死後の世界は・・
死の恐怖を逃れるもっとも良い方法は、死後の世界を信じることであろう。魂の不滅とか、生まれ変わりとか、天国とか地獄とか、天上界とか餓鬼道とか、西方浄土とか実にいろいろとある。多様性がこちらの世界にも見られるのである。つまり宗教である。多様性と言っているのだから、定説は無いのだ。結論は無い。よって、真理も無い。そんなモンは、脳だけが異常に発達した人類だけの発明でしかない。ナイナイのバァ~である。しかし、世間には信仰している方も多い。死後の世界に行ってしまうということである。
しかし、ホントにそうであろうか。
私には信じられない。不滅の世界が、あっちにあるのだろうか。死後の世界に行ってしまうというのは、遺された家族や同僚にとっての哀しみであって、本人はおそらく死んだことすらわかっていないのではないのか。なぜか。それは意識が吹っ飛んでしまうからである。知らないわけである。死んだことを。死んだ記憶があるという方にはまだお目にかかっていないからだ。
さらに、前世の記憶があるというのも怪しい。潜在意識との関わりが明確では無い。科学的にも説明できない。
と、書きつつも私は宗教が好きである。なぜか。それは「祈り」の世界だからである。つまり、遺された人間の側から見ているから面白いのである。「祈りの世界」が、「祈りの芸能」を生むからである。
「祈りの芸能」側からの視点で見ているのが好きである。だから信仰者としての私は存在しない。自他共にである。信仰が無いからである。こういうのは、宗教について語ってはならないのであろう。だって、信じていないのだから。徹底的に特定宗教に信仰を持っておられる方々からしたら、言語道断、許せないだろうと思う。思うが、私も含めた一般大衆が宗教をどう受け止めてきたのかということに関心があるからやっている。それが如実に現れているのが、民俗芸能であるからでもある。
こういうのは、何でも屋であって、しかも低レベルである。誇り得るものがなにも無いのだ。だから、謙虚に生きるしかない。ただし、資料読みは徹底的に行っている。さらに、映像でもって資料を作る。コンピュータに保存している。編集をしてからである。
むろん、こんなものが孫末代まで残るというわけは無い。消えるだろう。だろうではなくて、無くなるのを前提にしていないとやっていられない。
このことは、死後の世界が無いというのとある意味共通しているのだ。紙ベースの資料とか、鬼舞とか、神楽とか、田楽とかの映像資料もまた私の死後には消滅してしまうしかないものでしかない。
なんだってそうだ。
卒業証書もそう。小学校、中学校、高等学校、大学、大学院と持っているが(博士後期課程だけは中退)、永遠に残るものではないだろう。火事になったら焼けてしまう。私の死後は、履歴書なんて関係ねぇ~である。閻魔大王がいるのなら、そんなこたぁ先刻お見通しだと叱られてしまうケドね。
だから無意味だと言っているのではない。
ある一定の期限を切って、頑張ることは重要である。なぜか。それは自分の生きた証になるからである。しかし勘違いしないことである。自分が生きた証であって、それ以外のなにものでもないということを肝に銘じておかないと勘違いになる。
要するに、期限のある一生を「面白く生きる」ことである。頑張るということはそういうことである。一定の期限というのは、当然人生という一生を意味する。小学校、中学校、高等学校、大学、大学院という生涯学習の流れでも、「面白く生きる」ことを学ぶことである。辛い、辛いと思っていたらなんでも辛くなる。だから受け止め方一つである。どのように解釈するかということである。真正面から受け止めるのもいい。流すように受け止めるのもいい。反逆するのもいい。
中年や老年になって、ムチュウになるものを探し当ててもいい。「面白く生きる」ことができるモノを探しだすことである。ただし、ある程度のバイアスはかけた方がいい。中年になって、100通を超えるラヴレターを女子大生に出してしまった大学教授もいるということを聞いたことがある。ゲーテも70歳を超して、19歳の女の子に恋をしたというが、まぁまぁそれも考え方次第であろう。あろうが、適性というものもある。みっともないと思ったらそんなことはできないだろうから。
100通を超えるラヴレターを女子大生に出してしまった大学教授の方はしかしゴミ論文を書いているよりは、楽しかっただろうけれども。しかし、本来の目的というのは違う世界であろうから、ちょっとこれはいかがなものかねぇと思う。
ゲーテ先生の方は、求婚までしたというから本格的である。しかし振られた。ザマァミロである。世の中には通用しないことだってあるのである。いかな世界を代表する文学者であっても、不可能はあるのだ。
私にはできねぇ相談だから、笑っちまうのである。あ、でもあれか。本人にとっては、至極まともなことであったのだろう。そもそもゲーテ先生でも、女性というものが謎だったということの方が不思議でならんのだ。そんなもん、大いなる誤解である。女性を特別視して、人生を間違ったらいけない。女性を崇拝している輩も多い。中世の騎士を気取っているのである。若い男の子に多い。・・・これ以上書くと、ますます嫌われてしまう。もうやめよう。
今日は市営のgymが休館である。
午前中は数学をやる。
Amazonから、昨日頼んだ青チャートの古本が、プライム便で来るだろうからそれからそっちもやる。数Ⅰと数ⅡB。英語もチャートを頼んだ。黄色チャートが終わったからである。古文書読解もやる(こっちはチャート式ではない。影印本である)。古文書の参考書もたくさん買ったからである。Amazonから。全部古本だから、実に経済的である。なにしろ大学から支給される研究費なんて無い。全部自腹である。
それでも楽しんでやっている。いかなバイトとは言え、塾で教えている以上自学自習は基本中の基本であるからだ。
それではこれにて。
(^_^)ノ””””