全国各地に残されている鬼来迎のような伝承は、誰が発想し、誰が伝搬したのであろうかということが非常に気になる。本来、文化的スクリプトとしては、関西文化圏がこのような伝承の中心的存在であっただろうと思うからである。どうしても文化は、東進したと思うしかないではないか。政治的な権力と文化的スクリプトの方向性は一致していると考えないとすべてがおかしくなる。
私は、その伝承に関わった人々を隷属的な地位に置かれた、舞楽・猿楽などの芸能奉仕の呪術的職掌を受け持っていたある種の人々がいたのではないかと思うのである。奈良の興福寺における能楽源流をさぐっていくと、寺社勢力と土地の人々との関係が非常に密接である。
そこで思い浮かぶのが、成田山新勝寺の本尊が流れ着いたという地がこの横芝光町の近在海岸にあるのである。この伝説は、海人の存在を印象づける。
成田山の御本尊不動明王は、天慶二年(西暦九三九年)、平将門の乱を鎮めるため、寛朝大僧正が奉時して、難波の津から東国を目指して出帆した。遙かな海路を乗り切り、横芝光町尾垂総領一本杉海岸に上陸した。これより寛朝大僧正は公津ヶ原(成田市)に護摩壇を築き、二十一日のの護摩祈祷を修し、満願の日に乱が平定されたと「成田山大縁起」には書かれている。
また、当地には成田山開基一〇六〇年記念事業として浪切不動像が建立されている。昭和三五年には、記念碑が建立されている。毎年、五月二七日と一二月二七日には、午前一一時頃からこの地で成田山御本尊不動明王上陸聖地報恩大法会が開催されている。
ここに海人が存在していると想定しなければ、いかな空海が敬刻開眼された不動明王といえども、単身難波からの海路をわたってくることは不可能である。当然、それは運搬船の存在があってしかるべきであろう。
海人の存在は、もう少し東進すると銚子市がある。そこまでが、関西からの海人たちのテリトリーであったのではないか。千葉県銚子市に船木町があり(小船木町もある)、古代海人系の古代豪族の船木氏が住んでいたとされる。中世は、地域の領主として、小船木町一丁目の「東光寺」を居館としており、現在も県道七一号線沿いに土塁の形跡が残る。
東光寺は、紀州の地から住職を迎えている。「根来寺」である。銚子と隣の旭市には、真言宗智山派の寺院が多く、根来寺を再興した智山派であるところからも、紀州和歌山の影響がここにもみられる。
よく言われることであるが、江戸時代にも銚子と紀州の関係はある。醤油の醸造で、紀州から漁民が一〇〇〇家族以上も銚子に移住して港町を構築した。外川漁港の繁栄もここにある。
船木氏は、多(オオ)氏の流れであると言われている。多(太)安万侶の祖は、太田命である。祖神は猿田彦大神である。しかも、銚子市には小船木から約二キロの地に猿田神社がある。また、銚子市森戸町には「猿田彦大神上陸の地」がある。同族である猿田氏と船木氏は相前後してこの地に上陸したものであって、その伝承がほぼ同じような形態で残されていることに注目をしたい。また、太安万侶についての研究では作家の松本清張の文章が興味深く迫るものがある。潮来に大生神社というのがあって、鹿島神宮から舟に乗ってシカが渡ってくるという行事があったそうである。ここから鹿島神宮と春日大社との関連を論じたものであった。学術的な価値はまだ愚生には判断ができないが、非常に楽しい研究であると思う。
船木氏が、造船用材を求めて利根川河口をさかのぼったのは、また造船用材として用途に応えられるだけの森林も存在していたことを物語るものである。
つまり、海人は銚子のみならず、広く九十九里海岸全般に移住してきていたのではないかというのが、愚生の考えているところである。
鎌倉時代には、鎌倉から源頼朝が、千葉県に来ている。白幡の海岸に頼朝が戦いに敗れて逃れてきたという伝承のある土地もある。これもまた山武郡白幡にあって、鬼来迎の地に近接している。寛和元年(九八五年)大和の国、僧妙香がこの土地に来訪。阿弥陀如来像を奉納して如来寺(現在の般若寺)を創建して、山城の国石清水八幡宮より御神影を勧請し、寺の隣地に鎮守神として建立したのが始まりであるとする。
治承四年(一一八〇年)石橋山の戦いに敗れた頼朝は、房総に逃れ、その後再度鎌倉を目指した時に、参拝をした。その後、頼朝は建久三年(一一九二年)に将兵三〇〇騎とともにお礼参りに訪れている。
谷川健一著 「日本の神々 神社と聖地 第十一巻」 白水社
以上のようなことからも、千葉県の山武郡という土地と関西文化圏の交流というものは、可能性として考えられ得るのではあるまいか。そして、それらの文化的交流のもとに、横芝光町における文化的なスクリプトというものが設定できるのではないかと思うのである。
ちなみに、文化的スクリプトとは、認知心理学でいう用語である。「特定の文化に属する人々がある程度共通して持っているスクリプト」である。また、スクリプトとは「時間的・因果的構造を持つ体系的な知識のまとまり」を意味している。
関西では、朝鮮からの渡来人の存在がある。秦氏の存在である。このことについてもう少し考えることによって、海人達の行動というものが読み取れるのであるが、今回は話題にはしない。
再度、鬼来迎である。
広済寺という寺で行われるのであるが、その前に施餓鬼を行っている。愚生はそれをじっくり拝見させていただいていた。まさに供養である。卒塔婆を建て、この一年間に亡くなった方々を供養しているわけである。宗派は真言宗である。高野山である。先日まで行っていたところである。
そして、鬼来迎は、本堂の右隣にある特設のステージで行われるのである。しかし、そこには以前お堂があったということであった。見学していたら、地元の古老にそう聞いたのである。
そこで、はたと思ったことがあった。
それは、「円満井座」の猿楽で語り伝えられていた伝承である。禅竹の「明宿集」にあるごとく、「仏ザイセニヲキテワ ギオンシヤウジヤノクヤウノトキ テンマノサワリヲシヅメントテ ウシロドニテ アナン・シャリホツトウ コノカグラヲマフ。コレマタ イマノダルガクナリ」と、書かれているのである。「ウシロト」の存在である。この伝承が即座に思い浮かんだのである。
ウシロトは、金井清光「花伝書新解」では「後方の室」、西尾実「能楽論集」では「仏殿の須弥壇の後方の戸」と書かれている。
鬼来迎の感想はこの程度にする。
これから後は、最も書きたいことがあって、それは非公開のカテゴリーに入れることにする。
ともかく、いろいろな意味で、大変に勉強になった。関係各位に感謝申し上げます。