愚生は実によく笑う。のべつまくなしである。
なんでだろうかと思う時がある。理由はない。
しかし、柔道で損をしてきたからという、ある意味まるで真実のような理由がある。今よりも18キロ重かったから、さらに、今は自称好好爺であるが、若いときは実に戦闘兵士型でありましたから。
つまり、おっかねぇカオをしていたからである。だから、どっかで自分をごまかすことで、潤滑油としていたのである。人間関係でどれだけ不幸な目にあったかわからない。そもそもネットで喧嘩するようなタイプではないし、やるなら直接会ってやろうじゃねぇかというタイプでもない。キャンキャンと逃げ回るタイプであるからである。実に粗雑なヒトであったからである。しかも握力90キロ、背筋力240キロも出ていたのだ。まるっきり熊である。教員よりも、あちらの世界にむいていたのかもしれない。(どういう世界じゃ?)実際、いろいろスカウトがあったし。ホンマに。若かったなぁと思う。屁の突っ張りをやっていたんである。本当に馬鹿である。今は、反省の日々を送っているだけであるが。 もっとも、今は少しは利口になったのかと言われても、肯定できないのが哀しい。(^0^)
自嘲というのともちょっと違う。ただの馬鹿笑いである。悲惨だったからである。なんでか。逃避である。辛い毎日を過ごしていたからである。馬鹿笑いをしていると、新聞奨学生をしていたという憂さから逃れられたからである。新聞配達なんて、やったことないヒトが殆どだろうけど、けっこう辛いでっせ。
労働者階級を解放せよとか、60前後のご同輩たちはヘルメットかぶって、竹槍つっついて、のぼり立てて、バリケード封鎖して、いろいろやっていらした。しかしである。本当の労働を経験している愚生としては、いい気なもんだと思っていただけである。プロレタリアはオレの方であって、作家の椎名麟三が言ったようなルンペン・プロレタリアートのようなもんであった。そんな状況でも笑っていることを選択していた。
笑っている間だけは、悲惨な自分からしばらく離れていられたような気がしていたからである。
自己逃避には違いない。笑い終われば、また元の木阿弥である。悲惨な現実はもとどおりである。
愚生の場合陽気だから笑っているのではないのである。
似たような笑いが、太宰治にある。
太宰は、ある種のダンディズムで笑っていたのである。深刻な作品も多いが、むしろ太宰は、滑稽小説をたくさん書いているのである。「おしゃれ童子」「服装に就いて」「畜犬談」「花吹雪」「男女同権」etc
さらに太宰は、読む者のこころを直にわしづかみにする。語り口が実に見事なのである。こんなにうまい作家はいないとまで思っているのである。書き出しもうまい。いきなり、太宰ワールドに引き込まれてしまう。
絶筆となった「グッドバイ」でもおかしさがある。されど、その奥に太宰の自死への意志が隠されていたのだと思うとたまらない。だから笑うと言っても単純ではないのである。
ところがだ。
笑いは、笑う側の優越意識というか、オレはおまえのようなあふぉ~を笑ってやるぜというもんがあるのだということを今日は書きたいのである。
ボードレールは、「笑いは、われとわが身の優越の観念から来る」と言っているのだ。転んだ人間を見て笑うのは、「この私は、転んだりはしない。この私は、真っ直ぐに歩く。この私は、足がしっかりしていて確かだ」という優越感があるから笑うというのである。随分意地の悪い言い方である。
そうか、そんなもんなのか?とボードレールに喧嘩でもふっかけたくなるが、彼の本領が「風刺」にあるとすれば、これはまたなかなかのことを言っていると理解せざるを得なくなる。大したもんであると愚生は思うのである。
劇作家のマルセル・パニョルは「笑いは勝利の歌である。それは笑い手の笑われる人に対する瞬間的な、だが忽如として発見された優越感の表現である」と書いている。
ふんふん、そうなのかねぇとやっているしかない。肯定も否定もしていないのだから。だって愚生の笑いなんか、もっともっと情け無いものでしかないからである。
坂口安吾も面白いことを言っている。滑稽についてである。ある意味、ボードレールよりも笑いについて突っ込んでいるのである。
「茶番に寄せて」という安吾の作品があるが、「笑いは不合理を母胎にする」「喜劇には風刺がなければならない」「道化は昨日は笑っていない。そうして明日は笑っていない。・・道化芝居のあいだだけは、笑いのほかには何物もない。涙もないし、揶揄もないし、凄味などというものもない。・・道化は純粋に休みの時間だ」などなど非常に優れた笑いの分析をされている。あ、思わず敬語をつかってしまった。ご容赦願いたい。同じ印度哲学系の学問をされた坂口安吾だからである。
メルロ・ポンティも言っている。笑いは「その場での超越」であると。他者がいないのである。坂口安吾もおなじことを言っているのである。現実があまりにも過酷だと、「その場での超越」を求めるしかないではないか。
だから、愚生は今でも喜劇が大好きである。志村けんなんか最高である。意味もなにもないからである。ただひたすら笑っていられるからである。
この反対に、「オレのような優れた人間が、出世しないのは周囲がオレのことを認めないからだ」とか「自分ほどの人間はもっといいマンションに住めるはずだ」とか「自分ほどの男には、絶世の美女が恋人として現れるべきである」とか言うのがいる。これは、実におもしろい人間である。自分に絶対の自信があるからだ。これは実に滑稽なおかしみがある。
自分に対してだけ、楽観主義者なのであるからである。自分自身にだけは、悲観的に考えることができないのである。愚生は反対である。自分に絶対の自信なんか持ったこともない。いつでも自分のことを、悲観的に考えてしまう。自信もないし、他人に説教たれることもなかなかできないのだ。そういうおめぇさんは、どうなんだい?ときかれてしまったら、なにも言えなくなっちまうのだ。
また予定字数をオーバーしてしまった。なんだか、言葉の神様が、どんどん先へ進ませてくださるような気がしている。
また明日!