・なぜ純文学が廃れてしまったんだと思うことがある。ともかく売れない。本が、である。一部の世界の人しか興味が無いようである。最近のTせんせという芥川賞受賞者が、奇抜な行動で世間の注目を浴びたくらいである。
・この場合、出版数という点からのみ言っているのであるが。確かに純文学は売れない。さらに、漫画や、自己啓発本、ビジネス書ばかり売れている。シンプルだからであろう。とっつきやすいという側面もある。ある学校の卒業式で、3月くらいになくなられたスティーブ・ジョブスのことが取り上げられていた。そこまでビジネス書というのは、蔓延しているのである。奇妙なことである。
・なぜ?ということからつらつら考えてみるに、原因は批評家なのではないのかと思ったのである。文学性とか、この純文学の持っている意図とか、必然性とかのべつまくなしに批評をされている。もっとも、この愚かな私もそういう世界にどっぷりと漬かって生きてきたのだから、別にそんなに目くじらたてて言うような話でもない。
・しかし、あまり事細かに分析をされると、私のような一般的な読者は嫌気がさす。もしかして、批評家のせんせたちは、こんな作家いつでも取り替えがきくと思っていらっしゃるのではないか。もしそうだとするなら、批評家であるご自分だって、いつでも取り替え可能な存在でしかなくなる。
・それに、ためらいというものが無い。批評というものには。イエスかノーか。一刀両断である。行動を起こす前に、いろいろと逡巡するような少女文学にあるようなためらいがない。男らしさとか、そういうものを男の子というものは好むのだろうが、あまり極端だといかがなものか。
・自分に語りかけてくるような、そういう視点がほしいのである。これはどんな本を読んでみてもそうである。つまり、どんな難解な語句を用いていても、いいのである。読み手である私がそれを理解したいという欲望を感じさせてくれる書物が良い書物である。だから可能な限り優しい語句を使った、大衆受けするような本が良書であるかとなるとなかなかそうは言えないのである。私のような一般ピープルの必然性を重視して書いたとか、国民のために書いたと自称する本に読者への語りかけはない。新聞がその好例である。言葉使いはやさしくしてくれる。しかし、新聞の記事の書き手たちは、高慢ちきである。ものを知らない私のような一般ピープルに、指導をしてくださるわけである。つまり上から目線なのである。語りかけでは断じてないのである。指導と対話は違うのである。そもそも前提が違うのである。こういうのは、私のような一般ピープルは一瞬で気がつくのである。共に悩み、共に苦しむという視点も当然無い。あたりまえであろう。エリートだからである。
・批評家たちが、純文学の作成者たちをどうしてあのように虐待じみたようにタタケルのか。それはつぶしても後から後から作家志願者というのが登場してくるからである。そういう狭い社会でしか生きてないからである。純文学は狭すぎる。本当に顕微鏡で見なくてはわからないほど狭い。
・作家というライセンスを取りたい、そういうものを取得させていただきたいと思う限りは、純文学の新人たちは残忍な扱いを受けることになるだろう。当然である。もし、ただ好きで読んでいる、書いているという段階で自己満足できれば、作家志望大学院中退というのでもいいのではないか。もっともそんな大学があるかどうかは知らない。あるかも知れないが。(芸術系の大学にあったかも)
・「ブログ」のようなものでもいいではないかと思うことがある。自己満足でいいのである。ある意味、私のやっている生涯学習もそうである。けっして自慢できないことであることはよく自覚している。またそうしてはならないことも。だって、自己満足なんだから。こういう世界で勉強させていただいているということに感謝しているだけだからである。
・さらにブログは、「ノートの代用品」でもある。読書感想文を書いている。著者名も、出版年も、出版社も、引用した場合はページ数も書いている。ブログのいい点は、後で検索がきくという点である。Twitterにはない継続的に思考ができるという長所がある。Twitterも、アイディアが浮かんだときは実にいい。そして、私はブログと連携して次の日にこのブログにまとめて掲載されるようにしてある。これもまた検索がきくのである。しかし、Twitterは考えている最中に他の方のつぶやきが入る。あれって、邪魔と言えば邪魔である。考えが中断されてしまう。もっとも、たいしたことを考えているわけではないけれど。
・ノートだと検索というのは不可能である。数が少なければそれはそれで可能だろうが、古ぼけたノートが60冊もあると何がどこに書かれているか、私のようなできの悪い頭の持ち主ではわからなくなるからである。
・ま、これからも「読者5名」を想定して、細々と書かせていただくつもりである。こんな程度ではあるが。「我慢強い5名の読者様」、これからもなが~いおつきあいを。ではまた!