1 はじめに
アジャセ物語を通して、スピリチュアリティがどのようにあらわれ、それらが本願とどう関係してくるかについて以下に考察したい。
2 スピリチュアリティについて
(1) スピリチュアリティとは何か。
旧約聖書には「神の息吹」として書かれている。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた」(1)
神の命の息吹は、ヘブライ語で「ルアッハ」といい、ラテン語に訳すとspiritusとなる。これが英語になると、spiritとなり、そしてその普通名詞がspiritualityとなる。
つまりこのことは、人間を人間であらしめている根拠である。神によって人間は造られたからである。
(2)浄土真宗におけるスピリチュアリティ
スピリチュアリティは、「超越性との関わり(体験)」と、「人間存在の根拠」がその本質である。また、阿弥陀(無量寿)が、法蔵菩薩となって「いのち」(宗教的生命)となっているということを考えることによって、本願とスピリチュアリティの関係を明らかにする筋道である。
阿弥陀から法蔵菩薩へについて親鸞は、「他力と言うは、如来の本願力なり」と言っている。(2)
これは阿弥陀仏であった法蔵菩薩への信頼の証としての言葉である。
名号と信心については、浄土真宗においては南無阿弥陀仏の名号は中核である。スピリチュアリティとの関わりという点においては、自分にはたらく法に気づかず、自己に執着し、右往左往する悪循環の存在としての人間が、それでもなお真に生きたいとか、深奥において何かを求めざるを得ない根本欲求を持っていることがまさに本願への道である。生きることの救いにつながるからである。
超越性とのかかわりでは、日常的には「南無阿弥陀仏」である。超越性を持つ名号が顕された本願を、ひたすら頼むのである。阿弥陀が法蔵となって、本願を建て成就されてこそ阿弥陀となる。この循環性こそが人間存在の基盤となる。つまり、「関係性」の中に生きているのであって、本願力がはたらく自他との関係性の中でスピリチュアリティ(いのちの輝き、叫び)を感じるのである。
真宗の救済性は、まさにこの点において発揮されるのであって、重要な特色でもある。
3 アジャセ物語との関連
(1)悪人の救い
親鸞は、愚昧なる人間の救いについて、悪人正機と表現した。しかし、悪人正機の思想は、決して悪を犯すことによって、あるいは自他に苦しみをもたらすことを肯定しているのではない。むしろ、自分の悪に気づき、悩み苦しむということを仏がまるごと受け止めてくれる、あるいは見捨てないということを示した「慈悲」の心の思想である。
アジャセ王物語のことを親鸞は『教行信証』信巻で引用し、阿弥陀仏の本願によって、悪人であっても救われる道を明らかにした。救い難い三種の病について説明をしている。以下の三種がある。
①諸法 仏教の悪口を言うもの
②五逆 殺父・殺母・殺阿・出仏身血・破和合僧
③一闡提 善の心を断ってしまったもの
アジャセは、これらの三つの重い病にかかってしまった象徴として表現されている。この病の治療には名医と良薬が必要とされる。名医は良き友、仏、菩薩であり、良薬は釈尊の縁起思想に基本を置く人間理解である。
(2)アジャセの罪は父の殺害に始まり、母親のイダイケを牢獄に閉じ込め、自らは王位についた。アジャセは、この間の自分の行った罪行に対して深く自省することとなったが、六人の大臣のアジャセに罪は無いとする助言でもなかなか悩みから脱皮することができなかった。しかし、やがて釈尊の教えをよりどころとしている医師のギバに慚愧の尊さを教わることとなる。やがてアジャセはブッダとの出会いを経験することとなる。ブッダは「アジャセのために涅槃に入らない」という姿勢を示すことになる。つまり、「苦しむあなたが救われるまでは、私も一緒だ」ということである。苦しむ者を善良なる者よと呼びかけ、共にいてくださるという姿勢である。
ブッダの月愛三昧が終わってからブッダは大いなる光を放ち、アジャセのできもものも、罪多きアジャセにも心をかけてくださっていたのである。罪業の深い凡夫を救うために仏は存在するということをブッダは示したのである。
月愛三昧は、奇蹟によって救ったという物語ではない。
無条件の受容を示しているのである。ただ黙ってそばにいるだけで苦しむ人には救いになるというのである。とがめることの無い無条件の受容である。それが月愛三昧の真意である。
次に月愛三昧は、静かに瞑想することの重要性も示している。説明のいらない共感は、苦しむ人の求めているものでもある。禅や念仏のような静かな瞑想を通じて、自己の真実の姿に気がつくのである。阿弥陀仏に抱かれて自己の愚かさに気がつくのである。
(3)ブッダの説法
罪を感じている自分をまるごと受けれてくれる存在があってはじめて罪を罪として受容できるのである。救いの成就もまたよき師とよき友との出遭いによってもたらされるのである。
ブッダはさとりの視点から、罪悪に対する解決の方法を説法で教える。
未来を決めつけることのないように、あるいは罪はさまざまな因と縁によって生まれてくることを説く。
「もしなんち”父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし」
この言葉は、まったくの慈悲の言葉である。罪を犯したものに対する罪をも引き受けるという宣言でもある。人間の悲しみを自分のこととして引き受けるという意味でもある。最後まで過ちを犯した人間のそばに寄り添い、そのつらさを分かち合うことが、大切であると言っているのである。
縁起という広い視野を持たせることをブッダは言っている。固定的になっているわけでもない罪業にとらわれ、真実とは逆の見方に執着してはならないと説くのである。
アジャセは以上のようなことによって回心する。
大いなるスピリチュアリティというべきであろう。
2 さいごに
釈尊の悪人に対する救いとは、よりそうことであり、また真実の意味での慚愧である。愚たる存在としての自己に本当に気づいたとき、そばに阿弥陀がいてくださるのである。名号とはそういうものではないのだろうか。ちなみに、遠藤周作においても、イエスの存在は、「寄り添う」ものであり、そうしたことで共通するということが、現在の愚生には不思議でならないことでもある。それは何故かというと、イエスにはかなわないという思いも確かに存在するからである。
※わたくしは仏教徒ではないからですが。。。。
参考文献
(1)日本聖書協会 『口語訳聖書』 p.2
(2)『真宗聖教全書二 宗祖部』 大八木興文堂 1941 p.35