してくれた。
昨夜も帰りが遅くて、食事も風呂も母に甘えてしまった。申し訳なくて素直に周太は謝った。

「ごめんなさい、おかあさん…手伝いもしないで、」
「いいのよ?そんな謝ること無い。ね、このチューリップとても素敵ね?ありがとうね、周」

嬉しそうに微笑みながら母は、やさしい指で花にふれてくれる。
大切に花を愛しんでくれる母が嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、喜んでもらえて嬉しいよ?ね、お母さんは、どのチューリップが好き?」
「そうね、どの子も可愛いけど。やっぱりピンクと白の子かな?」

母も自分と同じ花が好き。
こんな同じが嬉しくて周太はきれいに笑った。

「俺もね、この子がいちばん可愛いって思ったんだ。…ね、お母さん。俺とお母さんって、好みが似ているね?」
「そうね?周は、お母さんに似ているかな。だからね、このお花もすごく嬉しいよ?」

こんな他愛ない母との会話が楽しい。
ゆったりとした朝の時間を周太は幸せに笑った。



朝食とデザートのチョコレートケーキを楽しんだ後、周太は母と一緒に庭を歩いた。
小春日和の陽が暖かな庭には、早春の花木が穏やかな風に揺れている。
季節ごとの草花が楽しめる植込みには、陽だまりのクリスマスローズやパンジーが可愛らしい。
可愛いなと眺めて、ふと周太は思いついた。

「ね、お母さん。庭の花をすこし貰っても良いかな?」
「もちろん良いわよ、周?美代ちゃんにお土産かな?」

やっぱり言わなくても母はお見通しだ。
こんなことも嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、そう。あとね、光一のお祖母さんに…ね、お母さん。こういうのって、失礼にならない?大丈夫かな?」
「きっと、すごく喜ばれると思うよ?摘んだらね、きれいにブーケにしよう?」

笑って母も一緒に花を選んでくれた。
クリスマスローズにパンジー、冬ばら、ムスカリ。
あわい紅いろ、あわい紫、ブルー、庭に咲く花も色彩も春になっている。
ひとつずつ摘みながら周太は、恥ずかしいけれど話したかった事に口を開いた。

「あのね、お母さん…俺ね、わがままを、隠さないことにしたんだ」
「ん、…わがままを?」

やさしい穏やかな声が、そっと相槌を打ってくれる。
この話が一番にしたくて帰って来た、けれど食事の席では気恥ずかしさも手伝って話すタイミングが掴めないでいた。
なんとか話しだせた切欠に小さく微笑んで周太は続けた。

「ん、…まずね、美代さんは光一の恋人じゃなかったんだ」
「そうだったの?…でも、そうね?光一くんと美代ちゃん、周の話を聴いてると、距離が近すぎちゃったかもね?」
「…距離が?」

母の言葉に周太は短く訊きかえした。
周太には姉妹や従姉も幼馴染もいない、だから「距離が近すぎる」感覚がよく解らない。
どういうことだろう?首傾げた周太に黒目がちの瞳をやさしく笑ませて母は答えてくれた。

「仲良しの幼馴染だとね、お互いに全部よく解っていて気持ちの距離が近いの。
そんなふうにね、『知らない』部分が少ないと、お互いに『知りたいな』って求めたい気持ちが、どうしても少ないでしょ?」

「あ、…そうだね?」

母の言葉に納得しながら周太は、冬ばらの蕾に「贈り物になってくれる?」と心で話しながら摘み取った。
母もクリスマスローズを摘みながら穏やかに言葉を続けてくれる。

「でも、恋ってね?解らない部分があるから『知りたいな』って気持ちになって。そうして知った部分にまた惹かれるでしょ?
光一くんと美代ちゃんみたいに赤ちゃんの時からずっと一緒だと、お互い馴染みすぎちゃって、恋にならないかもしれないね」

「知りたい気持ち…」

周太が英二に恋する時もそうだった。
出逢った頃の英二は教場で皆に囲まれて気楽そうに笑っていた、そうした要領の良い人間特有のどこか冷たい感じが嫌だった。
けれど綺麗な切長い瞳の底からは英二の真実が、いつも周太に密やかな問いを投げかけてきた。

―ほんとうは、率直に、素直に、生きていきたい。生きる意味、生きる誇り、ずっと探している―

実直で温かい、やさしい穏やかな静謐。それが英二の真実の姿。
端正で冷酷な目に眠る想いを、心を、真実の姿を、いつも見つめてしまっていた。
そんな態度と視線のギャップが不思議で、英二の真実の姿を知りたくて、気がつけば視線の先に英二を見つめていた。
あのときの気持ちは今も変わっていない。気恥ずかしさに周太は微笑んだ。

「ん、…そうだね?だって、俺、いつも英二のこと、もっと知りたい、近づきたいって想ってる。
今も、そう…だからね、最近は登山の雑誌とか、ちょっと見ちゃう時があるんだ。英二の山の話は、すごく聴きたい、よ?」

言っていて頬が熱くなってくる。
こんなに英二を求めている自分が気恥ずかしい、熱い頬をかるく掌で叩きながら周太は母を見た。
そんな息子に微笑んで、母も懐かしそうに告白してくれた。

「お母さんもね、お父さんのこと知りたくて、お父さんの山の本とか借りて読んだよ?一緒に山に連れて行って貰ったり、ね」
「あ、…それでいつも、家族みんなで山に行くようになった?」
「うん、そうよ?楽しかったね、いつも」

黒目がちの瞳が懐かしげに微笑んだ。きっと今、母は記憶の温もりに微笑んでいる。
この切なさに哀しくなりながら周太は、父を想い続ける母が大好きだと思った。
こんど、母も一緒に奥多摩に行けないだろうか?
やっぱり父の気配を置き去りには行けないと、母は断るだろうか?

…でも、奥多摩鉄道の夜…英二なら?

英二が誘ってくれたら、母はまた奥多摩で山に登る決意が出来るかもしれない?
このことを今夜おねだり出来たら良いな?そう思って「おねだり」のフレーズに自分ですこし赤くなりながら周太は口を開いた。

「ん、楽しかった。今もね、俺、英二と登ると楽しいよ?明日はね、山に連れて行ってもらえるんだ」
「そう、よかったね、周?雪山でしょう、奥多摩は。気をつけてね?」
「ん、絶対にね、雪道は走ったりしないよ?」

この間の失敗は絶対に繰り返せない。
また心に「うっかりはダメ」と言い聞かせてから、ひとつ周太は呼吸した。
ここからが母に話したい本題になる、摘んだ冬ばらの棘を外しながら唇を開いた。

「それでね、…英二のこと、好きなんだ、美代さん」
「…そう、」

ぱらり、ぱらり、棘が指先から庭の土へと還っていく。
こぼれていく棘を見ながら周太は言葉を続けた。

「英二はね、どんな危険な状況でも光一を必ず連れて帰ってくるって、美代さんに約束したんだ。
その通りに英二、冬富士の雪崩から光一を連れ帰ったでしょ?…本当に約束を守った英二を、美代さん好きになったんだ。
そんなふうにね、美代さんは英二の心を真直ぐに見つめて好きになってくれて…それがね、俺も嬉しかったの。でも嫉妬もしてて…」

嫉妬もしてて。
そんな正直な言葉に自分でまた恥ずかしくなってくる。
けれど母は愉しそうに周太を見て微笑んだ。

「あら、嫉妬なんて良いわね?それこそ恋の醍醐味よ、周もちゃんと青春してるのね?」
「え、…嫉妬しても、良いの?おかあさん、」

意外な言葉に驚いて、棘を外す指をとめて周太は母の瞳を見つめた。
見つめた黒目がちの瞳は明るく微笑んで、穏かに母は頷いてくれた。

「だってね、周?嫉妬する位に英二くんのことを独り占めしたいなんて、恋してる証拠よ。
それにね、周が嫉妬するほど、美代ちゃんは素敵な子なのでしょ?そんなに素敵なお友達がいるのって幸せ、でしょう?」

ほんとうに母が言う通りだ。
そんな美代が自分は大好きで、今も美代のために花を摘んで、ばらの棘を外している。
こんなふうに友達の為に掌を動かせることは、前の自分なら想像できなかった。
ほんとうに今の自分は幸せだ、うれしくて周太は微笑んだ。

「ん、そうだね、お母さん…俺、嫉妬が出来るなんて幸せだね?」
「そうね、幸せよ?ね、周。美代ちゃんとも、英二くんの話するのでしょ?」

陽だまりの花壇に微笑んで母が尋ねてくれる。
冬ばらの向こうに佇んだ穏やかな笑顔を見つめて、周太は気恥ずかしい想いで微笑んだ。

「ん、…この間もね、会って話してきたんだ。それねで、約束したよ…英二のことで謝るのは、お互い1回だけ、って」

どんなふうに謝るの?そう瞳で母が冬ばらの向こうから問いかける。
その瞳を見つめながら周太は素直に口を開いた。

「俺と英二は婚約してて…いつか結婚する、から、そのときにだけ、謝るの。
俺はね、『ずっと独り占めすること本決まりです、ごめんなさい』って…でね?
美代さんは『人の旦那様を好きでいるけど、ごめんなさい』って謝ってくれるんだ。
お互いに英二のことで、謝ってばかりいたら時間がもったいない、もっと話したいことあるから、って美代さんが約束してくれて」

潔くて明るい「唯一度のごめんなさい」の約束。
こんな約束をくれる美代を自分は嫉妬してしまう、それくらいに美代は素敵で大好きだ。
そんな美代の初恋を想いながら、ゆっくり瞬いて周太は微笑んだ。

「美代さんね、英二を心から素敵だって思ってくれてるんだ…すごく好きになると思う、って言って。
だからきっと、英二と俺が結婚しても、ずっと好きだから謝りたい。そう言ってね、唯一度だけ『ごめんなさい』しよう、って。
ね、お母さん?こんなに美代さんってね、素敵なんだ…俺、だいすき…だからね、英二も美代さんの事、好きになるかもしれない、」

ばらの棘と一緒に涙ひとしずく、庭の芝生にこぼれおちた。
ほんとうは、自信なんか今にも揺らぎそう、けれど不安をこくんと飲みこんで周太は微笑んだ。

「ね、お母さん?俺ね、子供は産めないでしょ?だからね、美代さんに気後れしそうになる…ほかの女の人にも、そう。
でもね、気後れは絶対にするな、って美代さん言ってくれるんだ…きれいで、やさしいんだから自信持て、って励ましてくれるよ?
それでね、思ったんだ。こんな素敵な友達がね、ライバルなら。きっと、楽しい恋だろうなって想えた…嫉妬しちゃうけど、ね?」

冬ばらの向こうに佇む穏やかな瞳に周太は微笑んだ。
陽だまりふるなか穏かな瞳は優しい笑顔になって、やわらかに答えてくれた。

「とっても素敵な友達で、恋敵ね?…そしてね、周?あなたも素敵になったね、」
「ほんと?…ありがとう、お母さん…なんか、恥ずかしいね?」

また母は受けとめてくれた、この安らぎの幸せに周太は微笑んだ。
こんなふうに母はいつも、必ず受けとめて明るい方へと周太を指し示してくれる。
こういう愛情を英二は受けていない、それを想うといつも寂しく哀しくなってしまう。
自分もこの母のような愛情を英二に贈ってあげられたら良いのに?願いを抱きながら周太は言葉を続けた。

「でもね、俺、わがまま言っているだけなんだ…美代さんにも、英二と光一にも」
「うん?いよいよ『わがまま周太』のお話ね、聴かせて?ね、周、ベンチに座ろう?」

愉しげに微笑むと母は冬ばらの向こうから、きれいな蕾たちと一緒に周太の隣に来てくれた。
来てくれた母に笑って周太は、陽だまりのベンチに並んで座りこんだ。
あかるい陽ざしのなか、気恥ずかしさにまた頬熱くなるのを感じながら周太は口を開いた。

「俺、欲張りなの…英二が大好き、でも光一のことも二度と忘れたくなくて…だからね、正直に全部、ふたりに言っちゃったんだ」

母が摘んだ冬ばらを受けとりながら周太は微笑んだ。
どう言ったの?と穏やかな黒目がちの瞳が問いかけてくれる。
大好きな母のやさしい瞳の問いかけが嬉しくて、周太は素直に口を開いた。

「英二にはね、…俺は光一のこと好きだけど、英二を愛してる、って言ったんだ。
でね、俺のこと愛してるんだったら言うこと聴いて、って言ってね?英二、ぜんぶ受入れてくれて…ね。
それでね、ずっと一緒にいる約束させちゃったの。で、ね…からだのことして、っておねだりしちゃって…出来て、嬉しくて。
そしたら英二、『ツンデレ女王さま』って俺のこと呼ぶから、恥ずかしくて…でも、本当はいいきぶん、独占め出来ちゃったな、て、」

こんなこと話すのは、さすがに恥ずかしくて額まで熱くなってくる。
それでも素直な正直な今の想いを聴いてほしかった、でもさすがに変だと母も思うだろうか?
そう心配になったけれど、母は心から楽しげに周太の瞳を覗きこんでくれた。

「ツンデレで、女王さまなの?じゃ、英二くんは恋の奴隷なんだ、」
「ん、そう…じぶんで英二、そう言って喜ぶんだ…それでね、俺、ほんとうは嬉しいの。独占めしたいから…」

こんなこと話すのは本当は気恥ずかしい、けれど母には聴いてほしかった。
こんなに何でも話す自分は甘ったれ、けれどもう正直でいようと自分は決めた。
それに母とも「今」しか無いかもしれない。

…いつか、離れなくちゃいけない、おかあさんと…だから、一緒にいれるうちは、甘えたい

父が殉職した後の13年間、自分たち母子はお互いしかいなかった。
けれどもう今は、ふたりきりじゃない。そして離れる日も刻々と近づいてくる。
だからこそ、こうして並んで話せる「今」を後悔なく過ごしたい、そんな覚悟に周太は自分の口を開かせていく。

「それでね、光一にも、わがままして…光一のこと、大好き。でもね、英二みたいには出来なくて…その、からだのこととか」
「うん?どうして周、光一くんはダメなの?」

フラットに母は尋ねてくれる。
こんな話は気恥ずかしい、けれど正直に周太は話してみた。

「あのね…光一はね、すごく綺麗なんだ。なんか、ちょっと不思議な感じで…肌とか、雪みたいに白くて。
背も高くて、均整がとれていて、顔も上品…あんまり綺麗で、自分が恥ずかしくなっちゃって…嫉妬してダメ、なの」

冬富士の雪崩の後、鑑識実験を始める前だった。
雪崩で受けた受傷程度を見るために光一は上半身の服を全て脱いで、肌をさらして見せた。
あのとき光一の姿に見惚れながら周太は嫉妬してしまった、英二に釣合う美貌が羨ましかった。
だからだろうか、自分の初恋相手と解って大好きな今でも「体」のことは受け入れ難いままでいる。

…こんなこと知ったら、きっと光一、傷つく、ね

光一を受入れられないのは、英二への想いが大きいから。
けれど本当はそれだけじゃない、このコンプレックスのような感情も大きな理由でいる。
ちいさくため息吐いた周太に、穏かに母は訊いてくれた。

「そんなに綺麗な子なのね。でも、周。英二くんもね、ほんとうに綺麗よ?でも、英二くんは平気なんでしょう?」

「英二もすごく綺麗だよ、でも…英二は、ね?全部受けとめてもらえる、って安心出来るから平気…それでね?
英二はね、光一の想いを知ってるから…受け入れていいのに、って俺に言うんだ。でも、それもね、本当は…今の俺には重たいの」

こんな英二の優しさと友情も、周太にとっては哀しくなってしまう。
それにもっと本音を言えば、光一とは体を抜きにしても心を繋げていられる安心と信頼が自分は好きでいる。
これもきっと「わがまま」だ、ちいさく微笑んで周太は率直に母に話した。

「ごめんなさい、お母さん。ほんとうは、俺…小柄な自分にね、ちょっとコンプレックスがあるんだ。
だからね、からだのこと抜きでも、心だけで好きでいてもらえるのがね、嬉しくて…だから、なおさら、光一とは、したくなくて。
光一自身へのコンプレックスは言えないけど…この気持ちは光一に話したの。光一の願いを解ってるくせに。ね、わがままでしょ?」

わがままな息子でごめんなさい、目でも伝えながら周太は母に微笑んだ。
周太の瞳を真直ぐ母は受けとめてくれる、そして愉しげに穏やかに笑ってくれた。

「わがままも可愛いね、周は。でもね、周太?あなただって、充分に綺麗よ。そういうふうに、お母さん産んだもの。
小柄は可愛いわ。色白ではないけど綺麗な肌よ?やわらかい髪も綺麗、綺麗な瞳が素敵。ね、最近は人にも言われるんでしょ?」

卑下なんかしちゃダメよ?そう母の瞳が告げてくれる。
ほんとうに自分はこういう所が甘ったれだ、弱い自分を反省しながら素直に周太は頷いた。

「ん、言ってくれる、…ありがとう、お母さん。ごめんね、変なこと言ったりして」

やっぱり恥ずかしいこんな話。
だいたい自分は男で、英二も光一も同じ男。いまの日本では男同士ではノーマルとは言って貰えない。
そんなこと解っている、けれど何故か自分にとって「恋」は、ふたりとも男だった。
男性なら誰でもいいわけじゃないし、どうやら自分は女性が嫌いなわけでもない。そんな素直な気持ちを周太は母に話した。

「あのね、お母さん?俺ね、どうしてか好きなひとはね、ふたりとも男でしょ?でも、男だからって訳じゃないみたい。
俺、女の人が嫌いなわけじゃないみたい…美代さんのこと大好きで、正直に言うとね?英二といる時より楽しい時もあって。
でね?昨夜も、あのチューリップの花束を作って貰ったとき…花屋のひとと話してて、すごく楽しかったし…見惚れていたんだ」

「お花屋さんに、周、見惚れたの?」

すこし首傾げて母が訊いてくれる。
首傾げた母の髪がゆるやかに陽の光に輝くのを見ながら周太は頷いた。

「ん、そう…あのね、『この子』って花の事を呼ぶんだ、そのひと。それでね、すごく愛しそうに花を見てる。
花を手にとる時も、宝物みたいに大切に持つんだよ?…なんかね、素敵なんだ。それでね、そのひとを見ていて、楽しかったんだ。
美代さんは可愛いな、って思うときはあるけど、見惚れるってことは無い…でも、昨夜は…こういうの、うわきとかになるかな?」

昨夜、いつもの花屋で過ごしたひと時が楽しかった。
あの女主人は英二に見惚れていることを周太は知っている。そして英二から愛を告げられている自分に罪悪感を持ってしまった。
だから気づいてしまった、こんな罪悪感を持つなんて、自分はあのひとが嫌いじゃないからだ。
この気持ちを母は何と言ってくれるだろう?すこし不安に見つめた先で母は愉しげに笑ってくれた。

「ね、周?そのお花屋さんとね、ずっと一緒にいたいって思った?」
「ううん、それは無いよ?…英二とは一緒にいたいし、光一とも一緒にいたい…でも、花屋のひとは見てるだけで充分…あ?」

―…恋したら。その相手にはね、他の人は見てほしくなくなる
 自分だけで独り占めしたくて、…ふたりきりで過ごしたい

土曜の夜に英二が教えてくれた「恋」する気持ち。
これに今、当てはまるのは誰?
そしてこの、花屋のひとへの気持ちは何?
疑問が解けた晴朗と、初めてのくすぐったい想いに周太は微笑んだ。

「ね、お母さん?花屋のひとにね…俺、『憧れ』ているのかな?」

ふりそそぐ木洩陽のなかで穏やかな黒目がちの瞳がきらめいてくれる。
ゆるやかな黒髪をかるく傾げて母がきれいに微笑んだ。

「きっと、そうね?周、憧れのひとまで出来たのね?…うん、やっぱり、もうじき『離れる』本番が来るんだね、」

離れる本番が来る、母の言葉はきっと真実だろう。
いま23歳になった自分は恋愛し、憧れ、大好きな友達も出来た。
ようやく人並みに「誰かを大好きになる」ことが揃い始めている、父と母以外のひとを好きになれた。
こうして大切なひとが増えていく、それは幸福なことだろう。けれど、と、素直な自分の想いを周太は口にした。

「あのね、お母さん。俺ね?警察学校に入って、英二に出逢って。英二のおかげで、好きな人いっぱい出来たよ?
光一とも、また逢えた。美代さんと友達になれたよ?…でもね、だからって、お母さんから離れなくてもいいよね?
この家も、お母さんも、大好き。だから…やっぱり一緒にいたい、この家に居たい。離れたくないんだ、わがままだろうけど」

黒目がちの瞳がゆっくり1つ瞬いて、じっと周太を見つめてくれる。
お願い、わがまま聴いてね、お母さん?素直な想いに微笑んで周太は母に告げた。

「この俺の気持ちはね、英二も解ってくれてるよ?だから英二はね、この家に入ってくれる。
英二もお母さんのこと、大好きだから…ね、一緒にいて?お母さん。必ずこの家に俺は帰ってくる、だから、待ってて?」

いつか一緒に暮らせる日が必ず来る。その日まで母に待っていてほしい。
そして家族で楽しく暮らせる日がきっと来る。だから待っていてほしい。
この願いに真直ぐ見つめた穏かな瞳は、困ったように、けれど幸せそうに微笑んだ。
困ったな、でも嬉しいよ?そう愉しげに瞳を笑ませると、やわらかに黒髪を揺らして母は頷いてくれた。

「ありがとう、周。待ってるわ、」

やさしい幸せな母の笑顔が嬉しい。
嬉しいままに周太は、ばらの棘の最後の1つを外すと、母の掌を取って立ち上がった。

「ん、待っててね?…ね、お母さん、お茶にしよう?チョコレートケーキ食べたい」
「朝も食べたのに、また食べるの?」
「ん、食べるよ。俺ね、お母さんの焼いたのが、一番好きだよ?」

素直な想いのままに告げて周太はきれいに笑った。
すこし困ったように母も微笑んで、けれど愉しげに周太と掌を繋いでくれる。
春淡い陽ざしのなか、やさしい早春の花を抱えながら周太は母と結んだ温かい約束に微笑んだ。



朝のお茶の時間を楽しんでから、書斎の父の写真に周太は会いに行った。
書斎の扉を開くと、いつもの重厚で微かにあまい香と一緒にチョコレートの香が頬撫でる。
書斎机にはチョコレートケーキとココアが佇んでいた。

「ね、お父さん?お母さんはね…今でも、お父さんに恋してる、ね?」

チョコレートの甘い香りのなか、周太は父の微笑に笑いかけた。
きっと母は一番最初にチョコレートケーキを父にプレゼントしただろう。
こんな両親の恋が誇らしく嬉しい、父の微笑を見つめながら周太はもうひとつ父に話しかけた。

「あと、ね…小十郎をありがとう、お父さん。ずっと大切にするね?
昨夜は、たくさん小十郎と話したんだ…おかげでね、お母さんに、きちんと話せたよ…あと、本、また借りていくね?」

書架を眺めて一冊の本を手にとると周太は「借りるね?」と父の写真に微笑んだ。
この書斎の蔵書には珍しく日本語で書かれた一冊の本は、奥多摩の山行録が綴られている。
これを持って今日は奥多摩に行ったら愉しいだろう、このあとの電車旅の時間を想いながら周太は父の写真い笑いかけた。

「ね、お父さん…今日も、一緒に奥多摩鉄道に乗ってくれるの?…あ、でも、」

でも、今日の周太は昼間の青梅線で奥多摩へ向かう。
奥多摩鉄道は夜だけかもしれない?それに今日はバレンタインだった、微笑んで周太は父に謝った。

「今日はバレンタインだから、お父さん、お母さんと一緒に過ごすよね?…楽しくしてね?じゃ、行ってきます、」

きれいに笑って父に挨拶すると、周太は書斎の扉を開いた。



出掛ける仕度を済ませると、周太は母に教わりながら一緒にブーケを2つ作った。
水切りしておいた摘んだ花々を、長さを揃えて綺麗なブーケにまとめていく。
こんなふうに誰かのために花束を作るのは、なんだか幸せで楽しい。出来上がって眺めると母が笑ってくれた。

「うん、周。初めてなのに上手ね?やっぱり周は器用だね、」
「ん、そう?ありがとう…でも、お母さんが作った方が上手だね?」
「それはね、キャリアが違います。ね、周。これも持って行ってね?」

話しながら母は、きれいなペーパーバッグを周太に渡してくれる。
中を見ると綺麗にラッピングされたチョコレートケーキが5つ入っていた。

「バレンタインだからね、周?美代ちゃんと吉村先生、同期の藤岡くんに。それから光一くんと、英二くんね?」
「ん、ありがとう、お母さん。…ね、お母さん?英二の身元引受人になったんでしょ?」

これも聞きそびれていた事、けれど会ったら聴いてみたかった。
周太の質問に穏かに笑って母は頷くと、答えてくれた。

「そうよ。英二くんからね、前にも相談されていたの。
でも、親族じゃないでしょう?大丈夫かしらって思ったけれど、事情を後藤さんが説明してくれたみたいね?」

「そうだよね?…普通、家族じゃないとダメだから…やっぱり英二、ご両親には、言えなかったの?」

寂しい想いで周太は母に訊いてみた。
母もすこし寂しそうに笑って頷いてくれた。

「山岳救助隊でしょう、英二くんの場合。普通の警察官より、ずっと危険が多い。
だからね、英二くんに限らず、ご家族の反対に遭うケースも多いと思う。英二くんもね、敢えてご両親には言わなかったみたい」

英二の母は、どんな任務に息子が就いているのか一切知らない。
山岳救助の危険な現場で泥にまみれ、応急処置や遺体の検分に手を血で染めて英二は任務に就いている。
そんな息子の状況を受入れられない彼女だから、最初から英二は話していない。
英二の父は少しは知っている、けれど全てを把握している英二の親族は姉だけだった。
英二の任務は誇り高い、けれど危険と隣り合わせである以上、そうした反対も無理ないことだろう。
とりとめない寂しさのまま周太は母に尋ねた。

「そうだったんだ…でも英二、お姉さんには話したのでしょ?」

「そうよ、お姉さんも身元引受人になってるの。それで、お姉さんからも事情説明してくれて。
しかもね、警視庁山岳会から英二くんを指名しての任官でしょう?警視庁も認可したいから、お母さんの名前でも許可が出たみたい」

穏かに母は微笑んで、チョコレートケーキをきれいなペーパーバッグに入れてくれる。
はい出来た、と周太に渡してくれながら母は言ってくれた。

「英二くんにね、くれぐれも気をつけて、って伝えて?
それから光一くんに北岳の後、お待ちしていますって。あとね、周?こんど美代ちゃんにも、遊びに来てね、って伝えてね」

「ん、ありがとう、お母さんも気をつけてね?じゃ、行ってきます」

たくさんの母の心遣いを受けとって、きれいに微笑むと周太は川崎の家から奥多摩へと向かった。


(to be continued)

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第35話 曙光act.7―side story「陽はまた昇る」

2012-03-14 23:40:58 | 陽はまた昇るside story
瞬間、かけがえのないすべて




第35話 曙光act.7―side story「陽はまた昇る」

シーツに包みこんだ周太を抱き上げて浴室へと送り届けた。
バスタブに立たせてシーツを外すとき周太は、英二にやさしいキスをして恥ずかしげに「お願い」と微笑んだ。

「ね、お願い…今夜も、新宿まで送ってくれる?」
「うん、もちろん送っていくよ?でも、出るのが20時過ぎるかもしれない、遅くなるけど大丈夫?」

たぶん今日は業務が忙しくなる、仕事上がりも遅くなるだろう。
今日は晴れて天気がいい、降雪も数日ほど無いから表層雪崩の心配もない。
きっと締雪が輝いて美しいだろう、そして日曜日。
こんな日は雪山を愛する登山客が多く訪れる。
けれど締雪は山蔭では固く凍りつく、アイスバーンとなって滑落事故を誘引してしまう。
だから今日は登山客が完全に下山する時間帯まで待機したほうがいい。
そんな判断で訊いた英二に、黒目がちの瞳は気恥ずかしげに微笑んだ。

「ん。遅くても良いから、送って?一緒じゃなきゃ嫌、言うこと聴いて…ね、英二の部屋にいてもいい?」

ほら、またこんな顔でわがまま言ってみたりして?
また心を曳きまわされて英二は困らせられる幸せに笑った。

「いいよ?管理人さんに話しとくから。でも国村も一緒だろ?どこか出掛けていてもいいよ、連絡するから」
「ん、わかった。…ね、パン屋さん行くんでしょ?オレンジデニッシュ、食べたいな?」
「うん、たぶんもう焼きあがってると思うよ?周太が風呂済ます間に行ってくる、」

こんな「いつものように」の会話を交わして浴室の扉を閉めた。
さっと着替えて簡単にベッドを片づける。
そして英二は朝の町へ出た。
まだ静謐に眠る曙光のなか歩いていく息が白い。
嶺雪から吹く風の晴朗な空気が冬の朝を透明にしていく。
歩いて温まる体から、夜と朝の残り香がふっと襟元から立ち昇って英二は微笑んだ。
こんなふうに、湯を済ませる前すこし歩いて残り香を感じる時、幸せになれる。
昨夜一夜が夢では無かったと、現実の夢なのだと香の記憶に実感する今が嬉しい。

「…ほんとに、離せない、」

素直な本音に微笑んで、いつものパン屋の扉を開いた。
芳ばしい甘い香が温かい、朝の幸せな香に微笑んで英二はトレイを手にした。
いつもの場所にオレンジデニッシュを見つけてトングでとると、さくり音が立つ。
思った通りの焼きたての感触がうれしい、きっと周太が喜ぶだろう。
他にクロワッサンとクラブハウスサンドを選んで会計に出すと、レジの脇にオレンジピールのチョコレートが置いてあった。
たぶんこれも好みだろうな?そんな予想に微笑んで、これも一緒に包んでもらうと英二は店を出た。

部屋に戻ってブラックミリタリージャケットを脱ぎかけた時、背後で扉が開いた。
周太が風呂を済ませたのだろう、ちょうどいいタイミングで帰ってこれたらしい。
これも、いつも通りのタイミング。
こんな「いつも通り」が幸せで微笑んだ英二の傍に、温かい石鹸の香がきてくれた。

「英二、お先にごめんね?ありがとう…」
「ちょうど良かったよ?俺も今、帰ってきたから…ね…」

話しながら周太の貌にふり向いた瞬間、英二は言葉を忘れた。
だって、こんなの、反則だ。

…反則だ、困るよ?

こんなの困らされてしまう、心臓ごと心が掴まれる。
掴まれていく意識を見つめてくる、湯に熱り潤む幸せな誘惑に縛られてしまう。

…困るよ、こんなに綺麗だなんて?

火照る肌、桜いろに咲いて湯を浴びた瑞々しさにまばゆく薫っている。
濡れた黒髪、やわらかく額に零れる艶の水滴まとう繊細が清らかにやさしい。
潤んだ無垢の瞳、黒髪も透かしてしまう愛された幸福の、無意識の誘惑で見つめてくれる。

朝、目覚めた時には心が鼓動にひっぱたかれた。
今、湯に潤んだ姿に佇まれて心は視線で囚われていく。

ほら、また、こうして俺を縛り上げていくんだね?
どうぞ愛しのツンデレ女王さま、こんな束縛は大歓迎だよ?
けれど今日は勤務の日、これから山ヤの警察官に戻らないといけない。
この任務への誇りを今、忘れさせられたら困ってしまう?困りながら英二は笑った。

「周太、なんだか、きれいになったね?…朝起きた時も想ったけど…困るよ、周太、」

何がそんなに困ってしまうの?
そんな可愛い質問を無垢な瞳に告げながら、湯上りの体が英二に抱きついてくる。

「どうして、困るの?…俺、そんなに英二を困らせてるの?」

ほんとうに困らせています、君のその無垢なとこ。
こうして抱きついて見つめるのも「好き」と素直な想いだけ。
けれど素直な無垢だからこそ自分は支配されて、困らされる。
この無垢な支配者に英二は微笑んだ。

「うん、そんなに困らせてるよ?」

そんなに困らされています、君の無垢な瞳にも素直な抱擁にも。
どれも今の自分には、任務も誇りも矜持も全部を忘れさせられる誘惑でしかないのに?
いまこの誘惑に支配されたら困ってしまう、この誘惑を手放せなくなるから。
そして誰にも見せたくない願望が起きだしてしまう。
離れたくなくなって、それから。

「離れたくなくなって…閉じ込めて、ずっと抱きしめていたくなるから…」

すこしかがみこんで頬寄せて、そっと周太の唇にキスでふれた。
そしてすぐに離れると、黒目がちの瞳に微笑みかけて浴室へと踵を返す。
ぱたんと後ろ手に閉じた扉に、とん、と英二は背中打ちつけ微笑んだ。

「…閉じ込めて、抱きしめていたいよ。俺の、ツンデレ女王さま?」

でも、今はそれが出来ない。
潔くシャツから全て脱ぐと英二は、シャワーの栓を開いて頭から水を被った。
無垢な誘惑に熱った肌と心が冷水に鎮まっていく、ストイックな冷静が戻ってくる。
今日は晴天の日曜日、雪のコンディションも悪くない。きっと登山客が多い、そして遭難発生の恐れも高くなる。
こんな日は冷静な判断力を失えば、自分だけじゃなく救助者の生命まで危険に晒す。
浴びていく水に冷静になる脳裏から、一日の業務手順が独り言に零れはじめた。

「出勤、掃除して…すぐ登山計画書のルートチェック。日の出山への道、確認…それから、」

ふりそそぐ冷水に脳髄から冷却されていく。
夜の残滓が水に流れこぼれて、山ヤの警察官の貌になっていく。
7時前にここを出て、青梅署に戻ったらすぐ着替えて、クライマー任官の書類を提出する。
その足で出勤すればいい、御岳駐在所で一日の業務に就きながら巡廻と訓練を周太と過ごす。
そして午後にはクライマー任官書類の受理連絡が来るだろう。
そうしたら、もう自分の運命は「山」に定まって動かない。

この生涯を、生命の尊厳を守るため「山」に公私とも自分は生きる。
山岳レスキューの最前線に立ち続け、危険地帯のはざまで泥に塗れ、掌を救助と検死の血に染め生きていく。
この任務に最高のレスキューを目指し、最高の山ヤ国村の8,000m峰14座をはじめ高峰踏破をサポートする。
最高のクライマー国村の生涯に、唯一人のアンザイレンパートナーとして最も近く生きていく。
それがきっと自分を唯ひとり支配する、あの愛しい笑顔を守り見つめる道になる。
それが自分には誇らかな道、そして最高の幸せに帰る道になっていく。

「ほんとうに、決まる…」

呟いた唇に水が冷たいキスをする。
濡れ凍える髪を両掌でかきあげながら、仰向けた顔に冷水が嵐のように降注ぐ。
冷たい水が肌を弾いて鼓動が冷たさを弾いていく。
水の温度に清めこんで、クリアになった心と脳に英二は笑った。

「よし、」

綺麗に笑って英二はシャワーの栓を閉めた。

乾いたタオルですこし強めに拭うと奥から熱が立ち昇る。
甦っていく体温が全身を充たし温もりがあざやいでいく。
冷えた脳髄に冷静も理性も谷底から戻って、謹直な顔で肚に座りこんでいる。
これでもう一日を、きっちり規律通りに自分は生きられる。

こんな自分を国村は「堅物真面目人間」といつも笑う。
けれど、こうでもしないと自分は誇りを持って生きられない。
だってこんな自分の素顔はツンデレ女王さまの恋の奴隷、束縛なしには生きられない?
だから自分の規律で自分を縛りあげて、きっちりコントロールしないと誇り高く生きられない。
この扉を開いたら、きっと愛しい自分の主人が可愛い笑顔で佇んでいるだろう。
この笑顔を守るためにも、今日一日を冷静に理性と規律で「真面目」に過ごす。

「だからね、周太?俺の理性、もう今日は壊さないでよ?」

愛しい自分の支配者に独り言で願ってしまう。
あの支配者は自分と同じ23歳の男で警察官、そんな現実が信じられない。
あんなに純粋無垢で綺麗で、けれど生身の人間で、無意識に誘惑しては英二を曳きまわす。
こんな自分は初めてだ?ちょっと笑って英二は浴室の扉を開いた。

「英二、待ってたよ?」

ポン、と小柄な体が抱きついて可愛い笑顔が背伸びする。
気恥ずかしげな笑顔がアップに近づくと、英二の唇はやさしいキスに奪われた。

ちょっと待って?

心がキスでひっぱたかれて一瞬で誘惑に落とされた。
こんな不意打ち今までない、いったいどうなっているんだろう?
けれど冷水できっちり「理性」を凍結させた頭脳は、すぐクリアに精神を立てなおした。
離れるキスを留めたがる唇を封じ込んで、英二は微笑んだ。

「いきなりのキス、周太がするなんて?」
「ん、したかったの…いいでしょ?ダメなんて言わせないんだから、…ね?」

ほらまた、そうやって俺を束縛するんだ?
こんな恥ずかしげに赤くなりながら命令して、可愛い小悪魔になって誘惑して?
でもまた全部が無意識にやっているんだろ?純粋無垢なまま自身の艶にも気づかずに?
でも今は流されないよ?やわらかく微笑んで英二はカウンターのマグカップを手にとった。

「キス、うれしいよ?コーヒーありがとう、周太」

素直に礼を言った英二を黒目がちの瞳が見あげてくれる。
そして気恥ずかしげでも幸せそうに周太が微笑んだ。

「ん、…だって、約束でしょ?ずっと俺が英二のコーヒー淹れるの…ね、他のひとには、させないで?」

他のひとにはさせないで?

だなんて、ちょっと待ってよ周太。
こんな笑顔で「他のひとにはさせないで?」なんて可愛すぎ。
こんな可愛い「独り占めしたい宣言」されたら嬉しすぎて変になる。

これは、まだ、罰ゲーム続行中?

なんとか冷静なセリフが心に浮かんで、可笑しくて肩の力が抜けた。
なんとか理性が冷静を呼び戻してくれた、そして冷えた脳髄から派遣したユーモアが誘惑を抑え込む。
ちょっと今本気で危なかったな?英二はきれいに笑いかけた。

「うん、周太だけにお願いしたい。ほら、周太?朝ごはん、しよっか」



青梅署独身寮の自室に戻るとすぐ英二は出勤準備をした。
登山ザックと救急用具の中身を確認して登山靴も入れる、救助隊服は駐在所にもあるけれどザックにも一式入っている。
もし緊急召集が掛けられても迅速に対応できるよう原則、隊服一式は奥多摩にいるなら持っておく。
これは山ヤの警察官なら警視庁に限らない、ミニパトカーや自転車にも山岳救助の用具一式は積んである。

「…ん、感染防止グローブ、多めにするか…あと、サムスプリントの予備、」

独り言に確認しながら装備の補充をセットする。
そうして装備チェックを終えると、英二は活動服をクロゼットから出して壁に架けた。
コットンパンツを活動服のスラックスに履きかえる、その背後で勝手に自室の扉が開いた。

「おはよう、国村」

ふり向かないで英二は背後の侵入者に微笑んだ。
ぱさりと軽やかな衣擦れと軋むベッドの音が立つと、ご機嫌なテノールの声が笑いかけてきた。

「おはよ、宮田。今日はさ、12時位に訓練でいい?」
「うん、それくらいかな。周太も連れて来てくれるんだろ?」

白シャツのボタンを外しながら英二はベッドを振向いた。
カーゴパンツとパーカー姿に農作業服をはおった、いつもの農業青年スタイルで国村はベッドに座りこんでいる。
ベッドから英二を見あげる細い目が愉しげに微笑んだ。

「もちろんだね。今日は、俺が周太のエスコートだよ?ま、朝の御岳山巡回は家の手伝いで無理だけどね。で、午後はどうする?」
「うん、今日は俺、午後の巡回は日の出山も回る予定なんだ。でも、クライマー任官の書類受理の話、山でしたいんだ」
「わかったよ。日の出山まで周太、迎えに行けばいい?」
「ありがと、そうしてくれると助かる」

愉しげに笑いながら今日の予定をお互いに打ち合わせていく。
英二と国村は山岳救助隊でもパートナーを組む、この召集も一緒に応じる為に互いのスケジュールはいつも把握していた。
いつも通りに話しながら白シャツを肩から抜いたとき、透明なテノールの声が質問にからり微笑んだ。

「なに、周太のこと、おまえ押し倒しちゃったのかよ?」

唐突な質問に、英二はもろ肌脱ぎのまま動きが止まった。
ふり向いて秀麗な顔を見ると、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑ってくる。

「おまえ、えっちして充実しました。って背中が言ってるよ?また押倒して、ヤリまくってきたんだろ?この、ケ・ダ・モ・ノ、」

押倒してケダモノ、だなんて強姦疑惑が掛けられている?
そんな誤解はちょっと待ってほしい、思わず英二は口を開いた。

「違う、ツンデレ女王さまに命令されたんだ。押倒したんじゃないし、おねだりされた通りに…あ、」

しまった。
言いかけて英二は気がついた、これは国村得意の誘導尋問だ?
そう気づいた時は既に遅くて、秀麗な顔はすっかり満足げに美しい笑顔で勝ち誇っていた。

「ふうん、ツンデレ女王さまの恋の奴隷になっちゃったんだね?おまえ。
ほんとイイ背中になってるよ。しかもさ、左肩にキスマークの刻印まで付けちゃって、マジ奴隷だね?
ま、昨夜おまえが言った通りにね、『恋人』の立場まんまじゃないな?で、堅物崩壊だ?いいザマだね、み・や・た?」

しっかり図星を刺されて英二は完敗した。
こんな自分は本当に「いいザマ」だ?観念して英二は素直に認めた。

「うん、俺、恋の奴隷になった。自制心がばっきり折れる音、初めて聞いてきたよ?」
「そりゃ良かったな。おまえの自制心が折れる音か、イイね、聴いてみたいよ…へえ、また綺麗なキスマークだ?」

笑いながらベッドから立ち上がると、すこし首傾げて国村は左肩の痣を覗きこんでくる。
綺麗な紅色の痣に白い指でふれながら秀麗な顔を素肌の肩にことん、と置いて国村は背後から英二を抱きしめた。
また「あまえんぼう」が始まったな?一昨夜の御岳での時間を想い出しながら英二は微笑んだ。

「ごめんな、国村?」

―…俺さ、体のふれあいって遊びしかしてないだろ?
 心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ

国村の本当の望みは、周太と心も体も繋がること。
この願いに14年間ずっと国村は待っていた。
この願いをもし諦められるなら、14年の間に諦めて待つことを辞めただろう。
この国村の願いを知りながら、自分は昨夜一夜に周太と深く繋がり合ってしまった。

心と体を繋げ合う、これは想い合い求め合うことの結び。
ふたり見つめ合えたなら墜ちこんでいく不可抗力、理屈も理性も通用しない。
ただ向き合ってしまうだけ、冷静もプライドも役立たず。ただ充ちて幸福に酔いしれる。
だから昨夜一夜を過ごしたことを後悔なんて出来ない。

けれど、この友人の初恋はあまりに美しくて。
この恋が求める相手が自分の想い人と知ってすら、守ってやりたいと願う自分がいる。
この恋を周太も大切に想っている、甦った初恋に心を繋げかけている。
けれど国村が痛切に望むもう半分には、応える想いが周太に無い。

―…心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ

この想いの寂しさ哀しさが自分には解ってしまう。
自分もずっと温もりを求めて自分の相手を探し続けていたから。
そして初めて与えられた瞬間の、温もりと喜びを知っている。
だから国村にも与えてやりたい、大切な友人の幸せな笑顔を見たい。

けれど、国村が求める相手は周太だけ。
なのに周太が求めるのは英二、国村には心しか繋げられない。
どうしたらこの想い交錯して廻るメビウスリンクが解けるのか?
本当は答えが見え隠れしている、けれどこの答えに英二はなにも出来ない。

どうしたら、この大切な友人の想いを、遂げさせてあげられる?
どうしたら、誰も傷つかないで心から幸せを抱きしめられる?

この矛盾をどうしたらいい?
自分は周太に何も言えない、けれど国村の哀しみが苦しく愛しい。
どうにも出来ない哀惜にあふれた英二の吐息に、肩に乗った顔が微笑んだ。

「謝るなよ、宮田。そんな遠慮と同情は、いらないね」

からり底抜けに明るい目が笑ってくれる。
まったく不要だよ?そう目で言いながら透明なテノールが笑った。

「たとえ今、おまえと周太がラブラブでもね、俺は別にそれで構わないんだ。
ただし、周太がちょっと俺に惚れて、俺の体にも興味持って好きになってくれたらね。迷わず俺は、周太を抱くよ?
俺は遠慮なしだ。だからさ、そんな遠慮や同情されるとね、俺、変な罪悪感もっちゃうだろが。な?そういうのやめてくんない?」

俺は自分に自信があるよ?だから援けなんかいらない。
そんな、誇らかに明朗な宣戦布告が気持ちいい。
こんな友人が自分の生涯のアンザイレンパートナー。
こんな愉しい男と一生ずっと山に登っていける人生は幸せだ。愉しくて英二は微笑んだ。

「うん、解かった。これからも遠慮なく、周太と仲良くさせて貰うな?」
「おう、仲よくしてさ、幸せな笑顔を俺に見せな。に、してもさ、み・や・た?」

愉しげに笑いながら腕をほどくと国村は、またベッドに腰掛けて英二を眺めた。
眺めて満足げに底抜けに明るい目が笑んで、心底うれしげにテノールの声が言った。

「ほんと、眼福だね、今朝のおまえ。肌が艶っぽいよ、まばゆいばかりだね。きっとさ、奴隷が性に合ってるんだな?」
「うん、そうかもしれないな?昨夜からさ、周太を見ると俺、首筋が熱くなるんだ、」

言われて素直に認めながら、英二はまた着替えを再開した。
ワイシャツをはおってボタンを留めていると、ふうんと頷いて国村はからり笑った。

「ふうん、奴隷が性にあうなんて、変態なんだな?イイね、別嬪ヘンタイ。ね、変態さん、俺にもイイことして?」

やっぱりそういう話になっちゃうんだな?
可笑しくて英二は笑いながら答えた。

「ダメ。俺はね、周太だけの奴隷なの。おまえには無理、」
「ふうん、堅物崩壊のクセに偉そうだ?ま、俺はね、やりたかったら勝手にするよ?で、夜は新宿まで送る?」
「うん、俺、今日は遅くなると思うんだ。だから車、出してもらえると助かるよ」

今日の打ち合わせをしながらネクタイを締めて上着を着る。
そしてザックを背負って制帽を持つと、英二は自分のパートナーに笑いかけた。

「じゃ、国村。今日も一日、よろしくな?」
「おう、こっちこそ、よろしくな。俺の可愛いアンザイレンパートナー、」

いつものように底抜けに明るい目が笑って、白い指が英二の額を小突いた。
そんな自分の相方に笑いながら英二はデスクの抽斗の鍵を開けると書類封筒を取出した。
この中に昨夜書きあげた、クライマー任官の書類一式が入っている。

「朝、出すんだろ?」
「うん、後藤副隊長がね、提出に行ってくれるんだ」

話しながら一緒に廊下へ出て歩いていく。
食堂の前に来たとき、ちょうど藤岡が通りかかって笑いかけてくれた。

「おはよ、宮田。もう出るんだ?」
「おはよう、藤岡。今日はね、周太が来てるから早めに行って仕事済ませたいんだ」
「あいかわらず真面目だよな、宮田。そっか、湯原来てるんだ?あとで会えたらいいな、」

からっと明るく笑いながら藤岡が話してくれる。
もう藤岡には周太とのことは話してあるけれど、婚約のことはまだ話していなかった。
同期でもある藤岡とは春の初任科総合も一緒に受ける、そのとき他の同期に対して秘密を抱えさせることが憚られてしまう。
けれどこの同じ山岳レスキューの現場を選んだ朗らかで実直な同期が英二は好きだった。
いつか話せたらいいな?そう思っていると国村が藤岡に言ってくれた。

「じゃあさ、藤岡?おまえ、今日は週休だよね、だったら晩飯のとき一緒に食おうよ。今日はね、俺が周太のエスコートだから」
「あ、いいなそれ。ってさ、国村?おまえ、湯原のこと、名前で呼んでんの?」

ちょっと驚いた顔で藤岡が首傾げこんだ。
けれど国村はいつも通りに飄々と答えた。

「呼んでるよ?だって可愛いだろ、そのほうが。これから飯だよね、藤岡?一緒に食おう、」

さらり堂々と国村は、今後どこでも周太を名前で呼ぶと宣言してしまった。
さっき英二に宣言した通り「遠慮しない」とうことなのだろう。
こういう明るい男気が国村は豊かでいい、こんな友人が嬉しくて英二は微笑んだ。

ふたりと食堂前で別れると英二は階段を降りた。
静かな朝の回廊に靴音が響いていく、自分の足音を聞きながら書類封筒をそっと持ち直した。
この階段を降りれば青梅署ロビーに着く、そこで後藤副隊長と待ち合わせていた。
このクライマー任官の書類を後藤自身が本庁へ提出してくれることになっている。
そのまま書類審査がされて、午後一には正式に受理されるだろう。

これで、決まる

今日、自分の運命が「山」に決まる。
この自分の運命に微笑んで、英二は青梅署ロビーに降り立った。
きちんと自分の方が先に着けた、微笑んだ視界の端で通用口が開いていく。
ふり向くとスーツ姿の後藤副隊長がロビーに入ってきた。

「おう、宮田。朝早く済まないなあ。うん?もう出勤か、今日は」

いつもどおり温かい笑顔の後藤副隊長が笑いかけてくれる。
頷きながら英二はきれいに笑った。

「はい。おはようございます、副隊長。今日はお手間を申しわけありません」
「いや、こっちこそな、イレギュラーな任官のさせ方で申し訳ないよ?まだ卒配期間なのに、決めてしまったしなあ。いいのかい?」

本当にいいのかい?そう深い目が訊いてくれる。
けれど後藤副隊長はよく解っているだろう、もう英二がこの道で生きると決めている事を。
だからこそ、この話を後藤は勧めてくれた。温かい信頼のなか英二は明確に頷いて礼をした。

「はい。よろしくお願い致します」

綺麗に笑って英二は書類封筒を後藤副隊長に差し出した。




昼食を済ませると四駆が御岳駐在所の駐車場に停まった。
給湯室で洗った食器を拭いていると、入口がカラリ開く音がする。
きっと国村が周太と一緒に自主トレーニングの誘いに来てくれたのだろう。
捲った活動服の袖を元に戻しながら表に出ると、国村と周太と、美代が立っていた。
思いがけないプラス1名にすこし驚いた英二に、テノールの声が笑った。

「迎えに来たよ、宮田。すぐ出れる?」
「うん、ちょうど今、昼飯済んだんだけど。3人一緒に昼食ったの?」

そういえば、国村の祖母の農家レストランに行くと朝食のとき周太が話していた。
思い出しながら笑いかけると周太がすこし気恥ずかしげに微笑んだ。

「ん、国村のおばあさんのね、レストランで…美代さんが作った野菜、ご馳走してくれて」
「そっか。美代さんが作ったのだと、旨かったろ?」

なにげなく英二が言った言葉に、美代の頬がすこし赤らんだ。
なんか変なこと言ったかな?考えながら微笑んだ英二に、周太が答えてくれた。

「ん、おいしかった。美代さんの畑はね、きれいな野菜がいっぱいで、素敵だよ?…それで、種を分けてくれて。ね、美代さん?」
「ありがとう、褒めてくれて。自分で言うのも恥ずかしいけど、結構じょうずに出来てるかなって、ね?…それで、あの、」

きれいな明るい目で美代が英二を見あげてくれる。
どうしたのかな、すこし首傾げて英二が微笑むと美代は素直に頭を下げてくれた。

「昨日は、急に帰っちゃって、ごめんなさい」

昨夜のエスケープの詫びに美代は来てくれたらしい。
このために、わざわざ美代は駐在所まで休み時間を選んで来訪してくれたのだろう。
そんなに気にしなくていいのに?けれど実直な美代の礼がうれしくて英二はきれいに笑った。

「そんな謝ること無いよ?こっちこそ、デートだったのに、ごめん。結局、周太のとこに行っちゃって」
「ううん、それこそ謝らないで?昨夜はね、幸せだったのでしょ?よかったなあって、うれしいの。ね?」

美代に「ね?」と訊かれて周太の首筋が赤くなった。
そんな様子を愉しげに見ていた国村が、可笑しそうに目を細めて口を開いた。

「なに、昨日ってさ?美代はエスケープして、宮田は周太のとこ行って、そんで周太は奥多摩に来たってことか。
なんだか3人で楽しそうだね?俺は昨日は、真面目に警察官やってたっていうのにさ?なんか俺だけつまんないカンジ。さて、と」

笑いながら国村は英二の腕を掴んだ。
掴んだまま更衣室へ踵を返すと、底抜けに明るい目で周太と美代に笑いかけた。

「ちょっと宮田の靴を履きかえさせてくるからさ。そしたら自主トレいくよ?周太、待っててね。美代、ばあちゃんよろしくな」
「うん。光ちゃん、連れて来てくれて、ありがとう」

きれいな明るい目で美代が国村に笑いかけた。
それから英二を見あげると、気恥ずかしげに美代は笑ってくれた。

「あの、おじゃましました。でも、また、来ます」
「うん、いつでもどうぞ?あと、周太のこと、ありがとう…周太、ちょっと待っててくれな?」

美代に礼を述べると英二は周太に微笑んだ。
視線を受けとめた黒目がちの瞳が素直に頷いてくれる、こうしていると以前の周太と変わらない。
けれど「正直にわがまま言う」と今朝も宣言してくれた、きっとまたツンデレ女王さまに変貌するのだろう。

あれはね、周太?ちょっと可愛すぎるから。出来れば、ふたりきりの時だけにして?

そんなことを心でお願いしながら英二は国村と更衣室に入った。
あまり広くは無い空間の扉を閉めると、国村は英二に向き直った。

「ほら、見せな?」
「あ、やっぱり、そういうことなんだ?」

笑って英二は活動服の上着を右肩だけ脱いだ。
ネクタイも緩めてワイシャツのボタンを途中まで外すと右腕を抜く。
そしてTシャツの袖を捲って右上腕を国村に見せた。

「よし、素直でイイね?じゃ、ちょっと触らせてもらうよ、」

からり笑うと国村は、右上腕から肩にかけての具合を見始めた。
今朝の御岳山巡回で英二は、滑落しかけた周太を抱きとめて右側から雪面に倒れ込んだ。
そのときに右上腕に打撲を負っている。下山後すぐに国村が応急処置をしてくれたから今は痛みもほとんどない。
それでも国村は心配して診てくれている、ありがたいなと眺めていると処置者は軽く頷いた。

「うん、やっぱ、軽い打撲で済んでいるな。この程度でよかったよ。自主トレも平気だね、でも救助者背負うのは無しだ」
「ありがとう。ほんと、この程度でよかったよ」

ほんとうに、この程度で済んでよかった。周太を助けられて、よかった。
微笑んで英二は服を整え始めた。

警察学校での山岳訓練の時。
あのとき、崖から滑落する瞬間の周太を自分は掴まえられなかった。
あのとき本当は周太の無理な救助を止めるべきだった、なのに止めず結果、周太に怪我を負わせてしまった。
あの谷底は岩がいくつも生え激突死も当然な現場だった、顔面の擦過傷と足の怪我で済んだ周太は運が良かった。
あのときに自分は思い知った、一瞬のミスが死に直面する「山」の峻厳な掟を、周太を背負ったザイル痕に心刻んだ。
あの後悔は二度としたくない、ずっとそう思ってきた。

そして今日は周太を滑落させずに済んだ。
落ちかけた瞬間の周太の体を抱きとめる事が出来た、今日の周太は無傷だ。
けれど反省すべき点はいくつもある、まず周太の今日の滑落は未然に防げた。
ほんとうは登山道入り口ではなく、積雪が現れ出す最初のポイントで待ち合わせるべきだった。
そこから周太にアイゼンを履かせてやれたら、雪道に足を滑らすことを防げただろう。
自分はまだまだ甘い、そんな想いに英二はそっと唇を噛んだ。


御岳渓谷でのボルダリングでも、英二の傷は痛まなかった。
この調子なら今週中には完治するだろう、きっと北岳登山には支障は出ないで済む。
そんな安堵感が嬉しいなかで、駐在所に戻ると周太がコーヒーを淹れてくれた。
御岳駐在所長の岩崎と妻にも周太が淹れてご馳走すると彼女は喜んだ。

「とっても美味しいわ。これ、本当にインスタントのドリップコーヒーなの?」
「はい。河辺駅のスーパーで買ってきたのですけど、…お口に合うなら嬉しいです」

褒められて周太は気恥ずかしげに顔を赤くして微笑んだ。
そんな周太を見て岩崎の妻は少し首傾げて笑いかけた。

「湯原くんて、こうしているとね?警察官だって信じられないわ。でも、射撃の凄腕だなんて、ギャップ萌されそうね?」
「はい、私服だと言われます、警察官ぽくないって…あの、『ギャップ萌』ってなんですか?」

なんのことだろう?そんなふうに不思議そうに首傾げて周太は訊いている。
こんな様子は幼げで、まだ高校生のような風情は警察官にはとても見えない。
思わぬ質問にちょっと笑った岩崎の妻は、楽しそうに周太に教えてくれた。

「ギャップ萌ってね、意外な面が魅力的でいいな、って思うことよ?宮田くんも御岳ではそう言われているの」
「英二が?」

そうなの?と黒目がちの瞳が英二を見あげてくれる。
こんな話をふられると少し困る、なんて答えようか英二はマグカップに口付けながら考え込んだ。
その隣で周太のコーヒーを啜りこんで満足げに目を細めていた国村が笑った。

「宮田はね、艶っぽい別嬪のくせにストイック真面目人間だろ?
華やかエロの外見に反して中身は堅物くんだ、このギャップがイイ。しかも宮田、優しいからさ?で、特に女性に人気なんだよね」

「…そう、なの?」

そんな顔で見ないで周太?
可愛らしく微笑んでいるのに、瞳がちょっと笑っていないよ?
けれど、そんな拗ねたような嫉妬の気配が嬉しくて英二は微笑んでしまった。

「人気ってことは無いよ、周太?たぶんね、俺は何か頼まれたら手伝うからさ、便利屋さんなだけ」
「そうなの?」

黒目がちの瞳が英二の目を見つめてくる。
なんだか女王さまに尋問されている気持になって、ちょっと首筋が熱くなってきた。
こんなことに、ときめくなんて自分はちょっと変かもしれない?
そう思っていると入口の扉が開いて、可愛い顔が覗きこんだ。

「こんにちは、宮田のお兄ちゃん、いますか?」
「お、秀介。こんにちは、」

休憩室から出て英二は秀介に笑いかけた。
今日は日曜日で小学校は休みだけれど、秀介は英二が勤務の日はドリルを持ってやってくる。
最初に英二が秀介の勉強を見たのは卒業配置最初の勤務日だった。
崖で滑った秀介を助けた英二が、家族の迎えを待つ間に秀介の勉強を見ながら相手をした。
それが楽しかったらしく以来、ずっと秀介は御岳駐在所に通うようになっている。

「あのね、今日も算数と理科を見てほしいんだけど…あと、実は社会もあるの」

話しながら秀介は母親お手製のトートバッグを開いて見せてくれる。
入っているドリルを手にとると「小学4年生」と書いてある。
まだ秀介は小学1年生だけれど、聡明な性質らしく先の学年の勉強に進んでいる。
それにしても4年生なのは随分早い、きれいに笑って英二は褒めてやった。

「もう4年生のを始めたんだ?秀介、がんばってるんだな」
「うん、だってね、医者になるには、がんばらないといけないのでしょ?」

医者になるには。
その言葉に哀しい記憶が呼ばれてしまう。
秀介が医師の道を志した契機は、秀介の祖父でアマチュア写真家の山ヤだった田中が遭難死したことだった。

田中は国村の親戚で、亡くなった両親の代わりに国村を連れて名峰に登り、山ヤの基礎を作らせた人だった。
そして田中は着任したばかりの英二に、御岳のことを教えてくれた人だった。けれど、氷雨ふる夜に御岳山で田中は亡くなった。
救助に向かった英二の背中で田中は最初の息を引き取った、それでも駆けつけた国村との心肺蘇生法で3回は息を吹き返した。
その3回とも田中は国村に優しく微笑んで、その微笑のまま逝ってしまった。

あれから4ヶ月になる。
あのときが英二が最初に看取った遭難死の現場だった、その後の4ヶ月間でも数件の山で抱かれる死を看取ってきた。
こうして山で廻っていく生と死の尊厳の現場、ここに生涯立ち続けると今日確定する。
この長いような短いような4ヶ月を想いながら、英二は秀介に笑いかけた。

「秀介、奥の休憩室に行ってごらん?俺よりもね、ずっと良い先生がいるから」
「いい先生…あ、周太さんが来てるの?うれしい、会いたかったんだ、ぼく」

うれしそうに笑って秀介は奥の休憩室へと上がっていった。
すぐに楽しそうな声が聞こえてくる、秀介と周太は名前も似ているけれど相性が良いらしい。
今日は会わせてあげられて良かった。
明るい笑い声の気配に微笑んだとき、駐在所の電話が鳴った。

きたかな、

すこし微笑んで英二は受話器を取った。
御岳駐在所ですと電話に出ると、すっかり馴染んだ軽妙で深い声が受話口に微笑んだ。

「お、ちょうど宮田が出たな?おまえさんに報告だよ、午後一で正式承認だ。おめでとう、」

これで完全に決まった。
尊敬する山ヤから告げられた自分の、山岳レスキュー人生の正式な幕開けに英二は微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。後藤副隊長、あらためて、お世話になります」

電話で繋がれた警視庁随一の山ヤの警察官に、英二はきれいに笑いかけた。



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第35話 曙光act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-03-13 22:58:48 | 陽はまた昇るside story
※念のため後半R18(露骨な表現はありません)

離せない、



第35話 曙光act.6―side story「陽はまた昇る」

白いシーツとまくらに小柄な体うずめてブランケットで包みこむ。
ブランケットにふとんもリネンのベッドカバーも重ねて、沢山の布越し周太をそっと抱きしめた。
これだけ隔てたら体のラインも解らない、自制心を助けてほしいと沢山の布に密やかに祈った。
そんな祈りに微笑んだ英二を、幸せそうな黒目がちの瞳が見つめてくれた。

「ね、英二?さっき、どうして、離せなくなって困る、って言ったの?」

そんなこと、こんな場所では言えない。
訊かれて困るまま英二は周太の瞳を見て微笑んだ。

「周太、きれいになったね。1月の時より、ずっと、」
「ん?…そう、かな…」

ほんとうに周太はきれいになった、透明感と艶が増した。
この1ヶ月間きっと周太は悩み抜いた、その想いの結論が表情に瞳に顕れている。
愛情深く育ったままに繊細で優しい周太は想い深くて、人も想いも切り捨てることが出来ない。
優しい周太だからこそ英二と光一と美代と、3人の想いの狭間に墜ちこんで心揺れた1ヶ月だったろう。
きっと自責に苦しんで想いの振幅に泣いただろう、けれど泣いても超えた強さがまた周太を輝かせている。
こんなふうに優しさを輝きに変えていく姿に惹かれてしまう。

しかも周太の結論は「わがままに正直になる」
あの可愛い含羞の駄々っ子ぶりに、今も自制心が悲鳴を上げている。
あんな赤らめた頬で上から目線で物言うなんて?たまに自信なく頼りなげに尋ねたりして?
命令言葉のくせに可愛くはにかんで遠慮がちに「…いいの?」だなんて庇護欲を刺激して?

まばゆい透明感と艶に誘われる、可愛いわがままに振り回される。
もうどうしていいか解らない、なす術もなく心も体も掴まれて今すこしも離れられない。
だからどうか少し勘弁してほしい、今もう刺激されたら自制心の罅がばっくり裂けてしまう。
どうかこのまま別の話題に移ってほしい、そう見つめた先で周太は唇を開いた。

「いつも英二、離さない、って言ってくれるでしょ?でも、なんでさっきは、困るって言ったの?」

どうして言っていることが変わったの?
はぐらかそうとしても真直ぐ見つめて追いつめてくる、まさに尋問みたいに。
けれどこんな状況で自白なんか出来るわけが無い、自白の瞬間が新たな犯罪現場になったら困る。
困り果てながら英二は静かに微笑んだ。

「うん、…困るんだ、今は。でも周太、安心して?ちゃんと傍にいるよ、守っている。わがまま周太が可愛いから、」
「ん、…ほんとに、わがままで…いいの?」
「うん、わがままが良い、周太。全部を言ってくれたらね、うれしいよ」

笑いかけながら英二は長い腕を伸ばした。
ベッドサイドのスイッチを長い指で押してルームライトを消していく。
すこし暗くなれば周太は眠り込む、そんな期待に英二は灯りを消した。
もとから周太には墜落睡眠の癖がある、疲れている時など急に眠ってしまう。
昨日は警視庁拳銃射撃大会で緊張して、そのまま金曜夜のハードな当番勤務に就いて、明けた今日は講習会と電車旅。
そんなハードスケジュールをこなした周太は疲れている、だから暗くすればすぐ眠ってくれるだろう。

このまま眠ってくれれば周太に強請られることは無い。
そうしたら何とか自制心も保つだろう、そして朝は無事に来る。
そんな期待をダウンライトの朧な光がゆるく照らして、ふっと黒目がちの瞳が閉じかけた。
けれど抵抗するよう頬をかるく掌で叩くと黒目がちの瞳は英二を見つめてきた。

「ね、英二?…電気、消さないで、眠くなっちゃうから、」

見つめて訴えてくる声がどこかトーンが緩められていく。
あわい光に照らされた黒目がちの瞳に眠たげな睫が落ちかかる、予想通りに墜落睡眠がもう周太の意識を掴まえていく。
このまま眠りに入ってほしい、やさしく微笑んで英二は低く囁くよう静かに答えた。

「だめだよ、周太。昨日は競技大会の後に当番勤務だったろ?疲れているはずだよ、周太。ちゃんと眠って?」
「嫌…だって、今夜は…えいじに、…」

お喋りはもうやめよう?
くちびる閉じて瞳も閉じて、素直に眠りに誘われて?
そんな願いをこめるよう英二は周太のやわらかな前髪をかきあげた。

「おやすみ、周太。明日はね、御岳山に行くんだから…眠って?」

やさしいキスで眠たげな額にふれると嬉しそうに周太が微笑んだ。
その微笑みに眠りが睫にふれてくる、瞳がおちて閉じかけてくれる。
どうかこのまま眠って?
祈るように見つめるなか小柄な体が身じろぎする。
ブランケットもふとんも越えて周太が抱きついてきてしまう。
そして英二のふところに頬うずめながら、眠りに抗うよう黒目がちの瞳が見あげてくれた。

「…えいじ、…愛している、よ?…だから、…」

だからお願いだ周太、このまま眠りこんで?
このまま眠ってほしい、もう過ちを繰り返さないように。
そして自分が君を愛することを、奪う愛から与える愛へと変えさせて?
祈るよう微笑んで見つめるなか周太の瞳が閉じていく。

「…おねが、い…… 」

ふっ、と長い睫が閉じられて周太は眠りの底へと沈みこんだ。
今夜ふる穏やかなダウンライトの光のなか、眠りが周太を安らがせていく。
そうして眠りに落ちた周太を、宝物のように英二は抱きよせて微笑んだ。

「周太、…おやすみ、夢の中でも微笑んで?」

ねむる周太の唇に、そっと優しいキスを英二は重ねた。
重ねた唇のはざまから規則正しい寝息が零れてとける。
もうすっかり眠りのなかへ周太は浚われてくれた、安堵に微笑んで英二は唇を離れた。

「…反則だよ、周太?」

そっと微笑んで英二は、おだやかな周太の寝顔を見つめた。
英二のふところによりそって頬ふれて、すこし紅潮した寝顔は無垢だった。
こんな無垢な子供の寝顔の周太、けれど23歳の警察官で射撃の名手でいる。
このアンバランスな現実が幻のように思えるほどに、いま懐に眠る顔は幼げな微笑で安らいでいる。
こんな周太は本当は警察官など向いていない、父への想いと義務と責任で選んだ道でしかない。

ほんとうの周太は、何をしたいのだろう?

周太が笑顔になること、それがきっと周太の「望み」のヒントになる。
幸せそうな周太の笑顔を英二はひとつずつ想い出し始めた。

公園で本を読んでいる横顔。
庭に佇んで花を摘んでいる穏やかな笑顔。
陽だまりの台所で温かな食事を作る笑顔。
あのラーメン屋に行こうと決める時の笑顔。
パン屋でオレンジデニッシュをトレイにとる笑顔。
カフェでオレンジラテを見つけた時の嬉しそうな顔。
彩豊かな花に囲まれて花屋の女主人と話す楽しそうな顔。
山の夕陽と星空と朝陽のなかで天空あふれる光に輝いた瞳。
大きな木を見つけて抱きしめながら幹に頬寄せ水音を聴く顔。
それから、

「…青い本を受けとった時の、笑顔…」

―…俺は、ひとりの植物が好きな人間です。このご本、本当に嬉しいです。読むのが、とても楽しみです…
 子供の頃に樹医の方のことを知って。人間より長生きする木のお医者なんてすごいな、って憧れていたんです

本を贈ってくれた樹医に周太はこんなふうに話していた。
あの樹医と初めて会った12月、いつもの電話で周太は樹医への憧れを話してくれた。

―…子供の頃にね、父と樹医の記事を読んだんだ
 「樹医は樹齢数百年の樹木も蘇らせる」そんな記事でね…父は「ね、周?魔法使いみたいだね」って感心して
 俺もね、ほんとうにそうだと思った。それでね、会ってみたいってずっと思っていたんだ「植物の魔法使い」に
 なにも話せなかったけど、でもね、俺ほんとうに会えたよ?「植物の魔法使い」と
 ね、英二?樹医の掌はね、繊細な長い指の大きい掌で。がっしりして、働き者の手って感じだった

「樹医、か…」

奥多摩も巨木が多いため、樹医がおとずれて保全に努めてくれる。
樹医はまだ人数も少ない、たしか正式名は「樹木医」民間資格で試験制度があると聴いた。
業務経歴や研修実習、筆記試験、面接など様々な要件をクリアして初めて認定されるらしい。
奥多摩に訪れた樹医から聴いた話に、そう簡単になれる職業ではない印象を受けた。
そんな樹医の一人が書いた本は、どんな本だろう?

「…周太?」

呼びかけても長い睫は披かれない。
完全に眠り込んでいるのだろう、こんな深い眠りにはいった周太は朝まで起きない。
このまま良い子で眠って?微笑んで英二は、そっと眠る額にキスをして静かにベッドから降りた。
ソファに腰かけてフロアーランプを小さく絞って点けると、明るんだ一隅に置かれた青い本を手にした。
この本は周太の宝物になるだろうな?
微笑んで英二は、ちいさな灯のスポットに青い本の表紙を開いた。

「…自筆の、詞書?」

達筆な万年筆の筆跡が、表紙裏に詞書を綴っている。
この本の贈り主がよせた一文だろう、英二は筆跡を目で追った。

 ひとりの掌を救ってくれた君へ
 樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
 そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
 この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
 いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
 この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
 この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。
                                    樹医 青木真彦

「…君が掌を救った事実には、生命の一環を救った、真実があります…君に誇りを持って」

低い呟きに、ふっ、と湧き起った熱がひとしずく頬へ零れた。
周太の掌が生命の一環を救った、この真実が英二には救いに想えてしまう。
この救いのままに周太が生きられたらいいのに?
そんな叶わぬ祈りが涙になって、また一滴が頬を伝った。

いま周太は父の軌跡に立つため「射撃の名手」の警察官として、危険な暗い道へと歩いていく。
その道が曳きこむ先にある周太の任務は、たしかに多くの命を救うために必要かもしれない。
けれど、そのために周太の掌が、真逆の行為で血染めにされる可能性が潜んでいる。
この前途へと周太が涙を流し続けていることを自分は一番知っている、だから一緒の道に立ってやりたかった。

だから本当は、同じ道で常に隣に立って身代わりになりたかった。
周太の任務の分まで身代わりになって、この自分の掌を血で染めてしまいたかった。
だから13年前の事件に向き合った時も周太が望むなら自分が犯人を射殺するつもりだった。
こんな身代わりを周太は欠片も望んではいない、そう解っている。
それでも自分は、周太の掌を血に染めたくない。

さっきも熱いコーヒーを淹れてくれた、周太の掌。
花を摘む掌、樹木を愛しむ掌、温かな食事を作ってくれる掌。
そしてこの自分にしがみついてくれた、あの愛しい掌を守りたい。

「…周太、君の掌を、愛しているんだ…だから、」

ほんとうは、止められるなら周太の今の進路だって止めてしまいたい。
けれど、周太の父への愛情が生き続ける限り、父の軌跡を辿る道を降りることは周太の心を逆に傷付ける。
あの父の唯一人の息子である。その矜持と誇りと愛情を傷つけ壊すことになる、それが解かる自分には止められない。
純粋無垢で子供のままの周太、けれど23歳の男にふさわしい誇り高い凛冽を周太は持っている。
そんな真直ぐ端正な瞳に自分は恋して憧れた、そんな自分にどうして周太を止められるだろう?

繊細で優しくて泣き虫な周太。
けれど、ただ守られるだけではない、誇らかに凛然と美しい男。
それでも、あの掌を自分は血染めになんかしたくない、あんな哀しい任務に就かせたくはない。
だから自分は周太を守るために、いま山岳レスキューで自分の掌を血塗れにして厭わない。

「…この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる…真実の姿、想い…」

いま泥にまみれ血に染まり、この体と生命を懸けて山岳レスキューの現場に立っている。
この経験と知識がきっと周太の掌を救う鍵を作ってやれる、もう既に作れたものもある。
それでも本配属まであと5ヶ月しかない。
この冬が終わり春が来て、夏が来れば本配属が決まる。
そのときには何時もう周太の掌が血染めにされるか解らない。

人命救助の為に血に塗れること、真逆の為に血染めになること。
同じ血まみれの掌に見える、けれど見た目が同じでも全く意味が違う。
たとえ前者の目的であったとしても後者の手段を取るのなら、その罪と罰は誰が背負う?
この矛盾に誰が答えられる?どうせ誰も応えられやしない。
生命の終焉は人間が決められることじゃない、それなのに無理な正当化をするから矛盾は生まれていく。
そんな矛盾の陥穽に周太の父は陥って、そして最後は自ら射殺された。

「…そうでしょう?あなたの、真実の想いは、…」

低く呟いて英二は、首元に掛ける革紐を襟元から手繰っていく。
そしてシャツの胸元から取り出された、革紐に結んだ銀色の合鍵をじっと英二は見つめた。
この合鍵の元の主は周太の父、彼の日記帳を英二はずっと最初の頁から読んでいる。
けれどラテン語の辞書を買ってすぐ、いちばん最後のページを先に読んでしまった。
そのページにラテン語で綴りこまれていたのは、哀しい残酷の真実だった。

「どうして、この道に立ったのですか?…あなたは、違う道に立つべきだった…」

見つめる鍵を握りしめて、もう1つの掌で包みこむ。
そうして組んだ両掌を祈るよう額に着けて、密やかに英二は泣いた。
この世で生きては会えなかった、けれど敬愛してやまない笑顔が美しかった男。
その男の為に流れる涙の底で英二は静かに言葉を復唱した。

「…君が救った事実には、生命の一環を救った、真実があります…君に誇りを持ってください」

この言葉を、14年前になる春の夜の前に彼に贈ってあげられたなら。
そうしたら彼は、自らを裁いて射殺される運命を選ばずに済んだのかもしれない。
まだすこしの希望と自分の道への誇りを信じて、生きて笑うことを選べたのかもしれない。
裁かれることの無い罪に絶望する前に救うことが出来たかもしれない。

「…生命の一環を救った君に、誇りを持ってください、湯原馨さん…」

だから、と、この今からに希望と光を信じたい。
この今から彼と同じ道に立つ周太には、きっとこの樹医の言葉が光になってくれる。
どうか周太がこの先に立つ道を、この樹医の言葉に照らし続けてほしい。
決して周太が父と同じ最後を選んでしまうことの無いように。

どうか周太の掌を守り抜くことが出来ますように。
心の深くから祈りを合鍵にキスで籠めて、微笑んで見つめると懐に納めなおした。
ふと顔をあげるとカーテンの向こうに静寂が濃い、もう夜半を過ぎただろう。
本を閉じて元に戻すと、フロアーランプを消して英二は立ち上がった。
ダウンライトの朧ろな光だけが照らす部屋に、安らかな寝息の気配が優しい。
静かにベッドへと戻ると、幸せな寝顔が白いリネンにうずもれていた。

「…なんだか、白いベールみたいだね、周太?」

添い寝して見つめた言葉に、ふっと花の面影が甦った。
あの年明けの休日、小春日和の台所で贈った婚約と求婚の花束。
あの花束には白いベールを想わせるレースに似た可憐な花が編まれていた。
あの白い花の名前はなんだっただろう?

「…スカビオサ、だったかな…」

低い呟きがこぼれて、朧な光が微かに揺らいだ。
その光に透かし見る愛しい寝顔の、長い睫がかすかに揺らいだ。

「…ん、」

ちいさな吐息が聴こえて、鼓動がひとつ心を打つ。



まさか、そんなはずはないだろう?
そんな想いのなか懐でやわらかな髪が動いた。
すこし身じろぎしただけ、きっと周太は眠りから覚めるはずがない。
けれど見つめる想いの真中で、長い睫がゆっくりと披きはじめた。

「ん、」

黒目がちの瞳が、目覚めて微笑んだ。
微笑んだ瞳はゆるやかに動いて辺りを見ている。
そして英二のふところで小柄な体は身じろいだ。
周太は、完全に起きている?驚いて英二は低い声で名前を呼んだ。

「…周太?」

名前を呼ばれて周太の顔が英二の方へあげられた。
自分の顔を見つめてくれる黒目がちの瞳が、心から嬉しそうに微笑んでくれる。
嬉しそうに微笑んだまま腕が伸ばされて、小柄な体が英二に抱きついた。

「英二、起きていたの?…いま、何時?」

背中に肩にふれる掌の温度が「もう完全に目が覚めている」と告げてくる。
いつもなら朝まで起きないはず、なのになぜ今夜は起きてしまったのだろう?
こんな予想外に驚いたまま英二は周太の問いに答えた。

「いま1時位だと思うけど…どうしたの、周太?いつも眠ったら朝まで起きないのに、」

まだ1時だね?
小さく呟くと幸せそうに黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ん、どうしてもね、今夜は起きていたくて…」

微笑んだ瞳が近寄せられて、なめらかな頬を英二の頬に寄せてくれる。
頬寄せられるすぐ耳元で、うれしそうに弾んだ声が英二に質問した。

「…ね、英二?どうして、困るの?」
「困る?」

さっき、はぐらかした質問のことだろう。
けれど、こんな状況で答えてしまったら、それこそ自制心なんか微塵だろう。
なんとか質問から逃げたい、質問の意味が解らないフリで逃れようか?
そう考えていると周太がまた訊いてきた。

「英二はね、俺が離れたら、困らないの?」

さっきと違う質問だった。
少しほっとしながら新たな質問に、今の哀しい想いが心に軋んだ。
けれど答えない訳に行かない、想いのまま英二は寂しく口にした。

「離れてほしくない、でも。周太が、俺から離れたいんなら、…」
「ん、英二、今ね?父とそっくりだった…ね、離れたくないよ、英二から…あ、」

言いかけて周太はふっと言葉を止めた。
どうしたのかな?不思議に思いながら寄せられる頬を英二は見た。
その頬がやわらかく離れると、黒目がちの瞳が英二の目を覗きこんでくれる。
じっと見つめてくれながら周太は英二に問いかけてきた。

「ね、英二?…美代さんにね『恋』について、話したんでしょ?」

どうやら追及は終わって、別の関心に矛先は向いた?
すこしだけ心の緊張をほどきながら英二は答えた。

「うん、恋って何?って訊かれたからね」
「美代さんに話した『恋』についてね、俺にも教えて?」

教えてほしいな?瞳でもお願いしながら周太が微笑んでくる。
おねだり可愛いな、思わずふっと笑みをこぼして英二は口を開いた。

「恋だとね、相手のことを丸ごと知りたくなる…知って、好きで、相手のことを全部、欲しくなる」

ちいさな子に語り聴かせをして寝かしつけていく、あの雰囲気にしたい。
そんな想いで周太の髪をかきあげ撫でると、気持ちよさげに微笑んでくれる。
こんなふうに気持ちよく眠り誘われてほしい、周太がまた眠りに入れば朝は無事に迎えられる。
どうか眠ってくれますように、祈るよう髪を撫でながら英二は低く言葉を続けた。

「恋したら。その相手にはね、他の人は見てほしくなくなる。自分だけで、独り占めしたくて、…
ふたりきりで、過ごしたい。ずっと腕のなかから離したくなくて、ちょっと離れるのも哀しくて…苦しい。
ずっと見つめていたい。声聴いて、肌ふれあって…体温を感じて抱きしめていたい。好きだ、って言い続けて…愛してる、って…」

低い声でゆるやかに話し終えて、夜の静謐がまた部屋を満たした。
おだやかな静謐の底から眠りに支配されてほしい、願いのなか静かに英二は周太の髪を撫でた。
撫でられながら周太の瞳が真直ぐに英二の目を見つめている、その唇が穏やかに声を紡いだ。

「ほんとうは…英二には、他のひとはね、見てほしくない。
俺だけで英二を独り占めしたい、ふたりきりでいたい…だから今夜もね、奥多摩に連れてきてほしくて…
ずっと英二の腕に抱きしめられたくて、英二の笑顔を見つめたくて、声を聴きたくて…逢いたかったんだ、」

そんなふうに逢いたいと想ってくれた、それだけでも幸せで英二は微笑んだ。
微笑んだ目を真直ぐに見つめたまま周太は英二に告げた。

「英二の…肌に、ふれたい…温もりを感じて、抱きしめられたい…」

いま、なんて言ってくれた?

肌にふれて?温もりを感じて?
それは素肌でふれあいたい、そう告げている?
こんな事を周太が求めて言うなんて幻だろうか?それとも眠りこんで夢を見ている?
こんな幻聴の疑いに周太は真直ぐ想いを告げてくれた。

「好き、英二…愛してる、…すき、」

告げる言葉と一緒に、周太の唇が英二の唇にキスをした。
ふれるだけのキス、けれど心がひっぱたかれた。
ひっぱたかれたのに、ふれる唇に幸せが優しく充ちてくる、奥多摩鉄道の夜に重ねたように。
おだやかな温もりと優しい感触の幸せに重ねるキスがあまく微笑んでいく。

「…英二、お願い、…聴いてくれる?」

そっと離れて黒目がちの瞳が英二を見つめた。
見つめる黒目がちの瞳は「お願いしていいの?」と遠慮がちに初々しい。
離れた唇にはキスのあまやかな気配が香って、自制心の罅を甘く侵食していく。
こんな瞳とキスでお願いされたなら自分には「絶対」になってしまう。
キスと視線に絡めとられるよう英二は口を開いた。

「周太のお願いはね、俺には『絶対』だよ?だから、聴かせて?」
「ん、…ありがとう、英二、…あの、ね、」

どうかお願い、いま、わがままを言わせて?
黒目がちの瞳がそう告げながら、気恥ずかしげな唇が想いを声にした。

「英二、俺を、抱いて?…キスして?名前を呼んで…肌にふれて?」

これは罰ゲームだ。

「体温で、俺に、ふれて…」

首筋から熱が昇る、頬が熱くなる、頭がぼうっとする。
こんな可愛らしいお願いは惑わされる、けれど今の自分には刑罰以外のなんだろう?
どうか勘弁してほしい、罅割れていく自制心を抑え込みながら英二は答えた。

「…周太、…だめだよ、」
「どうして、だめなの?…お願い、聴いてくれないの?」

そんな可愛らしい訊き方しないで?
そんな哀しげに俺を見つめないで?この罅割れは痛いのだから。
軋みあげながら罅入ってくる自制心を見つめながら、英二は率直に言った。

「周太、俺はね、…あのとき、周太の体を大切に出来なかった、嫌がっている周太を、俺は…犯したんだ」

そんな無垢な瞳で俺を見ないで?
君を抱きしめる資格を失った、この自分の醜さが透けて痛いから。
この自分の醜さが赦せない哀しみが苦しいから、どうか見つめないでそんな顔で。
そんな願いを見つめながら英二は続けた。

「許せないんだ、自分の事が。もし、同じことを他の人間が周太にしたら。
きっとその相手を俺は、この世の涯までだって追い詰めてしまう。それくらいに、ね、
許せないって想っていることを、俺は…自分がしてしまったんだ。だから周太、俺にはもう資格が無い、」

もう資格が無い。
この哀しみが熱に変わって涙ひとしずくに変わって零れていく。
この哀しい後悔の涙を無垢な瞳が見つめて、やさしい唇がキスに吸いこんだ。

「だめ、英二…英二は、俺のお願いにはね、逆らえないんでしょ?…愛してるんでしょ?だから、お願いを聴いて?」
「周太、…でも、」

言いかけた英二の言葉をやわらかな唇がキスで奪った。
奪われた言葉に哀しみがほどけてしまう、自制心が嬉しげに罅を広げていく。
ふれる想いと温もりがあまやかに幸せになれるキス。
黒目がちの瞳が英二の目を覗きこんで、キスに離れた唇が微笑んだ。

「俺を、ほしいでしょ?…お願い、英二?わがままな俺が、可愛いんでしょ?だったら、…お願い、聴いて?」

しずかに周太は体を起こした。
ベッドの上に起きて座りこんでシャツの胸元に掌を重ねこむ。
座りこんで英二を見下ろして、周太はきれいに微笑んだ。

「ね、英二?お願い聴いて、言うこと聴いて?わがままで可愛いんでしょ?だったら…」

きれいに微笑みながら、胸元の掌を握りしめてほどいていく。
そうしてほどいた掌を周太は自身のシャツのボタンへと掛けた。

「俺のこと、かわいいんでしょ?…だったら、…だきしめて?」

ちいさな音にシャツのボタンが1つはずれる。
こんなこと慣れていない、そう指先がふるえているのが解かる。
ふるえる指先で周太はシャツのボタンを1つずつほどいて、素肌がすこしずつ晒されていく。

これは、現実の光景?

呆然と英二は、見おろしてくる無垢な瞳と小柄な体を見あげていた。
もう呼吸の仕方も忘れてしまった、ただ目だけがベッドの上の光景を見ている。
ベッドの上で周太が英二に抱かれることを望んで恥ずかしげに服を脱いでいく。
こんな光景は望んだことも無い、だって幸せに過ぎるだろう?

周太が自分からシャツを脱いでいる?
気恥ずかしげに頬染めながら、ふるえる指が素肌を晒していく?
晒されていく素肌まで含羞に染めあげられて艶めいて?

「かわいい、なら…今夜、からだごと、かわいがって?…」

シャツが肩からおちて露にされる肌が、2月の夜にさらされる。
あわい光のなか露な肌は桜の色に華やいで艶まばゆい誘惑に充ちていた。

愛しているなら今、この肌を見て?
愛しているなら今、この肌へと手を伸ばして?
そして抱きしめて心ごと体を繋いでほしい、あなたへと繋がれたい。

「愛してるなら、いうこときいて…英二…」

気恥ずかしげで命令口調の、あざやかに艶めく「おねだり」
誘惑が紅潮する肌から立ち昇る、あまやかな香が空間を支配する。
こんな光景も空気も自分は望んだことは無い、美しい幻を見ているのかもしれない。
こんなことに今夜なるなんて?予想外過ぎる展開に自制心が軋んでいる。

どうか求めて?お願い聴いて?
黒目がちの瞳がねだりながら、頬を紅潮にそめる周太がきれいに微笑んだ。

「英二、抱きしめて?」

自制心が崩れおちた。
保護者でいよう、そんな決意も崩れて消えた。
自分で自分を赦せない自責と罪悪感を、あわい紅の艶が拭ってしまう。
自分を律してコントロールしたい、このプライドすら微笑が砕く。

…愛しているなら、言うこと、聴いて?

黒目がちの瞳が真直ぐ見おろして愛情を盾に命令する。
艶めく裸身が気恥ずかしげな含羞を湛えながら、抱かれる腕を待っている。
そして全身から心から魅せる「愛している」告白がまばゆく響いて、心も視線も離せない。

もう、降参だ

ゆっくり1つ瞬いて英二は、自分を支配する黒目がちの瞳を見つめた。
絡めとられていく視線と想いのまま体が起こされていく、起きあがった体の前で艶めく裸身が微笑んだ。
もう、手を伸ばさないでなんて、いられない。
素直な想いのまま英二は愛しい人を抱きしめた。
抱きしめた素肌が艶やかに香たつ、すこし早い鼓動が重なりふれる胸に穏かに響いていく。
もう抵抗なんか出来ない、この美しい瞳に体に心に、存分に好きにされてしまいたい。
心から大切に抱きしめた宝物を英二は、そっと白いシーツに沈めた。

「周太、…」

呼んだ名前が切なく響いていく。
こんな声を自分が出すなんて知らなかった。

「ん、…えいじ?」

可愛らしいトーンで名前を呼んでくれる。
呼ばれた名前が嬉しくて幸せで笑顔になってしまう。
こんな可愛い呼ばれ方をされたらもう、何をされても構わない、何でもしてあげたい。
自分を支配する黒目がちの瞳がきれいに微笑んでいる、この微笑に自分は何も逆らえない。
どうぞ好きにして?捧げたい想いに笑いかけると、愛しい掌がやさしく頬をくるんでくれる。
くるんだ掌に近寄せられて、英二は黒目がちの瞳を間近く見つめた。

「えいじ、…すき、」

ふたりのくちびるが重なりふれあう。
ふれるキスが温かい、あまやかな温もりがやさしい。
キスだけで心が蕩かされていく、求めていた想いの幸せが温かい。
やさしい穏やかな感触のまま英二は、やわらかに抱きしめられた。

「愛してる、英二…好き、だから、…」

だから。
この言葉の続きは、今夜ふたりきりで過ごす時の意味。
言われないでも従ってしまう、自分はもうこの瞳に囚われている。
抱きしめられる素肌に酔いながら英二は幸せに微笑んだ。

「うん、…周太、」

ゆるやかに身を起こすと英二は、潔く白いシャツを脱いだ。
脱いだ白いシャツを床へとこぼして、首に掛けた革紐に指をかける。
革紐を首から抜いて合鍵を外すと、サイドテーブルにことんと置いた。
置かれた合鍵に微笑んで、それから英二は白いベッドを見つめた。

…ね、愛して?

黒目がちの瞳が気恥ずかしげに見上げて、おねだりしてくれる。
こんなふうに、素直に可愛いわがままを、ずっと言って欲しかった。
どうか今夜一夜でこの夢が終わってしまいませんように。
そんな願いに英二は幸せに綺麗に笑った。

「周太、愛してる、…ずっと、愛してるよ?」

想い告げながら桜いろの肌に肌を重ねていく。
そして素肌ふれあう瞬間に英二は軽く瞑目した。

この幸せは赦される?

自責と罪悪感が心を切り裂いて痛い。
けれどそんな痛みごと桜花ひらいた肌が心ごと抱きとめてくれた。

愛するひと、君は赦してくれるの?

ふれる肌のなめらかな温もりに、痛みごと優しく受けとめられていく。
抱きしめる体の華奢な骨格が肌透かして、か細くたわんで愛おしい。

「英二、愛してる…すき、」
「…周太、」

ふれる狭間くゆらされる、あまやかで穏やかな肌の香に心ごと酔わせられる。
こんなふうに肌ふれあえることはもう一生無いと思っていた。
諦めていた願いが今こうして叶えられる?

「…ずっと、愛して?…抱きしめていて、…英二、」

吐息交じりの声が心くすぐって、無垢な瞳に心が囚われる。
囚われてしまう瞳を見つめて英二は微笑んだ。

「周太、俺のこと、怖くないの?」

あの日に周太を強姦した自分は怖がられて当然だ。
そんな不安が訊いてしまう、自分を怖がらないの?と確認してしまう。
けれど黒目がちの瞳は不思議そうに見つめて、可愛らしいおねだりをしてきた。

「どうして?…怖くない、大好き英二…ね、キスして?…」

こんなこと周太が言うなんて?
ちょっと待って理性まで崩れそう?
けれど強請られたら嬉しくて幸せが微笑んで、素直に英二は唇を重ねた。

「…ん、…」

やわらかな唇が英二の唇を受けとめる。
ふれあうキスの幸せな温もりが優しくて心がふるえてしまう。
どうしてこんなにキスが前以上に、あまやかなのだろう?
不思議な想いのまま重ねる唇に、やわらかい熱がふれた。

「…っ、」

ふれる熱が英二の唇をやさしく撫でて、くちの中へと入りこむ。
深いキスが周太の唇から贈られて英二を心ごと支配する。
求められる想いと醒めない夢に心沈まされていく。されるがまま英二はキスの香に蕩かされた。
こんなキスを周太がするなんて?いったいどうなっているのだろう、今夜どうなってしまう?
ただ愛しい想いと、キスふれる幸せに溺れこまされて囚われていく。

「…えいじ、…からだごと、いっぱいキスして…お願いきいて?」

艶やかな吐息まじりに黒目がちの瞳が見つめて命令する。
こんな命令する周太は想像すら出来なかったのに?
けれどいま桜いろの肌を艶めかせながら誘惑が見つめてくる。
もうお願いでも命令でも平伏してしまう、幸せに英二は微笑んだ。

「うん、お願いきくよ?周太、…」

囁きに応えながら抱きよせて、桜いろの肌に口づけを零していく。
ひとつキスするごと桜いろに紅色が重ねられていく。
あざやかな花に埋められていく肌が、艶めかしく撓んで誘いを投げかける。

「ん、…えいじ…もっと、近づいて?…」

言われたままに、頬を寄せて抱きしめる。
ふれる頬のまま耳元にキスをして、額にキスをする。
見つめあう瞳が熱に潤んで気恥ずかしげに英二に笑いかけた。

「英二、…もっと、深くふれて?…」

こんなこと、この唇が言っているの?
こんなこと、お願いされなくたってしたい。
けれど、こんなお願いされたら歯止めが効かなくなりそう?

「…いいの?周太、…俺がふれて、いいの?」
「ふれて?…愛してるんでしょ、言うこと聴いて?すみずみまで、ふかいとこも…ぜんぶふれて?…おねがい、」

こんなセリフを気恥ずかしげに言われたら?
こんな表情こんな声、もう理性が滑落してどっかに行ってしまう。
吐息まじりの艶やかな声と潤んだ無垢な瞳に、心は囚われて奴隷になってしまう。
この愛する想いに奴隷に成り下がって、何も考えないで従っていればいい?
こんな感覚だけの世界がなんだか幸せで英二は微笑んだ。

「おねだり、可愛いね?周太、…ふれるよ、」

唇と指とで、桜いろの肌のすべてにふれていく。
ふれるたび肌が微かなふるえに受けとめて、誘うように身じろぎする。

「…ん、あ、…えいじ、…すき…もっと、見つめて…」

こんな周太は初めて見つめてふれている、これは現実なのだろうか?
どこか夢を踏むような想いに、細やかな腰を抱きながら唇で肌にふれていく。
抱きしめふれる肢体が一瞬ふるえ強張って、ほどけて、すべて受入れてしまう。

「もっと見つめて、ふれて?…ぜんぶ見て?愛してるなら、目を逸らさないで…」
「うん、周太?見つめるよ…ね、もっと命令してよ?おねだりして」

桜いろ深まっていく肌の艶が心奪っていく。
なめらかな肌すべて唇で指でふれて、桜いろ深い紅が肌のすべてを覆い尽くす。
ふれられ見つめられ、恥ずかしがりながら委ねて、英二の心を誘いこんでしまう。
もう、心ごと体すべてを捕えられていく。

「ね、英二、…ほんとうに、愛しているの?…わがままだけど、ずるいけど…いいの?」
「うん、愛してる。わがままで、ずるいの、ほんと可愛いよ?」
「ん、…ほんとうに?」

そんな恥じらいながら見つめないで?
そんな恥じらう癖にどうして今夜はそんなに大胆なの?
言葉と表情と体とがアンバランスで、そんな矛盾にも強く惹かれて離せない。

「ほんとうだよ?周太、可愛い。もっと、おねだりしてよ?命令して?」
「そんなこというなら、困らせちゃうから?…もっと、俺に溺れてよ?俺だけ見て、よ?」

艶めかしい肌を惜しみなく魅せて英二に抱きついてくる。
しっとりと絡む肌と吐息に酔わされてしまう。

「もっと溺れるよ、…周太だけ見てる」
「だったら、ね、英二?…俺のこと、ほしいんでしょ?…つなげて?言うこと、聴いて」

こんな悩ましい「お願い」までするの?
こんなの本当に反則だよ周太、そう心で呟いても本当は嬉しくてたまらない。
いま何をしてこの肌を喜ばせたいのか?それだけが脳裏を占めていく。こんな感覚なんて初めてのこと。
愛するひとの心と体だけ見つめて求めて、英二は肌を惹きつけた。

「周太、…そんなおねだり、嬉しいよ?…でも、」

一瞬、不安になる。
この瞬間に、もし周太が、あの夕方の恐怖を想い出してしまったら?
だから怖い、繋がるこの一瞬が怖くて竦みそうになる。
ほんとうに大丈夫だろうか?
そんな躊躇いに見つめた黒目がちの瞳が、きれいに微笑んだ。

「…ダメなんて、言わせないから、ね?…俺が欲しかったら、…つなげて?」

わがままな言葉を言いながら。
顔も瞳も含羞が薫ってるなんて、ちょっと可愛すぎだ。
上から目線の言葉を言いながら。
紅潮に肌をまばゆかせて艶っぽいなんて、誘惑が強すぎる。

「心も、体も、つなげて、融かしてよ?…愛してるなら、言うこと聴いて?」

こんなに可愛くて艶やかに素肌で誘惑されたら、遠慮することなんか出来ない。
素直な想いのまま英二は長い腕で洗練された肢体を抱きとった。
絡める肢体にそのまま溺れこんで深く身を沈めていく。

「…っ、あ、…え、いじ、」

ふれる吐息ごと唇も重ねて、強く抱きしめて、心ごと体を繋げた。
瞬間、心も体も大きくふるえ融けこんで、一瞬で充ちた。

「…周太、…」

かわす唇のはざまに名前呼んで、黒目がちの瞳を見つめて視線も繋ぎとめる。
ふれる素肌の温もりに吐息交じりの声が艶めいていく。

「ん、…あ、……うれしい、えいじ…っ、ん、」

悩ましげな瞳が艶めいて吐息零していく。
こんな顔は困ってしまう、あんまり綺麗で誘惑がきつすぎる。

「周太、そんな顔されたら…困るよ、」
「…しらない、…こまっても、しらない…っ、…だきしめて、よ?」

命令されて抱きしめていく温もりが愛しい。
しがみついてくれる右腕の紅深い痣がまた今夜も深くなっている。
ずっとキスで痣を刻み続けてきた右腕に、英二は唇で想いを刻んでいく。
右腕にキスしながら愛する肢体へと体を沈ませて、唇へとキスをする。

「ん、…英二、…だきしめて?離さないで…そばにいて、…っ、」
「うん、周太…離さない、」

抱きしめた肌の温もりと香に酔わされていく。
深まる想いと感覚の底で、左肩にやわらかな熱がふれていく。
やわらかな熱が肩をやさしく吸いながら、噛まれるような甘い痛みが奔っていく。
ふたりきり夜に溺れていく感覚に幸せな微笑が映りこんで、この夜に英二はきれいに笑った。

「愛してるよ、周太?…俺を、離さないでいて?」



微睡んで見開いた目に穏かな光がまばゆい。
曙が空みたす気配がカーテンから零れこんでくる。
いま肌ふれあう懐の温もりが幸せで、そっと抱きしめた。
抱きしめる懐には、幼げで艶やかな寝顔が安らぎに微笑んでいる。

「…周太、赦してくれて、ありがとう」

想い零すつぶやきに微笑んで、そっと前髪をかきあげる。
やわらかな髪から顕わした額に穏かなキスをした。
こんなふうにまた朝を迎えられた幸せが温かい。
もう諦めかけていた想いが、現実に朝を見ている「今」が愛しい。

「…ん、」

ちいさな吐息がこぼれて長い睫が光にゆれる。
瞳を開けてくれる?この今朝はどんな顔で見つめてくれる?
ちいさな不安と穏やかな期待に見つめる懐で、黒目がちの瞳が静かに披いた。
やさしい光に露な肩と項がまばゆく艶めいて惹かれてしまう、その肩に周太の掌が白いリネンをひきよせる。
真白なリネンで素肌を隠しながら、長い睫があげられて無垢な瞳が見上げてくれた。
その貌に、鼓動が心ひっぱたいた。

…きれいだ

透明な肌が桜いろ艶めいて清楚な誘惑を囁いてくる。
無垢な黒目がちの瞳には、心も体も愛された時が輝いて澄明がうつくしい。
気恥ずかしげな微笑が可愛らしい、夜をこめて愛された幸福があまやかに香り高い。
この白いリネンをベールのように纏う美しい人と、自分は愛し愛される時を持った?
この得難い幸福の喜びに英二は想いのまま笑った。

「おはよう、周太。…俺の、花嫁さん…」

声こぼれる想いと一緒に頬を涙が一滴こぼれた。
あんまり幸せで、得難い想いへの感謝があふれて涙になっていく。
この幸せと愛しさの中心にいる微笑が、そっと涙にキスをしてくれた。

「おはようございます、英二?…あの、花婿さん?」

白いリネンのベールに、スカビオサの白い花が重なった。
あの花の言葉は「朝の花嫁」小春日和の台所で贈った婚約の花束に編まれていた花。
いまこの懐で朝の花嫁は現実のなか朝の挨拶に微笑んだ。

「俺の婚約者さん、未来の、夫?…おはようございます、」

あの日の婚約は、まだ生きているというの?
あの日に結んだ幸福な未来への希望はまだ輝いている?
だから幸福な未来に呼ばれる「夫」の名を自分に今、呼び掛けてくれた?
この幸せが消えるのが怖くてなぞって欲しくて英二は問いかけた。

「周太…俺のこと、夫、って言ってくれるの?」

どうかお願い「Yes」を聴かせてほしい。
このいま祈る瞬間に、黒目がちの瞳が微笑んで笑顔がきれいに花咲いた。

「ん。…だって、婚約者でしょ?…いつか、夫、になるんでしょ?…毎朝、こうするんでしょ、」

気恥ずかしげに赤くなる微笑が愛しい。
初々しい恥じらいに白いリネンをかきあわせる、この掌が愛おしい。
この掌が自分の未来に寄りそってくれる?この掌を守りたいと願っている自分の明日に?
愛しい掌を英二は自分の掌で宝物のように包みこんで微笑んだ。

「うん、…周太が許してくれるなら、夫になりたい。毎朝、こうしたい…周太、」

名前を呼んで、長い指にくるんだ掌にキスおとす。
掌のキスに恥ずかしげな笑顔が額まで紅潮にそまってしまう。
こんな初々しい婚約者が可愛くて微笑んだ英二に、恥ずかしげに周太は想いを口にした。

「…ん、あの…わがままだけど、いいの?…ずるいし、よわむしで泣き虫だよ?…すぐ、拗ねるし」
「いいよ?」

きれいな大らかな笑顔が英二に華やいだ。
キスした掌を惹きよせ抱きよせて、黒目がちの瞳を覗きこむ。
見つめた瞳を視線で結ばせて幸せな想いに微笑んで、英二は愛しい人へと告白した。

「泣き顔も可愛い、きれいな涙にはキスしたい。
拗ねて嫉妬されると愛されてるって想えて嬉しいよ?ずるくて弱いのは小悪魔みたいで、艶っぽくてどきどきする。
そしてね、わがまま周太は可愛くて、大胆な誘惑は色っぽくて、きれいだ…そんな周太にね、俺、…恋して緊張したよ」

話してながら首筋が熱を持っていく。
昨日から調子は狂いっぱなしだ?微笑んだ英二に周太が質問をしてくれる。

「ん、…恋して、緊張したの?」
「そうだよ、周太。たぶん俺、今も首筋が赤いんじゃないかな?こんなの初めてだけど…。俺、ときめいたんだ。わがまま周太に」
「…わがままな俺に、ときめいたの?」

ときめく、は、憧れて恋して緊張して心臓の鼓動が早くなること。
ほんとうに自分は「ときめいて」ばかりいる、もう頬まで熱くなりながら英二はきれいに笑った。

「うん、ときめいたよ?すごくね。ちょっと反則だったよ、周太?
恥ずかしそうにしながら艶っぽく言うんだもん、『愛してるなら言うこと聴いて』って上から目線でさ。
可愛くて、きれいで凛としてね。女王さまみたいだったよ、周太。もう俺、好きにしてください、って降参しちゃった。お手上げ、」

ほんとうに君は俺の女王さま。
もう心はすっかり囚われた、君の言うことなら何でも聴いて従ってしまう。
こんな自分は君の奴隷、唯ひとり君だけが自分を本気で哀しませ苦しませ、振り回す。
そして、自分の幸せは唯ひとつ、君の隣だけにある。

「じょおうさまなんて、…いや、もう…はずかしい…」

心底から恥ずかしげな顔が可愛らしい。
ほら、こんな顔をして、また俺の心を縛りあげて曳きまわすんだ?
こんな囚われの自分が幸せで英二は華やかに微笑んだ。

「ほら、そうやって気恥ずかしがるだろ?周太。それがね、反則だよ。
わがまま言いながらね、頬が赤いなんてさ、可愛くてしょうがないだろ?ツンデレ周太が復活した感じだったよ。
しかも艶っぽいツンデレなんてさ?反則過ぎるよ、周太。もう俺ね、ツンデレ女王さま周太の、恋の奴隷になっちゃった」

「…よろこんでるの?えいじ、」
「うん、大喜びだよ?俺ってちょっとマゾなのかな、ね、周太?」

奴隷になって嬉しいなんて?
こんな自分は初めて知った、他の誰にもそんなこと想わないから。
こんな幸せに笑う英二を見あげて周太が微笑んだ。

「ん…わからないけど、でも…えいじがよろこんでくれるのはうれしいけど」
「うん。これからもね、ツンデレ女王さま周太でいてね?なんでも言うこと聴くからさ、ね、周太?もっと俺を恋の奴隷にしてよ、」
「…婚約者で、未来の夫?じゃ、ないの?」
「婚約者で、未来の夫で、恋の奴隷だよ?いいだろ、こういうのって。ね、周太?」

きれいに笑いながら英二は周太を抱きよせた。
この可愛い恥ずかしがり屋のツンデレ女王さまが自分の主人、もう自分は恋の奴隷でいい。
こんな自分は馬鹿なのだろう、けれど本人が幸せだから仕方ない。
俺ってちょっと変態なのかな?こんな自分に笑いながら英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「そしてね、周太?俺はこういう周太も知ってるよ。
周太は子供の純粋無垢なまま、繊細でやさしい。やさしいから、相手を気遣い過ぎる。
だからいつも想うことが言えなくて、苦しくなって泣いてしまう。自分が悪いずるいって責めてしまう。
やさしいから切り捨てられない、だから俺と国村のどちらも捨てられない、選べない。そんな周太がね、俺は愛しい」

繊細な優しさを抱いた泣き虫のわがまま、途惑って子供のままでいる周太。
こんな周太が正直にわがままに生きてくれたら、もっと自分は好きになる。
だって一夜ですっかり恋の奴隷にされている、このままもっと捕えてほしい。

「…ほんとう?…そんな俺で、いいの?」
「そんな周太が大好きだよ、ときめくよ、そしてね、本当に愛してる。どうしていいか自分で解らないくらい、愛してる」

どうしていいか解らないほどこの宝物を守りたい。
想いを告げながら掌で宝物の頬を包みこんで見つめた。
愛しい無垢な瞳を見つめて、率直な想いのまま英二は名前を呼んだ。

「周太、…俺の運命のひとはね、君だよ。愛してる、」

キスでそっと唇をふさいだ。
キスで重なる想いと温もりにふる曙の光が、小春日和の台所に重なっていく。
川崎に佇む奥多摩の森を照らした小春日和が、奥多摩にふる曙光に「約束」と共に甦っていく。

 “あなただけが、自分の真実も想いも知っている
 そんなあなただから、心から尊敬し友情を想い真剣に愛してしまった
 この純粋な情熱のまま、あなただけが欲しい。あなたの愛を信じたい。
 純粋で美しい瞳のあなたに相応しいのは自分だけ、どうか変わらぬ愛と純潔の約束を交わしてほしい
 毎夜に愛し吐息を交して、どうか毎朝に花嫁として、あなたを見つめたい
 だから約束する「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」すべてに負けない心を信じてほしい“

そっと離れたキスの甘さに微笑んで、英二は素直に婚約者に告げた。

「愛してる、周太。俺の幸せは周太と一緒にしか見つけられない。だから、絶対に隣に帰るよ?」

告げられた無垢な瞳が幸せそうに微笑んだ。
気恥ずかしげに英二を見つめててくれる、唇がそっと微笑みに開いてくれた。

「絶対に帰ってきて?待っているから。ごはん作るから一緒に食べて?おふとん干しておくから…一緒に、眠って…」

こんな約束は本当にうれしい。
必ず帰りたいと心から願うことが出来る。

「うん、絶対に帰るよ?待っていて、俺の花嫁さん、」

ふりそそぐ曙の光のなかで綺麗に英二は笑って、愛しい約束をくれた唇にキスをした。



(to be continued)

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第35話 曙光act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-03-12 23:54:33 | 陽はまた昇るside story
この想いに赦しを、




第35話 曙光act.5―side story「陽はまた昇る」

クライマー任官の書類を国村に教わりながら英二は書あげた。
思ったより読み込む箇所も多くて手間取ってしまった、けれど国村は愉しげにつきあってくれた。
なんとか書きあげた書類を国村にお願いすると、その間に英二は急いで風呂を済ませた。

この後は近くのビジネスホテルに泊まっている周太の元へ行く。
ほんとうは湯冷めしないようにホテルの浴室を使う方が良いのだろう。
けれど青梅署からホテルまで数分の距離のこと、走って行けば湯冷めもしない。
なにより今の自分には周太の肌の気配が残る場所を使うことは憚られてしまう。
ほんとうは自分は、周太を抱きしめたくて仕方ないから。

さっき青梅線で一緒に帰ってくるとき、周太に願われるままキスをした。
あのキスがあんまり幸せで、もっと近づいてふれたら幸せになれるのにと想ってしまった。
そんな自分だから本当は、急な外泊申請は出来ないからと泊まる事は断ろうと思った。
けれど、断れなかった。

―今夜、自制心へのチャレンジになるのかな、俺?

脱衣所で湯上りの肌にシャツを羽織りながら、そんな想いに英二はため息を吐いた。
もう少し自分に胸張りたくて抑え込んだ「未練」が今ため息となってしまう。
こんなふうに本音の自分は周太を求めたくて仕方ない。

自分は周太の恋人としての資格を失った。
そう納得して、ただ傍にいるだけでも幸せだと心から想っている。
それでも、さっきのキスが幸せすぎて、未練が嬉しそうに目を覚ましてしまった。
けれど、せめてもう少しだけ自分は自制心の強い誠実な男になりたい。

どうか今夜の自分が誠実であれますように。
そんな願いのなか身支度を済ませて英二は国村の部屋に戻った。

「お帰り、み・や・た。いつもながら艶っぽい風呂上がりだね。今日はまた表情がさ、悩ましげでイイよ」

こんなこと言いながらも国村は、細かく書類チェックしてくれていた。
これでOKと風呂上りの英二に書類を戻しながら、透明なテノールの声が微笑んだ。

「さあ、宮田?これで俺たち、公認の仲だね?よろしくね。俺だけの、唯一人のパートナー」
「こっちこそ、よろしくな。今度の夏には8,000m峰、いけるように頑張るよ」
「そりゃ嬉しいね。俺も8,000m峰は、まだ1座しか登っていないからさ?一緒に初体験しようね、み・や・た」

底抜けに明るい目が心底楽しげに笑って、白い指が英二の額をうれしげに小突いた。
小突かれた額に笑いながら英二は、ふと国村が携帯電話を開いている事に気がついた。
どうやら国村は英二を待ちながら電話していたらしい、書類を書くことに集中して英二は気づいていなかった。
誰と電話していたのだろう?なにげなく携帯電話を見た英二に細い目が悪戯っ子に笑んだ。

「周太にね、ラヴコールしていたんだよ?明日のデートの約束しようって思ってさ」
「俺、まだ、周太が来てるって言っていないよな?」

どうして周太が来ていると知っているのだろう?
不思議に首傾げた英二に国村は種明かしをしてくれた。

「外泊許可書が見えたんだよね、受領されたばかりで、しかも今日外泊日のさ。
こんな時間になってから、おまえが当日の許可書もらうなんてね、周太以外の理由が他にあるわけ?」

言われてみれば全くその通りだ。
どのみち自分から言おうと思っていた、けれど国村の気持ちを想うと心が軋んでくる。
ほんとうは国村だって周太とふたりで過ごしたい、そう考える事くらい自分には解ってしまう。
けれど周太は「英二と一緒にいたい」と言ってくれた。
どうせ自分はありのまましか言えやしない、正直に英二は口を開いた。

「うん、その通りだよ?周太、今夜は俺と一緒にいたいから奥多摩に連れて行って、って言ってくれたんだ。
だから俺はね、周太の願いどおりに、今から周太と一緒に時間を過ごしてくる。でも恋人としてじゃない、だから許してほしい」

自分は周太の恋人には、もう相応しくない。
やってはいけない罪を犯した自分は、もう望んではいけない。
それでも周太が望んでくれるなら、今夜は傍にいたい。見つめるだけで良いから傍にいたい。
素直な想いを英二は国村に告げた。

「もう俺は、周太の恋人に相応しくない。って解ってる、でも、今夜は行かせて欲しい。…手出し、しないから」

透明に明るい目がゆっくり瞬いて英二を見つめた。
見つめながら確かめるようテノールの声が尋ねてくる。

「夜を一室で過ごす、けど、手出しはしないのか?」
「うん、しない。俺には、そんな資格ないから」
「ふうん、資格、ね?」
「そうだよ?俺はね、周太の大切な人達に誓って約束した。それをね、自分で破ったんだ、俺…周太を犯した瞬間に、ね」

なにがあっても周太を守り抜く。
そう自分は周太の父に誓い続けてきた。それは周太の母の切ない祈りでもある。
そして婚約を申し込んだ墓参でも、周太の祖父たちに自分は守ることを誓った。
あんなに誓って約束をし続けてきた、それなのに自分は一瞬ですべてを壊した。

あの威嚇発砲の後に見た周太と国村の不思議な繋がりに、嫉妬して焦って周太を強姦した。
いろんな言い訳を自分にして正当化して、独占欲と快楽への欲望を抑えなかった、自分の鈍感さを盾にした。
そして自分はすべての信頼を裏切った。
周太の深い愛情に育った信頼を裏切った、周太の母が抱く美しい切ない祈りを裏切った。周太の父の遺志さえ裏切った。
そして周太を14年間ずっと待ち続けた国村の、純粋無垢な恋と愛と哀しみすべて自分は踏み躙ってしまった。

「そして、その瞬間はさ、国村?お前のこともね、俺は裏切った。そうだろ?」

唯一人のアンザイレンパートナーと信じてくれる大切な友人まで自分は裏切った。
この罪は重罪。それなのに国村は赦して笑って傍にいてくれる、この借りは大きい。
この贖罪はどうしたら出来るのだろう?痛切と見つめた秀麗な顔は、すこし笑ってくれた。

「ふん、…俺が宮田を信頼して周太を任せていた、そのことを気付いて言っている、ってワケ?」
「そうだよ。俺、おまえが信頼してくれる程にはね、もう…周太の近くにいる資格も無いだろ?だから、恋人じゃない」

この沢山の罪に気づくこと、それすら自分は国村に言われるまで出来なかった。
こんな自分が許せない、他の人間がやったら殺すほどに憎い罪を自分が犯してしまった。
こんな自分の一番の罰は「周太から離れること」
けれど、それだけは自分には出来ない。どんなに卑怯と言われても自分は離れられない。
ただ守っていたい、見つめていたい、もう恋人じゃなくても良いから傍にいたい。
だから周太の父と母の約束を理由にして、ずっと保護者でいようと覚悟した。

「もう恋人じゃない、俺は。婚約も今は立場だけだよ。周太を守るために必要な立場だから、そのままにしてる…でも、」

ただ約束の為に傍にいる、この言葉がどんなに立派に聞こえても、本音はただ自分が傍にいたいだけ。
そんなこと自分が一番知っている、約束を利用して自分は正当化して周太を手放さない。
こんな自分は卑怯だと解っている、そのまま素直に英二は口を開いた。

「でも、本当は。俺はただ周太と一緒にいたいだけなんだ。
約束と立場を利用して保護者に成って、周太の隣にいる。こんな俺は卑怯だよ。
なのにね、周太…今夜は一緒にいたいって、俺にお願いしてくれたんだ…だから国村、今夜を俺に、許してくれ」

ひとつ英二は呼吸した。
底抜けに明るい目が真直ぐ自分を見てくれている、その純粋無垢な目に英二は願った。

「こんな俺なのに、周太、キスして、って言って…俺からのキスにね、幸せそうに笑ってくれたんだ。
あの幸せな笑顔を俺、見ていたい…今夜ずっと、周太を見ていたい、傍にいたい。だから…国村、俺に、今夜を許してほしい」

想いと一緒に涙がひとつ頬こぼれて伝っていく。
こんなふうに自分は懇願してでも、周太との時間がほしくてしょうがない。
こんな自分は本当に馬鹿だと思う、こんなに願うほど大切だというのなら、なぜ正しく大切に出来なかったのだろう?
こんな自分にも今夜一夜の時は与えてもらえるのだろうか?
そんな願いと想いと見つめる透明なテノールの声が、やわらかく微笑んだ。

「なに言ってんのさ?おまえ、本当はさ、わかってんだろ?」

底抜けに明るい目が温かに笑んで英二を見つめてくれる。
ばかだねと笑いながらテノールの声が話しだした。

「生真面目で純粋だよ、周太は。そう簡単に『キスして』なんて言わない。
俺なんかね、一度も言って貰ったことないよ?悔しいけどね。そんな周太が『キスして、今夜は一緒にいて』なんてさ?
どういう意味かくらい、とっくに解っているんだろ?ま、あとはね、おまえが周太の気持ちに、応えたいのかどうかだよ」

どう応えたいか、解ってるんだろ?
そんなふうに細い目が可笑しそうに笑ってくれる。笑いながら透明なテノールの声が言ってくれた。

「おまえと周太がね、幸せに抱きあうのならそれでいい。存分に幸せな時間と想いを重ねな?
で、ふたり幸せなイイ顔になってね、艶っぽくなってくれたら嬉しいね。俺に眼福を愉しませろよ、このエロオヤジを満足させな?」

ストレートな言い方が裏表なくて嬉しい、英二は微笑んだ。
そんな英二に底抜けに明るい目を優しく笑ませて国村は気楽に宣戦布告をした。

「でも、宮田?今夜は周太がお前を望んだからって、安心するなよ?
昨夜おまえ言ったろ?周太は自由だって。遠慮せずに、周太が望んで俺も望むんだったら、幸せに抱いてやってほしい。
その言葉に素直にね、俺は好きにさせて貰う。俺だってね、周太と心も体も繋げてみたいんだよ。だから、俺は遠慮しない」

真直ぐに純粋無垢な目が英二を見つめてくる。
おまえと俺は対等だよ?そう言いながら誇らかな視線で明るくテノールの声が宣言した。

「もし周太が俺に惚れてくれたらね、そのときは遠慮なく周太を戴くよ。
なんといっても初恋相手の俺だ、しかも俺はイイ男だろ?そして本気だ。おまえも頑張んないとね、俺に周太を奪還されるよ?」

堂々と明るい誇り高らかな「奪還」宣言を国村はしてくれた。
この「奪還」に籠められた想いが解ってしまう、ほんとうは英二が簒奪者だと自分で知っているから。
喩え知らなかったとしても、14年間ずっと信じて待ち続けた国村の初恋を英二は横から浚って奪ってしまった。
それでも国村は14年を超えて周太に初恋を蘇らせた、そして英二の言葉に遠慮の枠をすべて外して自由に恋すると言っている。
こんなふうに正々堂々と競うなら楽しいだろうな?こんな率直な友達が嬉しくて英二は微笑んだ。

「うん、解かった。俺もね、頑張るよ?周太の傍にいたいからさ、少しでもまた好きになって貰えるよう、今夜は努力してくる」
「そうだよ、努力しな?この俺を相手にしてさ、油断している暇なんかないね」

からり底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そして心底から楽しげに透明なテノールの声が微笑んだ。

「で、み・や・た?これから俺はね、周太をデートに誘うとこなんだ。この誘惑の電話を邪魔するんじゃないよ、さっさと行きな?」

ほら、さっさと行けよ?そんなふうに手の甲を向けてふってくれる。
そして携帯電話を耳元へ当て直すと、楽しげにテノールの声が透った。

「お待たせ、周太。いま終わって、あいつ、俺の部屋から出たからね。10分後位には、君の隣に座っているはずだよ」

俺を嘘つきにするんじゃないよ?からり細い目が笑って、白い指が扉を指し示してくれる。
こんな恋敵のシーンですら国村は「遠慮するな、お互いに本気でやり合おうよ?」と明るい男気が潔く温かい。
こんな友人の男倫理が自分は大好きだ、「ありがとう」と微笑んで英二は国村の部屋の扉を開いた。



青梅署を出て歩きながらクライマーウォッチを見ると22時を10分ほど過ぎていた。
夜半を迎える静謐が町に静まりはじめている、足早に歩きだす頬ふれる風も凍る冬の夜を含んで冷たい。
見上げた空は深い紫紺に澄んでいた。あざやかに透明な夜空には星が銀色に冴えていく。
きっと明くる朝は美しい空だろう、きれいな曙を周太に見せてあげられるかもしれない。
美しい朝の空と光の彩に、きっと周太は喜んで幸せな笑顔を見せてくれる。
そのためにも今夜、自分は絶対に周太を哀しませるような事は出来ない。

―きちんと、自分の自制心が頑張れますように、

心に祈りながら白シャツ越しに合鍵に触れて、ふっと英二は苦笑した。
この合鍵は周太の父の合鍵だった、自分の息子への自制を祈られて彼はどんな顔しただろう?
こんなふうに今の自分は、何にでも祈ってすがりたい気持ちになっている。
だってきっと、と自分で思う。
きっと今夜、周太の笑顔を守る為には最大の敵が英二自身だから。

周太は「抱きしめて、」と言ってくれた。
けれどそれは父の懐に甘えたい想いかもしれない、この確信の方がずっと今は強い。
だから自制心でコントロールしなければ、自分はまた判断ミスをして周太を傷つけてしまう。
それが怖い、だから今夜の自分の敵は自分自身になる。

周太は本質的に繊細で優しくて、そのぶんだけ想いが深い。
そんな周太は唯ひとりの子供として両親と深く愛しあって育った、それだけに周太親子は深い絆を持っている。
この親子を繋ぐ絆は温もりに充ちて優しい。この絆を見つめる時間が積算されるなか、英二も深い想いを抱き始めた。
英二自身が周太の母を大切に想い、周太の父を敬愛するようになった。
こんなふうに英二にまで影響を与えるくらい、周太の愛情は深く繊細で優しい温もり充ちている。

そんな周太だからこそ父を亡くした後も諦められず見つめ続けたくて、父の軌跡を追う道を選んだ。
その道が困難と危険に満ちていると知っても逃げないのは、父への愛情が深いからこその選択になっている。
さっきも周太は父を慕って「銀河鉄道の夜」の記憶を英二に話してくれた。
そんなふうに周太は取り戻した父の記憶に向き合い、真直ぐ父を愛し慕っている。

そんな周太は愛する父の面影を英二の笑顔に見つめている時がある。
確かに最近の英二は、後藤副隊長や武蔵野署の安本など周太の父を知る人に似ていると言われる。
ふとした折に哀しみと微笑んだ顔が似ているらしい、言われた最初は自分ではよく解らなかった。
けれど偶然その顔が部屋の窓に映った時に見た。その自分の顔は、あの書斎机に佇む写真の笑顔とどこか似ていた。
だから今夜の周太は父を求めて英二と一緒にいたいのかもしれない。

さっき青梅線の車窓に哀しい記憶を話す周太が切なくて、今夜は奥多摩鉄道の夜だと英二は周太に話した。
きっと周太と一緒に父も奥多摩に帰るこの電車に乗って今夜を旅している。
そんなふうに感じるままを英二は話し、聴いた周太は心から幸せそうに笑ってくれた。
あの奥多摩鉄道のまま今夜と明日の周太を過ごさせてあげられたら?
そうしたら、もっと幸せな笑顔を周太は見せてくれるだろうか?

そんなふうに考えながら歩くうち、気が付いたら英二はホテルのエントランスを潜っていた。
さっき周太のチェックインの時に話しておいたから、すぐ手続きは終わってしまう。
そうしてエントランス通過の3分後には一室の扉を鍵が開いた。

開かれていく扉の向こうから、ルームライトの温かい光が廊下に射していく。
この光が照らす空間に今夜、愛する人とふたりの時を過ごす。
そんな想いに鼓動ひとつ、鼓膜の底に響いた。

「…緊張してる?俺、」

こんな自分への問いかけがひとり言に零れた。
こんな緊張を英二がすることは周太に出逢うまでなかった。
だから英二のこんな緊張は。周太がいつも「初めて」を独り占めしている。
初めて周太の前髪をかきあげた時、指先はふるえた。
初めて周太にキスした時は早い鼓動を聴きながら唇を重ねた。
そしていま扉を開く、それだけの動作に自分の鼓動が早くなる、ドアノブを掴む手が冷たい。

「…ん、末端の血流不足。心拍数、鎮まらないな?」

ファーストエイドの判断を自分にして英二は苦笑した。
まだ扉を開いただけ。それだけで自分は心が乱れて自身に救急法を施している。
今夜ほんとうに自分の自制心は大丈夫だろうか?ちょっと途方に暮れながら英二は扉の内側に入った。
ぱたんと閉まる扉を背に聞きながら眺めた部屋には、周太の姿は見えない。
けれど浴室から水音が聞こえてくる、いま周太は浴室にいるのだろう。

「周太、風呂に入っているのか。…っ、」

なにげなく言った独り言。
けれど「風呂」と思った途端に英二の首筋が熱くなってきた。
いま風呂に入っているのなら、あの扉の向こうには湯に熱る周太の肌がある。
湯気にけぶる肌の艶が脳裏に再生されて、鼓動が心をひっぱたいた。

「ちょっ…不意打ち?」

そして今に湯上がりの周太があの扉から現れる?
湯上りの周太の肌はあわい紅潮に艶めいて、いつも誘われてしまう。
そんな姿を今の自分が見ても自制心は耐えてくれるだろうか?

「…いきなり、試練なんて。酷いよ?周太…」

思わず責めてしまう想いが零れて英二はため息を吐いた。
ほっと息吐いて浴室の扉に背を向けると、サイドテーブルが視界に入る。
そのテーブルに置かれた、青い布張表装の立派な学術書が目に映りこんだ。

「周太、これ読んで待っててくれたんだ、」

いつものラーメン屋で食事した時、樹医から周太が贈られた青い本。
この本の贈り主と周太は12月に勤務中の交番で出会った、あのとき周太は樹医という職業への憧れを話してくれた。
あの樹医とのラーメン屋での再会に周太は心から嬉しそうに笑って、幸せそうに贈られた本を抱きしめていた。
幼い日に憧れた樹医「植物の魔法使い」が書いた本を樹医自身から贈られた、それは周太にとって夢叶った瞬間だったろう。
きっと今も一生懸命に読んでいたのだろうな?そんな想いと青い表紙を見つめていると、背後で扉が開く音がした。

湯上りの周太だったらどうしよう?

そんな心配が心を打った自分に心裡に笑ってしまった。
もうここまで来たら肚を括って我慢大会するしかないのに?
もし湯上りで艶っぽかったとしても逃げるわけにいかない、一緒にいると約束したのだから。
ほっと呼吸して英二はすこしだけ心を治めて微笑んだ。

「お帰りなさい、英二…」

大好きなゆるやかなトーンの声が、すこしだけ緊張して背に響いた。
今から自分は「保護者」温かな想いでいればいい、ゆっくり呼吸1つしながら英二は振向いた。
振向いた先には白いシャツ姿の周太が佇んで、気恥ずかしげに微笑んでいる。
さっぱりした顔だけれど湯上りではない風情に英二は安堵しながら笑いかけた。

「ただいま、周太、」
「ん、」

うれしそうに笑って周太はマグカップをカウンターに置いた。
さっきの水音はこれを洗っていたのだろう、自分の勘違いが可笑しくて英二は微笑んだ。
けれど水音だけであんな妄想をしてしまう自分が自分で信用できにくい。
ちょっと自分自身に困るなと思っていると周太が隣に立って微笑んだ。

「…英二、ただいま、」

言って、ポンと英二に周太が抱きついた。
緊張に一瞬つまった息の懐に、やわらかな黒髪がふれて石鹸の香がくすぐってくる。
背中にしがみつく掌からシャツ越しに伝わってくる温もりが優しい。
ふれる肩を覆って、背中ごとだきしめる小柄な体の体温と鼓動が穏やかだった。
やわらかに微笑んで周太が英二を見あげてくれる。
この笑顔にいま自分が贈るべき言葉は?見上げる瞳に英二はきれいに笑いかけた。

「お帰りなさい、周太、」
「ん、ただいま、英二」

もう一度くりかえして周太は幸せに笑ってくれる。
こんな笑顔を見せてもらえるなら、今夜の自分は何でも出来るだろう。
こんな笑顔を見つめて今夜が過ごせたらいい、微笑んで英二はもう一度抱きしめてから腕をほどいた。

「お帰り、周太。ちょっとジャケット脱いでもいいかな?」
「ん、」

素直に頷いてくれる笑顔を見ながら英二はミリタリージャケットを脱いだ。
ジャケットの下は、いつもの白いシャツにカーディガンを羽織ってきた。
そんな部屋着姿の英二を周太が不思議そうに見ている。
風呂を済ませてきたのかな?そんな視線の周太に英二は微笑んだ。

「さっきね、国村に書類チェックして貰っていただろ?あの間にね、急いで済ませてきたんだ」
「そうなの?…でも、15分も無かったよ、ね?」
「うん、もう全速力だったから、」

本音を言えば、早く逢いたくて急いでしまった。
こんなに自分は本当は逢いたくて、縋ってしまいたいと思っている。
けれど自分の罪と罰を思えば、縋ることなど赦されやしない。
周太に笑いかけながらジャケットをハンガーにかけると、英二はコーヒーのセットを始めた。
熱い飲み物で心をすこし落ち着けたい。そんな想いで動かす掌に、そっと温かな掌が重ねられた。

「待って、英二…あの、俺が淹れるから、」

やさしい声がすぐ傍から言ってくれる。
重なりふれる掌の体温に心が捕われて身動きが取れない、鼓動がまた耳を打つ。
つまりそうな息の狭間から、それでも英二は微笑んだ。

「大丈夫だよ、周太?今日は当番明けで講習もあったから、疲れているだろ?」
「ううん、俺が淹れる…」

周太の掌が英二の手元からカップとコーヒーフィルタを取り上げていく。
なす術もなく手を引っ込めた英二に周太が微笑んでくれた。

「だって、約束でしょ?俺がね、一生ずっと、英二にコーヒーを淹れる、って…だから、」

話しながら周太の手元はコーヒーをセットしていく。
ゆっくり注いでいく湯を見つめている周太の首筋が、きれいな紅に染めあげられるのが目に映る。
きれいだと心にため息が零れていくのを見つめながら、英二は周太の手元を見つめた。
見つめながら周太が言った「約束、一生ずっと」が心をリフレインしていく。

周太、一生ずっと、淹れてくれるつもりなの?

そう訊きたくて仕方ない、けれど言葉も唇も竦んで動けない。
なんだか今夜は調子が狂いっぱなしの自分がいる、どこか前と違う周太に途惑う自分がいる。
そして今夜は鼓動の調子すら意志に従わない、目の前の言動ひとつずつに見惚れ惑って「欲しい」と鼓動が狂っていく。
卒配後はいつも「冷静で真面目、ストイック」と言われる自分、なのに今は冷静もストイックも役立たず。
ただ竦んで見惚れている英二に、温かなマグカップを持って周太が微笑んだ。

「あの、お待たせ…」

熱い香りに充ちたマグカップを渡して、黒目がちの瞳が見あげてくれる。
この瞳は今、自分の存在をどんなふうに認識してくれているのだろう?
父、兄、保護者、友達。それとも「友達の憧れの人」美代の想い人として見ている?
周太の本心はどこにあるのだろう?こうして廻ってしまう想いが時に痛くて哀しい。
それでも微笑んでマグカップを受けとった英二に、周太は嬉しそうに笑いかけてくれる。

「熱いから、気をつけて、ね」
「うん、ありがとう、周太」

黒目がちの瞳に微笑んで英二はサイドテーブルにマグカップを置いた。
ソファに座ってマグカップに口付けると、ゆるやかな芳香が温かい。
やっぱり自分は周太が淹れたコーヒーが一番うれしい、素直な想いに英二は微笑んだ。

「旨い。周太が淹れてくれたコーヒーがね、いちばん旨いね?」
「…よかった、ありがとう、英二」

英二の言葉に心から嬉しそうに周太は微笑んだ。
その微笑みの気配がふわり近づいて、ごく自然に周太は英二の隣に座ってくれた。
その座る位置が近い、ほとんど英二の体に添うほどに近い、その近さに心が一瞬で竦んだ。
思いがけない距離の近さに肩がふれる、ふれる温もりの気配に響いた鼓動を英二はコーヒーで飲み下した。
けれど近いままの肩ふれる温もりに、想い竦んで少しも動けない。

前は、近くに来てくれたら単純に嬉しかった。
嬉しいままに抱きしめれば良かった、キスすればよかった。
けれど今はもうその資格は自分にない。
そんな「資格が無い」という理屈以上の「何か」が自分の自由すべて奪っていく。
何なのか解らない、ただ周太の気配全てに緊縛されて体も心も竦んでしまう。

この鼓動の高鳴りは何だろう?
どこかじわり熱い首筋の、この熱はどこから来る?

途惑い、不安と哀しみ、胸の高鳴り。
どれもが自分には初めてで、あの卒業式の夜と違う束縛感が全身を覆っていく。
だっていま自分は周太の瞳を見つめる事すら、緊張感と首筋の熱に支配される。
この熱に浮かされたような感覚はなんだろう?
自分の気持ちを追いかけながらコーヒーを啜る英二に、静かな声が聞こえた。

「…美代さんはね、英二の真面目なところが好き、って、教えてくれたよ?」

マグカップを持つ英二の手がとまった。
きっと、今から周太は「なぜ美代と英二を会わせたのか?」を話そうとしている。
この話をするために周太は、今夜一緒にいたいと言ったのだろうか?この「なぜ」を聴かせるために。
もし美代と一緒にいてと言われたら、周太から離れろと言われたら、自分はどうしていいのか解らない。
この今から周太が話す「なぜ」を聴くことが怖い、別れを宣告される不安の気配が怖い。
こんなに恐怖を覚える位なら、なぜ自分は周太に罪を犯す前に気づけなかったのだろう?

マグカップ持つ手が微かに震えて、しずかに英二はテーブルへとカップを置いた。
ふるえる手を組み合わせると膝に置いて、じっと英二はマグカップを見つめた。
別れを宣告されたら?この不安と恐怖に心崩れそうで、いま周太の顔を見ることすら出来ない。
ただ別れの恐怖にふるえる英二の横顔に、静かに周太は話してくれた。

「国村を必ず連れて帰ってくる、そう英二が約束したのが、美代さんは嬉しかったんだ。
そしてね、本当に英二は国村を連れて帰って来た…美代さんはね、雪崩があったことも気がついているんだ」

名前を呼んで、黒目がちの瞳が英二をそっと覗きこんだ。
キスできるほど近くから周太が見つめてくれる、この近さに心がまた軋む。
このままキスで言葉を奪ってしまいたい、けれど今ここで逃げたら自分は一生後悔する。
ただ見つめ返しながら英二は、周太の唇を見つめて言葉を聴いた。

「本当に危険なときでも、約束を守ってくれた英二をね、美代さんは好きになってくれたんだよ…
ね、英二…?美代さんはね、英二の心を真直ぐ見つめて、好きになってくれたんだ。だから俺はね、うれしかったんだ…」

約束を守ったから、好きになってくれた?
心を真直ぐ見つめて、好きになってくれた?

自分の心と想いに美代は想いをむけてくれた、そう周太は言っている。
この「外見」ではなく真直ぐ「心」を見つめ惹かれた人がいる、心を、真実の自分を恋しようという人がいてくれる。
そんな人は周太だけだと思っていた、他では「外見だけ用あり」で会えなければ「不用品」と言われ捨てられたから。
けれど美代は互いに忙しい日常で会った回数も限られる、それでも英二の心を見つめ恋しようと言ってくれている。

ほんとうに心を認めて向き合って自分に恋してくれるひとが居る?
それが本当なら嬉しい、そんな自分の喜びを周太はわかってくれている?
こんな美代の想いは嬉しい、けれど、それ以上に周太が解かって「うれしい」と言ってくれる事が嬉しい。
そんな想いの中心で、優しい瞳は英二の目を見つめて率直に想いを教えてくれた。

「英二の心に恋してくれる人がね、うれしかった。
俺が、大切にしている英二の心をね、素敵だって、好きになって貰えたことがね、うれしかったんだ。
だから英二に知ってほしかったんだ。英二の心をね、愛するひとが俺以外にもいる、そう知ってね、英二に笑ってほしかった…」

英二の「心」を認められたい想いを、周太が理解してくれた。
この「心」が抱く寂しさを、周太は美代の想いを伝えて励まそうとしてくれる。
こんなにも周太は深い理解をしてくれる、この繊細な優しさが嬉しくて幸せな想いが甦ってしまう。
そして、こんなに理解するほど見つめてくれるなら、それならば「愛されている」のかと期待したくなる。

周太は英二を邪魔にしたわけじゃない?
ただ英二の心を好きになった人がいると教えたいだけ?
この期待通りほんとうに、周太が自分を見つめて愛して、恋人と想ってくれているなら良いのに?

ゆるやかな安堵と期待がこみあげてくる。
こみあげる想い治めるよう英二は1つゆっくり瞬いて周太を見つめた。
この安堵と期待を確かめたい、黒目がちの瞳を真直ぐ見つめて英二は静かに想いを声にした。

「俺はね、周太…俺が、邪魔になったから、だから…美代さんの気持ちを知っていて、デートさせたのかな、って思ったんだ」

どうかこれは「違う」と言ってほしい。
そう見つめた先で黒目がちの瞳が「違うよ?」と告げながら周太は言ってくれた。

「俺はね、子供を産めない…だから、美代さんに気後れしたのは、ほんとう。
でも英二を邪魔になんて出来ない、だってね、…俺、本当は、いっぱい泣いたんだ。
自分でね、美代さんにも、英二にも、デートするように勧めたくせにね…落ち込んで、拗ねて…みっともなかった、よ?」

恥ずかしげに話してくれる首筋が、きれいに赤くなっていく。
見つめる先で頬も赤くなっている、こんな顔で告げてくれること全て真実なら幸せだ。
赤くなる周太を見つめて英二は訊いてみた。

「拗ねて、みっともない位に、泣いてくれた?周太、」
「ん、…ほんとうにね、…みっともないよ?泣き虫で、弱くて、ずるいんだ、俺は…ごめんね?」

真赤になりながらも周太は素直に話してくれる。
英二の為に周太は、泣き虫で弱くて、ずるくなってくれた?
こんなに本音をさらけ出してくれて、うれしい。正直な周太の本音に呼吸が楽になる。
だってこの本音は言ってくれている「美代の元へ行かないで?」とねだってくれている。
おねだりに期待したくなる、独り占めしたいほど周太が英二を求める感情が恋愛ならいいのに?
本当にそうなら良いのにと、気恥ずかしげな微笑に祈りながら英二はきれいに笑いかけた。

「泣き虫で、弱くて、ずるい周太。可愛いよ?…ほんとうにね、守ってあげたくなる…周太、」

ふるえ治まった腕でそっと小柄な肩を背中を抱きしめる。
こうして抱きしめたなら、すこしでも恋して愛してくれる?
そんな縋りつく想いを、シャツを透かして伝わる体温が幸せな温もりで癒してくれる。
いま抱きしめている想いと喜びの中から見上げて周太が微笑んでくれた。

「ほんとう?英二、こんな俺が…可愛いの?」
「うん、ほんとうにね、可愛い。大好きで、離せなくなって…」

本当に可愛い、そして離せない。
このまま離したくない、ずっと腕に閉じ込めてしまいたい。
そんな独占欲にまた掴まえられかけて、英二は少し腕の力をゆるめた。

「…困るよ、周太?」

すこし腕の力をゆるめながら英二は微笑んで、周太の瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ黒目がちの瞳は見つめ返してくれながら、おだやかに周太は訊いてくれた。

「ん、…離せなくなって、英二?傍にいてほしい…でも、英二は、困るの?」
「うん、…困るよ、俺。でも、傍にいるよ?安心して、周太」

ほんとうに困ってしまうから。
また自分は独占欲のまま周太を傷つけたら困るから。
なにより今の立場「保護者」のままこれ以上、周太に惹かれたら困ってしまう。
ほんとうはもう保護者だけじゃなくて恋人になってしまいたい、けれど、周太の想いの居場所がまだ解らない。
いま縋りたい想いを打ち消すように英二は、見上げてくれる周太の額に優しいキスをした。

「さ、周太?そろそろ眠らないとね、昨夜は当番勤務で、ほとんど寝てないだろ?」
「あ、…ん、そう、だけど…」

途惑ったように周太は英二を見つめてくれる。
どうして途惑うのだろう?そんな周太を温かな想いと共に英二は見つめた。
見つめる先また赤くなる周太に、何か心配になってしまう。けれど英二はおどけたように訊いてみた。

「ね、周太?ベッドまで、お姫さま抱っこする?」

言った途端に周太は気恥ずかげに俯きかけていく。
きっと照れて「抱っこはいらない」と言うだろうな?そう言う時の気恥ずかしげな周太も見ていたい。
気恥ずかしがって首筋も頬も染めあげて、はにかんで困った顔をする、あの初々しい姿が見たい。
もう周太の顔は赤くなって含羞が染めあげていく、きっともうじき「いらない」と言うだろう。
いつもどおりの予想に微笑みかけると、小さく周太が頷いた。

「ん。」

けれど周太は「いらないと」言わなかった。
今日の周太は少し笑って、はにかみながらも迷わず腕を英二の首へと回した。

「抱っこして…」

今日の周太も真赤になった、けれど「いらない」と言わなかった。
はにかむ笑顔の温かな腕で英二の首を抱きしめて「抱っこして」とねだった。

こんなの、予想外だ

抱きしめられた首筋が熱くなっていく。
こんなふうに自分は気恥ずかしがっている?
こんなふうに赤くなる自分に途惑う、いったい自分は本当にどうしてしまったのだろう?
首筋と心を昇っていく初めての感覚と、ふれる周太の感触に英二は途方に暮れた。
けれど嬉しそうに周太は、ぎゅっと英二の首に抱きついて微笑んだ。

「ね、英二?はやく抱っこして?…つれていって?」

抱きついてくれる周太の首筋が赤い。
綺麗な色だなと見つめていると、なめらかな頬の感触が首筋にふれた。
こんなに抱きしめられ頬寄せられたら、もう観念して言うこと聴くしかない。
元はと言えば自分が言い出した癖に途方にくれる自分も可笑しい、そっと英二は周太を抱き上げた。

「…うん、…周太、つれてくよ?」

抱き上げた周太の額にかるく額でふれる。
ふれあう額と絡み合う髪の感触に、おだやかで爽やかな周太の髪の香がくゆっていく。
いま間近い顔が愛しくて英二は静かに笑いかけた。
けれど見つめてくれる瞳と表情に、また心が望みを期待して軋んで苦しい。
そんな顔しないでほしいな?困ったように微笑んで英二は囁くようつぶやいた。

「…そんな顔で、俺のこと見つめないで?周太…困るから、」

そんなに自分は困らせているの?
そんな質問を瞳に湛えて、不思議そうに周太は訊いてくれた。

「どうして、困るの?」
「どうしても、だよ?周太、」

微笑んで英二は周太をベッドにおろした。
ブランケットを捲って白いシーツの上に周太を抱え移してブランケットで包みこむ。
やわらかな枕に髪をこぼしながら見上げてくれる瞳が愛しい、この瞳を曇らせたくはない。
やわらかな前髪を長い指でかきあげて、やさしいキスで額にふれると英二は微笑んだ。

「おやすみ、周太、」

愛する想いに微笑んで英二はソファの前へと戻った。
このソファはサイドベッドに出来る造りになっている、今夜はここで自分は寝ればいい。
ベッドが1つだけの部屋じゃなくて良かった、ちいさな安堵に微笑んで英二はサイドベッドを作り始めた。
いまもう既に、ふとした周太の表情に言葉に、心はゆらいで止まらない。
いま一緒のベッドで寝て自制心が保てる自信なんか欠片もない、だから離れて寝たい。
いま無心に心抑えながら、さっさと手を動かしていると背後から周太が英二に問いかけた。

「どうして、英二?…どうして、そんなことしてるの?…ベッドに入ってくれないの?」

不思議そうな声に、英二の身も心も微かにふるえて動きが縛り上げられる。
いま自分はどんな顔をしているだろう?この今の表情は見せられなくて、背中向けたまま英二は微笑んだ。

「今日はね、周太も疲れてるだろ?ゆっくり休んだ方がいい、だからベッドを広く使ってほしいんだ。俺が入ったら狭いだろ?」
「婚約者は、一緒に寝るって言ったの、英二でしょ?…どうして、そんなこと言うの?」
「その時によってはね、ひとりで寝ることもあるよ?だいじょうぶだよ、周太、ここにいるから」

背中向けたまま英二は微笑んで、またサイドベッドのセッティングを始めた。
この手の動きがどこかぎこちない、今既にこんなに動揺する自分がいる。
このまま早くお互いに眠ってしまえばいい、どうか朝を無事に迎えたい。
ただ焦るような想いに手を動かしていく背中に、ふと気配が起きた。

とん、…

ベッドから周太が降りた?
気がついて止まった動きに、素足のままカーペットを踏んでいく気配が届く。
いま止められた背中の呼吸から、英二はなんとか声を押し出した。

「…周太、」
「ん、なに?…英二、」

この背中の後から素直に周太が答えてくれる。
いま背後のすぐ近くに周太が佇んでいる、緊張感が微かに背中にふるえてしまう。
いったい周太はどうするつもりなのだろう?そう思った途端、英二の背中にふたつの掌がふれた。

「…っ、」

ふれられた掌の温もりに呼吸がひとつ止まる。
掌で背中にふれられただけ、それなのに鼓動が狂い始めていく。
ただ掌が背中にシャツとニット越しふれただけで鼓動と一緒に感覚が狂いだす。
これだけで苦しくてたまらない、心と体の本音が叫び出しそうで怖い。

離れてよ、周太?

そう言えばいいだけ、なのに喉がつまって声も出ない。
ふるえが背中に這い登る、紅潮が首筋つたって脳まで支配する。
心も体もふるえる緊張になす術なく縛り上げられ動けない、こんなの苦しくて堪らない。
それなのに、背中には小柄な体温が全身で寄りかかる。

「…っ、」

背中に感じられる周太の体の輪郭と体温。
コットン2枚とニットを隔てた位では隠せない、洗練された肢体が感じられてしまう。
もどかしさが背中から這い登る、「抱きしめたい」と本音が体を動かしそうで怖い。

離れてよ、周太、ダメだよ?

言葉なんて出てこない、溜息すら縛られた呼吸に零れない。
こんなに折られそうな自制心がふるえているのに、後ろから白いシャツの腕が伸ばされる。
伸ばされた腕が胸元にまわされて、ふたつの掌がシャツの胸に重ねられる。
そうして周太に英二は背中から抱きしめられた。

離してよ、周太、怖いんだ、

口が動いても声は音を失ってしまった。
ただ狂っていく鼓動の速い心音が「緊張状態・受傷あり」と告げてくる。
こんな時でもレスキュー・モードで内心の声が判断してくる自分は仕事人間だ。
そんな仕事モードですら思ってしまう、この「受傷」は自制心に罅か打撲が入った傷。
この自制心の罅が広がりだすのが怖い、そんな恐怖から声が音を持って英二の口から出た。

「…周太、寒いから…ベッドに、入って?」
「ん、英二が一緒なら、入る…ひとりじゃ嫌」

お願い言うこと聴いてよ周太?そんな想いの背中に微笑みの気配が伝わってくる。
けれど抱きしめてくる腕に力がやわらかく入れられて「ひとりじゃ嫌だよ?」と告げてくる。
胸元の掌が白いシャツ越しに心ごと英二を抱きしめて、また鼓動が狂っていく。

ほんとうに、周太は今夜、わがままを通すつもりなんだ?

周太の意志が胸元の掌から温かに伝わってくる。
この温かな意志に心ほどかれた息が、ほっと零れて微かに楽になった。
どうしたら、この周太のわがまま宥められるかな?困りながらも英二は微笑んだ。

「ね、周太…どうして俺がね、ベッド別にしているか、解からないの?」

肩越しに微笑みかけると、黒目がちの瞳が見上げてくれる。
この自分が周太を強姦した、その恐怖が周太を追い詰めたことを今すぐ思い出してほしい。
あの恐怖と過ちをもう繰り返したくない、だから言うこと聴いてほしいよ?
そう笑いかけたのに周太は小さく首を振った。

「わからない、知らない…理由なんて知らない、…ひとりじゃ嫌、一緒にベッドに入って、英二」

こんなに聞き分けのない周太は初めて見た。
こんなに聞き分けないこと言いながら周太の首筋は赤くなっていく。
気恥ずかしそうにしながら、けれど周太は断固として自分のしたいことを英二に告げた。

「お願い、英二?一緒にベッドに入って?…抱きしめて?ひとりは嫌、」
「…周太、」

ため息が呼びかける名前と一緒に零れてしまう。
こんなの困ってしまう、いまにも自制心の罅割れが大きく裂けそうなのに?
けれど本音が喜んでいることも嘘つけない、そんな英二に周太は独特の可愛いトーンでねだった。

「英二、一緒に寝て?…そうじゃなきゃ俺、床で寝ちゃうから…お願い聴いて、あいしてるんでしょ?」

床で寝られたら、きっと風邪をひかせてしまう。
そしてこの周太の駄々っ子ぶりは気恥ずかしそうで、頑固で、可愛い。
こんな駄々のこね方する周太なんて想像していなかった、あんまり可愛くて困らされる?
こんな可愛い駄々こねて「お願い聴いて、あいしてるんでしょ?」なんて上から目線で命令して?

こんなの反則だ。

気恥ずかしげに頬赤くしながら命令して駄々っ子するなんて。
わがままに可愛らしく「お願い聴いて」なんて言われたら、参ってしまう。
こんなの反則だ、もう降参だ、今夜はもう観念して自制心の試練を受ければいい。

きっとこれこそ「罰ゲーム」だろう。
愛するひとを強姦した罪への裁可と罰が今夜、周太の手で下される。
もう周太に心も身も任せて潔く裁かれよう、どうせ自分は逆らえやしない。
ひとつの諦観に潔く微笑んで振向くと、英二は背中の駄々っ子な裁可者を抱きしめた。

「うん、お願い聴くよ?…周太のお願いにはね、絶対に俺、逆らえない…観念するよ、」

英二は周太を抱きしめたまま、笑って抱き上げた。
抱き上げて額に額でふれて「降参だよ」と笑いかけると黒目がちの瞳が嬉しそうに微笑んだ。

「ん、観念して?…俺ね、英二にはもう、わがまま言うって決めたんだ…全部、正直に言っちゃう。だから言うこと訊いて?」
「言うこと聴くよ、周太。わがままもね、可愛い、」

お手上げだ、観念するしかない、存分に裁かれればいい。
こんな可愛い駄々っ子わがままされたら敵わない、為す術なく支配されてしまう。
もう仕方ない。そんな笑いがこぼれる英二に周太は少し得意げでも気恥ずかしげに言ってくれた。

「わがまま、可愛い、でしょ?…それくらい、俺のこと、好きなんでしょ?あいしてるんでしょ?」
「そうだよ、周太。愛してるよ、…お手上げだよ、」

ほんと、お手上げ。
こんなのずるい、愛しているぶんだけ分が悪すぎる。
惚れた弱みの英二を周太は無意識に掴んで、可愛く強請ってしまう。
周太はこんな小悪魔的だったなんて知らなかった、けれど嬉しい誤算だと思えてしまう。
こんな小悪魔は気恥ずかしげに英二に微笑んだ。

「ね、英二?…こんなに俺はね、わがままで、…ほんとに、可愛いの?」

この、小悪魔。
思わず心に罵って英二は微笑んだ。
だって訊いている内容は「わがまま言うからね」という支配の宣言。
けれど訊いてくれる声は気恥ずかしげで初々しいまま可愛らしい。
困りながら微笑んで英二は答えた。

「わがまま周太、ほんと可愛い…あんまり可愛いから、困る」

ほんと困るよ?微笑んで周太を抱き上げたまま、英二も一緒にベッドへ入った。


(to be continued)

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