バカボンのおとーちゃんみたいだけど
青梅市赤塚不二夫会館のバカボンのパパの立体像
「正義は常に抵抗する側にあり、抵抗される側は常に間違っている」などという風潮が最近見かけられる(昔からそうか・・)。しかしねぇ、考えてみたらわかるけど、これは論理的にはあり得ない話である。
だから抵抗する側は、時として足をすくわれることになる。そもそも根拠としている論理自体が、ゴチャゴチャであるからだ。
そして時代劇に登場してくるような勧善懲悪や、善玉悪玉論ということで簡単に片付けられる。その方が面白いからであろう。
ヒール役を作って、それを正義の仮面を被ったヒーローがやっつけるというストーリーである。
これじゃぁ、プロレスと変わんないじゃぁないかと思ってしまう。プロレスの試合には、悪玉が欠かせないからである。あれはあれで、私は大好きである。なにしろ技の勉強になったからである。絞め技一つとっても、さすがに工夫されている。関節技になると、もっと凄いと思う。実際、寝技柔道ばかりやってきたから、私の柔道はプロレスに近いからだ。
忠臣蔵が良い例である。あれがなぜ多くの日本人に受け入れられて、支持されるのかというと、勧善懲悪であるからだ。あるいは善玉悪玉論であるからである。しかし、よく考えてみると、浅野の殿様だって、問題が無いとは言い切れない。殿中で抜刀したのであるから、法規違反である。どうもその辺りが、うやむやになっている。熱烈なファンには申し訳ないが。
さらに、別の時代劇には、越後屋なんとかといういかにも金持ちのような商人が出てきて、悪巧みをする。そして、武士階級と癒着して悪事を働くという時代劇も多い。これもまた、越後屋という屋号を持っている(いた)方には申し訳ないような話である。
そもそも、私のような一般大衆が善玉で、社会をリードしている方が悪玉であるという設定の方がおかしい。
一般大衆にだって悪玉は多い。数限りなくそういう輩はいるのである。経験上。おとなしそうにしているフリをしながら、実は大悪人であるというのが。私だって、そうかもしれない。善人のようなフリをしながら、原罪を背負っているからだ。もっともこれはクリスチャンでないと、そういうことは言わないであろうけど。
なぜ「勧善懲悪や善玉悪玉論」が受け入れられるのか。
つまりその方が楽しいからである。あまり考えなくてもいいからである。常時、敵を作って、その敵を「勧善懲悪や善玉悪玉論」で裁いていれば、快楽を味わうことができるからである。その方が楽であるからだ。
もっと言えば、敗者の快楽である。負けることでもって、逆の視点から言えばオノレが勝者になっているわけである。すり替えである。勝者・敗者の。
気持ちが良くなるために抵抗しているのだったら、これは問題である。
逆の立場になったら、恥をさらすことになる。政治権力を批判ばかりしていた某政党が、政治権力を奪取してやったことはなんだったか。抵抗していた相手と同じことをしていただけではなかったか。言葉の表現方法が違っていただけであって。
政治のことはこれくらいにする。嫌いだからである。
それにしても敗北主義というか、マゾヒズムというのは、無くならないであろう。人類が考えた発明であるからだ。私も含めた多くの一般大衆にとって、人生は決して勝利のみではなかったからである。私なんか、敗北の人生ばかり味わっている。
今月、またまた挫折した。もう数限りなく挫折ばかりしている。片思いも含めたら、数万回か(^0^)。
大学院を退学してしまったからである。大した問題ではないだろうと言われるかもしれない。しかし、3年間支払った学費が胡散霧消してしまった。大金であった。全部当該大学に寄付してしまったようなものだった。だから、古女房ドノと何度もバトルを繰り広げた。結論は、私がバカだったからである。そういうことである。書きたいことは山ほどあるが、今は、書かない。低評価しかいただけなかった、学業劣等児ならぬ学業大劣等じじいであるからだ。
だから私は完全な敗者である。「勧善懲悪や善玉悪玉論」では御しきれない問題であるが。
だったら敵は誰だったか?
それは「自分」である。アホな自分である。
学位取得という出来もしない夢を見た自分が悪かったのである。あるいは、健康を損ねた自分が悪玉であったのである。第一、動かないで、運動もしないで、じっとしていたら健康を損ねるなんていうことは、誰でも分かることだ。なのに、気がつかないっていうバカは私くらいのものだった。だったではない。現在も薬を飲んでいるから、さらに徹底的にバカである。
だからと言って、いつまでもとどまるわけにはいかない。
過ぎ去ったことは、過ぎ去ったことである。これからは、もっと別の視点で生きていくしかない。
もっとも余生を快適に過ごしていきたいというだけであるから、実は簡単な問題でもある。
「じっとしていないで、大いに外に出よう」というのが、これからの私の目標だからだ。
家にいないほうが大いによろしい。
それでいいのである。特に私の場合は。
抵抗する相手もいないし。自分自身が抵抗する相手である。楽しよう、楽しようという自分が敵である。楽して生きてるとまたまた病院に逆戻りになっちまう。それは、いかにバカなオレでもやぁ~だよんということである。ICUのベッドなんかに戻りたくはない。
敗北主義に陥って、悲劇のヒーローや、ヒロインにはなりたくない。それでもって、快適だと思うようではどっか異常である。私の脳がである。
火曜日に塾で今度ある大学の工学部に進学していく男子と、話をしていた。
数学ⅢCの微分をやっていた。むろん大学進学後の準備のためである。もう、私なんぞには太刀打ちできない。数学ⅢCの微分ではそもそも国立理系である。私は、数ⅡBまでしかやっていない。だからである。
それでも私は自学自習で、数学ⅢCの微分にチャレンジしてみようと思っている。ノートも作った。(12:27、古本チェーンから数Ⅲの青チャートを買ってきた・・散歩がてら。青チャートしかできないからねぇ~オレは。)
やることはたくさんある。
だから楽しいのである。
今日、午前中は土佐日記の影印本解読から始めるけれども。
これでいいのだよん。これで。
バカボンのおとーちゃんみたいだけど。
みたいじゃないな。
バカボンのパパそのものだな。
わはははっはははっははっはは。(ちょっと寂しいねぇ~)
(^_^)ノ””””