奥羽山脈の中腹を眺めながら少年時代を送ったせいで、森林と湖沼のある自然と人間と目に見えない精霊のようなものの関連性に考えを致すことがあった。特に森の精霊のようなものに、不気味さを感じていた。特にどうということはないのだが、なんだか森にはワクワクする。森の中の湖沼にも、不思議な魅力があった。つまらないことではあるが、そういうことを感じる能力が愚生にはあったような気がする。恥ずかしながら。パスカルの言う「隠れたる神」というようなものを自然であると考えてきた。そうするのが、東北育ちの愚生の特性なのかもしれない。
育ったところは盆地であり温泉地でもある。さらに、実家のすぐそばには「館の山」という小高い丘がある。盆地の中にぽっかと浮かんでいるような不思議な丘である。そこには神社があった。おそらくは地元の神を祭ったものであろうと思っている。今でもである。だいたい、名前からしておそらくは土地の土豪の住む地であったのだろう。石段がちょっと続いていて、参詣の道がある。麓の道の左右に昔風の日本家屋が建っている。もし土豪の住む地であったなら、これらの家屋はその土豪の家来であったのかなぁと思う。思うだけで、確かめてはいないが。そんなことを思うと楽しいものである。
館の山の麓には、愚生の父方の祖母がいて、伯母がいて、多くの従兄弟たちと共に育った。愚生の実母が小学校の先生で、朝早く学校に出かけ、夜遅くまで家に帰ってこなかったし、要するに預けられていたのである。父母と住んでいた家は近くにあったからである。だからと言って母のことを悪く言うつもりは全くない。それはそれで立派な生き方であったと思うからである。(愚生にはできない生き方であった・・・・とほほ)
そして従兄弟達と共に、その館の山で、神社で遊びまくった。好きだったのである。その山が。幼い時はずいぶん大きな山だと思っていたが、定年後訪問して神社に参拝したら、ちっぽけな山だった。山と言うには申し訳ないほどのものであった。周囲にある奥羽山脈や、飯豊山、朝日連峰、吾妻山がえらくでかく見えている。こんなものだったのかという感じで違和感があった。なぜだろうと思っていると、あっと気がついたことがあった。それは、愚生が広大な太平洋に臨む九十九里平野にもう40年も住んでいるからである。大きさが違う。広大である。あまりにも大きい世界が広がっているのである。だから、千葉県の人々というのは器がでかいのだ。大物が多いのである。凄いことである。自然がヒトをつくっていくのであるから。
さて、なんでこんなことから書き始めたかというと、愚生の幼い時の体験は、山間の狭い空間で経験したところの自然と人間と神の一体化した場所であったからである。それが何を意味するものであったのだろうかと思うからである。
柳田国男の民俗学研究に「東国古道記」というのがある。非常に好きな研究成果である。というよりも、愚生にはある意味文学作品でもある。
思うに、折口信夫もそうである。まるで小説を読むような研究が多い。お二人とも文章に優れている。
さて、東国古道記である。何が書かれているかというと、信州の遠山や高遠のことである。(柳田国男著 「柳田国男全集第19巻」 1999 筑摩書房 pp.301-332)
「誰がこの一帯を遠山と呼び始めたかと考えると、海道の側からならば、まだ幾つもそう謂ってもよい谷があったに反して、北から入って来れば是が唯一の遠山であった。」と書いてある。本当に引き込まれる。柳田国男には。
能楽研究で高名なる吉田東伍博士は、大日本地名辞書で、美濃の恵那郡の岩村の西南にある馬場山田や上手向のあたりを遠山村と呼んだと書かれている。
美濃や、三河や、遠山から信州の内陸へと入り込んでいく人々の意識がそこはかとなく伝わってくる。すなわち、南側からの視点でもって、見られているのである。
実は、その遠山村で行われている祭りに興味があったのである。「霜月祭」である。遠山の領主であった遠山土佐守が元和年間(1615~1624)に百姓一揆のために殺されたので、その死霊のたたりを鎮めるために行われたとする説もある。否、そうではなくて、その霜月祭と同じ祭りが、愚生のふるさとの館の山で行われていたことが興味深いのである。
「湯立て」の神事である。神事には、たぎりたった大釜があった。多くの祭りの参加者がいて、朝からごったがえしていた。幼い愚生は楽しくて楽しくて、ルンルン気分でいたものであった。
神事の中身というと、神社の拝殿で祭りの中で山伏のような格好をした老人が周囲の者どもにさ、さ、と熱湯を振りまくのである。笹であったが、遠山谷は素手である。仮面をかぶった人が行う。共通しているのが、その熱湯をかぶると一年健康になるという伝承があることである。幼い愚生は逃げまどっていた記憶しか無いが。
共通することがもう一つある。この神事が終わると、厳しい冬がやってくるのだ。信州も東北もである。両地ともである。
この神事を、単純に周囲を取り囲んでいる山々を自然神と見なして、そこに生きる人々が祈っているとするは危険かもしれない。
むしろそれは、自然という神もまた良い神と悪さをする神と両方がいて、悪さをするような神、つまりあまりにも厳しい寒さを招来するような神をお送りするという「神送り」のような思いが伝わってくるような気がするのである。自然と人間と神というものが共通する世界が展開されているのである。それを研究すること、それが民俗学の定義であるとされるのが谷川健一先生であるが。
リスクということと、伝承と文学ということについてもダブンを書いている。和歌文学も関わってくる。楽しいことである。実に楽しい。
さ、明日から本格的に通学して、読書ざんまいである。修行僧のようなもんだ。
もっとも、愚生の場合は破壊僧か。
確かだわなぁ・・・・。