いつだったか忘れてしまったが、銚子のロータリークラブ(東の方です)で講話をせよと言われたときのレジメをここにアップさせていただきます。愚生の種々様々な駄文の中では、比較的に思い出に残っていますので。
たしか、5年前くらいではなかったかなぁ・・・・。自分だけ読みたいレジメですから、すっとばしていただいても結構です。長いので。
資料1
大根のように
県立銚子高校 外山日出男
1 上杉鷹山とわたくしのかかわり
この一月からNHKで、上杉の智将 直江兼続(なおえかねつぐ)の生涯を描く大河ドラマ 「天・地・人」が始まりました。
直江兼続は、米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた智将です。関が原敗戦後、上杉家の米沢移封に伴い米沢城下を整備。現在の城下町米沢の基盤を築きました。
また、文武を兼ね備えた一流の知識人で、その深い教養と見識は豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されています。
その後江戸時代中期に上杉藩は戦国時代以来の家臣団をそのまま抱えたこともあり、リストラもしなかったこと、天候不順による飢饉等から極端な貧困にあえぎました。また、いろいろな騒動があって、困り果て、後に名君と言われる鷹山を招きます。
****会長様からすでに例会でお話があったようでありますが、わたくしはその米沢の出身で、鷹山の創った学校を卒業させていただきました。
言わば直接鷹山の歴史と伝統の中で育てていただいたようなものです。
☆
鷹山の作った藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)に縁あってわたくしは青春時代を送らせていただきました。
アメリカ大統領のケネディ氏が、日本人で最も尊敬する人物であるとし、また思想家の内村鑑三も代表的日本人としてその著書であげております。
鷹山の生き方は、このような逼塞した現代の世相の中で、まさに典型的なリーダーとしてのあり方に即するものだと思っております。鷹山の当時から代々家臣を務めていた家柄の同級生もおりましたし、(**君)個人的な思い入れが強いと言えばそうなのでしょうけれども。
わたくしの茅屋にも、鷹山の米沢織で作られた肖像画を額にいれて飾っております。卒業生は全員持たされるわけであります。言わば現代で言えば創立者であり、理事長であるわけですから。毎日、慈愛に満ちた御尊顔を拝見してから学校に向かいます。できの悪い不肖の卒業生にまで慈愛を下さるわけですから、本当に感謝申し上げたい。
また、鷹山の師細井平洲先生は江戸時代の大学者で、実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的としました。
明和元年14歳の上杉治憲(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあたりました。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、貧窮を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。平洲と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も米沢で語り継がれています。
平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれています。、また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、平洲を当代最大の学者と紹介しています
特に岩波の日本思想大系にある「嚶鳴館遺草」は、人づくりの根本を説いたものとして有名であります。つまり人づくりは、菊作りのようにやってはならないと。実際はこれだけではないのですが、どうしてもビジネス書はここを中心に紹介していただく傾向があるようです。
吉田松陰が「この書は『経世済民の流れ』であって、読めば読むほど必ず力量をます」と絶賛し、西郷隆盛に至っては「政治の道は、この一書に尽きる」とまで言い切ったほどの良書であります。
特に、教育者としての平洲を凄いと思うのは、一般大衆の中にみずから入って、町人や農民にもわかる言葉で訓育したことです。
第5巻「つらつらぶみ」にこのような部分があります。
人を教えるうえでの心得としては、菊好きの人が菊を作るようにしてはならないもので、百姓の菜・大根を作るように心得なければならない。菊好きの人が菊を作るというのは、『花、形が見事に揃うよう、立派な菊の花ばかりを咲かせよう』として、多くの枝をもぎ取り、延びすぎたところは、切り揃え、その人の好みの通りに仕立て、咲かない花は、花壇の中に1本もないようにするもの。
百姓の菜・大根作りというものは、1本1本も大事にして、畑の中には、上手に育ったもの、そうでないもの、へぼなものもあったりして、大きさも大小、さまざまに不揃いなものですが、それぞれを大事に育て、良く出来たもの、そうでないものも、食用の用に立つように育てる。
この2つ「躬行の美・心の広さ」の大切さをわきまえて、世話をすることのできる人が師としての条件である。
☆
この細井平洲先生の教えがわたくしの教師としての全てであります。30数年をこのまま突っ走ってまいりました。一人ひとりを大事にする、世の中に役に立つ人間を育成したいと。
また、教師としてはわたくしは大根そのものであって、菊のような華やかな生き方をすることは許していただけませんでした。逆境の連続でありました。菊の花どころか泥だらけの「大根の花」でありました。
主流と傍系という意味では、まさに傍系の中の傍系。菊が主流。誰でも褒めるきれいな花。スター。あこがれの的。野球で言えば長嶋茂雄。太陽のような華やかな花。
ひきかえ大根の花は、土臭く、およそ見栄えがしない。まさにわたくしの風貌そのもの。しかし、おいしい。噛めば噛むほど味がある。根っこである大根そのものも実においしい。サンマにちょっと添えたら天下一品。よく楽天の野村克也監督が月見草とご自分を評されますが、大根の花は月見草にも遠く及ばない。
積雪4メートルの雪吹きすさぶ米沢の近在地で、先祖代々貧窮を極めた上杉家の足軽郎党として、非常に貧しい家に生まれました。おかげで、苦学の連続でありました。大学も新聞配達をして卒業させていただきました。朝、3時30分に起きて、東京下町の団地を一生懸命こころを込めて配達させていただきました。夕刊も当然であります。集金もありました。それでも4メートルの雪国米沢から見れば東京が天国に見えました。暖かくて、暖かくて。
愛だの恋だの、いっぱしの浮かれた青年がたくさんおりましたが、無縁のことでありました。おかげで少年時代は眉目秀麗であったわたくしの顔は変形してしまいました。おまけに柔道部に所属し、応援団にも入団し、それこそいっぱしの硬派を気取っておりました。絞め技を喰らったり、顔から畳に投げつけられたり、ますます顔が変形していきました。いつもいつも人より劣っている自分というものを意識せざるを得ませんでした。
ですから、今になって思えば、劣等感が自己を育てたと思うのであります。貧しいことが、あるいは眉目秀麗でなかったことが、自己に沈潜し、本の虫となることの出来た最大の原因であったと思うのです。米沢という土地に生まれ育ち、貧に耐える、冷遇に耐える、蔑視に耐えるということを心底学ばせていただきました。
ありがたい限りであります。
思えば米沢藩も米沢市も貧しいところでありました。米沢市は昭和51年から4年間くらいだったでしょうか、財政再建団体になってしまったくらいです。
☆
「伝国の辞」は、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得であります。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前
たったこれだけでありますが、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承されました。
つまりリーダーとしての根本概念であります。
一貫して流れるのは、「わたくし」から離れよ!ということです。
誰しも、自分のことしか考えず、人のことはほったらかし、全部自分の幸せや立身出世、金儲けのことだけ。自分さえよければいい。自分の家族さえ幸せならばいい。他人のことは関係ない。
そういうことを戒めておるのです。
県立銚子の校長室に、鷹山の「伝国の辞」の額を掲げてあります。わたくしにとってはこのお二人は一心同体なのです。究極の箴言です。
2 学校経営とのかかわり
県立銚子高校は、皆様もご存知のとおり、平成19年から男女共学となりました。
旧制女学校以来の伝統を誇り、もうすぐ100周年になります。
このような学校を積極的に広報し、地域の皆様にご理解をいただき、よりよい学校にしたいと改善に改善を図ってまいりました。
カリキュラムも大幅に改善し、進学を核とした普通高校として飛躍を期してまいりました。また、文武一貫というポリシーの下、勉強も部活動もできるバランスのとれた学校を目指してまいりました。新校歌を作り、共学校としてのイメージをアップしてまいりました。
冷房装置も保護者の方々の絶大なるご支援で導入させていただきました。
自習室の設置、夏休みでの夏期講習、朝補習等にも積極的に取り組んでおります。
これもひとえに前校長の**先生の創業の大功績であります。十八史略に創業と守成と出ておりますが、大変な苦労があったと感謝しております。守成のわたくしとしては、その功績を汚さぬように、さらに発展させていかなければならないと覚悟を決めて日々の学校経営をしております。
条件整備という観点からは上記のようなことであります。
しかし、最終的にはやはり「人」であります。
人間が人間を教育しているのでありますから、一種の精神性が無ければならないと思うわけであります。
つまり哲学であります。
教育哲学と言ってもいいのですが、もっと根本的なものがそこにはなければならないと考えるのです。
それが、公私混同とか言う意味で使われる「おほやけ」と「わたくし」の区別であります。区別などという生半可な言葉ではない、むしろ「峻別」とでもいうべきものを持っていなくてはならないと考えるわけです。
「伝国の辞」の精神であります。
それがあってこそ人を育てることが可能になると思います。
つまらぬことですが、生徒が快適に勉強している間、わたくしは校長室でじっと暑さに耐え、明かりも手元の蛍光灯スタンドのみ。爪に火を点すごとく、ちょっとでも生徒に還元できればと思って実行しています。
また、デジタルカメラを持って、毎日授業を見て回っております。授業こそ学校の命であります。授業こそ学校の使命であります。生徒の知りたいという願いに応えることこそが、学校の大命題であります。
そのために質の高い授業を保証していかなくてはなりません。わかる授業はもちろんのこと、徹底的に教えこむ授業でもありたい、演習に取り組み実力を高める授業でありたいものだと思っております。
まだまだ現実的には困難な部分がたくさんあって、これからの大いなる課題でありますが。
細井平洲先生の「嚶鳴館遺草」の精神がそこにはあるわけであります。
3 最後に
長々と駄弁を弄してまいりました。
銚子にある高校として、銚子の皆様方に支えられている学校として、これからも県銚は努力してまいります。校長は大根ですが、生徒たちは大輪の花となる可能性を秘めております。
どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。