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と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ブログが唯一の息抜き・・

2012年06月01日 23時37分49秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

・ここのところ、かなり固い記事を書いていたので、肩が凝った。カタカタと音がするくらいである。しかし、アタシャあんまり肩が凝ったという経験がない。家族で唯一の存在である。家族構成員の全員の肩をおもみ申し上げているんである。珍種の生物かもしれない。肩も凝らないし、血圧も高くない。120位であるから。それになんの薬も呑んでいないのだ。カオ以外、どこも悪いところがないのだから始末に負えない。

・金曜日は、一週間の中で、一番ハードである。8時間くらい大学にいる。今日も10時から、講義と演習が終わったのが夕方の6時。よくまぁもつな・・・と激賞している。自分をである。学生でござんすから、そんなの当たり前である。と思い込むことにしているが、正直疲れる。オトシですからねぇ。要するにじじいでござんす。

・なにしろ、クラスメイトは全員大学の先生方である。しかもオイラと違って、エリートだ。オイラなんかとアタマのできが違う。ついていくのに必死である。

・でもねぇ、それがいいのだ。

・セミナー棟で、大学院事務室の方とちょっと立ち話をした。かなり忙しい方であるから、ちょっと気後れしたが、セミナー棟で会ったのがいい機会であると思って、声をかけさせていただいたのだ。

・定年後の生き方として、アタシのようなのもいいもんでっせ、老年仲間にも城西国際大学に入らないかと声をかけていますぜと申し上げた。まだまだこっちはどこも具合が悪いわけでもないし、これじゃぁ爺捨て山に捨てられたじじいでしかない。少なくとも現象的には。と、申し上げた。

・60歳で定年。それで強制的に引退をさせていただいたのですと、申し上げたらびっくりしておられた。大学事務室の方は65歳なんだそうである。定年が。うらやましいですなぁと申し上げた。本当にそう思うからである。

・どうもアタシャ、じじいという感じがしないのである。ある日突然、じじいになっていたというのが実感である。そういえばそんなことを書いていた本があったなぁ。「老化は突然やってくる」って書いてあったような気がする。老化は突然やってくるんではなくって、そういう老人という役割を押しつけられたということの方が正解なのではあるまいかと思う。役割としての老人である。社会的には、そうでないと困るわけである。アタシのようにどこも悪いところなく生きていると、当然それは邪魔になる。(カオとアタマが悪いケド)

・それでもアタシャ、どんなに邪険にされようとも、たくましく、楽しく生きていくんである。マジにである。

・憎まれっ子世に憚るというではないか。世間のしがらみもなく、名誉地位とはまったく無縁の生活を送ってきたし、煩悩はあっても、それを消そうとノイローゼになるほどあせっているわけでもない。

・今日は、日本語の教育法についていろいろな方々から教えを受けていた。国語教師として37年間やらせていただいたわけであるが、あることを思っていた。学問というものの有限性についてである。

・尊敬する印度哲学の学者先生ですら、定年後を楽しみにしておるとあるとき言われたことを思い出していた。そのとき、思ったのである。定年までで終わりなんですかって。

・それをわたくしなりに有限性と言っているのである。学問というのは、働くためにやっているんでしょうかねという疑問がどうしてもあるからである。それはそれで尊いご努力であるから、つまらない人間の代表格であるワタクシは、尊敬はする。しかしである。就職のためだけでいいんでしょうかという疑問はまだ残る。

・そんなことを考えていられるのも、就職する必要がまったくないからであろう。就職されたら周囲が困るわけである。邪魔だからである。そのあたりは十分わきまえているつもりである。

・この間、Facebookというので、友人になった方とメッセージのやりとりをしていた。そこで、教育界のことをちょっと書いてくださったのである。お相手が。即、ワタクシは書かせていただいた。教育界のことは全部忘れましたので、悪しからず。ということである。なんにも覚えていませんですというスタンスでいかなくてはならんのである。だって、もう関係ないのですから。本当に捨てられたということは、社会学的に、あるいは人類学的に完全に関係性を断ち切ったということなのである。

・ところが、学問は違うと思うのである。

・定年なんてくだらない人間だけで取り決めたシステムで、それまでの自分の知的資本を捨て去ってしまってはいけないのである。定年が絶対的な価値あるシステムではないからである。そんなのは、凡夫である我々人間だけで決めたものであるからである。

・地位にしがみつくのも同様である。人間だけで取り決めたポジュションでしかないではないか。地位なんでいくらでもある。**長とか、**とか、副**とか、なんとかとか。

・アタシャなんにもない。(^0^)/ウフフ

・地位ではないが、唯一「還暦老学生」という「世界で唯一の肩書き」があるだけである。そして、この肩書き、世界で一番好きな肩書きである。死ぬまで「老学生」であるからである。なんってたって、無知の人であるからである。

 

・楽しいですよ。無知だから、死ぬまで勉強するしかないんだから。

 

 

 

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そうか老人と海なのか

2012年06月01日 01時07分38秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 

<特集ワイド>米大リーグ 心打たれる松井選手の信念 けがと闘いメジャー昇格/常に「ベストを」

毎日新聞2012年5月31日(木)18:00

 「ヤンキースの4番打者」として頂点を極めながら、米球界10年目の今季をマイナー契約でスタートした松井秀喜選手(37)。一時は「マイナー落 ちしてまで」「日本に戻ればいいのに」と言われたが、メジャー昇格するなり今季1号で復活を印象づけた。なぜ彼はひたむきに闘い続けられたのか。なぜ彼の 生き方は人をひきつけるのか。【小国綾子】

 東京・お茶の水の山の上ホテルに、松井選手と交流の深い作家、伊集院静さん(62)を訪ねた。聞きたいことがあった。松井選手にヘミングウェーの小説「老人と海」を贈ったのは、あなたではありませんか――。

 小説の中で、老いた漁師は巨魚と死闘を繰り広げながらヤンキースのジョー・ディマジオ選手を思う。「あいつだってかかとのけがを抱えながら最後まで闘ったんだ」。ディマジオ選手の56試合連続安打の記録はいまだ破られず、背番号5はチームの永久欠番だ。

 松井選手は著書「信念を貫く」(2010年)で小説に触れ、こう書いている。

 <老人が苦しい時にディマジオを思い出したように、もしもファンの方が「松井だって頑張っているんだから」と思ってくれたら、プロ野球選手として幸せに感じます>

 伊集院さんは「確かに私が贈りました。03年、彼が渡米する時の話です」。つまり松井選手が会見で「裏切り者と言われるかもしれないが、決断した以上は命をかける」と覚悟を語り、大リーグに移籍したころだ。

 松井選手はそれ以降何冊も本を書いているが、「老人と海」に触れたのは10年の本が初めて。06年の左手首の骨折、そして07、08年の膝の手術という逆境の中で、何年も前にもらった本を読み返し、心動かされたのかもしれない。

 伊集院さんは深くうなずいた。「彼は大リーグで改めて野球の素晴らしさを味わったってことなんでしょう」

    ■

  「松井秀喜ベースボールミュージアム」(石川県能美市)に行ってみた。幼い頃からヤンキース時代まで、松井選手が使った野球道具やユニホームが展示されて いる。来館者のメッセージを読ませてもらって驚いた。ヤンキース時代は「ホームランを打って」「がんばれ」などが多かったのに、昨シーズンオフあたりから 松井選手の挑戦に自分を重ねた切実なメッセージが目立って増えていたからだ。

 愛知県の中学生(13)は「僕も骨折し、野球部最初の夏休みの練習に参加できず苦しんでいた。ここに来て力をもらいました」。宮城県の男性(61)は「津波で友人をなくし心が折れそうな時、テレビで松井選手の頑張りを見てここに来ようと思った」。

 父親で館長でもある昌雄さん(70)は言う。「野球ファンでもない、友人に連れてこられたという若い女性が、展示を見て感涙したりする。秀喜の存在が野球人としての成績とは別のところで人々の心に響いているようなのです」

  星稜高時代の監督、山下智茂さん(67)=同校野球部名誉監督=には忘れられない思い出がある。巨人時代の松井選手に「知人の難病の子が入院している病院 にサイン色紙を送ってくれないか」と頼んだ。連絡がなく、がっかりしていると、ある日突然、松井選手は病院に現れ、トイレの中で巨人のユニホームに着替 え、子供の目の前で色紙にサインしてあげたという。「寝たきりだった子が立ち上がって『ありがとう』と言ったそうです。あの時、あいつはすごいやつだ、と 思いました」

 まるで、大海で独り闘う漁師を励ましたディマジオ選手みたいだ、と思った。

    ■

 実は、メジャー昇格の報が届く前、松井選手の故郷で聞いた声は悲観的だった。「加齢には勝てない。メジャーは無理」「有終の美を飾ってほしかった」「なぜ日本に帰らない?」。誰も傷つく“ゴジラ”を見たくなかったのだ。

  数字は容赦ない。松井選手のメジャー1年目(03年)の年俸は600万ドル(当時約7億3000万円)。06~09年は1300万ドル(同約15億 4700万円)。それが今季マイナー契約では月額1万ドル(約80万円)。メジャー昇格しても年俸は約61万ドル(約4860万円)の見込みだ。

  ただ、元大リーガーで米国暮らしのスポーツ解説者、長谷川滋利さん(43)はいう。「優勝を狙うチームを作りたい監督なら、誰だって松井選手のような人材 がほしい。技術やパワー面だけではなく、真摯(しんし)な姿勢を若手に見せることでチーム全体をその色に染められるから。エンゼルスにも『松井選手には もっといてほしかった』と残念がる声がありました。レイズのマドン監督も同じ考えの持ち主だから、すぐに昇格させたのでしょう」

 昇格決定 の直前、昌雄さんはこう言っていた。「今の息子が心配かって? いや、楽しみです。所属先の決まらないまま黙々とトレーニングした時間や、3Aでの若手選 手との出会い……。なんとすてきな経験をさせてもらっているのだろう。同じ男として『うらやましいくらい幸せだな』と言ってやりたいです」

 昇格が決まった朝、改めて電話したら「今日という日を目指してずっと頑張ってきた息子に一言『よかったね』と言ってやりたい」との言葉が返ってきた。

    ■

 伊集院さんは今、<私たちはなぜ松井秀喜が好きなんだろう>というテーマで原稿を書いている。

  「一番苦しく見える時が、実は人間の幸せなのかもしれません。仕事を続けられること、職場があることは、人間にとって何と大事なことか。報酬の多寡など関 係ない。仕事や職場があることにこそ無償の価値があると、彼は教えてくれる。命をかけて闘う彼の姿から、日本人は多くのものを得ているのでしょう」

  伊集院さんは1月、松井選手に会った時、こんな話をしたという。「もしも君が米国で最後までプレーを続けるならば、米国人すら知らない小さな街のチームで 選手人生を終え、街を去る日に見送りに来てくれた老人や孫たちと交わす最後の言葉の中に、野球の神髄を見いだすのかもしれないね。そんな風景を私は想像し てしまうんだ」

 この時、松井選手は一かけらの迷いもなく答えたそうだ。

 「たとえそうなっても、どんなに小さなチームでも、僕はベストを尽くします」

 

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/