と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

承認から入ることの大事さ

2012年07月09日 23時41分30秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

 「承認」から入るということって、とても大切であると思う。かくいうアタクシだって、読んでいただける方がおられるからこのような駄文を書いて喜んでいるのである。たまに、旧友達が反応してくださるから書く気になるのである。あ、それとこのブログはノート代わりにもなっているけど、それはそれで便利なものである。検索がきくからである。この検索というのは実に便利である。仕事をしていたときは、文書全部をpdfにしていた。検索をすると実に便利であった。もっとも、周囲にコンピュータに詳しい方がおられたので、助かったのである。

 

 これは、現在の城西国際の学生生活でもそうである。愚生が、コンピュータの前でじゅる~っ(擬態語である)として画面を見ていると「こんなじいさまが、コンピュータなんかできるわけない」と、すぐ助け船を出してくださる方がいるのだ。城西国際の若い院生である。修士の方々であろう。ふふふ、である。そうなんである。愚生はコンピュータなんて触ったこともないのだ。だから、ありがたいこと限りなし。ホントだからである。コンピュータはまったくできないからである。それに、こんなヘアスタイルである。お経でも読むなら話は別だろうが、コンピュータである。似合わないのである。もう一度いう。「コンピュータ」である。

 

 「承認」の大事さは、コンピュータでも同様である。ちょっとでも、褒められたら、人間ちゅうものはやる気になるのだ。あるいは、他人に頼りにされたら、である。

 

 それを最初から否定されたら人間はへそが曲がる。当たり前である。教師はその辺のところは十分注意している。接し方をである。そういう言動をとっているから、教師はダンダンと人間が悪くなる。本心と、使う言葉が違ってくるからである。たとえば、ある数学の問題ができないとする。最初から、こんなのもできないのか?と罵倒する教師は今じゃ博物館にもいないだろう。わかるまで根気強く教えてくださるはずである。そういうのを二重性というのである。(^0^)

 

 だから良い教師ほど、悪相になる。愚生が良い例である。イケメンは教師にはいない。最初イケメンであっても、だんだんと・・・(^0^)・・・もう止めよう。苦情がくる。自称イケメン先生から。

 

 一対一で授業をいただいていると、こんなやつに教えてもダメだろうなぁと思っておられる先生と、ダメでも承認から入ってくださる先生と、考えておられることは非常に良く理解できる。これは本当にそうである。劣等生だから余計そうである。さらに、37年ぶりに教わる立場になったから余計敏感にわかるのだ。できなくても、励ましてくださる先生だと本当にやる気になる。ありがたいものである。

 

 ただし、厳しいご指導もまた必要である。これはこれで言っていただけないと、わからない。よって、ご指導をいただいた事項には、それなりに愚生も対応をしていっている。

 

 今日は、ある学術誌の編集をせよと言ってくださる方があり、快諾した。投稿もさせていただくつもりである。愚生の駄文をである。だって、原稿の依頼も愚生がやるんだって。(^0^) あらゆるチャンスを生かすつもりである。その辺りは、海千山千である。だてにトシをとっておるつもりはない。しかし、一度活字になったらこれは恐ろしいことになる。

 

 失敗は許されないからである。コピーは絶対にいけない。あの記事を書くのにどの本をコピーしたのだ?と問われれる方がたまにいるのである。唖然とした。そりゃ~全部が全部オリジナルとは言わないし、言えない。だって、文化的資本というのは贈与だからである。これまでの読書体験から考え、文章にしているからである。しかし、まぁ、コピーだって・・・笑うしかない。

 

 引用をする場合は、愚生の場合、きちんと文献名を、さらにページ数を書いているんでごじゃりまするよ。間違いなく。

 

 その証拠に、愚生の記事は、学術書のサワリ集ではないはずである。たまに、どっかの学術書に出ている文学論にあるのだが、作品集のサワリを紹介して、あるいは作家の履歴を紹介して、それで論文にしてはいかんのである。当たり前である。それにこんな愚生のようなへたくそな文章が論文になるわけもない。これはだたのおしゃべりでしかないからである。こういう文は論文にはならないのだ。だから苦労しているのだ。(あんまり苦労しているようには見えないでしょうけど)

 

 

 今日は東京に行っていた。平家物語講座である。目的は、師匠の学ぶ方法を知りたいというその一点につきる。平家物語を読み解くその方法を、である。しかし、レベルが高い。生涯かけても修得不可能だ。されど、目標にはできる。ありがたいものである。

 

 帰りミチ、神田で橋本治先生という東大国文科卒の大先生の文庫本2冊購入してきた。うれしかった。48年のお生まれだから、愚生よりも3歳上である。なかなか古典の作品にすぐれたものがあるお方である。小説も書いておられる。第19回駒場祭で「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている」というポスターで有名になったお方である。これは60歳以上で無いと知らないであろうけれども。

 

 帰りのバスと電車の中で堪能した。実に楽しい。さすが東大。天才だ。カオもいかつい。しかも東京杉並育ちのわりには、自分のことを「俺」と言われる。愚生は「僕」という一人称が苦手なのだ。というよりは嫌いなのだ。東京シティボーイのような感じだったから嫌いなんだケド。はあい、俺は、僕じゃないのだ。(^0^)

 

 なんでか。それはね、ボクは田舎もんだから。(^0^)/ウフフ

  

 でもさぁ(あ、東京シティボーイのようなクチをきいてる)橋本せんせの国語古典についての考え方は実にインパクトがある。ふんふん、こういうふうに考えればいいんだと思うのだ。たくさんあるから今回の記事には書けない。ちょびちょび書いていくつもりである。

 

 また明日!

 

 

 

 

 

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

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高齢\(^_^)/