遺伝的要因を中心とした知能、利他行動、言語獲得の個人差について非常に教育実践とからめて興味があった。こんなことを37年もやったのだが、どうも努力とか根性論ばかりではしょうもないのではないかと教員生活晩年には考えていた。
契機となったのは、教育に対するpedanticな考えや発言する方々の存在であった。どういう理由での論理展開なのであろうと感じていたのである。以下の思いつきメモは、そういうことを考えていたときの愚生の、まったくオロカなるメモである。
知能の個人差は、どういう点で派生するのかということで考えると、血縁度と知能に相関関係があるという一つの仮説が成り立つのではないか。血縁度は、同じ祖先から受け継ぐ特定の遺伝子を共有する確率である。血縁関係と知能得点との相関関係については特に重要である。
父親または母親の遺伝子が子に伝わる確率は0.5で、父親または母親と子どもの血縁度は0.5になる。
血縁度と知能の相関では、異母きょうだいよりもきょうだい、きょうだいよりも二卵性双生児、二卵性双生児よりも一卵性双生児と知能の個人差の多くの部分が遺伝要因によって相関関係が高くなる。知能の個人差は、遺伝要因によって説明されることの事例でもある。
言うまでも無いことだが、双生児のデータの最も興味深い点は、双生児の形質の遺伝の影響の有無を確認できるということである。(これって、まだ信用できないなぁって思っているんだけど・・いろいろな論文に書いてありましたが。いちおうそうかもしれないという仮説で書いています)
一卵性双生児の類似性が、二卵性の双生児の類似性を上回っている。家族的な環境要因の相違を年齢と共に双生児であっても、経験していくのであるが、それでも一卵性双生児の場合、類似性に富む。二卵性双生児の2倍近い相関係数である。遺伝的影響の大きさが示されている。
利他行動とは、「自分の繁殖や生存を犠牲にして他の個体を助ける」ことである。
遺伝子から見れば、個体が繁殖しなくても他の個体にある遺伝子が複製されれば、同じ意味を持つはずであるが、鳥類やほ乳類などでは、大人になっても親元にとどまり、ヒナの世話をする種がある。捕食者が多く存在したり、制限付きの縄張りを要因とする場合、親の遺伝子を共有する兄弟姉妹等の成長補助者となる進化の例がある。血縁淘汰説といわれる。
一見すると、利他行動は個体にとって不利益な行動なのだが、遺伝や進化面から見ると自己と同種の個体が増えることが可能となり、遺伝子が増えやすくなるということになる。生存と繁殖にとってまことに有利なことになる。自然淘汰されずに種の保存ができることになる。遺伝子によって淘汰されるということである。
父親は、養子よりも、実子に学費を快く出す。昆虫のワーカー(働きアリや働きバチ)による子の養育、ヘルパー行動が典型的なものであって本質をついている。また、グルーミングのように個体間で利他的行動がやりとりされる場合は互恵的利他行動と呼ばれる。このことは、遺伝要因による生得的な行動であって、新生児に対する母親の育児行動と同様のものであろうと考える。
経験から学んだことを記憶し、行動する時に記憶情報から最適な解を探し出していることでは、初めて遭遇した事態や瞬時の判断が必要とされる場面では役に立たない。死ぬか生きるかというような場面では、生得的に組み込まれた道具を使いこなしていかないとならない。
新生児や幼児が、特に母親からの話しかけや、動きや表情に反応し、手足を動かすことがある。このことは、母親から養育行動を引き出し、自分自身の生存の可能性を高めるためにとっているものと考えられる。したがって生得的な基礎がここにも存在するということができる。
言語獲得のプロセスは、言語環境によるものではなく、同じこころのモジュールによって生み出されるものである。
同じこころのモジュールとは、 進化心理学の中心的な仮説の一つである。人のこころを、一般的な情報処理メカニズムとして見るのではなく、繰り返し直面した特定の問題に対応するために形成された領域に固有の情報処理メカニズムの集合としてみるものである。
初めて遭遇する事態にどう対応するかということでは、遺伝の影響が大きい。
新生児は、音一般に対して感受性が高いわけではない。しかしながら言語音声の違いについては、新生児は大人と同じように敏感に区別する。
生後2ヶ月頃から、子音と母音を組み合わせた喃語を区別する。これは生得的な遺伝子の影響下にある。聾児も喃語のような音声を発するし、養育者による使用言語の違いが見られない。
特定の意味を言語が持つというときはそれを「初語」と言う。動詞や、形容詞よりも名詞が選ばれる。
この時期の子どもたちは、獲得する言葉について、獲得するルールを生得的に持ち、新しい言葉の意味を推論するからである。
ワンワンをすべての動物に適用する等、意味を広くとりすぎる場合を、過拡張と言う。意味を狭くする場合を過限定と呼ぶ。自分の乗用車だけをブーブーと言う場合である。
クラークの研究によると、過拡張の例がある。拡張の基準は、「運動」。語彙項目はbird。最初の指示物はススメ。拡張の生起順序は、ウシ>イヌ>ネコ>すべての動物というようになる。
子どもは、このように言葉を獲得していく。さらに、文法事項を獲得していく過程においても、言葉のルール、つまり文法獲得性の生得性がある。大人が話す言葉が必ずしも正確でなく、むしろ文法的な誤りを多く含むものであること、大人は子どもの話の内容を訂正することはあっても、文法的な誤りを訂正することは少ないことが証拠である。
助詞の使用にも過度の規則化が見られる。「アカイリンゴ」を「アカイノリンゴ」と誤った発話をすることがその例である。これは子どもが、自分のルールで発話をしていることを示す。発達的に最初に現れるのは、意味方略と言われるルールである。文に含まれている語の相互の意味関係から文を理解するもので、サル・食べる・リンゴという語があった場合、それがどんな語順であっても、サルがリンゴを食べると理解する。
次に語順方略が出現する。文の最初に現れる語が動作主で、次に出て来る名詞が行為の対象だと理解する。
育児語の場合も、どの言語の使い手にも普遍的に現れるものであるが、養育者である保護者が育児語を話すのは、母親学級とかの教育を受けたからではない。育児語は、ヒトに生得的に備わった養育行動のモジュールなのである。
以上、知能と利他行動と言語獲得について述べてきたが、生まれつき持っているのではないかというヒトという種の傾向性が、遺伝的影響の下にあることが理解できた。「遺伝だったら教育は無駄なのか」という安藤寿康の指摘から抜け出て、これからの課題としたい。
以上。
※結局何を言いたいのかというと、遺伝的な要素というのが能力というものを考える場合もしかしたら重要であるのかもしれないということなんです。後天的な育成法とか、環境に依存するということもむろん考えてきましたが、なんだかそうでもないのではないかという仮説を立てるといちいち腑に落ちるのでありました。もっとも、こんなことを言うと、愚生なんかは勉強したってしょうがねぇじゃねぇかということになります。(^0^)/ウフフ
参考文献
安藤寿康著 『心はどのように遺伝するか』 2001年 講談社 pp.182