自由自在に生きていますなぁ。まったく。申し訳ないとは思うのでありますが。これから成田山新勝寺に行って蝋燭能を見てくるから。
自由になった。実感である。しがらみというものがまったくない。退職してあらゆる組織から離反したからである。離反させられたと言うべきなんだろうけど。ちょっとだけアルバイトをやっているから、まったくフリーだとは言えないが。
それよりも自由になったというのが実にありがたい。
でも、自由になったというのは実は大間違いである。そもそもボキは、最初から自由であったのだ。
安い町外れの大衆食堂に寄ったときに、壁にところ狭しと貼られているお品書き(?)を見ながら何を食おうかと思う自由があったことをちょいと思い出した。そうなのである。最初から何を食おうかと決めて店に入っていかないからである。なんでもいいのだ。自由に決める。その場の雰囲気である。美味そうだなぁと思えば、それにする。そしておいしくいただくのである。
自由だからである。
ラーメン屋に行ってもそうである。最初からこれと決めて店に入るわけではない。回転寿司の店もそうだ。あの類いの店は、品数が多すぎてこれが食いたいと思って入店するわけではないだろう。その場で、思いつくままに回転台から取る。あるいはボタンを押して注文する。
つまり自由である。自由に食ったり、飲んだりしている。
ボキは、そういう自由が大好きである。
これまでの人生を選択してきたのも、自由だからである。なんにもしばられないように、生きてきた。これまでの人生で、選択する道はいくらでもあった。高校入学もそう。大学進学もそう。大学院もそう。就職先を、九十九里浜にしたのもそうであった。偶然も支配していた。自由に道を選んで来てしまった。
だから、退職してから自由になったわけではない。
退職後もアルバイトをしている。それもまた自由だからである。再雇用をしてもらって・・・という生き方もあったのだろうが、しなかった。自由だからである。
もう現役時代のしがらみから離反したかった。そんなのに引っ張られていると自由に生きることができないからである。旅行に行くのにも許可がいるような仕事をしていたから、うんざりしていたのである。スキーに行くのにもいちいち許可を求めていたんじゃつまらんではないか。それに職場に土産も買ってこなくちゃアカンから、そんなのやってられないというわけである。
柔道もそうだった。しがらみがあった。病気をしてから、完全に柔道から足を洗ってしまったから、そちらの人間関係も捨ててしまった。たったの4段だけど、もういい。もう結構である。だって、乱取りもなにもできないではないか。やせ細ってしまって、得意技であった大外刈りもできやしない。
昔、横綱の千代の富士が引退の理由に「体力の限界!」と一言だけ言っていた。引退会見で。あれも見事であった。ボキは、柔道も限界だらけであったけど。能力もなかったし。そもそも闘争本能がナカッタ。戦う男というイメージではなかったのじゃよ。和をもって貴しとなすというタイプであったから。トラブルが嫌いであったし。
責める一方というニンゲンは、自由という心境からは最も遠い位置にいる。国会のMという政党と一緒である。攻撃一辺倒。憲法改正について対案すら出せない。ま、政局についてはこれくらいにするが。
ボキは自由を大切にするから、他人の自由も大切にする。当たり前である。自他共に自由だということは、そういうことである。強制はアカン。他人を支配し、強制をして、脅かす。
そんなことをやって、なにがおもしろいのであろうか。もっと自由に生きていきたい。死ぬまではである。
死だけは自由に選べないからである。
誰でも100%死んじゃうからである。
わはっははははっはははっははは。
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今日は、午後から成田山新勝寺に行く。午前中は図書館に行って、ゴミ論文書き。それから成田山である。
新勝寺で蝋燭能がある。「小鍛治」である。これはまだ見たことがないからである。楽しみである。もっとも国立能楽堂とは違って舞台がない。料金も安いからしょうがない。それはそれである。
終演が、夜8時30分である。
楽しみ、楽しみ。
それにしても自由に生きてますなぁ。
申し訳ないですな。
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