このブログの想定内読者にE氏(会社社長)がおられる。金曜日に城西国際にこられて、しばし学食で歓談させていただいた。年齢的には愚生よりかなりお若いが、いろいろな意味で愚生の師匠であるから、実に有意義である。尊敬もさせていただいている。マジである。
私立大学のあり方、あるいは私立高校のあり方、さらには県立高校のあり方等々にまで話が及び、こんな会話を経営中枢におられる方々のために内緒で録音しておったら泣いて喜ぶ人もあろうかと思ったのである。それほど中身が濃かった。経営学をやっている城西国際の学生も周囲にはあまたおられるのであろうと思う。ま、愚生は実践しか知らないから理論はできない。だから、しょうもない話ではあるが。
政治の世界がきな臭い。毎日、いろいろなことが起きている。政治の話は興味はあるが、ここではしない。されど、政治主導という公約を掲げて躍進した某政党の公約についていろいろ考えていると、教育にもあてはまるのではないかとしみじみ思うのである。
政治主導を、保護者主導と言い換えてみると教育界にぴったり当てはまるではないか。いつの頃から、教育界を官僚と一緒として理解して、公務員批判と同じレベルでの論理的展開を図り、批判の矢面に立てようとしてきたグループができてきたと感じるからである。
今、その両者とも破綻している気がするのである。どちらも、優秀な頭脳を生かし切れなかったという過去形で表現するしかなかったと思うのである。
やはり政治主導は専門性のある方々にはかなわなかったと思う。むしろそういう人材をどのように使うかという視点が重要なのであって、政治家がスーパーマンのように、まるで神のようになんでも理解し、指示できるかという点でなかなか納得できない部分もあるからである。それは教育にも言えることである。保護者は神ではないからである。オールラウンドプレーヤーでは無いからである。
このあたりを、みんな勘違いしたのではないだろうか。政治家も、保護者も。
基盤に、他者不信があるような気がするのである。自分以外のモノは全て、馬鹿であり、悪人であり、くだらない人間であるというような他者不信である。差別と言ってもいい。
では、蘇るにはどうしたら良いのか。
E氏といろいろと議論をしていた。
最初に言うと、結論はない。なにしろよって立つところの基盤が違うのである。ある場面で成功した事例をそのまま当てはめるわけにはいかない。どんなに成功した事例を研究しても、それに普遍性があるとは誰も言えないであろう。MBAの方々に叱られるかもしれないが。ハーバードをはじめとして、事例研究は根本の研究方法であろうから。
しかしである。事例こそ万能であると、もしそういう乱暴な人がいたら愚生は黙るしかない。ご自分がそれで正答であると思われるのなら、それが世界で一番の答えであるからである。
しかし、目が離せないことになっている。政治も、教育も。これからどれだけ変化していくだろうか。その一例に、法科大学院の事例がある。これをどうとらえるか。システム作りの失敗と捉えるのか。あるいは、またしても政治の責任にするのか。識者と言われる方々のご意見をお伺いしてみたいことの一つである。
法曹をどうやって作っていくのかということをいろいろとやってこられた方々がいる。この法科大学院のシステム作りと、いくつかの法科大学院の学生募集停止という破綻の事例は非常に興味深い。なぜか。教えられる部分が多いからである。教育内容の面、指導陣の面、大学経営の面、あるいは経営陣の面、さらに国家の法曹育成方針をどのように見誤ったのか、その他もろもろ。
もう一度学校経営に戻るような機会があれば(そんなことはぜ~ったい無いケド)、今回のこれらの事例はたいへんに勉強になる。
現在、塾の非常勤講師をさせていただいている。民間である。民間であるから実に経営上はシビアである。たいへんな興味を持って観察させていただいている。当然である。なんの責任もない一介の講師であるからである。つまりコマでしかないから、かつて一校をお預かりさせていただいて、学校経営に関わらせていただいた身としては、いろいろと考える部分もあるからである。つまり、オレならこうする、オレならこうはしないという部分がわかるからである。
そんなつまらんことは、そっと胸にだきしめて、墓場まで持ち込むつもりだけれども。(^0^)/ウフフ
しかし、生徒に教えるということは楽しいものである。孫のような生徒様に接していると、かわゆくてたまらんのである。本当に、なんの稼ぎにもならん講師生活を楽しんでおりまする。ホンマに。
明日は、どういう明日になろうか。たぶん、県立図書館でとぐろをまいております。
また明日!