1 非行問題について
小学校高学年から、高校生くらいまでの思春期の発達段階で起こるのが、「非行問題」である。思春期の青少年が反社会的、暴力的な行為をしたり、教師や保護者の指導にそれが適切な場合であっても、暴力などで反抗してくる場合を指すことが多い。
さらに、明らかな犯罪を犯す場合もある。
また、外見からすでに明らかに非行を犯すような少年少女もいるが、まったく外見上問題の無さそうな少年少女にも、「窃盗、いじめ、薬物中毒、暴行、暴走族、少女売春」等々の非行行為に走ってしまうものもいる。
しかしながら、最近の青少年にはいかにも「不良、ヤンキー、暴走族」らしいのは外見上減っているとマスコミ等では言われる。
事実、これまでの高校教員の体験からも、校内での喫煙、飲酒、暴行等々の非行問題は少なくなっている。その代わりに、第二次反抗期を経ないで保護者の要求に過剰に反応し、いわゆるよい子ちゃんの群が見られるようになっている。
2 文化的差異としてのしつけ
非行に走る青少年は、個人的な要素として家族的な環境や、保護者もヤンキーであったというような理由、あるいは代々やくざであったというような要素も考えられるであろう。事実、これまでの高等学校の教師経験からしても、親の子は親と似た生き方をする。1980年代にいわゆる荒れた学校の時代に中心となって荒れた生徒であった子どもたちが後に親となった。そういう保護者の子もまた荒れている。逆にこの時代に、荒れた学校の中で被害者になっていた生徒がそのまま大人になって、保護者になった場合は、学校に対する信頼度が薄い。モンスターペアレントと呼ばれる保護者に見られる学校への極端な批判の原因であろう。
そうした学校生活における過ごし方は、非行をする生徒にとっても、逆に非行とはまったく無関係な生徒にとっても対人的葛藤解決の方略において異なっているのであろう。
対教師暴力においても、日米ではアメリカの学生の方が実際の暴力行為を行った生徒に厳しい批判をすると生徒指導の研修会で聞いたことがある。日本の生徒は、逆に加害者生徒をかばう。
傾向として言えることは、日本の生徒は我関せずの無関心派が多い。あるいは、保護者の体験に根ざすところのしつけ観の違いがある。生徒の出身中学校によって、しつけが全く違っており、言葉使いや道徳的な価値判断も異なることを実感している。農村部と、漁村部では保護者の教育観、価値観がまるで違っている。あるいはサラリーマンが多く、学歴も比較的高い地域では、また異なる傾向性を有する。どれが良いとか、悪いとか言っているのではない。そもそも、状況に上下関係は無い筈である。
このことは、個人としての行動が、生まれつきの遺伝的要素としてかなりの影響を持っているという指摘をしたら身も蓋もないかもしれない。
かなりの程度そのことを肯定せざるを得ないが、地域の持つ文化的な影響もあるのではないか。
とりわけ保護者の子育て感覚の違いを実感する。よい子とは何かというそもそもの概念規定が違っているのである。農村部では、長男が後を継ぐとされているし、農家としての経営規模も大きい地域に住んでいるので、都会の事情をいろいろと聞くがある意味信じられない。さらに、特徴的なのが、漁村部である。海岸の沿岸でこれもまた代々漁業で生計を立ててきたのであるが、話し言葉まで違っている。ある程度荒っぽくても元気の良い子が、いい子であって、いい子アイデンテティがまるで違うのである。地域的には、山と海がせめぎあっている土地であるから、それぞれの職業によって文化的差異が生まれていると考えざるを得ない。
3 集団力学、文化的感染
犯罪心理学では、非行の原因を心理的・情緒的要素だけに求めるのではなく、「集団力学、文化的感染」に求めている。
所属する集団や学校集団、仲間集団の内部に「非行や犯罪、暴行を肯定するような規範性や価値観」があって、その非行文化を学習することによって、非行が広がっていくとされる。
非常に体験上納得のできる指摘である。もっともそのような地域にしか住んでいなかったということでもあるが。
4 縛りから抜け出す
固定観念が、我々を縛っている。
それが、どのような子どもが「よい子」であるかというアイデンティティの差異を産んでいる。地域的な縛りもあるだろうし、文化的な縛りもあるだろう。それをいっしょくたに遺伝であるという乱暴なことを言っているのではない。しかしながら、その可能性もあるのかもしれないということは、一応の仮説として考えておくべきことではないのかと思うからである。
5 おわりに
このことは我々の人間観にも影響をしている。
どのような政治家が「よい子」であるかとか、どのような教師が「よい子」であるかとか、どのような管理職が「よい子」であるかとかという前提になるからである。そして、その各々の固定観念でもって他者を批判していくからである。
巨大マスコミの論調も、書いている記者や論者の「よい子アイデンティティ」によって書かれていると解釈すると、実に納得いく場合がある。また、自称エリートを見ていると何を以て自己の存立基盤としているのかということが、この手法を使うとわかるのである。だから、そういう方々を傷つけないで、上手に組織の一員として働いていただく場合にも「よい子アイデンティティ」は使えるのである。
私のような一般ピープルは、いわゆる知識人や、自称エリートたちがなにを基盤としてものを書いたり、主張しているのかということを分析すべきであって、決して「鵜呑み」にしてはならないということを言いたいのである。これからも、これまでもである。
参考文献
G.G.ベア他著 塩見邦雄監訳 『こどものしつけと自律』 2005 風間書房 (PP.1_28)
※随分昔に書かせていただいた読書感想文です。これも前職時代のカテゴリーに入れてありませんでしたので今日アップしました。まだまだたくさんありますが・・(^0^)
小学校高学年から、高校生くらいまでの思春期の発達段階で起こるのが、「非行問題」である。思春期の青少年が反社会的、暴力的な行為をしたり、教師や保護者の指導にそれが適切な場合であっても、暴力などで反抗してくる場合を指すことが多い。
さらに、明らかな犯罪を犯す場合もある。
また、外見からすでに明らかに非行を犯すような少年少女もいるが、まったく外見上問題の無さそうな少年少女にも、「窃盗、いじめ、薬物中毒、暴行、暴走族、少女売春」等々の非行行為に走ってしまうものもいる。
しかしながら、最近の青少年にはいかにも「不良、ヤンキー、暴走族」らしいのは外見上減っているとマスコミ等では言われる。
事実、これまでの高校教員の体験からも、校内での喫煙、飲酒、暴行等々の非行問題は少なくなっている。その代わりに、第二次反抗期を経ないで保護者の要求に過剰に反応し、いわゆるよい子ちゃんの群が見られるようになっている。
2 文化的差異としてのしつけ
非行に走る青少年は、個人的な要素として家族的な環境や、保護者もヤンキーであったというような理由、あるいは代々やくざであったというような要素も考えられるであろう。事実、これまでの高等学校の教師経験からしても、親の子は親と似た生き方をする。1980年代にいわゆる荒れた学校の時代に中心となって荒れた生徒であった子どもたちが後に親となった。そういう保護者の子もまた荒れている。逆にこの時代に、荒れた学校の中で被害者になっていた生徒がそのまま大人になって、保護者になった場合は、学校に対する信頼度が薄い。モンスターペアレントと呼ばれる保護者に見られる学校への極端な批判の原因であろう。
そうした学校生活における過ごし方は、非行をする生徒にとっても、逆に非行とはまったく無関係な生徒にとっても対人的葛藤解決の方略において異なっているのであろう。
対教師暴力においても、日米ではアメリカの学生の方が実際の暴力行為を行った生徒に厳しい批判をすると生徒指導の研修会で聞いたことがある。日本の生徒は、逆に加害者生徒をかばう。
傾向として言えることは、日本の生徒は我関せずの無関心派が多い。あるいは、保護者の体験に根ざすところのしつけ観の違いがある。生徒の出身中学校によって、しつけが全く違っており、言葉使いや道徳的な価値判断も異なることを実感している。農村部と、漁村部では保護者の教育観、価値観がまるで違っている。あるいはサラリーマンが多く、学歴も比較的高い地域では、また異なる傾向性を有する。どれが良いとか、悪いとか言っているのではない。そもそも、状況に上下関係は無い筈である。
このことは、個人としての行動が、生まれつきの遺伝的要素としてかなりの影響を持っているという指摘をしたら身も蓋もないかもしれない。
かなりの程度そのことを肯定せざるを得ないが、地域の持つ文化的な影響もあるのではないか。
とりわけ保護者の子育て感覚の違いを実感する。よい子とは何かというそもそもの概念規定が違っているのである。農村部では、長男が後を継ぐとされているし、農家としての経営規模も大きい地域に住んでいるので、都会の事情をいろいろと聞くがある意味信じられない。さらに、特徴的なのが、漁村部である。海岸の沿岸でこれもまた代々漁業で生計を立ててきたのであるが、話し言葉まで違っている。ある程度荒っぽくても元気の良い子が、いい子であって、いい子アイデンテティがまるで違うのである。地域的には、山と海がせめぎあっている土地であるから、それぞれの職業によって文化的差異が生まれていると考えざるを得ない。
3 集団力学、文化的感染
犯罪心理学では、非行の原因を心理的・情緒的要素だけに求めるのではなく、「集団力学、文化的感染」に求めている。
所属する集団や学校集団、仲間集団の内部に「非行や犯罪、暴行を肯定するような規範性や価値観」があって、その非行文化を学習することによって、非行が広がっていくとされる。
非常に体験上納得のできる指摘である。もっともそのような地域にしか住んでいなかったということでもあるが。
4 縛りから抜け出す
固定観念が、我々を縛っている。
それが、どのような子どもが「よい子」であるかというアイデンティティの差異を産んでいる。地域的な縛りもあるだろうし、文化的な縛りもあるだろう。それをいっしょくたに遺伝であるという乱暴なことを言っているのではない。しかしながら、その可能性もあるのかもしれないということは、一応の仮説として考えておくべきことではないのかと思うからである。
5 おわりに
このことは我々の人間観にも影響をしている。
どのような政治家が「よい子」であるかとか、どのような教師が「よい子」であるかとか、どのような管理職が「よい子」であるかとかという前提になるからである。そして、その各々の固定観念でもって他者を批判していくからである。
巨大マスコミの論調も、書いている記者や論者の「よい子アイデンティティ」によって書かれていると解釈すると、実に納得いく場合がある。また、自称エリートを見ていると何を以て自己の存立基盤としているのかということが、この手法を使うとわかるのである。だから、そういう方々を傷つけないで、上手に組織の一員として働いていただく場合にも「よい子アイデンティティ」は使えるのである。
私のような一般ピープルは、いわゆる知識人や、自称エリートたちがなにを基盤としてものを書いたり、主張しているのかということを分析すべきであって、決して「鵜呑み」にしてはならないということを言いたいのである。これからも、これまでもである。
参考文献
G.G.ベア他著 塩見邦雄監訳 『こどものしつけと自律』 2005 風間書房 (PP.1_28)
※随分昔に書かせていただいた読書感想文です。これも前職時代のカテゴリーに入れてありませんでしたので今日アップしました。まだまだたくさんありますが・・(^0^)