朝から、惚け防止のために打鍵して、歩いて、好きな小説でも読む。こんな生活が待っていたとは、三木清先生にも申し訳ない。しかし、自堕落な庶民ジジイにはふさわしいですなぁ~~~~~
三本ある原稿書きがほぼ形を整えた。孫が来るまでには第一稿を終えたいと思っていたから、まずは一安心である(^_^)。文芸賞の選評についての原稿は昨日送付してある。メールで送ることができるから便利なものである。こんな時代が来るとは予想することすらできなかったが。
孫が来たら、打鍵なんかしていられない。打鍵なんかしているより、楽しいからである。
孫とは今しか会うことができない。一瞬のことである。後になって、彼らが(男児二人)ボキのことを思い出してくれればそれで本望である。
死んでも思い出してくれるということが、生きがいにもつながる。三木清の「人生論ノート」には、死のことについてそんなことが書かれていたっけ。もっとも三木清の場合は、亡くなった奥様のことであったが。三木清は、40代で亡くなっている。戦争中、共産党の友人をかくまっていたという罪で投獄されていた。獄中であった。なんとも暗い時代があったものである。
「人生論ノート」には、死のことについてわずかではあるが書かれている。40代で亡くなっていなければ、もっともっと珠玉の言葉を我々に遺してくれたであろうにと思う。残念でならない。
今のボキと同年くらいまで生きていたら、どんな文章を書かれたのであろうかと思うからである。つまり、死のことをどう受け止め、考えていったのであろうかと。
「人生論ノート」は、Kindleにも入っている。けっこうヒマにまかせて読んできたのだが、もっと知りたくなった。だから、今日県立図書館に行ってくる。すでに予約をしてある本を借りだしてくる。三木清関連の本である。午後からである。午前中はwalkingをするからだ。
原稿もほぼ目処がついたし、他にやることもないから(^_^)。
もう、かなりいい加減である。専門もへったくれもない。好きなように生きている。好きな本をデタラメに手当たり次第に読んでいる。
長編小説にもチャレンジしようと思っている。再チャレンジである。ドストエフスキーにもである。ちょっとしんどいなぁと思ったが。ドストエフスキーは。けっこうしんどい。彼だけは。十代後半に新聞店の二段ベッドでほぼ全作品を読了して以来である。懐かしい。実に懐かしい。だから再チャレンジだと言っているのである。
なぜか。ロシアにも憧れているからである。行ってみたいのだ。美人も多いし。まったくロシアには美人が多い。体験上。
わはははっはははっはははははっはは。
そのためには、ロシアの歴史も学びたい。事実、もうやっているけど。
年金生活者である。ということは、なんでもやりたいことを好きなようにやっていくことである。それが生きがいになっているんだから、これでよしである。
朝から、惚け防止のために打鍵して、歩いて、好きな小説でも読む。
こんな生活が待っていたとは、思ってもみなかった。三木清先生にも申し訳ない。しかし、自堕落な庶民ジジイにはふさわしいようである。
さ、これくらにしましょう。
歩いてきます。
健康のために。
ヾ(@⌒―⌒@)ノ