と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

嫌われる哲学者だって

2012年07月04日 23時55分40秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 ぺダンチック(pedantic)で思い出したことがある。それは、三木清という哲学者である。この方はなかなかの激しい方であったと書かれている。今日出海とか、林達夫の本で。人格的に相当いろいろあった方であったとのことである。要するに成果主義で、有名病であったきらいがあるからである。

 若くして獄死されたから、老いたらどんな仕事をされたのだろうかと思うこともある。残念である。ひたすら残念である。48歳で亡くなったから、彼の名著と言われる「人生論ノート」はなんと40代後半で書かれたことになる。そこに「死」のことも書いてあるのだ。しかも、死をそんなに恐ろしく思わないとまで書かれている。年齢のせいであろうとも書かれている。40代でそう思うのである。まったくすごい人だ。早熟な老成である。たいしたものだ。

 しかしである。人によっては、三木清をかなり毛嫌いする人がいる、戦前の教養主義が、エリート臭につながるといわれる方もいる。確かにそうかもしれない。そういうものであるかもしれない。戦後の教養主義は、実存主義との戦いに敗れたと愚生なんかは感じているのだが。だから、回帰現象が最近現れているのだと思うことにしている。ある高校の学校経営方針にもこの教養主義というのが出てくる学校もあって、しかもそれには「重厚な」とまでついている。すごいことである。コメントはしないが。(別に批判もしていないのだケド)

 大読書家であった三木清らしさは、幾多の文章にも出てくる。まったくほほえましくなるほど断定的である。衒学的(pedantic)であるのだ。これも皮肉を言っているのではない。それほど勉強をなさっていたということを書いているつもりである。自信に満ちているのである。だから教養主義の典型であると思うのだが。

 しかし、人柄が嫌いだから、思想もたいしたことがないかというとそんなことを言っていたら問題である。嫌いでも、すごい人はたくさんおられるのである。だから読むしかない。とりあえずだ。とりあえず読んでみるしかないのである。そして相性があったら、すべてを吸収させていただくというスタンスで愚生はこれまでやってきた。よかったか、悪かったかは別として。

 どうも、二者択一というのは苦手である。イエスかノーかというのは、ある意味思考停止状態であるような気がする。なぜならあまりにもシンプルだからだ。

 そりゃぁ、芸術ならシンプリシティが成立するだろう。ちなみに、英語の辞書にはこんなことが書いてある。

 I without decoration;plan 2 easy 3 consisting of only one thing or part 4 (of something non-physical )  pure;the simple truth 5 easily tricked;foolish (ロングマン ハンディ 英英辞典)

 つまりpureと、simpleなのである。

 簡潔と純粋という意味を兼ねているのが、シンプリシティであるからであって、それが日本の美でもある。それでも、イエスなのかノーなのかという迫り方はしない。

 

 とりあえずというのは、大人の対応なのである。

 そのことにやっと気がついたのが、50代前半であった。それまで、実に短気な対応ばかりしていた。まさにシンプリシティであったからである。いろいろなトラブルにも対応しなくちゃならなかったし、それが仕事といえば仕事であったからである。だからそういう世界で、どのように生きるかということは、かなり愚生にとっては重要であったのである。若いときはそういう大人が許せなかったのだが。

 どんどん脱線していくが、アリスの「それぞれの秋」という歌がある。愚生のような70年安保を、大学紛争を経験してきた人間にとって実に懐かしい歌である。今日は、それがYoutubeに出ていたので、このブログの下にリンクを貼ってあるが、実に時間だけがだらだらと流れていく歌である。歌が好きだとかそういうのではない。

 二者択一を生きていた大学紛争時代の我々60歳前後の人間たちが、今はどういう分別を持って生きているのだろうかと思うからである。郷愁であってもいい。今もなおあの時の思想を生きていらっしゃるのであろうかと思うからである。愚生は、そこから敗者となっていった方々を卒論で扱ったのである。学部のである。「転向文学」というのである。敗者の論理というのは、ここから来ているのである。だから平家物語が好きなのである。敗者の文学であるからだ。そして、最近マスコミを賑わしている政治家の方がたもまたどっちかが敗者となられる運命にある。昔からそうではないか。古典にいくらでも出てくるからである。

 古典を読むと、本当に二者択一の世界である。だからそこはかとない趣も出てくるのであろう。敗者側に立ったらである。勝った側の物語というのはあまり面白くないし。

 脱線ついでに、芭蕉というヒトも面白いのである。芭蕉は、内縁の妻に裏切られる。内縁の妻と養子が不倫をしたのである。だから、ますます俳句に磨きがかかったとのたもう学者もおられる。晩年の作風は、だからいいものであると感じるのだ。愚生は。

 

 五月雨を集めて早し最上川

 

 愚生の故郷を扱った最上川の句はいい。孤絶している。激しくである。

  ところがだ。これをこんな形で国語の授業にしてしまった方がおられる。

 

発問7 「五月雨を集めて早し最上川」 この句の感動の中心は何ですか。 どの言葉から、それが分かりますか。 ノートに書きなさい。

それぞれの子どもの味わいを書かせ、発表させる。教師の解としては「大自然への畏敬の念」が感動の中心と考える。とうと うと流れる最上川。この川の水の全ては、山々や平地に降った一滴一滴の五月雨の集合体。日本三大急流といわれる最上川を、川舟で渡ることでしか旅を続ける ことができなかった芭蕉。五月雨を集め、水かさの増した最上川を下ることは命がけだったにちがいない。その様子を「おくのほそ道」には、「水みなぎって舟 危ふし」と表現されている。芭蕉が体験し、感動した最上川の大自然のすごさがこの一句に凝縮されている。

 

 ああああああああ・・・・・。

 こんなんではないのである。壮絶な孤独があるのだ、芭蕉には。それを学校で語ることはできないのかもしれない。あまりにも寂しい心境であるからである。

 

 おお、もう3900字を超えている。止めます。

 

 また明日。明日は銚子の千葉科学大学で授業をしなければならない。楽しみである。実に楽しみ。若い方と対話ができる。授業方法論のことである。今日のこの芭蕉の話もしてみるつもりであります。教育方法論であるからである。

 

 また明日!

 

 

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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