おはよ。
昨夜は、窓を開けている限り涼やかな風が入ってきまして、扇風機だけでぐっすりと眠れました。
気持ちがよい目覚めです。
行くのが嫌にならぬうちに、体を動かしてしまうのだ。
起きてすぐ、リュックを背負って、氏神様へお散歩です。
間もなくドバーッと汗が出る・・・
40分ほどの散歩の後、ベチョベチョになったシャツとパンツを洗濯機に放り込んで、あたしはお風呂へドボン。
こうしてあたしの一日は始まりますの。
今日もあの人もこの人も、穏やかな一日でありますように。
さて、昨日は定休日。
実はこの頃、仏壇とお墓に関して、我が家では変化が起こっておりました。
事の発端はあたし・・・
あたしの家には、母方の先祖を祀る仏壇があります。
(父は三男なので、父方の先祖を祀る仏壇はありません)
そして、その先祖を含め、母の両親を弔って50回忌をとうに過ぎまして、どうやら仏というものは50年弔い続けると、そこからの子孫としての弔いの義務は免除をされるらしい。
(仏は、無事、50年の弔いを経て、完全な成仏をするというこになっているらしいのだ・・・誰が決めたか知らんけど・・・)
別段義務で弔っているわけではなかろうとも思うけれど、先祖を大切に思うことと、しなければならぬと思って礼拝をすることとは意味合いが違う。
でも、父と母にとっては、それは理屈抜きのこととして、家には仏壇があり、やがて逝く二人にとっても、自らのお墓を立てることは、同じく当たり前だった。
(すでに墓地まで用意がしてあります)
子供の頃から、あたしの目の前には仏壇があり、お墓参りの習慣があり、お盆の慣わしがあった。(ついでに、神棚もあった)
そんな育てられ方をしたあたしだったから、あたしは、祈りや、お墓と仏壇や、お寺や神社に関心を持ち、果ては死ということまで考えてきたと言えるでしょう。
そして、あれやこれやと考えて今この年齢になり、あたしはあたしの墓も要らぬ、戒名も要らぬ、という所に至るのでありました。
(もちろん、それを二人に勧めることはなかったし、そんなことはできることではない。)
ただ、そんなあたしの考えをじいちゃんたちに何気なく話していたことを、じいちゃんとばあちゃんは、どうやらとても関心を持って聞いてくれていたらしい。
そして、二人は決断をした。
仏壇を廃棄し、今ある母方のお墓を処分する。
自分たちの個人の墓も建てぬと決めた。
94歳と84歳の、大いなる決断であろうことは、想像に難くない。
が、それを決めるに至るまでの経緯で、彼らが思考を続けたことをあたしは誇らしく思うのでありました。
「これはこういうものだから・・・」というトートイズムは、体も頭も鈍くなっていれば、年寄りに限らず楽なのだ。
でもね、彼らはそうではなかった。
意識を保ち、思考し、意思を示した。
それがあたしには嬉しかったのだなぁ・・・(結果の問題では決してないのだよ)
ブータンに行って確かめたのですが、個人のお墓というものがかの地にはありません。(尊い人の碑ということで、お釈迦様やリンポチェのお墓はあります)
じいちゃんはよく言うのです。
「造化にしたがい造化にかえる」
じいちゃんの大好きな芭蕉さんの「笈の小文」というお話の一説です。
命の有り様の本質は、自然に寄り添い、自然に生きて死ぬ。
勉強していないあたしが言うのは違うかもしれないですが、そんな意味だと思っております。
そして、たぶんじいちゃんは、本来の意味としての仏壇の有り様とお墓の有り様が、どうやら現実には違うということを思ったのではないかな?
そんなことを感じて、この頃の二人の出来事を見守っておりました。
昨日、姉たちもやってきて、家族で仏壇を綺麗にしました。
来週は、おっさまがやってきて、精抜き(しょうぬき=仏壇に宿っているものを綺麗に昇華させる?)をいたします。
仏様をさわるのは怖いんだけれど・・・バチが当たりませんように・・・と、あたしは心から祈るのでありました。
昨夜は、窓を開けている限り涼やかな風が入ってきまして、扇風機だけでぐっすりと眠れました。
気持ちがよい目覚めです。
行くのが嫌にならぬうちに、体を動かしてしまうのだ。
起きてすぐ、リュックを背負って、氏神様へお散歩です。
間もなくドバーッと汗が出る・・・
40分ほどの散歩の後、ベチョベチョになったシャツとパンツを洗濯機に放り込んで、あたしはお風呂へドボン。
こうしてあたしの一日は始まりますの。
今日もあの人もこの人も、穏やかな一日でありますように。
さて、昨日は定休日。
実はこの頃、仏壇とお墓に関して、我が家では変化が起こっておりました。
事の発端はあたし・・・
あたしの家には、母方の先祖を祀る仏壇があります。
(父は三男なので、父方の先祖を祀る仏壇はありません)
そして、その先祖を含め、母の両親を弔って50回忌をとうに過ぎまして、どうやら仏というものは50年弔い続けると、そこからの子孫としての弔いの義務は免除をされるらしい。
(仏は、無事、50年の弔いを経て、完全な成仏をするというこになっているらしいのだ・・・誰が決めたか知らんけど・・・)
別段義務で弔っているわけではなかろうとも思うけれど、先祖を大切に思うことと、しなければならぬと思って礼拝をすることとは意味合いが違う。
でも、父と母にとっては、それは理屈抜きのこととして、家には仏壇があり、やがて逝く二人にとっても、自らのお墓を立てることは、同じく当たり前だった。
(すでに墓地まで用意がしてあります)
子供の頃から、あたしの目の前には仏壇があり、お墓参りの習慣があり、お盆の慣わしがあった。(ついでに、神棚もあった)
そんな育てられ方をしたあたしだったから、あたしは、祈りや、お墓と仏壇や、お寺や神社に関心を持ち、果ては死ということまで考えてきたと言えるでしょう。
そして、あれやこれやと考えて今この年齢になり、あたしはあたしの墓も要らぬ、戒名も要らぬ、という所に至るのでありました。
(もちろん、それを二人に勧めることはなかったし、そんなことはできることではない。)
ただ、そんなあたしの考えをじいちゃんたちに何気なく話していたことを、じいちゃんとばあちゃんは、どうやらとても関心を持って聞いてくれていたらしい。
そして、二人は決断をした。
仏壇を廃棄し、今ある母方のお墓を処分する。
自分たちの個人の墓も建てぬと決めた。
94歳と84歳の、大いなる決断であろうことは、想像に難くない。
が、それを決めるに至るまでの経緯で、彼らが思考を続けたことをあたしは誇らしく思うのでありました。
「これはこういうものだから・・・」というトートイズムは、体も頭も鈍くなっていれば、年寄りに限らず楽なのだ。
でもね、彼らはそうではなかった。
意識を保ち、思考し、意思を示した。
それがあたしには嬉しかったのだなぁ・・・(結果の問題では決してないのだよ)
ブータンに行って確かめたのですが、個人のお墓というものがかの地にはありません。(尊い人の碑ということで、お釈迦様やリンポチェのお墓はあります)
じいちゃんはよく言うのです。
「造化にしたがい造化にかえる」
じいちゃんの大好きな芭蕉さんの「笈の小文」というお話の一説です。
命の有り様の本質は、自然に寄り添い、自然に生きて死ぬ。
勉強していないあたしが言うのは違うかもしれないですが、そんな意味だと思っております。
そして、たぶんじいちゃんは、本来の意味としての仏壇の有り様とお墓の有り様が、どうやら現実には違うということを思ったのではないかな?
そんなことを感じて、この頃の二人の出来事を見守っておりました。
昨日、姉たちもやってきて、家族で仏壇を綺麗にしました。
来週は、おっさまがやってきて、精抜き(しょうぬき=仏壇に宿っているものを綺麗に昇華させる?)をいたします。
仏様をさわるのは怖いんだけれど・・・バチが当たりませんように・・・と、あたしは心から祈るのでありました。