「爺老いたり、学もなった試しもなし」
「少年老いやすく学なりがたし」という。
これをパロディ風にするとこうなる。
「爺老いたり、学もなった試しもなし」ということだ。もっとも、これは私だけのことだ。
老いたという自覚は無かったが、いつのまにか、孫ができていた。しかも二人である。これからもまだ増えそうだ。孫が。楽しみである。実に楽しみ。
それなりに幸せな爺生活を送っている。
貧しいけれどもささやかに生きている。
学は成らなかったけれど、悔いはない。そもそも目標がなかったからだ。
あるいは、「基準値」が最初から低かった。
バイトで行っている学習塾は全国展開である。その学習塾の本部から、生徒にやる気を出させるためには、基準値を高めることというアドヴァイスをいただいている。当然である。基準値を高めないと何事も成就しない。
それをである。
いかな生涯学習とはいえ、最初からなにかになってやろうとか、なにも目標が無いというのでは話にならない。
話にならないから、無目的爺になりはてたのである。
自業自得である。
ま、それはそれでいいだろう。
昨日で、在籍大学を退学したからである。ある意味、吹っ切れたからだ。単位もいただけなかった。低評価であったから、それなりに納得いった。もうこれでオサラバである。
もう二度と大望はモタナイ。
今日は、古文書講座で土佐日記を読んでいた。午前中である。これがなかなか楽しい。崩し字も読めるようになってきた。そうである。「基準値」が低いから読めるわけである。なにもこれから古文書で一家を為していこうなどと思っているわけではない。オレなりに、低い基準値のままに趣味でやっていこうと思っているだけである。
古典文法はお手のものだし、古語についても生徒に教えてきたのだから、塾でやっている英語と数学のレヴェルでは少なくとも無い。
ま、それなりにである。それなりに楽しんで行こうと思っている。こういうのが、まさに趣味である。釣りやスキー、あるいは温泉旅行と一緒である。間違っても、カラオケとか臭い香水をつけたミニスカ・オネーチャンのいるようなスナックとかの店ではない。もうそんなところには行かない。行ったら健康を損ねてしまう。
と、こういうことを考えているのは、私という人間に内在している「他者」である。
「内在する他者」というのは、私の中に何人いるのだろうかと、ふと思うことがある。
拙ブログの記事だって、何人目の「内在する他者」が書いているのだろうかと思うとこれまた楽しい。
そうなのである。
今日の記事を書いている私は、今日の私であって、昨日の私ではない。少なくとも、まだ退学をしていなかった、爺大学院生であった。
今日の私は、違っている。
そして、明日も違っている。
これがあるから毎日が楽しいのである。変化した私である。それを意識することでもって、楽しい爺生活を送ることができるのである。
「内在する他者」というのは結構重要である。
文学もそうである。いくつもの「内在する他者」を使い分けて、書いている文学者がかなりいる。私小説作家であっても、全部が全部自分のことを書いているわけではないからである。
視点が違うということでもある。
中上健次もそうだった。
好きな作家である。
視点が実にユニークである。紀伊半島まで出かけていったこともあるし。
さらに、日中比較芸能ということでも、この「内在する他者」が大きな働きをしていることは否定できない。民族の持っている「内在する他者」がどういう働きをして、どういう芸能を展開していくのかという視点から見ると実に面白いからである。
私の場合、五つくらい「内在する他者」がいるような気がする。
第一は、現役の仕事人であったときのこと。これは逃れようがない。つまり、教師としての過去の私である。もう退職したから、忘れてしまった。それは過去のことである。されども、原稿の依頼を出版社とか関係している某大学から今でもいただくから、書かせていただいている。非常勤講師もその延長でさせていただいているようなものだ。
第二は、生涯学習人としての他者である。これはこれからも継続する営みである。四月から、老人大学でやることがまたできたし。
第三は、柔道人としての他者である。ちょっと健康を崩してやれなくなってしまったが、回復したら、幼児たちとまたやるつもりである。
第四は、郷土史愛好家としての他者である。アマチュアのである。程度の低いものでしかないが。
第五は、家庭人としての他者である。孫のいる爺である。あるいは、長年つきあっていただいた配偶者の配偶者としての他者である。
まだまだあるような気がする。
今のところは、これくらいで生きている。
テキトウに生きているから、これくらいしか思い浮かばない。
しかし、最後に「内在する他者」を見つめる「自己」がいる。五人の他者を見ている「自己」である。
こいつが一番しょうもなかったりして。
冷ややかに、自己を見つめている「自己」である。
ばっかみたい~って言っているしかないけど。
トホホ。
(^_^)ノ””””