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と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ふうう

2012年06月27日 23時38分59秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 今日は、もうひとつの記事をさっきアップしたのだが、随分肩の凝る記事を書いてしまった。能のことを、ノートがわりに書いているんである。(能 能と=ノート Oh Noh だじゃれのつもりです) あるいは唯識を。今日一日隠棲室でしゃかりきになって、カードをとっていたのだ。

 なんてったって、愚生は日比谷高校のような「シティボーイの都会性」と「強烈なエリート意識」と「小市民的なエピキュリズム」に「文学的ミスティフィケーション」なんていうものはまったく持ち合わせていない。(当たり前だ) 

 さらに、ひねくれているしなぁ。遅いんですよ。読書も記憶も。 (^0^)/ウフフ

 たまにはいいか。あんな小難しい記事も。と言いながら、ノートの代用品書庫には、まだまだ書いていくつもりだけど。どうせ、愚生の記事なんぞ、このブログの背景のような居酒屋炉辺談話風の雑談でしかないからである。なんということもないんだけれど、昨日のアクセス数にはたまげた。660を超していたのだ。ありがたいが、これは要警戒である。

 アタシャ、アクセス数が伸びたからと言って単純に喜ぶタイプではナイ。もしかしたら、どっかで炎上している可能性もあるではないか。こんなつまらんブログを読んでくださる方は、ほんの一部の方しかいないだろうと思っているので。だから、少数の読者様に感謝しているのである。

 想定内読者様、そう、あなたも、そこの君も、あっちのそなたさまも、こっちのこなたさまも大切なんですから。(^-^)/

 ホンマに。

 

 さて、最近困っていることがある。オイラの風貌を見て、挨拶される方が本学におられるんである。学生も、先生方も、職員の方もである。違ってます。アタシャ学生なんです、と大声で叫びたい。(^0^)/

 大学院の事務室の職員はアタシのことを知っているから、これはこちらからも挨拶をします。しかしである。見ず知らずの方にされる機会が徐々に増えているのだ。基本的に知らない方と、さも以前からの知り合いのようにクチをきくのは苦手でして。そりゃ、ちゃんとあいさつのお返しはしますよ。

 もしかしたら、もしかしてである。愚生のことを学生だとは思っていない方がおられるのではないかと、はたと気がついたのである。今日である。清掃専門会社の社員の方にもあいさつされたのだ。これって、かなりの勘違いである。オレは学生なんです、あいさつはオレの方からしなくちゃいかんです。いつも学校をきれいにしていただいてありがとうございますって、である。

 学内の売店の職員の方も、「先生ですか?」と聞くので、買い物もできない。あああああ、オイラ学生なんですぅ。髪の毛はアタマに一本も無いケド、ほんまに学生なんです。しかもこの間入学させていただいたばかりの、新米、新入生です。本来なら先輩がたの地獄の特訓に堪えなくちゃならんのです。もっとも、こんなの誰も相手にしれくれへんですがね。

 

 困ったものだ。何千人という多くの学生がいるんだから、オイラなんか吹けば飛ぶような将棋の駒もいいところではないか。そっと片隅で生きているだけの、学食唯一の楽しみの、老僕的存在のじじいでっせ。お願いだから、そっとしておいてほしいのである。

 千葉科学大学なら話は別である。あっちではせんせだからである。なんと、ネクタイまでしているんだから笑いますなぁ。へん~しんである。

 しかし、城国大ではリッパな(?)学生さん。学費だってちゃんと払っているんです。学生証も、写真はじじいだけど、ちゃんと持っているんです。カオも性格もかわゆくないのが、たったひとつの大きな欠点ですが。(^-^)/

 

 ま、学力劣等で城国大を放出される可能性も十分あるから、オイラはそれを避けるべくして、オオイニ勉強しているつもりだけども。実績もぬかりなく積んでいるつもりであります。他の大学の学会誌に掲載可能になったし、今のところは順調であります。もっとも、横山紘一師にはその辺はいろいろ言われましたが。自覚はしております。そもそも、これから出世するわけもないし、一端リタイアしたんだから、静かに余生を送りたいもんである。そのつもりであるから、なんの悩みもないんである。ダメだったらダメで仕方ないしねぇ。そもそもそんなの(実績とか)、他人が評価するもんドス。これまでも、世渡りは実にへたくそだったなぁ。これからも、ね。

 そもそもシティボーイではないから。日比谷高校的な知性もまったくないし。あんなこと書いたら殴られるような、ちょ~田舎の人間だしねぇ。

 今でも、東京の山の手と称するところには反感を感じてしまいます。だって、オイラ庶民だもの。だから下町で、新聞奨学生として苦学させていただいた時は、下町の方々の温かみは忘れられないんです。本当に、感謝申し上げます。こんな、東北の山奥から出てきた熊みたいな男を、激励してくださった方々がたくさんおられたのだ。集金に行くと、あ~た学生だってねぇ、ハラ減ってないかい?ってお菓子くれたヒトもいたっけなぁ。ホンマにありがたいっすよ。思い出すだけで、もうウルウルになっちまう。

 いたところは、あの有名な葛飾柴又の隣町の金町。

 いいところでした。人情味があって。

 

 

 また明日!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「大和猿楽考」の部分読み

2012年06月27日 23時23分03秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

能楽源流考を読む 和猿楽考」部分読み (pp.253-322



 今日も、ずっと読書感想文を書いていた。

 なかなかまとまらないが、若干のヒントもあった。

 やはりにらんだとおり、キーワードは興福寺である。

 奥行きも深いが、幅も広いのである。

 これでは大衆の人気があったと思うのである。

 そして興福寺がなんの教義を持っていたのか。それがヒントであった。

 以下にノートとしてまとめてみる。



 

 安時代の大和猿楽についての記録が殆ど無いということはまことに残念なことであるが、観時代の薬師寺猿楽については東大寺要録所載がある。

 た、日若宮時代には、初の保延時代からすでに猿楽が参勤していたことが、宮祭礼記に出ている。楽の咒師と思われる者が、寛の頃には般若坂下に住んでいた。こは重大なの歴史があって、師の起源を考える上で欠かせないことの一つである。

 和猿楽の重大な行事は、院の行事に出勤することであって南都諸大寺が階級者に対して絶対的な支配権を持っていたということとの関わりを無視してはならないことである。さらに、都大寺院は、民猿楽者の保護者でもあった。

 福寺と日社の猿楽は、薪猿楽であって、勢今朝次は興福寺修二月会に参勤の咒師猿楽に源を発しているとする。(p.254

 先人の研究としては、田東伍博士の研究がすべての基礎である。

 田博士は、能は薪宴タキギノエンの遺風であるとされた。朝廷献薪の風を興福寺において摸し、福寺より河上、室、の両宮に上分を進め、の際に列参・歌舞をなし、れが祝祷の意を持つにいたって薪宴となるとされた。

 かし、薪宴の薪が興福寺の寺家から、上、室の両鎮守に献ぜられたとするが、福寺の西金堂の本尊は光明皇后の化身であるとすることで、吉田説には若干の不安がある。

 の宴は朝廷の御籠木を摸したものとするのも不安がある。時日の点である。れは、廷の献薪はすべて正月十五日であるのに対して、福寺のみに限って二月の三日なのは何故かという問題があるからである。

 勢碩学は、「宴は興福寺の東金堂および西金堂の修二月会に用いられる薪を迎える儀式である」とされる。(p.262

 の薪迎とは、二月会行法に用いる薪を東西両金堂に迎える儀式である。西金堂は、上より列参させ、金堂は氷室より行列を立てて練り込む。材は花山にこれを求めたものである。すると、故河上や氷室に集合するのかということが問題となる。れは、西両金堂の地主神であるが故にである。まり地主神から興福寺に納めるという形になるわけである。

 薪迎は、福寺に限って行われたものではない。大寺も同じである。

 

 猿楽は、二月会参勤の猿楽であるとするのが吉田説であるが、猿楽が薪宴の風俗歌舞に起因するというのは能勢博士は間違いであるとする。(p.265

 「教訓には、西金堂は基駒を謡い、金道堂は風俗の大島を謡う。楽は、舞の代用ではないとする。

 うすると薪猿楽はなにによって発生したものであるか。このところが非常に関心のあるところである。

 勢博士は「正月会、二月会と咒師の関係から猿楽との関係から解明できる」とする。(p.266

 正会に咒師や散楽が参勤したとは書かれていないが、咒師は参加しているのである。れが重要である。咒師は僧侶であるからだ。ころが、福寺では修二月会に咒師や散楽が参加しているのである。

 こに興福寺の大衆性を示す好例がある。

 長七年、まり教訓抄の天福元年の二十二年後に、実に愉快な事例が書かれている。「春日若宮神主祐茂記の同年二月六日の記に、小便を春日社でしたこと、たがってそれに対して、祓いをしたことの記述が見える。

 西両金堂を離れて、興福寺南大門に薪猿楽が移されて、衆がこれを見物できるようになってからで、このところに宗教性のさらなる拡大があったと私は思っているのだが。「興福寺諸堂伽藍記や興福寺の「徒記録をもっと精査してこれから読みたいと考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/