大学生に「教育の方法と技術」を教えるということ(他の大学の話です・・申し訳ありません。)
1 はじめに
この4月から千葉科学大学で、「教育の方法と技術」を教えている。教職志望の学生と、教師になったことを予定しての諸々の学習を共にしている。
これまでの37年間の教師生活から得たヒント、箴言を古ぼけたノートに書きためていたことが役にたっている。
大学の講義をもたせていただくということなど、夢のような話である。それこそ想定外であったが、まだ3ヶ月に満たないささやかな経験ではある。その経験の中で、学生たちに何を訴え、何を共に考えてきたかをここに明らかにすることによって、これからの自分自身の成長に資することとしたい。(できるかな・・)
2 シラバスの作成と構想
(1)独自性を出す
シラバスは、伝統的なものがあるだろうと予想して、大幅な書き換えはしなかった。大学教育に関してまったくの新参者であるからである。それぞれの大学の伝統というものもある。常勤の教授、准教授等々の先生方の方針もある。それを大きく逸脱してはならないわけである。
しかし、その中で独自性を出すこともまた重要である。経験知からきたところのものを、学生たちに贈与したい、すべきであると考えているからである。
そのことが、将来教職についた時に、大きな支えとなってくれるのではあるまいかと考えるからである。
(2)何をもって独自性とするか
「授業の構造化」である。
いわゆる授業構想のシステム化と言ってもいいだろう。これまで随分言い尽くされてきたことでもある。教師生活37年で成熟した概念である。そして、もうそろそろそれを他者に伝えなくてはならない。このことを学生たちに伝えることで、あるいは具体的に演習として講義の中で学生たちに取り組ませることで、教職志望という学生たちのニーズに応えることが可能になると思ったためである。
(3)授業そのものの概念を変える
学生もまた、それまで受けてきた小・中学校・高等学校の授業を経験してきているわけである。それほどに教師たちの影響というものは大きい。そして、それが経験知として、学生たちの頭脳にすり込まれていく。
最初に、その学生たちの経験知としての授業概念を変更させることが重要であると考えた。
例を挙げれば、国語の授業で何をすればいい授業となるのか、あるいは何をすることが国語の授業となるのかということである。つまり、「読む」ことと「見る」ことの違いを明らかにすることが重要であると、いうことである。英語で言えば、ScanすることとReadの違いである。
電車の中吊り広告を読む、缶詰のラベルを読む、レストランのメニューを読むこともまた読書なのであろうか。
一字一句ゆるがせにせず、じっくり読むことと新聞をざっと斜め読みすることと、その違いはどこにあるのだろうか。圧倒的な語句のシャワーの中で育ったから、我々は母語を持つに至ったわけである。でなければ、赤ちゃんのままである。
このことについては、本学は理科教育の専門家を養成する大学であるから、この駄文では扱わない。
しかし、理科教育もまた教科書からスタートする。その点においては国語教育と変わらないはずである。
つまり、学習指導要領に基づいて書かれた教科書で教えるのであるから、教科書の中の何を教えるのか、どうやって教えるのかということを根本的に考えなくてはならないと思うからである。
(4)具体的には何をするのか
マトリクスである。
教科書の教えるべき一分野を、あるいは単元を読む。そしてそこから「教師として」「何を」「どうやって」授業を展開していくのかという課題を与えるのである。
これまで八回ほど講義をしてきたが、ことごとくその連続であった。すべてがそこに収斂されてくるのである。
指導案作成は、次年度の3年生の時に他の科目でご指導いただけるとのことであるから、指導案作成の前段階で徹底的に鍛えの時を持とうと学生たちと話し合ったのである。
こういう教師として教える、教えなくてはならないという立場であると、「情報収集のレベル」が違ってくる。むろん心構えも違ってくる。しかし、そういうことを言っているのではない。
得た情報をはき出すためにという一点が違ってくるのである。出口の無い情報収集一点だけであると、死蔵されてしまう。学者ならそれでいいだろう。研究室に閉じこもって、たまに世間に顔をだしてふんふんと言っていればそれでも通用するせんせがたはたくさんおられるだろうし、それはそれで十分尊敬に値する。むしろ、そういう知的な営みを私のような一般ピープルは十分尊敬するからである。
しかし、この場合は教師を目指している学生である。違う世界を想定しなくてはならない。
自分の知的な財産をどのようにはき出すかである。
そして、その知的な財産を「いかに」するかということである。これだけは、受け身の授業で教えてもらって身につくというわけにはいかない。自分で考えるしかない。
教壇の経験がない学生たちには過酷なことである。十分想定はしている。しかし、やらなくてはならない。実践をくぐりぬけなくては学校現場で通用しないからである。
(5)教科書からコンテンツを探し出す
そこで(3)であげた国語教育との関連が出てくるのである。読むことと、見ることの違いである。
最初にScanし、教科書の中から指導すべきコンテンツを探しださなくてはならない。むろん何度も言っているように、学習指導要領との関わりは最も重要である。探しだしたら、それを順番に並べ替えたり、適不適を考えたり、学校の生徒の実態を考えたりしなくてはならない。高等学校では特にそうである。学校のレベルが全く違うからである。
マトリクスを作成することは、この一連の作業を展開するのに非常に有用である。でないと、次の指導案作成で大きな墓穴を掘ってしまうからである。経験上。
(6)コンテンツを理解して初めて授業のシステム化が可能となる
授業のシステム化についてということを学生たちには一番時間をかけて言っている。23才の青年教師であった時から周囲におられたベテラン教師たちにしごかれたのである。まるで神のような大ベテランばかりであった。毎日のように研究授業を行った。どれが普段の授業で、どれが研究授業かまったく区別がつかなかったのである。中学校にいたからできたのだと思う。今でも感謝している。
授業のシステム化については、この駄文の目的とするところではないので別の機会があったら書いてみたいし、話もしてみたい。
※このアトは十分訂正をして論文カテゴリー(非公開)にしまい込みます。タイトルも変更して。
※0:49できました。いろいろ書き込み、この原稿の2倍の分量になってしまいました。8900字。多けりゃいいと言うもんじゃないですね。読む方だってつかれっちまうです。でも、これ私の「ノート」ですから、読者を想定しておりません。申し訳無いです。